23の4.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
23の4.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
推敲済みです。
この『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』について、さらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります。
https://karl-barth-studies.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。
「U 神の存在の証明」「A 証明の諸前提」「一 神の名」
バルトは、「われわれは、アンセルムスの神証明にとって標準となる神の名についてのさらなる引き続いての解明を、ガウニロの二つの誤解……の論議と結びつける」と述べている。
誤解(二)
「ガウニロは、アンセルムスの定式(≪ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイモノ≫)を」、アンセルムスが「あたかも……『プロスロギオン』において、(≪存在的な≫)スベテノモノヨリモ偉大ナ何カと記述しているかのように(≪「絶えず」≫)理解し(≪誤解し≫)、また数多くの箇所でそのように(≪誤解したまま≫)引用した」――(アンセルムス)「私ノ語ッタ言葉ノドコニモソノヨウナ論証ハ見イダセナイ。……私ガ言ッテイナイコトヲ言ッタトシテ非難スルノハ誤リデアル」(誤解である)。ガウニロは、「この不注意さをもって」、「『プロスロギオン』の中で用いられているアンセルムスの定式(≪ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイモノ≫)」が、「『モノロギオン』においてアウグスティヌスに組みしつつ用いた定義と比べて」、「明確な内容を持っている」と同時に「別の内容を持っているということを見損なったのである」。ガウニロにとって、「『モノロギオン』の神概念は、最大、あるいは最高、あるいは最善のものと呼ばれた、『最大ニシテ最善ナアルモノ……、ソレハ存在スルスベテノモノノウチデ最高デナケレバナラナイ』、『最高ノ本性ノ実体ハ、……ソレガ何デアロウト、必然的ニ、ソレデナイヨリモソレデアルホウガ絶対的ニ善イモノデアル』、『神ハ、神デナイスベテノ本性ヲ超越シ、……人間ニ崇メラレ……ルベキ、アル実体』である」――「それは、文字通りにではないが、内容的には、ガウニロの(≪存在的な≫)スベテノモノヨリ偉大ナモノデアル」。アウグスティヌスも、次のように述べている――「アノ思惟ガ、ソレヨリヨキモノ、マタソレヨリ高貴ナモノガナイ何カヲ得ヨウトスル時ニ、神ニツイテ考エラレテイルノデアル」、それ故に「神は、考えられ得る最大のものである」。したがって、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階における「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰であるとしたカントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」(『カント』)。
前述した「箇所は、……アウグスティヌス的な定式とも特徴的に異なっている後の定式へと到達した出発点を形造っていた」。「マタ、ソレヨリスグレタモノガ存在スル何カガ神デアルト信ジルイカナル者モ見出サレ得ナイ」――アウグスティヌスの「この第二の命題において」も、<非自然神学>的なアンセルムスの探究のベクトルが、その自然神学的なアウグスティヌスの探究のベクトルから「遠ざかって行くかに、人は注意せよ」。「また、これに関する第二の箇所、『ソレヨリ高キニ位スルモノガナイコノ神ヲ、私ハハッキリト告白スルデアロウ』において」も、<非自然神学>的なアンセルムスの探究のベクトルが、自然神学的なアウグスティヌスの探究のベクトルと「遠ざかって行くかに、人は注意せよ」。「ソモソモ、私タチハ、神的実体ニツイテ、(ソレデ)ナイヨリハ(ソレデ)アルホウガヨイト絶対的ニ考エラレ得ルモノハスベテ信ジテイル。(アンセルムスは、そのところまで、アウグスティヌスと共に進んでいる)」、「シカシ、コノヨウナモノノウチノ何一ツトシテ、ソレヨリ偉大ナモノガ考エラレ得ナイアルモノデナイモノハナイ。ソレ故、ソレヨリ偉大ナモノガ考エラレ得ナイモノハ、神的本質ニツイテ信ジラレルベキスベテデナケレバナラナイ(ここで、われわれは、アンセルムスの、アウグスティヌスに対して独立した考えと取り組まなければならない)」。
「存在するものそのもの」、「その純然たる造られた存在」に依拠したアウグスティヌスの「造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」という思惟と語り方に対して、バルトは、『教会教義学 神の言葉』で、次のような根本的包括的な原理的な批判を加えている――すなわち、そのような三位一体の跡は、「世界に対して超越する創造神の跡として理解することはできない」。それは、ただ単なる人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能によって対象化され客体化された人間自身の「内在的に理解された宇宙の諸規定・人間的な現実存在の諸規定」、「単なる宇宙論や人間論でしかない」ものである。また、そのような三位一体論は、「人間の世界理解の、最後的には人間の自己理解(≪・自己表現≫)・神話でしかないない」ものである。言い換えれば、それは、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階における生来的な自然的な人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者レベルでの神」である。また、バルトは、『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』でも、次のような根本的包括的な原理的な批判を加えている――アウグスティヌスは、「三位一体の痕跡である想起(記憶)、知解、愛としての人間の中での神の像」を、「最も身近な最も高貴な認識根拠とした」。それは、アウグスティヌスにとって、「聖書的・教会的・教義的前提であった」。このことは、アンセルムスにとってもそうであったが、アンセルムスの場合は、アウグスティヌスとは違って、第一に、徹頭徹尾第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の、「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)の連続性に連帯して「教えられつつ語るのであって、(≪世ら的な自然的な≫)われわれの理性に内在している神概念の再想起において創造しつつ神について語ろうとはしなかった」、第二に、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)――すなわち客観的な「存在的なラチオ性」に包括された主観的な「認識的なラチオ性」(聖霊とは同一ではないが、聖霊によって更新された人間も理性性)は、「啓示、恵み、信仰を前提条件としていた」――すなわち神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事)と主観的な「認識的な必然性」(その客観的な啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事)を、換言すれば「啓示と信仰の出来事」を前提条件としていた。
「『モノロギオン』の序によれば、新しい論証を探究した際の不安(≪と≫)……喜び」における「尋ね求められた新しい論証」は、「ただ一ツノ論証として、神の存在と本質を証明するのに十分でなければならない」。「しかも、……それは、(≪前述したような≫)その構造において、神の信じられた本質に相応し」、それ故に神としての「神に適した仕方で、神を証明するのに役立ち得る仕方で、証明する力を持つべきである」。「その際、神の本質」は、「ホカノドノヨウナモノヲモ必要トシナイガ、スベテノモノガソノ存在ト幸福ノタメニハ必要トシテイル至高ノ善であることは、神に特有なことである」、と記述される(下記の【注】を参照)。このことは、その名を手段・前提とした「その神の存在と本質が証明されるべき神の名」が、「尋ね求められている証明をなしてゆくために、信じられた、しかし証明されていない神の存在を、あるいは信じられた、しかし証明されていない神の本質を念頭において、その名を考えあるいは語ることでもって十分であるといった具合でなければならないということを意味している」。何故ならば、その証明は、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)の連続性に連帯した終末論的限界の下での途上性にあるそれであるからである。「タダ一ツノ真理デ、シカモソノ論証自身ノ証明ニホカノ論証ヲ必要トシナイ論証」、「前者ニハ、ソレヨリ偉大ナモノガ考エラレ得ナイトイウ表現以外ニ何モノモ必要でない。……ソレヨリ偉大ナモノハ考エラレ得ナイモノガ、ソレ自体ニツイテ、ソレ自体ヲ通シテ証明シテイル」。このことは、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、キリストの霊である聖霊の証しの力を、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示の客観的可能性」としての客観的な「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事)と「啓示の主観的可能性」としての主観的な「認識的な必然性」(その客観的な出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事)を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」(聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した客観的な「存在的なラチオ性」(「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性)という総体的構造のことを指している。もしもそうでないのなら、そこでの神は、神としての神ではないであろうし、それ故にその神の啓示の内容は、神としての神の啓示の内容ではないであろう。もしもそうでないのなら、そこでの神や神の啓示の内容は、「人間的理性や人間的欲求やによって規定された神」、すなわち「存在者レベルでの神」でしかないであろうし、そのような「存在者レベルでの神」の啓示の内容でしかないであろう、それ故に「その対象に即しても」、まさに「神学の秘密は人間学以外の何物でもない」であろう、換言すれば自然神学でしかないであろう。
【注】言い換えれば、「ホカノドノヨウナモノヲモ必要トシナイガ」とは、神としての神は、「自存性」の概念としての「自己自身である神の自由」と「神とは異なるものによって為されるすべての条件づけからの神の自由」、換言すれば「神とは異なるもの」(自然としての自己身体、性としての他者身体、宇宙を含めた外界としての自然、またその時人間も有機的自然化するのであるが、個体的自己としての全人間がその身体と精神を介して普遍的で実践的な全自然との相互規定的な対象的活動をなすことによって自然を人間化した人間的自然・非有機的身体)具体的には生来的な自然的なわれわれ人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能)「によって為されるすべての条件づけからの神の自由」としての「独立性の概念」との全体性において完全に自由であるということであり、「スベテノモノガソノ存在ト幸福ノタメニハ必要トシテイル至高ノ善であること」とは、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動)、すなわち起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・言葉の語り手・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりである聖霊――啓示されてあること・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体のことであり、それらのことは神としての「神に特有なことである」、と記述される。
アンセルムスの「ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイモノ」という定式は、「神の信じられた存在の証明に対しても、神の信じられた本質に対しても、不十分である」。アンセルムスは、「『モノロギオン』において、神の信じられた存在のことを、いろいろな箇所で(≪「顕示的ニ」また「暗示的ニ」≫)主張している」。しかし、「証明しようと試みてはいないということは偶然ではない」。「後の成果である」「『モノロギオン』において前提された神概念に基づいては(≪証明は≫)不可能であるという洞察」は、「ガウニロに対する解答の中で正式に語られるようになる」。そして、「スベテノモノヨリ偉大デアルモノは、また存在しないとして考えられ得るであろう。しかし、前提された概念が、この可能性をそれ自身を通して排除しない限り」、それ故に「神が存在しないこと(非存在)が、前提された神概念を除去することなしに考えられうる限り、この神概念は証明にとっては役に立たない。なぜならば、神の存在の証明は、神の存在が考えるべく必然的であるとして(すなわち、考えないでいることは不可能であるとして)示された時、はじめて、あるからである」。アンセルムスは、「今や『モノロギオン』に対する明らかな自己訂正の中で」、「スベテノモノヨリ偉大ナ何かは、再び、ソレヨリ偉ナ何カが(タトエ存在シナイトシテモ)少なくとも考えられ得るであろうということを排除しないから」、「あの概念(≪スベテノモノヨリ偉大デアルモノ≫)は、神の信じられた本質を証明するのに十分でないということ……を明らかにする」――「モシ存在スルスベテノモノヨリ偉大ナ何カガ存在スルガ、ソレハ存在シナイト考エラレ得ルシ、マタソレヨリ偉大ナ何カハ、タトエ存在シナイトシテモ存在スルト考エラレ得ル、ト人ガ言ッタナラドウダロウカ。……同ジヨウニ、コノ場合モ、ソレガ存在シテイルスベテノモノヨリモ偉大ナモノデハナイ、トイウコトヲ明白ニ結論ヅケルコトガ出来ルダロウカ」、それ故「『真理ニツイテ』の中でも、われわれは、アンセルムスが、首尾一貫した仕方で、『……デアルト考エルコトハ不可能デアル』をもって作業をしているのを見る」。したがって、「この考えの可能性を排除することこそが、神の根源的な完全な本質の実際の証明を通して遂行されなければならないであろう」。ガウニロは、アンセルムスに対して、『プロスロギオン』における新しい内容を持ったアンセルムスの思惟と語りを誤解し、あたかもアンセルムスの概念であるかのように「無思慮に曲解しつつ、存在的なものへと逆戻りさせしまう」「スベテノモノヨリ偉大ナ何カ」という「この概念を手段として用いたのでは証明は不可能であるということを教えなければならないと考えた時、無駄骨を折っていたのである」。「アンセルムスの証明が、十三世紀においてさらに広く神学的な領域にわたって知られるようになった知られ方は、決して好意ある、有利なしるしの下に立っていなかった」。そこにおいては、アンセルムス自身は「全部ひっくるめて、ことごとく、曖昧なものだと見做した」「純粋に存在的な前提の上に基礎づけられた神証明と同じ系列(≪自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の系列≫)に入れて話題にのせることによって、(≪神学を≫)危険にさらした」。
ガウニロの「スベテノモノヨリ偉大ナ何カを証明するに際しての無力さ」は、「スベテノモノヨリ偉大ナ何カにとって、神の名として、あの自足性(その対象の本質に相応し適っている自足性)が欠けている」という点にあった。「スベテノモノヨリ偉大ナ何カ」が、「証明する力を持つようになるためには、そのもの自身と共に与えられていない特定の諸前提を必要としている」。すなわち、「スベテノモノヨリ偉大ナ何カ」は、「『最高のもの』であるために」、第一に、スベテノモノの「存在と本質の中で、自分たち自身を超えて『最高のもの』を指し示しつつ、『最高のもの』の中に自分たちの頂点を持つところの諸事物の存在と本質を前提としている」。「自余のピラミッドなしには、頂点は頂点ではあり得ない……」。「ヨリ劣ッタ善キモノカラヨリ偉大ナモノヘト上昇シツツ……人はスベテノモノノウチノ最上ニシテ最大ノモノの概念に到達する」。このように、「人は、低いものの存在と本質から、そのような最高のものの本質へと推論スルコトが、推測しつつ結論づけることができる」。ヘーゲルの無限と有限との「究極的同一性」の原理に依拠すれば、思惟に思惟を重ねて具体的普遍の頂へと高次化した思惟は、自然から完全に超出した全く自由な精神であるから、その頂を極めた全く自由な「精神は、精神自体として神と全く同一である」。「不信者は、人は(≪生来的な自然的な人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能を駆使して≫)そのことができるということを思い出させられなければならないであろう」。それに対して、<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教を目指す「信者は、ローマ一・二〇から、この『できること』は、(≪自然神学における一般の啓示、一般の真理ではなくて、啓示神学におけるその「啓示に固有な証明能力」を持つ≫)特別の啓示の真理であることを思い出させられなければならないであろう」。「しかし、そのことでもって、『最高のもの』そのものの存在」は、「また本質も、知解され証明されたのではない」。アンセルムスは、「鋭い仕方で、コノヨウナタグイノ何カガ実在トシテ存在シテイルカドウカを問う問いは、『モノロギオン』において歩まれた道」、すなわち黙想や生来的な自然的な人間の自己意識・理性・思惟の類的機能を駆使した「神ニ達スル道の上では答えられないことを強調している」。「神の知解の可能性」は、啓示神学に依拠したアンセルムスによれば、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」である「啓示の客観的可能性」としての「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事)と「啓示の主観的可能性」としての「認識的な必然性」(その客観的な啓示の出来事の中での主観的側面である「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事)を前提条件とした「存在的なラチオ性」――すなわち三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)と「認識的なラチオ性」――すなわち聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性という総体的構造の連続性に連帯する以外にはないのである。
そのような訳で、「スベテノモノヨリ偉大ナ何カ」が、「証明する力を持つようになるために」、「最高のもの」の「決定的な概念」は、第二に、「まさにソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイモノという概念である」。すなわち、「スベテノモノヨリ偉大ナモノが、ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイモノと同一であると考えられることによって、それが表示しているものの存在と完全さが証明され得るのであって、それ以外の仕方で、証明されるのではない」。「このところからしても、ガウニロの島のたとえが無用な思いつきでしかないことが証明される」。ガウニロは、誤解したまま、「ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイモノを神の本質の定義とみなし、アンセルムスの証明を、……神の本質から存在を推論することだとみなしたのである」。しかし、アンセルムスの「神の本質の証明は、神の存在の証明と同様、ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイモノから続いてくる」し、「しかも、それは、神の存在の証明が神の本質の証明に先行するような仕方においてである」。「教義学的な合理主義を明確に否定」し啓示神学に依拠したアンセルムスは、その「外にむ向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動)である「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、すなわち啓示の客観的現実である「まさにアラワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストの名」において、その「自己自身である神」の、「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」(それ故に、三神、三つの対象、三つの神的我ではない)の内在的本質である「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性の認識(啓示認識)と信仰(啓示信仰)を要求する啓示(「存在的な必然性」)に依拠したのである。「ソレヨリ偉大ナモノガ考エラレ得ナイモノハ、ソレノミガスベテヨリ偉大デアルモノトシテシカ全ク理解サレ得ナイカラデアル。ソコデ、ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイモノガ理解サレ、理解ノウチニアリ、ソレ故ソレガ、実在トシテ存在スルコトガ主張サレルヨウニ、スベテヨリ偉大デアルト言ワレルモノガ理解サレ、マタ理解ノウチニアリ、ソレ故実在トシテ必然的ニ存在スルコトガ結論ヅケラレル。コウシテ失ワレタ島ノ記述ガ理解サレタトイウ唯一の理解カラ、ソレガ存在スルト主張シヨウトシタアノ愚鈍ナ者ニ、貴君ガ私ヲ較ベタコトガドンナニ正当ナコトダッタカガ分カルダロウ」。「その中で、それがその対象に相応するであろう自足性」は、「スベテノモノヨリ偉大ナモノにとって、……固有ではない」、「『プロスロギオン』において発見された神の名(≪ソレヨリ偉大ナモノハ考エラレ得ナイモノ≫)にとって固有である」。この「ソレヨリ偉大ナモノハ考エラレ得ナイモノとして神を言い表す表示の仕方」は、「いかなるものの存在と本質をも、神ご自身の存在と本質をも、考えられたもの、あるいは考えられ得るものとしてさえ前提していない」。すなわち、「この表示の仕方」は、「神は考えられるべきであり、考えられることができるとしたら、……ほかのいかなるものも神より偉大なものとして考えられることはゆるされないであろうということを語っている」。この「神の表示の仕方の前提のもとでなされるべき証明」は、その神の名が「何よりも先に自分自身を証明している」(イエス・キリストにおける神の自己啓示は、その「啓示に固有な証明能力」を持った神の自己証明である)ということから、「分析的な命題ではなく、総合的な命題である」。このことからして、この「神の表示の仕方は、その対象に対応している」。完全に自由なこの「神の表示の仕方」は、「また(≪その啓示に固有な≫)証明する力を持ち得るのである」。言い換えれば、その「前提された神の名が、(≪その完全な自由において≫)神証明においてなすべきであるところのことをなすことができるのである」。神の名、「ソレヨリ偉大ナモノハ考エラレ得ナイモノでもって、敵(否定あるいは疑い)は、そのもの自身の本営において探し出され」、「そこから存在的な神概念の前提のもとで」、換言すればそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の連続性に連帯して、「神の知解が(≪終末論的限界に下での途上性におけるそれとして、絶えず≫)繰り返し問いに付されなければならない考えることそのものが、神の名のしるしのもとにおかれ、それと共に、神の必然的な知解へと呼び出される」。「ソレヨリ偉大ナモノハ考エラレ得ナイモノ」は、「まさに神の非存在あるいは完全性の、(すべての存在的な神概念の背後にひそんでいる)考えられ得ることを排除するのに……適している」、「創造者から被造物に対して発せられる、アナタガタハ神ノヨウデアッテハナラナイという禁止命令が含みをもっている徹底さと重みをもって排除するのに適している」。そして、それは、「まさにそのようにしてこそ、神の存在と完全性の知解あるいは証明を基礎づけるのに適している」。
『教会教義学 神の言葉』では、次のように言われている――第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の宣教(そのすべての成員)の思惟と語りが、またその一つの補助的機能としての神学の思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」のであるから、教会の宣教(そのすべての成員)は、またその一つの補助的機能としての神学は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの(≪祈りの≫)人間的態度に対し神が応じて下さる(≪祈りの聞き届け≫)ということに基づいて成立している」のである、と。したがって、人が、神としての神の信仰の認識としての神認識を、啓示認識・啓示信仰を尋ね求める時には、人は、三位一体の唯一の啓示の類比として神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、他律的服従と自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストにあっての神を尋ね求めることによって、キリスト教に固有な類の深化と豊富化を目指し、その類の時間累積をなしていく以外にはないのである。したがってまた、「人間学の後追い知識」としてのモルトマンのようなヘーゲルの歴史哲学との混合神学、ブルトマンのような前期ハイデッガーの哲学原理との混合神学等々は、「神についての教会の語り(≪その一つの補助的機能としての神学の語り≫)の堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった」し・役立ちはしないのである。
このような訳で、アンセルムスが「ソレヨリ偉大ナモノハ考エラレ得ナイモノ」――「この神の名を選ぶに当たって熟考した動機」を、ガウニロは、「完全に誤解した」のである。「そうでなければ、(≪ガウニロは、「無思慮に曲解しつつ」誤解して定式化した≫)スベテノモノヨリ偉大ナモノを、筆にとって書くことはなかったであろう」からである。「アンセルムスが欲したことの理解は、人が、……ガウニロ的な混同の過ちを犯さないということによってもってかかっている」。しかし、「Fr・オーフェルベックのようなあれほど賢明で自主独立的な歴史家」も、「われわれの証明の根本概念」についての、「世間で行われている普通の間違った説明の水準を、少しも超え出る術を知らなかった……」。