カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

8.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」

8.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
再推敲・再整理版です。

 

(4)教会の一つの機能としての「神学的なもろもろの言明」は、「信仰の確実さとは、その相対性を通して区別された確実さをもってしか為されることができないということが結果として生じてくる」。何故ならば、それは、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方(他律的服従としてのそれ)で、純粋なキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」への決断と態度(自立的服従としてのそれ)の度合いによるからである。したがって、「神学的なもろもろの言明は、そのようなものとして攻撃されている言明」である。何故ならば、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者としないで、自主性の言葉、自己主張の言葉、「自分自身の言葉から由来」する危険性に晒されているからである。「コノヨウニ私タチハ、同一ノコトヲ表現シナガラ表現セズ、見ナガラ見テイナイ。他ヲ通シテ表現シ、見テイルガ、シカシソノ特性ヲ表現セズ、マタ見テイナイ」。

 

 「神学的な言明がかかわっている」「啓示の絶対性こそ」が、すなわち第三の形態の神の言葉である教会の宣教、その一つの機能としての神学、その思惟と語りと行動における「先ず第一義的に優位に立つ原理」・規準・法廷・審判者・支配者としての、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)こそが、それ故に具体的にはその第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、「啓示ないし和解」の「概念の実在」)が、「思索する神学者」を、終末論的限界の下での(ア)「相対的な確実サノ根拠しか自由に処理できない人間的な自己思索家」として(下記の【注1】を参照)、(イ)「ただ試みにするという仕方でしか作業することができないであろう自己思索家」として(下記の【注2】を参照)、(ウ)「ほかのものを通しての矯正を待っており」、「また彼のよく考え抜かれた言説の信頼性のことをも最後から一つ手前の確実さをもって誇ることしかできない自己思索家」として(下記の【注3】を参照)、(エ)「その最も深い知解スルintelligereことをも、ただアナタノ(≪啓示の≫)真理ヲ、イクラカデモ理解スルコトとして……(≪自分の≫)学問を常にただワタシノ知識の貧困としてしか理解しないであろう自己思索家」として、置くのである。

 

【注1】何故ならば、「私ノ知性ハコノ光ニ達スルコトハ出来マセン」、「ソノ輝キハ強過ギ、私ノ知性ハソノ光ヲ把握セズ、私ノ魂ノ眼ハ長イ間ソノ光ニミイルコトニ耐エマセン」、「ソノ光輝ニクラミ、ソノ充溢ニ打チ負カサレ、ソノ無窮ニ圧倒サレ、その宏大ニ惑ワサレマス」、「至高デ近ヅキガタイ光ヨ。完全デ至福ノ真理ヨ。アナタニコノヨウニ近イ私カラ、アナタハナント遠イコトデショウ。コノヨウニアナタノ御前ニアル私カラ、アナタハナント遠ク離レテイルコトデショウ」という理由からである。この思惟と語りから、われわれは、「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>というものを、また聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする内在的な三位一体の神の不把握性というものを、また啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいてのみ初めて、終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰の可能性というものを認識させられるのである。

 

【注2】「私ハ……神ノ援ケ……ニヨリ」、換言すれば神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、具体的には「神の言葉の三形態」の関係と構造における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、「可能ナカギリ、……試ミタイ」。したがって、「モシ私ガ貴君ノ要請スルコトヲ少シデモ立証出来ルナラ、神ニ感謝ヲ捧ゲヨウ。シカシ、モシ出来ナイナラ、スデニ証明シタコトデ満足シテ欲シイ」。

 

【注3】第一に、「ほかのものを通しての矯正を待っており」について――「私タチノ語ッタコトニ訂正ヲ要スルコトガアルナラ、コノ訂正ガ理ニカナッテナサレテイルカギリ、ソレヲ拒ム者デハナイ」。言い換えれば、その「訂正ガ」、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした「理ニカナッテナサレテイルカギリ、ソレヲ拒ム者デハナイ」。第二に、「また彼のよく考え抜かれた言説の信頼性のことをも最後から一つ手前の確実さをもって誇ることしかできない」について――「ココニ記シタコトハ、神ガ何ラカノ方法デサラニ(≪神が、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で≫)啓示ヲ私ニ与エラレルマデ、私ノ理解力ノ許スカギリ、……肯定スルトイウヨリモ、論理的ニ推論シテ簡単ニ述ベタモノデアル」。何故ならば、『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、われわれが、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で(他律的服従)、純粋なキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」を目指す道を歩んで行く決断と態度(自立的服従)を持っているとしても、われわれ人間はその道を完全に貫徹することはできないであろうからである。どこかでそこから逸脱していることがあるであろうからである。教会(すべての成員)の宣教、その一つの機能としての神学、その思惟と語りと行動が、「キリスト教的語り(≪思惟と語りと行動≫)の正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」のである。このような訳で、まさに教会(すべての成員)の宣教、その一つの機能としての神学、その思惟と語りと行動は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対して神が応じて下さるということに基づいて成立している」のである。「わがまま勝手に」恣意的独断的に、人間の自由事項・決定事項として、人間の側から、人間学的神学の側から、人間学的神学としてのルドルフ・ボーレンの「神律的相互関係」の概念に依拠して、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」(ウェブ上の資料:小泉健「R・ボーレンの説教学の教会論的基礎づけ」小泉健)と、先ず以て聖霊や起源的な第一の形態の神の言葉を実体化することはできないのである。キリストにあっての神は、「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異を固執するという<方式>と共に、「自己自身である神の自由」(ご自身の中での神の自由、「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内的・内在的な三位一体の神の自由)としての「自存性の概念」(神の自由の概念の積極的側面)と「神とは異なるものによって為されるすべての条件づけからの神の自由」としての「独立性の概念」(神の自由の概念の消極的側面)」との全体性・総体性において、完全に自由であり給う。バルトは、『説教の本質と実際』で、「聖霊が(あるいは別の霊であっても)言葉を吹きこむこととか、あるいは一つの構想を持っていることなどあてにしてはならない」、「説教は、語ることであるが、……一語一語準備し、書き記しておいたもののこと」、客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である「聖書への絶対的信頼」に基づく、「聖書講解であることの義務を負っている」と述べている。

 

 このような訳で、「神学者は、その言説が、本文の必然的な帰結と一致する時に、絶対的に語るのである」。言い換えれば、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で(他律的服従)、純粋なキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」を目指している(自立的服従)時には、すなわち「啓示に固有な証明能力を持っている」「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」から、「別の言葉で同一のことを言う」時には、「絶対的に語るのである」。したがって、「神学者は、聖書の権威をはっきりと言葉に出して自分を支持するものとして持っていない時には、絶対的には語らない」のである。ここに、「ただ一つだけの……例外がある」のである。何故ならば、それは、次のような理由による――三位一体の唯一の啓示の類比として神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会における「間接的・相対的・形式的な」「権威」・「自由」は、あくまでも聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かっての」外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち起源的な第一の存在の仕方であり啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解」、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間、「直接的な、絶対的な、内容的な」イエス・キリストのまことの<神性>――「権威」性と、「直接的な、絶対的な、内容的な」イエス・キリストのまことの<人間性>――「自由」性とによって賦与され装備された「権威」と「自由」を持つところの第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちのその最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)の「権威」・「自由」に基礎づけられている「間接的・相対的・形式的な」「権威」・「自由」として、徹頭徹尾「限界づけられている」からである。したがって、この「限界づけ」を認識し自覚していない教会の宣教、その一つの機能としての神学、それに類する者たちは、すなわちその「限界づけ」から逸脱して「自分で(≪自分には≫)それ以上」の「権威」・「自由」やそれに基づいた知識を持っていると自惚れているものは「愚か」であり「愚か者」でしかないのである。

 

 アンセルムスによれば、教会の一つの機能としての「神学的な作業、より狭い意味での尋ね求められた知解スルintelligereことは、正確に聖書の引用が終わるところで」、換言すれば「先ず第一義的に優位に立つ原理」であるイエス・キリスト(起源的な第一の形態の神の言葉)と共に教会の宣教(その思惟と語りと行動)における「原理」・規準・法廷・審判者・支配者としての第二の形態の神の言葉である聖書に信頼し固執し固着し連帯するという仕方で、すなわち終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、「始まるのである」。第二の形態の神の言葉である「聖書の権威と一致したのではない」第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の一つの機能としての「神学的な……言説について」、それは、終末論的限界の下での「原則的に最上の知識と良心に従って為された中間的な言説であり」、「神、あるいは人間(≪それが人間に内在する「霊性」、「精神性」、「理性」と呼ばれようと、それは徹頭徹尾全く人間的なものであるから、それ故に聖霊とは徹頭徹尾全く同一ではないのであるから、それ故に神のその都度の自由な恵みの決断による「聖霊の注ぎ」により更新されなければならないそれ≫)を通してのよりよい教示を待っているということが妥当するのである」、換言すれば神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいた、また第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方での、「よりよい教示を待っているということが妥当するのである」。「神ガヨリヨイ啓示ヲ何ラカノ形デ私ニオ与エクダサルマデ、私ニハ一応ソノヨウニ見エルトイウ以外ハ、ドノヨウナ確実性ヲモッテシテモ、ソレヲ受ケトラナイトイウコト」、「ソレラハ私ニ明白ト思エル諸根拠カラ、アタカモ必然的デアルカノヨウニ結論ヅケラレテイテモ、ソノタメニ全ク必然的ダトイウノデハナク、サシアタリソウ考エルコトガ可能ダト言ッテイルモノトトッテ欲シイ」。「ソコデ、コノ問題ニツイテ、ドノヨウナ人ノ正当ナ意見ヲモ退ケズ、マタ私ノ意見モ真理ニ反スルコトガ理性的ニ立証可能ナラ、頑固ニ弁護スルコトヲ避ケナガラ」、「ココニ私ノ考エヲカイツマンデ述ベタイ」、すなわち第一形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、「ココニ私ノ考エヲカイツマンデ述ベタイ」。