12の3『教会教義学 神論Ⅰ/1 神の認識』「五章 神の認識 二十六節 神の認識可能性」「二 人間の用意」
12の3『教会教義学 神論Ⅰ/1 神の認識』「五章 神の認識 二十六節 神の認識可能性」「二 人間の用意」(281-302頁)
再推敲・再整理版です。
「二 人間の用意」
「われわれには、どうしても答えなければならないひとつの問い」――すなわち、「本当に分かったかどうかという問い」、その「吟味のための問いである了解質問が残っている」。それは、人間論的な自然的人間、教会論的なキリスト教的人間、誰であれ、「それ自身としては神に対して用意がなく」、「真に罪なき、従順なお方」「イエス・キリストとは同一ではないこの人間、わたし」は、あくまでも先行する「神の用意」に包摂された後続する「人間の用意」ができている「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリスト」においてのみ「神に対して用意あるものであり得るのかという問い」である。「定式的に言い換えれば、どの程度までキリスト論と並んで、キリスト論の下で、今やまた、キリスト論に依拠しつつ、徹頭徹尾キリスト論へとさし向けられながら、キリスト教的人間論と教会論が存在するのかという問い」である。何故ならば、常に先行する「神の用意」に包摂された後続する「人間の用意」という「人間の局面を可能とする」のは、「全くただキリスト論的局面だけである」からである。したがって、その問いは、「至極必要な切迫した問い」なのである。われわれは、ご自身の中での神としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」(それ故に、「三つの神的我」、「三つのわれ、三つの主体」、「三神」、「三つの対象」ではない)の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方(≪性質・働き・業・行為・行動、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの≫)である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストの「真理の力」・復活に包括された「十字架と甦りの力」が、「神の子の真理の力、神の子の十字架と甦りの力」が、「いつの時代(≪いつの世代≫)においても」、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の、「啓示ないし和解」の「概念の実在」、預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である「教会の中で為される神の子を知る知識と告白(≪教会の<客観的>な信仰告白および教義≫)の力よりももっと大きかったし、これからも常に大きいイエス・キリストの名を呼び、イエス・キリストの中で起こった人間の新しい創造について想起することによって」、「神は自分自身にとって隠されたものでなく」「あらわなものであるということ(≪「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」ということ≫)にあずかる」のであり、それ故にその「神の言葉そのものの後に続いて」、それが「神ご自身の最後の言葉……であるからこそ、われわれの最後の言葉である」ということついて語ったのである。したがって、われわれは、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方である「イエス・キリストの名」――「この最後の言葉を越えて、さらにどういう問いも立てることはできない」のである。したがってまた、われわれは、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)に連続しなければならないのである。何故ならば、その連続性においてのみ、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということが言えるし、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」(『教会教義学 神の言葉』)であるということが言えるからである。常に先行するその「最後の言葉自体」は、われわれが、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を、具体的にはそのイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、他律的服従と自律的服従との全体性において、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者して、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、「認識する途中の段階(≪純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」における、その認識の深化と豊富化を目指す途上の認識≫)でだけあり得るのであって」、それ故に「最後の言葉それ自体は、いかなる問いの下にも立っていないというのが全くの答えである」。
さて、「イエス・キリストの中で起こった(恵みに逆らう人間的な敵意に対する)恵みの勝利」は、すなわちわれわれ人間の「神の恩寵への嫌悪と回避」に対する「恵みの勝利」は、われわれが、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、換言すれば「啓示の客観的可能性」としての「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事)と「啓示の主観的可能性」としての「認識的な必然性」(聖霊は「啓示への個人的な参与を保証する」のであるが、その啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事)を前提条件とした「認識的なラチオ性」(聖霊とは同一ではない、聖霊によって更新された人間の理性性)に包括された「存在的なラチオ性」――すなわち三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)という総体的構造の連続性において、「イエス・キリストを信じることによって、われわれにとって重要なものとなり、力を発揮し、救いとなる」。したがって、自然的な信仰・神学・教会の宣教における神の「恵みから、(信じるときにも、信じる限りにおいても)常に身を退くことができる」「その信仰自体」は、「最後的には結局何の成果もあげ得ないもの」なのである。「聖書全体の証言に従えば」、信仰は、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいた、「全くただイエス・キリストを信じる信仰だけが問題である」。徹頭徹尾神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に「成就と執行」、「永遠的実在」としてある成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この救済概念は平和の概念を包括している)そのものである、ただイエス・キリストを信じる信仰だけが問題である――「神に敵対し神に服従しない私たち人間は、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」し(『教会教義学 神の言葉』)、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれは、『自分の理性や力によっては』全く信じることができない」(『福音主義神学入門』)のであるから、「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。この時、信仰は、「すべての可能なそのほかの、成果を伴わない、救いとならない信仰、不信仰、間違った信仰、迷信とは違って、イエス・キリストを信じる信仰が、本来、何であり、どのようにして」、「この信仰、(われわれ自身からしては、われわれ自身の恵みに逆らう敵意からしては、問題化されることのできない信仰)にまで来るべきであるかということが問われている」。言い換えれば、この時、信仰は、「イエス・キリストの死と甦りに対応している、またイエス・キリストの神的確実さにふさわしい(われわれ自身に対する、われわれ自身の中での)恵みの勝利が問われている」。したがって、この問いに対して「正しく答えられるべきだとすれば」、「そこでは……まさに正しい、確かな信仰が問題であるが故にこそ」、「信じる人間からしてではなく」、その「信仰の対象および根拠としてのイエス・キリストからして」、徹頭徹尾神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」におけるイエス・キリストから「答えられなければならない」のである。われわれ人間は、「そのままでは恵みを受け取る状態にはない」し、また「自分でそのような状態にすることもできない」。したがって、「もし人がその恵みを受け取り得たとすれば、そのこと自体が恵みである」。すなわち、「私たちの召命・義認・聖化」は、われわれ人間的契機の直接性において「私たち自身の中に生起するのではなく」、徹頭徹尾全面的に、「イエス・キリストの御業として、(≪「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の自己運動に基づいて、≫)私たちのために、私たち自身の中に生起する」のである。
この「正しい答えは、原則的に」、次のことを意味する。「神に向かって用意のできている唯一の人間としてのイエス・キリスト」は、すなわち先行する神の用意に包摂された後続する「人間の用意」ができている「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことに人間イエス・キリストは、「(われわれの間で神の満ちあふれる恵みが出来事になり、啓示されるために)時間の中でかつて一度、われわれのためにいまし、死に甦られたばかりでなく、まさにかかるものとしてイエス・キリストは永遠にわれわれのために、父の前に立ち給い、……そのような方でイエス・キリストはいましたし、いますし、いますであろう。その神のみ子として、われわれのために神自身の中に生き給う」ということを意味する。したがって、「イエス・キリストがわれわれのために獲得してくださったことをわれわれ自身のものとするということ」は、「われわれによってはじめて遂行されるべきことではなくて」、「イエス・キリストがわれわれのために、永遠に、神ご自身の中で、神に向かって用意のある人間であり給うことによって、永遠に、神ご自身の中で、イエス・キリストによって、その大祭司的務めの永遠的継続の中で、遂行されるのである」。このことは、「本来的なこと、起源的なことの結果であり、説明である」。
このような訳で、常に先行する起源的な第一の形態の神の言葉である「イエス・キリスト(≪「啓示ないし和解の実在」そのもの、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事≫)において高き所で真実であること」が、「われわれのいる低き所でも真実であり、真実であり続ける」のであって、この「神の業とは違う」ところの「われわれの……業が始まるのではない」。ここにおいても、「われわれの肉をとった」「われわれ自身の恵みに逆らう敵意を克服するものとしての全能の、したがって絶対的な力を持った(≪「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする≫)イエス・キリストの神的執り成し」(ローマ8・34)が、すなわち「ひとりの神の(≪その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方である≫)み子ご自身の業だけ」が、それ故に神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「すべての時の中で現在起こっている業だけが、遂行されるのである」。聖書的啓示証言によれば、イエス・キリストは「ただの人間」ではない。したがって、イエス・キリストが、その「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする限り、「われわれはただ一回だけイエス・キリストを通して執り成してもらった」というのではなく、「永遠に執り成してもらっている」のである。すなわち、「あらゆる時間に執り成してもらっている」のである。「われわれ人間の更新を可能とするのは、今日に至るまで罪人の手に渡され・十字架につけられ・死んで甦り給うたイエス・キリストにある復活の力だけである」(『福音と律法』)。このように「われわれのために執り成しをしてくださる方は神の子であって、それ以下の方ではなく、父と同一の本質(≪「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神として同一の本質≫)を持ち給う方であり、われわれを執り成す神ご自身の力と意志を持ち給う方である」。したがって、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」(『ローマ書』)この「われわれの主、キリスト・イエスにある神の愛から」「何ものも」「われわれを離れさせることはできない」のである。「死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものもそのことができないならば、その時また、(それとしてのわれわれ人間自身の中での最後的なもの、本来的なものである)恵みに逆らう敵意のあのどうしてもなくならない残滓も、そのことはできない……」のである。「わたしは、なんというみじめな人間なのだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。こういうわけで、今や(≪「律法の成就」・完了そのもの、「神の最高の義」そのものである≫)キリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにある命の御霊の法則(≪「汝斯く斯くならん」という約束、イエス・キリストにのみ「信頼せよ」と求める要求≫)は、罪と死との法則(≪「汝斯く斯くなるべし」という要求、「遂行せよ」と求める要求≫)からあなたを解放したからです(ローマ七・二四-八・二)」。われわれは、徹頭徹尾神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(「イエス・キリストが信じる信仰」)による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の最高の義」そのものである「イエス・キリストにあって解放された」のであるから、「われわれが己の解放を与えられるためには」、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「彼に固着し得るだけである」。
さて、「どのようにわれわれは、『われわれが告白する信仰をかたく守っ』たらよいのであろうか」。それは、具体的には「啓示の客観的可能性」としての「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事)と「啓示の主観的可能性」としての「認識的な必然性」(聖霊は「啓示への個人的な参与を保証する」のであるが、その啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事)を前提条件とした「認識的なラチオ性」(聖霊とは同一ではない、聖霊によって更新された人間の理性性)に包括された「存在的なラチオ性」――すなわち三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の、「啓示ないし和解」の「概念の実在」、預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず切り返し、他律的服従と自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、「『われわれが、もろもろの天を通って行かれた大祭司なる神の子イエスを持つ』ことによってである」、そういう仕方で純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(この「隣人愛」は、通俗的な意味での隣人愛ではないのであって、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法のこと、イエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執し固着せよという神の命令・要求・要請こと、すべての人々が純粋な教えとしてのキリストの福音を現実的に所有することができるためにキリストの福音を告白し・証し・宣べ伝えよという神の命令・要求・要請のことである)を目指すことによってである、そういう仕方で「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指すことによってである。「この大祭司は、われわれの弱さを思いやることのできないような方ではなく、(≪「真に罪なき、従順なお方」として≫)罪は犯されなかったが、すべてのことについて、われわれと同じように試練にあわれたからである」、それ故にわれわれは、「あわれみを受け、また恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか(ヘブル四・一四)」。
聖書は、われわれが、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方である「イエス・キリストの存在と業(≪子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事≫)にあずかることを、……普通、はっきりと言葉に出して、聖霊の業(≪客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事≫)と呼ぶ」。その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第三の存在の仕方である「聖霊がきよい」のは(聖霊が聖であるのは)、「父ト子ヨリ出ズル御霊」・「聖霊」は、その「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在本質とする三位一体の神――この「神の霊であり、したがって永遠から永遠にわたって父の子を動かし、結びつけるものであるからである」。すなわち、聖霊が聖であるのは、その「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在本質とする三位一体の神の起源・根源としての父は子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が起源・根源であり、その区別された子は父が起源・根源であり、神的愛に基づく父と子の交わりである聖霊は父と子が根源であるからである。この「父なる神と子なる神の愛の霊である」聖霊において、父と子は、神的愛に基づく完全な共存的な「交わり」の中で、「父は子の父」、「言葉の語り手」であり、「子は父の子」、「語り手の言葉」であるところの「行為」・働き・業(その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第三の存在の仕方)である、ここに神は愛、愛は神であるということの根拠がある、「愛は神にとって、最高の法則であり、最後的な実在(≪その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第三の存在の仕方≫)である」、愛は、自由・主権がそうであったように、「神ご自身においてのみ実在であり真理である」。
このような訳で、先行する「神の用意」に包摂された後続する「人間の用意」は、換言すれば先行する「神の用意」に包摂された後続する「人間の用意」ができている人間は、ただ「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストだけであって、それ故にわれわれは、「イエス・キリスト(≪客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事、「存在的な必然性」≫)の中で」、その啓示の出来事の中での主観的側面である「聖霊(≪「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事、「認識的な必然性」≫)を通して」「神の用意ができている」ということが、初めて言い得るのである。神の側の真実においては、「神の子イエス・キリストが永遠にわたってわれわれのために味方していますが故に、また味方していますことによって、父もわれわれのために味方してい給う」ということが、「まことの真理なのである」。神の側の真実においては、「われわれの、敵意は越えられ克服されている」ということが、「まことの真理なのである」。神の側の真実において、「世は神と和解させられている(Ⅱコリント五・一九)」。このことが「確実なのは、父、子、聖霊がひとりの永遠にして全能の神でいますことが確実であり」、「神の側の真実として、父と子の間に何らの衝突もなく、聖霊の中で永遠から永遠にわたって父と子の間に平和と統一があることが確実であるのと同じである」。したがって、「イエス・キリストの存在と業(≪子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事≫)にあずかるわれわれの参与に関して言われるべきすべては、本来ただ、次のことのみであり得る」――すなわち、それは、神の側の真実としてある、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおいて「時間の中で遂行された和解と啓示の永遠的継続の中で」「生起していることの本質の中には、われわれに対してもわれわれの中でも生起するということが既に含まれている」ということである。すなわち、それは、「徹頭徹尾、イエス・キリストの中で実現されている」ということである。客観的な「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、客観的な起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、その啓示の出来事の中での主観的側面である「啓示の個人的な参与を保証する」「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、「言葉を与える主は信仰を与える主である」。したがって、「イエス・キリストの存在と業(≪子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、「啓示ないし和解の実在」そのもの≫)にあずかるわれわれのこの参与」は、「第二のものとして」、すなわち神と人間との「共労」・「共働」・「協働」において、「神人協力」において、「あとからあらためて付加しなければならないことを意味しない」のである。何故ならば、イエス・キリストこそが、先行する「神の用意」に包摂された後続する「人間の用意」ができている「人間の用意」そのものだからである。
「聖書は、それが聖霊の注ぎ(≪客観的なイエス・キリストの啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事≫)と賜物(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事の賜物≫)について、われわれに対してのわれわれの中での聖霊の業について語る時、あるいは具体的に聖霊を通して目覚めさせられた教会の生について……個々の……神の子たちの生について語る時、ただ永遠的に現在するものの時間的な現在について語っている」のである。このことは、次のように言うことができる――神の言葉は、「偶発的な同時性」、すなわち「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマ」となる。神の言葉は、「その都度、全く特定の一回的な、独一無比な言葉」である。しかしまた、神の言葉は、「神の口を通して語られて、同時的」である。このことは、神の言葉は一つであること、すなわち「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがないイエス・キリストにおける連続性」を意味している。この「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストの連続性における「同時性」が、「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマ」となる出来事の時間・空間のベクトル変容を可能とするのである。イエス・キリストの「特定のアノトコロデアノ時ニ」において、バルトの「特定のココデイマ」は、預言者および使徒たちの特定の時空と交点を結び得るのである。「時の全くの厳格な相違性の中で、神の言葉は一つであり、同時的である(イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない)」。したがって、「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」のである。したがってまた、「解釈する」とは、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の、「啓示ないし和解」の「概念の実在」、預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として「別の言葉で同一のことを言うことである」。したがってまた、「別の言葉で同一のことを言う」としても、それぞれの世代、それぞれの世紀において、それぞれの個性や時代性を刻むのである。
「聖霊」は、「永遠的にその全き真理」の中で、すなわちご自身の中での神としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方、起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解者、第三の存在の仕方である愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体の中で、「われわれのために執り成し給う(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基いた≫)イエス・キリストの時間的な現臨である……」。したがって、キリストの復活から復活されたキリストの再臨までの聖霊の時代において、「聖霊の中で生きる生は、われわれにとって、……『まだない』ただ中にあって、それにもかかわらず……『まだない』から見て純粋な未来であり、しかし『既に』の力で純粋な現在、したがってその中で、……全き真理の中に『既に』立っていることを意味している」。このことは、『教会教義学 神の言葉』では、次のように言われている――聖書によれば、聖霊は、われわれ人間の「救済主」である。しかし、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第三の存在の仕方である聖霊は、「救済主」であるだけでなく、その「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とすることからして、「子とともに、子の霊として、また和解者」でもあり、「父および子とともに創造主なる神」でもある。われわれが神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「救済を信仰の中で持つこと」は、「約束として持つこと」である、「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」、「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」――この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」、「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで「終末論的」とは、「われわれの経験と感性にとって」の、すなわち人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとって<いまだ>であり、神の側の真実としてある、「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである。
前述したように、「聖霊にあっての生活は、信仰の生活である」。したがって、ただ単に、「人間の内的な、内在的な変化から成り立っているのではない」。「信仰は聖霊の業(≪客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面である「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事≫)として、人間が神から生まれる新しい誕生に基づいて、人間はまだここ(≪「『失われた』時間」、「否定された時間」、「否定的判決の時間」、「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」・世、すなわち「われわれの時間の中で」「実在の成就された時間」である「イエス・キリストにおける啓示の時間」から「『攻撃』された時間」≫)にいながら、既に」、「イエス・キリストの中で、……まことにあるところのことによって」、換言すれば「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」・世、キリストの復活による「神の勝利の行為」によって「生きることがゆるされる新しい誕生」である。したがって、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる「信仰」(信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)は、「イエス・キリストにあっての彼の永遠的な生の時間的な形態であり」、「イエス・キリストが父の前でわれわれのために執り成してくださること……に基づく」、すなわちイエス・キリストが神の恵みに逆らう「われわれの敵意」をその死と復活の出来事を通して「贖われ克服された」ことに基づく、それ故に先行する「神の用意」に対して後続する人間の「用意ができていることに基づく」、「人間の存在の時間的な形態のことである」。「われわれの存在」は、「われわれがわれわれに固有な真理としてわれわれ自身の中に見出す存在」、換言すればその現にあるがままの現実的な人間存在における「常に、神に逆らう敵意をもった存在のことではなくて」、「神のみ子の中にあるところのわれわれの存在」、「裁き(≪イエス・キリストの十字架の死≫)と恵み(≪イエス・キリストの復活≫)におけるわれわれの存在」、すなわちイエス・キリストにあっての「われわれは神の敵ではなく、むしろ神の友人であり、その中でわれわれは恵みを憎まず、むしろ全くただ恵みによりすがり、したがってその中でわれわれにとって神が認識可能である(神のみ子にある)われわれの存在」である。このことは、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる「信仰によって信じられた人間の真理である」。「イエス・キリストにあっての和解の永遠的な現在が、われわれの中でこの時間的な形態を、(この真理を信じる)信仰の形態を持つということが聖霊の業である」。そのような仕方で「信じることによって」、「彼は、自分自身の存在」が、「結局、……常に敵意を持った存在として」、「克服され……た虚言の中にある存在として」、「暴かれているのを見出す」(認識し自覚する)ことによって、「彼こそがただ、自分自身に(≪自分の自主性・自己主張・自己義認の欲求に≫)背を向け」、そういう「自分自身を越えて、『上にあるものを求める』(コロサイ三・二)という仕方で、終末論的信仰に生きることができるのである。彼は、信仰の中で結局、『望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認すること』(ヘブル一一・一)を実証しているのである」。
「信仰とは」、「まさしく、イエス・キリストを信じることを意味している」、まさしく神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものであるイエス・キリストを信じる、このイエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執し固着するということを意味している。したがって、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいてこの「イエス・キリストを信じる」ということは、「われわれの時間的な現実存在が、それ自身から、その真理を受け取り、持ち、再び受け取るのではなく」、「全くただ、イエス・キリストが現にあり、われわれの代弁者および仲保者として神ご自身の中であり給うことの関係から」、「その真理を受け取り、持ち、再び受け取るということを意味している」。したがってまた、「逆に表現するならば」、その現にあるがままの現実的な人間存在のわれわれが、「それ自身からして」「信仰の中で立っていることだと考えていること」は、換言すれば「(すべての道徳的、宗教的、またキリスト教的に立っていることを含めて)」「われわれ自身の信仰の中で立っていることだと考えていること」は、イエス・キリストにあっての「信仰の中で、実際に立つことではなくて」、すなわち「まことの立つこと」ではなくて、それ故に「偽りにおいて立つこととして」、「見通されるが故に捨てられてしまうのである」。すなわち、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基いて与えられる「まことの信仰に立つこと」においては、「(もはやわれわれの道徳的および宗教的な存在の上に立っておらず、われわれのキリスト教的存在の上にも立っておらず)、……自明的なことながらそれとしてのわれわれの信仰そのものの上にも立っておらず」、「(今こそ最後的に堅固な、確実な仕方で)神の真理の地盤の上に立っており、したがってイエス・キリストの中で起こった、イエス・キリストを通して永遠にわたって確認された和解の上に立っている」ところの「まことの立つことに味方して」、「われわれ自身の上に立つことは捨てられてしまうのである」。「まことに立つこと」は、その現にあるがままの現実的な、人間論的な自然的人間の、教会論的なキリスト教的人間の「われわれ自身から見たのでは全く不可能な事柄としてある」のである。すなわち、「われわれは信じなければならない。とはいっても、自分自身を信じるのではなく」、神の側の真実としてある、「われわれの代わりに」、主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)として「全く端的に、信じ給うた」「イエス・キリストを信じなければならない」のである。何故ならば、神の側の真実としてある「イエス・キリストの中で、神の恵みに逆らうわれわれの敵意と共に、また信仰から逃げようとするわれわれの逃避も限界づけられ、終止符が打たれ、片づけられている」からである。「イエス・キリストの中で、信仰は、自分自身を、信仰を、再び発見する」。「イエス・キリストの中で信じる人間は、(彼自身の中にある)暗闇の彼岸において、暗闇にもかかわらず、自分自身を光の中に見出す」。先行する「神の用意」に包摂された後続する「人間の用意」ができているイエス・キリストにおいて、先行する「神の用意に向かって用意ができている自分を見出す」、それ故にそこにおいて、「神の認識可能性を見出す」。「しかも、……信仰が、(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基いた、主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、「神の最高の義」そのものである≫)イエス・キリストを信じる信仰である限り」、「(われわれの真理である)イエス・キリストの永遠的な真理の時間的な形態として」、すなわち第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)として、「信仰がもともと持っている永遠の明確さ、確実さ、祝福」「全体をもって」、「神の認識可能性を見出すのである」。したがって、第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会のわれわれの思惟と語りと行動が「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」のである。したがってまた、その在り方は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの(≪祈りの≫)人間的態度に対し神が応じて下さる(≪祈りの聞き届け≫)ということに基づいて成立している」のである。したがってまた、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教がキリストの啓示とは独立に依拠する「哲学、歴史学、心理学等」は、「神学的問題領域のどれにおいても、事実上、教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしなかった」し、「神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった」し、またその時には、「哲学は哲学であることをやめ、歴史学は歴史学であることをやめた」し、キリスト教の宣教やその一つの補助的機能としての神学は、フォイエルバッハやハイデッガーが客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的な原理的な批判をした「存在者レベルでの神」についてのキリスト教の宣教や「人間学の後追い知識」としての人間学との混合神学となったのである――「(中略)神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」(L・フォイエルバッハ『キリスト教の本質 上・下』)。したがって、バルトは、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」を念頭に置いて、次のように述べたのである――「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」、すなわち、神学も人間の理性と言語を使っての知的営為ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」、と(『バルトとの対話』)。