本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

カール・バルトの三位一体論 子なる神(その1 和解主としての神)

カール・バルト『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示(上) 三位一体論』吉永正義訳(新教出版社)等々に基づく

 

神学における思想としてのカール・バルトの三位一体論 子なる神 195−223頁(その1 和解主としての神)
 バルトは、次のように定式化しています――「ひとりの神は、聖書によれば和解主として、換言すれば、われわれの、彼に対する敵意のまっただ中において主として、ご自身を啓示し給う。彼はかかるものとしてわれわれのところに来られた神の子あるいはわれわれに対して語られた神の言葉である。何故ならば彼は、前もってご自身の中において、、父なる神の子として、あるいは言葉として、そのような方であるから」。

 

 この定式を『神の人間性』における、「神の神性において、また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」という語り方に即して言えば、イエス・キリストは、神の単一性・神性・永遠性を「存在の本質」とする、まことの神でありまことの人間である神の子・神の言葉・神の「存在の仕方」である。ここで、ヨハネ1・14四の「言葉は肉となった」という新約聖書の中心的命題、そのヨハネの「言葉」は、「神であり給う言葉が人間となった」ということであって、「決して神性それ自体が人間となったのではない」。したがって、そのヨハネの「言葉」は、三位一体における神の単一性・神性・永遠性をその「存在の本質」とする「神的な創造主、和解主、救済主なる言葉、神の永遠のみ子」・「まことの神にしてまことの人間である」イエス・キリスト(「存在の仕方」・神の子・神の言葉)のことである。このキリスト教に固有な啓示認識・啓示信仰の前提は、前回のバルトの言葉に即して言えば、次の事柄にある。
1)新約聖書は、「主という賓辞の中で表現されているような、まことの、実在の神性」を、「先ず第一に、イエスとは別の方に帰している」(168・169頁)。この観点から、「子としてのイエスが主であることは明らかに、ただ、なる神が主であることを現わす現われ」、顕現、「行使、適用である。(中略)この父なる神を代表すること、それがイエスに帰せられた神性の本質である」(171頁)。
2)「子と霊は父とともにひとつの本質である。神的本質のこの単一性の中で子は父から、霊は父と子からであり、他方、父は自分自身以外の何ものからでもない」(186頁)である。
また、今回の「子なる神」においては、次のように述べられている――「聖書の証言に従えば」、「父の啓示」は、「終始、決して」「仲介者」のイエス・キリストから「抽象され〔切り離され〕ていない、ということを見た」。したがって、「われわれは父としての神の概念」を、「仲介者」のイエス・キリストから、決して、切り離してはならないということが啓示認識の前提である。キリスト教に固有な神は、「父であることを永遠の父であることとして理解しなければならない」(196頁)。すなわち、「神の内三位一体的父」は、子として「自分を自分から区別」するし自己啓示する神として自分自身が根源である、として理解しなければならない。聖書的証言の本来的テーマは、「三位一体の第二」の「位格」・「存在の仕方」(性質・行為・働き)である「子なる神、キリストの神性」を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル」聖霊を問う問いとが包括されている点にあった。神は、イエス・キリストにおいて、インマヌエル――「神われらと共にいます」という「存在の仕方」で、顕現・自己啓示した。このことは、単一性・神性・永遠性を「存在の本質」とする「自己を覆い隠す」・秘義性・隠蔽性・「聖性」としての父なる神が、子として「自分を自分から区別」したことを意味する。したがって、この自己啓示は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態、イエスの名」・「存在の仕方」において、その「存在の本質」である単一性・神性・永遠性の啓示認識と啓示信仰を要求する啓示である。このように自己啓示する神は、啓示の弁証法において「まさにアラワサレタ神こそが隠サレタ神」である。したがって、「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない。すなわち、「和解ないし啓示」は、神の「存在の仕方」の差異性における「第二の存在の仕方」であるイエス・キリストの「新しい神の業」である。それは、「神的な愛の力」・「和解の力」である。イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、神の「第二の存在の仕方」において「第二の神的行為を遂行」したのである。この神の「存在の仕方」における従属的な関係――すなわち、この神の「存在の仕方」の差異性における「創造と和解のこの順序」・「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者≫)と言葉(≪啓示≫)の順序」・「和解主としてのイエス・キリスト」は、創造主・父に先行することはできないという順序は、「存在の本質」における差異性を意味しているのではなく、「存在の仕方」におけるの差異性を意味している。この啓示認識・啓示信仰は、一切の近代主義・一切の自然神学的な信仰・神学・教会の宣教・キリスト教に抗することができる神学における思想的武器である。したがって、例えば、アジア的日本的な自然原理に依拠した滝沢克己における啓示認識の根本的・究極的な誤解と誤謬は、「神の神性において、」におけるイエス・キリスト、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストについての無理解、あるいはそのキリストの神性性の揚棄・廃棄にある。したがってまた、時流や時勢の受けだけを狙った佐藤優の、「神学がなくても信仰は成立しますが、高等教育を受け、『天にいる神』をもはや素朴に信じることができなくなったわれわれには神学が必須です。われわれは『天にいる神』をほんとうに信じていませんが、ほんとに信じていないことを口にしてはいけないというのが、キリスト教信仰の第一の前提です」、というキリスト教に固有な不可避な啓示の「概念の実在」(類・歴史性)に対する認識も・自覚も・状況論も持たない、また思想性もない、嘘ぶった語り方は、論外である。このような状況論なき・思想なき哲学的神学や駄弁は、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところ」信仰・神学・教会の宣教・キリスト教として、決して、不信とむなしさと不安の蔓延した現在から未来に生きることはできないであろう。
 上記の事柄と『福音と律法』論に依拠すれば、神学における思想としての「三位一体論 子なる神」の事柄を、根本的に把握することができる。聖書の証言・証しにおいて、「子が父と一つであることが、したがって、イエス・キリストの神性が、決定的な、本来的な、本質的な、一つである、および神性であるとして理解されるべきであるなら、われわれは……三位一体教義に従わなければならないであろうことが、はじめから期待されているのである」(196頁)。したがって、「イエスは主である」――この主は、「ヘレニズム的エジプト」の「神的な世界支配者の称号」のことではない、「ローマ皇帝崇拝における皇帝の称号」等のことではない。神と人間との無限の質的差異の下で語られている、「主」、である。すなわち、その啓示認識・信仰告白は、「原始教会と、パレスチナおよびヘレニズム世界の会堂との密接な関連性を考慮に入れ」た「旧約聖書の神の名、ヤハウェ」・「旧約聖書において、……人間に啓示されたヤハウェ」の「翻訳」としての「主」である。その名は、「その中で、彼らの言葉と業全体が演じられるべき(コロサイ3・17)場所……領域である……。それは正確に、旧約聖書においてヤハウェの名がもっているのと同じ包括的で、決定的な意味である」。「神は、すべての名にまさる名を彼に賜わった(ピリピ3・17)」(197頁)。イエス・キリストにおける神の「存在の仕方」(働き)は、「言葉」と「行為」の相互規定的な総体的構造である「行為言語」としてある。したがって、ブルトマンの『イエス』の「限界」は、「イエス」を「イエスの言葉から」「一面的に組み立てている」点に、すなわち「行為言語」を「無視してしまっている」点にある(198頁)。バルトのこの立場からは、次の事柄が明らかとなる――すなわち、イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを意味している。したがって私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として承認し確認することが必要なことを意味している。すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを承認し確認することが必要なことを意味している。したがってまた、そのイエス・キリストにおける啓示の場所は、一切の天然自然、一切の人間的自然、その個と類・歴史性と現存性の総体的構造を生きる私たち人間の、すべてを見渡せ・「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所である。それだけでなく、その場所は、神的側面と人間的側面の構造としてあるイエス・キリストを頭とする教会の内部において、福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」・「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」・「イエス・キリストはたかだか≪暗号≫にすぎ」ない「神秘主義へと」変容させられていくことが、また自然神学的な神学・教会の宣教・キリスト教における人間の神化・神の人間化・様々な偶像化が見渡せる場所でもある。このバルトの神学の原理・認識方法と概念構成は、それ自体において、自然史の一部である人類史の自然史過程における自然史的必然に属する事柄である科学や技術の進歩・発達およびその知識の増大、ヒッグス粒子やiPS細胞やSTAP細胞の発見や研究成果等を、人間的世俗的真理として正直に受け取ることができるのである。このバルトの在り方は、部分を全体とする、一面的形而上学的な近代以降の宗教的形態である科学<主義>とは全く違う位相にあるものである。もちろん、その在り方は、多元<主義>とも折衷<主義>とも対話路線<主義>とも全く違う位相にあるものである。すなわち、その在り方は、その神学の原理・その神学の認識方法と概念構成それ自体において、「対立する双方」(吉本)・両者を包括し止揚して架橋できる位相にあるものなのである。また例えば、エキュメニカル運動についても、バルトの場合、その運動が必要だなどと意味あり気に声高に叫ばないし、叫ばなくてもいいのである。なぜならば、バルトの場合、その神学の原理自体が・その神学における思想自体が・その教会共同性の構成自体が、その最初から、党派的・学派的・宗派的・教派的では全くないからである。しかし、このことが、「何らかの抽象をもって始められ何らかの空論に終わるところの神学」者やそれに類する牧師や著述家たちには理解できないのである。
 新約聖書においては、イエスに、「メシヤ・キリストの称号、人の子の称号、神の子の称号」が帰せられている。しかし、このイエスに帰せられた「神の子」の称号は、「古代オリエント」における「国王の……名称」とは異なっている。すなわち、それは、「存在するすべてのはじめに、神と共に、神に属しつつ、したがって、みずから神であり、本性からして神であり(ヨハネ1・1)、それを通して」、「神が存在するすべてのものを存在と〔現〕存在の中へと呼び給う(ヨハネ1・3)、ところの言葉と同一である」(199頁)。このイエスは、「彼を見る者は、父を見るのである(ヨハネ14・9)」・「彼は……初めであり、終わりである(黙22・13、なお1・8、17を比較せよ)」・彼は、「今いまし、昔いまし、やあがてきたるべき者、全能者であり、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがない方(ヘブル13・8)である」・「神は彼によってもろもろの世界を造られた(ヘブル1・2)」・「彼はすべてのものの主(使徒行伝10・36)」・「すべてのものはわたしの父によってわたしにゆだねられた……!(マタイ11・27)」。したがって、このイエス・キリストの啓示の場所は、一切の天然自然、一切の人間的自然、全人間・全世界・全人類、のその生誕から死までをすべてを見渡せる場所である。「万物は言葉によって成った。成ったもので、言葉によらずに成ったものは何一つなかった(ヨハネ1・3)」。先の「存在するすべてのものを存在と〔現〕存在の中へ」とは、次のような事柄として理解するといいと考える――人間は自然の一部である。この場所で、人間諸個人は、身体と精神を介した、普遍的で実践的な、全自然すなわち自己身体・他者身体・環界としての自然(第一次的に天然自然・人間的自然)との相互規定的な対象的活動を行う。ここに、肉体的身体的および精神的意識的な、人間の類的な活動や生活がある。これは、人間の歴史的行為である。また、人間諸個人の全自然の非有機的身体化によって生み出された人間的自然は、それが感覚的客体としては孤立していても、現実的な生活過程においては媒介的に他の人間と関係づけられているから、それは協働関係としての社会を構成する。そして、その時間的累積は、人間の類として自然史の一部を構成する。その自然史の一部としての人類史の自然史的過程である経済社会構成体における産業構造の高度化・科学や技術の発達やその知識の増大・生活的利便性の向上は、自然史的必然に属しているから、さまざまな規制等によって遅延させることはできても、停滞させたり逆行させたりすることはできない位相にある。また、そこにおいて様々な観念諸形態が生み出されるのであるが、その観念諸形態は、それ自体の展開過程と増殖過程を持ち時間累積されていく。「歴史とは個々の世代(≪人間諸個人・個体的自己の成果の世代的総和≫)の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力(≪言語、対・夫婦・家族≫)を利用(≪媒介・反復≫)する」(『ドイツ・イデオロギー』)。このように、人間は、身体と精神、生活的日常と観念的日常、個――対――共同性、個と類・歴史性と現存性、の不可避な存在様式を生きる。
 「イエスは主である」。「あなたこそ、生ける神の子キリストです(マタイ16・16)」。このことは、イエス・キリストは「神性」を本質とする(201頁)、ということである。このキリストの神性は、一切の近代主義・一切の自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリストの教に抗することができる神学における思想的武器である。例示してみよう――先ず、近代主義的プロテスタント主義神学群が、「キリストの永遠のまことの神性の告白」を信用しない場合、それは、その神学の認識方法と概念構成が、人間論的人間学的身体性に依拠した「視覚的錯覚」・人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍・その存在の類比に依拠しているからである。その場合、八木誠一のような「イエスは別段自分を超人間的存在として自覚していたわけではなく、『人の子』語句でもって人間存在の根底を語り続けた」「ただの人であり、ただの人として自らを自覚し、ただの人の真実のあり方を告げた」(『イエス』清水書院)という語り方になる。すなわち、八木は、不可避なキリスト教に固有なイエス・キリストの啓示の「概念の実在」(類・歴史性)に信頼し固執せず、恣意的にイエス・キリストの神性や・さらには<まことの神にしてまことの子>性を揚棄し廃棄してしまったのである。この場合、それは、その最初から対象化された八木の自己意識の意味的世界として、宗教としての八木教の位相にあるものなのである。因みに、バルトの場合は、こうである――「人々は人の子(あるいはわたし)は誰であると言っているか」(マタイ16・13)と聞かれ、ペテロ(教会の信仰告白)は「あなたは生ける神の子キリストです」と答えた。「メシヤの名」に対する「『人の子』というイエスの自己称号」は、「(覆いをとるのではなくて)覆い隠す働きをする要素として、理解する方がよい」。「逆に使徒行伝10・36でケリグマが直ちに、すべての者の主なるイエス・キリストという主張で始められている時、それはメシヤの秘義を解き明かしつつ述べている」というように理解した方がいい。受肉・「神が人間となる」・「僕の姿」・「自分を空しくすること、受難、卑下」は、「神性の放棄」や神性の「減少」を意味するのではなく、「神的姿の隠蔽」・「覆い隠し」を意味している(『教会教義学 神の言葉』)。
 神性否定のキリスト論の「エビオン主義」は、その「あとにつづいて歴史的に再構成され」続けているのである。ここで、神性否定のキリスト論におけるイエスは、「個人主義的なものとしての」一人の「『偉大な人間』」の「神化」・「神話化」されたナザレのイエスである、「下からの半神」としてのナザレのイエスである、すなわち「未だかつて聞いたことのない純真さ、自由さ、従順、愛、死いたるまでの真実の生活態度の開始者、宣教者」のナザレのイエスのことである、またそうした「キリスト教宗教の創始者」・「キリスト教会の創設者」としてのナザレのイエスのことである。ここで、イエスは、「超歴史の中へと突入していく歴史の本来的な山頂」である。すなわち、イエスは、「人間的な生の最高の現象である」。「エビオン主義的な思惟の宿命的な出発点は、人格性」である。
 一方で、神性否定のキリスト論の「仮現論」は、その「あとにつづいて歴史的に再構成され」続けているのである。ここで、神性否定のキリスト論におけるイエスは、「集団主義的」なものとして「よく知られた先在的ロゴス……世界救済者として」の「最深の本質」・「最高の理想」・「ひとつの理念、一般真理」の「人格化」されたナザレのイエスのことである、「ひとつの理念、一般真理」等々のために要請されたナザレのイエスのことである、「地上の現実存在の具体的な人間性」・「究極的には……その人間性の歴史的実在性」を揚棄された「神的実体の一つの類似性」・「象徴」として「信じられた」ナザレのイエスのことである。ここで、イエスは、上から「歴史の中へと……下ってくるところの超歴史」の寄生根である。すなわち、イエスは「神的現臨」の「最も完全な象徴」である。
 このように、両者とも、神と人間とのあるいは人間と神との混淆論である。神と人間とのあるいは人間と神とのスフィンクスである。なぜそうなってしまうかと言えば、その理由は、両者とも、その神学の原理・その神学の認識方法と概念構成それ自体に、
1)教会の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠としての神の啓示は、旧約聖書におけるヤハウェ・新約聖書における神(テオス)あるいは主(キュリオス)自身の自己啓示のことであるということ、また、
2)神は「存在」上・「認識」上、自由・主権において、また神性・単一性・永遠性において、三位一体の神として自己啓示することということ、そしてまた、
3)神の言葉は、三位一体論の唯一の比論としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」、すなわち人間に向かって語られる神の自己啓示であるイエス・キリストの啓示の実在そのものと、「聖書」の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としてのキリスト教に固有な啓示の「概念の実在」(類と歴史性)においてあるということ、さらに、
4)神の自己啓示 =イエス ・キリストの啓示の実在=啓示の真理 、永遠 =超歴史=啓示の時間 =救済史は 、常に 、人間が人間的に所有する人間の啓示認識 ・概念・教義 、人間の時間 ・歴史の 、彼岸 ・外にあるということ、
5)人間は、常に、神と人間との無限の質的差異や神の不把握性や終末論的限界の下に置かれているということ、
6)聖書でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない差異性の中」で三つの「存在の仕方」=「存在の様態」(性質・行為・働き)において「三度別様」に父・子・聖霊なる神であって、その「存在」は「失われない」神性・単一性・永遠性を「本質」とする「一神」・「一人の同一なる神」である。したがって、「三神」・「三の対象」・「三つの神的我」ではなく、父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」の、神性・単一性・永遠性を「存在の本質」とする「一人の同一なる神」、すなわち「三位一体」の神である。したがってまた、神性・単一性・永遠性を「存在の本質」とする神の完全さ・自由さは、父・子・聖霊の三つの「存在の仕方」の完全さ・自由さであるということ、
これらの前提を持たない点にある、持とうとしない点にある。キリストの神性についての「新約聖書の命題は、一人の人間の神化とも、一つの神の理念あるいは神的理念の人格化とも全く関係がないという前提のもとでだけ、理解されることができる」――イエスは「彼が自分の父と呼んでいる神から」、「主であること〔主権〕をもつ故に、……彼の父とともに、父の子として、『永遠の父の独り子』として、主である」。「それ故、イエスは主である」。「この新約聖書の命題を、古代教会と一致しつつ理解しなければならない」。
 キリストの神性は、次のように理解すべきである――「キリストは彼の父を啓示する」、「この彼の父は神である」、したがって、父の「意志」と「業」の啓示者・「父を啓示する者は、神を啓示する」。したがってまた、イエスを「彼の父の啓示として告白する者」は、イエスを、「彼の父と神性において本質的に等しいものとして告白する」・「父なる神のまことの子として告白する」。このことは、「われわれにわれわれの主を知らせるばかりでなく、……同時に、イエスご自身われわれの主であり、したがって」、イエスは「父の子として……自分自身も啓示する」。このイエス・キリストの出来事は、創造者なる神の行為とは別である。すなわち、それは、「神によって始められた神とわれわれとの間の交わりの実在〔性〕を意味する」。神の「意志と働き」の「開示」を意味する。「子あるいは言葉の業」は、「人間の闇の中で」「神の現臨とご自分を知らせる」啓示の出来事である。「和解という言葉」は、「われわれによって破壊され……無とされた神と人間の交わりの回復」としての「啓示」と「同一の事柄を意味する別の言葉である」。この「啓示の中」では「神の敵はすでに神の友人である限り、啓示そのものが和解である」。したがって、「使徒的奉仕は和解の務めである。それは、神の和解を受けなさい(Uコリント5・20)という要請の中で執行される」。しかし、「啓示あるいは和解」に基礎づけられた「救贖」・「完成」は、新約聖書においては「啓示あるいは和解から見てなお未だ来ていない、未来の、完成させる神の行為」、すなわち神の第三の「存在の仕方」である聖霊の業・行為に属している。神は、イエス・キリストにおいて、「われわれを……力として物を支配するような仕方ではなく、人格が人格を扱うような仕方で扱う」・「永遠の神は汝の兄弟となり給う」・ここでは、「罪人ハ神ノ言葉ニ対シテ能力ガナイ〔把握デキナイ〕という命題が、取り去られている」。「新約聖書のテキストの中」においては、「イエスの中でまさしく神が見い出される」、「また神はまさにイエスの中で見出される」。イエス・キリストは啓示者「父の啓示」であり、啓示者「父の啓示」はイエス・キリストである。したがって、そのことを理解の前提としない場合、すなわち不可避なキリスト教に固有なイエス・キリストの啓示の「概念の実在」(類と歴史性)に連帯しない場合、人間は、「歴史と超歴史、超歴史と歴史、の弁証法」において、「一つの歴史的形姿から一つの天的本質」を、「一つの天的本質から一つの歴史的形姿」を生み出すことになる、フォイエルバッハの宗教批判の対象そのものでありハイデッガーの揶揄(批判)したの「存在者レベルでの神」・人間の自由な自己意識の恣意性に基づいた「思惟の対象としてのイエス」を語るだけになる。「仮現論的な思惟の宿命的な出発点は、理念」であ。「われわれが神の敵」であること・真実の罪人であることの認識は、「〔存在論的〕存在および〔具体的〕存在」に基づいては得られない。すなわち、イエス・キリストにおいて神自らが「われわれとの間の交わり」を「すでに始め給うたことを通して初めて知るのである」。言い換えれば、「神に聞くこと」をしない「神に敵対する」人間が、「にもかかわらず聞く」という場合、それは、「恵みのにもかかわらずとしてだけ、われわれの側に何らの対応も何らの前もっての条件も持たない恵みのにもかかわらずとしてだけ、理解することができる」。このことは、『教会教義学 神の言葉』の別の箇所と『神の恵みの選び』に依拠して言えば、次のように言い換えることができる――イエス・キリストにおける出来事の内容は、生来人間は、神の「恵みに敵対」し、「神の恵みによって生きようとしないが故」に、「このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急」であったことを私たち人間に自己認識させる。そして私たちは、そのイエス・キリストの啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、「神の選び」を「イエス・キリストの復活」において認識し、「神の放棄」を「イエス・キリストの十字架」において認識することができる。そしてまた、その啓示認識に依拠した信仰の類比・関係の類比・啓示の類比を通して、すなわち「われわれが本当に神の啓示を認識する時、われわれは初めて」、神に対する人間的反抗、「神の敵」、「神に相対して、自分の力を誇り、まさにそのことの中でこそ罪深い堕落した人間」として自分自身を、またそのような人間の「世」を自己「認識」することができる、ということである。そして、これらの啓示認識の「可能性の主観的側面」・「神がわれわれに語ることをわれわれが聞きうるという可能性」は、神自身のその都度の自由な決断に基づく「聖霊の注ぎ」・「聖霊論の中で語られなければならない」ことである(引用はすべて、201ー214頁)。したがって、自然神学的な、すなわち先ず以て人間学的な哲学原理や認識論や世界観に基づいた人間の啓示認識、それに依拠した人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍・存在の類比を通した人間の自己認識によっては、その最初から「誤謬は必然」となる、ということができるのである。それに対して、バルトの神学の啓示認識の方法と概念構成においては、次のような語り方となる。

 

  神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ―これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ロマ3 ・22 、ガラテヤ2 ・16等「イエスの信仰」は 、明らかに主格的属格として理解されるべきものである。(『福音と律法』) 

 

 神が「創造することを欲せられ」・その創造された「起源的人間」・「世に対する神の愛」と、「神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった」「罪に落ちた人間」「罪と死がある」「われわれの世界」「人間の失われた世に対する神の愛」とは同じではない。したがって、私たちは、前者の「創造された世に向かっての神が主(≪創造主≫)であるところでは、神の第一の存在の仕方について語られなければならない」、したがってまた、後者の「神に対する人間の敵意のまっただ中で神が主(≪和解主≫)でありところでは、神の第二の存在の仕方について語られなければならない」。なぜならば、和解あるいは啓示は、創造の業・行為ではなく、またその「継続」でもなく、そしてまたその「完成」でもなく、神の新しい「存在の仕方」・業・行為であるからである(215頁)。したがって、「和解は、創造の完成として理解されるべきではない」(218頁)。シュライエルマッハーは、三位一体論を様態論的に理解し、神の「存在の本質」としての「失われない」単一性・神性・永遠性と「失われない」差異性としての神の三つの「存在の仕方」・「存在の様態」(性質・行為・働き)の総体的構造における三位一体論に対して自覚的ではなかったのである。
 さて、後者の神の第二の「存在の仕方」におけるイエス・キリストの「神の愛」・「和解の力」は、神性を本質とする、まことの神でありまことの人間であるイエス・キリストにおける出来事としてそれである。この聖書証言における「和解あるいは啓示の出来事」は、それ自体が、キリストの神性の「承認(受認)」・啓示認識・啓示信仰を要求するそれである(216頁)。「子と霊を被造物だと考える者、したがって、被造物に服従する者、その者は、自分御希望を神におかず、キリスト者としてよりよい状態に移されていると考える点において自分をあざむいている」。ルターも「ワレワレガ、人間ハキリストニヨッテ義トサレ、キリストハ罪、死、永遠ノ呪イノ征服者デアリ給ウト教エル時、ワレワレハ、ソノコトデモッテ同時ニ、キリストハ本性ニオイテ神デアリ給ウトイウコトヲ証シシテイル」と述べている(217頁)。
 エビオン主義的・仮現論的なキリスト論に対する、イエス・キリストの啓示の「概念の実在」(類と歴史性)に連帯した教会の批判は、新約聖書の「使徒たちのイエス・キリストの思惟」における「キリストの神性の認識」・信仰でもって、「始ま」りそして「終る」(219頁)。神の「存在の本質」である「失われない」単一性・神性・永遠性」において、「失われない」神の三つの「存在の仕方」、すなわちイエス・キリストが「神の子」であるということ、また「創造(彼が父を啓示する彼の啓示の内容≪としての創造≫)と和解(彼が自分自身を啓示する彼の啓示の内容≪としての和解≫)」も認識できる。したがって、次のように言うことができる――私たちは、「和解主として十字架および復活を通してわれわれに働きかけてくる方の中にのみ、われわれは創造主を認識すること」ができる。と同時に、「われわれの敵意にもかかわらずわれわれの〔具体的」存在の主であり続ける創造主の中にのみ、われわれは和解主を認識できる」(220頁)。「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない。この意味は、「和解ないし啓示」は、神の「存在の仕方」の差異性における「第二の存在の仕方」であるイエス・キリストの「新しい神の業」である、ということである。それは、「神的な愛の力」・「和解の力」である。イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、神の「第二の存在の仕方」において「第二の神的行為を遂行」したのである。この神の「存在の仕方」の差異性における「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(《啓示者》)と言葉(《啓示》)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、創造主・父に先行することはできない。しかし、父・子は共に神自身のその「存在」において神性・単一性・永遠性を本質としているから、この従属的な関係は、「存在の本質」の差異性を意味しているのではなく、「存在の仕方」の差異性を意味している。「創造が無からの創造であるように、和解は死人の甦り」である。「われわれは創造主なる神に生命を負うているように、和解主なる神に永遠の生命を負うている」。この神自身においてのみ「実在であり真理」である「自由・主権」において、創造は「契約の外的根拠」として、イエス・キリストが始原であり中心であり終極である「恵みの契約の歴史のための場所設定」である。また恵みの契約の歴史は、「創造の内的根拠」として、創造の目標であるその契約の歴史の始原であり、中心であり、終極である「イエス・キリストご自身」である。
「この世におけるこの時間的な過ぎ去りゆく生命をわれわれは、われわれキリスト教信仰の第一条件の中で告白するように、そこにおいては、天と地の全能の創造者であるところの神を通して、もつ。しかしながら、永遠の、過ぎ去ることのない生命をわれわれは、われわれのキリスト教信仰の第二の条件の中で告白するように、神の右に座し給うたところのイエス・キリストの苦しみと甦りを通して、もつのである」(220−223頁)。このことと同じ事柄について、『福音と律法』においては、次のように述べられている。

 

  「私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば 、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく 、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである )」(ガラテヤ2・19以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである。
  人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは 、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である。(『福音と律法』)

 

 

 

 

 

神学における思想としてのカール・バルトの三位一体論 子なる神 224−288頁(その2 永遠なる子)