2.『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示<上> 三位一体の神』(邦訳1-75頁)
2.『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示<上> 三位一体の神』(邦訳1−75頁)
再推敲・再整理版です。
この『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中> 言葉の受肉』について、さらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります。
https://karl-barth-studies3.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。
イエス・キリストにおける神の自己啓示は、「存在的にも認識的にも」、「その実在および真理を……自分自身の中に持っている」。したがって、われわれは、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼」しなければならないのである。このことは、総括的に言えば、一切の天然自然や人間的自然に還元することができない、一切の天然自然や人間的自然によって左右されることのない、神の側の真実としてある啓示の客観的現実性のことを述べている。イエス・キリストにおける神の自己啓示においては、起源的な第一の形態の神の言葉は「神自身と同一」である。しかし、その第二の形態の神の言葉である聖書および第三の形態の神の言葉である教会の宣教においては、神の言葉は、第二の形態の神の言葉に属する「預言者と使徒が啓示についてなす証言」、第三の形態の神の言葉に属する「聖書の注解者と宣教者が啓示についてなす証言」、「注解者や宣教者や人間的な人格」を通して、間接的に「仲介」されて存在している。すなわち、それは、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身、啓示ないし和解の実在そのものではない。したがって、聖書および教会の宣教が神の言葉となるためには、全き自由の神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論限界の下で、「常に繰り返しその都度神の言葉とならなければならない」のである。何故ならば、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、神のその都度の自由な恵みの決断による神の言葉の「出来事の運動」(自己運動)の中において、すなわち神のその都度の自由な恵みの決断による出来事(客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事)に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に依拠して初めて「実在であり、……真理である」からである。聖書によって義務づけられた教会の宣教は、「教会の宣教の規準」・原理・法廷・審判者・支配者としての聖書に「聴従」することによって、すなわち(≪客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事と「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて≫)人間が神に聞くというこの一事によって――神が人間に語り給うゆえに聞き、神が人間に語り給うことを聞くというこの一事によって、基礎づけられ、支えられている」のである。このように、「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、イエス・キリストにおける神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなく、その啓示ないし和解に感謝をもって信頼し固執し固着する啓示「認識」・啓示信仰である。その時初めて、神の言葉は、われわれ人間に対して「実在」となり、またわれわれ人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる。教会の一つの機能としての教義学そのもの、また神についての教会の思惟と語りは、「信仰のない」人間の、「信仰にさからう理性を用いての語り」であるが、それが、「神についての語りをはかる規準(≪・原理・法廷・審判者・支配者≫)を、イエス・キリストの中で(≪具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言の中で≫)、受けとる限り、教義学は真理の認識として可能」となるのである。その場合、教義学は、「人間的な問いの中で、人間的な問いと共に、人間的な問いのもとで、……神的な答えについて語る」ことができるのである。しかし、その思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」のである、それ故にわれわれの思惟と語りの在り方は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立している」のである。
「神は主(≪「神の主権」・「神のみ国、神の支配、の告知」≫)としてご自身を啓示される」。この聖書におけるイエス・キリストにおける神の自己啓示は、三位一体論の「根」・「根拠」・「基礎」である。このことは、次のことを意味する――「三位一体論の本文は、聖書の本文にあるものをただおうむ返しに繰り返すだけでなく、聖書の本文の中に書かれているものに対して、それの説明として新たなものを付け加え対置するということを意味する」。言い換えれば、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、啓示自身に「固有な証明能力」を持っているから、起源的な第一の形態の神の言葉である「啓示は例証されようとせず、(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、≫)解釈されることを欲する」のである。したがって、ここで、現実と時代に強いられたそれぞれの世代における第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教の思惟と語りにおいて「解釈する」とは、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、「別の言葉で同一のこと(≪起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストのこと、キリストにあっての神のこと、キリストの福音のこと≫)を言うこと」である。この時、そのような個体的自己の成果の世代的総和としてのキリスト教に固有な類は、キリスト教に固有な歴史性に時間累積することができる、すなわちそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)を深化させ豊富化させることができる。
さて、啓示概念における「決定的な問い」――すなわちイエス・キリストにおいて自己啓示する神は「誰かという問い」に対する答えを探求する場合、「三位一体論」の中においてということが教義学的思惟の前提となる。神は「主」として自己啓示するという命題は、「三位一体論の根」である。先に述べたように、「聖書的証言の本来的テーマ」は、「三位一体の第二の存在の仕方である子なる神、キリストの神性を問う問いの中に、父を問う問いと聖霊を問う問いとが包括されている」点にある。聖書の啓示における「主」・「主権」は、「自分を自分自身から区別し、自分と別のものとなると同時に、あくまでも自分と等しくあり続ける」という神の「自由」を意味している。この神の自由は、自己還帰する対自的であって対他的、自在であって他在としての「自由」ということを意味している。言い換えれば、神の自由は、「自己自身である神の自由」――すなわち「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」におけるご自身の中での神としての内在的な「神の自由」・「神の自存性」と、それからまたわれわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方における「神の自由」――すなわち神とは全く異なるわれわれ人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能によって為される「すべての条件づけからの神の自由」・「神の独立性」との全体性・総体性において理解されるべきものであるということを意味している。このイエス・キリストにおける神の自己啓示は、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、客観的可視的な「具体的姿」、「イエス・キリストの名」という第二の存在の仕方において、その存在の本質である「失われない単一性」・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示である。その第二の存在の仕方、すなわち起源的な第一の存在の仕方である父なる神の子としての「啓示ないし和解」、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストは、「まさにアラワサレタ神こそが隠サレタ神である」。「神の現臨とは常に、現臨せんとする神の決断である。神の賜物とは、神が与えることである。神の自己啓示……とは、最高絶対の神の自由な行為であり、あくまで神の自由な行為であり続ける。(中略)啓示は、つねにくり返し、言葉の完全な意味で、(≪「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明」としての、起源的な第一の形態の神の言葉自身の自己運動としての、≫)啓示である」。
さて、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、客観的可視的な「具体的姿」、「イエス・キリストの名」の現実存在は、「キリストノ人間性」のことである。ここにおいて、「キリスト論の最も困難な問題の一つに出くわす」。何故ならば、イエス・キリストの人間性への偏向による神性(旧約の神聖性)の揚棄の問題、捨象の問題、すなわちイエス・キリストの「俗化」の問題が現れるからである(例えば、八木誠一は、『イエス』や「一九八二年の南山大学主催滝沢講演後討論会」で、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性、すなわちキリスト教に固有な類と歴史性を除外・排除してしまって、換言すればその存在の本質も存在の仕方も否定してしまって、「イエスは別段自分を超人間的存在として自覚していたわけではなく、『人の子』語句でもって人間存在の根底を語り続けた」「ただの人であり、ただの人として自らを自覚し、ただの人の真実のあり方を告げた」と断定している、ヘーゲルの言う「世界史的個人」にしてしまった)――この場合、イエス・キリストは、「神秘主義の『いとうるわしき主イエス』、敬虔主義の『救世主』」、啓蒙主義における知恵の教師および人間の友なるイエス、シュライエルマッハーにおける高められた人間性の……総体であるイエス、ヘーゲルおよびその学派の者たちにおける宗教の理念の具現化としてのイエス」、人間実存の範型としてのイエス等々へと変えられて行く。バルトは、『神の人間性』において、「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」と述べた上で、「神の神性において、また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」と述べた。したがって、バルトは、新約聖書においては、「キリストノ人間性」は「神の神聖性(≪神性≫)の留保のもとに立っている」と述べたのである。したがってまた、バルトは、キリストの「神性の内在性」が、すなわちその存在の本質であるキリストの神性が、神の「和解させる行為」を生じさせると述べたのである。すなわち、「キリストの永遠のまことの神性」が「啓示と和解を生じさせる」と述べたのである。言い換えれば、「赦す神」は、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストがまことの人間であっても、その「人間性」に内在することはないのであって、その「神性」に内在し給うのである。
聖書における完全に自由な自己啓示する神は、「隠レタ神」(隠蔽)と「アラワサレタ神」(顕現)という啓示の弁証法において行為される神であって、「われわれ人間によって(≪われわれ人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能によって≫)遂行される弁証法」において行為される神ではないのである。すなわち、「神性」をその存在の本質とする起源的な第一の存在の仕方である父なる神の子としての「啓示ないし和解」、起源的な第一の形態の神の言葉、すなわち第二の存在の仕方である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストの啓示の出来事と、「垂直に天から落ちてきた出来事」(聖霊降臨日)、「垂直に天から注がれる聖霊」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰が「事実生起しているとして確かめ得、また承認しうるようになるそのことが、啓示の歴史性である」、換言すれば「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)、キリスト教に固有な類、その類の時間性としてのキリスト教に固有な歴史性である。具体的にはそれは、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについて「言葉、証言、宣教、説教」(聖書)であり、この聖書的啓示証言を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で純粋なキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、すなわちすべての人々が純粋なキリストの福音を現実的に所有することができきるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関においてイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指す第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会のそれぞれの世代・世紀の類とその類の時間性である。バルトは、このことを、次のようにも述べている――それは神のその都度の自由な恵みの決断による聖霊自身の業であるのだが、「歴史的な(Geschitlich)神の啓示されてあること」というように、また「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」であるというように、そしてまた「聖書の証言の中では、神が第三の意味で主」・神性を本質とする聖霊であることが「啓示の決定的な特徴である」というように述べている。