本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十七節 神認識の限界」「二 人間の神認識の真理性」(その4−2)−1

カール・バルト『教会教義学 神論T/1 ~の認識』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十七節 神認識の限界」「二 人間の神認識の真理性」(その4−2)−1(395−424頁)

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしており、見つけた場合には速やかに訂正をしておりますが、引用上の不備、勘違いによる不備、誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)・(しかし、その論述内容については、少なくともカール・バルトに関しては、根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます。したがって、そうした論述の積み重ねの中で、その内容についての表現の仕方の練り直しと的確化だけでなく、その内容の深化と豊富化が為されていると考えます。また、吉本隆明に関しても、まだ補充すべき点はいろいろあるとしても根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます)・(最後に、indemについてだけは、2017年3月12日以降、吉永正義訳の「……する間に」をすべて、井上良雄的に「……することによって」というように引用し直しています。なぜならば、その方がその文章内容をイメージし理解しやすいからです)

 

「五章 ~の認識 二十七節 神認識の限界」
「五章 ~の認識 二十七節 神認識の限界」について、バルトは、次のような定式化を行っている。
 神はただ神を通してだけ認識され給う。そのようなわけでわれわれは神を、われわれが神の啓示に対し、信仰の中で、応答しようと試みる際に用いる直感および概念の力によって認識するのではない。しかしわれわれはまた神を、神の許しを用い、その命令に聞き従いつつ、そのような〔直感と概念を用いての〕試みをすることなしに、認識するのではない。この試みが首尾よく成功するということは、したがってわれわれが為す人間的な神認識の真実性は、直感と概念を用いて把握しようとするわれわれの営みが神ご自身を通し、恵みの中で、神の真理へと参与させられ、取り上げられ、定められたということから成り立っている(327頁)。

 

〔この定式の詳述〕
 この定式の詳述については、『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十七節 神認識の限界」「一 神の隠れ」(その3−1)で行っていますので、参照してください(2017年8月23日論述分)。

 

註:「啓示の認識原理」であり「教会の宣教の批判と訂正」の規準・原理・法廷・審判者・支配者である<三位一体論>の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)、を参照してください。

 

「二 人間の神認識の真理性」(その4−2)―1
 今回も、「人間の神認識の真理性」においては、「神の隠れ」(聖性・秘義性・隠蔽性――換言すれば神の不把握性、それゆえに終末論的限界)の概念的内容であるところの、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神と人間との無限の質的差異の下で、それゆえにあくまでも神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それゆえに神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の~の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識に向かっての人間の用意が存在する」のであるから、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」ということに耳を傾け「感謝し、また感謝し続ける」という、神の言葉に対する奉仕としての他律的服従と自律的服従との同在性が前提されている。
 「まさにわれわれの(≪信仰の認識としての神≫)認識が、(≪聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の≫)隠れた神から由来しているということ、そのことが、またわれわれの(≪信仰の認識としての神≫)認識の真実性を保証しており、まさにそれが真実なる神に向かって進んでいるということがわれわれの(≪信仰の認識としての≫)神認識にその規定と限界を与える」、換言すればそのことが、あの神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事、人間的主観に実現された神の恵みの出来事、「啓示と信仰の出来事」、「啓示と信仰の奇蹟」――この「概念と命名」を近代主義者たちが「拒否」し嫌悪するとしても、まさに「啓示と信仰の奇蹟」という「実体を想定せざるを得ない」ところの「啓示と信仰の出来事」・「啓示と信仰の奇蹟」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰に「その規定と限界を与える」のである。何故ならば、聖書的啓示証言においてイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」からである、すなわち~の側の真実としてある啓示の弁証法において、「まさに神がその啓示(≪聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの≫)の中でご自身を覆い隠されることによって、神はご自身を顕わし給う」たからである、換言すれば聖書的啓示証言においてイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「まさに……ご自身を顕わされることによって、……ご自身を覆い隠し給う」からである。したがって、この神の自己啓示は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」――すなわち「イエス・キリストの名」(聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、業と行為、啓示・和解)において、その「存在」と「本質」の認識と信仰を要求する啓示なのである。このことは、「覆い隠すことではなく、(≪神の第二の存在の仕方、その業と行為、啓示・和解において≫)顕わすことが、(≪キリストにあっての≫)神の啓示の(≪恵みの≫)意味であり、(≪自己還帰する対自的であって対他的、他在であって自在、全き自由の≫)神の意志の方向である」ということを意味している。したがって、もしも人間の言語を介した自己意識・理性・思惟によって<これがキリストにあっての神の「存在」と「本質」である>と主張する牧師や神学者等がいるとするならば、そこで主張された神は、そのように主張した牧師や神学者たち自身によって恣意的独善的嗜好的に対象化されたその牧師や神学者たち人間の自己意識・理性・思惟の類的本質、「存在者レベルでの神」(偶像)、「人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」ところの神でしかないのである、それゆえにその場合その「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて(≪~の側の真実としてのみあるキリストにあっての神の啓示の内容ではなくて≫)、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……」啓示の内容でしかないものなのである、それゆえにまたそうした共同宗教としてのキリスト教は、最後的には、革命論(国家論)の過渡的課題(国民投票制の拡大で国家を国民に対してどこまでも開いていく課題、観念の共同性を本質とする国家にではなく現実的な社会に第一義性・価値性を置く課題)および究極的課題(国家の無化を伴う、社会的な、それゆえに現実的な、個体的自己としての全人間の究極的総体的永続的な解放の課題)を持たずに(それらの課題を明確に提起せずに)、換言すれば反体制を標榜しながら体制的に、すなわち体制内部における下からの構造改革を目指して、彼らの自然的な信仰・神学・教会の宣教におけるその天国の現世的形態として、即自的な擬制民主主義でしかない議会制民主主義に、その下での自由主義国家、政治的近代国家、民族国家に第一義性・価値性を置くのである(体制批判をしながらも結局は体制保管に過ぎないところの、体制の単なる下からの構造改革を信奉・信仰するのである)。私たちは、身近なところでその実姿を、キリストにあっての神の啓示とは独立したところで為された、二元主義的な、自然的な信仰・神学・教会の宣教における、一昨年の日本キリスト教団の「戦後70年にあたって平和を求める祈り」に、カトリック教会の「抗議声明」に垣間見ることができるのである。因みに、「私の立場は、経済的な社会の発展を自然史的過程として理解しようとするものであって、決して個人を社会的諸関係に責任あるものとしようとするのではない。個人は、主観的にはどんなに諸関係を超越していると考えていても、社会的には畢竟その造出物にほかならないものであるからである」と述べられているマルクスの『資本論』の「第1版の序文」と吉本隆明の『思想の基準をめぐって』に引き寄せて言えば、自然史の一部である人類史の自然史的過程としての経済社会構成の拡大・高度化、科学や技術の進歩・発達、その知識の増大、生活の利便性の向上は、自然史的必然に属しており政策等によって遅延させることはできても停滞させたり後退させたりすることはできないものである、一方で経済社会構成はそれに見合った観念諸形態を生み出すのだが、それは、それ自体の展開過程を持ち、その本質は観念にあるから、それは、逆行させたり停滞させたりすることができるものである(したがって、よく注意されたし、人類史における西洋近代の段階の哲学的象徴であるヘーゲルの哲学原理に依拠しながら、一方で人類史のアジア的段階における日本的なナショナルなもの――すなわち滅私奉公的な人間の在り方に逆行・退行して、それと「神の痛み」(形而上学的一面的固定的に抽象された十字架の死における神の愛)とを混淆・混合させた自然神学的な北森嘉蔵の<土俗的>神学、『神の痛みの神学』を)。いずれにしても、人類は、「人間のつくる観念と現実のすべての成果(それが<良きもの>であれ、<悪しきもの>であれ)を、不可避的に蓄積していくよりほかない」ものである。このように、歴史的現存性とは、それが良きものであれ 悪しきものであれ、人類がそれらを人類的成果として<歴史的に蓄積させてきたもの>の<現存性>のことである。したがって、現実的な現存性を生きる個体的自己としての人間は、そうした人類史的成果としての制度や社会を、社会構成・支配構成・文明的――文化的構成を、<不可避に>生きる以外にないのである。したがってまた、個体的自己としての人間の「意志、判断力、構想」が通用するのは「ただ半分だけ」であって、いったんそうした「現実に衝突してからは」人は、「何々させられる」、「何々せざるをえない」、「何々するほかない」というように生きる以外にはないのであって、そのようにして個体的自己としての現存を刻んでいく。すなわち、人間の歴史(人間の類の時間累積、歴史、人類史)は、「すべての個人としての<人間>が、或る日、 <人間>はみな平等であることに目覚め、そういう倫理的規範にのっとって行為すれば、ユートピアが<実現する>という性質のものではない」のである。支配の側からの、すなわち上からの構造改革に対して、下からの構造改革を目指せば「ユートピアが<実現する>という性質のものではない」のである。論述を元に戻せば、神は、先行する「その啓示(≪存在の仕方、業と行為≫)の中で、われわれに対して、われわれと共に行動し給う」。したがって、あの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」・「啓示と信仰の奇蹟」に基づいて終末論的限界の下で与えられるわれわれの「神を信じる信仰」(啓示認識・啓示信仰)は、神と人間との無限の質的差異の下で、「神の隠れ」の下で、神の不把握性の下で、それゆえに終末論的限界の下で、先行する「神の行動(≪存在の仕方、業と行為、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、~の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在、「永遠的実在」としてある、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和≫)の後に従うこと(≪その神の行動に後続する、復活したキリストの再臨、完成、終末までの道程、途上性≫)から成り立っている」のである。「神はご自身を<隠れの方式>の中で啓示し給う」。しかし、キリストにあっての「神の<啓示の意味>は、神の真実性である」。「神は、その覆い隠しの中で、覆い隠しと共に」、その限りにおいて「ご自身をわれわれに顕わし給う」、換言すればその存在と本質は「覆い隠し」つつ、その存在の仕方(業と行為)において「ご自身をわれわれに顕わし給う」。このような訳で、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」ところの~の側の真実からする「神の道」と「われわれの(≪あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての≫)神認識の道」の「目標」である。したがって、「われわれの神認識の目標点」は、その出発点の認識と自覚――すなわち「神の隠れ」(聖性・秘義性・隠蔽性)、それゆえに神の不把握性、それゆえにまた終末論的限界を想起しつつ、「神の道」と「われわれの神認識の道」の「目標としての神的な顕わし」(≪神の第二の存在の仕方、業と行為、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト≫)の故に、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにあっての神の信仰の認識としての「神認識」にあるのである。言い換えれば、それは、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員)が、その起源的な第一の形態の神の言葉を(具体的には、その第二の形態の、イエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちのその人間性と共に神性を賦与され装備された直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」を)、その宣教、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、神の言葉に対する奉仕としての他律的服従と自律的服従との同在性において、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストの福音を、純粋なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法(キリストにあっての神の命令・要請・要求)、すべての人々が純粋なキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えの連関と循環における信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を志向し目指すところにあるのである、そういう仕方で「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すところにあるのである。もちろん、この場合、われわれは、人間論的な自然的人間、教会論的なキリスト教的人間(その牧師、その神学者、その成員)の直接性即自性においてではなく、あくまでも客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」・「啓示と信仰の奇蹟」に基づいてのみ、終末論的限界の下で、そのキリストにあっての啓示における「神の真実性」に参与することができるのである、換言すれば第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員)の宣教、その思惟と語りが、キリスト教的な「正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」なのであって、人間自身教会自身の決定事項ではないのである。

 

(1)「神の真実性」への参与は、「ただ(≪キリストにあっての≫)神の啓示にあずかる参与としてだけ理解することができるのであるから」、その「参与は、原則的にただわれわれが感謝を捧げることから成り立っている……」。この感謝において、「われわれの神認識」は、あの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」・「啓示と信仰の奇蹟」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)として、先行する「神の言葉と霊の業(≪「信仰と啓示の出来事」≫)に応答したいと願うわれわれの人間的な業(≪神の言葉に対する奉仕としての他律的な服従と自律的な服従との同在性≫)が立っているのと同じ秩序(≪あのそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性≫)の下に立っている」。この時、その「われわれの神認識の道」は、「『人間の感謝について』という表題の下に立っている」。しかし、このことは、「対象を通して」――すなわちキリストにあっての神、その神のその都度の自由な恵みの決断、あの神の言葉自身の出来事の自己運動を「通して呼び起こされる」のであって、人間論的な自然的人間あるいは教会論的なキリスト教的人間自身が生来的に持っている「理性や力(≪感情、悟性、想像、意志、自然を内面の原理とした只管打座による身心脱落や自己放下≫)」によって「呼び起こされる」のではないのである、すなわち彼らの「内的な欲求からそれをしたいと願うが故に」、「呼び起こされる」のではないのである、換言すればわれわれは、「その必然性を……われわれの中に持っていない」のである。その必然性は、あの神のその都度の自由な恵みの決断、あの神の言葉自身の出来事の自己運動によるのであって、~の側からやって来る必然性である――すなわち、「われわれはそれを、そのことへと外(≪先行する~の側≫)から要求されるが故に、神はその(≪キリストにあっての≫)啓示の中で神でい給うが故に、(≪キリストにあっての≫)啓示は神の真実な啓示であるが故に、そしてわれわれは(≪キリストにあっての≫)啓示を通してまことに要求されているが故にするのである」。ここに、人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を志向し目指していくための、換言すれば人間が言語を介して「人間的に直観と概念を用いて把握し語って行く企て」をしていくための「根拠」があるのである。「この根拠と共に、……『神をわれわれの行為の根拠として持つことがゆるされている』」。このことは、「われわれの中で、すべての怠慢とすべての躊躇を破砕する『ねばならない』となるのである」。言い換えれば、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員)は、徹頭徹尾、起源的な第一の形態の神の言葉、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の~の第二の存在の仕方イエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのものを(具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」を)、その宣教、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、神の言葉に対する奉仕としての他律的な服従と自律的な服従との同在性において、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストの福音、純粋なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が<教会自身>と<世>に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、すべての人々が純粋なキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指し続けていかなければならないのである、「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指し続けていかなければならないのである。このような仕方におけるキリストにあっての「神を認識しようとするわれわれの企て」は、「神のみ心に適う」「(概念の聖書的な意味での)供え物であり、神の啓示の真実性、すなわち神がそのすべての富と共にご自身をわれわれに贈り与え給うたことの真実性」にあずかるということを意味している。したがって、「真実な神認識」は、キリストにあっての「神の啓示の尺度、秩序、規則の下に置かれている」し、それゆえにそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性の下に置かれているし、その秩序性を認識し自覚した最善最良「最上」の「思惟と語りを要求」されているし、それゆえにその最善最良「最上」の「思惟と語り」は、「空想、頑固さにしたがっている感謝」に「委ねられていない」のである、すなわち人間自身教会自身が「思いのままに勝手に選びとろうとする」恣意性独善性嗜好性に「委ねられていない」のである。「感謝」する者は、先行する「その方を問い、その方を問いつつ、それから」、後続して「行動するのである」。したがって、「恣意的にではなく、感謝する者の個人的な感じに従ってではなく」、「感謝したいと願っている方(≪神の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、具体的には聖書的啓示証言におけるそれ≫)がその感謝の行為の法則であるといった具合に(≪すなわち、あの、純粋なキリストの福音、純粋なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」の連関と循環の中で≫)行動する」のである。言い換えれば、あの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」・「啓示と信仰の奇蹟」に基づいて終末論的限界の下で与えられる「真実な(≪信仰の認識としての≫)神認識」は、「人間的な本質、思惟、語り自身の一般的なあるいは個人的な法則性(≪人間の恣意性・独善性・嗜好性、人間の感覚と知識を内容とした経験的普遍、人間の哲学原理・認識論・世界観≫)に……委ねられていない」のである。「真実な(≪信仰の認識としての≫)神認識においては、あらゆる事情の下で」、キリストにあっての「神の啓示を承認することである」から、「この特定の対象(≪それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、イエス・キリスト、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」≫)が、……われわれの思惟と語りを支配するのである」。『教会教義学 神の言葉T/1・2』に引き寄せて言えば、第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言は、「先ず第一義的に優位に立つ原理」・規準・法廷・審判者・支配者としての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストと共に、第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者である、何故ならば直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である「聖書こそ」が、教会に宣教(説教と聖礼典)を義務づけているからである。徹頭徹尾、あの、純粋なキリストの福音、純粋なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」の連関と循環が重要なのである。
 このように、キリストにあっての「神の啓示の真実性に人間があずかる参与としての(≪信仰の認識としての≫)神認識」の企ては、キリストにあっての「神の啓示に対する(≪感謝の≫)応答」(「感謝を捧げること」)、「証言、問い、呼びかけを意味している」。したがって、ここでの戦いは、「われわれが誰かに味方して戦うのでもなければ、われわれが誰かに反対して戦いのでもない」のであって、「ご自身を推薦し、ご自分の威厳を主張される」「神ご自身が、この戦いにおいて」、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性である「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(客観的な「啓示の実在」そのもの、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言におけるそれ、客観的な啓示の「概念の実在」)に基づいて、あの神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」・「啓示と信仰の奇蹟」に基づいて、先行して「戦う」戦いなのである。したがって、第三の形態に属する全く人間的な教会自身における、一方でキリストの福音を、他方で社会的あるいは政治的運動を掲げる二元論的宣教論あるいは二元主義的宣教論は、まさに自然的なキリスト教信仰・神学・教会の宣教への解体である、換言すればまさしくフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーが現実性と妥当性を持って根本的包括的に原理的に批判した宗教としてのあるいは共同宗教としてのキリスト教への解体である――「ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(≪その善意は、神と人間との無限の質的差異の下における「神としての神から発生したのでなく」、彼自身の恣意的独善的嗜好的な「人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した」善意≫)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された(≪人間的な≫)支配行為(≪新たな権力の構成、新たな支配の構成≫)に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救い(≪と平和≫)の計画と救い(≪と平和≫)の方法が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである。そのような救い(≪と平和≫)の計画と救い(≪と平和≫)の方法の独断性が、神に余りに僅かしか信頼せず、人間に余りに多く信頼するという点に現われるということは、疑いない」(『啓示・教会・神学』)。したがって、阪神・淡路 大震災の時、ある牧師が「武器を持って神戸市役所かどこかに押しかけて行って、被災者の住めるような建物をすぐにつくってくれと、(≪正義漢ぶって、何の責任も特定できない一≫)職員を脅かした」ことを話すために、吉本隆明にわざわざ電話をかけたその牧師の一連の行為に対して、単なるメディア的著述家や知識人や社会的政治的運動屋では決してない思想家の吉本は、「じぶんがやったことを得々としゃべるわけです。ぼくは、ははぁ、戦前とちっとも変っていないやと思いながら聞いていた……。(中略)正義のために(≪正義漢ぶって、何の責任も特定できない一職員を≫)脅かしたのだと得々としゃべることは、ぼくらが戦争中に『お国のために』といわれたのとまったくおなじことで、そんなの、ちっともよくない」、「日本というか、あるいはアジアの特質かもしれません。ラジカルな人ほど、ほかの分野の人に対してじぶんを押し付けがちです。そういう傾向がとても強い」、と批判したのである。聖書的啓示証言によればキリストにあっての「神の啓示への応答以外のものであろうと欲するところ、したがって感謝の業以外のものであろうと欲するところ」、すなわち「証言、問い、呼びかけ」以外のものであろうと欲するところ、「そこではまさに……神認識の業(≪神認識の企て≫)は、それらの業のただ中においてひどく風変わりな(≪イエス・キリストを主・頭とする教会の宣教としても、その教会教義学としても、人間学としても、全く非自立的で中途半端で役立たずな≫)、攻撃しうる(≪事実バルトはもちろんのこと、吉本も根本的包括的に、原理的に批判している≫)、まことに無防備なものとして際立っている……」。何故ならば、イエス・キリストを主・頭とする教会の宣教、その教会教義学は、あくまでも「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯することおいてのみ、すなわち先ず以て起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には、第二の形態の聖書的啓示証言におけるそれ)に対する奉仕としての他律的な服従と自律的な服従においてのみ、非自立的とはならないし、中途半端ともならないし、役立たずともならないからである。言い換えれば、「哲学、歴史学、心理学等は、この神学的問題領域のどれにおいても、事実上、教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしなかった」、「神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった」、また混淆神学・混合神学・人間学的神学・哲学的神学においては、神学は神学をやめるだけでなく、「哲学は哲学であることをやめ、歴史学は歴史学であることをやめる」、それゆえにキリスト教哲学は、「それが哲学であったなら、それはキリスト教的ではなかった」し、「それがキリスト教的であったなら、それは哲学ではなかった」・「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」、すなわち、神学も理性的な知的営為ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」(『教会教義学 神の言葉T/1・2』および『バルトとの対話』)。
 キリストにあっての「神の啓示の真実性に人間があずかる参与」は、信仰の認識としての「神認識(≪啓示認識・啓示信仰≫)の業」、「神認識の企て」であり、キリストにあっての神の啓示に対する「感謝の応答」、「感謝の業」であり、「証言、問い、呼びかけ」である。このように、「神の真実性にあずかるわれわれの参与」が、「感謝の応答」、「感謝を捧げることから成り立っているとするならば、そのことはさらに、……(≪それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における≫)神の啓示(≪起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト≫)を承認することから成り立つことができるだけであるということを意味している」。この場所で、バルトは、『説教の本質と実際』で、次のように述べている――説教の無条件的な出発点と目的は、「新約聖書において聞く啓示、和解」(第二の形態の神の言葉――預言者および使徒たちの直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)――すなわちイエス・キリストの死と復活の出来事、その内容である「インマルエル、神われらと共にいます」である・したがって、キリストの復活から復活したキリストの再臨、完成、終末までの聖霊の時代を生きる第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員)は、「啓示と信仰の出来事」に基づいて「キリストからすべてのことを期待しなければならない」のである、このことが「終末論」である、「キリスト教的終末論とは、キリスト論にほかならない」・ここで説教は、キリストにあっての神の啓示の恵みに対する「感謝と確信と共に期待の態度と行動」(≪神の言葉に対する奉仕としての他律的な服従に基づく自律的な服従≫)である・キリストの「第一の来臨(≪キリストの生誕・死と復活≫)と第二の来臨(≪復活したキリストの再臨、完成、終末≫)との間(≪聖霊の時代≫)に、説教と、また同時にキリスト者の生活全体」とがある・したがって、説教は、説教者の自由事項や裁量事項ではないのであるから、自分自身の言葉から由来すべきではなく、どのような場合であれ、その形式と内容において、「聖書への絶対的信頼」に基づく、「聖書講解であることの義務」を負っている・したがって、「説教者が、実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない(≪近代的な社会構成・支配構成・文明的――文化的構成における人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍や情報が不足している≫)と考えるようなことがある限り、彼は、この信頼、信仰を持っておらず、真に信仰によって生き」ようとしていない証左である・福音は、「われわれの思考や心情の中にあるのではなく、聖書の中にある」から、「われわれ」は、「思想」、「最高の習慣、最良の見解、そのようなものいっさい」を、聖書に「聴従」することの前で、「放棄」しなければならない・「聖書は(≪あの神の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」・「啓示と信仰の奇蹟」に基づいて≫)神の言葉となる」ところで、「聖書は神の言葉なのである」・したがって、説教者は、「彼らに語らなければならない彼ら自身に関する真理」、すなわち「神がすでに為した」、イエス・キリストにおいて完了・成就した(その完成は、復活したキリストの再臨、終末まで待たなければならないとしても)、 「わたしの前にいるこの人々のために、キリストは死に、甦られた」、神罪深きわれらと共に、ということを語らなければならない。「感謝が為されるところ、そこで」は、「ただ承認が為され得るだけである」、賜物を「与える者」の下に、「その賜物の下に、自分の身を置くのである」。すなわち、第三の形態に属する全く人間的なイエス・キリストを主・頭とする教会(その牧師、その神学者、その成員)は、感謝をもって「神の支配の下に入るのである」、すなわち「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、イエス・キリストを、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」を、その宣教、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、神の言葉に対する奉仕としての他律的な服従を為すのである、「感謝の本質に対応している(与え主のもとに身を置く)服従」(決断と態度、神の言葉に対する奉仕としての自律的な服従)を為すのである。これら「承認」と「服従」は、「概念の聖書的な意味で」「神のみ心に適う」「供え物の範疇に属している」。キリストにあっての「神の啓示の真実性に人間があずかる参与」は、信仰の認識としての「神認識の業」であり、キリストにあっての神の啓示に対する「感謝の応答」、「感謝の業」であり、「証言、問い、呼びかけ」であるとするならば、「それは、喜びの中でしか起こることはできない……」。この場合、「われわれ」は、「厳格に対象のあの規則の下に置かれるということ」について、それゆえに「服従するようになるということ」について、「まさに(≪「啓示と信仰の出来事」・「啓示と信仰の奇蹟」に基づいて≫)服従にまで実際に来るところでこそ、われわれ自身、この業の行為者であるよう召し出されるということ」を意味する。「もしもわれわれのところに啓示が届くのであれば、もしも啓示がわれわれにとってわれわれの認識の必然的な根拠となるのであれば、その時、そのことは確かに、啓示がわれわれに対して(≪「啓示と信仰の出来事」・「啓示と信仰の奇蹟」に基づいて≫)外から関わってくるということを意味している」、換言すれば「われわれの」信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)は、あくまでもあの神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の奇蹟」に基づいて終末論的限界の下で与えられるのである、~の側からやって来るのである。このことは、「啓示がわれわれにとって(≪「神の隠れ」において≫)超越的であることをやめることなしに」、あの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」・「啓示と信仰の奇蹟」に基づいて「内在的になるということ」(人間的主観に実現された神の恵みの出来事に基づいて人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰を与えられるということ)、「それであるから啓示(≪起源的な第一の形態の神の言葉、イエス・キリスト、具体的には第二の形態の直接的な最初の第一の聖書的啓示証言におけるそれ≫)に対する服従(≪神の言葉に対する奉仕としての他律的な服従≫)が同時にわれわれの自由な意志(≪神の言葉に対する奉仕としての自律的な服従、決断、態度≫)になるということを意味している」、「そうでないとしたら、どうして啓示はわれわれのところに届いたことになるであろうか」。「まさに神はその啓示の中ででも超越的であり続け給うが故に、神の啓示を承認するわれわれの承認の主体性は、われわれがわれわれ自身を越えて(≪あの神の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」・「啓示と信仰の奇蹟」に基づいて終末論的限界の下で≫)高められることを意味している」。このことこそが、「われわれの(≪信仰の認識としての≫)神認識を必然的に喜ばしい行為とするところのことである」。すなわち、例えば次のように、キリスト教信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成を更新させられるのである――@神と人間との無限の質的差異は、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」(『ローマ書』)、Aギリシャ語原典「ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の『イエス・キリストの信仰』は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである」――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」・「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」(『福音と律法』)、B「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)、C「聖霊は、人間精神と同一ではない」・「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」、聖霊によって更新された理性も聖霊ではない(『教義学要綱』)、D客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事その出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)、「啓示と信仰の出来事」・「啓示と信仰の奇蹟」に基づいて終末論的限界の下で与えられる人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)。もしもそうでないとしたら、その神認識は、その神による啓示の内容は、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーが現実性と妥当性をもって根本的包括的に原理的に批判した人間自身教会自身が対象化し客体化した宗教としてのあるいは共同宗教としてのキリスト教信仰・神学・教会の宣教におけるそれでしかなくなってしまうからである。

 

(2)キリストにあっての「神の啓示の真実性に人間があずかる参与」は、信仰の認識としての「神認識の業」、「神認識の企て」であり、キリストにあっての神の啓示に対する「感謝の応答」、「感謝の業」であり、「証言、問い、呼びかけ」である。このように、「神の真実性にあずかるわれわれの参与」が、「感謝の応答」、「感謝を捧げることから成り立っている」とするならば、「われわれの神認識は、常にまた畏敬の行為であるといわなければならない」。何故ならば、信仰の認識としての神認識の「受領者としての人間」は、恵みの中で、それに全く「ふさわしくない者」、罪と汚れに満ち満ちた者であるということを認識させられ自覚させられるからである。「そもそも神と人間の間の不一致が成り立っているように(≪神と人間は無限の質的差異の下にあるように≫)」、「神の隠れ」、神の不把握性の下で、それゆえに終末論的限界の下で「認識される方としての神と認識する者としての人間の間には、不一致が成り立っている」。したがって、信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)は、その不一致を克服することが全くできない「人間の側からは全く起こりえないが故に」、その不一致を克服することができる「神の啓示の恵みの中でだけ」、「~の側から」、あの神のその都度の自由な恵の決断による「啓示と信仰の出来事」・「啓示と信仰の奇蹟」に基づいて終末論的限界の下で起こるのである、すなわち「神の恵みの中で出来事となって起こ」るのである。この神と人間との無限の質的差異の下において神の側からする神ご自身の人間との架橋は、「われわれの感謝がまことであることの試金石を、その限り神の啓示の真実性にあずかるわれわれの参与がまことであることの試金石を形成している」「畏敬の念の対象である」。「これらの認識手段を用いて為される神を認識しようとするわれわれの企てが成功する時」、「われわれ」は、「われわれのところに来る神の国について……畏敬の念に満たされつつ驚異の目を見張る」のである。
 このような訳で、聖書的啓示証言によれば、「人間の口、舌、唇」が、「神、その真理、その義、その栄光」を「ほめたたえ」、神の言葉を「宣べ伝え」る「道具となる時、そのことは、……決して自明的な出来事ではな」い。すなわち、人間論的な自然的な人間、教会論的なキリスト教的人間における「人間が自分に帰する」出来事ではないのである。人間の自己意識・理性・思惟の類的機能や力(感情、悟性、想像、意志、自然を内面の原理とする修行等)によって可能な出来事ではないのである。われわれ人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)、人間の言語を介した直観と概念を用いて為されるわれわれの思惟と語りは、近代主義者たちが「啓示と信仰の奇蹟」という「概念と命名」を「拒否」し嫌悪するとしても、まさに「啓示と信仰の奇蹟」という「実体を想定せざるを得ない」ところの、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の奇蹟」・「啓示と信仰の出来事」に基づいてだけ終末論的限界の下で与えられる出来事なのである――「『(出エジプト四・一〇以下)ああ主よ、わたしは以前にも、またあなたが僕に語られてから後も、言葉の人ではありません。わたしは、口も重く、舌も思いのです』。主は彼に言われた。『誰が人に口を授けたのか。おし、耳しい、目あき、目しいに誰がするのか。主なるわたしではではないか。それゆえ行きなさい。わたしはあなたの口と共にあって、あなたの言うべきことを教えるであろう』」、「(エレミヤ一・六以下)『ああ、主なる~よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません』……そして主はみ手を伸べて、わたしの口につけ、主はわたしに言われた、『見よ、わたしの言葉をあなたの口に入れた……』」、「わたしがあなたと語るときは、あなたの口を開く。あなたは彼らに『主なる~はこう言われる』と言わなければならない(エゼキエル三・二七)」、「彼がこれらの言葉を私に述べていたとき、わたしは地にひれ伏して黙っていたが、見よ、人の子のような者がわたしの唇に触れたので、わたしは口を開き……(ダニエル一〇・一五以下)」、「わたしは唇の実りを創造し与えよう(イザヤ五七・一九)」・「だから、イエスを通して讃美のいけにえ、すなわち彼の御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう(ヘブライ一三・一五)」、「わたしはわたしの言葉をその口に授けよう。彼はわたしが命じることを、ことごとく彼らに告げるであろう(申命記一八・一八)」、「『主なる~は教えをうけた者の舌をわたしに与えて、疲れた者を言葉をもって助けることを知らせ(イザヤ五〇・四)。それ故に、次のように祈らなければならない、『主よ、わたしの唇を開いてください。わたしの口はあなたの誉れをあらわすでしょう(詩篇五一・一七)』」。「神の可能性は、決して人間性の中にその限界」と「条件を持っているわけではない(民数二二・二八)」、すなわちそれは、人間の側の自由事項・裁量事項・決定事項ではない。第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員)の宣教、その思惟と語りが、キリスト教的な「正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」なのであって、人間自身教会自身の決定事項ではないのである、換言すればその宣教、その思惟と語りの在り方は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立している」のである。「新約聖書の中で人間が、イエス・キリストを主として口に出して告白することができる時、そのことの中で力を発揮して働いているものは、再び、彼らの背後にある聖霊降臨日の奇蹟(使徒行伝二・三以下)と彼らの前にある未来における啓示の奇蹟(ピリピ二・一一)である」。「(マタイ一〇・一九以下)(≪「罪深い、弱い」≫)人間的な語りが阻まれている事実(≪その「挫折」、その「困難さ、否、不可能性」≫)とそれの(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」・「啓示と信仰の奇蹟」に基づく≫)神的な克服」は、「原理的なものである」。すなわち、人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)は、~の側の真実としてある、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、あの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の奇蹟」・「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられるのである、それゆえに起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には、その第二の形態の聖書的啓示証言)を、その宣教、その思惟と語りの原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに絶えず繰り返し聞き教えられることを通して、終末論的限界の下で絶えず繰り返し与えられなければならないのである。
 「(マタイ一〇・一九以下)(≪「罪深い、弱い」≫)人間的な語りが阻まれている事実(≪その「挫折」、その「困難さ、否、不可能性」≫)とそれの神的な克服」は、「原理的なものである」。すなわち、「人間的な語りが阻まれている事実(≪その「挫折」、その「困難さ、否、不可能性」≫)」は、人間の側の表現の仕方等々の「技術的な不完全さ」によるものではないのである。しかし、例えば、ルドルフ・ボーレンや佐藤司郎や小泉健の聖霊論的説教論もエンゲマンの政治的な「狂気に面しての説教」と牧会的な「不安に面しての説教」という二元論的説教論も、人間の側の表現の仕方等々の「技術的な不完全さ」を念頭に置いて為されているだけであり、前者は二元論的に近代主義的な「人間の経験の尊重」も必要であると主張し、後者は人間的意識(自己意識の対自的意識、言語の自己表出)を後景へと退けた実践的意識(自己意識の対他的意識、言語の指示表出)に偏向させた「コミュニケーションの出来事」が必要であると主張しているだけのものに過ぎないのである。「人は、教会教父たちが、この対象に相対してすべての人間的な言葉が役に立たないものであることについて語るのを聞く時」、その語りが、自然神学において、自然的な信仰・神学・教会の宣教において「同じように言葉に出して語ることのできないギリシャ的な一にして全体、換言すれば人間が表現デキナイモノの魔力によって規定されている」語りであるのか、「それとも……ただその恵みの中でだけ、したがってただわれわれ自身の業の、それ故にわれわれ自身の言葉の、無力さを認めることの中でだけ認識されることを欲し給うイスラエルの神に対する畏敬の念によって規定されている」語りなのかについて、「注意」しながら「耳を傾けなければならない……」。教会教父たちは、一方で「より狭い意味でそう呼ばれるべき『擬人法』」――すなわち「われわれが感覚的表現を用いて神について語る」という「擬人法」、「例えば神の口、神の腕と手、神が思い出しまた忘れ給うこと、神のあわれみ、神の怒りと悔いられることについて語る」という「擬人法」の「不適切」性、「非本来性を強調しすぎ」、他方で「神の存在、知恵、善意、義のような概念に対しては」「緩和された非本来性」を「帰し」、また「<不>把握性、<不>変化性、無限性等の否定的な概念に対してはある種の本来性」を「帰し」、「その結果、その(≪イエス・キリストにおける神の≫)啓示の中での神の行為(≪神の存在の仕方、業と行為、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」ということ≫)に関しては、あたかもそれらが例えであり、適応であるかのように、ただ不確実に語ることができるだけであると考え」、それゆえに「そのようなことについてはなるべく少ししか語らない」ようにして、「あの一般性」の中に、「特にあの否定の領域の中に入ってゆこうとする危険」は、教会教父たちにとって「身近なものであったし」、それゆえに「そのような危険は鋭いものとなった」。教会教父たちは、聖性・秘義性・隠蔽において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける神の自己啓示は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」――すなわち「イエス・キリストの名」において、その「存在」と「本質」の認識と信仰を要求する啓示であるということについて認識し自覚していなかったのである。したがって、こうした教会教父たちの「より狭い意味でそう呼ばれるべき擬人論に関する偏見」が、「神学から哲学への、換言すれば啓示神学から自然神学への」、自然的な信仰・神学・教会の宣教への「厭うべき移行に対して根拠と契機を与えた」のである。それに対して、啓示神学は、「それがその対象によって導かれる時には(≪~の第二の存在の仕方である神の言葉自身の出来事の自己運動、あの神の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の奇蹟」・「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰を与えられる時には≫)、まさに(≪啓示の類比、信仰の類比、関係の類比の概念を媒介する≫)この擬人論(≪人間の言語を介した直観と概念を用いて為すキリストにあっての神についての思惟と語り≫)を決して避けよう」とはしないのである。この時、われわれは、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性は、三一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉(神の第二の存在の仕方、業と行為)の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性である、すなわちキリスト教に固有な類・歴史性である、と言うことができるのである、また例えば「内被造世界での、……父という呼び名は確かに真実である」が、「非本来的なもの」であり、「神の内三位一体的父の名の力と威厳に依存」しているものとして理解すべきである、と言うことができるのである。神と人間との無限の質的差異の下で、「神との関係において人間的な言葉の特徴としての『擬人論的』ということは、包括的に人間の形態と対応している」、「したがって、(≪聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の≫)神の形態とは対応していないということを意味」している。このことは、「教会教父たちが、より深く掘り下げたところで、大変よく認識したことである」。「ワレワレハ固有ナ、本来的ナ仕方デ呼ビ、述ベルノデハナク、むしろワレワレノ行為カラ神ノ行為を述ベルノデアル(マリウス・ヴィクトリヌス)」――このように、「われわれがそれとして知っていることに対応させつつ(≪すなわち人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍から≫)、神の知恵、生命、力について語る時」、「神の知恵、生命、力に対して直ちに格下げが起こる」、神の人間化が起こる。何故ならば、「われわれの性質は過ぎ去りゆくものであり、われわれの生は短く、われわれの力は弱く、われわれの言葉は常なきものだからである」。「神ヲ善ナルトモノト呼ブコトハ人間ヲ善ナルモノト呼ぶのとは違ウ。神ヲ正シイモノト呼ブコトハ人間ヲ正シイモノト呼ブコトト別ナコトデアル(アウグスティヌス)」。これらの表現においては、「ただ単に最高級の相違性を指しているだけでなく」、「<原理的>に神と被造物との間の、したがって神的存在と被造物的な直観、概念、言葉の間の相違性を指しているということについて」の認識と自覚が必要なのである、換言すれば「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」(『ローマ書』)神と人間との無限の質的差異は、<原理的>な差異性であるということについての認識と自覚が必要なのである。しかし、「聖書的に証しされた啓示の真理を解釈しようと欲していた」であろう「教会教父たちにとっての驚き」は、「あれらの聖句の中で表現されていることと違って、どちらかと言えば人間の表現デキナイコトに対する驚き、換言すれば神的な遜りの全能の奇蹟に対する畏敬の念の驚きというよりも、むしろ最後的にはすべての障害を克服する人間的な思惟と人間的な言葉の力(≪自己身体、他者身体、外界としての天然自然および人間化された自然である人間的自然、全自然を対象とする人間の自由な内面・自己意識・理性・思惟の無限性≫)に対する驚きの性格を持っている」というように言うことができる、換言すれば自然神学への偏向、自然的な信仰・神学・教会の宣教への偏向という性格を持っている。
 われわれは、~の側の真実としての~の側からするキリストにあっての「神の啓示の真実性にあずかっている認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰≫)の必然的な喜びを示した後」、「感謝について語」り、そして「畏敬の念について語」った。言い換えれば、「感謝について」、それゆえに「喜びについて語った後」には、「必然的に畏敬の念についても語らなければならない」のである。すなわち、この「喜び」、「感謝」、「畏敬の念」には連関と循環が存在するのである。そこにおいて、「畏敬の念は、まさに(≪神と人間との無限の質的差異の下での≫)われわれの業とその対象との間の距離」を言おうとしているのである、換言すれば神のその存在と本質は隠されたままで、その第二の存在の仕方(業と行為、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉)において、すなわち「神の恵みによってだけ克服された」ところの「距離を言おうとしているのである」。したがって、「われわれ」は、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神と人間との無限の質的差異の下で、それゆえにあくまでも神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それゆえに神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の~の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識に向かっての人間の用意が存在する」のであるから、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」ということに耳を傾け「感謝し、また感謝し続けるのである」、それゆえに第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員)は、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」ところの神の第二の存在の仕方であるイエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのものを(具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」を)、その宣教、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、神の言葉に対する奉仕としての他律的な服従と自律的な服従との同在性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストの福音を、純粋なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関と循環を志向し目指すのである。このような訳で、「われわれの(≪信仰の認識としての≫)神認識は、常に感謝、悔い改め、願い求めの祈りであり続けなければならないであろう。……ただそのようにしてだけ、われわれの神認識は、神の啓示の真実性にあずかりつつ、出来事となって起こるであろう」。「啓示の真理は、ただ神の恵みの真理としてだけ持つことができる(≪あの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」・「啓示と信仰の奇蹟」に基づいて終末論的限界の下で与えられる≫)」し、それゆえにキリストにあっての「神は、まことに神を通してのほかは認識」することができないのであるから、「もしもわれわれが……(≪あの≫)距離の克服を……(≪まさに人間の側から、自然神学の領域において、自然的な信仰・神学・教会の宣教の領域において、その現にあるがままの現実的な人間存在における≫)われわれ自身の行為として主張し、そのようなものとして完遂し、自由に取り扱おうとするならば」、「その時、(≪神に対する、神の恵みに対する≫)人間的なつかみかかりと侵害のウジ虫がはじめからそのような建造物の中に巣をくうであろう」。「われわれは、どのようにしてわれわれの思惟の手段と語りの手段を用いて神を認識するようになるのかという問いに対して」、「われわれは、われわれ自身からしては(≪われわれ人間が生来的に持つ理性や力によっては≫)、事実、神を認識するようにならないという「答えを与えなければならない」、それゆえにその問いに対して、われわれは、「神の啓示の恵みが(≪神の言葉自身の出来事の自己運動、あの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」・「啓示と信仰の奇蹟」に基づいて終末論的限界の下で≫)われわれのところに来、したがってわれわれの思惟と語りの手段のところにまで来るという仕方でだけ出来事となって起こるという答えを与えなければならない」。この時だけ、われわれは、キリストの再臨、終末までの旅の途上の下で、終末論的限界の下で、思惟と語りの手段を「成功を収めつつ用いることが<ゆるされる>のである」。「われわれの手段がそれを造り出すのではない」のであって、「神の啓示の恵みがそれを造り出すのである」――このことを「知ること(≪認識し自覚すること≫)が……その中でわれわれの神認識が真実なものとなる畏敬の念である」。