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9の1.『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』(339-401頁)

9の1.カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』(339-401頁)
再推敲・再整理版です。
この教会教義学 神の言葉U1 神の啓示 言葉の受肉』についてさらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります
https://karl-barth-studies4.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。

 

 

9の1.「啓示の秘義――三 クリスマスの奇蹟」(339-401頁)
(1)第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)の「処女降誕」は、「約束されたメシヤが超自然的な出生という道を通ってこの世に生をうけるであろうなどとは全く予期していない古ユダヤ教の立場の可能性」や「マタイ1・18を『絶対的に新奇なこと』と考えるユダヤ教的思惟の可能性」や「仏教的神話、エジプト的神話、ギリシャ的神話およびそのほかの神話」とは「全く別な方向を指し示している」ところの、「マコトノ神ニシテマコトノ人間」を、「一般的な真理に基づいて、最後的にはつねにいたるところ成り立っている神と人間がひとつである単一性(≪ヘーゲルのような人間中心主義的な「神の内なる人間、人間の内なる神という神人一体」、人間の内的本質としての神≫)の解釈として、あるいは表現および表象として、説明する可能性に抗する限界づけ」をしている。すなわち、「キリストの処女降誕の言葉」は、「異教的な神話の領域にもみられるような……もろもろの主張と同種の平行現象としてうけとろうとする試みを拒否している」。何故ならば、異教的な神話は、「せいぜいのところ(≪人類史の古代における人間自身が対象化し客体化した≫)神々……自然についての人間が感じとり経験すること、あるいは歴史についての人間の考察が実体化されたもの」にしか過ぎないからである。

 

 「処女降誕」は、「その新約聖書の文脈の中において、あるいは決定的な個々の動機において、そうした説明の可能性に対して、限界づけを行っている」。第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である新約聖書の証言においては、それ故に具体的にはその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義においては、「イエスの地上的――人間的な由来そのものが秘義であり、ただ一回的な、独一無比な神の行為として理解されるべきであり、マコトノ神ニシテマコトノ人間は、それとともに神の啓示は、決して(≪人間の≫)精神的な実在としてではなく、むしろ(≪「人間精神と同一ではない」≫)霊的な実在として理解されなければならない」として、また「全く特定の、他と区別された事柄として語られている」――「(中略)確かに受肉は中心的にして重要なものではあるが……新約聖書の本来的内容であるというふうには言ってはならないのである。(中略)それはおよそすべての他の宗教世界の神話や思弁の中にも見出されるものである。(中略)人は、聖書が語っている受肉を、ただ聖書からのみ、換言すれば(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神のその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方である「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」である≫)イエス・キリストの名からのみ……理解することができる。……神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない(≪何故ならば、経済的基盤を農耕に置き自然を原理としていた人類史のアジア的段階の日本において非農耕民は、天皇を含めて神人と呼ばれていたからである≫)。新約聖書の内容とは、ただイエス・キリストの名だけであり、そのイエス・キリストの名がたしかにまた、そしてとりわけ、彼の神人性の真理をその名に含んでいるのである(≪その逆ではない≫)。ただまったくこの名だけが、啓示の客観的現実を言いあらわしている」(このように、バルトは、歴史的事実を否定せず、歴史的事実を念頭において論じているのである)。

 

 啓示の秘義――すなわちイエス・キリストは「まことの神の子であるというこの全く一致している」啓示認識・啓示信仰へと「昔の教義学者がたどった足跡」は、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っているということであり、われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は「根本的には……真理が来るということのしるし」であるから、「決定的な点において正しかった」と言うことができる。「処女マリヤより生まれの奇蹟」(出来事)も「クリスマスの秘義」の「指示」・「しるし」であるが、「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神のその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第三の存在の仕方である「父ト子ヨリ出ズル御霊」(神的愛に基づく父と子の交わりである聖霊は、その神的交わりの中で、「父は子の父」、「言葉の語り手」であり、「子は父の子」、「語り手の言葉」である)「聖霊ニヨッテ宿リという奇蹟」(出来事)は、「啓示の秘義」、「クリスマスの秘義」を指し示す「しるし」である。このように、「秘義は奇蹟を通して証しされる」のであるが、しかし「秘義は奇蹟に基づいているのではなく、秘義のしるしである奇蹟が秘義を証ししている」のである。したがって、イエス・キリストは「われわれと同じように(≪その内在的本質である「神性」の受肉ではなく、その外在的な第二の「存在の仕方」である言葉の受肉として≫)人間となった(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の起源・根源としての父が子として自分を自分から区別したところの、父を起源・根源とする子として≫)神の子」であるというこの啓示の秘義は、「存在的にではなく認識的には」、「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神のその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第三の存在の仕方である「聖霊ニヨッテ宿リという真理とともに立ちもすれば倒れもする」のである。何故ならば、「ナザレの人間イエス」は、「彼が聖霊によって宿り、処女マリヤアから生まれたが故に、まことの神の子なのではない」からである。すなわち、彼は、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」として、「永遠から父より生まれた(≪三位一体の神の起源・根源としての父が自分を自分から区別したところの、父を起源・根源とする≫)子として」、それ故に「あのしるしがなくてもまことの神の子として、イエス・キリスト」は、「聖霊によって宿り、処女マリヤから生まれ給うた神の子である」。したがって、「イエス・キリストの名」は、このような啓示の、クリスマスの「秘義の中で、認識され、……呼ばれるべきなのである」。「赦す神」はたとえその人がまことの人間であっても人間に内在することは決してないのであるから、その外在的な第二の存在の仕方である「啓示と和解」が「キリストの神性」の根拠ではなく、その内在的本質としての「キリストの神性」が「啓示と和解を生じさせる」のである。したがって、近代主義的プロテスタント主義神学・教会の宣教が、すなわち自然的な信仰・神学・教会の宣教が、「キリストの永遠のまことの神性の告白を信用しない」場合、それは、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」という「視覚的錯覚」に、人間の感覚と知識を内容とした経験的普遍にだけ依拠しているからであり、その時には、和解に関して言えば、「赦す神が人間に内在しなければならないことになり、その認識自体が思弁でしかないもの」となるのである。したがってまた、その時には、イエス・キリストは、「下からの半神」、「超人」、人間の「最深の本質」・「最高の理想」という単なる「空虚な概念」でしかなくなってしまうのである。したがってまた、この「キリストの神性についての教義」こそが、一切の近代主義、一切の近代主義的プロテスタント主義的信仰・神学・教会の宣教、一切の自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会に抗することができる、また「その幻想性を、その形而上学性を打破することができる」、「神的啓示と人間的な信仰の間」における思想的武器となるものなのである。

 

(2)「神がわれわれと世界の中に現臨し給う」というイエス・キリストにおけるインマヌエルの出来事、ただ一回的な独一無比な神の行為(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、イエス・キリストにおける「われわれのための神の時間」である啓示の時間、「成就された時間」である「キリスト復活の四〇日(使徒行伝1・3)」(「まことの現在」)、「啓示ないし和解」としての「神の言葉の受肉」(その内在的本質としての「神性」の受肉ではなく、その外在的な第二の存在の仕方である言葉の受肉)は、「マコトノ神ニシテマコトノ人間」「イエス・キリストという人格〔神人格、位格〕」、「イエス・キリストの名」のことである。それらのことは、この啓示の客観的現実において、「ただイエス・キリストの名だけ」において、換言すれば三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)において、終末論的限界の下で、「われわれの直観と概念にとって把握しうるものとなる」のである――「啓示は、われわれがわれわれの経験およびわれわれの思惟が及ぶ範囲として、われわれが直観と概念をもって把握できる可能性として、理解することができることの外部で、われわれの直観と概念にとって把握しうるものとなる」、「啓示は、われわれ自身の能力に基づいてではなく、啓示自身の能力に基づいてわれわれの認識の対象となる」、「啓示は……ただ啓示そのものを通して……まことであるとして明らかになる」、啓示は「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」、「啓示の客観的可能性」としての客観的な「存在的な必然性」と「啓示の主観的可能性」としてのその主観的側面としての主観的な「認識的な必然性」(「啓示と信仰の出来事」)を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」(「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性)という総体的構造において明らかとなる。言い換えれば、徹頭徹尾、啓示が、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰を、「啓示を認識する行為の可能性を支配している」のであって、決してその逆ではない。したがって、「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなく、その啓示に感謝を持って信頼し固執し固着する「認識」(啓示認識・啓示信仰、信仰の認識としての神認識、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)である。その時初めて、神の言葉は、われわれに対して「実在」となり、またわれわれも人間的にそれを「実在として理解」することができる。言い換えれば、イエス・キリストの「啓示ないし和解」についての啓示認識・啓示信仰を「贈り与えられた者こそ」が、すなわち「キリストを信じる信仰の中で義とされた者こそ」が、その啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比を通して、「自分は失われた罪人であることを知り告白することができる」、また「神の尊厳さと世の不幸をともに受認し、ともに告白する」。

 

 前述した(1)と(2)は、「キリスト論的基礎づけの結論」としてある。

 

(3)前述したような仕方で、「啓示と和解が出来事として起こったということ」が、「クリスマスの使信の内容である」。「神と世界」・「神と人間」が、「マコトノ神ニシテマコトノ人間」イエス・キリストの「人格〔神人格〕の中で出会う」(「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神のその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方の中で出会う)という「クリスマスの使信」を「聞き手として語る場合」、われわれ人間の「経験や思惟」におけるその使信の秘義性・隠蔽性についても語らなければならない、認識し自覚しなければならない。何故ならば、「われわれの経験(≪われわれ人間の感覚と知識を内容とする経験≫)と……思惟はここで、絶対的な外あるいは絶対的な上から限界づけられ、規定され、支配されている」からである、われわれ人間の時間、歴史は、<常に>、神の時間、「神的自由の行為」としての啓示の時間の「外」・「彼岸」にある、「外」・「彼岸」にあり続けるからである。

 

(4)「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)において、「イエス・キリストが聖霊によって宿り給うた……処女マリヤより生まれ給うたという奇蹟」(出来事)は、「啓示の秘義」、「クリスマスの秘義」を指し示す秘義の「しるし」であり、その秘義を「証し」しているものである。バルトは、聖書的啓示証言として「イザヤ7・14に出てくるインマヌエルのしるしが振り返りみつつ言及されているマタイ1・18-25とルカ1・26-38(特に34・35)」を、また第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義としての「四世紀のローマ・バプテスマ定式……聖霊ニヨリオトメマリヤヨリ生マレ」、「使徒信条の定式……聖霊ニヨリテ宿リ、オトメマリヤヨリ生マレ」、「使徒信条およびニカイア・コンスタンティノポリス信条の東方的な定式」並びに「ニカイア・コンスタンティノポリス信条……聖霊ニヨリテオトメマリヤヨリ肉体ヲ受ケテ人トナリ」を挙げている。そして、バルトは、この教義は、「近代にいたるまでカトリック信者のもとでも、プロテスタント信者のもとでも、大体一致して、自明的なものとして信じられ教えられた教義であったという事実」は、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」であると述べている。しかし、もちろん、この教義において、「われわれは……ただ(≪聖書的啓示証言を媒介・反復した第三の形態の神の言葉である全く人間的な≫)教会の声を聞くのであって、(≪起源的な第一の形態の神の言葉である≫)啓示そのものを聞くのではない」。また、第三の形態の神の言葉である教会の思惟と語りが、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者としたそれであるとしても、それが「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」。したがって、われわれの思惟と語りは、終末論的限界の下で、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの(≪祈りの≫)人間的態度に対し神が応じて下さる(≪祈りの聞き届け≫)ということに基づいて成立している」のである。

 

(5)この「処女降誕の教義の必然性」は、「聖書的な基礎づけとしては……強固なものではないし、また明白なものでもない」から、「その注釈的な状況……を明らかにする方が適切なこと」である。

 

(ア)マタイ福音書もルカ福音書も、「イエスの幼年時代の物語が完結したあとは……処女降誕にふれてはいない」。マルコ福音書とヨハネ福音書は、「処女降誕をあからさまに言及していない」。パウロも公同書簡も、「彼らが処女降誕について知っていたということをはっきりと述べている箇所がない」。使徒行伝においても、「処女降誕のことは……ケリグマを要約している記事の中で言葉に出して名ざされていない」。すなわち、処女降誕のことは、イエスの現実存在の構成要素の一つであるにもかかわらず、「イエスの苦しみと甦えりが規則正しく、しばしば言葉に出して言及されたように、口頭および文書による、伝承と宣教の、規則正しく繰り返され、言葉に出して言及された構成要素となるのに適していたわけではない」。「しかし、それだからといってマタイ一章とルカ一章の処女降誕のこと」が、「自明的なこととして受け取られ、……すべての新約聖書の証人たちの周知の、論難することのできない前提となっていたということがあり得たという可能性は排除されていない」。

 

(イ)「ヨセフの系図を何とかしてマリヤの系図だとして解釈しようとする」「昔の教会の多くの註釈家たちがなした試み」は、「われわれとしてはむしろ断念してしまう方がよい」。むしろ、その二つの系図が、マタイ1・16とルカ21・23において、「イエスはヨセフの肉体的な……子ではなかったという言いまわし方を用いている点に、注意を向ける必要がある」。マタイは、「自然と歴史の彼岸(≪・外≫)にある」「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神のその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の仕方であるイエス・キリストにおける「神ご自身の啓示を待ち望んでいた」。したがって、「ローマ1・3の肉によればダビデの子孫から生まれ」は、「生物学的な子孫のことを言っているとは限らない」のであって、「イエスの現実存在(≪「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」≫)の構成要素の一つを指示している」と言うことができるのである。「人は、確かに、この処女降誕の教義が聖書の言葉の中に基礎づけられいる基礎づけ方は、いくつかの問題を含んでいることを否定することはできない」。処女降誕の教義を、通俗的に近代における宗教的形態の一つである科学<主義>や人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍から否定せざるを得ないと主張することは簡単なことであるが、しかし「該当する聖書の箇所の註釈からどうしてもあの教義を否定せざるを得ないなどと主張することは……できない」ということも確かなことである。何故ならば、「処女降誕を主張している聖書的な証言がある」という事実を、詳しく言えば第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的な証言(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)があるという事実を、「何人も否定することはできない」からである。その処女降誕についての聖書的啓示証言とその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義は、「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神のその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方である「イエス・キリストの人格〔神人格〕と関連してもっている何らかの内的、事柄的な正しさと重要性……を……第一に置いている」。したがって、処女降誕は、「文献的な研究……教義的な研究を通しても答えられることのできない事実の問題として、この事柄が持っている正しさと重要さ……を後から理解する」ことが肝心なことなのである。処女降誕についての教義は、新約聖書的認識であるイエス・キリストの「内容的な教義」、すなわち「まことの神性およびまことの人間性についての教義」、「マコトノ神ニシテマコトノ人間につての教義」、「実在の、空間と時間の中で、歴史の中で歴史として起こっている出来事」、「啓示と和解」を証言・「告白」・表示しているのではなく、その「内容的な教義を解明してゆくのに必要な形式的な教義」、すなわち説明なしの「際限のない驚き、畏敬と感謝の驚き」を証言・「告白」・表示しているのである。したがって、処女降誕の教義は、「啓示ないし和解の実在そのものを表示しているというよりも」、その「実在の秘義」性、隠蔽性を表示していると言うことができる。したがってまた、処女降誕の教義は、恣意的独断的なキリスト論に抗する、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に基づいた、「マコトノ神ニシテマコトノ人間という霊的な理解(≪「啓示と信仰の出来事」、すなわち「存在的な必然性」と「認識的な必然性」を前提条件とした「認識的なラチオ性」を包括した「存在的なラチオ性」という総体的構造に基づいた「解釈」、キリスト論≫)だけを可能なものとして残す」のである。ここで、「解釈する」とは、「例証する」のではなく、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)の連続性の中において「別の言葉で同一のことを言うことである」。

 

(ウ)処女降誕の教義は、「ただ一回的な、独一無比」の、その外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方の第二の存在の仕方における「イエスの地上的――人間的な由来そのものの秘義」を、人間の「精神的な実在」ではなく、「人間精神と同一ではない」「霊的な実在」としての、「失わない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の「神ご自身の自己啓示」であるその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方である「マコトノ神ニシテマコトノ人間」イエス・キリストにおける「啓示の秘義」を表示している。ここに、この「教義の必然性」がある。したがって、外在的な「空の墓」の表示は、「キリストは甦り給うたという啓示の秘義を内容とする形式」であって、イエス・キリストは「マコトノ神ニシテマコトノ人間という内容的な教義」(「内的なもの」)とそのことを「解明してゆくのに必要な形式的な教義」(「可見的となり、聞えるようになる」「外的なもの」)である「処女降誕」は、その総体性・全体性において理解されるべき証言、教義なのである、ちょうど律法は福音を内容とする福音の形式としてその総体性・全体性において理解されるべきであって、福音と律法を二元論的に対立させて理解されるべきではないように。

 

(エ)そのような訳で、「クリスマスの秘義を否定する者たち」は、「何らかの自然神学との関連づけに依拠してそうしているのである」。「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」、「神の自由を認識していないという事態」の水準にある「ヘーゲルの強力な痕跡」を持っている近代主義者の「シュライエルマッヘル」は、先ず以てそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)の連続性の中において「別の言葉で同一のことを言おう」とはしないで、処女降誕を説明するために(処女降誕を人間中心主義的に自己主張、自己表現するために)、近代主義者であるにも拘らず近代的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍とは矛盾してしまう「超自然的な出生」、すなわち「救済者の中に生まれながらの無罪性、神的なものと人間的なものの結合(≪神人一体≫)によってもたらされる新しい創造」、「超自然的な生殖による人類という種族の創造の完成」という恣意的独断的な人間学的な概念を、すなわち自然神学的な概念を「要請」している。

 

(6)クリスマスの秘義が表示しているものは、「特別」な、「ただ一回的な、独一無比の奇蹟が出来事として起こった」ということである。その特別な内容が、「聖霊ニヨッテ宿リ、処女マリヤヨリ生マレ」である。

 

(ア)この「聖霊ニヨッテ宿リ、処女マリヤヨリ生マレ」という奇蹟(出来事)は、クリスマスの秘義のしるしである。また、このしるしは、クリスマスの秘義と「認識的および存在的に類比的」である。すなわち、この「聖霊ニヨッテ宿リ、処女マリヤヨリ生マレ」という奇蹟の出来事は、「この世界の中で起こる……出来事の連続性から理解されることも出来なければ」、その「連続性の中に基礎づけられているわけでもない出来事」、「被造物世界の領域の中で、したがって、精神的な肉体的なものの単一性の中で、時間と空間の中で、(≪自然の一部である身体を座とする人間という≫)認識的な実在と(≪天然自然および人間的自然、自然史および人類史という≫)存在的な実在の中で起こった出来事である」。すなわち、それは、「ただ神ご自身によってのみ、直接的に、働かれた、神の行為の自由と直接性、秘義として、来たりつつある神の国の先駆的なしるしとして理解されることができる出来事である」。

 

(イ)「新約聖書の証言のほかのしるしや奇蹟と比べて」、「無比な、独特な」啓示の秘義のしるしである「処女降誕の奇蹟」(出来事)は、「甦えりの証言が語っている」、「無比な、独特な」啓示の秘義のしるしである「空の墓の奇蹟」と「相互に関連し合っている」。この両方の奇蹟における啓示の秘義のしるしは、「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神のその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方である「マコトノ神ニシテマコトノ人間」イエス・キリストの「人間的――歴史的現実存在」である。すなわち、この両方の奇蹟は、「新約聖書の証言のほかのしるしや奇蹟と比べて」、ご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の「神ご自身が、神のみが……直接に、主体であり給い、それの時間的な実在はただ単に神の永遠的な実在を通して呼び出され、創り出され、条件づけられ、担われているだけでなく、むしろこの神の永遠的な実在と同一であるところの(≪われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方である≫)人間的――歴史的現実存在として、人間の歴史のそのほかの多くの現実存在の間で、そのほか多くの現実存在と並んで、その特徴を表示し、区別するという特別な機能をもつところの無比な、独特な(≪啓示の秘義の≫)しるしなのである」。徹頭徹尾神の側の真実としてある「イエスの生の始めのところにある処女降誕とイエスの生の終わりのところにある空の墓」におけるこのイエスの「生は、すべてのそのほかの人間的生とは区別され異なっている事実、しかもわれわれの理解とわれわれの解釈を通してはじめて区別されるというのでなく、……それ自身を通して区別された事実」におけるそれである。何故ならば、イエスの生は、ご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神のわれわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるからである。そのイエスの生こそが、「われわれすべてがその中に落ち込んでしまっている死に対して勝利をしめる」。このことは、「啓示と信仰の出来事」に基づいて、「神の啓示の秘義として理解されることができる」――「ワレワレノ性質ニアズカッテイルコトカラ遥カニ越エ出テイル……モシモキリストニツイテ報告サレテイルコトガ自然(≪天然自然および人間的自然、自然史および人類史≫)ノ限界ノ内部ニ留マッテイルナラバ、一体ドコニ神的ナモノガアルデアロウカ」。

 

 「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「自己を覆い隠す」・「聖性」・隠蔽性において存在している三位一体の神は、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現されたのである。したがって、その自己啓示は、その第二の存在の仕方――すなわち「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」において、聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の認識(啓示認識)と信仰(啓示信仰)を要求する啓示である。イエス・キリストは、「まさにアラワサレタ神こそが隠サレタ神」である。このことは、神の側の真実として、「神ご自身がわれわれ人間に対して自己啓示されないならば」、すなわち神ご自身が神の側から神とわれわれ人間とを架橋されないならば、「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間」は、また「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」われわれ人間は、また生来的な自然的な「『自分の理性や力(≪知力、感性力、悟性力、意志力、想像力等≫)によっては』全く信じることができない」われわれ人間は、また「全く不信仰で罪に穢れたわれわれ人間」は、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰を持つことはできないことを意味している。

 

(ウ)人間的理性や人間的欲求やが対象化し客体化した「存在者レベルでの神」ではなく、神としての「神がイエス・キリストの中で、その神性の深い隠れから現われ出給う」、「実在となり可見的となるという処女降誕」は、「特に啓示の秘義」を言い表している。何故ならば、このイエスの中で、神としての「神ご自身」が、「人間であるということの中に身をおとされ」た、「隠サレタ」、隠蔽されたからである。したがって、マタイ16・13のペテロ(教会の信仰告白)における「メシヤの名」に対する「『人の子』というイエスの自己称号」は、「(覆いをとるのではなくて)覆い隠す働きをする要素として、理解する方がよい」のである。「逆に使徒行伝一〇・三六でケリグマが直ちに、すべての者の主なるイエス・キリストという主張で始められている時、それはメシヤの秘義を解き明かしつつ述べている」というように理解した方がよいのである。したがって、「受肉」・「神が人間となる」・「僕の姿」・「自分を空しくすること、受難、卑下」は、その内在的本質である「神性の放棄」や「神性の減少」を意味するのではなく、「神的姿の隠蔽、覆い隠し」を意味しているのである。また、「神がイエス・キリストの中で、人間的な現実存在の最後的な困窮状態の死の手にゆだね給うた」、「実在となり可見的となる」という「空の墓」は、「特に秘義の啓示」を言い表している。何故ならば、この「死人の中からのイエスの甦り」、キリストの復活の秘義のしるし中で、「隠サレタ」・隠蔽されたキリストの「神性」が「実在となり可見的となる」からである。

 

 処女降誕の奇蹟(出来事)をしるしとする「啓示の秘義」は、空の墓の奇蹟(出来事)をしるしとする「秘義の啓示」を「基礎づけている」。しかし、前者の秘義は、後者(キリストの復活、成就された時間)の秘義を通して、「力を発揮し、認識しうるものとなる」。その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方(業・働き・行為、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)である和解者としてのイエス・キリストは、「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神ご自身であるが故に、イエス・キリストの「人間的『性質』」、「人間であること」、「神との和解者として、われわれに出会うところの人間」であることは、「啓示および和解として現実に有効」なのである。「新約聖書の証人たち」は、「キリスト復活の四〇日(使徒行伝1・3)」・「成就された時間」(「まことの現在」)をおぼえる想起において、その復活に包括された「キリストの死」と「キリストの生涯」を想起する時、「光を得」たのである。彼らは「甦えりの証人」である。そして彼らは、「既に来た方」であるイエス・キリストは「またこれから来たり給う方」(終末・「完成」時に再臨される方)であることを語るのである。「新約聖書の信仰」は、「想起の時間」である「聖霊降臨日のあとの時代」である。したがって、この「想起の時間」、聖霊降臨日以降の時間は、「キリスト復活の四〇日」・「成就された時間」(「まことの現在」)ではない、「まことの未来」である。しかし、その「想起の時間」は、「甦えられた方」(復活のキリスト)をおぼえる「想起の時間」として、「必然的に甦えられた方を待ち望む待望の時間」、すなわち復活されたキリストの再臨、終末、「完成」を待望する時間であり、そのようにしてそれは、「キリスト復活の四〇日」・「成就された時間」(「まことの現在」)に参与するのである。ここで、「すべての以前と以後においても」「同一の方であり給う」イエス・キリストにおいて、キリスト復活の後の「まことの未来」(究極的には復活されたキリストの再臨、終末、「完成」)を考えることは、「キリスト復活の四〇日」・「成就された時間」(「まことの現在」)を想起することであり、キリスト復活の前の「まことの過去」を考えることは、「キリスト復活の四〇日」・「成就された時間」(「まことの現在」)を待望することである――「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」、「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世(≪・時間≫)は、復活へと向かっている」、このキリストの復活・「成就された時間」(「まことの現在」)は、「新しい世(≪・時間≫)のはじまりである」。「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない。この意味は、「和解ないし啓示」は、「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神のその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方であるイエス・キリストの「新しい神の業」(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)である。それは、「神的な愛の力」・「和解の力」である。イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、その第二の存在の仕方において「第二の神的行為」(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)を遂行したのである。その「外に向かって」の外在的な起源的な第一の存在の仕方と第二の存在の仕方というその存在の仕方の差異性における「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者・言葉の語り手・創造者≫)と言葉(≪啓示・語り手の言葉・和解者≫)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、「創造主としての父に先行することはできない」のである。しかし、父と子は共に「三位相互内在性」において「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質としているから、この従属的な関係は、その存在の仕方の差異性を意味しているのである。「創造が無からの創造であるように、和解は死人の甦り」である。「われわれは創造主なる神に生命を負うているように、和解主なる神に永遠の生命を負うている」。創造は、「契約の外的根拠」として、イエス・キリストが始原であり中心であり終極である「恵みの契約の歴史のための場所設定」であり、恵みの契約の歴史は、「創造の内的根拠」として、創造の目標であるその契約の歴史の始原であり、中心であり、終極であるイエス・キリストご自身である。

 

(エ)「処女降誕についての教説は受肉の奇蹟『の生物学的解釈』を意味している。いや、『生物学的好奇心』の表現である」、この意味で「信じることなしに、……知覚できる事実である。それ故に人は処女降誕に対しては、無関心であると宣言しなければならない」と『仲保者』で述べた「自信過剰」の半減された「近代的精神」・人間的理性・思惟と神との「共働者」関係の再構築を目指すE・ブルンナーに対して、バルトは、次のように根本的包括的な原理的な批判を加えている――先ず第一に、処女降誕の教説は、信仰なしの・「無関心」のそれではなく、「啓示と信仰の出来事」に基づく「信仰(≪啓示認識・啓示信仰≫)の中における事実そのもの」である。第二に、それは、性としての生理的身体の問題として「生物学」の対象に属してはいるが、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である新約聖書の証言およびその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義においては、説明したり「言葉に出して語ることができない」、「人間的な考察を限界づけている」、「マコトノ神ニシテマコトノ人間」の「しるし」である、ちょうど人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に依拠して考えれば、イエスの復活が「どのようにして……起こりえたか、また起こったか」、「当時でさえも、解き明かすことは愚か、書き記すことや説明することができなかった」、それ故に「当時でさえも、ただ認識(≪信仰≫)され、告白され、証しされ、宣べ伝えることができた」だけであるように。このように、処女降誕は、事柄の「しるし」である。この「しるし」は、「事柄が説明できないこと」――すなわち「秘義としてのその性格」を明示している。したがって、「啓示のしるしを『信仰なしに知る』」時には、第一に、「そのような知識は、甦えりの奇蹟」(出来事)に対して「幻影を見たとか、瞞着されたとか、仮死の状態であったとかという仮説の形式」におけるそれである。また、第二に、「クリスマスの奇蹟」(出来事)に対しては、「実際の事実を信仰なしに知ることができると考えた、ユダヤ的な伝説の一つの形式」のそれである。さらにまた、第三に、啓示認識・啓示信仰の中での「この種の事実」に対して、人間の思惟が「愚直な世界観的超自然主義」的認識の段階にあって、「別に信仰を必要としない」で、「信じこませることを可能にした」人類史における認識の段階のそれである、ちょうど人類史における古代から現代までの時間累積の度合・了解化の度合・時間化の度合の差異によって、感官に映る対象が同じ巨大な岩石であっても、古代人が山の頂の巨大な岩石を霊的な信仰の対象として認識し、現代人はその岩石を単なる自然物であると認識するように。

 

 バルトは、「N・ベルジャーエフの嘆息はまた私の嘆息でもある」と、次のように述べている――「ベルジャーエフはこう言っている、『わたしはブルンナーの書物を、途方もない興味をもって読んだ。(中略)しかしながら、ブルンナーが、イエス・キリストが処女から生まれたということを信じていない、あるいは少なくとも彼は処女降誕に対しては無関心である、と言っている箇所まできた時、わたしは悲しくなった、そして事柄は退屈にさえ思えてきた。なぜならば、あたかもすべてのことが取り消されてしまい、ひきつづいて述べられているすべては意味がないように思えたからである』」。吉本隆明の「あなたはキリストの復活、再臨を信じているのですか」という問いに対して、カトリック作家の小川国夫は、「信じています」と答えのであるが、その問いに対してもしも「信じていない」、「無関心である」と答えたならば、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とするキリスト教に固有な類と歴史性を放棄したことになるだろう。

 

(オ)処女降誕の教義の内容は、「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神のその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方であるイエス・キリストの「人格の秘義」、すなわち「マコトノ神ニシテマコトノ人間という秘義の特徴を、それと類似した奇蹟の出来事を通して言い表している」。われわれ人間の思惟・考察は、この教義の必然性を証明することはできないし、「われわれが(≪その≫)必然性を肯定する」という場合、啓示を「先取りしたり、無理矢理に引き起こしたりすること」はできないから、ただその「対象によって強いられて語らざるを得ない」が故に、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」に基づいて、「存在的な必然性」と「認識的な必然性」を前提条件とした「認識的なラチオ性」を包括したそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)としての「存在的なラチオ性」の連続性において、その「教義の個々にわたっての解明の中で、さらにひきつづいて確証を受け取ることができるし、受けとらなければならない」のである。