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9の2.『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』(339-401頁)

9の2.『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』(339-401頁)
再推敲・再整理版です。
この教会教義学 神の言葉U1 神の啓示 言葉の受肉』についてさらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります
https://karl-barth-studies4.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。

 

 

9の2.「啓示の秘義―三 クリスマスの奇蹟」(339-401頁)
(7)「クリスマスの秘義のしるし」である第一条項の「聖霊ニヨリ宿リ」の奇蹟(出来事)は、そのもう一方の「しるし」である第二条項の「マリヤヨリ生マレ」の奇蹟(出来事)を通して解釈されるのであるが、第一条項のそれは、「人間的な現実存在」となった「神の言葉」(その内在的本質としての「神性」の受肉ではなく、その外在的な第二の存在の仕方である言葉の受肉)――すなわち、われわれのための神としての「外に向かって」のその外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方であるイエス・キリストの、ご自身の中での神としての内在的本質である「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を言い表している――「神の言葉が人間的な現実存在となるに当たって働いた神の同じ絶対的主権性を積極的な側面から言い表している」。この側面からすれば、第二条項の「マリヤヨリ生マレ」の奇蹟、すなわち人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍からみて、「生物学的にみて、ちょうど死人の甦えりと同じように、はっきりさせることができない仕方で生まれた」、「女性の受胎能力(≪生理的自然としてある女性の生理機構≫)だけに基づいて、生まれた」という奇蹟は、前述した神の側の真実としてある「神的な行為の主権性の否定を言い表している」。言い換えれば、この第二条項の奇蹟は、イエス・キリストの「人間的な現実存在」・「ナザレのイエス」・「人間的歴史的形態、イエスの名」の「しるし」として、「クリスマスの秘義」を言い表している。すなわち、それは、神の側の真実としてある「神の実在がここで人間的実在として一つになるということの中で示される神の絶対主権性を言い表している」。その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方である「イエス・キリストという人格」は、「彼の母のからだから、肉と血から生まれた息子」、「実在の母の実在の息子である……母にしても息子にしても、そのほかの母たちのすべてのそのほかの息子たちと場合と同じように実在の息子である」――「この完全な意味で、またイエス・キリストは人間であり給う」。「この完全な意味でそれからもちろん」、イエス・キリストは、「根本的」・「包括的」に、「完全性と真理性」を保持した「真に罪なき、従順なお方」の「人間存在」であり、「ほかの母たちのほかの息子たちとは違った仕方で、人間であり給う」、その「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とするその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方において「マコトノ神ニシテマコトノ人間」であり給う。

 

 この「クリスマスの秘義のしるし」である「マリヤヨリ生マレ」――すなわち、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)の「ガラテヤ4・4『女から……生まれ』、またその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の「アタナシウス信条……『母ノ実体カラ、時間ニオイテ生マレタ人間』」という条項は、「グノーシス的――仮現論的」キリスト論に抗する戦いから得られたキリスト教に固有な類(教義学的成果)の時間累積であり、それ故に自然神学の段階にある「グノーシス的――仮現論的な見方を防ぎ守るという……実際的な意味を持っていた」し・現在においても持っているのである。

 

(ア)「インマヌエルがまこととなる時、人間の身に対して奇蹟が起るのである。主権的な神の行為の対象は、この出来事の中での人間である(≪ご自身の中での神としてのその「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方である≫)。ここではただ神ご自身……だけが主人であり、主であり給う」。このことは、「すべての神人協力説とすべての一元論に対していくら排他独占的に、いくら拒否的に強調されても、十分過ぎることはないであろう」。したがって、われわれは、イエス・キリストが、われわれ人間に対して、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書およびその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした教会の宣教を通して「同時的となる時と所」、「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「神の支配のもとに入ることを承認し確認する」、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会として承認し確認する」、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪裁き≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけであることを承認し確認する」。したがってまた、イエス・キリストは、われわれ人間の、その個と現存性――類と歴史性の生誕から死までのすべてを見渡せ、それ故に「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所である、また自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」、「鋭さをなくした十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎない神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所である。

 

 ご自身の中での神としての自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリストにおける「啓示と和解」は、「無カラノ創造が問題ではない」のであるから、この意味で、それは、「新しい創造(Uコリント5・17)と呼ぶことができる」。この「新しい第二の創造は、(≪啓示者であり創造者である起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父における≫)古い第一の創造を前提としている」。このことは、次のように言うことができる――「創造された世界における神の愛」と「われわれの世界におけるイエス・キリストの事実の中における神の愛」との間には差異がある。すなわち、後者の神の愛は、「まさしく神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった人間の失われた世界に対する神の愛」である。すなわち、「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない。それは、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における「第二の存在の仕方」であるイエス・キリストの「新しい神の業」である。それは、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事としてのそれである。それは、「神的な愛の力」、「和解の力」である。イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、その「第二の存在の仕方」において「第二の神的行為を遂行」したのである。この神の存在の仕方の差異性における「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者・言葉の語り手≫)と言葉(≪啓示・起源的な第一の形態の神の言葉としての語り手の言葉≫)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、創造主としての父に先行することはできないのである。しかし、父と子は共にその「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質としているから、この従属的な関係は、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における存在の仕方の差異性を意味しているのである。

 

 「キリストの復活」・「実在の成就された時間」(「まことの現在」)における恵みに包括された「裁きと恵みを通して新しく照らしだされ、形成されるべき、それ故にわれわれによって、神とのその関係において直接的に考察され、理解されるべき実在としてではなく」、「啓示の客観的可能性」としての「存在的な必然性」と「啓示の主観的可能性」としての「認識的な必然性」(「啓示と信仰の出来事」)を前提条件とした「認識的なラチオ性」を包括した「存在的なラチオ性」という総体的構造の連続性において、「ただ(≪恵みに包括された≫)裁きと恵みの認識の中で考察され、理解されるべき実在として」、出来事的「奇蹟的な仕方で働きかけられるところの現実存在として、古い第一の創造を前提としている」――「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」、すなわち「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世(≪・時間≫)は、復活へと向かっている」、この「キリストの復活」・「実在の成就された時間」(「まことの現在」)は、「新しい世(≪・時間≫)の初まりである」。「すべての自然神学に対して、聖霊ニヨッテ宿リという(≪秘義の奇蹟の≫)積極的背景をもった処女ヨリ」は、「必要なかんぬきをさしはさむであろう」。何故ならば、その「秘義は、もしもそこで処女マリヤヨリが繰り返し共に(≪その総体性・全体性において≫)聞かれないならば、……否定されることになる」からである。

 

(イ)「神ご自身であり給う……啓示者の人間的な現実存在の生成、初め(マタイ1・1、18)」という「直接的に神によってたてられた(≪秘義の≫)しるし」の「ひとつの奇蹟である処女ヨリ」は、「われわれの世界の出来事であるが、しかしそれはこの世界の中での連続性(≪人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、生理的自然≫)の中に基礎づけられていないし、またそういう連続性から……理解されることができない出来事である」。しかし、「われわれはそれを(≪その秘義のしるしである奇蹟を≫)理解するためには」、「それの不連続性、それの『超自然性』を確かめるだけで終わってしまうことはゆるされないのである」。何故ならば、経済社会構成を農耕に置き自然を原理とした人類史のアジア的段階においては天皇を含めて非農耕民は神人と呼ばれていたように、「異教的な宗教と世界観にしたがっても奇蹟が存在し、しかも聖書的な奇蹟、……まさに処女ヨリ生マレに大変よく似た奇蹟が存在する」からである。したがって、「処女ヨリが新約聖書の中で登場してくる際の現われ方、そしてそれが古代教会の中ではじめから説明されてきた際の説明の仕方」にまで遡及して考察する必要があるのである。そこでは、「処女ヨリ」において、神の「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方である「言葉が肉となる」(それ故に、その内在的本質である「神性」の受肉ではない)ことによって・「神の子が『人性』をおとりになる」ことによって、「この人性に対して全く明確な限界づけが起こる」のである。すなわち、「人間の性質に対して恵みが与えられるようになる」時には、その「人間の性質がまた裁きのもとにおかれるということなしに、起こることはできない」ということが語られているのである。「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである」、「ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の『イエス・キリストの信仰』は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである」――すなわち、それは、神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」として理解されるべきものである(『福音と律法』)。

 

 このように、「恵み」は、「裁きという狭い門を通り、狭い道の上を通って来るしかない」のである。「ルカ1・28-38において、これら両方のことが問題であることは……明瞭となる」。すなわち、「天使の使信」は、先ず「おめでとう」・「恵まれた女よ」・「主があなたと共におられる」という言葉をマリヤに語る、それに対してマリヤは「戸惑い」・「心を動揺」させ・「胸騒ぎ」する、その彼女に対して「恐れることはない」・「あなたは神から恵みをいただいている」という言葉が語られる、そして「聖霊があなたに降り」という「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事によってマリヤはその神の側からの助けで「躓きを克服」し、マリヤの人間的な意志によってではなく、おのずから「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と答える。このように、先ず以て神の側から先行して「その人間に対して恵み(≪神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と主観的な信仰の出来事≫)が与えられる」ことによって、そのような人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰(信仰の認識としての神認識、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)、その「肯定」と「是認」・「承認」・「確認」・「決断」を持つことができる。したがって、「処女ヨリ生マレはこれらのテキストによればただ単に生物学的な意味で、自然と出会っているというだけでなく」、「内容的には、それとしての人間の身に及んでくる純粋な出来事(≪神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と主観的な信仰の出来事≫)が問題である」。

 

(ウ)人間そのものであるマリヤが「主の母」として、「神の啓示が人間の世界に入ってくる」「門」となるということは、「人間に対して下されたひとつの判決が含まれている」。したがって、すべてのその現にあるがままの自然的な生来的な「人間的な性質それ自身」は、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、その現にあるがままの自然的な生来的な「人間的な性質それ自身」は、「イエス・キリストの人間的な性質、神的啓示の場所となる能力をもっていない」、「神の同労者(≪「共働者」・「協働者」≫)であることはできない」。何故ならば、その現にあるがままの自然的な生来的な人間は、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、「もともと人間に固有な」「起源的な」「原罪」、自主性・自己主張・自己義認の欲求、無神性・不信仰・真実の罪、「不従順への奴隷的ナ意志」で存在しているからである。人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」のである、そのようなわれわれ人間は、キリストにあっての神を、自然的な生来的な「『自分の理性や力(≪知力、感性力、悟性力、意志力、想像力等≫)によっては』全く信じることができない」のである。したがって、「自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう」(『福音主義神学入門』)――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。

 

 そのような訳で、もしも「人間的性質が事実、神の同労者となるならば」、前述したような神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と主観的な信仰の出来事に基づいて、ただ「感謝の応答」において、「キリストの奴隷」として、そして「キリストの奴隷における全き自由人」として、マリヤのように「ワタシハ、主ノハシタメデス」、「お言葉どおり、この身に成りますように」、と「告白」し、「証し」し、「宣べ伝える」以外にはないのである。したがって、このことは、人間中心主義的な神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという仕方における神との「同労」・「共働」・「協働」、「神人協力」とは全く異なっているのである。

 

 起源的な第一の形態の神の言葉である「イエス・キリストは(≪その第二の形態の神の言葉である≫)聖書および(≪その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な≫)信仰告白によれば、クリスマスの秘義、それとともにイエス・キリストの中で起こった原罪の克服のしるしである処女から生まれ給うた」という奇蹟は、「処女から生まれ給うたが故に、第二の新しいアダムを指し示しているのではなく」、「神性」を内在的本質とするイエス・キリストは「第二の新しいアダムであり給うということ……が、……『あなたがたにわかるために』である」。「最も単純な形において神の啓示の実在を問う問いに対する新約聖書の答え」は、「永遠なる神性」を内在的本質とする「まことの神」であり「まことの人間」である「イエス・キリストの名」である、という点にある。「三位一体の根本命題に即して理解すれば」、イエス・キリストは、「永遠なる神性」を内在的本質としているから、「啓示の出来事においてはじめて神の子」「神の言葉」となるのではなく、「父を啓示するもの」、そして「われわれを父と和解させるもの」として、「イエス・キリストは神の子」・「神の言葉」である、換言すればその「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事である。そのキリストの「永遠なる神性」は、「啓示および和解におけるキリストの行為(≪子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事≫)の中で認識することができる」。すなわち、その啓示と和解が「キリストの神性」の根拠ではなくて、「永遠なる神性」が「啓示と和解を生じさせる」のである。ここに一切合財があるのであって、「赦す神」はたとえその人がまことの人間であっても人間に内在することは決してないのである。

 

(エ)自然としての「性的結合なしの誕生」である処女降誕は、「キリストの誕生を神の秘義として……特徴づけている」。したがって、「詩篇五一・七〔五〕の箇所、『見よ、わたしは不義のなかに生まれました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました』」は、自然的な性的関係に対して「断罪することを意味していない」――「カルヴァンは、人間ノ出生ハソレ自体トシテハ汚レテモ、ソコナワレテモイズ、堕落ニヨッテ偶有性トシテ汚レガ生ジタカラデアル(『キリスト教綱要』……)と語った時」、それは、「スコラ学者たちもいだいていた一般的な見解を定式的に言い表している」。「イエス・キリストの人間的現実存在の起源として」、処女ヨリ、ということで自然的な性的関係が排除された時、それは、自然的な性的関係が罪であるということを意味しているのではなくて、人間が、「生まれながらにしてもともと罪人であるが故に」、自主性・自己主張・自己義認の欲求を放棄しないが故に、無神性・不信仰・真実の罪・「不従順を生きぬくところの罪人であるが故に」、自然的な性的関係も「罪と結びついて」いるということを意味しているのである。したがって、このクリスマスの秘義のしるしである自然的な性的関係の排除における処女ヨリの奇蹟は、「イエス・キリストの無罪性を示すしるしとなるには、……まだ不適当なものである」。

 

 「啓示と和解の秘義」は、「神がその自由、いつくしみ、全能において人間となり、そのような方として人間に対して働きかけ給うということから……成り立っている」。この神の自由な愛の「行為を通して罪は排除され、空しくされるのである」。この「恵み深い」神の自由な愛の行為(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)を、クリスマスの秘義のしるしである「処女ヨリ生マレ」は指し示している。したがって、この神の側の真実としてある神の自由な愛の行為は、自然的な生来的な「被造物自身の自由の否定である」。すなわち、「被造物」は、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「神の恵みによって生きることができるという認識(≪啓示認識・啓示信仰≫)を得る」ことによって、その啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比を通して、自然的な生来的な被造物自身の自由、「意志」的企て、「原罪の意味での罪」が、「裁かれ」・「排除されていることを認識する」ことができるのである。「クリスマスの秘義のしるし」、すなわち神の「恵み深い裁きを指し示している処女ヨリ生マレの奇蹟」(出来事)に対して、「人は、意志を働かせない、達成しようとしない、創造的でない、絶対主権的でない人間の形において、ただ単に受け取り、ただ用意していることができる人間、ただ単に何事かを自分の身に、そして自分とともに起こらせることができるだけであるところの人間の形において、処女マリヤという形(≪ルカ1・28-38≫)において関係している」。ここにおいて、マリヤという「人間、処女」は、「肉をとった神の子の母となる」「可能性を手にいれるのである」。処女性が、その可能性の根拠ではない。すなわち、イエス・キリストが「聖」であるのは、自然的な性的関係なくして生まれたからでもなく・処女ヨリ生マレたからでもなく・「人間的な父が欠けていた」からでもなく、イエス・キリストが、聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神の神としての「外に向かって」のその外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方である「言葉(≪起源的な第一の形態の神の言葉≫)が肉となった」からである。

 

(オ)「神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給う」神の「神的な恵みの裁きのもとに立っている人間的な処女性」は、「肉をとった神の子の母となる可能性の根拠ではない」し、それは、「神的な恵みとの結合点を形成することもできない」、「神人協力説」は存在的にも認識的にもあり得ない。神の恵みは、徹頭徹尾神の側の真実としてある「神的な恵みそのものを通して」、「処女だけを考慮に入れ」て、すなわち「神の同労者(≪「共働」者・「協働」者≫)としてではなく、その自主性のなかでではなく、生成すべきことに関して一緒になって自由に処理しつつではなく」、徹頭徹尾神の側の真実においてのみ「人間に対して働きかけ給う」。先ず以て常に先行する神が人間に対して、自己を啓示し、「ご自身を……与えら」れることを通して、そして常に後続して「神に向か」う「用意」を授与されるということを通して、「人間に対して働きかけ給う」のである、ちょうど常に先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神の側の真実としてある、神の側からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)に向かっての人間の用意が存在する」ように。このように、「根本的に神は、人間に向かって恵み深くあり給う」ことによって、「肉にあっての罪を裁き給う」。「イエス・キリストの人間的な現実存在の起源」としての「処女ヨリ生マレの奇蹟」、すなわち「クリスマスの秘義のしるし」である「罪深い性生活が排除されているということ」は、自然的な性的関係やその罪深さ故にではなく、「すべての人間的な出生に際しては、また意志を働かせる、達成しようとする、創造的な、絶対主権的な人間が登場している」が故に、「恵みのこの秘義を指し示している」。「神の前での人間の否定ではないが」、「神的ないつくしみの尊厳さ以外のところを指し示す」、「意志を働かせる、達成しようとする、創造的な、絶対主権的な人間におけるヨセフとマリヤの結婚ではない」、神との「同労」・「共働」・「協働」の「可能性、適性、能力の否定を意味している」ところのマリヤの処女性は、すなわち「ワタシハ、主ノハシタメデス」・「お言葉どおり、この身に成りますように」は、「啓示の、そしてクリスマスの秘義の認識の、しるしである」。

 

(カ)イエス・キリストは、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の起源・根源としての父が自分を自分から区別した「父の永遠の子(≪父を起源・根源とする永遠の子≫)として」、「母をもち給わないように」、「肉(≪人間的な現実存在≫)となったものとして父をもつことができない」。この後者の命題の背後には、キリストは、「人間としても、……ただ、神の言葉あるいは子の永遠の存在の仕方の中でのその神的な現実存在の故に、存在している」という認識が潜んでいる。「真に罪なき、従順なお方」イエス・キリストは、「マコトノ神ニシテマコトノ人間」である。「アガペーのしるしの中には、……特にエロスのしるしそのものだけでなく、まさに男の機能は排除されなければならない」し、「主権的な人間」・神に対して「自主独立的な人間」・「エロスの感情を強く持って生きる人間」、すなわち「男性的な人間である人間的父親は欠如していなければならない」。すなわち、「クリスマスの秘義のしるし」は、「処女ヨリ生マレという奇蹟」でなければならない。

 

(キ)人類史の原型・母型・母胎である母系的なアフリカ的段階・縄文的段階における「宗教制度の政治支配の様式」や「宗教的な政治習俗」は、「王がその共同体とともに圧政的につくり出すものだともいえるが」、「人々もかつて王を神と呼んでいた」ことからすれば、「住民が自然につくり出すものともいえる」。この場合、王は、「自然の精霊の代理者として住民(臣民)によって据え置かれる」、と同時に、この絶対王政の王は、「疫病が猛威をふるったり、自然現象が度重なる異常な災害をもたらしたり、凶作と飢餓に見舞われたりすれば、……自然の精霊の代理者として降位させられたり殺害されたりした」。いずれにしても、日本においては、チベットのダライ・ラマのように「男性の宗教王(諏訪の大祝)である場合も、ネパールのクマリ(幼女の生き神)のように女性の宗教王(卑弥呼や聞得大君)である場合もあった」、と吉本隆明は述べている。

 

 さて、バルトは、「母権制度があった」また「あるとしても」、「すべての民族、国家、文化の歴史的な意識は父権制度」・「男の行為でもって始まって」おり、「聖書的な啓示証言もまた、……そうであるということを前提している。またキリスト教会の考え方もこの聖書的な啓示証言の立場と同じ立場をとった」、「創世記3・16は、男が女の主人となるであろうということは、まさに堕罪の結果、男と女に負わされた呪いに属している」ことを、また「パウロのTコリント11・8以下は、男女の上下の秩序が『創造にかなう秩序』としてではなく、堕罪の領域において妥当する神の規定として語っている」、と述べている。そして、「この規定の意味で、……創世記三・九で直ちにアダムが・男が、神によって語りかけられ、責任をとらせられていることが起こっている」。言い換えれば、バルトは、「男も女も共通に罪に堕ちてしまった」ために、「そもそも上下の秩序については語られ得ない関係から……ぬけ出てしまったことに基づいて」、「不平等」が生じ、また「男が女の主人となることによって、父権制的な世界史の展開となった」、と述べている。

 

 前述したことから、「今や反対のしるし」、すなわち「クリスマスの秘義のしるしである処女ヨリ生マレの奇蹟」、「イエスの人間的な父が欠けているというしるしがしるしとして理解されるものとなる」。すなわち、われわれ人間は、神だけを求めるのではなく、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求を求め、自分の「意志を働かせ……〔何事かを〕遂行しようとする、創造的な働きをしようとする不従順」を生きているから、すなわち無神性・不信仰・真実の罪のただ中を生きているから、その最初から「神の業に与る参与者として問題となり得ない」ということを理解することができる。この「不従順の状態にある人間こそが、ヨリ大事ナ面カラミテ男なのである」。言い換えれば、そうした状態にある男、人間、また彼の「行為」における「世界歴史」に対して、「恵みの秘義が抵抗している」のである。したがって、「イエス・キリストの誕生は、すべてのそのほかの人間の生成と違って徹頭徹尾男の歴史ではない」のである。したがってまた、イエス・キリストの「母は処女であり、しかもまさに自然的な母であり、それでいて自然的な能力あるいは力によってではなく聖霊により、ただ神のみ力によってみごもったのである(ルター)」とは、「人間とその罪の限界づけ」であり、「同時に、あの男の優位性の限界づけ」である。

 

 「マタイ1章イエス・キリストの誕生」にあるように、ヨセフは「全面的に背後にしりぞき、神がその代わりに登場され、……全くただ神として、奇蹟を行う創造者として新しいことを造り出し措定するという……仕方」においてはじめて、「罪のない神の子の人間的現実存在が、それとともにわれわれに対する神の啓示が、そして神とわれわれとの間の和解が可能となり、実在となる」のである。したがって、イエス・キリストの誕生において、神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという「男性としての人間のなす行為全体を」・「人間的な生むことを排除している」のである。このような訳で、「処女カラ生マレなのである」。

 

 この「処女としての女の本質」は、人間としての女にもある「神的な裁きのもとにおかれている」「罪深いものとしての男の基本的な素質を引き去った後に残る」それである。したがって、ルカ1・38におけるマリヤの天使に対する答えは、「自然」に属していることではなくて、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいた信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事に属している。「それ自身が既に奇蹟(≪そのような出来事≫)に……属している」。したがって、それは、決して、マリヤに「神性」性があるわけではない。決して、それは、神と処女的人間・その人間の被造物性との「同労」・「共働」・「協働」・「神人協力」ということではない。何故ならば、処女マリヤも、「罪ニソマリ、罪ニオカサレタ」「人間の性質」を持っており、それ故に「宿シ生ム力ヲ至高の神ノアノ寛大サニヨッテ与エラレタ」からである。このマリヤは、あくまでも「神のあわれみの秘義」・「神的な義認と聖化の行為」によって、その人間的性質にもかかわらず、「あの交わりにあずかる」ことができたのである。この「神のあわれみの秘義の中で、人間の性質は、罪深い人間の歴史を度外視して、……人間の性質そのものの破滅にもかかわらず、(≪神の側の真実としてある≫)恵みからして、恵みの奇蹟を通して神的性質との交わりに、値するものとされる」のである。

 

 したがって、「人は……ローマ・カトリックのマリヤ論の痕跡をすべて消し去ってしまわなければならないだろう」、「堕罪にもかかわらず人間に残された、神のみ業に対する原理的な開放性であるとして理解することはゆるされないであろう」、「人間はエペソ2・3によれば、『生まれながらの怒りの子』である」、「堕罪は人間全体の(≪全面的な≫)堕落である」、人間は「神に向かって」徹頭徹尾「不従順である」ことによって、それ故に自らの自主性・自己主張・自己義認の欲求をもって「なすところのものである」。したがってまた、「処女マリヤヨリ生マレにおける女の本質」は、「女が男とともに責任を負わなければならない罪にもかかわらず、地上において永遠の神ご自身を宿すものとして、神の母として、とり上げられるのである」。

 

(8)クリスマスの秘義における、そのしるしである「処女ヨリ生マレの奇蹟」は、その秘義の「否定的な面」、すなわち人間の「不従順」、「同労者」、「協働者」、「共働者」に対する「否定」を意味している。このことを、「第一の、積極的な定式、聖霊ニヨッテ宿リが証明している」。この積極的な定式は、「イエス・キリストの懐胎」が、マリヤからの誕生に「先行した」、ご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での第三の存在の仕方である「聖霊なる神のみ業であったということを語っている」。したがって、その「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方であるイエス・キリストの誕生は、「奇蹟的な誕生であったし、そのようなものとして永遠なる言葉の受肉(≪その内在的本質としての「神性」の受肉ではなく、その外在的な第二の存在の仕方である言葉の受肉≫)のまことのしるしであった」。「処女ヨリ生マレ」という定式は、クリスマスの秘義のしるしであるその奇蹟(その形式と形態)を言い表しているが、「聖霊ニヨッテ宿リ」という定式は、クリスマスの秘義のしるしであるその奇蹟(その根拠と内容)を言い表している。このように、クリスマスの秘義のしるしであるその奇蹟は、その総体性・全体性において理解されなければならないのである。

 

(ア)「それ自身また言葉の受肉の秘義そのもの」の、ご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での第三の存在の仕方(業・働き・「行為」)であるである「聖霊ニヨッテ宿リ」という定式は、その「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方(業・働き・「行為」)――すなわち「啓示と和解のあわれみ」であるイエス・キリストの「人間的な現実存在」が、「聖霊なる神の最も固有な業であるということ」を語っている。

 

(イ)クリスマスの秘義において、それと「もっとも近い関係にある」ところの、「聖霊ニヨッテ宿リ」の奇蹟はその「事柄」を、また「処女マリヤヨリ生マレ」の奇蹟はその「しるし」を言い表しているというように「分けてしまうことはできない」。すなわち、その両方の定式は、その総体性・全体性において受け取るとる必要がある。何故ならば、「聖書の奇蹟についての報知」、すなわち「聖霊ニヨッテ宿リ」は、「マタイ一・一八あるいはルカ一・三五の直接的な引用」であり、他方「処女マリヤヨリ生マレは、(確かにイザヤ七・一四を想起しつつ)」いわばそれを教義的に精密に言い表しているからである」。神的側面に属する「聖霊ニヨッテ宿リ」という定式は、「神性」を内在的本質とする「マコトノ神ニシテマコトノ人間」「イエス・キリストの人格(≪その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方、業・働き・行為≫)の秘義のしるしの奇蹟」、人間的側面に属する「処女マリヤヨリ生マレに属している」。

 

 「メシヤの名」に対する「『人の子』というイエスの自己称号」は、「(覆いをとるのではなくて)覆い隠す働きをする要素として、理解する方がよい」。「逆に使徒行伝一〇・三六でケリグマが直ちに、すべての者の主なるイエス・キリストという主張で始められている時、それはメシヤの秘義を解き明かしつつ述べているというように理解した方がよい」。受肉・「人間の歴史的形態、イエスの名」・「神が人間となる」・「僕の姿」・「自分を空しくすること、受難、卑下」は、その内在的本質である「神性の放棄」や「神性の減少」を意味するのではなく、「神的姿の隠蔽」・「覆い隠し」を意味している。このように自己啓示する神は、「恵みそのものの秘義」において、「まさにアラワサレタ神こそ隠サレタ神」である。それは、イエス・キリストである。

 

(ウ)「恵みの秘義」、「クリスマスの秘義のしるしの奇蹟」、すなわち「聖霊ニヨッテ宿リ」は、その「しるしの形式と形態である奇蹟」、すなわち「処女マリヤヨリ生マレ」の「根拠と内容である」。「キリスト教の啓示と教会の領域において聖霊」は、「神ご自身」を、「言葉の最も厳格な、全き意味での神」を、ご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での第三の存在の仕方を指し示している。聖霊は、「父なる神と子なる神の愛の霊である」。ここに、聖霊の「起源」がある。その外在的な「失われない差異性」の中での第三の存在の仕方である聖霊において、父と子(≪神的対関係≫)は、愛に基づく完全な共存的な「交わり」(≪神的共同性≫)においてある。すなわち、聖霊は、その「交わり」の中で、「父は子の父」・「言葉の語り手」であり、「子は父の子」・「語り手の言葉」であるところの「行為」・性質・働き(第三の存在の仕方)である。ここに、「神は愛・愛は神であることの根拠がある」。「愛は神にとって、最高の法則であり、最後的な実在(≪第三の存在の仕方≫)である」。すなわち、「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊は、「すべての主の主、……ご自分を通して主であるところの主……その方に人間はすべてを負うており、いつまでたってもすべてを負うたままであるところの主、……ただその方の約束の中でだけ人間の未来があるところの主である方」を意味している。イエス・キリストは、聖霊によって、「処女マリヤから生まれるために、人性という面で受胎された」。このキリスト教に固有な「啓示に固有な証明能力を持っている」キリストにあっての啓示は、「異教的な神話の領域に見られるような……もろもろの主張と同種の平行現象として受けとろうとすることを拒否する」。また、それは、「われわれの人間的な世界観を拒否する」。また、それは、「何らかの自然哲学的思弁あるいは……多少とも純粋に自然科学的な認識をもって助けにおもむこうとするすべての試みを排除する」。何故ならば、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、「啓示の客観的可能性」としての「存在的な必然性」と「啓示の主観的可能性」としての「認識的な必然性」(「啓示と信仰の出来事」)を前提条件とした「認識的なラチオ性」を包括した「存在的なラチオ性」という総体的構造の連続性において、「処女降誕のしるしの創始者が神ご自身である聖霊である」ということを認識(啓示認識)し信仰(啓示信仰)し告白するならば、すなわち「このしるしが実在であることを認める告白」をするならば、「はじめから、このしるしを自然的な可能性として理解することを断念する」だろうからである。「処女降誕をクリスマスの秘義のしるしとするところのもの」は、「聖霊ニヨッテ宿リ」という奇蹟、「聖霊の神性についての……厳格な理解――イエス・キリストが受胎された聖霊の神性についての理解にある」。

 

(エ)神の「第三の位格あるいは存在の仕方である聖霊を通してだけ、人間は神のためにその場におり、人間に働きかけ給う神の働きに対して自由であり、信じ、神の啓示の受領者であり、神的和解の対象者であることができる」。「ただ聖霊の中でだけ、人間は、彼が実際に神の啓示する、そして和解する行為に参与していることに対する証言と保証をもつ」。「ただ聖霊の力によってだけ、教会が存在する」。すなわち、「神の言葉に対して奉仕がなされ得る教会が存在する」。この聖霊自身の完全な自由において、この聖霊の中での完全な自由において、「教会の自由、神の子たちの自由がある」。このことは、「既に、(≪聖霊によって≫)神の言葉の受肉、神のみ子が人間の性質をおとりになった」ということを根拠としている。「神の子との統一性の中に取り上げられる人間の性質の可能性が、聖霊である」。「神性」を内在的本質とするイエス・キリストの啓示の出来事、神の第二の存在の仕方、啓示と和解、神の子、「神の言葉」は、聖霊なしではない。聖霊は言葉と「共にある共存である」、換言すれば「啓示の主観的可能性」としての「認識的な必然性」は「啓示の客観的可能性」としての「存在的な必然性」と「共にある共存である」、神のその都度の自由な恵みの決断により言葉を与える主は信仰を与える主である。このことは、全く「人間の性質そのものの能力によるのではない事柄」として、前述したことに基づいて「神のために自由であるということが実在となり」、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)の連続性が可能となる(「ヨハネ一・一二以下、三・三以下」、「ヨハネ三・五以下」)。

 

 新約聖書の「イエスは主であるという証言」は、「神性」を内在的本質とするイエスを、「事実の承認として・思惟の初めとして語っている」。したがって、この「イエスは主である」・「子を通しての父を、父を通しての子を信じるこの信仰」――「この神との出会いであるイエスとの出会いである信仰の出来事」は、神のその都度の自由な恵みの決断による「聖霊の注ぎ」を必要とするのである。また、「聖霊はみ子の霊であり、それ故、子たる身分を授ける霊である」から、われわれは、「聖霊を受けることによって」、「イエス・キリストが神の子であるという概念を根拠として」、「神の子供」・「世つぎ」・「神の家族」であり、「『アバ、父よ』と呼ぶ(ローマ八・一五、ガラテヤ四・五)」ことができるのである。また、「和解者が神の子であるがゆえに、……和解、啓示の受領者たち」は、授与者と受領者との無限の質的差異を固守するという<方式>の下において、「神の子供」なのである。

 

 「恵みの実現」、「キリストの処女降誕の秘義のしるし」は、「聖霊ニヨッテ宿リ」という聖霊による懐胎の奇蹟である。新約聖書は、「二つの重要な平行記事をもっている」――第一に、「マルコ1・9以下のヨルダン川での受洗」である。「聖霊なる神がはとのようにイエスの上にくだった」という「イエスの受洗の秘義のしるし」は、「聖霊がはとのように……くだったという奇蹟」(出来事)にある。このことは、「聖霊がはとのように下ったことによって、イエスは神の子となるということを指し示しているのではなく」、「聖霊がはとのように……くだったそのものは、(≪「神性」を内在的本質とする≫)神の愛する子であるということを言っているのである(ヨハネ一・三二以下参照)」。第二に、「ローマ1・4のイエスの甦えりの秘義のしるし」は、「聖霊」によれば「人間イエスが神のみ子と定められたという奇蹟」にある。「聖霊にまでさかのぼって」、「人間イエスが神のみ子と定められることのしるしとしてイエスの甦えりが名ざされている」。

 

(オ)処女降誕のしるしを、「聖霊ニヨッテ宿リ」という聖霊による懐胎の奇蹟として、「聖霊が名ざされていることは、……二重の意味で特徴的である」。第一に、それは、「イエス・キリストの人間的な現実存在の秘義」を、三位一体的な「神ご自身の中にある秘義にまでさかのぼらせている」点にある。第二に、それは、聖霊が、「われわれの和解が和解者の現実存在と関わっていることを指し示している」点にある。「聖霊の業の……主要な実現に基づいて」、「人間が神に向かって用意ができていることが神ご自身を通してわれわれの身に起こることができる」。すなわち、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事(「和解せしめる愛」)とその出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(「救済する知恵」)に基づいて、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事がわれわれの身に起こることができる。

 

(カ)「聖霊ニヨッテ宿リ」は、イエス・キリストは、その人間的な現実存在という面で父親をもち給わなかったということを言っている」。また、聖霊がこの奇蹟において「男性の代わりとなり給うということ」は、人間的な「男性のなすところのことをなす」ということではない。「ジュピターおよびそのほかの、人間の娘たちを欲情をもってみた神々についての神話がある」が、神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下において、「聖霊と処女マリヤの間に結婚のような何かが起こったかのように受けとる考え……は完全に排除されている」。何故ならば、「処女降誕についての新約聖書の箇所は、聖ナル結婚について語っているのでは……ないからである」。また、イエスが「聖霊によって受胎されたということ」は、イエス自身、「失われない単一性・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方であるから、「決してイエスが聖霊によって生み出されたということを意味していない」。

 

(キ)「聖霊ニヨッテ宿リにおける処女がみごもるところの聖霊」は、「神化された男性ではなく」、「神ご自身である」。したがって、神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下において、「その奇蹟的な行為は霊的な行為として理解されるべきであって、決して精神的――肉体的な行為として理解されてはならず、多少とも被造物的エロスの業と類似した行為として理解されてはならない」のである。「キリストの受胎が聖霊の業であると言われている時」、そのことは、天然自然や人間的自然、自然史や人類史、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、人間学的な哲学原理・認識論・世界観等に基づく「存在の類比」を通した「すべての説明を排除している」。言い換えれば、そのことは、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠した「信仰の類比」・「関係の類比」を通した「説明を求めている」。そのことは、「啓示の客観的可能性」としての「存在的な必然性」と「啓示の主観的可能性」としての「認識的な必然性」(「啓示と信仰の出来事」)を前提条件とした「認識的なラチオ性」を包括した「存在的なラチオ性」という総体的構造の連続性において「説明を求めている」。
(『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中> 言葉の受肉』――了)