本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

カール・バルトの三位一体論 その1 序説(イ−2)

カール・バルト『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示(上) 三位一体論』吉永正義訳(新教出版社)、等々に基づく

 

 

神学における思想としてのカール・バルトの三位一体論 その1 序説(イ−2) 邦訳76−100頁

 

三位一体ノ〔痕〕跡
 このバルトの「三位一体ノ〔痕〕跡」論について述べることは、『使徒的人間――カール・バルト』を著わした富岡幸一郎の自然神学理解の皮相性と<バルト読みのバルト知らず>さを論証することにも自然につながるのですが、しかしこのことは結果としてそうなるというだけであって、私のこの論述の目的はそこには全くありません。私のこの論述の目的は、あくまでも、私自身の信仰・信仰体験・神学を介したバルト自身の「三位一体ノ〔痕〕跡」論の解明にあります。バルト、次のように述べています。

 

  (中略)聖書の啓示概念は、その分析を最も単純な分析へと徹底させてゆけば、父と子と聖霊として三重の神が一人の主である……ことが三位一体論の根である……。聖書の啓示概念そのものが、三位一体論の根である。三位一体論は、イエスはキリスト、或いは主であるという認識の展開以外の何ものでもない。(≪このことを≫)、(≪「超自然な神学」を立場とする≫)われわれは(≪、神の「啓示の中でとられた神の形態としてでなく」・「被造物的実在の中での類似体という意味」で「三位一体ノ〔痕〕跡」という概念を使用した自然神学の系譜に属するアウグスティヌスに対して・またそれに類する者たちすべてに対して≫)批判的・論争的にこう言うのである……。(『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示(上) 三位一体論』 邦訳76頁)

 

 私たちは、この「アウグスティヌスから由来する」「三位一体ノ〔痕〕跡」論においても、そのアウグスティヌスの自然神学的な概念を紙一重で超えていく、神学における思想家バルトの貌を垣間見ることができるのであるが、先ずここでは、両者の根本的な差異性について述べておいた方が適切で理解しやすいと考える。
1)人は、ほんとうは世界を三位一体から説明しようと欲するべきであったにもかかわらず、三位一体を世界から説明しようと欲した。人は、ほんとうは人間の理性を支配する「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」(邦訳96頁)に信頼し固執すべきであったにもかかわらず、人間の理性が啓示を支配し表現できる能力を持つものとして人間の理性能力に信頼し固執した。そして人間は、自分自身の恣意的なプログラムや「自分自身の歴史」や「現在の解釈」を表現しようとした、「自己表現としての宣教」を企てた。人は、「三位一体を聖書から導き出し、基礎づける」のではなく、「三位一体を人間的自意識から、あるいは別の被造物的秩序から導き出して基礎づけることができる」と考えた。人は、「人間にとってはるかに身近な内世界的三位一体の方に向かい」、「ますます内世界的三位一体自体の中に神的三位一体を見出すと考えるようになった」。人は、ほんとうは神が「自分自身を啓示する三位一体の中で、三位一体が被造物的形態をとる限り」においてではあるが、「三位一体ノ中デノ被造物ノ跡」のことであると言うべきであったにもかかわらず、「被造物ノ中デノ三位一体ノ跡」と言った(邦訳88−90頁)。ここで、前述の「被造物的形態」・「三位一体ノ中デノ被造物ノ跡」とは、バルトにおいては、三位一体論の唯一の比論(類比)としての神の言葉の実在の出来事=「神の言葉の三形態」のことである。すなわち、それは、人間に向かって語られる神の自己啓示である「イエス・キリストにおける啓示の実在そのもの」と、またキリスト教に固有な「聖書」の証言・証しおよびキリスト教に固有な「教会」の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(類)、その啓示の「概念の実在」の歴史性・歴史的現存性・時間的連続性・自己表出性のことである。
 ここで、啓示の実在そのものは、神の単一性・神性・永遠性を「存在の本質」とするイエス・キリストであり、神の言葉・神の子・まことの神(性)でありまことの人間(性)を神の「存在の仕方」とするイエス・キリストである。この啓示信仰・啓示認識・啓示概念は、主格的属格としての「イエスの信仰」のそれと同じように、綿々として尽きない、一切の近代主義・一切の自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教に対して、根本的に抗することができる神学における思想的武器なのである。バルトは『教会教義学 神の言葉』の別の箇所で次のように述べている――「確かに受肉は中心的にして重要なものではあるが……新約聖書の本来的内容であるというふうには言ってはならないのである。(中略)それはおよそすべての他の宗教世界の神話や思弁の中にも見出されるものである。(中略)人は、聖書が語っている受肉を、ただ聖書からのみ、換言すればイエス・キリストの名からのみ……理解することができる。……神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない(≪なぜなら、人類史のアジア的段階の日本において非農耕民は神人と呼ばれていたし、滝沢克己も宗教としての滝沢自身の「根本的事実」の概念に規定された限りにおいてイエスの神人性を認めていたからである≫)。新約聖書の内容とは、ただイエス・キリストの名だけであり、そのイエス・キリストの名がたしかにまた、そしてとりわけ、彼の神人性の真理をその名に含んでいるのである。ただまったくこの名だけが、啓示の客観的現実を言いあらわしている」。
2)バルトは、「存在するものそのもの」(邦訳78頁)・「その純然たる造られた存在」に依拠したアウグスティヌスの「造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」(邦訳77頁)という語り方に対して、根本的な批判を加えている。すなわち、そのような三位一体の跡は、「世界に対して超越する創造神の跡」として理解することはできない。それは、ただ単なる人間の自己意識によって対象化された人間自身の自己認識、すなわち人間自身の「内在的に理解」された「宇宙の諸規定・人間的な現実存在の諸規定」・「単なる宇宙論や人間論」でしかない、と批判を加えている。また、そのような三位一体論は、人間自身に基づく「人間の世界理解の、最後的には人間の自己理解」・「神話」、すなわち自然神学的な神の人間化・神学の人間学化・人間学的神学の位相にあるものである、と批判を加えている。なぜなら、そのような神と人間との混淆論・共働論・「神人協力説」に基づく人間の啓示認識、それに依拠した存在の比論を通した人間の自己認識を目指す自然神学的な信仰・神学・教会の宣教・キリスト教は、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼しない」からである。したがって、バルトは、次のように言うのである――「神学をただ啓示の中にのみ基礎づけ」るために、聖書に依拠した信仰・神学・教会の宣教・キリスト教は、「罪深い曲がった人間」の「究極的な限界性」・終末論的限界を自覚した人間の言語を前提として、「三位一体を、世界から説明しようと欲」しないで、むしろ逆に、「世界を三位一体から説明せんと欲」する、と。すなわちバルトは、アウグスティヌスとは違って、その都度の神の自由な決断による、イエス・キリストの啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく人間が人間的に所有する人間の啓示認識、その啓示認識に依拠した信仰の類比・関係の類比・啓示の類比(比論)を通した人間の自己認識を目指しているのである。このアウグスティヌスとバルトとの根本的な差異性は、前者においては「被造物的実在の中での類似体」・「被造物ノ中デノ三位一体ノ跡」というように語られ、後者においては神の「啓示の中でとられた神の形態」・「三位一体ノ中デノ被造物ノ跡」・三位一体論の唯一の比論(類比)としての神の言葉の実在の出来事=「神の言葉の三形態」というように語られる点にある。「啓示は例証されようとはせず、解釈されんことを欲する」。「解釈する」とは、「別の言葉で同一のことを言うこと」である。「例証する」・「例証する者」とは、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」に信頼し固執せず、「人間にとって啓示よりもいつもはるかに身近」な「最後的には人間自身に固有な存在と本質である」人間の自由な自己意識の類的本質や人間の経験的普遍や人間論や哲学原理や認識論や世界観を第一次化して「同一のことを別の言葉で言うことである」。
 しかし、バルトのように自覚された「神学的言語」における「どんなに潔癖な教義学」であっても、「その中に例証の要素が見い出されないような啓示の解釈は存在しない、というのが事実であるかもしれない」(邦訳95・96頁)から、その神学の認識方法と概念構成それ自体に、神と人間との無限の質的差異(これは聖書の主題であり哲学の要旨である)の概念、啓示の実在・時間(救済史)は常に人間の啓示認識・時間(歴史)の彼岸・外にあるという概念、神の不把握性の概念、終末論的限界の概念、自己相対化視座を持っていなければならない。また、啓示認識において「誤謬が必然」とならないような、神学の認識方法と概念構成を必要とする。バルトは、次のように述べている――釈義神学による聖書的教えの認識・概念も、キリスト教的な神についての「語りの規準」であるイエス・キリスト自身・啓示の実在そのものと同一ではない。したがって、教義学は「使徒や預言者たちが語ったことを問う」のではない。なぜなら、「使徒や預言者たちが語ったこと」は啓示の実在そのものではないから、もしも彼らの語りをそれとして問うことをしたならば、それは、人間によって言語を介して対象化された彼らの語り・「存在者レベルでの神」を問うことになってしまうからである。教義学は、「『使徒と預言者たちに基づいて』何をわれわれ自身が語るべきかを問」わなければならない。その時だけ、「キリスト教的語りは今日何を語ることがゆるされ、語るべきかを問うよう自分が要請され」・命じられていることを知る。教義学そのもの、また神についての教会の語りは、「信仰のない」人間の、「信仰にさからう理性を用いての語り」であるが、教義学そのものが、「神についての語りをはかる規準を、イエス・キリストの中で、受けとる限り、教義学は真理の認識として可能」となる。その場合、教義学は、「人間的な問いの中で、人間的な問いと共に、人間的な問いのもとで、……神的な答えについて語る」ことができる。このことは、その神学の認識方法と概念構成において、神のその都度における自由な決断によるイエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく人間が人間的に所有する人間の啓示認識と、それに依拠した啓示の比論(類比)を通した人間の自己認識に信頼し固執し、不可避的なキリスト教に固有な聖書証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白と教義である啓示の「概念の実在」(類)とその歴史的現存性(時間的連続性・自己表出性)に連帯しなければならない、ということである。しかしもちろん、それが「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神」自身の決定事項なのであって、私たち人間の決定事項ではないのである。したがって、教義学の在り方は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基」づいて成立しているのである(『教会教義学 神の言葉』)。したがってまた、私たちは、次のように言わなければならないのである――「人間が人間自身の力によって、自然的な能力・その悟性・その感情に応じて、認識しうるもの、それは精々、最高の実在・絶対的存在のようなもの・絶対に自由な力の精髄・一切事物を超越する存在の精髄であろう。このような絶対最高の存在・このような究極最深のもの・このような「物自体」は、神とは何の関りもない(『カール・バルト著作集10』「教義学要綱」井上良雄訳。≪したがって、啓示認識において自己相対化視座をその神学の認識方法と概念構成それ自体に持たない、人間の経験的普遍や人間論や人間学的な哲学原理や認識論や世界観を第一次化した原理に信頼し固執した人間の啓示認識、それに依拠した存在の比論を通した人間の自己認識は「誤謬は必然」となるのである≫)。三位一体論の根・根拠・基礎は、「ただ啓示の中にのみありうる」。「人は二人の主に兼ね仕えることはできない」。したがって、神と人間との混淆・共働・神人協力説を目指す信仰・神学・教会の宣教・キリスト教においては、「誤謬は必然」となる。「被造物ノ中デノ三位一体のまことの跡」は、「神の言葉の三つの形態」(神の自己啓示=イエス・キリストにおける啓示=啓示の実在そのもの――啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて「われわれがわれわれの人間的な耳と概念で神の啓示を聞くときに聞くところのこと」と、キリスト教に固有な聖書――聖書の証言と証し・「われわれが聖書の中で聞きとる……ところのこと、および、キリスト教に固有な教会の宣教――教会の客観的な信仰告白と教義・「神の言葉の宣教で(われわれの生〔活〕の中で)事実あるところのこと」)としての啓示の「概念の実在」(類)、またその啓示の「概念の実在」の歴史的現存性・自己表出性においてある(98−100頁)。

 

 さて、私たちは、この「三位一体ノ〔痕〕跡」論において、アウグスティヌスのそれを紙一重で超えたそのバルトの神学における思想を、一切の<自然>神学の系譜に属する神学に対して、「超自然な神学」と言うのである。なぜならば、アウグスティヌスのそれは、前述したように、まさしく<自然>な神学のそれであるから、そのアウグスティヌスのそれを包括し止揚してそこから超出したバルトのそれを<超自然>な神学として概念規定しない限り、あるいは<超自然>な神学という概念を疎外しない限りは、概念的矛盾に陥ってしまうことになるからである。ここで、疎外とは疎外の止揚ことである。すなわち、バルトは、アウグスティヌスを単純にしかし根本的に紙一重で超えたのである。言い換えれば、バルトは、単に学問をしていただけでなく、教会の宣教のただ中で神学において思想していたのである。多元<主義>や折衷<主義>や対話<主義>等々において曖昧化するのではなく、その神学の認識方法と概念構成それ自体において、アウグスティヌスのそれを包括し止揚しそこから超出したのである、そういう仕方で架橋したのである。バルトは、次のように述べている――(≪私たちは神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示、この≫)一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪学派・教派・宗派・思想傾向・時流や時勢・社会的政治的な言説や運動≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」(『教会教義学 神の言葉』)。吉本も、次のように述べている――「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している」中で、自らの立場において、両者を包括し「止揚しなければならないということが思想的な問題」である(吉本隆明『どこに思想の根拠をおくか』「思想の規準をめぐって」)。吉本は、「思想の基準をめぐって」で、人間の固有性について、「根源的にそして単純に答えられるべき」だとして、例えば「脳髄が脳髄について考える」個体の内部過程における認識が成立するためには、自然な「<生理>過程」の「信号、反応、刺激、伝播」という「自体的な識知」=<生理>「過程の<変容>」と、脳髄が脳髄を自然な<生理>過程の外部から認識する「対象的識知」の過程が必要であり、そして後者の対象的認識の過程は、自然な<生理>過程にとっては絶対的な自己矛盾であるから、人間に固有な「心的領域」あるいは<観念>という概念を疎外する以外に、そのような自己矛盾を包括し止揚することはできない、と述べた。したがって、「生理学が<観念>という概念と命名を拒否」しても、「<観念>という言葉でいいあらわされるものと、おなじ実体を想定せざるを得ない」と、述べた。また、「人間の心的な過程が存在するためには、身体の存在は絶対的条件である。それにもかかわらず、人間の心的な過程の内容は必ずしも身体の存在の反映ではない」、と述べた。すなわち、吉本は、この認識方法と概念構成それ自体において、唯物論か観念論かという枠組を包括し止揚してそこから超出したのである。そういう仕方で、両者を架橋したのである。また、マルクス<主義>者とは違って、マルクス自身の思惟は、唯物的ではあっても、唯物<主義>的ではなかった(『経済学批判』)。2)『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』に即して言えば、こうである。ウグスティヌスは、「三位一体の痕跡」である「想起(記憶)、知解、愛」としての「人間の中での神の像」を、「最も身近な最も高貴な認識根拠」とした。それは、アウグスティヌスにとって、「聖書的・教会的・教義的前提」であった。そして、アンセルムスにとってもそうであったが、アンセルムスの場合は、アウグスティヌスとは違って、@徹頭徹尾「教えられつつ語る」のであって、「われわれの理性に内在している神概念の再想起」において「創造しつつ神について語ろう」とはしなかった。したがって、A「認識的なラチオ性〔理性性〕」は、「啓示、恵み、信仰(≪啓示の出来事と信仰の出来事に基づく人間の啓示認識、それに依拠した啓示の比論を通した人間の自己認識≫)」を前提条件としていた。この紙一重を超える在り方に、アンセルムスの神学における思想性はあるのである。

 

 さて、バルトは、三位一体論の世俗化であるアウグスティヌス的「三位一体の跡」論の諸現象を例示している。言い換えれば、まさしく人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍に依拠した「存在の類比(analogia entis)」(邦訳78頁)の諸現象を例示している。カンタベリーのアンセルムスは、三位一体における父、子、聖霊を、自然の存在の「ナイルと呼ばれうる」「泉、川、海」およびその相互関係と比較した。ルターは、「すべての被造物の中に、聖なる三位一体の指し示しがあり、人はそのような指し示しを見る」として、「先ず第一に本質」は「父なる神の全能」を、「次に形態と形式」は「子の知恵」を、「第三に有用さと力」は「聖霊のしるし」を指し示している、とした。また、ルターは、「純粋な言葉が……流れる泉」・「父は神的事物において言語学である」、「事物」の秩序正しい「配列の仕方を示す」・「子は弁論術である」、「生きたもの、力あるものにする」・「聖霊は雄弁術」「雄弁家」である、とした。教会史においては、例えば、「ペテロ的な過去の国、おそれの国……父の国」・「パウロ的、現在の国、真理の国……み子の国」・「ヨハネ的な、将来の国、愛の国……霊の国」という「三つの国」論が繰り返し現れた(邦訳80・81頁)。モルトマンは、ヘーゲルの歴史は自由の概念の実現過程であるということに基づいて、「律法・父の国・奴隷状態の歴史(≪世界史的段階で言えば、自然にまみれた原始未開の段階≫)」、「恩寵・子の国・神の子供状態(≪世界史的段階で言えば、自然から対象的にはなったけれども、さらにその対象的自然を自己意識・理性・思惟によって対象化して自然から完全に超出でき得ていないアジア的段階≫)」、「自由・霊の国・神の友の状態(≪世界史的段階で言えば、自然から完全に超出し自由を自覚し獲得した西洋近代の段階、そして未来の希望・終末と歴史の統合としての「真のユートピア」へと進歩する段階≫)」、という神学的な三段階的進歩史観において救済史を構想した(山崎純『神と国家』)。エーバーハルト・ユンゲルの「近代的な自由および自律の意識の加工処理」・「近代的自律の神学的加工処理」は、西洋「近代の未完のプロジェクト」の完成を目指したユンゲル・ハーバーマスの人間学の後追い知識でしかないものである(E・ユンゲル『神の存在 バルト神学研究』)。また、アウグスティヌスは、「記憶」――過去・現在・未来という時間性を持つ、「知解」・「認識〔知〕」――思惟による記憶の現在化、「愛」――「一方を他方と関連付け、そのようにして知覚の働きを遂行する能力」、「記憶、理解〔知性〕、意志」として内在する人間の「精神の三つの能力」(「存在スルコト」・「知ルコト」・「意志スルコト」)に、自由な「神ノ、……三位一体ノ、跡以上」の、「似像」を見い出した。他在であって自在としての自由な自己還帰する自己意識の無限性の表出と表現の構造を介した、「ヘーゲルの定立としての主観的精神の即自、反定立としての客観的精神の対自、総合としての絶対性精神の即自および対自」という概念規定、人間に内在する神的本質の概念、「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」、「神の自由を認識」しない、という「ヘーゲルの哲学的手法」――「われわれは、シュライエルマッハー以外の他の人々の所でも、……〔この〕ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇するであろう」(バルト『ヘーゲル』)――も、アウグスティヌスの「三位一体ノ〔痕〕跡」論の結果である。また、「全世紀を通して、つよい印象を与え、学派を造ったもの」は、そしてまた、綿々として尽きない「アウグスティヌス的な三位一体の論証の変形以外の何物」でもない自然神学的な信仰・神学・教会の宣教・キリスト教の系譜を造ったものは、この「三位一体ノ〔痕〕跡」についてのアウグスティヌスの理論であった(邦訳83・84頁)。