本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

カール・バルトの三位一体論 その1 序説(ウ)

カール・バルト『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示(上) 三位一体論』吉永正義訳(新教出版社)等々に基づく

 

 

神学における思想としてのカール・バルトの三位一体論 その1 序説(ウ)

 

神の三位一体性 101−166頁
 バルトは、次のように定式化を行っています――聖書によれば、自己啓示する神は、単一性・神性・永遠性を存在の本質とする神と、父・子・聖霊という三つの神の「存在の仕方」との発生的・起源的な相互的関連から成り立っており、「三つの本来的な存在の仕方」=「父、子、聖霊の中で、ひとりの方であり給う。そのようにして、彼は主である。すなわち、人間的なわれわれに相対して出会い給い、ご自身を解消することができない主体として結びつけ、まさにそのように、そのことの中で、彼の神として啓示されるようになるところの汝である」。

 

 「三位における一体」および「一体における三位」、すなわちこの「三位一体性」についての認識・三位一体論・三位一体教義は、「信仰の決断としてのみ意味を持ちうる決断」におけるそれであり、「われわれは究極的にはただ教義自身に、……教義に向かいあって立っている聖書に、次の問を持って訴えることができるだけである」「決断」としてのそれである。言い換えれば、それは、「依然としてそして当分は安んじて、正しいとしてばかりでなく、また重要であるとみなされるべき釈義」としての教会の客観的な認識・信仰告白・教義である。したがって、それは、「単に偶然的で個人的な決断を意味しない」。したがってまた、その「決断は、今日に至るまでただ単にローマ教会と東方正教会の決断であったばかりでなく、根本的にはすべての偉大な福音主義教会の決断」としてのそれであった(157・158頁)。言わばそれは、教会の「宣教が聖書と結びついていることから……発生した……根本的な問い」、すなわち「教会の説教にとっても、(また)教会の神学にとっても、第一級の生死にかかわる問い」に対して、「教会は三位一体論」・三位一体教義で答えた、その答えとしてのそれである(159頁)。自己「啓示する方は誰であるか」・「啓示の主体」は誰であるかの問いに対して、教会の三位一体論は、「神は」、「自己を啓示する方である、と答える」。また、「神は」、「自己を啓示する方である」、と答える。このことは、「自由・主権」は神自身においてのみ「実在であり真理である」ということ、したがって神は、自在性における単一性・神性・永遠性をその存在の本質としており、その自在性を手離さずに(その「失われない」単一性・神性・永遠性の繰り返しにおいて)、その神が、人間に向かって「三度別様」に三つの「存在の仕方」において(「失われない差異性」としてのその他在性において)自己啓示する、ということを意味している。言い換えれば、、神の「存在の本質」は、単一性・神性・永遠性にあるから、「神の内三位一体的父」は、「子として自分を自分から区別」するし自己啓示する神として自分自身が根源である。したがって、その区別された子は父が根源であり、愛に基づく父と子の交わりである聖霊は父と子が根源である。この神は、子の中で「創造主として、われわれの父」として自己啓示する。したがって、父だけが創造主なのではなく、子と聖霊も創造主である。このように、神の「存在の本質」から言えば、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある。このことを、バルトは、次のようにも述べている――教会的三位一体論は、「われわれの神」が、すなわち神の「啓示の中で自分自身をわれわれのものとならしめたものが、まことにである」、と。また「誰が神であるか」の問いに対しては、「われわれの神が神である」と答える(160頁)、と。言い換えれば、イエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない差異性の中」で三つの「存在の仕方」(性質・行為・働き)において「三度別様」に父・子・聖霊なる神であって、その「存在」は「失われない」単一性・神性・永遠性を「本質」とする「一神」・「一人の同一なる神」である。したがって、「三神」・「三の対象」・「三つの神的我」ではなく、父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」の、神性・単一性・永遠性を「存在の本質」とする「一人の同一なる神」、すなわち「三位一体」の神である。したがってまた、単一性・神性・永遠性を「存在の本質」とする神の完全さ・自由さは、父・子・聖霊の三つの「存在の仕方」の完全さ・自由さである。単一性・神性・永遠性を存在の本質とする神が自己啓示すること、すなわち「われわれに出会う」「神の存在、語り、行動」は、神の自己隠蔽(この隠蔽性と聖性において父)、神の自己顕現(この顕現性とあわれみにおいて子)、神の自己伝達(この伝達と愛において聖霊)という三つの「存在の仕方」を持っているから、「神の特徴的な性質は、聖、あわれみ、愛」、「神の特徴的な表示は、新約聖書において、聖金曜日、復活日、聖霊降臨日」、「創造主、和解主、救済主」、「それに応じて神の名前は父、子、聖霊」(161頁)という三つの「存在の仕方」においてある。したがって、「子としてそして霊として……自己を啓示する方」は、「汝であり続ける(中略)主であり続ける」。この立場において、教会は、「失われない」単一性・神性・永遠性としての神の「存在の本質」を揚棄することになる、「上から下りてきた半神」論、「下から上がった半神」論、神性否定のキリスト論を展開した「アリウスとすべての従属説」、を拒絶する、また「失われない差異性」としての神の三つの「存在の仕方」を揚棄することになるサベリウスとすべての様態論を拒絶する(162ー165頁)。
 さて、先ず以て、神自身のその都度の自由な決断による、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく人間が人間的に所有する人間の啓示認識も、人間の言語(神学的言語)を用いてのそれである以上、すなわち私たちは、キリスト者であれ人間の人間的存在を生きる以上、個と類・歴史的現存性(歴史性)と現実的現存性(現存性)の構造に不可避的に規定される――「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ない」ように、人間である私たちは、誰であれ、人間の存在様式に不可避に規定されてしか生きられない・存在できない(『福音と律法』)。このことを念頭に置いて、バルトは、キリスト教に固有な聖書の証言・証しおよび教会における客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(類)・その啓示の「概念の実在」の時間的連続性(歴史性)について、人間学的言語によってではなく、神学的言語によって、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」である、と言うのである(『教会教義学 神の言葉』)。ことことでバルトは、何度も述べるのであるが、神の言葉は、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である神の言葉の三形態、すなわち、イエス・キリストにおける啓示の実在そのものと、それに規定されたキリスト教に固有な、聖書の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(類)とその啓示の「概念の実在」の歴史性(時間的連続性・自己表出性)においてある、ということを語っているのである。この意味は、オリジナルな思想というものは、神学においてもあり得ない、と言うことを語っているのである。この認識は世界的思想家の共通の認識の在り方である。したがって、バルトは、啓示の「概念の実在」(神学的言語)の類・歴史性を媒介・反復するという仕方で、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」たのである。また、もちろん、一方でバルトは、その信仰・神学に、個性や時代性を刻んだのである。この意味で、バルトのオリジナリティーが発揮されたのである。このことが、「すべての大学社会の神学、何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの神学」者、またそれに類する牧師や著述家たちには全く理解できないのである。なぜなら、彼らは、一方通行的一面的なただ単なる形而上学的<学者>でしかなかったし、それに類した皮相的な売文家でしかなかったからである。「歴史とは個々の世代(≪個体的自己の成果の世代的総和≫)の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力を利用(≪媒介・反復≫)する」(『ドイツ・イデオロギー』、市民社会おける経済学的カテゴリーである材料・資本・生産力は、言語や性・夫婦・家族の概念と交換可能である)――世界的<思想家>と呼ばれるマルクスやフーコーや吉本等は、誰であれこの個と類・歴史性と現存性の構造を不可避的に生きるほかないことをことを自覚している。後期ハイデッガーもそのことに気づいた。したがって、前期ハイデッガーの哲学的原理に依拠したブルトマンは、ハイデッガー自身(人間学・哲学)によって足をすくわれてしまった――ハイデッガーはブルトマン(その学派)に対して、「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」、と揶揄的・批判的に述べた(木田元『ハイデッガーの思想』)。前述した、バルトのその神学の認識方法と概念構成によってしか、このハイデッガーの、ブルトマンやそれに類する学者や牧師たちに対する根本的な揶揄・批判を、根本的に包括し止揚することはできないのである。
 例示してみよう――状況が加担したことによってメディア界に登場し自分をエリートだと勘違いした近代主義を骨肉にまで受け入れた佐藤優は、富岡幸一郎と同じくバルト読みのバルト知らずとして、また前述の事柄も理解せず、「神学がなくても信仰は成立しますが、高等教育を受け、『天にいる神』をもはや素朴に信じることができなくなったわれわれには神学が必須です。われわれは『天にいる神』をほんとうに信じていませんが、ほんとに信じていないことを口にしてはいけないというのが、キリスト教信仰の第一の前提です。だからこそ神学が不可欠なのです。神学的な操作(≪非神話化等の操作≫)を経ない限り、われわれは古代の世界像をもっているキリスト教を信じることはできないということです」と書いた時、佐藤は、ハイデッガー自身によって足をすくわれてしまったブルトマンのエピゴーネンでしかない著述家でもあることを自己暴露したのである。なぜならば、佐藤は、バルトを論じているにもかかわらず、次に引用するバルトの根本的なブルトマン批判の言葉に耳を傾けていないからである――@「神話的世界像と神話的人間像」は時代の経過とともに「われわれの前から消え去ってしま」うし、私たちの「眼前存在」・現前性は「近代的な世界像、人間像」にあるから「神話形式のままでは、新約聖書の言表」、すなわち「語られた内容の表現」は理解できないから、それは「非神話化されなければならない」というブルトマンの非神話化論に対して、バルトは、「聖書註解者」は、「だれに対して」、「誠実と真実をささげるべきなのか?」・「責任的応答をなすべきなのか?」 「同時代の人たちの思考の前提に対してか?」・「そこから形成された理解の規準に対してか?」――否である。私たちは、十字架につけられ、復活したイエス・キリストにおける私たちの「実存という場所」において、私たちの「信仰より以前にも、信仰なしでも、……不信仰に抗して」も、私たちのために「生きて、われわれを支配」し、私たちを「愛し給う」イエス・キリストを、「認識し、持つことができることを示すということ以外の何が問題となるのだろうか?」と根本的なブルトマン批判を展開している。Aまたバルトは、「(中略)この(新約聖書の)使信が、まさにイエス・キリストについての使信として、神と人間との間に起った出来事を内容としていることが確かであり、また、この使信が、その形式において、この出来事についての人間による証言であることも確かであるかぎり、われわれがこの使信の人間学的内容にも問いかけることは可能であり、またそうしなければならないことは明瞭である。(≪しかし、第一次的な≫)(中略)他のすべてのものを基礎づけ、制約し、支配するキリストの出来事としてのキリストの出来事を、この証言から取り去って(≪この証言から啓示の実在を取り去って≫)――その結果、(≪啓示の実在を取り去った≫)この証言を、そこでは第二次的なもの、あの第一次的なもの(≪前期ハイデッガーの哲学的原理・「容易に修得しえない」「先行的理解と言語〔表現〕」によって対象化された人間の自己意識の意味的世界である啓示・存在者・存在者レベルでの神≫)に従事することにおいてのみ真であり、重要であるもの、に形式変換し、転釈するという場合、その使信をゆがめ、切りちぢめることにならざるをえない……」、と根本的なブルトマン批判を展開している (『カール・バルト著作集3』「ルドルフ・ブルトマン」)。このように、架空性の循環に陥っている神<学者>やそれに類する牧師・著述家たちに対して、バルトは『バルト自伝』で次のように語らなければならなかった――「現実の人間を考慮しない(『神はすべてであって人間は無である!』)抽象的な超越神、現代にとっての意義を伴わない抽象的な終末の待望、この超越的な神にのみに専念し、深淵によって国家や社会から分離された同様に抽象的な教会――それらすべては私の頭に存在したものではなくて、私の本を読んだ多くの人々の頭のなかに、また特に私についての評論をしたり、一冊の本を書いたりした人々(≪根本的な誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて語る自然神学的な人間学的神<学者>やそれに類する牧師・著述家たち≫)の頭のなかにのみ存在していたのである」、と。

 

三位における一体 101−111頁
 ここでのバルトの論述の主旨は、「教会の三位一体論においてこそ、……キリスト教的一神論が問題であったし、今も問題である」(108頁)、という点にある。教会の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠としての神の啓示は、「聖書的な啓示の中」にある「三位一体論の根」(102頁)、すなわち旧約聖書におけるヤハウェ・新約聖書における神(テオス)あるいは主(キュリオス)自身の自己啓示のことである。
 三位一体論は、「この名を説明する確認以外の何物でもない」・「父に向かって祈るところの者、子を信じる者、聖霊によってうながされる者、その者に対して、ひとりの主(≪単一性・神性・永遠性を存在の本質とする神≫)が出会い、その者とひとりの主(≪単一性・神性・永遠性を存在の本質とする神≫)がご自身を結びつけ給う」(102頁)、ということを指し示している。聖書また教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する。したがって、この啓示が教会の宣教の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠である。この三位一体論は、神論の決定的に重要な構成要素であり、「啓示の認識原理」である。したがってまた、「教会の宣教の批判と訂正」は、常にこの三位一体論に即して行わなければならない。なぜならば、この三位一体論を啓示認識の原理にしない場合、すぐに神性否定のキリスト論、半神・半人キリスト論、三神論、「三つの神的我」論、神と人間との混淆論・共働論、「神人協力説」という自然神学的なキリスト論・聖霊論・神論等に埋没していく以外にないからである。したがって、「三位一体的な洗礼の定式は、もしそれを三つの神的名」あるいは「三つの対象を持つ信仰」・「三神」「においてなされる洗礼の定式として理解するなら、これ以上ないほど全くひどく誤解したことになる」(103頁)。聖書における「神が主であること」は、「神の本質」、「神性」、「神的本質」を意味しており、したがってこの場合、主なる神は、神性(単一性・永遠性)を本質とする神的存在である、ということである。この神の「存在の本質」としての単一性・神性・永遠性は、「『ペルソナ』(≪神の「存在の仕方」≫)が三つであることの中に」おいてのみ成立しているそれである。すなわち、「神は三度の繰り返しの中でひとりの神であるということ、しかもこの繰り返し(≪永遠性≫)そのものは神の神性に基礎づけられている」(105頁)。バルトが、『神の人間性』において、「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」と述べたうえで、「神の神性において、また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」と述べたことは、この自覚のことであって、したがって、イエス・キリストは、単一性・神性・永遠性を本質とする(神の「存在の本質」)――『神の人間性』における「神の神性において、」ということである――、「まことの神」であり「まことの人間」であるイエス・キリスト(神の言葉・神の子・神の「存在の仕方」)――『神の人間性』における「また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」ということである――、となる。このイエス・キリストにおける啓示と和解(「存在の仕方」)が「キリストの神性」の根拠ではなくて、「キリストの神性」・キリストの「存在の本質」である神性性(単一性・永遠性)が「啓示と和解を生じさせる」のである。ここで単一性は、「三つの『ペルソナ』の本質」の、「単なる種類の単一性、あるいは単なる集合単一性」ではなくて、「数的な単一性の真理」のことである。この主・主権・自由としての「神のただひとつの本質に、……われわれが今日、神の『人格性』と名づけるところのものも属している」(106頁)。この「人格性の概念」は、「近代の自然主義および汎神論に対する戦いのひとつの産物である」。すなわち、三位一体論における「神の人格性の教え」は、そこでは「三つの神的我について語られているのではなくて、……三度ひとりの神的我について語られているのである」(107頁)。
 さて、反三位一体論は、「どの形においても、それが啓示の否定でない限りは、啓示のより粗野なあるいはより洗練された偶像化」をもたらす。「アリウスと彼に属する者たちが、キリストの中に、ひとりの神の第一の、最高の、そして最も栄光ある被造物を見、崇拝しようと欲した時」、それは神の単一性の恣意的な揚棄(廃棄)であって、「神の単一性に対して侮辱を加えること」となった(109・110頁)。バルトによれば、オリゲネスにおける従属的キリスト論も、養子論的モナルキア主義(独裁神論)者たちも、様態論的モナルキア主義(独裁神論)者たちも、近代における「シュライエルマッハーと彼に属する者たち」も、神の「存在の本質」である単一性に反対する立場であり、そして近代のサベリウス主義は、偶像崇拝へと向かう立場である(110・111頁)。「啓示」・子と「啓示されてあること」・聖霊とは、啓示者・父と「等しくなければならない」(111頁)。すなわち、子と聖霊は、父と等しく、単一性・神性・永遠性をその存在の本質としていなければならない。ここで、バルトは、一切の自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教を包括し止揚しているのである。もちろん、このことを、バルトは、一切の近代主義をに抗することができ、またそれを包括し止揚することができる認識方法と概念構成それ自体において行っているのである。それは、次のような事柄である。
1)「聖書の主題であり、哲学の要旨」である神と人間との無限の質的差異である(『ローマ書』)。
2)主格的属格としての「イエスの信仰」、すなわちイエス・キリストにおける「福音と律法」の「真理性」と「現実性」の構造化(成就)・啓示の客観的現実性、言い換えればイエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)である(『福音と律法』)。
3)「聖霊は、人間精神と同一ではない」・「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」(『教義学要綱』)。また、聖霊によって更新された人間理性も、聖霊と同一ではない。
4)存在上・認識上、「自由・主権」は、神自身においてのみ「実在であり真理」である(『教会教義学 神の言葉』)。
5)神学は、神学における往相的な知識的上昇過程における教義学的知識の頂から、その還相過程において、「町や村や料理屋や宿屋の人間の現実的生活」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)・「貧しい、低きにいる民」の現実的生活(『説教の本質と実際』)にまで意識的に下降し――このことは、時流や時勢との迎合・同化、大衆迎合・大衆同化・大衆啓蒙のことでは全くない――、その神学の認識方法および概念構成それ自体に、その時代の大衆像と大衆的課題を繰り込み、そしてイエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)に包括していく、神学における思想の往還が必要である。この神学ぬおける思想の往還は、その神学の認識方法と概念構成それ自体において、信と不信、知と非知、キリスト者と非キリスト者の枠組みを取り除き、両者を架橋することができる、徹頭徹尾全面的に、あくまでも神の側の真実である主格的属格としての「イエスの信仰」=啓示の客観的現実性を根拠としている。
6)「世、歴史、社会」は、「その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として、「神の支配のもとに入る」(『教会教義学 神の言葉』)。
7)啓示の実在、啓示の時間・永遠・超歴史・救済史は 、常に 、人間が人間的に所有する人間の啓示認識 ・概念 ・教義 、人間の時間 ・歴史の 、彼岸・外にある。したがって、私たち人間における「終末論的限界」の認識・概念、また「隠蔽性・秘義性」を本質とする神に対する人間の理性の「盲目」性と「神の不把握性」の認識・概念は、神の「存在の本質」=単一性・神性・永遠性についての「信仰命題」であり、一般的真理ではなく、啓示の真理・信仰の真理である(『教会教義学神の言葉』)。
 これらの神学の認識方法と概念構成それ自体においてはじめて、ヘーゲル哲学やフォイエルバッハの宗教批判やマルクスの宗教批判やハイデッガーの「存在者レベルでの神への信仰」批判(ブルトマンへの揶揄)を、単純にしかし根本的に包括し止揚できるのである。すなわち、その神学の認識方法と概念構成それ自体においてはじめて、ヘーゲルにおける自己還帰する他在であって自在という自由の概念、言い換えれば自己還帰する自己意識の対自的で対他的な構造、いわば自己還帰する自己意識の、個体的自己(自己が自己に関係する世界)――個体的対(自己が他の個体と一対として関係する世界)――個体的共同性(自己が社会や政治と関係する世界)、自己還帰させず対象化された自己意識の類的本質を価値・第一義性とする自己意識における宗教的疎外の問題(フォイエルバッハ)、天上の観念的非日常性(政治的共同性――「私利・私意」に基づく利己主義的な私的他者との対立・争いの生活、利害共同性との対立・争い、あたかも宗教的天国におけるようなそうした対立や争いのない法的政治的共同的観念によって統一された公的共同性の一員・公民としての生活)と、地上の現実的日常性(市民社会生活・個別的私的現実的生活――具体的に私人として、「私利・私意」に基づく利己主義的な私的他者との対立・争いの生活、利害共同性との対立・争いの生活)との二重の生活を強いる完成された政治的国家の問題(マルクス)、「存在者レベルでの神への信仰」の問題(ハイデッガー)を包括し止揚することができる。この事柄は、神学における思想的課題である。この思想的な作業は、神<学者>やそれに類する牧師・著述家では全く不可能なのである。私は、その事例を何度も述べてきた。

 

一体における三位 112−139頁
 「啓示された神の啓示された単一性の概念は、神の本質の中での差異、秩序を排除」せず、「むしろ含みいれている」「神の中における三つの『存在の仕方』区別あるいは秩序である」(114頁)。この「父、子、聖霊として区別されあるいは秩序づけられた」「Person(人格、神格、位格)」・「存在の仕方」を通底している「共通の概念」・「共通の原理」は何か?(115頁)。
 バルトは、「近代的な人格性の概念」が「新しい混乱以外の何事も惹き起こさなかった」(115頁)ことに自覚的であったから、「三度別様」の「三つ」を、「他との関係なしにそれ自身で存在している」近代的な「個体」と区別させるために、「人格の名で呼ぶことを避け」て、「存在の仕方」と呼んだ(E・ブッシュ『バルト神学入門』)。ここに述べられている「位格」の概念は、異端・サベリウス主義との戦いに由来している。したがって、その概念は、「父、子、霊それぞれの、自分自身の中にあることと〔向自的に〕それ自体であることを指し示すべき」ものであった(115頁)。すなわち、神自身においてのみ「実在であり真理」である、神自身のその都度の自在であって他在である自由な決断に基づく、他在性・対他性、すなわち「失われない差異性の中」で三つの「存在の仕方」(性質・行為・働き)において「三度別様」に父、子、聖霊なる神であって、その自在・向自・対自的「存在」は「失われない」単一性・神性・永遠性を本質とする「一神」・「一人の同一なる神」である。バルトの次のような例示は、理解し易い――「創造された世界」における「神の愛」と「われわれの世界」における「イエス・キリストの事実の中における神の愛」との間には差異がある。すなわち、後者の神の愛は、本書の第二章第一節で述べる『福音と律法』の「真理性」と「現実性」の構造における神の愛を意味している。それは、「まさしく神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった人間の失われた世界に対する神の愛」である。すなわち、「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない。この意味は、「和解ないし啓示」は、神の「存在の仕方」の差異性における「第二の存在の仕方」=イエス・キリストの「新しい神の業」である、ということである。それは、「神的な愛の力」・「和解の力」である。イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、神の「第二の存在の仕方」において「第二の神的行為を遂行」したのである。この神の「存在の仕方」の差異性における「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者≫)と言葉(≪啓示≫)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、創造主・父に先行することはできない。しかし、父・子は共に神自身のその「存在」において神性・単一性・永遠性を本質としているから、この従属的な関係は、「存在の本質」の差異性を意味しているのではなく、「存在の仕方」の差異性を意味している。言い換えれば、このことは、父なる神の存在の仕方の中での一人の神(存在の本質)・子なる神の存在の仕方の中での一人の神(存在の本質)・聖霊なる神の存在の仕方の中での一人の神(存在の本質)、という神の「存在の本質」(単一性・神性・永遠性)とその神の人間へと向かう「存在の仕方」(性質・行為・働き)における自在であって他在である神の自由を意味している(『教会教義学 神の言葉』)。したがって、「神性否定のキリスト論」も、「下からの半神」論も、「超人」論も、「人間の『最深の本質』・『最高の理想』論も、「三神」論も、「三つの対象」論も、「三つの神的我」論もあり得ない。バルトは、次のように述べている――「神の一つであること(単一性)のなかでの三つであることの原理の、本来的に内容豊かな規定を、アウグスティヌスもトマスもわれわれプロテスタントの父祖たちもPerson概念の分析から得てきたのではない。(中略)それであるから、(≪バルトは≫)……Personについて語らず、むしろ『存在の仕方』という概念の方を選ぶ。(中略)『神は、父、子、聖霊なる、三つの存在の仕方の中でひとりの方である』という命題は、(中略)ひとりの神、ひとりの主、ひとりの人格的な神は、ただ単にひとつの仕方の中でだけ、現にあるところの方であるのではなく、……父〔存在の〕仕方の中で、子の〔存在の〕仕方の中で、聖霊の〔存在の〕仕方の中で、現にあるところの方である」。「神は、三つの存在の仕方の中ででも、自分自身で、そしてまた世界と人間に相対しても、ひとりの神である。しかしこのひとりの神は、(≪「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方において≫)三度別様に神である」(123・125頁)。
 さて、「三つの神的存在の仕方が相違しているという事実は、それら三つの存在の仕方に固有の(中略)発生的」な・「起源的」な「相互関係からして理解されるべきである」(129頁)。このことは、次のこと――すなわち、「神の内三位一体的父」は、「子として「自分を自分から区別」するし自己啓示する神として自分自身が根源である。したがって、その区別された子は父が根源であり、愛に基づく父と子の交わりである聖霊は父と子が根源である。「父ト子ヨリ出ズル御霊」。この神は、子の中で「創造主として、われわれの父」として自己啓示する。したがって、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主である。同様に、神の「存在の本質」から言えば、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもあるということ――、を意味する。「ただ、神の覆いかくすこと」(隠蔽・啓示者)が「存在する故に、神の覆いをとること」(顕現・啓示)が「存在し得る」。「そしてただ神の覆いかくすことと覆いを取ることが存在するが故に」、その「結果」、「神の自己伝達」(啓示されてあること)が「存在し得る」。「神が神であるところの本質の中に」・その「行為の中に」、「まず純粋な起源があり、それから二つの異なった結果が起こる。そしてそれらの二つの結果のうち、第一の結果はただ起源からだけ、第二の結果は同時に起源と第一の結果から由来しているということの中に、神が一つであることの中でのこの三つであることは、成り立っている」。神は神であるという自在性において、神は「自分自身を父として……純粋な与え手として所有する。子として……受領者であると同時に与え手として所有する。霊として……純粋な受領者として所有する」(130ー132頁)。しかし、「(≪われわれは≫)ただ聖書に証言された啓示を解釈しつつ、そしてこの対象を念頭に置きつつ、……そのことを主張することができるだけである」(137頁)。「人は、神の中での父、子、霊、は何であるかを語ったあとで、続けてこう言わねばならない、実は何も語りはしなかった、と」(138頁)。「三位一体の秘義」(神の隠蔽性・神の不把握性ということ)は、「秘義であり続けるように、……配慮されている」、したがって教会のひとつの機能である教義学・神学は、その神の「秘義と取り組んでの理性的な努力のことである」(139頁)――「私の思想はいかなる場合にも一つの点において常に同じであるということである。いわゆる「宗教」が私の思惟の対象・根源・規準ではなく、むしろ、……神の言葉こそ私の思惟の対象であるという点では少しも変わってはいない。キリスト教会、その神学、その説教、その伝道を基礎づけ、維持し、支えてきた神の言葉、聖書において人間に……あらゆる時代、あらゆる国、生のあらゆる段階と状況の人間に語りかける……神の言葉、神との関係における人間の秘義……ではなくて、人間との関係における神の秘義である神の言葉……それこそが常に私の思惟の対象なのである」 (『バルト自伝』)。バルト場合、このように、その神学の認識方法と概念構成それ自体に、自己相対化視座を持たせているのである。ここでもバルトは、「言葉ガ事柄ニ服シテ〔規定サレテ〕イル……という原則」・「命題」に基づいた認識方法と概念構成を行っているのである(137および146頁)。したがって、神学における思想家としてのバルトの根本的な立場は、次の点にある――「(≪私たちは神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示、この≫)一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪学派・教派・思想傾向・時流や時勢・社会的政治的な言説や運動≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」(カール・バルト『教会教義学 神の言葉』)。このことは、すべての世界思想の原則である。それが思想として成立するためには、多元<主義>や折衷<主義>や対話<主義>・路線を主張する点にあるわけではなく、次の点にある――それは、「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している」中で、自らの立場において、両者を包括し「止揚しなければならないということが思想的な問題」(吉本隆明『どこに思想の根拠をおくか』「思想の基準をめぐって」)、という思想家としての自覚にある。

 

三位一体〔性〕 140−151頁
 三位一体論は、神が「三つであることの中での一つであること」という定式と「神が一つであることの中での三つであること」という定式との「総括」である(140頁)。それは、切り離すことのできない啓示の弁証法である。したがって、神が「三つであることの中での一つ」とは、「ひとつとなること」を内包した単一性のことである。すなわち「父、子、聖霊、が自分自身の間で一致しつつ一つであること」を意味する。神の存在の本質は単一性・神性・永遠性であるが、それは、「一ツノ実体、一ツノ状態、一ツノ力デアル」、ということである(141頁)。「聖書の証言に従えば、啓示の中でひとりの神がただ三つの中にうおいてのみ、三つがただひとりの神としてのみ、認識できるのであるが、(中略)三つのうちのどの一つも他の二つとともにある」(142頁)。「父、子、霊が自分自身の間で一つであることに、父、子、霊が外に向かって一つであることが対応する。神の本質と働きは二様のもではなく、ひとつである」。「この神の自由さの中に神の不把握性は基づいている。この自由さの中に、啓示された神のすべての知識の不十分さは基づいている」(144・145頁)。このことは、神自身においてのみ「実在であり真理」である自在であって他在における神の自由を意味している。上記においても述べたように、神の「存在の本質」は、単一性・神性・永遠性にあるから、父は子として「自分を自分から区別」するし自己啓示する神として自分自身が根源である。したがって、その区別された子は父が根源であり、愛に基づく父と子の交わりである聖霊は父と子が根源である。この神は、子の中で「創造主として、われわれの父」として自己啓示する。また、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主である。この神の「存在の本質」から言えば、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある。また、神性・単一性・永遠性を「存在の本質」とする神の完全さ・自由さは、父・子・聖霊の三つの「存在の仕方」の完全さ・自由さである(151頁)。神の言葉の実在の出来事である神の言葉の三形態は、すなわちイエス・キリストにおける啓示の実在そのものと、また「聖書」の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(類)・この啓示の「概念の実在」の歴史的現存性は、三位一体論の唯一の啓示の類比である(147頁)

 

三位一体論の意義 152−166
 このことに関する論述は、この論述の最初に述べた通りである。追記するとすれば、次の点だけである。三位一体論は、旧新約聖書の本文には出てこない。また、旧新約聖書の「歴史的な状況から発生」したものでもない。「神の啓示について、聖書の証言はわれわれを、(ひとつの)命題『神は主としてご自分を啓示する』を三度、違った意味で解釈する可能性の前に置く。この可能性こそ、三位一体論の聖書的根である」。したがって、教会は、教会における信仰的神学的問題に対する答えを、この根に基づいた神学的「言語を用いての旧新約聖書本文の注釈」において三位一体論を構成した。すなわち、三位一体論は、教会の客観的な信仰告白であり教義であり神学である(152・153頁)。