本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

5.『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示<上> 三位一体の神』「父なる神」(邦訳167-194頁)

5.『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示<上> 三位一体の神』「父なる神」(邦訳167-194頁)

 

 バルトは、次のように定式化を行っています――「ひとりの神は、聖書によれば、創造主として、すなわち、われわれの存在の主として、ご自身を啓示し給う。彼はそのような方としてわれわれの父なる神である。なぜならば、彼は子なる神の父として、まずご自身の中でそのような方であるからである」。

 

1 創造主としての神
 「創造」は「父なる神に固有ナモノ」であり、そのような方として「父なる神」は「創造主」である(192頁)。このことはすでに述べたことであるが、バルトの『教会教義学 神の言葉』によれば、教会の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠としての神の啓示は、旧約聖書におけるヤハウェ・新約聖書における神(テオス)あるいは主(キュリオス)自身の自己啓示のことである。聖書また教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する。したがって、この啓示が教会の宣教の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠であり、またこの三位一体論が「啓示の認識原理」である。したがって、「教会の宣教の批判と訂正」は、常にこの三位一体論に即して行わなければならない。また、この三位一体論の唯一の類比は、神の言葉の実在の出来事としての神の言葉の三形態であり、それは、イエス・キリストの啓示の実在そのもの、聖書および教会における啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類)とその歴史性(キリスト教に固有な時間的連続性)においてあるから、「教会の宣教の批判と訂正」は常にこれらとの不可避的な連帯において行わなければならないのである。したがって、人間論および人間学的な哲学原理や認識論や世界観によっては行えないのである。
 バルトは、次のように述べている――「神の支配的な名は、旧約聖書においてはヤハウェ、新約聖書においては主(キュリオス)である。(中略)そこで語られている主は、……この人間の歴史自体のただ中に向かう……」・「聖書の証言の最高点において(中略)ナザレのイエスが主である」。しかし、新約聖書は、この「主という賓辞の中で表現されているような、まことの、実在の神性」を、「先ず第一に、イエスとは別の方に帰している」(168・169頁)。この観点から、「子としてのイエスが主であることは明らかに、ただ、なる神が主であることを現わす現われ」、顕現、「行使、適用である。(中略)この父なる神を代表すること、それがイエスに帰せられた神性の本質である」、と(171頁)。このことは、次のことを意味している――「神の内三位一体的父」は、子として「自分を自分から区別」するし自己啓示する神として自分自身が根源である。この啓示認識・啓示信仰は、聖書的証言の本来的テーマとは何かという問いに対する答えである。すなわち、聖書的証言の本来的テーマは、「三位一体の第二」の「位格」・「存在の仕方」である「子なる神、キリストの神性」を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル」聖霊を問う問いとが包括されている点にある。神は、イエス・キリストにおいて、インマヌエル――「神われらと共にいます」という「存在の仕方」で、顕現・自己啓示した。このことは、単一性・神性・永遠性を「存在の本質」とする「自己を覆い隠す」・秘義性・隠蔽性・「聖性」としての父なる神が、その「存在の仕方」において子として「自分を自分から区別」したことを意味する。したがって、この自己啓示は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態、イエスの名」・「存在の仕方」において、その「存在の本質」である単一性・神性・永遠性の啓示認識と啓示信仰を要求する啓示である。このように自己啓示する神は、啓示の弁証法において「まさにアラワサレタ神こそが隠サレタ神」である。また、同時に、次のことも意味している――「創造された世界」における「神の愛」と「われわれの世界」における「イエス・キリストの事実の中における神の愛」との間には差異がある。すなわち、後者の神の愛は、『福音と律法』論における、「まさしく神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった人間の失われた世界に対する神の愛」である。すなわち、「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない。この意味は、「和解ないし啓示」は、神の「存在の仕方」の差異性における「第二の存在の仕」、すなわちイエス・キリストの「新しい神の業」である。それは、「神的な愛の力」・「和解の力」である。イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、神の「第二の存在の仕方」において「第二の神的行為を遂行」したのである。この神の「存在の仕方」の差異性における「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者≫)と言葉(≪啓示≫)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」の「存在の仕方」は、創造主・父の「存在の仕方」に先行することはできないのである。しかし、父・子は共に神自身のその「存在」において単一性・神性・永遠性を本質としているから、この従属的な関係は、「存在の本質」の差異性を意味しているのではなく、「存在の仕方」の差異性を意味しているのである。この啓示認識・啓示信仰は、イエス・キリストの啓示の出来事と、神自身のその都度の自由な決断による聖霊の注ぎによって私たち人間に授与される。このことは、神自身が私たち人間に対して自己啓示されないならば、そして神自身が神と私たち人間とを架橋されないならば、全く不信仰で罪に穢れた私たち人間は、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰・概念・教義をさえ持つことはできないことを意味している。またこのことは、言い換えれば、その区別された子は父が根源であり、愛に基づく父と子の交わりである聖霊は父と子が根源である、ということを意味している。この神は、子の中で「創造主として、われわれの父」として自己啓示する、また、その「存在の本質」において、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主である。同様に、その「存在の本質」において、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある。
 このように論じたバルトは、一切の近代主義・一切の自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教に抗することができ、またそれらを包括し止揚することができる状況的思想的課題を自覚的に引き受けたのであるが、それは、先日論じた<カール・バルトの三位一体論 その1 序説(ウ)>の<三位における一体>における、1)から7)までの原理、その神学の認識方法と概念構成のことである。ここでは、その中で特に、4)の「存在」上・「認識」上、「自由・主権」は、神自身においてのみ「実在であり真理」であるという概念が重要である。なぜならば、その神学における思想としての神学的な認識・概念が、ヘーゲルの他在であって自在という自由の概念等に抗することができ、またそれを包括し止揚することができるものである。このようにして、神学における思想家・バルトは、単純にしかし根本的に、ヘーゲルを紙一重で超えているのである。しかし、ただ単なる一方通行的で一面的な形而上学的な神学者でしかなかったエーバーハルト・ユンゲルには、このバルトにおけるような思想性がないのである。したがって、平然と、「神学を表象の媒介のレベルから概念という高位のレベルにまで高めるという〔ヘーゲルの〕思弁的要求を何としても否定しなくてはならないようなことは、わたしにとって、神学を歴史哲学から何としても限界づけなくてはならないということと同様、二次的なことなのである」・バルトの神学的立場は、「近代的な自由および自律の意識の加工処理」・「近代的自律の神学的加工処理」を認めている・「アブラハム、イサク、ヤコブの神を、たといこの神が幾何学的方法によって論証可能なお方ではないにせよ、哲学者にとっても、思惟可能な神として信じるにあたいするというふうに思惟することはよいことなのである。ただ福音においてのみ言葉に言いあらわされる神を信じるとき人は哲学者であることをやめねばならないということは、よく分からない」、と述べてしまうのである。ユンゲルは、バルトの神学的立場は、「近代的な自由および自律の意識の加工処理」・「近代的自律の神学的加工処理」を認めている、と書いているが、バルトは、全然そのようにを述べてはいない。ほんとうは、バルトは、「イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して同時的となる時と所」、すなわち「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを承認し確認する。したがって私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として承認し確認する。すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを承認し確認する、と述べているのである。したがってまた、バルトの場合は、その神の側の真実であるイエス・キリストにおける啓示の場所は、ユンゲルのような自然神学的な神学群や教会の宣教群における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」・「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」・「イエス・キリストはたかだか《暗号》にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所でもあるのである。このことが、自然神学者(宗教哲学者)のユンゲルには理解できないのである。
 上述したように、「聖書の中で主と呼ばれている方を問う問いに答えるに際し、イエスは主である、という告白から出発するのが正しい」とすれば、「主イエス・キリストの父」は、その「イエスを通して」・「イエスの身に起こることを」通して、「誰をあるいは何を啓示」(172頁)しているのか? その答えである誰は、「天の父」であり、一切の天然自然や一切の人間的自然に左右されない、神と人間(被造物)との無限の質的差異における「創造主」だとすれば、それでは「何を啓示」しているのか? それは、「人間存在を徹底的に疑問化すること…廃止する」こと・人間に罪に対する罰としての死(人間を救い生かすための死)を求めることである(172頁)。みなさんは覚えておられるでしょうか、『福音と律法』にあった言葉を。

 

  神(≪天の父・父なる神≫)は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ―これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ロマ3 ・22、ガラテヤ2 ・16等の「イエスの信仰」は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである)。

 

 これです。福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」。すなわち、「旧約(≪「神の裁きの啓示」≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」は、復活へと向かっている。このキリストの復活・成就の時間は、「福音と律法」の「真理性」と「現実性」の構造におけるそれであり、「新しい世」のはじまりである。私たちは、その啓示の出来事と信仰の出来事に基づく啓示認識において、敗北者である「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」は、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」=成就の時間であるキリストの復活における神の「勝利の行為」によって包括され止揚され・克服されて「そこにある」ことを認識し信仰することができる。また、その勝利の行為は、「敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為」であることを認識し信仰することができる(『教会教義学 神の言葉』)。「父なる神は、人間の生と死を支配する主である限り、厳格な意味で、われわれの存在の主である」・「われわれの『存在の主』」、「換言すれば、創造主」(176頁)である「父なる神の意志」は、「われわれの生命意志を絶対的に左右する力を行使」(175頁)する。「イエスの中で再発見されるのは、……イザヤ書53章の苦難の僕である(使徒行伝8・26以下)。イエスの生涯の歴史は、四つの福音書のいずれにおいても、……死ぬことの歴史と述べられている」・「人間ナザレのイエスの死の彼方に、彼を父なる神の啓示たらしめる光が彼の上に落ちてくるところの場所がある。死人からの復活により、彼は『神の御子と定められた』(ローマ1・4)。イエスを死人のうちからよみがえらせることの中で、父なる神は彼に対し、また彼を通し、行動し給う(ガラテヤ1・1、Tコリント6・14、ローマ4・24、6・4、エペソ1・20)」。「イエスにあってそのようにご自身を啓示し給う方を信者は『アバ、父よ』と呼ぶ」(ガラテヤ4・6、ローマ8・15)(173頁)。マタイ6・9以下の「天にいますわれらの父」、すなわちにあなたの「御名」・あなたの「御国」・あなたの「御心」に対するこの三つの願いは、「新約聖書の脈絡においては」、引用した『福音と律法』の意味において、「れわれに、死ななければならないこと(≪ほんとうは、われわれは救われ生きるためには死ななければならないこと≫)を考え」・認識し・自覚することを「教えてくださいということと同意義のもの」である(174頁)。このように、「イエスが父として啓示する方は、徹頭徹尾」、人間が救われ生きるためにのみ死を欲するという意味においてであるが、「人間の死において、人間の現実存在の終わりにおいて、認識される」(174頁)。「父なる神は、われわれの生を、死を通して永遠の生命へと導くために、死を欲し給う……われわれの生が、死を通して永遠の生命へと貫き進むことを欲し給う。父なる神のみ国はこの新しい誕生のことである」(175頁)。この意味で、「死と復活」の総体的構造においてあるイエス・キリストにおける「十字架の死」は、「死において死が、否定において否定が、克服された」それである(175頁)。言い換えれば、それは、主格的属格としての「イエスの信仰」に基づく「福音と律法」の「真理性」と「現実性」の総体的構造としての啓示の客観的現実性、すなわちイエス・キリストの「死と復活」における完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)のことである(『福音と律法』論参照)――「十字架の力は……復活であり、生命を失うことの力は生命を得ることである」(175頁)。「キリストにあって」、「イエス・キリストの父」としての父なる神は、徹頭徹尾全面的に自由な、創造主なる神(創造の神)である(178頁)。このことは、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて得られる啓示認識・啓示信仰・「啓示の真理」(178頁)である。私たちは、このことを、「三位一体論の根本命題を手にして理解しなければないらない」(179頁)。
 根本的な誤謬に普遍性の後光をかぶせて語られたバルト論について、例示してみよう――『神学者カール・バルト』の訳者・蘇光正が、バルトの著作の時系列的判断に依拠して、「バルトが『聖霊』を口にする場合、それは『教会教義学』の第四巻(殊に第三部)以来ますます載然と、排他的にイエス・キリスト自身の霊的臨在またはその力をさし、したがって自然神学へのブルンナー的遡行(またはヘーゲル的哲学化)を許す『父の霊』は考えられていない」、と「訳者あとがき」で書いた時、蘇は、根本的な誤謬に普遍性の後光をかぶせて語ることになったのである。すなわち、バルトの三位一体論における神の「存在の本質」の概念から言えば、蘇の言う「父の霊」への「排他」性は<本質>的に成立しないのであって、蘇の言うバルトの「キリスト自身の霊的臨在」の強調は、和解論がイエス・キリストの「存在の仕方」に関わる事柄だからであり、その場合バルトは、神性を本質とするイエス・キリストの「存在の仕方」に重点を置いて論じているだけなのである。ここに、神学における思想家であるバルトのほんとうの読み方とほんとうの分かり方があるのである。また、「神学がなくても信仰は成立しますが、高等教育を受け、『天にいる神』をもはや素朴に信じることができなくなったわれわれには神学が必須です。われわれは『天にいる神』をほんとうに信じていませんが、ほんとに信じていないことを口にしてはいけないというのが、キリスト教信仰の第一の前提です。だからこそ神学が不可欠なのです」、と書いた佐藤優の『はじめての宗教論』は最悪の本であった。なぜならば、私はその本を読んでいて、佐藤のその語りは、その信仰・その神学における原理・認識方法と概念構成を持たず、状況論を持たず、思想的課題を自覚せず、学問としての神学でもなく、学問としての人間学でもなく、思想書でもなく、ただ時流や時勢に受けのよい語り方をしているように感受したからである。軽率な駄弁と思えるものもあった――大衆受けする「火宅の人、バルト」という言葉を前面に出した語り方がそれである――こういう佐藤のような者に対して、バルトは、罪の本質は人間の自主性・自己主張・無神性にあるのであって、「余りに性急に、余りに熱心に、念頭に置いて来た」「性的リビドー」(「『死んでいる』罪の成果の一部」)にあるのではない、という言葉を置いているのである(『福音と律法』)。また佐藤の、『右巻』で「究極的な救済をどう得るかという視座から宗教について考察」すると述べ、『左巻』では神学研究の本質と教会の責務は、「個々人の救済、具体的な人間の救済です。人類という抽象的なものの救済ではありません」、と部分を全体とする一面的な形而上学的な語り方がそれである。佐藤の問い、すなわち「究極的な救済」は、個的な救済という一方通行的部分的一面的な救済にはないのであって、ほんとうは、宮沢賢治の言うように、個と全体の幸福・救済にあるのである。すなわち、「究極的救済」における思想的課題は、個と全体の幸福・救済の架橋にあるのである。言い換えれば、佐藤の語り方は、往相的な緊急的相対的過渡的救済の課題のそれであって、還相的な究極的包括的総体的永遠的救済の課題を持たないのである。したがって、佐藤の語り方は、皮相的になってしまうのである。それに対して、詩人・童話作家・法華経的宗教家・農業科学者である宮沢賢治は、人間の幸福・救済について、思想的課題を自覚して、次のように述べている――「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」・全体が幸せにならなければほんとうの幸せとはならない、と。したがって、このような佐藤に耳を傾けるよりは、純粋な人間学的領域に属する吉本やフーコーやヘーゲルやフォイエルバッハやマルクス等々や、太宰や漱石や賢治やドストエフスキー等々の言葉や言説に耳を傾けた方がいいに決まっているのである。なぜなら、実際的に、確実に、その方が人間や世界の本質を指し示してくれるし、人間的な慰安も励ましも喜びも心の響き合いも心の豊かさも享受できるからである。

 

永遠なる父
 「神が父であることの永遠性は、父の、子および霊との交わりの永遠性を意味するばかりでなく、また、父を子および霊と一つにしてしまうことから保護する」。なぜならば、この認識・概念は、「父と子をあくまでもそれらの相違性の中で一つであらしめている、聖書の証言……と一致」しているからである(193頁)。父は、「自分自身の中で父である」方として、自己を啓示する。この方は、「ご自身神であるみ子、イエス・キリストの父」であり、そして子・「イエス・キリストの父」として、「われわれの父でありうる」方である――「わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く」(180・182頁)。「神は、イエスを通して知られない限り、われわれの父として、創造主として、全く知られない」(排他独占性――<イエス・キリストの啓示の出来事>と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてのみ得られる啓示認識 181頁)。なぜならば、「父なる神」は、「イエスの中でのみ、創造主として、したがってわれわれの父として、啓示される」からである(183頁).。起源的に、「神は前もってご自身の中で父であり給う」。これは、神の「存在の本質」である単一性・神性・永遠性の規定である。あくまでもこのことを念頭に置いて、「三位一体教義は父なる神」の「位格」・「存在の仕方」について語る(183・184頁)。父なる神は、創造主としての神(創造の神)・永遠の父である。この「神だけが、ご自身で現にあるところのものとして、したがって彼の永遠の子の永遠の父として、本来的なまた全く適した意味で父と呼ばれることができる」方である(185頁)。この認識・概念は、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍に基づく存在の類比による啓示認識の拒絶であり、そうした自然神学的な認識方法と概念構成の止揚であり、それからの超出である。言い換えれば、バルトのその神学の認識方法と概念構成は、あくまでもイエス・キリストの啓示の出来事とて聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく人間の啓示認識・啓示信仰、そしてその啓示認識に依拠した信仰の類比・関係の類比・啓示の類比を通した人間の自己理解・自己認識・自己規定を目指している――「内被造物界での……父という呼び名は確かに真実であるが、……神の内三位一体的父の名の力と威厳に依存しているととして理解されなければならない」(185頁)。したがって、人間における人間的な対自的で対他的な自由な自己意識の概念(人間の自己認識)も・自在であって他在という自由の概念(人間の自己認識)も、神自身においてのみ「実在であり真理」である自由の啓示認識・概念に依拠した類比を通して初めて人間的に得ることができる。
 「神は神である」――この神は、「ご自身を子の中で創造主として、またわれわれの父として啓示する神である」(187頁)。「神の三位一体的な父の名、神が永遠の父であること、は、〔その中で〕神が神の(それ以外の)ほかの存在の仕方〔複数〕の創始者である神の存在の仕方を表示している」(186頁)。このことは、重複するが、神の「存在の本質」としての一神=神の単一性・神性・永遠性の認識を保証するものは、「神の内三位一体的父の名」の認識・「父なる名の内三位一体的特殊性の認識」、すなわち神自身においてのみ「実在であり真理」である自由・主権の認識、また区別を包括した自己同一性の認識にある。これらの認識方法と概念構成によって、バルトは、神と人間との無限の質的差異を揚棄してしまったヘーゲル哲学を根本的に包括し止揚して、ヘーゲルを紙一重で超えているのである。なぜならば、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍に信頼し固執する存在の類比において神の自由・主権を概念規定すれば、他在であって自在としての自由の概念・人間に内在する神的本質の概念・対自的で対他的な自由な自己意識の概念等ヘーゲル哲学に直通していくことになるからである。すなわち、一切の近代主義・一切の自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教に直通していくことになるからである。人間学的神学者のシュライエルマッハーやブルトマンやエーバーハルト・ユンゲルやアジア的日本的な自然思想の復古性に依拠した滝沢克己等はすべて、バルトも書いていたように「ヘーゲルの強力な痕跡」(『カール・バルト著作集1』「ヘーゲル」)を残したヘーゲル哲学のエピゴーネンなのである。神の「存在の本質」は、単一性・神性・永遠性にあるから、父は子として「自分を自分から区別」するし自己啓示する神として自分自身が根源である。したがって、その区別された子は父が根源であり、愛に基づく父と子の交わりである聖霊は父と子が根源である。この神は、子の中で「創造主として、われわれの父」として自己啓示する。したがって、神の「存在の本質」においては、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主である。同様に、神の「存在の本質」においては、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある(「三位相互内在性」――「父、子、霊の働きの単一性は、……三つの存在の仕方の交わりとして、理解されるべきである」(188頁)。これらの出来事は、神自身の自由事項として、「神の中での出来事」としてある(187頁)――「子と霊は父とともにひとつの本質である。神的本質のこの単一性の中で子は父から、霊は父と子からであり、他方、父は自分自身以外の何ものからでもない」。(186頁)。