本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十七節 神認識の限界」「二 人間の神認識の真理性」(その4−1)

カール・バルト『教会教義学 神論T/1 ~の認識』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十七節 神認識の限界」「二 人間の神認識の真理性」(その4−1)(375−395頁)

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしており、見つけた場合には速やかに訂正をしておりますが、引用上の不備、勘違いによる不備、誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)・(しかし、その論述内容については、少なくともカール・バルトに関しては、根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます。したがって、そうした論述の積み重ねの中で、その内容についての表現の仕方の練り直しと的確化だけでなく、その内容の深化と豊富化が為されていると考えます。また、吉本隆明に関しても、まだ補充すべき点はいろいろあるとしても根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます)・(最後に、indemについてだけは、2017年3月12日以降、吉永正義訳の「……する間に」をすべて、井上良雄的に「……することによって」というように引用し直しています。なぜならば、その方がその文章内容をイメージし理解しやすいからです)

 

「五章 ~の認識 二十七節 神認識の限界」
「五章 ~の認識 二十七節 神認識の限界」について、バルトは、次のような定式化を行っている。
 神はただ神を通してだけ認識され給う。そのようなわけでわれわれは神を、われわれが神の啓示に対し、信仰の中で、応答しようと試みる際に用いる直感および概念の力によって認識するのではない。しかしわれわれはまた神を、神の許しを用い、その命令に聞き従いつつ、そのような〔直感と概念を用いての〕試みをすることなしに、認識するのではない。この試みが首尾よく成功するということは、したがってわれわれが為す人間的な神認識の真実性は、直感と概念を用いて把握しようとするわれわれの営みが神ご自身を通し、恵みの中で、神の真理へと参与させられ、取り上げられ、定められたということから成り立っている(327頁)。

 

〔この定式の詳述〕
 この定式の詳述については、『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十七節 神認識の限界」「一 神の隠れ」(その3−1)で行っていますので、参照してください(2017年8月23日論述分)。

 

註:「啓示の認識原理」であり「教会の宣教の批判と訂正」の規準・原理・法廷・審判者・支配者である<三位一体論>の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)、を参照してください。

 

「二 人間の神認識の真理性」(その4−1)
 「神の隠れ」(聖性・秘義性・隠蔽性――換言すれば神の不把握性、それゆえに終末論的限界)の概念的内容については、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神と人間との無限の質的差異の下で、あくまでも神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それゆえに神の認識可能性である単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識に向かっての人間の用意が存在する」のであるから、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」ということに耳を傾け「感謝し、また感謝し続けるのである」ということが論じられていた。
 「今われわれは、(≪あの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の奇蹟」に基づく信仰の認識としての≫)神認識(≪啓示認識・啓示信仰≫)の終着点ということで」、神と人間との無限の質的差異の下で、「その対象を通して規定された」ところの、「われわれが神認識と呼ぶ出来事、運動、人間的行為の……目標および終着点」、すなわち終末論的「限界のことを理解する」。言い換えれば、そのことでもって、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、三位一体の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいて与えられる「われわれ」人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)の終末論的「限界」について理解する(Tコリント13・12、ドストエフスキー『罪と罰』マルメラードフの告白)。このような訳で、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態に属する全く人間的な「われわれ」教会(その牧師、その神学者、その成員)は、徹頭徹尾、起源的な第一の形態の神の言葉、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのもの(具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」)を、その宣教における、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、神の言葉に対する奉仕としての他律的な服従と自律的な服従との同在性において、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で(徹頭徹尾、それに信頼し固執しそれを媒介・反復するという仕方で)、純粋なキリストの福音、純粋なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――すなわちキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、 教会が<教会自身>と<世>に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、すべての人々が純粋なキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指し続けていかなければならないのである、「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指し続けていかなければならないのである。したがって、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員)は、前述した「循環」過程の時間的累積が肝要なことであって、「わがまま勝手に」恣意的独善的嗜好的に教会を実体化させてしまってはならないのである。もしもそうでないならば、教会が何らかの仕方でキリストの福音を思惟し語るとしても、そこでの教会のベクトルは人間自身教会自身の恣意性・独善性・嗜好性に向いているから、そこでの教会の実姿・実態は、イエス・キリストを主・頭とするキリストの教会とはならず、ただ宗教としての、共同宗教としての、制度としての、組織としての、外観としての教会でしかなくなってしまうであろう、それゆえにフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーが現実性と妥当性をもって根本的包括的に原理的に批判したところの、自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教としてのキリスト教でしかなくなってしまうであろう。神は、「神を通してだけ認識され給うが故に、神認識はまた人間によって企てられ、遂行された行為としても客観的にも主観的にも、神ご自身を通して基礎づけられると同時にまた神ご自身を通してその目標にまで導かれるが故に、聖霊を通して父、子なる神こそが神認識の第一の主要な本来的な主体および客体であり給うが故に……(≪あの≫)循環が問題である」。何故ならば、神認識の企ては、「ただそのことに基づいてだけ、……確信と信頼をもって」為すことができるからである。このような訳で、そのことは、「神は隠れた方であり給うから」、「ただ(≪イエス・キリストにおける啓示に規定された≫)批判的な思慮深さをもってだけ」為すことができる。すなわち、その信仰の認識としての神認識の「企てと行為」を「原理的に攻撃」できるのは、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員)の宣教、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者としての、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における~の側の真実としてのみある起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのもの(具体的には、第二の形態のその直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」)だけである。「まさにこの観点の下でこそ、われわれはこの企てと行為の成功ということ」を問わなければならない。「すべての(≪信仰の認識としての≫)神認識(≪啓示認識・啓示信仰≫)の始り」は、「神認識の終着点および目標として理解されることを欲している。その神認識の終着点および目標は、神認識の客体としての」、すなわちイエス・キリストにおいて自己啓示された「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神」としての、「聖霊を通しての父なる~および子なる~である」、それゆえに神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(「啓示と信仰の奇蹟」)に基づいて<終末論的「限界」>の下で与えられる人間が人間的に所有する人間の信仰の認識として神認識、すなわち啓示認識・啓示信仰である。したがって、『教会教義学 神の言葉T/1・2』に引き寄せて言えば、その宣教、その思惟と語りが、キリスト教的な「正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」なのであって、人間自身教会自身の決定事項ではないのである。したがってまた、その宣教、その思惟と語りは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立している」のである。「いと高きところで、神の隠れた存在と本質の中で起こっている出来事(≪神ご自身内部において自己還帰する、対自的で対他的、他在であって自在、全き自由の、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする神の起源的な第一の存在の仕方である「父なる名の内三位一体的特殊性」の出来事≫)の中に」、人間は、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」というイエス・キリストにおける神の自己啓示の「後に従いつつ、それであるから副次的な非本来的な仕方で(≪なぜならば、キリストにあっての神の存在と本質は隠されたままであり続けるから)」、終末論的限界の下で「共に取り上げられ、その結果、神は(≪神ご自身の内在的な「父なる名の内三位一体的特殊性」において≫)ただ単にご自身の認識(≪神の自己認識・自己理解・自己規定≫)の客体であり給うだけなく」、また「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異の下で「向かい合って立つ<他なる者>として」、「人間的な認識(≪あの神の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の奇蹟」に基づいて終末論的限界の下で与えられる人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識≫)の客体であり給うということである」、換言すれば聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする~の起源的な第一の存在の仕方である父は第二の存在の仕方である子として「自分を自分から区別」するし自己啓示する神として自分自身が根源であり、それゆえにその区別された子は父が根源であり、愛に基づく父と子の交わりである第三の存在の仕方である聖霊は父と子が根源であるという内在的な「父なる名の内三位一体的特殊性」、その第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける自己啓示(顕現化、外在化)――この客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性、神のその都度の自由な恵の決断による「啓示と信仰の奇蹟」に基づいて終末論的限界の下で与えられる人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰の「客体であり給うということである」。したがって、「キリスト教的語りがあるべきだとすれば」、先行するイエス・キリストにおける神の自己啓示の恵みに後続して、「神を(≪あくまでもそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言を原理・規準・法廷・審判者・支配者として≫)人間的な認識の客体として表示」する「仕方は必然的である」。もしもそうでないならば、その認識された神は「存在者レベルでの神」(偶像、対象化された人間の自己意識の類的本質)でしかないであろうし、その「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識」でしかないであろうし、「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した」ものでしかないであろうから、そのような「神を人間的な認識の客体として」表示する仕方は、自然神学的なそれとして、自然的な信仰・神学・教会の宣教におけるそれとして、その最初から「誤謬は必然」である。したがって、そのような恣意的独善的嗜好的な牧師や神学者たちの思惟や語りに聞くよりは、当然にも、吉本やフーコーやヘーゲルやフォイエルバッハやマルクスや太宰や漱石や賢治やドストエフスキー等々の言葉や言説に耳を傾けた方がいいに決まっているのである、なぜならばその方が、実際的に現実的に人間や世界の本質を指し示してくれるし、人間的な慰安も励ましも喜びも心の響き合いも心の豊かさも享受させてくれるからである。牧師や神学者たちの説教を聞くくらいなら、「神がただ単にご自分に対して客体であり給うだけでなく、また神の恵みの啓示を通して、それ故にご自分を通して、またわれわれに対しても客体となることを欲し、また客体となり給うということがそれ自身においてまこと」であるがゆえに、終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)の「企てと行為」の可能性は存在しているのである。イエス・キリストにおける神の自己啓示の恵みなしには、「神は確かにいかなる人間的な認識の客体でもないし、いかなる人間的認識の客体も神ではない」のである。このような訳で、「われわれは、神を、……神の満ち溢れる愛の自由な行為としての神の啓示を通して、われわれの認識の客体として、われわれの確認と確証の対象となり給うことのできる方として、知るのである」。「神はご自身をわれわれに向かって、……与えられた方として啓示し給う」――ここで、「われわれが神と関わるようになるとするならば、その時、そのことが実際に起こる可能性および必然性」は、「神がわれわれと関わりを持つことを欲し給うたということ、ただそのこと(≪~の側の真実、「神的『介入』」≫)の中にだけ基礎づけられている」、換言すれば三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのもの(具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」)の「中にだけ基礎づけられている」。したがって、この~の側の真実としてある「神的『介入』」における起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの(具体的には第二の形態の聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」)におけるキリストにあっての「神をわれわれの認識の客体として」、それゆえに神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる「われわれの認識の客体」を、「神として言い表すことができる」。自己還帰する対自的であって対他的・他在であって自在・全き自由の「神はご自身で、ご自身を通して、ご自身の中で、存在し給う方である」から、「われわれは、そのことを、絶対者」等の「何らかの哲学的な定義に基づい」た語りにおいてではなく、それとは「全く違った強調と力説の仕方」において、すなわち「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異の下において、「神の啓示(≪イエス・キリストにおける神の自己啓示、具体的には聖書的啓示証言≫)に基づいて語らなければならない」のである。「われわれ」は、イエス・キリストにおける神の啓示の恵みの中で、すなわち三位一体の「父、子、聖霊としての神の自己啓示の中で」、「神は人間の認識の対象であり給うという事実を見る。われわれはそのことで、神を、その本質のすべての深みにおいて事実、われわれを愛され、したがってご自身をわれわれにおくり与えられ、われわれの認識の対象としてご自分を措定する方(≪ご自分を三位一体の神として自己認識・自己理解・自己規定する方≫)」として、「(決してそれ)以外の者でない方として」だけ「見出すことができる」。「まさにわれわれは、……神を……ただそのような方としてだけ見出すことによって」、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それゆえに神の認識可能性である単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識に向かっての人間の用意が存在する」のであるから、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」ということに耳を傾け「感謝し、また感謝し続けるのである」。「それであるから、われわれのためにいます神の対象性を必然的である」とか「可能である」とかとみなすならば、「全く誤解することになる」のである。すなわち、「神の対象性」は、イエス・キリストにおける神の自己「啓示の中でこそ」、「われわれがそのことを(≪あの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の奇蹟」に基づいて終末論的限界の下で与えられる≫)神を直観と概念を用いて把握しようとするわれわれの(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰の≫)能力に関して語ったのと同じように、恵みとして示されるのである」。「神がわれわれの認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰≫)の客体であり給うということは、われわれはこの(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の奇蹟」に基づいて終末論的限界の下で与えられる≫)認識の主体であることがゆるされるというもう一つ別なことと同様、奇蹟(≪前回論じた「啓示と信仰の奇蹟」≫)であり、それと同様にわれわれの願い求め、讃美、感謝の必然的な根拠である」。「われわれの認識の客体であり給う神、神であるところのわれわれの認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰≫)の客体」は、「もちろんわれわれの世界のただ中にあるひとつの実在である」、換言すれば三位一体の啓示の唯一の類比である神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、客観的な対象として与えられている「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における「その中で神は現にあるところのものであり給う」起源的な第一の形態の神の言葉、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、神の子、業と行為、啓示・和解、まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのもの(具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」)である。「まさに神が世界の実在を神を証しする証しとし給うことによって、神はその啓示の中で、われわれにとって客体となるであろうし、客体的なものがわれわれにとって神を証しする証しとなることができる」のであるが、しかし「その時、その世界の実在は、神の恵みの現臨を通してすべてのそのほかの実在から際立った仕方で擢んでさせられた実在であるし、あくまでそのような実在であり続ける」。言い換えれば、「常に、神の言葉と霊の自由な恵みを通して」、すなわちあの神の自由な恵の決断による「啓示と信仰の奇蹟」――客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいて、「常に神の言葉の自由な選びと召命の中で、神が現実にこの客体(≪起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの≫)を通して証しされるということ、この客体が(≪客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動に基づいて終末論的限界の下で≫)現実に神を証しするということ」、それゆえに「われわれの(≪信仰の認識としての≫)神認識(≪啓示認識・啓示信仰≫)が真実なものであるということが起こる」のである。

 

 さて、「聖書の言葉の用語法の中で、真理(≪「ヘブル語のエメト」≫)という概念が持つ意味と機能」は、「さし当たって先ず(いわば法的に)ひとつの出来事あるいは事情の本来性を、それと共にその強固さ、力強さ、恒常性、したがってその負担力、有効性、拘束力、確実性を言い表している」。この「最後的には全体としての人間的な生を可能にし、基礎づけている実在は、その起源的な場所……その源泉を、人間の中に持ってはいない」、換言すれば「真理を認識し、語り、真理をそれとして確かめ、真理から、真理の中で、生きることが(≪生来的、自然的な≫)人間の能力と姿の中に含まれているといった具合に、人間の中には持っていない(≪人間に内在してはいない≫)」。すなわち、「本来的に、決定的に、したがって現実的に、真理」は、「詩篇の中の数多くの箇所で言われているように」、「正確に見るならば、終始、(≪神と人間との無限の質的差異の下で、≫)イスラエルの中で語り、行動し給う主としての神の大権に属する賓辞である」、「『あなたの』(≪主としての神の≫)真理である」。それは、「繰り返し、その民の間で神がなし給うた啓示と救いの行為(≪神の存在の仕方、業と行為≫)の大いなる賓辞と結びついて現われてくる」(「神のいつくしみ、善意、義、光」と「特に(そのような詩篇八九・一五、九八・三、一一五・一、一一七・二で言われており、それから例えばヨハネ一・一四以下で取り上げられているのであるが)神の恵みと結びついて現われている」)。したがって、「神の真理として、それ自身『大盾、また小盾』(詩篇九一・四)である」。それは、「神が約束をし、それらの約束を守り給う際のまことと共に現われている」。「神が語り行動されること、同時にまた、神がその語りと行動でもって意志し、努力し、造り出したまうこと、それはそれとしてまことである」。したがって、「人間的な存在、思惟、語り、行為の<真実性>」は、先行する「神の在り方と業」(≪神の存在の仕方、業と行為≫)に後続する人間が、その先行する「神の在り方と業を堅くとって離さないで」、「神のまことに対してそれに対応するまことをもって答えて行くことであって、それ以外のなにものでもない」のである、換言すればそれは、先行する起源的な第一の形態の神の言葉(具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言)を、「人間的な存在、思惟、語り、行為」の原理・規準・法廷・審判者・支配者として、神の言葉に対する奉仕としての他律的な服従と自律的な服従との同在性において、終末論的限界の下でそれに絶えず繰り返し聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストの福音を、純粋なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」を志向し目指していくということである、「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指していくということである。旧約聖書における「真理」の概念的な意味は、「新約聖書の用語法においても、事情は少しも変わっていない」。「真理」は、「それ自身それとして、自分自身の中で」自足しており、それゆえに「恒常的で、有効で、信頼でき、それと共に人間的な語りと行為に対して、正しさという正確さを与えるところのことを意味している」。また「そのように理解された『正しさ』が今やまさに真理として言い表されており、そのようにして既に概念の中で神の啓示と関係させられている」、「真理」と「神の啓示」は等置され「同一視されている」。したがって、「既に七十人訳聖書が真理をしばしば真実と訳していたのであるが」、「真理の認識」は、「今やはっきりと信仰の認識として理解されている時、真理が今や恵みと共に、また恵みの後に続いて神のひとり子の満ち溢れる性質として言い表されており(ヨハネ一・一八)、霊と一緒に名指されている時(ヨハネ四・二四、Tヨハネ五・六)、真理が、それによって弟子たちがきよめられる『あなたの言葉』と等置されている時(ヨハネ一七・一七)、イエス・キリストご自身が真理である時(ヨハネ一四・六)、イエス・キリストについての使信が今や『真理の言葉』(Uコリント六・七、コロサイ一・五、エペソ一・一三、ヤコブ一・一八)と呼ばれている時、(≪神の言葉に対する奉仕としての他律的な服従において≫)真理ヲ語ル(ガラテヤ四・一六、エペソ四・一五)が今やそのまま福音の正しい教え(≪純粋なキリストの福音の教え≫)として、あるいはこの教えに対応する(≪神の言葉に対する奉仕としての自律的な服従の決断・≫)態度として理解されている時、何も本質的なことが新しく事柄に付け加わってくるわけではない」。このような訳で、「真理の概念に関して、(≪この段落の最初で述べた≫)あの根本的な意味に関しても、それが実際に適用される際の適用の仕方に関しても、旧約聖書と新約聖書の間に完全な一致が成り立っている」のである。すなわち、「神のもとに真理がある。真理は神の真理である。神ご自身真理であり給う。あらゆる人を偽り者としても、神を真実な者とすべきである(ローマ三・四)。われわれが、真理を認識するならば(≪信仰の認識としての神認識、すなわち啓示認識・啓示信仰を与えられるならば≫)、その時そのことはただ、真理そのものから出る解放を通して(≪神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で≫)起こることができる」。この時、「われわれは、神の支配のもとに入る」ということを、それゆえに「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」ということを、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ということを認識し承認し確認するのである(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)。したがって、イエス・キリストにおける啓示の場所は、人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所なのである、それゆえに自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」、「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所でもあるのである。いずれにしても、「われわれの認識(≪信仰の認識としての神認識、すなわち啓示認識・啓示信仰≫)の客体として神を直観と概念を用いて把握しようとするわれわれの企て」が、「正しい仕方」と「事柄から切り離せない形式において」、「真実である時」、「その企てに基づいて神について語ろうとするわれわれの試みは真実」なのであり、あくまでも終末論的限界の下でその途上における「成功しつつある企てである」、換言すれば「われわれ」が、「われわれの」宣教、「われわれの」その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者を、起源的な第一の形態の神の言葉――すなわち聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、神の子、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの(具体的にはその第二の形態の直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」)として、神の言葉に対する奉仕としての他律的な服従と自律的な服従との同在性において、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストの福音を、純粋なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――すなわちキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、すべての人々が純粋なキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・宣べ伝えを志向し目指していく時に、それゆえに「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指していく時に、「われわれの試みは真実」なのであり、あくまでも終末論的限界の下でその途上における「成功しつつある企てである」、それゆえに「『成功した』ものとしてはわれわれの目の前にあることは決してない」のである、換言すればキリストの復活からそのキリストの再臨までの聖霊の時代において、「ただ神ご自身の中で為し遂げられた完成(≪イエス・キリストにおいて完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和の完成、すなわち終末、キリストの再臨≫)に向かって近づいて行く業であることができるだけである」。「われわれの認識」(信仰の認識としての神認識、すなわち啓示認識・啓示信仰)が、「神ご自身の中に、あるいは神を信じる信仰の中に隠された目標に向かう道の……途上にあるとするならば、その時、(≪あの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の奇蹟」に基づいて終末論的限界の下で≫)直観と概念を用いて神を把握しようとするわれわれの企ては、いかなる自己欺瞞」でもないし、「われわれの直観と概念の前提のもとで神について語ろうとする試みは、他の者を欺く欺瞞ではないのである」。なぜならば、あの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の奇蹟」に基づいたそれであるとするならば、その信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)は、「そのまま神の自己認識と一致することはできない」位相のものではあるが(換言すれば、イエス・キリストにおける神の自己啓示、神の自己認識・自己理解・自己規定に対応させられてはいるが、しかしあくまでもそれとは厳格に区別された人間の神認識ではあるが)、終末論的限界の下で人間が人間的に所有する「われわれの認識として真実であることが出来る限りにおいて真実のもの」だからである。「父ト子ヨリ出ズル御霊」――これは、聖霊の単一性・永遠性・「神性の定義」である。この聖霊は、復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である。聖霊は、「啓示への個人的な参与を保証する」。パウロにおいて、「霊にあって」とは、「救いの福音を聞き、信じるようにさせる霊」、「知恵と啓示の霊」による「神の啓示への参与」、すなわち聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)における「人間の思惟、行為、語ること」を、「主観的に表示している概念」である。また、「キリストにあって」とは、イエス・キリストにおける啓示の出来事と「全く同じ事柄を、客観的に表示している概念」である。「われわれ」が、イエス・キリストにおける救済・平和をあの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の奇蹟」に基づいて「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」――すなわち人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての<いまだ>であり、神の側の真実として、それゆえに客観的現実性・客観的実在、完了・「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである。「われわれは(≪キリストの復活からそのキリストの再臨、完了・成就された救済・平和の完成、終末までの聖霊の時代において、終末論的限界の下で≫)道の途上にあるのである」。このことは、「われわれの認識の限界を言い表している」。したがって、このような終末論的限界の下での第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員)の思惟と語りの生と生活、「われわれの神学」の生と生活は、「せいぜいのところ旅人ノ神学である」、途上の神学である。この神学は、「旅人ノ神学であることができるというこの最上のことを約束する約束の下に立っている」。このようなものとして、「その神学は、真実なものであることができるし、真実なものである……」。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」――このイエス・キリストにおける神の自己啓示の中で、「われわれは、結局、……神の秘義の前に、しかしまた神の啓示の前に立っており、(≪聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする神と人間との無限の質的差異の下で≫)遠く離れて、……しかし同時にまた(≪イエス・キリストにおける神の自己啓示の恵みの下で≫)神の近さの中に立っている」。この認識と自覚は重要なのである。このような訳で、「われわれの認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰≫)の真理性」は、神と人間との無限の質的差異の下で、「未来永劫、人間および被造物としてのわれわれにふさわしい、……神ご自身の真理性に対応している」のだが(何故ならば、それは、神の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の奇蹟」に基づいて終末論的限界の下で与えられるものであるから)、「しかしまた、あくまでもそれとは区別された……(≪イエス・キリストにおける神の啓示の≫)真理性が問題である……」。「人は、この概念(≪旅人ノ神学≫)」について、啓示の弁証法から理解しないで、それゆえに結局は「われわれの未来的・永遠的な神認識」と「われわれの現在的・時間的な神認識」とを区別し、前者を拡大鏡にかけて全体化する神学を、「永遠ノ祝福ヲ得タ人タチノ神学あるいは故郷ノ神学、すなわち……一度ですべてにわたって力を奮う仕方で信仰の目標地点に立って……顔と顔を合わせて神を認識する人たち」の神学と呼んだのだが、その場合、その神認識の客体である神は、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする神ではないことになってしまうのである。したがって、その神学は、神の隠れ、神の不把握性、終末論的限界を、恣意的独善的嗜好的に捨象したところの神学、形而上学的一面的固定的抽象的な神学、「何らかの抽象を以て始められ、何らかの空論に終わるところの」神学である。しかし、神と人間との無限の質的差異に下で、「神としての神、ご自身の中での神は、われわれにとって、その時でも、(≪聖書的啓示証言におけるキリストにあっての神の存在と本質からして≫)隠されてい給う……」、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」。
 「われわれの(≪信仰の認識としての≫)神認識(≪啓示認識・啓示信仰≫)の真実性」は、「神の啓示の真実性」である、換言すればイエス・キリストにおける客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)、すなわち「啓示と信仰の奇蹟」に基づく真実性である。したがって、それは、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、神の子、啓示・和解、まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのもの(具体的には、その第二の形態の直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」)を、その思惟と語りの原理・規準・法廷・審判者・支配者として、神の言葉に対する奉仕としての他律的な服従と自律的な服従との同在性において、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストの福音を、純粋なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(すべての人々が、純粋なキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)を志向し目指すところで成立する真実性である。何故ならば、「神の啓示の真実性」は、「まず第一に、決定的に、……それが神の啓示であるということから成り立っている」からである、「誰か他の者、あるいは何か他の物が神を啓示するのではなく、神がご自身を啓示し給う」ということから成り立っているからである。「神の啓示は、いずれにしても聖書の中では、そのように証しされている」のである。そのように受け取った「四世紀の教会は、聖霊の中に神ご自身とは違った単なる啓示の原理を見てとろうとした者たちに反対して、(≪神の第二の存在の仕方、性質・働き、業と行為である≫)み子と(≪神の第三の存在の仕方、性質・働き、業と行為である≫)聖霊の神性(≪・単一性・永遠性≫)を弁護したのである」、換言すれば神の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の奇蹟」(この「概念と命名」を近代主義者たちが「拒否」し嫌悪するとしても、まさに「啓示と信仰の奇蹟」という「実体を想定せざるを得ない」ところの「啓示と信仰の奇蹟」、客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる人間的主観に実現された神の恵みの出来事)を弁護したのである。イエス・キリスト(起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの)における「神の啓示」は、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性において、「それが直接の教示であるという理由で、また神が啓示の中で他ならぬご自身の証人であり、教師であるという理由で、神についての正真正銘の教示である」。このような訳で、~の側の真実として、~の側から、「神が、その啓示の中で、われわれと関わりを持ち給うということが(≪神と人間とを架橋し給うということが≫)」、終末論的限界の下で、「われわれの神認識を真実なものとするのである」、「正しい神認識」とするのである。「それだからこそ、(≪終末論的限界の下で≫)神を直観と概念を用いて把握しようとするわれわれの試みは、(≪復活したキリストの再臨までの、その途上における≫)成功しつつある試みである」。「われわれ」の思惟と語りは、そこにおける思惟と語りである。したがって、「われわれ」の思惟と語りは、あくまでも「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立している」のである――「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力(≪感情、意志、想像、自然を内面の原理とする修行等≫)によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)。このような訳で、再度述べれば、「われわれ」は、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それゆえに神の認識可能性である単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識に向かっての人間の用意が存在する」のであるから、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」ということに耳を傾け「感謝し、また感謝し続けるのである」。
 「われわれに対して聖書によって神の啓示として証しされている啓示」は、その存在と本質においては「隠れた(≪それゆえに、あくまでもその存在の仕方、業と行為における≫)神の啓示である」。したがって、このことは、「神が、そこで、(そのものに対して人間はいかなる力も持っておらず、持つようになることもない)主であるし、あくまで主であり続け給うということの中で示される」。聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神――この「神の隠れこそ」が、「われわれの(≪信仰の認識としての≫)神認識は始まらなければならず」、またこの「神の隠れ」の「認識」から「われわれの神認識は決して遠ざかってはならないところの~の啓示の恵み」を、「特徴的に示すのである」。イエス・キリストにおける神の自己啓示の特徴は、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」、という点にあるのである、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」――すなわち「イエス・キリストの名」(神の第二の存在の仕方、その業と行為)において、その存在と本質の認識と信仰を要求する啓示である、という点にあるのである。このように、イエス・キリストにおける啓示においては、「神はまたここでも神であり、秘義であり給う」、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神」であり給う。「聖書の証言の中では事情」はそうである。「まさにこの秘義の中でこそ、神は、人間に出会い給い、ご自分を留保することなしに、……(≪あの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の奇蹟」に基づいて終末論的限界の下で≫)人間に対してご自分を与え給う。この意志があるところ、そこにはまた、ご自分を知らせる力がある」、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、あの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の奇蹟」がある。「神の啓示のこの真実性と共に、換言すればご自分を啓示しようとするこの神の意志と力と共に、……(≪あの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の奇蹟」に基づいた終末論的限界の下で与えられ≫)人間によって為される真実な(≪信仰の認識としての≫)神認識(≪啓示認識・啓示信仰≫)が存在する……」。
 イエス・キリストにおける「神の啓示の真実性」は、あの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の奇蹟」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を、「直観と概念を用いて遂行」するところの「われわれの思惟」と「語り」を、換言すれば@「われわれ自身に対するわれわれの責任」と、A「他の者に対するわれわれの責任」を「まことに要求してくる」のである、それゆえに何度も述べているあの「神への愛」と、「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――すなわち「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が(≪@「われわれ自身に対するわれわれの責任」において≫)教会自身と(≪A「他の者に対するわれわれの責任」において≫)世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、すべての人々が純粋なキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを、「まことに要求してくる」のである。このことは、「われわれに向かって(≪神の第二の存在の仕方イエス・キリストにおける神の自己啓示、客観的な「啓示の実在」そのもの、起源的な第一の形態の≫)神の言葉と(≪その出来事の中での主観的側面である≫)霊を通して(≪聖霊の注ぎに基づいて≫)、神はいまし、誰であり、何を欲し、何を為し、それからも為し給うであろうか、またそのことがわれわれにとって何を意味しているか、ということが語られている」のであるから、あの「啓示と信仰の奇蹟」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)、「直観と概念を用いて遂行」するところの「われわれの思惟」と「語り」は、「その者たちにとって事情がどうであれ、その結果……どうなろうとも、ともかく」「神の啓示に対して」、神の言葉に対する奉仕としての他律的な服従と自律的な服従との同在性において「責任をとって行くことなしに、われわれ自身および他の者たちに対して責任をとって行くことはできないということを意味している」のである。このように、イエス・キリストにおける「啓示の中での神の真実性」、「神の啓示の真実性」は、「神について考え、語るようにとわれわれに向かって為されている要求の真実性を基礎づけている」のである。また、それは、「われわれの無力さを痛感させ」るのである、すなわち人間論的な自然的人間、教会論的なキリスト教的人間における~の不把握性を、それゆえに終末論的限界を認識させ自覚させるのである。したがって、その要求は、「われわれの無力さを痛感させ」る「ことの中でこそ」、それゆえに「神の真実性の力」――すなわち客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、あの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の奇蹟」に基づいた、「まことの要求として実証されるのである」。「神の啓示が起こることによって、人間は、神について思惟し語ることができない無能力さについて確信させられる」と「同時に、また神の啓示が起こることによって、人間は、この彼の無力さにもかかわらず、この彼の無力さの中で、それにもかかわらずこれら両方のことを為すよう要求されるのである」。何故ならば、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神」の自己啓示だからである。したがって、「まことの人間的な(≪信仰の認識としての≫)神認識(≪啓示認識・啓示信仰≫)」は、その「要求の中にもともと含まれている神の真実性の力によって」いるのである。したがってまた、「人間の為す神認識」は、その「要求を避けてはならないということ」、その「要求を服従の中で(≪神の言葉に対する奉仕として他律的な服従と自律的な服従との同在性において≫)考慮に入れなければならないということ……の中で真実である」。言い換えれば、このことは、神の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員)が、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性である「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、神の子、啓示・和解、まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのものを(具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」を)、その宣教における、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、神の言葉に対する奉仕として他律的な服従と自律的な服従との同在性において、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストの福音を、純粋なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「~への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――すなわちキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すべての人々が純粋なキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指していかなければならないということを、「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指していかなければならないということを意味しているのである。何故ならば、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、「ご自身を啓示しようとする神の意志に対して、神の力が対応している」からである。「ちょうど神の意志に対していかなる抵抗もあり得ないように、神の力に対してもいかなる抵抗もあり得ない」からである。人間論的な自然的人間、教会論的なキリスト教的人間は、その人間の「無能力」ゆえに、神の側の真実から「要求されていること」を、その人間の意志的な「行為を通してしようとしてもどうしてもできない」からである。しかし、自己還帰する対自的であって対他的、他在であって自在、全き自由の「神の意志」と「神の力」は、神の側の真実から「要求されていることを(≪あの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の奇蹟」に基づいて終末論的限界の下で、無力な≫)われわれの行為を通して出来事として」惹き起こさせることができるのである。「われわれがわれわれ自身からしてはできないこと」を、「神は、(≪あの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の奇蹟」に基づいて終末論的限界の下で、無力な≫)われわれ自身を通して為すことができる」のである。したがって、「われわれ」は、「われわれの直観、概念、言葉」を介した信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)の企てと試みの可能性を、自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教におけるように、人間論的な自然的人間、教会論的なキリスト教的人間に生来的に「内在」する「意志」と「力」に帰すわけにはいかないのである。もちろん、「神の力」の概念的内容は、「人間が(以前できなかったことを今はすることができるように)何らかの意味で魔術的に変えられる」ということを意味しないし、「人間の能力を何らかの仕方で超自然的に広げるということ」を意味しないのである。人間は、依然として、その現にあるがままの現実的な人間存在における人間である。教会論的なキリスト教的人間であれ誰であれ、「『自分の理性や力によっては』全く信じることができない」人間である、キリストにあっての神から遠ざかり遠ざかり続ける人間である、罪を新たな罪を犯し犯し続ける人間である――したがって、「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」・「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」(『福音と律法』)。「罪人として義とされる」――「この義認」が、あの神の自由な恵の決断による「啓示と信仰の奇蹟」に基づいて(≪「神的主張に基づいて」≫)、終末論的限界の下で、「神の啓示の真実性の中で出来事となって起こる」ならば、「彼は、その全き無力さの中で、……彼」自身のではなく、すなわち「人間自身のではなく、(≪「確か」に≫)神の栄誉が宿る場所となる」――「われわれは、われわれの主としてのイエス・キリストに固執することにより、またイエス・キリストがわれわれのかしらであるということに固執することにより、(中略)この主とかしらのもとで、またこの主とかしらとともに、……これからは神の義、神の子の義、神自身の義をまとっている者として生きることを許される」(『ローマ書新解』)。この神的「主張を通して人間の身に及ぶ聖化の中で、彼の罪は決して無視されていないし、弁解のできるものでもない」・「彼の罪はそのまま除去されるわけでもない。ただ彼の罪は赦されるのである」、「その罪深い姿と行動の中で、神的適意の対象……神的適意の道具」とされるのである――「ただ万人を憐み、万人万物を解する神様ばかりが、われわれを憐んで下さる」、「神さまは万人を<裁いて>、万人を<赦され>」、「最後の日にやって来て」、「……われわれに、御手を伸ばされる。その時こそ何もかも合点が行く!……誰も彼も合点が行く」、「主よ、汝の王国の来たらんことを」(ドストエフスキー『罪と罰』)。恵み(キリストの復活)と裁き(キリストの死)の啓示の弁証法は貫徹されるのである。「われわれは、神の恵みによって、(≪あの神の自由な恵の決断による「啓示と信仰の奇蹟」に基づいて終末論的限界の下で≫)直観と概念を用いて神を把握し、われわれの無力さの中で、しかも(≪あの「神への愛」――「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」の連関と循環の中で≫)神について語ることが許されるのである」。この時、「われわれ」人間は、「神の恵みに対する服従」において(神の言葉に対する奉仕としての他律的な服従と自律的な服従との同在性において)、「ただ神だけを正しとし、少しも自分に正しさを帰さない」ところの、「神の恵みに対する……服従」を為すことができるのである。しかし、「われわれ」は、「われわれの思惟と語りの真実性の栄誉を持つであろう方は、常に神であり、またただ神だけである」から、「あたかもそのことがわれわれにとって首尾良く成功したかのように、あたかもわれわれがそのことを為し遂げ完遂したかのように、それについて誇りはしない」のである。したがって、その思惟と語りがキリスト教的な思惟と語りの「正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それと怠惰な思弁でしかないということは、神ご自身の決定事項」であって、人間自身教会自身の決定事項では決してないということを認識し自覚するのである。この「謙虚さは、<裁き>の中で示される<恵み>を堅くとって離さない」こということである。したがって、この「謙虚さ」は、「われわれ」を、起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には聖書的啓示証言)をその思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、「裁きによって常に新しく神を問うて行く問い、換言すればその啓示の中での神を問うて行く問い……に向かって駆り立て」るのである。言い換えれば、それは、神の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員)が、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるあの起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの(具体的にはその第二の形態としてのその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」)を、その宣教、その思惟と語りの原理・規準・法廷・審判者・支配者として、神の言葉に対する奉仕としての他律的な服従と自律的な服従との同在性において、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、あの「神への愛」――「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」の連関と循環の生と生活を志向し目指していくということである。そのような途上の思惟と語りの生と生活を志向し目指していくことである。したがって、それは、「あたかもわれわれが、今や確かに神について考え語ってしまったかのように」、また何らかの仕方で得られた既存の「われわれの思想と言葉を単に繰り返して行きさえすればよいかのように」、また恣意的独善的嗜好的に啓示を「例証」すればよいかのように、思惟し語ることでは決してないのである、それゆえに「われわれの神認識の真実性は、そのような単なる繰り返しの故に、死んでしまうことがあり得る」のである。何故ならば、「われわれの(≪信仰の認識としての≫)神認識は、その真実性を、決してそれ自身の中に持っていない」からである、すなわち「その真実性は、(≪終末論的限界の下で、それゆえに「われわれにとっていつでも未来的であるあるところの道」の途上の下で、≫)神の啓示の真実性」に「由来して」いるからである。人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての「神認識の真実性について語られ得る決定的なこと」は、「われわれが神の啓示(≪三位一体の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、神の第二の存在の仕方、まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、具体的にはその第二の形態の直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」≫)の真実性を思い出す(≪想起する、それを「われわれの」思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として媒介・反復する≫)ということでもって……語られている」――「このことが、出来事となって(≪あの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の奇蹟」に基づいて終末論的限界の下で≫)起こることによって、神を直観と概念を用いて把握し、神について語ろうとするわれわれの人間的な企ては、成功しつつある企てである」。このような訳で、「われわれが神認識の出発点として知ることを学んだところの(≪「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神」としてのイエス・キリストにおける≫)神の啓示の恵み」は、「われわれの神認識の終着点である」、「ちょうど隠れた神が、したがって隠れた神を信じる信仰が、神認識の始りを形成しているように」、換言すれば聖性・秘義性・隠蔽生において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方であるナザレのイエスという「人間の歴史的形態」(「イエス・キリストの名」)においてその存在と本質の認識と信仰を要求するように、「真実な神は、したがって真実な神を信じる信仰は、神認識の目標を形成している」。