本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十七節 神認識の限界」「一 神の隠れ」(その3−3)

カール・バルト『教会教義学 神論T/1 ~の認識』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十七節 神認識の限界」「一 神の隠れ」(その3−3)(359−374頁)

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしており、見つけた場合には速やかに訂正をしておりますが、引用上の不備、勘違いによる不備、誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)・(しかし、その論述内容については、少なくともカール・バルトに関しては、根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます。したがって、そうした論述の積み重ねの中で、その内容についての表現の仕方の練り直しと的確化だけでなく、その内容の深化と豊富化が為されていると考えます。また、吉本隆明に関しても、まだ補充すべき点はいろいろあるとしても根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます)・(最後に、indemについてだけは、2017年3月12日以降、吉永正義訳の「……する間に」をすべて、井上良雄的に「……することによって」というように引用し直しています。なぜならば、その方がその文章内容をイメージし理解しやすいからです)

 

「五章 ~の認識 二十七節 神認識の限界」
「五章 ~の認識 二十七節 神認識の限界」について、バルトは、次のような定式化を行っている。
 神はただ神を通してだけ認識され給う。そのようなわけでわれわれは神を、われわれが神の啓示に対し、信仰の中で、応答しようと試みる際に用いる直感および概念の力によって認識するのではない。しかしわれわれはまた神を、神の許しを用い、その命令に聞き従いつつ、そのような〔直感と概念を用いての〕試みをすることなしに、認識するのではない。この試みが首尾よく成功するということは、したがってわれわれが為す人間的な神認識の真実性は、直感と概念を用いて把握しようとするわれわれの営みが神ご自身を通し、恵みの中で、神の真理へと参与させられ、取り上げられ、定められたということから成り立っている(327頁)。

 

〔この定式の詳述〕
 この定式の詳述については、『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十七節 神認識の限界」「一 神の隠れ」(その3−1)で行っていますので、参照してください(2017年8月23日論述分)。

 

註:「啓示の認識原理」であり「教会の宣教の批判と訂正」の規準・原理・法廷・審判者・支配者である<三位一体論>の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)、を参照してください。

 

「一 神の隠れ」(その3−3)
 前回、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、客観的な対象として与えられている「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における「源泉と規準」は、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、神の子、啓示・和解、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストであるが、「この源泉と規準でもって」、@神と人間との無限の質的差異の下で、「神ガ何デアルカトイウコトハ、神ヲ除イテハ誰モ自分ノ言葉デ説明スルコトハデキナイ」という「外的な限界」(神の不把握性、終末論的な限界)が、またA「定義ハ名(≪起源的な第二の形態である神の言葉、神の第二の存在の仕方、業と行為≫)ニ従ッテハ与エラレ得ルガ、本質(≪聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする神のその存在と本質≫)ニ従ッテハ決シテ与エラレ得ナイ」という「すべての人間的な語り」の「内的な限界」(神の不把握性、終末論的な限界)が言われているについて論じた。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」イエス・キリストにおける~の自己啓示(神の自己認識・自己理解・自己規定)、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする神の<第二の存在の仕方>であるイエス・キリストにおける「神の隠れ」についての命題が、換言すれば神の聖性・秘義性・隠蔽性についての「命題が、われわれの神認識の内的限界を言い表すことによって、それはまた、われわれの神認識の外的限界を言い表している」。したがって、キリストにあっての「神に相対して」、「われわれ」は、その神を把握することができるところの、生まれながらに備わった「(……固有な)直観、概念、言語の能力」を全く持たないがゆえに、換言すればキリストにあっての「神に相対して」、「われわれ」は、生まれながらに備わったその知覚作用、その対象了解、その感情作用、その概念構成、その言語表現の能力によってはその神を把握することが全くできないがゆえに、終末論的限界の下で「われわれ」人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)は、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的な対象として与えられている「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(「啓示と信仰の奇蹟」としての人間的主観に実現された神の恵みの出来事――この「概念と命名」を近代主義者たちが「拒否」するとしても、まさに「啓示と信仰の奇蹟」という「実体を想定せざるを得ない」ところの「啓示と信仰の奇蹟」としての人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいてのみ与えられるということを確認するのである。聖書的啓示証言に即して「このことが確実であるとするならば」、「われわれは……われわれをその啓示を通して神を信じる信仰へと呼び覚まし給う神について」、「語」ることが「できるし」、「語」ることが「ゆるされるし」、「語らなければならないということ」を「確認することができる」。「それであるから、この神」は、あくまでも、あのような仕方において、純粋な、キリストの福音、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」(――そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」)において、「われわれによって直観と概念を用いて把握」することが「できるし」、「把握」することが「ゆるされるし」、「把握」し「なければならない」のである。この時、「啓示と信仰の奇蹟の中で彼は神の前に立っており、神は彼の前に立ち給う。彼は神を認識し、したがって(≪聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする≫)神をその不把握性の中で(≪それゆえに終末論的限界の下で≫)把握するのである」。この神の不把握性の中での信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)については、「神ハ定義サレ得ナイということ」を知っていた「一三世紀から由来している偽アウグスティヌス文書『神ニ向カッテノ魂ノ独語』(一三章)」でなした「美しい記述の中で明らかにすることができる。……三位一体ヨ。アナタハ(≪単一性・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」、その存在と本質は≫)確カニ、タダアナタニトッテダケ完全ニ知ラレ給ウ。(≪聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする≫)聖ナル三位一体(≪の神≫)、……ソレハミ使タチノ目ヲモッテスラ、語ルコトモ、思ウコトモ、理解スルコトモ、認識スルコトモデキナイノデアル。したがって、われわれは神について沈黙すべきであるし、沈黙することができるのであろうか。決してそうではない」。「ワタシハ沈黙シナイデショウ。何故ナラバアナタハワタシヲ造リ、照ラサレマシタカラ。アナタハワタシヲ見出シ、ワタシヲ知リ給イマシタ。ソシテワタシハアナタヲ見出シ、アナタヲ知リマシタ。何故ナラバアナタハワタシヲ照ラサレマシタカラ。……ワタシハアナタヲアナタノ中デ知リマシタ。アナタガアナタニトッテアリ給ウ通リノ仕方デ(≪単一性・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」、その存在と本質において≫)ワタシハアナタヲ知ッタノデハアリマセン。タダアナタガワタシニトッテアリ給ウヨウナ仕方デ(≪「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方イエス・キリストにおける啓示を通して、それゆえに客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で≫)、ワタシハアナタヲ知ッタノデス。スナワチ、アナタナシデハナク、タダアナタノ中デデス。何故ナラバアナタハワタシヲ照ラス光デアリ給イマスカラ。アナタニトッテアリ給ウママノ仕方デ、アナタハタダアナタダケニ知ラレ給イマス。アナタガワタシニトッテアリ給ウママノ仕方デ、アナタノ恵ミニヨッテ(≪神のその都度の自由な恵みの決断による啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で≫)、アナタワワシニ知ラレ給イマス」。すなわち「上方カラ大キナ声デ、ワタシノ内ナル耳ニアナタハ叫バレタ。ソシテワタシノツンボヲ破リ給ウタ。ソレデワタシハアナタノ声ヲ聞イタ。ソシテアナタハワタシノ迷妄ヲ照ラシ出サレタノデ、ワタシハアナタノ光ヲ見、マタソレデアナタガワタシノ神デアルコトヲ知ッタ。ソノタメニワタシハアナタヲ知ッタト語ッタ。ワタシハソレデアナタガワタシノ神デアルコトヲ知ッタ。ソシテマコトノ神デアルアナタトアナタガ送リ給ウタイエス・キリスト(≪「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神」≫)ヲ知ッタ」。
 このような訳で、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする「神の隠れとは」、「そのような方としてただご自身にとってだけ知られ給い、したがってまたただご自身にとってだけ直観と概念を用いて把握することができ(≪自己認識・自己理解・自己規定することができ≫)、ただご自分ひとりだけが正しく、換言すればまことにご自分について語ることができるところの」、「ひとりのまことの神、われわれの創造主、和解主、救済主」、すなわち「父なる名の内三位一体的特殊性」における三位一体の神は、人間論的な自然的人間にとってはあるいは第三の形態に属する全く人間的な教会論的なキリスト教的人間にとっては、「把握できないということである」。「そのようなわけで、ご自身をその被造物に対し、啓示されることは、結局ただ神ご自身の可能性の中にある」と言うことができるのである。言い換えれば、そのことは、まさに神の自己認識・自己理解・自己規定そのものである単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、神の子、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける~の自己啓示そのものの中にあるのである。言い換えれば、そのことは、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)の中にあるのである。「神は、ご自身を通して自分を啓示(≪自己認識・自己理解・自己規定≫)し給うたし、啓示(≪自己認識・自己理解・自己規定≫)し給う」。したがって、聖書的啓示証言またバルトにおけるこの認識の仕方の場合には、自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教とは全く違って、徹頭徹尾、決して「神の意識は人間の自己意識」(フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)とはならないし、また決して「神の認識は人間の自己認識」(『キリスト教の本質』)とはならないのである。聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神は、「み子の中で」、すなわち「神が人間となることによって、聖霊を通して、すなわちすべての肉の上に聖霊が注がれることを通して、自分を啓示し給うたし、啓示し給う」。したがって、「われわれが、神を隠れた神として認識し、告白するならば、まさにそのことは、神の啓示の恵みに対してわれわれが感謝する讃美の最初の業である」。このように、~の側の真実としてのみある~の側からの「純粋な贈り物」、「神の啓示に対して、われわれがただ感謝の讃美をもって出会うということができるだけであるということ」は、「この啓示の本質に含まれている」のである。「まさにわれわれがその啓示ゆえに神に感謝することによって、われわれは神をその隠れの中で誉め讃えるであろう」。そして「まさにそのことを為すことによって、われわれは……われわれがその方を既に認識したということ、あの奇蹟(≪あの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の奇蹟」、客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事の奇蹟≫)は既に出来事となって起こっているということ、われわれに対してあの純粋な贈り物は既に為され、われわれはそれを既に受け取ったということを告白するのである」。「まさにわれわれが(≪神のその都度の自由な恵みの決断によるあの啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて≫)神の隠れを認識することによって、われわれはその啓示の恵(≪その神性の受肉ではなくて言葉の受肉としての「神の受肉されたみ子」、イエス・キリスト≫)を通して神ご自身を認識したのである」。まさにナザレのイエスという「人間の歴史的形態」――すなわち「イエス・キリストの名」、神の第二の存在の仕方において、その存在と本質を認識し信仰したのである。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」ということを認識し信仰したのである。したがって、まさに「われわれ」は、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それゆえに神の認識可能性である単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識に向かっての人間の用意が存在する」のであるから、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」ということに耳を傾け「感謝し、また感謝し続けるのである」。「まさに啓示の中でこそ、まさにイエス・キリスト(≪聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする神の<第二の存在の仕方>、業と行為、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの≫)の中でこそ」、「隠れた神」は、「ご自身を把握できるものとし給うた」のである、「それは、決して直接的にではなく、間接的にである、直接見てとる観照に対してではなく、(≪神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる人間が人間的に所有する人間の≫)信仰に対してである」、すなわち「その本質の中でではなく、しるしの中でである」、その第二の存在の仕方(業と行為、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの)において「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」という仕方で、「とにかくご自分を把握できるものとし給うた」のである。「言葉は肉となった」――「これが、すべてのしるしの最初の、起源的な、支配的なしるしである」、すなわち起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのものである。「このしるしに基づいて、このしるしのしるしとして」、「そのほかにも神の永遠の言葉の被造物的なしるしが存在する」、すなわち神の言葉の直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」)が存在する、また具体的にはそれをその宣教における・その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに聞き教えられることを通して教えるところの第三の形態に属する全く人間的な教会(その成員)の<客観的>な信仰告白および教義(客観的な啓示の「概念の実在」の「概念の実在」)が存在する、これらが客観的な対象として与えられている「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性におけるキリスト教に固有な類・歴史性である。この「イエス・キリストと地上における可視的なみ国」――「これこそ、神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握し、したがってまた神について語ることができる」「偉大な可能性」である、すなわちそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、客観的な対象として与えられている「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性である。まさにここに、神の言葉に対する奉仕への「命令と許可」があるのであって、それは、あくまでも具体的には聖書的啓示証言を教会(その牧師、その神学者、その成員)の宣教における・その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、他律的な服従と自律的な服従との同在性において、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、純粋な、キリストの福音、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」を志向し目指していくということである、「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指していくということである。したがって、それは、イエス・キリストにおける神の自己啓示を、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員)・「われわれ自身」が、「わがまま勝手に」恣意的独善的嗜好的に「支配」し・「洞察」し・「例証」してはならないということである。言い換えれば、それぞれの世代、それぞれの世紀の社会構成・支配構成・文明的――文化的構成のただ中で、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員)は、啓示を具体的には聖書的啓示証言を、「わがまま勝手に」恣意的独善的嗜好的に「支配」し・「洞察」し・「例証する」のではなく、あくまでもそれをその宣教における・その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、「別の言葉」で啓示(客観的な「啓示の実在」そのもの)と「同一のことを言う」ことが、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言(客観的な啓示の「概念の実在」)と「同一のことを言う」ことが命じられ許されているのである。この時、その宣教、その思惟と語り(客観的な信仰告白および教義――すなわち客観的な啓示の「概念の実在」の「概念の実在」)は、「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指していると言うことができるのである、キリスト教に固有な類・歴史性(類の時間累積)に連帯していると言うことができるのである。「神の啓示は、神が被造物に合わせて身をおとし給うことである。この卑下が神の言葉の中で、その聖霊を通して現実のこととなることによって」、「われわれは、(≪神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる人間が人間的に所有する人間の≫)信仰の中で、(われわれ自身の無能力を顧慮することなしに、ただ神ご自身の能力にだけ信頼を寄せつつ)神の啓示に対して人間的な直観と概念を用いて、したがって人間的な言葉を用いて、応答して行こうとする企てを為し、繰り返し為して行くことがゆるされ、また命じられているのである」、前述したあのような仕方で、純粋な、キリストの福音、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要請・要求、純粋なキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)が命じられ許されているのである。

 

 「何人モ正確ニ父ナル神ニツイテ語ルコトハデキナイガ、シカシナガラ、父ナル神ニツイテノアル知識ハ、目ニ見エル被造物ヲ手段ニシテ得ラレルコトガデキル(オリゲネス)」、「存在するものそのもの」・「その純然たる造られた存在」、その「造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」という「被造物ノ中デノ三位一体ノ跡」、「三位一体の痕跡」、人間の理性・自己意識・思惟に内在する神概念の「想起(記憶)、知解、愛」(アウグスティヌス)――この「教会の教父たち」の論じた「神の相対的な直観性と概念性」という「これらすべての言明が含みを持っている問題性」は、その「顕著な一般性」、その「自然神学」、その「自然的な啓示」の立場にある。したがって、「彼らの言明がこのような意味を持っている限り、われわれとしては彼らの言明を受入れることができないことは明らかである」。ただ、「グレゴリオス・エリベリタヌス(四世紀)」は、「例外として」「最も洞察に富んだ仕方で、……次のように述べている。アナタガ彼ニツイテ語ッタスベテヲ、彼ノミ業(≪存在の仕方≫)ノ成果オヨビ効能トゴ自身ノ聖礼典ノ執行トアナタハ呼ブデアロウ」。したがって、バルトは、『教会教義学 神の言葉T/1・2』で、次のように述べている――@彼らの言明の問題性は、例えば「三位一体の跡」は、「世界に対して超越する(≪「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異の下で存在する≫)創造神の跡」ではないのであって、それゆえにそれは、人間自身の「内在的に理解」された「宇宙の諸規定・人間的な現実存在の諸規定」、「単なる宇宙論や人間論」、人間自身に基づく「人間の世界理解の、最後的には人間の自己理解」、「神話」の位相にあるものである、A「内被造世界での、……父という呼び名は確かに真実である」が、「非本来的なもの」であり、「神の内三位一体的父の名の力と威厳に依存」しているものとして、あの神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して理解されなければならない。再度述べれば、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それゆえに神の認識可能性である単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識に向かっての人間の用意が存在する」のであるから、人間の「その無能な能力を用いて神を直観と概念で把握することがゆるされ命じられる神の啓示」は、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識の恵み、すなわち「アレキサンドリアのクレメンス」が述べているとおり「『神のみ子を通しての神認識の恵み』、換言すれば『イエス・キリストの偉大さ』であることができるだけである」。イエス・キリストにおける「この啓示(≪~の第二の存在の仕方≫)は、神の創造の領域の中で起こる」のだが、「それは創造(≪~の起源的な第一の存在の仕方≫)そのものの力からして起こるのではない」。神が「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神」として「直観と概念を用いて把握できるものとなるのは、(≪聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、業と行為、神の子、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間≫)イエス・キリストご自身の出現と関連している神ゴ自身ノサクラメントノ配剤の中でのことである」。バルトは、『教会教義学 神の言葉T/1・2』で、次のように述べている――「創造された世界」における「神の愛」と「われわれの世界」における「イエス・キリストの事実の中における神の愛」との間には差異がある、すなわち後者の神の愛は、「まさしく神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった人間の失われた世界に対する神の愛」である、それゆえに「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない、「和解ないし啓示」は、神の存在の仕方の差異性におけるその第二の存在の仕方であるイエス・キリストの「新しい神の業」である、それは、「神的な愛の力」、「和解の力」である、イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、神の第二の存在の仕方において「第二の神的行為を遂行」したのである、この神の存在の仕方の差異性における「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、(≪神の起源的な第一の存在の仕方である≫)父と(≪父なる神がその存在の仕方において「自分を自分から区別」したところの第二の存在の仕方である≫)子の順序、父(≪啓示者≫)と言葉(≪啓示、起源的な第一の形態の神の言葉≫)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、創造主・父に先行することはできないのである、しかし父・子は共にその「存在」において単一性・神性・永遠性を本質としているから、この従属的な関係は、その存在と本質の差異性を意味しているのではなく、その<存在の仕方>の差異性を意味しているのである。「われわれ」は、客観的な神の啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動に「信頼」し固執して、「その命令に対して服従して行かなければならない」、神の言葉に対する奉仕に赴かなければならない、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、客観的な対象として与えられている「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉を、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言を、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員)の宣教・その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、神の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な、キリストの福音、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、すべての人々が純粋なキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)を志向し目指していかなければならない、「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指していかなければならない。したがって、「われわれの無能力を……高く評価しよう」として、自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返す近代主義的プロテスタント主義的信仰・神学・教会の宣教におけるように、「わがまま勝手に」恣意的独善的嗜好的にイエス・キリストにおける啓示とは別な独立した「人間的理性や人間的欲求やによって規定された」啓示を志向し目指すならば、また「われわれの無能力を引き合いに出して、……直観と概念を用いて神を把握しようとすることをやめてしま」うならば、換言すれば「神秘主義的な神学の道……におもむこうとするならば」、「そのことはその結果において、イエス・キリストを否定し、聖霊を汚すこと以外の何ものも意味しないであろう」。いずれにしても、客観的な神の啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動を通して「人間に与えられた能力」、「われわれが為す直観と概念を用いて把握する働き」、終末論的限界の下で(すなわち復活したキリストの再臨までの聖霊の時代における、純粋なキリストの福音を・純粋なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」、純粋なキリストの福音への・純粋なキリストにあっての神への「接近」・「途上」の下で)人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)の歩みは、「啓示に基づいて、……換言すれば神の存在と本質に向かって為される運動において、妨げられてはいない」のである。イエス・キリストにおける神の自己啓示(神の自己認識・自己理解・自己規定)は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」――すなわち「イエス・キリストの名」、神の<第二の存在の仕方>において、「キリストの神性」の認識と信仰を、その存在と本質の認識と信仰を要求する啓示なのである、「まさに顕ワサレタ神(≪その第二の存在の仕方≫)こそが隠サレタ神(≪その存在と本質≫)である」という認識と信仰を要求する啓示なのである。このような訳で、「啓示に基づいて為される人間的な直観と概念を用いて把握し語る働きに対して、原則的な懐疑をもって臨み、はじめからそれとして、そのなし得る能力に関して、したがって真理内容に関して不信頼をもって接しようとすることは意味がない」ことなのである。したがって、「われわれは、……神についての人間的な表象と人間的な言葉が、それとして、そもそも人間と共に、神の裁きの下に立っているということ、そのような人間的な表象と言葉が、そのままでは、神の実在をただしるし的にだけでも描写して行く能力を持っていないということ、神の隠れの剣がそれらすべての表象と言葉の頭上にかかっているということを決して忘れはしない」としても、啓示を通して与えられる「神についての人間的な表象と人間的な言葉そのものを嫌疑の対象として、過小評価すること」はしないのである。したがってまた、「われわれ自身の無能力さ(≪神の不把握性、終末論的限界≫)」の告白は、あくまでも啓示から規定されてくる「副次的、派生的」な告白であるから、肝要なことは、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的な対象として与えられている「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、イエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのもの、具体的には第二の形態の直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言におけるイエス・キリスト、客観的な啓示の「概念の実在」を、「われわれ」第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員)の宣教・その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、神の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、あの純粋な、キリストの福音を、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」を志向し目指していくという点にあるのである、「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指していくという点にあるのである。「われわれ」は、「キリスト教的ニ告白スル言明を為すようにとの命令と許可」が与えられているのである。このような訳で、客観的な啓示(起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」)を、「わがまま勝手に」恣意的独善的嗜好的に「自分で自由に処理することはでき」ないところの、それゆえに絶えず「啓示によって繰り返し見出されなければならない」ところの、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員)における「神学の即事性」は、「常にただ祈りつつ」、「それが啓示の注釈(≪すなわち聖書的啓示証言についての人間自身教会自身の「わがまま勝手な」恣意的独善的嗜好的な「例証」ではなく、「別な言葉」で啓示と具体的には聖書的啓示証言と「同一のことを言う」解釈≫)を自分の唯一の課題とすることから成り立っている」のである。何故ならば、その直接的な最初の第一の神の言葉の第二の形態の聖書(聖書的啓示証言)は、次のような書だからである――「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、いま一つの事実、すなわち彼は神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々に語っている、ということである。(中略)聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している」(『ローマ書』)・最終的に離脱した宗教的社会主義における「そこでの人間の困窮と人間に対する助けとが、聖書が理解しているほどには、真剣に理解されておらず、深く理解されて」いなかった(『証人としてのキリスト者』)。

 

 「われわれは、神認識の出発点についてのわれわれの考察を、アウグスティヌスの言葉でもって結ぶことにする、神ハ、何者モ神ニツイテフサワシク語ルコトガデキナイニモカカワラズ、身ヲオトシテ、人間ノ口ヲモッテノ礼拝ヲ受ケ入レ給イ、ワレワレガ自分タチノ言葉ノ媒介ヲ通シテ、神ヲ讃美シ喜ブコトヲ欲シ給ウ」。このことは、徹頭徹尾聖書的啓示証言に信頼し固執した信仰・神学・教会の宣教のその原理・その認識方法と概念構成において、自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教の<段階>を根本的包括的に原理的に止揚し克服して、<非>自然神学、<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の<段階>へと移行したバルトに引き寄せて言い換えれば、啓示を具体的には聖書的啓示証言を、「わがまま勝手に」恣意的独善的嗜好的に処理するのではなく、換言すれば自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教において処理するのではなく、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、客観的な対象として与えられている「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に感謝をもって信頼し固執する神の言葉に対する奉仕において、それゆえに何度も先述したあのような仕方において、純粋なキリストの福音、純粋なキリストにあっての神を尋ね求め続ける「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、すなわちすべての人々が純粋なキリストの福音を現実的に所有することができるために為す純粋なキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)を志向し目指していく「命令と許可が与えられ」ているということである。