本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十七節 神認識の限界」「一 神の隠れ」(その3−2)−2

カール・バルト『教会教義学 神論T/1 ~の認識』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十七節 神認識の限界」「一 神の隠れ」(その3−2)−2(340−359頁)

 

「一 神の隠れ」(その3−2)−2
 このような訳で、「われわれ」は、「昔の教会と神学の中で」、「神の不把握性について」、換言すれば神の不可視性と神の言語的表現の不可能性について「語られている」ことに対して、「批判的に評価」し、「またはっきりと言葉に出して補充」し、「正さなければならない」。「神ハ自ラ存在シ、自ラ生起シ、自ラ保持シ、不可見的デ、把握デキズ、不死デアルトイウコト、コレラハスベテ神ノ光栄ノ承認、ワレワレノ意味ノ暗示、ワレワレノ思想ノ概略デアルガ、言葉ハ、神ガ実際何デアリ給ウカヲワレワレニ告ゲルノニ無力デアリ、言葉ハ真実ヲ言イ表ワスコトガデキナイ。……カクテ神ヲ告白スルワレワレノ告白ハ、言語ノ欠陥ノ故ニ挫折シ、ワレワレガ考エウル最上ノ言葉ノ結合モ、神ノ真実ト偉大サヲ示スコトハデキナイ(ヒラリウス)」――先ず以て、このように、ヒラリウスが「神自身の不把握性の概念に言及しつつ語ったということに、人は注意せよ」。「同じように、アウグスティヌスによれば、神ハ『語ルコトガデキナイ』トイウコトサエ語ラレルコトハデキナイ。ナゼナラバ、ソノヨウニ語ルコトハ既ニ神ニツイテ何カヲ語ッテイルコトデアルカラデアル」。「そのようなわけで、神の隠れは、肯定的神学から否定的神学へと移って行く道の上でも、決して否定されたり、回避されたりすることはできない」のである。このことに対応して「古プロテスタントの正統主義も……神のすべての定義は正確ニ言エバ、ワレワレニ示サレテイル限リデノ、神ヲ言イ表ワスアル言イ方デアル、ナゼナラバ神ハ定義サレルコトガデキズ、神ヲ完全ニ定義スルタメニハ、神ゴ自身ノ論理ガ必要ダカラデアル……ということを知っていた」。これらすべてが、「神の啓示の恵みの中での神認識の内容充実と充満について語られている」ならば「まことに結構なこと」であったが、しかし「文脈はほとんどの場合、これと違った方向を指し示してい」たのである。「ただ、カンタベリーのアンセルムス」だけは、「教義学的な合理主義」を明確に否定して、それゆえにそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として、客観的な対象として与えられている「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、すなわち客観的な「啓示の実在」そのもの、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストから得られるところの認識に信頼し固執して、「ほとんどすべての昔の神学において為されているよりももっとはっきりと」、「一方において神の隠れが、まさに人間に対し現臨し給う神の栄光の賓辞として記述」しており、「他方においてその神の隠れが、人間に対し現臨し給う神に対し」人間が「罪深い仕方で心を閉ざしていることとの関連の中で記述」しており、神の啓示の恵みの「事柄との美しい近さの中で語っている」――「(中略)ワレハ汝ノウチニ動キ、汝ノウチニ在リ、シカモ汝ニ達スルコトガデキナイ。汝ハワガウチニ在リ、ワレヲ囲ンデアリ給ウガ、私ハ汝ヲ感知シナイ。(中略)……主ナル神ヨ、汝ハ言イ表ワシ難キ汝独自ナル仕方デ、ソレラヲ汝ノウチニ持チ給イ、シカモ汝ニヨッテ創造セラレタ実象ニハ、ソレゾレ感覚サレ得ル仕方デ、ソレラヲ与エ給ウタ……。シカシワガ魂ノ感覚ハ、罪悪ノタメニ長キニ亙って疲弊シ、タメニ梗塞セラレ、遅鈍ニセラレ、阻害セラレテシマッタノデアル」。聖書的啓示証言を媒介・反復した神の隠れの洞察においては、「いずれにしても、(≪人間の経験的普遍、人間学的な哲学原理・認識論・世界観における≫)何かひとつの隠れが問題なのではなく」、「あわれみ深い、聖なる神の隠れが問題である」。「われわれは、最後にもう一度、教理史のはじめに戻って、殉教者ユスティノスが、まさにキリストの名を、未知ナ意味ヲ含ンダ名(≪「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神」≫)であるとその特徴を言い表したことを確認する」。すなわち、イエス・キリストにおける~の自己啓示は、神の第二の存在の仕方、業と行為、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」――すなわち「イエス・キリストの名」において、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする神のその存在と本質の認識と信仰を要求する啓示であるということを確認する。「われわれは、この事柄について伝承が語っていることを、……われわれの立場として受入れる」。このような訳で、「われわれは、神の隠れについての命題」を、「イエス・キリストにあっての神の啓示の中で、人間に対して、それと共にまた人間が直観と概念を用いて把握する働きに対して下される裁きの判決」として、すなわち人間論的な自然的人間、あるいは第三の形態に属する全く人間的な教会論的なキリスト教的人間が直接的無媒介的に神を認識していくことができるという「固有な可能性が拒否され」る「裁きの判決」として、「真理性と効力を言い表す告白として理解する」、換言すれば「ただ神の恵みによって(≪神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で≫)人間に与えられ提供される(≪人間が人間的に所有する人間の≫)信仰の認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰≫)だけが」、それゆえに終末論的限界の下で「信仰の(直観と概念を用いてする)把握(≪具体的には聖書的啓示証言を教会の宣教における、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それを媒介・反復した教会の客観的な信仰告白および教義≫)だけが残される」という「恵み」の「判決」として、「真理性と効力を言い表す告白として理解する」。このことでもって、「われわれは、既にこの命題の積極的な意味へと突き進んだのである」。なぜならば、「人が実際に神の裁きを告白するところ、そこでは人はまた神の恵みに対しても告白している」からである。そこには、「恵み」と「裁き」の告白が同在しているからである。したがって、「神の隠れについての命題」は、「われわれの現実の神認識の出発点として」、「われわれの(神についての)無知ではなく、むしろ神についての知識の基本的かつ決定的な規定として、理解されなければならない」、換言すれば「神の隠れ」は、「神についてのわれわれの知」が、先行する「神の啓示の中で、また(≪神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で≫)神を信じる信仰の中で既にはじまったが故に、われわれの中ではじまることはないということを語っている」のである。すなわち、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、イエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのものが、具体的には第二の形態の直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」が、第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教における、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として与えられているということを、また神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)が与えられるということを語っているのである。したがって、バルトは、『教会教義学 神の言葉T/1・2』では、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」、聖書的啓示証言をその思惟と語りの原理・規準・法廷・審判者・支配者としてそれを媒介・反復した「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」である、と述べている。このような訳で、「神の隠れを言い表す告白」は、(≪神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいた≫)「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」というイエス・キリストにおける神の啓示に対する告白、すなわち「神についてのわれわれの知のはじまり」の告白である、それゆえに「われわれ自身の無能力さ(≪神の不把握性、終末論的限界≫)」の告白は、啓示から規定されてくる「副次的、派生的」な告白である、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で「われわれが本当に神の啓示を認識する時(≪個体的自己としての全人間・全世界・全人類に対する、「神の選び」を「イエス・キリストの復活」において認識し、「神の放棄」を「イエス・キリストの十字架」において認識する時≫)、われわれは初めて」、神に対する人間的反抗、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求、人間の不信仰・無神性・真実の罪、「神の敵」、「神に相対して、自分の力を誇り、まさにそのことの中でこそ罪深い堕落した人間」として自分自身を、またそのような人間の「世」を自己認識・自己理解・自己規定(告白)することができる(『福音と律法』、『カール・バルト著作集3 神の恵みの選び』および『教会教義学 神の言葉T/1・2』)。したがって、「神の隠れを言い表す告白が強調したい点は、先ず第一に」、「謙遜ではなく」、「決定的に感謝であると言うことである」。「われわれ」は、「神がわれわれに対してその罪を赦し給うこと(≪神の恵み≫)によって、……われわれがどうしても罪人であること(≪神の裁き≫)を認識する」。神と人間との無限の質的差異の下で、~の側の真実としてのみある、<完了・成就>された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和そのものである、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、業と行為、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける神の自己啓示は、ただ単なる形而上学的一面的固定的抽象的な恵みではなくて、恵み(キリストの復活)によって裁き(キリストの死)が包括され止揚され克服された出来事である――「神は、神なき者(≪自主性・自己主張・自己義認の欲求、換言すれば不信仰・無神性・真実の罪のただ中に現存する個体的自己としての全人間≫)がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給う のである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の『イエス・キリストの信仰』は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである)」・それゆえに、「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」、それゆえにまた「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在(≪人間論的な自然的人間、教会論的なキリスト教的人間、すなわちその現にあるがままの現実的な人間存在≫)である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかし それと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」(『福音と律法』)。言い換えれば、このイエス・キリストにある救済・平和は、上からのあるいは下からの構造改革における、構造改革主義における救済・平和では全くなく、また人間における一般的な救済・平和と困窮・戦争との弁証法における救済・平和でも全くなく、~の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある、永遠的実在としてある、恵み(キリストの復活)によって裁き(キリストの死)が包括され止揚され克服された出来事としてある、啓示の弁証法における救済・平和である。したがって、この救済と平和を、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいて復活したキリストの再臨を待ち望む「信仰の中で持つ」ということは、「約束として持つ」ことである、「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」、「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」、この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である、新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」、聖霊に「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の、啓示自身が持っている啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである、ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」にとっての、すなわち人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてのみある客観的現実性・客観的実在として、完了・「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)。また、「神がそのみ言葉の中で、直観と概念を用いてご自身を把握し給うことによって」、換言すれば単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのものであるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストの死と復活の出来事における神の自己啓示――すなわち神の自己認識・自己理解・自己規定(≪具体的にはイエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちの直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、第二の形態の聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」≫)によって、「われわれにとってそれ以外の仕方ででは神は直観と概念を用いて把握されないこと、したがってわれわれ自身では(≪直接的無媒介的に≫)神を直観と概念を用いて把握することができないことを認識する」のである。このような訳で、「われわれが何の留保もなしに神の隠れを告白する時にこそ、確かにわれわれは、神を現実に、確実に、認識しはじめている」、なぜならばそうでき得ている時には、そこには、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識が、啓示認識・啓示信仰が与えられているであろうから。「まさにまことの神認識の中でこそ、……その隠れの中にいます神を把握することが、把握デキナイモノヲ把握スルコトが問題である」から、「もしもわれわれが神をその隠れの中で把握し、直観と概念を用いて把握するとすれば、われわれはまさにそれと共にまことの神認識をしているのである」。なぜならば、イエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」からである。
 「<主>を<恐れる>ことは<知識>の<はじめ>である(箴言一・七)」――「人は、……この言明(≪「<主>を<恐れる>こと」は「<知識>の<はじめ>である」という「必然的な方向転換」の言明≫)の中に含まれている四つの概念のいずれをも、同じ重要さを持つものとして聞き理解しなければならないであろう」。「ワレワレハソノ方ヲ表現デキナイ、……実ニ全被造物ニトッテ見エナイ方、タダミ子ト聖霊ニヨッテノミ知ラレ給ウ方ト呼ブコトニシヨウ(クリソストムス)」、「ナゼナラバ、理解ヲ絶シタモノハ……何人モ、彼ガ探求シテイタモノガドンナニ理解ヲ絶シタモノデアルカヲ見出スコトガデキタ時、何モ見出サナカッタト考エテハナラナイヨウナ仕方デ……探求サレナケレバナラナイカラデアル(アウグスティヌス)」。したがって、「神ハ定義サレルコトガデキナイから、……神学と宣教は沈黙しなければならないという結論を引き出すとしたら、それは重大な誤解である……」。なぜならば、「神ハ定義サレルコトガデキナイ」ということは、その告白を「正しく理解するならば」、前述したようにイエス・キリストにおける「神の啓示を公に認める告白」だからである。したがってまた、「神ハ定義サレルコトガデキナイ」ということから、「神の本質のすべての規定の除去あるいは相対化」を為す「『否定的』神学」の構成を志向し目指すことも「誤解である……」。したがってまた、「神ハ定義サレルコトガデキナイ」ということから、「シュライエルマッヘル」のように、教会が「敬虔な人間の主観的な感覚と体験の基礎にある『絶対依存』の感情(≪敬虔心≫)の神学と宣教」、「敬虔な人間の自己説明」・「自己表現」としての「名目」的な「神認識」(宗教)、「実在の神ではない神」の認識(宗教)、「存在者レベルでの神」の認識(宗教)を志向し目指し、神の言葉自身の出来事の自己運動、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として与えられている「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に基づいて「神ご自身を直観と概念を用いて把握することを断念しようとする」ならば、そのことも「誤解である……」。これらすべての「誤解」は、「神秘主義的神学の変種が為す誤解」である。イエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」から、神の言葉自身の出来事の自己運動、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、客観的な対象として与えられている「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に基づいて「隠れの中での実在の神」を尋ね求めようとしない教会(その牧師、その神学者、その成員)の宣教と神学の「試み」には、最初から「参与しない方がよい」のである。
 「われわれは、実在の神をその啓示の中で認識することによって、神をその隠れの中で認識する。またまさにそのことを為すことによってこそ、われわれは、実在の神をその啓示の中で認識するのである」。再度言えば、このことを、バルトは、『教会教義学 神の言葉T/1・2』においては、次のように述べている――聖書的啓示証言の本来的テーマは、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方である「子なる神、キリストの神性」を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊を問う問いとが包括されている点にある、神は、イエス・キリストにおいて、インマヌエル――「神われらと共にいます」という第二の存在の仕方において、顕現・自己啓示した(それゆえに、その存在と本質は隠されたままである)、このことは、単一性・神性・永遠性を本質とする「自己を覆い隠す」、隠蔽性、秘義性、「聖性」としての神の起源的な第一の存在の仕方である父が、その第二の存在の仕方において子として「自分を自分から区別」したことを意味する、したがって、その自己啓示は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」――すなわち「イエス・キリストの名」、第二の存在の仕方において、その存在の本質である単一性・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示なのである、このようにイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、啓示の弁証法において「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神」なのである、このことは、神ご自身が、~の側から、私たち人間に対して自己啓示されないならば、すなわち神と私たち人間とを架橋されないならば、全く不信仰で罪に穢れた私たち人間は、終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、信仰の認識としての神認識、概念、教義をさえ持つことはできないということを意味しているのである。言い換えれば、直接的無媒介的に、「われわれが自分からして直観と概念を用いて把握すること」のできる神であるならば、その神は、キリストにあっての「実在の神ではないことになろう」、換言すれば対象化され客体化された人間自身教会自身の自己意識・理性・思惟の類的本質としての「存在者レベルでの神」(偶像)でしかないことになろう、「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」ということになろう。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神」における聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする「神の隠れについての命題」は、「神の啓示を信じる信仰の中で起こっている神認識」における「われわれの無力さ(≪神の不把握性、終末論的限界≫)を言い表している」。したがって、「われわれ自身の無能力さ(≪神の不把握性、終末論的限界≫)」の告白は、啓示から規定されてくる「副次的、派生的」な告白なのである。したがってまた、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる「われわれの直観と概念を用いて」の信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)、「われわれの人間的な言葉でもって神について語る」「働き」は、神の言葉に対する「奉仕に……用いられる」ものとしてあるのである、換言すればそれは、具体的には聖書的啓示証言を、その宣教における、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返しそれに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>なキリストの福音を、<純粋>なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法(神の命令・要求・要請)、すなわちすべての人々が<純粋>なキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えという神の言葉に対する「奉仕に……用いられる」ものとしてあるのである。この場合も、その思惟、その認識、その語りが、「キリスト教的な正しい内容」の思惟、認識、語りとして「祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」なのであって、人間自身教会自身の決定事項ではないのである。したがって、「あくまでもわれわれの知覚の表象、思惟の表象、言葉の表象は、神の表象ではなく、また神の表象であることはできない」のであるから、その思惟、その認識、その語りが「神の表象となる」ということは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立している」のである、聖書的啓示証言における「キリスト教原理を、覆いをとって明かにするのは」徹頭徹尾「聖霊」(その業と行為)である、それゆえにもしもその思惟、その認識、その語りが「神の表象となる」とすれば、それは、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいていたのである、それゆえにこのことも、人間自身教会自身の決定事項ではないのである。「そのようなわけで、あくまで神(≪その存在と本質≫)が隠れてい給うという事情は変わらない」。このことは、「神を、われわれからしては把握することはできないということを意味している」。「神ヲ知ル者タチカラ神ニ何カガ増シ加ワルノデハナク、ムシロ神ヲ知ル者ニ神ヲ知ル知識カラ増シ加ワルノデアル(アウグスティヌス)。それであるから、神についてのわれわれの語りは、知識ノ無分別ナ表白デアルヨリ、無知ノ敬虔ナ告白でなければならない。われわれが既にポラーヌスから聞いたように、ただワレワレニ対シテ示サレテイル限リデノ神ノアル仕方デノ言イ表ワシ方が問題であることができるだけである」。この言葉から、『教会教義学 神の言葉T/1・2』における、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている…… 時、正しい内容を持っている」ということであり、聖書的啓示証言を媒介・反復した「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」である、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求める」、という思惟の仕方、認識の仕方、語り方を引き寄せることができる、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、客観的な対象として与えられている「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性という事柄を引き寄せることができる。「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における「源泉と規準」は、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、神の子、啓示・和解、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストであるが、「この源泉と規準でもって」、@神と人間との無限の質的差異の下で、「神ガ何デアルカトイウコトハ、神ヲ除イテハ誰モ自分ノ言葉デ説明スルコトハデキナイ」という「外的な限界」(神の不把握性、終末論的な限界)が言われている、また「定義ハ名(≪起源的な第二の形態である神の言葉、神の第二の存在の仕方、業と行為≫)ニ従ッテハ与エラレ得ルガ、本質(≪聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする神のその存在と本質≫)ニ従ッテハ決シテ与エラレ得ナイ」という「すべての人間的な語り」の「内的な限界」(神の不把握性、終末論的な限界)が言われている。「知恵トイウ名ハ、ワタシニハ、万物ガ無カラ造ラレタ方ヲ示メスノニ十分デナイシ、……本質トイウ名モ、唯一ノ至高性ニヨッテ万物ヲ遙カニ越エタ方、本性カラノ特性ニヨッテ全ク万物ノ外ニ立ツ方ヲ表現スルノニ十分デナイ(カンタベリーのアンセルムス)」。いずれにしても、「神の隠れの危機的行きづまり」は不可避的な課題であるから、すなわち「『単純な』思惟と語り」に「逃れられない」課題であるから、「真理についての直観と概念を用いて把握し、真理の言葉を自分のものとしてゆくためには、ただ聖書的な直観と概念の世界を再発見し、聖書的な言葉を取り上げさえすればよい」というわけで決してはないのであって、具体的には聖書的啓示証言を原理・規準・法廷・審判者・支配者として、聖書を解釈・注釈し、その不可避的な課題について、すなわち「神の隠れ」について、神の不把握性、それゆえに終末論的限界について、「別の言葉」で明確に提起しなければならないのである、キリスト教に固有な類の時間累積を為していかなければならないのである。したがって、「ただ聖書的な直観と概念の世界を再発見し、聖書的な言葉を取り上げさえすればよい」という「聖書主義的な正統主義」は「誤謬」であって、「既に教父たち」は、「すべての人間的な語りのあの内的な限界を考慮に入れなくてもよいというような根本言語」も、また「『単純な』思惟と語り」へと「逃れ」ればよいというような「最も単純なキリスト教的な根本言語」もないということを認識し自覚していたのである。「すべての証人、また聖書的証人の概念の中」には、神の言葉自身の出来事の自己運動、客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で「人間的な言葉を用いて神の言葉を証しし、その限り神の言葉を語る人間であり、したがってその者の人間的な言葉はそれとして、神の隠れそのものによって、ちょうどすべてのほかの人間の言葉と同じように、突き当てられており、したがってまたそれらの人間的な言葉がほかの人間の口を通して繰り返される時でも、神の隠れの危機的行きづまりから逃れられない人間であるということが含まれている」。このような訳で、神の言葉自身の出来事の自己運動に基づいて、神の言葉に対する奉仕、「神の讃美」としての「隣人愛」、すなわち純粋なキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指す者は、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、具体的にはその第二の形態の直接的な最初の第一の聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」を、その宣教における、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、神の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、終末論的限界の下で絶えず繰り返しそれに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>なキリストの福音、<純粋>なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」を根拠としなければならないのである。なぜならば、聖書的啓示証言の中の「キリスト教原理を、覆いをとって明らかにする」のは神のその都度の自由な恵の決断による「聖霊」の注ぎによるのであるから、その聖霊によって「聖書は神の言葉となる」ところで「聖書は神の言葉」なのだからである、あくまでも神の第二の存在の仕方、その業と行為を通して、それゆえに客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で(なぜならば、私たち人間は誰であれ、神の不把握性の下にあるから、私たち人間には神のその存在と本質は隠されたままであるから)、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神」ということを認識し信仰するのである。もしもそうでないならば、「その時、われわれの認識は神の啓示の反映であることをやめ、……神の啓示がわれわれの認識の反映となり始める」ことになる。このことは、直接的無媒介的に「われわれが直観と概念を用いて神ヲ把握する働き、われわれの人間的な言語に帰せられるすべての固有な起源的な能力」が、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストの啓示とは独立した「第二の源泉と規準」となることを意味し、それゆえにその「わがまま勝手な」恣意的独善的嗜好的な「絶えざる発展」は、「最後」的には、人間的なそれ自身が、「本来的な、唯一の源泉として現われてくる」ことになるのである。「その時には、(≪「たとえ……イエス・キリストにあっての神の啓示の忠告に少なくとも恭順な態度で注意深く耳を傾けること」をなおざりにはしないにしても、結局は、人間自身教会自身の自己意識が恣意的独善的嗜好的に対象化し客体化したに過ぎない≫)哲学あるいは世界観が、あるいは神話が、決定的に、実際的にわれわれの神認識の内容を決定する」ことになるのである。したがって、その時には、まさに「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した」ものとなり、「こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』」ものとなるのである。まさにその時には、フォイエルバッハの『キリスト教の本質』の批判が、現実性と妥当性のある根本的包括的な原理的な批判を構成するのである。次の認識と自覚は重要である――「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがその時には(≪復活したキリストが再臨する時には≫)、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、(≪「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神」を、徹頭徹尾、あくまでもその神の第二の存在の仕方、その業と行為、イエス・キリストにおける神の自己啓示を通して≫)今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」(Tコリント13・12)、「ただ万人を憐み、万人万物を解する神様ばかりが、われわれを憐んで下さる」、「神さまは万人を裁いて、万人を赦され」、「最後の日にやって来て」、「……われわれに、御手を伸ばされる。その時こそ何もかも合点が行く!……誰も彼も合点が行く」、「主よ、汝の王国の来たらんことを」(ドストエフスキー『罪と罰』)。