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23の3.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」

23の3.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
推敲済みです。

 

「U 神の存在の証明」「A 証明の諸前提」「一 神の名」
 バルトは、「われわれは、アンセルムスの神証明にとって標準となる神の名についてのさらなる引き続いての解明を、ガウニロの二つの誤解……の論議と結びつける」と述べている。

 

誤解(一)
 ガウニロは、『プロスロギオン』の「特に彼の反対書の四−五章において」、「神の名を聞くに際して」、「人間は、すべての直観を欠いているので」、すなわち「有用な一般的概念を欠いているので」、「単なる言葉(vox)以上のものを」、換言すれば「実在ノ真理を、……聞くことができないという考えを展開させている」。「それが、Deus〔神〕という単語であろうと、アンセルムス的な定式(≪ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイモノ≫)であろうと」、「ただ言葉だけでは、彼に対して、ほかのところで与えられているよりよい存在なしには、言葉が表示するはずのことの、神についてのいかなる知解を手に入れさせることはできないであろう」という考えを展開させている。ここには、「アンセルムスを無視して語られている四つの点がある」。

 

(ア)「教義学的な合理主義を明確に否定した」アンセルムスによって主張された啓示神学における「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」である「啓示の客観的可能性」としての「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事)と「啓示の主観的可能性」としての「認識的な必然性」(その客観的な啓示の出来事の中での主観的側面である「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事)を前提条件とした「存在的なラチオ性」――すなわちそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)と「認識的なラチオ性」――すなわち徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性という総体的構造の連続性における「神の知解の可能性」に対する「その懐疑において」、ガウニロは、「自分が、神の不把握性の概念の偉大な崇拝者であることを認めている」、また「実際に、神に関して知解させる力のある言葉があるであろうか」と「アンセルムスに対して問わなければならないと考えている」。このように思惟し語るガウニロは、『プロスロギオン』「一章で『私ノ理解ハ決シテソレト比較デキナイカラデス』ということを、一五章で『ソレユエ、主ヨ、アナタハ、ソレヨリ偉大ナモノガ考エラレ得ナイモノデアルダケデナク、考エラレ得ルヨリモ偉大ナ何カデス』ということを、そして一六章−一七章において、まさに信仰の中で神を知解する者にとっての神の全面的な隠れ(≪神の不把握性≫)についての一連の最も印象深い(≪アンセルムスの≫)説明」を「読み飛ばした」のである。

 

 アンセルムスの「神の隠れと不把握性」についての思惟と語りは、「どのような因果律的なあるいは目的論的な構造へも解消されることのできない」、「それ自体において理性的な、必然的な(啓示の)事実性を思い出させる」ものである。すなわち、アンセルムスにとっては、「神の名を手段」・前提とした「神の不把握性(≪神の隠れ≫)についての命題も、……正しい、正規の仕方で証明した信仰命題であった」――「コノ類ノ何カ(スナワチ、ソレヨリ偉大ナモノガ考エラレ得ル何カ)ガ存在スルコトハ考エラレ得ルコトデスカラ、モシアナタガコノモノデナイナラバ、アナタヨリモ偉大ナ何カガ考エラレ得ルコトニナリマス。シカシ、コレハアリ得ナイコトデス」。言い換えれば、その命題も、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の、「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)の連続性における命題として、その終末論的限界(Tコリント13・8以下)も認識した途上性における「正しい、正規の仕方で証明した信仰命題であった」。このことが、ガウニロには理解することができなかった。もしもそうでないならば、「(中略)神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やよって規定された神(≪「存在者レベルでの神」に過ぎない神≫)から発生した」ものである、それ故にその時その「対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』」ものである(L・フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)。

 

 それでは、われわれは、「どこからして、……神の不把握性(≪神の隠れ≫)について知るのであるか」、「一体、どのようにして……人間によって形造られたすべての神概念の不適切さを主張するようになるのであろうか」。言い換えれば、われわれは、「自己自身である神の自由」(ご自身の中での神の自由)、すなわち聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の起源・根源としての父は子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が起源・根源であり、その区別された父を起源・根源とする子は父が起源・根源であり、神的愛に基づく父と子の交わりである聖霊は父と子が起源・根源である「自己自身である神の自由」(ご自身の中での神の自由)としての「自存性の概念(≪神の自由の概念の積極的側面≫)」と「神とは異なるもの(≪具体的には生来的に自然的に自由な自己意識・理性・思惟の類的機能を持つ人間≫)によって為されるすべての条件づけからの神の自由」としての「独立性の概念(≪神の自由の概念の消極的側面≫)」との全体性における自己還帰する対自的であって対他的な、完全に自由な「神の不把握性(≪神の隠れ≫)について知るのであるか」、「一体、どのようにして……人間によって形造られたすべての神概念の不適切さを主張するようになるのであろうか」。それは、アンセルムスによれば、「確かに、われわれが神の本質について知っているすべてのことと同様、信仰からして、また信仰の中でである」。キリスト教に固有な類と歴史性の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とする限り、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、キリストの霊である聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」、「啓示の主観的可能性」としての「認識的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事)を包括した「啓示の客観的可能性」としての「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事)を前提条件とした「認識的なラチオ性」(聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した「存在的なラチオ性」(それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性)という総体的構造を持った、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)における第二の存在の仕方である「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」において、聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位相互内在性」における三位一体の神の認識(啓示認識)と信仰(啓示信仰)を要求する啓示である。したがって、われわれの「神の表示」は、常に、「信仰からして」の・「信仰の中で」の終末論的限界(Tコリント13・8以下)の下におけるそれであり、それ故にその途上性におけるそれである。したがってまた、この「遂行された・必然的な考え・証明そのものは、それからもちろんそれ自体、神の不把握性(≪神の隠れ≫)の影の中に立っている」。すなわち、「それ自体、上から、真理そのものからして、内容が満たされることを、いつも必要としている空虚な形式であるという留保のもとに(≪「比喩ヲ通シテ考えられたものでしかないという留保のもとに」≫)立っている」。しかし、「この留保」は、「信仰からして」の・「信仰の中で」の「神の不把握性」(神の隠れ)の「考え、証明を守るであろう」。すなわち、「信仰からして」の・「信仰の中で」の「神の不把握性」(神の隠れ)の「考え、証明」は「まことであり」、その「考え、証明」に「犯すべからざる有効妥当性が帰せられる」。それに対して、ガウニロの「神の不把握性」の命題は、「信仰に基づいていないが故に」、「神についてのいかなる知解も基礎づけることができず」、それ故にそれは、「批判的な選り分ける力を結局持つことができないひどく世俗的な知識(グノーシス)の命題以外」の何物でもないものである。

 

(イ)アンセルムスは、「上から、真理そのものからして、内容が満たされることを、いつも必要としている空虚な形式」としての「神の名」を手段・前提として、「(まことの無カラノ創造)神の本質と存在の知解を生み出そうと考えたのではない」し、またアンセルムスにとっては、「むしろ(『プロスロギオン』の内容が異論の余地のないように示しているように)ほかのところで得られた知解の要素が、……神の存在と本質にかかわる信仰命題の中で前提されているということ」、換言すればそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)との連続性において得られた知解の要素が、神の存在と本質にかかわる信仰命題の中で前提されているということ、ただそれらは「今は、それらの知解の内容に関して(それらの真理内容に関してではなく)未知なものとして」、それ故に「まことの、しかしまだ理解されない命題として取り扱われるだけである」ということ、そのことをガウニロは「認めなかった」。ガウニロが、「アル疑問ノ余地ノナイ論証を要求する時」、「すなわち、神概念を手段にして、神の存在を知解するために、コノヨリ偉大ナモノガドコカニ実在トシテ存在スルコトについて確信しようと欲する時」、「マコトニ疑イモナク存在スル実在の証明を、スベテヨリモ偉大デ、善イあのモノノ存在の証明を呼び求める時」、彼は、「明らかに、ほかのところで得られた、神概念を満たし、その神概念を手段にして証明されるべき信仰命題の存在のことを言おうとしておらず」、すなわちそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性として、客観的に可視的に存在している「信仰命題の存在のことを言おうとしておらず」、「むしろ全く浅はかにも、それに相応する(≪生来的な自然的な人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能による様々な≫)見解(Anschauung)の存在のことを言おうとしていた」。何故ならば、ガウニロは、第一に、「人が彼に『神の』知解について語る時」、「ちょうど人が彼に対して、特定の彼に知られていない人間について語る時」、「ほかの人間たちとの彼の旧知の間柄に基づいて、少なくとも一般的に人間そのものについて知っている程度に」、「『神』について……知ろうと欲した」からである、第二に、「彼は、(≪天然自然、人間的自然とは全く異なる、神としての≫)神の未知な存在を、遠くの大海にある一つの(≪「これまで未知な島の存在を証明するのを常としているような具合に、証明させようと欲する」≫)未知な島の存在と比較した」からである。このような訳で、ガウニロにとっては、「神の不把握性(≪神の隠れ≫)についての彼の命題は、それほどまでに真剣なものではなかったのである」。それに対して、アンセルムスは、前述したように「神の名の外でのほかのところで得られた知解の要素のことを考えていた」のである。

 

(ウ) ガウニロにとっては、「ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイモノ」は、人間の直観(「該当する対象をながめ見るところの直観」)と言語を介しての「何かある一つの概念」である、あるいは「直観なしに形成されることができるような一つの概念である」。したがって、ガウニロは、「アンセルムス的な定式(≪ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイモノ≫)が知解させる力があることに反対する」、その「定式が知解させる力があるものとなるために、直観を通しての補充を必要ととしているということを要請」した。ガウニロにとっては、「言葉それ自体というようなもの」は、「相応する直観が存在する場合にだけ、その空しさから解放されることができる空虚な言葉」、「そこで目指されている内容としての神を念頭においては、いつまでもその空しさの中に留まらなければならない空虚な言葉でしかない」、それ故にアンセルムスの「知解させる力がある」「神の存在の信仰命題」もそれでしかなかった。したがって、「教義学的な合理主義を明確に否定した」アンセルムスにおけるような、「既に、それ自身で『ただ単に』言葉であるだけでなく」、「人間的な頭脳によって、人間的な論理にしたがって『考えられ』、人間的なラテン語で語られ、表現された概念の衣を身に着けて、神的な啓示されてあるところの言葉」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)が客観的に可視的に「存在し得るであろうという」思惟と語りは、ガウニロにとっては「全く疎遠な考えであった」。

 

(エ)ガウニロは、「定式の特別な内容をもっと正確に考察することなしに、ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイモノの中に、神(Deus)においてと同様、単なる言葉(vox)として」、「神の完全な本質の無力な定義を見た」。このガウロニは、アンセルムスの定式の「『ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイモノ』というこの言葉(vox)は、『神』という言葉と違って、イクラカデモ理解シ得ルモノであり、しかもその理由は、まさにその内容はただ認識的なものであって、存在的な内容では全くないからであるということを看過していた」。アンセルムスは、「主ヨ、私ハアナタノ高ミヲキワメルコトヲ望ミマセン。……シカシ、……アナタノ真理ヲ、イクラカデモ理解スルコトヲ望ミマス」、「サテ、コレラノコトガソレニツイテ理解サレルガ、貴君ハソレガアル程度考エラレ、理解サレ、アルイハ思考ノウチニマタ理解ノウチニ存在シ得ルト考エナイノダロウカ」、「アルイハ、アル程度理解サレテイルモノガ、時ニ否定サレ、シカモソレハ全然理解サレテイナイモノト同ジデアルナラ、全ク誰ノ理解ノウチニモナイモノニ関スル疑イヨリハ、誰カノ理解ノウチニアルモノニ関スル疑イノホウガ、ヨリ容易ニ論証サレルノデハナイダロウカ。ソレ故、ソレヨリイダイナモノガ考エラレ得ナイモノ、トイウ表現ヲ聞イテアル程度理解シテイル人ガ、神ノ意味ヲ全ク考エズ、神ヲ否定シテイルタメニ、ソレヲモ否定スルトハ信ジラレナイ。アルイハ、ソレハマタ完全ニハ理解サレナイコトヲ理由ニ否定サレルノダトシテモ、アル程度理解サレテイルモノノホウガ全ク理解サレテイナイモノヨリハ容易ニ立証サレルノデハナイカ」と述べている。「神の名」には「存在的な内容は……欠けているから」、この「イクラカデモ」は、「今やまさに『プロスロギオン』の神概念を念頭において、神の本質(≪聖書的なキリストにあっての神の、すなわち三位一体の神の、聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性という内在的本質≫)を見てとる人間的な洞察の到達範囲の量的な制限を意味することはできない」。したがって、その「イクラカデモ」は、「神の名の認識的な制限された姿を表示することができるだけである」。認識的な制限された姿を表示することができるだけである「この神の名」は、「神を、その中で、神が把握されることができる領域で把握するのであって」、すなわち「神ノ高サニオイテではなく」、「きわめて冷静にまた控え目に、それが、神がいずれにしても考えられることがことがゆるされない仕方を把握することによって把握する」のである――「神ガ存在スルコトヲ愚カ者ニ立証スルタメニ、私ガ、ソレヨリ偉大なモノガ考エラレ得ナイモノ、ヲ提議シタノハ、彼ニシテモコレハアル程度理解スルダロウガ、神ハ全ク理解シナイデアロウタメデアルカラ……」。何故ならば、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方である「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、すなわち「イエス・キリストの名」において、その内在的本質である聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性の認識(啓示認識)と信仰(啓示信仰)を要求する啓示だからである。したがって、われわれの信仰の認識としての神認識の可能性は、換言すればわれわれの啓示認識の可能性は、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)に連続する以外にないであろう。したがってまた、「この可能性は、神に対する啓示、信仰、関係を通して閉ざされている」のであるが、「神の上部に、より偉大な何かが考えられるという仕方で、あるいはまた、ただ考えられ得るものとしてだけでも考えられるという仕方で、考えられてはならない」のである。したがってまた、その「道に足を踏み入れようとする思想家に対して」、「ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイと称する」「主の啓示された名」は、「禁止しつつ出会う」――「最高ノ本性ノ実体ハ、ソレデナイホウガ、何ラカノ形デ、ヨリヨイヨウナ何モノカデアルト考エルノハ冒涜デアリ……」。「神学が(≪他律的服従と自律的服従との全体性において≫)この戒めを堅くとってはなさないでいることによって、(≪聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性としての主観的な≫)信仰の認識的な根拠(ラチオ)が、信仰の対象の根拠(ラチオ)」に、それ故にそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)としての客観的な「存在的な根拠(ラチオ)に従うことによって」、それ故に「神学があの(≪認識的な制限された姿を表示することができるだけである≫)神の名を信仰命題として肯定し、さらに引き続いてのすべてのことのために前提することによって」、「神学に対して、(存在的なラチオ性から切り離し得ない)存在的な必然性(≪客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事≫)という回り道を通って、信仰の認識的な必然性」(客観的なその啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事)が、「換言すれば、あの名を通して表示された神の存在と完全な本質(下記の【注】を参照)を否定することの不可能性が明らかになることができる」。したがって、神学は、前述した「回り道を通って」「信じられたものを知解する、すなわち証明することができる」。したがってまた、「この先に解明された意味で、『プロスロギオン』の神概念は、まさにその制限された姿においてこそ、知解させる力を持っているのである」。その制限された姿「イクラカデモを決シテ……ナイというように見做そうと欲する者」は、その「神の名に対して知解の力を、それが……神がご自分についてもつ概念と同一でないという理由で否定しようとする者」は、「アンセルムスによれば、その者の目が、日光が出て来る太陽の光を事実見ることができないという理由で日光を見ることができないと主張する者に等しいのである」――「モシ完全ニ理解サレテイナイモノハ理解サレテオラズ、マタ理解ノウチニ存在シナイト貴君ガ言ウナラ、太陽ノ最モ純粋ナ光ヲ直視出来ナイ人ハ太陽ノ光ノホカノ何モノデモナイ日ノ光ヲ見ナイト貴君ハ言ワナケレバナラナイ」。したがって、「この『いくらかあるもの(Etwas)』を無(Nichts)へと人騒がせ的に曲解すること」は、「アンセルムに属する事柄ではない」のである。

 

【注】それは、「自己自身である神」(ご自身の中での神)としての自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動)、すなわち起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――啓示されてあること・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体である。