カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

7.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」

7.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
再推敲・再整理版です。

 

(3)「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異(『ローマ書』)の下にある「その対象」(キリストにあっての神、「啓示ないし和解の実在」そのもの)にとって、われわれが、人間論的な自然的人間であれ教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、神とは全く異なったその被造物としてわれわれ人間の側から為すわれわれ人間の言語を介した「すべての描写」(「神学的な言説」)は、それが「最高の、最上の考えられたあるいは語られた描写」であっても、「不適当なものである」。何故ならば、人間論的な自然的な人間であれ、教会論的なキリスト教的な人間であれ、誰であれ、「神に敵対し神に服従しない」われわれ人間は、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいないし(『教会教義学 神の言葉』)、「『自分の理性や力(≪知力、感情力、意志力、自然を内面の原理とした修行等々≫)によっては』――全く信じることができない」(『福音主義神学入門』)からである。しかし、「われわれに対して語られたキリストの言葉は、それとして、その対象にとって不適切ではない」。何故ならばイエス・キリストは、ご自身の中での神としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち起源的な第一の存在の仕方であり啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間であるからである。「厳格な意味での神概念は、ただ神ご自身しか持ち給わない」――「……スベテノモノ(≪神とは異なる全被造物、宇宙を含めた全自然≫)ハ言葉ヲ通シテ創ラレタガ」、「コノ言葉ノウチニ」は、「ソレラノ形似ハ存在セズ」、「ムシロ真ノ純一ナ本質ガ存在」する、イエス・キリストにおける神の自己啓示・自己顕現、神の自己認識・自己理解・自己規定における「真ノ純一ナ本質ガ存在」する。

 

 『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、釈義神学による聖書的教えの認識や概念も、キリスト教的なキリストにあっての神についての「語りの規準」であるイエス・キリスト自身(起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示ないし和解の実在」そのもの)と同一ではない、それ故に教会の一つの機能としての教義学は、第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)――「使徒や預言者たちが語ったことを問う」のではない、何故ならば「使徒や預言者たちが語ったこと」は、その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」ではあっても、それとして「啓示ないし和解の実在」そのものではないからである、したがってもしも彼らの語りをそれとして問うことをしたならば、その場合それは、人間によって人間的言語を介して対象化された「存在者レベルでの神」、その神の啓示を問うことになってしまうからである、したがってまた教会の宣教、教義学は、「『使徒と預言者たちに基づいて』、換言すれば第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、「何をわれわれ自身が語るべきかを問」わなければならない、その時だけわれわれの「キリスト教的語りは、今日何を語ることがゆるされ、語るべきかを問うよう自分が要請され、命じられているかを知ることができる」、このように教義学、神についての教会の語りは、「信仰のない人間の、信仰にさからう理性を用いての語り」であるが、教義学、神についての教会の語りが、「神についての語りをはかる規準(≪・原理・法廷・審判者・支配者≫)を、(≪起源的な第一の形態の神の言葉である≫)イエス・キリストの中で受けとる限り(≪具体的にはその第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者としてそれに信頼し固執し連帯する限り、神についての教会の語り、≫)教義学は真理の認識として可能となる」のである、この時だけ教義学、神についての教会の語りは、「人間的な問いの中で、人間的な問いと共に、人間的な問いのもとで、……神的な答えについて語る」ことができる。前述したような仕方で、純粋なキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(純粋なキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法――「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が<教会自身>と<世>に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、すなわち神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」としてのイエス・キリストのみを信ぜよ、そしてすべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるためにキリストの福音を告白し・証しし・宣べ伝えよという神の命令・要請・要求)を志向し目指すということである、換言すればイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すということである。

 

 先に述べたように、「厳格な意味での神概念」は、「ただ神ご自身しか持ち給わない」。したがって、われわれは、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした「神とは同一でない諸対象の概念を持っているだけである」。したがってまた、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として「最も重要な表示も、神に対して、ただ相対的にふさわしいだけである」――「主ヨ、私ハアナタノ高ミヲキワメルコトヲ試ミマセン。私ノ理解ハ決シテソレト比較出来ナイカラデス」。また、神の自己認識・自己理解・自己規定と神とは全く異なるわれわれ人間の自己認識・自己理解・自己規定とが全く違うように、「神は、われわれが神について語ることができるすべてのことと、ただ単に全く違ってい給うだけではない」、すなわち「ただ神だけが、まことに、本来的にいまし、独一無比で、ただ彼にのみ固有で、またただ彼にだけ知られている在り方の中にいます」。したがって、われわれが人間的に所有する信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事は、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事に自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいてのみ初めて、終末論的限界の下で与えられると言うことができるのである。「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」。したがってまた、そのことの中で、われわれは、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、キリストにあっての神を、ご自身の中での神としての「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神として、それからまたわれわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動)、すなわちイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造主、子としてのイエス・キリスト自身――「啓示の実在」そのもの・語り手の言葉・和解主、「父なる神と子なる神の愛の霊」としての聖霊――啓示されてあること・<客観的>に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済主なる神の存在としての全き自由の神の全き自由の愛の行為の出来事全体として認識(信仰)する。

 

 このような訳であるから、「われわれにとって知られている在り方のうちのどれも、最後的に、また本来的に、彼の在り方でないことが確かである限り、神は、すべての三段論法を打ち砕き給う」――「ソコデ、最高ノ本性ガ時ニ他ノモノト共通ノ名デ呼バレルコトガアルトシテモ、ソノ意味ハ異ナルモノト理解スベキコトニ全ク疑イハナイ」、「コノ実体ガ……諸実体ノドノヨウナ一般的取リ扱イノウチニモ含マレナイコトハ確カデアル」、「最高ノ本質ハ他ノスベテノ本性ヲ超エテソノ外(≪・彼岸、無限の質的差異の下≫)ニアルカラ、ソレニツイテ他ノ諸本性ニモ共通ナ言葉ヲモッテ何カヲ時ニ語ルコトガアッテモ、ソノ意味ハ全ク共通デナイ。……タトエドノヨウナ名辞ニヨッテ人ガこの本性ニツイテ語リ得ルカノヨウニ見エテモ(たとえば知恵とか本質という名辞であっても)、コレラノ名辞は、コノ本性ノ特性ヲ私ニ示ス」ことはできない、全き自由の神的愛の完全性における「神の恵みと神聖性」、「神のあわれみと義」、「神の忍耐と知恵」、また神の自由な様々な完全性における「神の単一性と遍在」、「神の不変性と全能」、「神の永遠性と栄光」という神の本質全体の区別を包括した単一性(「単一性と区別」)を示すことはできない。しかし、「ちょうど神でないすべてのものが、神なしには無であるであろうが」、キリストにあっての「神を通しては何か」であり、あの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「段階的な強度において、最高ノ本質ノ一種ノ模倣であるように」、「本来ただ神とは決して同一ではない諸対象にとってだけ適当である言説が、アル形似あるいは像ヲ通シテ(タトエバ、アル人ノ顔ヲ鏡ノウチニ観察スル場合ノヨウニ)、口で言い表せない神に適用されて、まことの言説であることができるのである」――「モシ(≪聖霊によって更新された理性も常に決して聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された≫)理性ノ教エルトコロニ従イ、他ヲ通シテ、謎ニオケルヨウニソレニツイテ何カガ推察サレ得ルナラ、ソレモ誤リデハナイ」。

 

 「すべての『思弁的な』神学が真理(≪啓示の真理≫)を語っているわけではない」が、啓示の「真理を語るところの神学」も、理性的な知的営為として「『思弁的な』神学である」。しかし、この「『思弁的な』神学」という概念は、『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』によれば次のような水準にあるそれである――アンセルムスは、「キリストが人間となり給うこと、キリストの贖罪死の必然性を理解シヨウ、理性的に論証シヨウとした」、そのことを「人は合理主義だと批判した」。しかし、アンセルムスは、「教義学的な合理主義を明確に否定」している。すなわち、アンセルムスは、神学を「一般的真理」としてではなく、<客観的>に存在している三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉である「啓示から得られた認識」としてのイエス・キリストの「実在」から、換言すれば<客観的>に存在している第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、「啓示ないし和解」の「概念の実在」)から、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰の可能性について考えたのである。第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会のアンセルムスは、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法令・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、模倣の模倣を、像の像を、形似の形似を構成することを目指したのである(Tコリント13・8以下)。このような「条件づけから」啓示の「真理を語るところの神学」は、「身を引くことはできない」、それ故に「神学は、この条件付けを忘れることはできないし、またそれを恥じることもできない」。

 

 このような訳で、啓示の「真理を語るところの」「『思弁的な』神学」は、「方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」(『バルトとの対話』)から、それから対象的になる作業を放棄したところでの時流や時勢への即自的対応を、人間の感覚と知識を内容とする経験への即自定対応を、人間学への即自的対応を、人間学と神学との「混合神学」を目指す自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教に与しない。何故ならば、「哲学、歴史学、心理学等は、この神学的問題領域のどれにおいても、事実上、教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしなかった」し、「神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった」からである、またその時、「哲学は哲学であることをやめ、歴史学は歴史学であることをやめる」し、キリスト教哲学は、「それが哲学であったなら、それはキリスト教的ではなかった」し、「それがキリスト教的であったなら、それは哲学ではなかった」からである。そのような自然神学は、教会の宣教にとってはもちろんのこと、その一つの機能としての神学にとっても、人間学にとっても何の役にも立たなかったからである。歴史主義自体から対象的になる作業を放棄した歴史主義的神学は、「人間精神が生み出したものを問題とする限り、啓示を問おうとしないで人間精神の自己理解を第一義として、聖書の中でも神話を問う」ことをする。しかし、「啓示の証言としての聖書の理解」と、「神話の証言としての聖書の理解」は、「相互排除の関係」にある。したがって、「聖書記事を歴史物語とみなし、聖書記事の一般的な歴史性(Geschitlichkeit)を問題化すること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃しない」が、「聖書記事を神話として受けとること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃する」ことになる。したがって、バルトは、次のように述べている――「中立的な観察者」として「聖書の中に証しされている啓示の『史実的な(historisch)』確かさを問う問い」は、「聖書にとっては全く縁遠いもの」であり、「聖書の証言の対象にとって異質なもの」である。しかし、その聖書的証言に対して、それを「聞くもの、見る者、信じる者」である「非中立的な観察者」にとっては、啓示・聖書・教会の宣教の中に「同時に啓示の秘義があったし、あり続けた」。したがって、その非中立的な観察者だけが、「聖書の中の歴史について、史実的には全く何も確かめられないということ知らされた」し、「啓示の出来事にとって重要でないものだけ」、「啓示とは別の何かだけしか確認できないということを知らされた」(『教会教義学 神の言葉』)。

 

 神学における歴史主義に対する批判は、バルトだけが行っているのではなく、吉本隆明も行っている――「神話にはいろいろな解釈の仕方があります。比較神話学のように、他の周辺地域の神話との共通点や相違点をくらべていく考え方もありますし、神話なるものはすべて古代における祭式祭儀というものの物語化であるという考え方もあります。また神話のこの部分は歴史的<事実>であり、この部分はでっち上げであるというより分け方というやり方もあります。そのどの方法をとっている場合でも、この説がいいということは、いまのところ残念ながら断定できません。プロ野球で三割の打率があれば相当の打者だということになるのと同じように、神話乃至古代史の研究において、打率三割ならばまったく優秀な研究者であるとわたしはおもっています。じぶんでそれ以上の打率があるとおもっているやつはバカだとかんがえたほうがいいとおもいます」(『敗北の構造』「南島論」弓立社)、「……<奇蹟>(中略)たとえば、お前は癒された、立てといったら癩患者が立ち上がった……。これは自分流(≪文芸批評あるいは思想≫)の言葉でいえば、比喩なんです。比喩の言葉というのは、あるばあいにはストレートな真実の言葉よりもっと真実を語るということがありうるわけで、これを実在論に還元してしまうと、田川健三はそうだとおもいますが、こんなのでたらめじゃないか、こういういいかげんなことを書いてる本だという以外にないわけです。しかし言葉としての聖書というのは、信仰の書として読んでも、文学書として読んでも、あるいは思想の書として読んでも、どんな読み方をしょうと人間をのめり込ませる力があるとすれば、これは叡知じゃないとこういうことは言えないという言葉が、そのなかに散らばっているからです。たとえばイエスが、「鶏が三度なく前に私を否むだろう」と言うと、ペテロはそのとおりなっちゃったみたいなエピソードをとっても、人間の<悪>というのが徹底的にわかっていないとだめだし、心というのがわかっていないとだめだし、同時にこれはすごい言葉なんだというのがなければ、やっぱり感ずるということはないとおもうんです(『<非知>へ――<信>の構造 対話編』「吉本×末次 滝沢克己をめぐって」春秋社)。もう一人、哲学者であり思想家でもあるミシェル・フーコーは、「形而上史学的な歴史の科学」とは異なる評価の方法について、次のように述べている――「ダーウィンの進化論の主要な構成は、遺伝学によって完全なかたちで裏付けられることになりましたが、彼はその進化論において鍵となるいくつかの概念を、今日では批判され捨て去られている科学的領域から引き出しました。(≪しかし、そのことは、≫)全く重大なことではないのです」(『思考集成 IV』「ミシェル・フーコーとの対話」大西雅一郎訳、筑摩書房)。また、太宰治は、次のように述べている――「聖書を読みたくなって来た。こんな、たまらなく、いらいらしている時には、聖書に限るようである。他の本が、みな無味乾燥でひとつも頭にはいって来ない時でも、聖書の言葉だけは、胸にひびく。本当に、たいしたものだ」(『パンドラの匣』「正義と微笑」新潮社)。