4.『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示<上> 三位一体の神』(邦訳101−166頁)
4.『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示<上> 三位一体の神』(邦訳101−166頁)
再推敲・再整理版です。
この『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中> 言葉の受肉』について、さらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります。
https://karl-barth-studies3.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。
バルトは、「九節 神の三位一体性」について、次のように定式化を行っている。
(≪三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち≫)聖書に従ってご自分を啓示する神は、その相互の関連から成り立っている。三つの本来的な存在の仕方、父・子・聖霊の中で、ひとりの方であり給う(≪ご自身の中での神としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神であり給う、それ故に「三神」・「三つの対象」・「三つの神的我」ではなく「一神」・「一人の同一の神」であり給う。ここで、自己還帰する対自的であって対他的である起源的な第一の存在の仕方である父は、「自分を自分から区別するし自己啓示する神」として「自分自身が根源」であり、その区別された第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身は「父が根源」であり、愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊は「父と子が根源」である。それからまた、この神は、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」において「子の中で、創造主として、われわれの父として自己啓示する」のであるが、その存在の本質からすれば、「父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主」であり、「父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある」のである≫)。そのようにして、彼は主である。すなわち、 (≪前述したように、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方、すなわち父――啓示者・言葉の語り手・創造主、子――啓示・語り手の言葉・和解主、聖霊――啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済主なる神の存在としての全き自由の神の全き自由な愛の行為の出来事全体において、≫) 人間的なわれわれに相対して出会い給い、ご自身を解消することができない主体として結びつけ、まさにそのように、そのことの中で、彼の神として啓示されるようになるところの汝である。
三位における一体
この「三位における一体」および「一体における三位」、すなわちこの「三位一体性」についての「教え」は、すなわち第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者とした教会の<客観的>な信仰告白および教義としての三位一体論は、「信仰の決断としてのみ意味を持ちうる決断」におけるそれであり、「われわれは究極的にはただ教義自身に、……教義に向かいあって立っている聖書に、次の問を持って訴えることができるだけである」「決断」としてのそれである。言い換えれば、それは、「依然としてそして当分は安んじて、正しいとしてばかりでなく、また重要であるとみなされるべき釈義」として、教会の<客観的>な信仰告白および教義である。したがって、その三位一体論は、「神論の決定的に重要な構成要素であり、啓示の認識原理」である。したがってまた、「教会の宣教の批判と訂正」は、常に、この三位一体論に即して行わなければならないのである。したがってまた、「単に偶然的で個人的な決断を意味しない」。したがってまた、その「決断は、今日に至るまでただ単にローマ教会と東方正教会の決断であったばかりでなく、根本的にはすべての偉大な福音主義教会の決断」であったのである。その三位一体論は、教会の「宣教が聖書と結びついていることから……発生した」、すなわち第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書が教会に宣教を義務づけていることから発生した「根本的な問い」、すなわち「教会の説教にとっても、(また)教会の神学にとっても、第一級の生死にかかわる問い」に対して、「教会は三位一体論で答えた、その答え」としてのそれである。自己「啓示する方は誰であるか」、自己「啓示の主体」は誰であるかの問いに対して、教会の三位一体論は、キリストにあっての「神は」、「自己を啓示する方である、と答える」。あの「定式」において述べられている方である。バルトは、次のようにも述べている――教会的な三位一体論は、キリストにあっての「われわれの神」が、すなわちイエス・キリストにおける神の自己「啓示の中で自分自身をわれわれのものとならしめたもの」が、「まことに神である」、と。また「誰が神であるか」の問いに対しては、キリストにあっての「われわれの神が神である」と答える、と。このような訳で、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、ご自身の中での神としての内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち起源的な第一の存在の仕方であり啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」――すなわち「まさにアラワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストの名」において、その存在の本質の認識と信仰を要求する啓示なのである。したがって、「全く不信仰で罪に穢れたわれわれ人間」は、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての信仰の出来事に基づいてのみ終末論的限界の下で初めて、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を人間的に所有することができるのである。
さて、内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方において「われわれに出会う」「神の存在、語り、行動」(父、子、聖霊なる神の存在としての全き自由の神の全き自由の愛の行為の出来事)は、神の自己隠蔽(隠蔽性・聖性における父)、神の自己顕現(顕現性・あわれみにおける子)、神の自己伝達(伝達・愛における聖霊――この聖霊は、「父なる神と子なる神の愛の霊」である)という三つの存在の仕方を持っている、そして「神の特徴的な性質は、聖、あわれみ、愛」、「神の特徴的な表示は、新約聖書において、聖金曜日、復活日、聖霊降臨日」、「創造主、和解主、救済主」、「それに応じて神の名前は父、子、聖霊」という三つの存在の仕方にある。したがって、「子としてそして霊として……自己を啓示する方」は、「汝であり続ける(中略)主であり続ける」。したがって、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者とする教会は、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする神を揚棄・捨象することになる「上から下りてきた半神」論、また「下から上がった半神」論、また神性否定のキリスト論を展開した「アリウスとすべての従属説」を拒絶する、それからまた「失われない差異性」における三つの存在の仕方を揚棄・捨象することになるサベリウスとすべての様態論を拒絶する。ここでのバルトの論述の主旨は、「教会の三位一体論においてこそ、……キリスト教的一神論が問題であったし、今も問題である」という点にある。第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者とした教会の<客観的>な信仰告白および教義である三位一体論の根拠としての神の啓示は、「聖書的な啓示の中」にある「三位一体論の根」、すなわち旧約聖書におけるヤハウェ・新約聖書における神(テオス)あるいは主(キュリオス)自身の自己啓示のことである。
前述した三位一体論は、「この名を説明する確認以外の何物でもない」。「父に向かって祈るところの者、子を信じる者、聖霊によってうながされる者、その者に対して、ひとりの主(≪ご自身の中での神としての「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神≫)が(≪われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方において≫)出会い、その者とひとりの主がご自身を結びつけ給う」ということを指し示している。このように、聖書また第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者とする教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する。したがって、このイエス・キリストにおける神の自己啓示が、教会の宣教の<客観的>な信仰告白および教義である三位一体論の根拠である。したがって、「三位一体的な洗礼の定式は、もしそれを三つの神的名」あるいは「三つの対象を持つ信仰」・「三神」「においてなされる洗礼の定式として理解するなら、これ以上ないほど全くひどく誤解したことになる」。聖書における「神が主であること」は、「神の本質」、「神性」、「神的本質」を意味しており、それ故にこの時、主なる神は、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする神的存在である、ということである。この内在的な三位一体の神の存在の本質としての「失われない単一性」・神性・永遠性は、「『ペルソナ』(≪われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における存在の仕方≫)が三つであることの中に」おいてのみ成立しているそれである。すなわち、「神は三度の繰り返しの中でひとりの神であるということ、しかもこの繰り返し(≪永遠性≫)そのものは神の神性に基礎づけられている」。バルトが、『神の人間性』において、「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」と述べたうえで、「神の神性において、また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」と述べた時、イエス・キリストは、「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質とする内在的な三位一体の神のその「神の神性において」、その神性を存在の本質とする「まことの神」であり、そのわれわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方において「まことの人間」(ナザレのイエスという人間の歴史的形態における罪なき穢れ無き「全く端的に信じ給う」まことの人間)であり給うということを意味している、このイエス・キリストは「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」。このイエス・キリストにおける「啓示ないし和解」(存在の仕方、性質・働き・業)が「キリストの神性」の根拠ではなくて、「キリストの神性」(そのキリストの存在が、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質しているその「キリストの神性」)が「啓示と和解を生じさせる」のである。ここで「失われない単一性」は、「三つの『ペルソナ』の本質」の、「単なる種類の単一性、あるいは単なる集合の単一性」ではなくて、「数的な単一性の真理」のことである、換言すれば神の本質の単一性と区別(区別を包括した単一性)のことである。この主・主権・自由としての「神のただひとつの本質に、……われわれが今日、神の『人格性』と名づけるところのものも属している」。この「人格性の概念」は、「近代の自然主義および汎神論に対する戦いのひとつの産物である」。すなわち、三位一体論における「神の人格性の教え」は、そこでは「三つの神的我について語られているのではなくて」、「三度ひとりの神的我について語られているのである」、換言すればご自身の中での神としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方において「三度別様」に父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事について語られているのである。
さて、反三位一体論は、「どの形においても、それが啓示の否定でない限りは、啓示のより粗野なあるいはより洗練された偶像化」をもたらすものである。「アリウスと彼に属する者たちが、キリストの中に、ひとりの神の第一の、最高の、そして最も栄光ある被造物を見、崇拝しようと欲した時」、それは神の単一性の恣意的独断的な揚棄・捨象であって、「神の単一性(≪「失われない単一性」≫)に対して侮辱を加えること」になったのである。バルトによれば、「オリゲネスにおける従属的キリスト論」も、「養子論的モナルキア主義(独裁神論)者たち」も、「様態論的モナルキア主義(独裁神論)者たち」も、近代における「シュライエルマッハーと彼に属する者たち」も、神の存在の本質である「失われない単一性」に反対する立場であり、そして「近代のサベリウス主義」は、「偶像崇拝」へと向かう立場である。前段で述べたように、神の本質の単一性と区別あるいは神の本質の区別を包括した単一性において、啓示者である父なる神の子としての「啓示」と父と子の交わりとしての聖霊の業である「啓示されてあること」とは、啓示者である父と「等しくなければならない」のである。
一体における三位
「啓示された神の啓示された単一性(≪「失われない単一性」≫)の概念は、神の本質の中での差異(≪「失われない差異性」≫)、秩序を排除」せずに「むしろ含みいれている」「神の中における三つの『存在の仕方』、区別(≪「失われない差異性」≫)あるいは秩序である」。このことが、神の本質の「単一性」(≪「失われない単一性」≫)と「区別」(≪「失われない差異性」≫)、換言すれば神の本質の「区別」を包括した「単一性」である。
この「失われない差異性」における「父、子、聖霊として区別されあるいは秩序づけられた」「Person(人格、神格、位格)」、「存在の仕方」を通底している「共通の概念」・「共通の原理」は何か?
バルトは、「近代的な人格性の概念」が「新しい混乱以外の何事も惹き起こさなかった」ことに自覚的であったから、「三度別様」の「三つ」を、「他との関係なしにそれ自身で存在している」近代的な「個体」概念と区別させるために、「人格の名で呼ぶことを避けて、存在の仕方」と呼んだ(E・ブッシュ『バルト神学入門』)――バルトは、『バルトとの対話』で、「個々人と共同体の対立は近代的な対立であって、新約聖書のものではない。……新約聖書の『体』の概念はこの対立を超えたものだ」と述べている、イエス・キリストにおいては、個と共同性は逆立し対立するのではなく、正立し平和なのである。ここに述べられている「位格」の概念は、異端・サベリウス主義との戦いに由来している。したがって、その概念は、「父、子、霊それぞれの、自分自身の中にあることと〔向自的に〕それ自体であることを指し示すべき」ものであった。すなわち、「位格」の概念は、ご自身の中での神としての自己還帰する対自的であって対他的である「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の――換言すれば聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする起源的な第一の存在の仕方である父は「子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が根源」であり、それ故にその区別された第二の存在の仕方である子は「父が根源」であり、愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊は「父と子が根源」である「一人の同一なる神」・「三位一体の神」であり給うということ、それからまたわれわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における「三度別様」の「三つの存在の仕方」であり給うということを指し示すべきものであった。
このような訳で、例えば「創造された世界」における「神の愛」と「われわれの世界」における「イエス・キリストの事実の中における神の愛」との間には差異がある。すなわち、後者の神の愛は、「まさしく神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった人間の失われた世界に対する神の愛」である。すなわち、「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない。この意味は、「和解ないし啓示」は、内在的な三位一体の神の、われわれのための神のとしての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストの「新しい神の業」であるということである。それは、「神的な愛の力」・「和解の力」である。イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、その第二の存在の仕方において「第二の神的行為を遂行」(子なる神の存在としての全き自由の神の全き自由の愛の行為の出来事を遂行)したのである。この存在の仕方の「失われない差異性」における「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者・言葉の語り手・創造主≫)と言葉(≪啓示・語り手の子言葉・和解主≫)の順序が対応」しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、「創造主としての父に先行することはできない」のである。しかし、この父と子は共に、内在的な三位一体の神として「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質としているから、この従属的な関係は、その存在の本質の差異性を意味しているのではなく、その外在的な存在の仕方の差異性を意味しているだけなのである。言い換えれば、このことは、父なる神の「失われない差異性」における外在的な起源的な第一の存在の仕方の中での「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質とする内在的な「一人の同一なる神」・「三位一体の神」、子なる神の「失われない差異性」における外在的な第二の存在の仕方の中での「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質とする内在的な「一人の同一なる神」・「三位一体の神」、聖霊なる神の「失われない差異性」における外在的な第三の存在の仕方の中での「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質とする内在的な「一人の同一なる神」・「三位一体の神」という内在的なご自身の中での神としての「存在の本質」(「失われない単一性」・神性・永遠性)とその神のわれわれのための神としての「外に向かっての」外在的なわれわれ人間へと向かう「失われない差異性」における三つの存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動、活動)を意味している。したがって、「神性否定のキリスト論」も、「下からの半神」論も、「超人」論も、「人間の『最深の本質』・『最高の理想』論も、「三神」論も、「三つの対象」論も、「三つの神的我」論もあり得ないのである。
このような訳で、バルトは、次のように述べている――「神の一つであること(単一性)のなかでの三つであることの原理の、本来的に内容豊かな規定を、アウグスティヌスもトマスもわれわれプロテスタントの父祖たちもPerson概念の分析から得てきたのではない。(中略)それであるから、(≪バルトは≫)……Personについて語らず、むしろ『存在の仕方』という概念の方を選ぶ。(中略)『神は、父、子、聖霊なる、三つの存在の仕方の中でひとりの方である』という命題は、(中略)ひとりの神、ひとりの主、ひとりの人格的な神は、ただ単にひとつの仕方の中でだけ、現にあるところの方であるのではなく、……父〔存在の〕仕方の中で、子の〔存在の〕仕方の中で、聖霊の〔存在の〕仕方の中で、現にあるところの方である」、と。「神は、三つの存在の仕方の中ででも、自分自身で、そしてまた世界と人間に相対しても、(≪「失われない単一性」を本質とする≫)ひとりの神である(≪「一人の同一なる神」、すなわち「三位一体の神」である≫)。しかしこのひとりの神は、(≪「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方において≫)三度別様に神である」。
さて、「三つの神的存在の仕方が相違しているという事実は、それら三つの存在の仕方に固有の(中略)発生的」な・「起源的」な「相互関係からして理解されるべきである」。このことは、次のこと意味している――すなわち、「神の内三位一体的父」は、「子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が根源」であり、その区別された「子は父が根源」であり、愛に基づく父と子の交わりである「聖霊は父と子が根源」である。この神は、子の中で「創造主として、われわれの父として自己啓示する」から、その「失われない単一性」としてのその存在の本質から言えば、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主であり、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもあるということを意味する。「ただ、神の覆いかくすこと」(隠蔽・啓示者)が「存在する故に、神の覆いをとること」(顕現・啓示)が「存在し得る」。「そしてただ神の覆いかくすことと覆いを取ること(≪まことの神にしてまことの人間イエス・キリストは、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」こと≫)が存在するが故に」、その「結果」、「神の自己伝達」(啓示されてあること)が「存在し得る」。内在的なご自身の中での神としての「神が神であるところの本質の中に」、その「行為の中に」、「まず純粋な起源があり」、「それから二つの異なった結果が起こる。そしてそれらの二つの結果のうち、第一の結果はただ起源からだけ(≪子としてのイエス・キリスト自身は、「子として自分を自分から区別」した「父が根源」である≫)、第二の結果は同時に起源と第一の結果から由来している」(≪「最後的な実在」である、すなわち「父なる神と子なる神の愛の霊である」聖霊は、愛に基づく父と子の交わりである「父と子が根源」である≫)ということの中に、神が一つであることの中でのこの三つであることは(≪ご自身の中での神としての内在的な「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」は≫)、成り立っている」。キリストにあっての神は「自分自身を父として……純粋な与え手として所有する。子として……受領者であると同時に与え手として所有する。霊として……純粋な受領者として所有する」。しかし、われわれは、「ただ聖書に証言された啓示を解釈しつつ、そしてこの対象を念頭に置きつつ、……そのことを主張することができるだけである」。
「人は、神の中での父、子、霊、は何であるかを語ったあとで、続けてこう言わねばならない、実は何も語りはしなかった、と」。「三位一体の秘義」(われわれ人間は、神と人間との無限の質的差異の下で、終末論的限界の下で、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する神の不把握性の下に置かれている)は、常に「秘義であり続けるように、……配慮されている」、したがって教会の宣教、その一つの機能としての神学は、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストにつての「言葉、証言、宣教、説教」、「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、キリストにあっての神の「秘義と取り組んでの理性的な努力のことである」と言うことができる――「私の思想はいかなる場合にも一つの点において常に同じであるということである。いわゆる「宗教」が私の思惟の対象・根源・規準ではなく、むしろ、……神の言葉こそ私の思惟の対象であるという点では少しも変わってはいない。キリスト教会、その神学、その説教、その伝道を基礎づけ、維持し、支えてきた神の言葉、聖書において人間に……あらゆる時代、あらゆる国、生のあらゆる段階と状況の人間に語りかける……神の言葉、神との関係における人間の秘義……ではなくて、人間との関係における神の秘義である神の言葉……それこそが常に私の思惟の対象なのである」(『バルト自伝』)。バルトは、「言葉ガ事柄ニ服シテ〔規定サレテ〕イル……という原則」・「命題」に基づいた認識方法と概念構成を行っているのである。
三位一体〔性〕
三位一体論は、神が「三つであることの中での一つであること」という定式と「神が一つであることの中での三つであること」という定式との「総括」である。したがって、神が「三つであることの中での一つ」とは、「ひとつとなること」を内包した単一性のことである。すなわち「父、子、聖霊が自分自身の間で一致しつつ一つであること」を意味する。キリストにあっての神は、「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質とするということ――それは、「一ツノ実体、一ツノ状態、一ツノ力デアル」ということである。「聖書の証言に従えば、啓示の中で(≪「失われない単一性」を本質とする内在的なご自身の中での神としての≫)ひとりの神がただ三つの中においてのみ、(≪われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における≫)三つがただひとりの神としてのみ、認識できるのであるが、(中略)三つのうちのどの一つも他の二つとともにある」。「父、子、霊が自分自身の間で一つであることに、父、子、霊が外に向かって一つであることが対応する」。このことは、再度述べれば、父なる神の「失われない差異性」における外在的な起源的な第一の存在の仕方の中での「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質とする内在的な「一人の同一なる神」・「三位一体の神」、子なる神の「失われない差異性」における外在的な第二の存在の仕方の中での「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質とする内在的な「一人の同一なる神」・「三位一体の神」、聖霊なる神の「失われない差異性」における外在的な第三の存在の仕方の中での「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質とする内在的な「一人の同一なる神」・「三位一体の神」という内在的なご自身の中での神としての「存在の本質」(「失われない単一性」・神性・永遠性)とその神のわれわれのための神としての「外に向かっての」外在的なわれわれ人間へと向かう「失われない差異性」における三つの存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動、活動)を意味している。「神の本質と働きは二様のもではなく、ひとつである」。「この神の自由さの中に神の不把握性は基づいている。この自由さの中に、啓示された神のすべての知識の不十分さは基づいている」。ご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質とする神の完全さ・自由さは、われわれのための神としてのその「失われない差異性」における父、子、聖霊の三つの存在の仕方の完全さ・自由さである。それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)は、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である。
三位一体論の意義
三位一体論は、旧新約聖書の本文には出てこない。また、旧新約聖書の「歴史的な状況から発生」したものでもない。キリストにあっての「神の啓示について、聖書の証言は、われわれを、(ひとつの)命題『神は主としてご自分を啓示する』を三度、違った意味で解釈する可能性の前に置く。この可能性こそ、三位一体論の聖書的根である」。したがって、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした教会の<客観的>な信仰告白および教義としての三位一体論は、この「根」に基づいた神学的「言語を用いての旧新約聖書本文の注釈」において構成されたものである。