本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十七節 神認識の限界」「一 神の隠れ」(その3−2)−1

カール・バルト『教会教義学 神論T/1 ~の認識』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十七節 神認識の限界」「一 神の隠れ」(その3−2)−1(340−359頁)

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしており、見つけた場合には速やかに訂正をしておりますが、引用上の不備、勘違いによる不備、誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)・(しかし、その論述内容については、少なくともカール・バルトに関しては、根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます。したがって、そうした論述の積み重ねの中で、その内容についての表現の仕方の練り直しと的確化だけでなく、その内容の深化と豊富化が為されていると考えます。また、吉本隆明に関しても、まだ補充すべき点はいろいろあるとしても根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます)・(最後に、indemについてだけは、2017年3月12日以降、吉永正義訳の「……する間に」をすべて、井上良雄的に「……することによって」というように引用し直しています。なぜならば、その方がその文章内容をイメージし理解しやすいからです)

 

「五章 ~の認識 二十七節 神認識の限界」
「五章 ~の認識 二十七節 神認識の限界」について、バルトは、次のような定式化を行っている。
 神はただ神を通してだけ認識され給う。そのようなわけでわれわれは神を、われわれが神の啓示に対し、信仰の中で、応答しようと試みる際に用いる直感および概念の力によって認識するのではない。しかしわれわれはまた神を、神の許しを用い、その命令に聞き従いつつ、そのような〔直感と概念を用いての〕試みをすることなしに、認識するのではない。この試みが首尾よく成功するということは、したがってわれわれが為す人間的な神認識の真実性は、直感と概念を用いて把握しようとするわれわれの営みが神ご自身を通し、恵みの中で、神の真理へと参与させられ、取り上げられ、定められたということから成り立っている(327頁)。

 

〔この定式の詳述〕
 この定式の詳述については、『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十七節 神認識の限界」「一 神の隠れ」(その3−1)で行っていますので、参照してください(2017年8月23日論述分)。

 

註:「啓示の認識原理」であり「教会の宣教の批判と訂正」の規準・原理・法廷・審判者・支配者である<三位一体論>の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)、を参照してください。

 

「一 神の隠れ」(その3−2)−1
 前回、「神の不把握性」について、「昔の神学の中で」は、「プラトンおよびプロティヌスから理解しようとしたのか、それとも詩篇一三九篇とパウロから」――すなわち「それとしての神の啓示を確認している信仰命題として理解しようとしたのか」、「最後のところで明瞭ではなかった」から、「われわれは」、聖書的啓示証言に即して「大事な実際的な意味を持つようになる」聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする「神ノ不把握性」という「立場」に立脚する、ということを論じた。「われわれは……(≪聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする≫)神の隠れ」の命題について、それゆえに「神ノ不把握性」の命題について、それゆえにまた神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいて与えられる人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)の終末論的限界の命題について、「もっと詳しく理解するように努め」なければならない。先ず以て「神ノ不把握性」の概念は、「昔の神学用語の中では、ドイツ語の語感が言い表しているよりももっと包括的なものである」。「クエンシュテットは、この(≪「神ノ不把握性」という≫)言葉でもって三重のことを理解している、すなわち@「神ノ本質ノ故ニ、マタ神ノ本質的性質の故ニ、神ハ有限ナ精神ニヨッテハ完全ニ把握サレナイ」――すなわち神の「不可知性」、A「ワレワレノ肉体的ナ目ニヨッテハ理解サレルコトハデキ」ない――すなわち神の「不可見性」・不可視性、B「造ラレタ言葉ニヨッテ表現サレルコトモデキナイ……」――すなわち神の「表現不可能性」という「三ツノ不把握性ノ段階」のことを理解している、「神ヲ理解スルコトヲ、不可知性ハ心ノ目ニ対シテ否定シ、不可見性(≪不可視性≫)ハ肉体ノ目ニ対シテ否定シ、マタ表現不可能性ハマコトニ口デ語ル言葉ニ対シテ否定スル」。言い換えれば、人間的な「統覚能力の領域全体」そのものが、キリストにあっての「神に関しては、(≪聖書的啓示証言を媒介・反復した≫)神ノ不把握性の概念によって否定されるのである」。
 吉本隆明は、個体性の哲学について、次のように述べている――個体とは、その内部構造、意識構造、「存在の根本的な構造」における人間存在の一様式のことである、その個体の内部構造、意識構造は、自己関係づけと自己抽象づけとの構造としてある、自己関係づけとは自己の身体がここ(空間)にあるという意識、自己を自己として関係づける意識である、すなわち自己の自然的な生理的身体を内在的に関係づける意識、空間的な自己意識である、自己抽象づけとは自分の身体が現(時間)にあるという意識であり、自己を自己として抽象する意識である、すなわち自己の自然的な生理的身体を内在的に抽象化する意識、時間的な自己意識である、それゆえに「対象的に関係づけられて存在するのが個体」とする現象学や実存主義は「本質直観」における知覚や感覚に依拠した自己了解や自然了解を、すなわち「自己対象了解……自然対象了解……を人間の存在本質の根本におくわけですけれども、わたくしどものかんがえではそうではない」と吉本は批判するのである、それゆえにまた個体の知覚作用に基づいて、「自体的な識知」、「生理過程の<変容>」(空間化)と「対象的識知」によって「この対象は茶碗だ」と了解(時間化)されるのであるが、それに伴う「歓びや悲しみや選択をともなう」感情作用は、その内在化された対象の空間化、「<内観>的作用」に属しており、「感情作用は<知覚>そのものに伴うとしても<知覚>とはかかわりないもの」であると言うのである、すなわち、対象了解された対象(内在化された対象)を抽象(時間化)する時には概念構成(了解の抽象化度、時間化度)の問題として現われるのであるが、感情作用は対象了解された対象を再び空間化する過程において現われると言うのである、ところで自己関係づけと自己抽象づけの構造において、「個体は個体として自己に関係づけられるから」、対象(自己身体、他者身体、外界としての自然――天然自然や人間化された自然である人間的自然)を対象的に関係づけることができる、この人間的個体はさまざまな観念的諸生産物を創出する、ところで自己抽象づけの度合は、了解性によって測られ、了解性は時間性によって測られる、それゆえに認識の了解性の度合、抽象の度合の差異は、時間化度の差異による、また知覚の拡がりや延長という自己関係づけの度合は空間化度によって測られる、また「人間はさまざまな体験や感覚のみがき方」をし、そうした時間累積の過程を経て「現代的な感覚や現代的な知覚作用をもつにいたった」という点に、了解性が時間性であるという根拠がある、すなわち原始・未開から現代までの時間の累積過程(歴史性)に了解性が時間性であるという根拠がある、それゆえに古代人と現代人において、感官に映る対象は同じであっても認識の度合に差異が生じるのは、時間化の度合、時間累積の度合の差異、すなわち了解性の度合の差異による、それゆえにまた古代人が山の頂の巨大な岩石を「霊的な信仰の対象」として認識し、現代人はその岩石を「単なる自然物」であると認識する場合のその差異性の根拠は、古代から現代までの時間の累積過程(歴史性)の度合、了解化の度合、時間化の度合の差異にある、このように、「人間の意識に対象としてやってくるすべてのものは根源的には<空間>および<時間>に分割されるほかはない」のである、それゆえに「言葉の表現もまた、表現に固有な<時間>性と<空間>性を獲て成り立っている」(『メルロオ=ポンティの哲学について』、『自立思想の形成について』、『人間にとって思想とはなにか』、『言葉の根源について』、『個体・家族・共同性としての人間』)。
 さて、「われわれは、ここで」、聖書的啓示証言に即した「キリスト教的な語りと教えを基礎づけている認識を問うている」、すなわちイエス・キリストにおける「啓示に基づいて隠れた神と呼んでいるもの」を問うているのである。言い換えれば、あくまでも三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての、<客観的>な<対象>として与えられている「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における<対象的>な単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(業と行為)、<客観的>な起源的な第一の形態の神の言葉、<客観的>な啓示・和解そのもの、<客観的>な「啓示の実在」そのもの、<客観的>なまことの神にしてまことの人間――「まさに顕サレタ神こそが隠サレタ神」であるイエス・キリスト(具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、<客観的>な啓示の「概念の実在」≫)における「啓示に基づいて隠れた神」(対象)の「間接的な認識、直観と概念の中で起こっている認識」を問うているのである、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異の下で、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする神の不把握性の下で、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいて<終末論的限界>の下で与えられる人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識、すなわち啓示認識・啓示信仰(対象的認識)を問うているのである。したがって、このことから「はっきりと区別」された「<非>対象的な、直観と概念を用いて把握できない、口に言い表されない」「対象」――すなわち「すべての知覚と理解の働きでもって把握できない」、「経験と思惟のすべての範疇を越えた」「最高存在」・「理性理念」・神概念の「直覚的直接的な認識」の「限界づけ」(神の不把握性)を問うているのではないのである。したがって、バルトは、自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教に対する根本的包括的な原理的な批判として、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」とした「カントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」(『カント』)、と述べたのである。
 さて、「われわれ」は、「アウグスティヌスから神は正シイ仕方デ定義サレルコトができないこと」、「クエンシュテッドから神は完全ナ仕方デ把握サレルコトはできないことを聞いた」。まさに「われわれによって思想と言葉の中で把握された本質は、まだ依然として、あるいはもはや既に、神の本質ではない」。したがって、「クリュソストモスは、あのパウロの表現『一部分デアル』(Tコリント一三・九)を注釈しつつ」、「それは、分量的に、あたかもわれわれは神の<本質>の一部を把握するが、他の部分は把握することができないかのように理解されてはならない。むしろ……われわれは、神がいますということを認識するが、しかし神が何であり給うかを認識しないというふうに理解されるべきである」と述べている、「彼ハ、神ノ存在ノ一要素ヲ理解スルケレドモホカノ要素ヲ理解シナイトイウノデハナイ。ナゼナラバ、神ハ単一デアリ、二心デアリ給ワナイカラデアル。ムシロ、人間ハ、神ノ<存在>ヲ理解スルケレドモ、神ノ<本質>ハ理解シナイノデアル」。しかし、「われわれ」は、神と人間との無限の質的差異の下で、「知覚され、概念で把握され、名ざすべき本質の存在だけでも確かめること」はできない、すなわち「神が<存在>するということも、神は<何であるかということ>(≪本質≫)と同様、われわれの精神的な展望と自由処理の領域に属していない」と言うのである。バルトは、『教会教義学 神の言葉T/1・2』で、次のように述べている――聖書的啓示証言の本来的テーマは、単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方である「子なる神、キリストの神性」を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊を問う問いとが包括されている点にある、この神は、イエス・キリストにおいて、インマヌエル――「神われらと共にいます」というその第二の存在の仕方において、顕現、自己啓示した、このことは、「聖性」・「自己を覆い隠す」・隠蔽性・秘義性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする神の起源的な第一の存在の仕方である父が、子(第二の存在の仕方)として「自分を自分から区別」したことを意味する、それゆえにこの神の自己啓示は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」――すなわち「イエス・キリストの名」、神の第二の存在の仕方において、その存在と本質の認識と信仰を要求する啓示なのである、それゆえに「まさにアラワサレタ神こそが隠サレタ神」なのである、それゆえにまた神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づかなければ、全く不信仰で罪に穢れた「われわれ」人間は、<終末論的限界>の下で与えられる人間が人間的に所有する人間の信仰の認識と神認識、すなわち人間の啓示認識・啓示信仰、信仰告白および教義をさえ持つことはできないということを意味している。
 このような訳で、「われわれ」は、「昔の神学」が聖書的啓示証言に即して「神の不把握性」について明確に提起できなかったがゆえに、「プラトンやプロティノスあるいはカントの言う意味での最高存在の不把握性が明らかに」される「一般的な考察……に誘いこまれないよう用心しなければならない……」のである。したがって、「われわれ」は、聖書的啓示証言に即した「神の隠れ」(神の不把握性)を、「『形而上学的』言語構成」における「無限なるもの、絶対者、自分自身の中で、自分自身から、存在しているもの(≪対象化され客体化された人間自身教会自身の自己意識・理性・思惟の類的本質、最高存在、「存在者レベルでの神」≫)等が持つ不把握性を用いて、基礎づけることは許されない」のである。なぜならば、「それらのものは、……その表向きの不把握性にもかかわらず、また表向きの不把握性の中で、人間的な理性の形成物として、(≪聖書的啓示証言の中のキリストにあっての≫)神と同一でないし、(≪それゆえに≫)神的な隠れ(≪聖書的啓示証言の中の神の不把握性≫)に少しもあずかっていないからである」。キリストにあっての「神は、われわれが精神の力でもって自分のものにできるような存在ではあり給わない」。なぜならば、「イエス・キリストの中でわれわれに出会い給う神」は、「われわれによってわれわれの能力に同化されることができるような方ではなく、むしろ自ら(≪あの、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動等において≫)われわれを同化し給い、それと共に、そのようにして、またその方を習得する能力をわれわれに与えようとされる方だからである。神とわれわれの間の交わりはまさに神の恵みを通して(≪~の側から≫)基礎づけられ、存続するが故に、神はわれわれにとって隠されてい給う」のである。逆に言えば、「隠されてい給う」ゆえに、神のその都度の自由な恵の決断による神の側からする人間への架橋を必要とするのである。言い換えれば、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それゆえに神の認識可能性である単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、(≪聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする≫)神に向かっての、したがって(≪終末論的限界の下で≫)神認識に向かっての人間の用意が存在する」のである。
 結局、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態に属する全く人間的な教会論的なキリスト教的人間の「われわれ」は、「世と世の中にあるすべてのものと似てい」ても、「神とは似ていない」のである、その現にあるがままの現実的な人間存在におけるただの人間なのである。言い換えれば、「われわれが、神の像(かたち)に造られているということは、神は(≪第三の形態に属する全く人間的な教会の≫)われわれを、われわれの現実存在の中で(≪その現にあるがままの現実的な人間存在において≫)」、「神の現実存在(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、イエス・キリスト、具体的にはその第二の形態の直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」、あくまでも神のその都度の自由な恵の決断による聖霊の注ぎにより人間的主観に実現されたこの神の恵みの出来事――すなわち神の現実存在≫)について証しして行くよう定められたということを言っている」のである。もっと詳しく言えば、第三の形態に属する全く人間的な教会の「われわれ」が、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての、客観的な対象として与えられている「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態である神の言葉、イエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのもの(具体的にはその第二の形態の直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」)を、その宣教における、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、神の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、終末論的限界の下で絶えず繰り返しそれに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>なキリストの福音を、<純粋>なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――すなわちキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要請・要求、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、すべての人々が<純粋>なキリストの福音を現実的に所有することができるために為す<純粋>なキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを「して行くよう定められたということを言っている」のである、換言すればその存在、その思惟、その実践において、「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指していくことを「して行くよう定められたということを言っている」のである。したがって、「われわれが、神の像(かたち)に造られているということ」は、「われわれ」人間が、「神と等しいとされるであろう」「ひとつの性質を持っており、そのような性質をわれわれの中に見出すということを言っているのではない」のである。「蛇が最初の人間に向かってそのことをそそのかした時、最初の人間はそのまことの定めを失い、罪に落ちたのである。そのようなわけで、われわれは自分の中に神に似たものを見出さないが故に、われわれは神をわれわれからしては把握することができないのである」。このような訳で、「われわれ」は、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識ということに、すなわち啓示認識・啓示信仰ということに耳を傾け「感謝し、また感謝し続けるのである」、それゆえに第三の形態の全く人間的な教会(牧師・神学者を含めてすべての成員)の宣教が、その思惟と語りが、キリスト教的な宣教、キリスト教的な思惟と語りの「正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」なのであって、「われわれ」人間自身・教会自身の決定事項ではないということに耳を傾けるのである、それゆえにまた具体的には聖書的啓示証言を媒介・反復するという仕方で絶えず繰り返し教会は教会となることによって教会であるところの教会の宣教は、その思惟と語りは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立している」ということに耳を傾けるのである。
 さて、神と人間との無限の質的差異を後景へと退けてしまって、直接的無媒介的に神を言語を介して「直観と概念を用いて把握する」ということは、対象(神)を規定すること「限界づけること」であり、「精神的に支配すること」である。なぜならば、神と人間との無限の質的差異を後景へと退けた、対自的で対他的な、自由な自己還帰する人間の自己意識・理性・「思惟が思惟したもの(≪対象≫)の中に彼の思惟が完全に現存」し、さらに「彼の思惟の中に彼の思惟に思惟されたもの(≪対象化されたもの≫)が完全に現存」するという不可視的なものと可視的なもの、意識と対象、思惟と存在、主観と客観とが統一された等価性の原理において、思惟に思惟を重ねて具体的普遍の頂へと高次化した思惟は、自然から完全に超出した精神であるから、その頂を極めた「精神は、また精神自体としては(≪無限と有限との統一としての「究極的同一性」において≫)神と全く同一」(『ヘーゲル』)となるからである、最高存在、理性理念となるからである。この場合、人間自身教会自身が、神と人間との無限の質的差異の下にある神を、「精神的に支配すること」ができるようになるのである、「精神的に支配すること」になるのである。「この意味で、われわれ(≪人間一般≫)は、世を、また世の中にあるすべてのものを、……支配することができる」のである。「絶対的なものと相対的なもの、対自的存在と即自的存在……の矛盾は、われわれ自身の中で既に克服され、制御されており、それ故に理論的、実践的に、繰り返し克服され、制御されることができる弁証法的概念あるいは相関概念である」。しかし、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異の下にあるキリストにあっての「神は、われわれが弁証法的に限界づけることができる方ではあり給わない」のである。したがって、「われわれが、神をわれわれの世界観のどれかひとつの中に編み入れる時、われわれは……(≪その≫)世界観を完結させ」ることができるとしても、「しかしまさにそのことでもって実はまたそのような世界観の無神性(≪人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求、不信仰・真実の罪≫)も明るみに出される」ということを「確認するのである」、またそのことを通して「われわれは知らず知らずのうちに神の隠れ(≪神と人間との無限の質的差異の下で、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする神の隠れ≫)」ということを、「確認するのである」。神をある一つの世界観の中に編み入れようとした自然神学者が、西洋近代を頂点とした進歩史観に依拠して神学的な三段階的進歩史観において救済史を構想したモルトマンである。ヘーゲル学者の山崎純は、モルトマンの歴史形成論を、次のように論じている――ヘーゲルにおける神の彼岸性を克服した「神の内なる人間、人間の内なる神という神人一体、神人和解の理念」における宗教とは、人間の自己意識・理性・思惟によって対象化された自由と理性の理念である、モルトマンは、このヘーゲルの歴史は自由の概念の実現過程であるということに基づいて、律法、父の国、奴隷状態の歴史(≪世界史的段階で言えば、自然にまみれた原始未開の段階≫)、恩寵、子の国、神の子供状態(≪世界史的段階で言えば、自然から対象的にはなったけれども、その対象的自然を自己意識・理性・思惟によって対象化して自然から完全に超出でき得ていない、自由を認識し自覚していないアジア的段階≫)、自由、霊の国、神の友の状態(≪世界史的段階で言えば、自然から完全に超出し自由を獲得した、自由を認識し自覚した西洋近代の段階、国家形態で言えば擬制民主主義としての議会制民主主義に基づく自由主義国家、政治的近代国家、民族国家≫)、という神学的な三段階的進歩史観において救済史を構想したのである(『神と国家』)。このモルトマンの神学は、時代状況そのものが全く許さないから、すでに自然時空に死語化してしまったのである、換言すれば神学としてはもちろんのこと、人間学としても未来に生きることは全くできないものなのである。いずれにしても、神と人間との無限の質的差異の下で存在し思惟し実践する「われわれは、神を支配することはできない」のである、このように「われわれは、神を支配することができないが故に、神をわれわれからしては把握することはできないのである」。「人間の創造」を含めて「神による創造」は、神においてのみ「実在であり真理である」全き自由において、その神によって、「神の現実存在とは違う(≪すなわち神の現実存在とは無限の質的差異のある≫)現実存在が措定されることを意味している」。「神と人間の間には、ちょうど神とそもそも被造物の間で成り立っているような、取り除くことのできない相違性が成り立っている」。神と人間の間には、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」「無限の質的差別」(『ローマ書』)が、無限の質的差異が存在している。したがって、「われわれは、神を、われわれからして把握することはできないのである」。したがってまた、「われわれ」は、「神の恵みを通して打ち立てられた神とわれわれの間の交わりの内部でこそ」、「イエス・キリストにあっての神の恵みによって神と似たものとされた時」にこそ、「イエス・キリストにあっての神の恵みによって力を与えられて」こそ、換言すれば先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それゆえに神の認識可能性である単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、(≪聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする≫)神に向かっての、したがって(≪終末論的限界の下で≫)神認識に向かっての人間の用意が存在する」がゆえに、全く人間的な「われわれ」は、全く人間的な「われわれ」の「神を把握する能力を……否定」することができるし、その「われわれ」の「無能力」を、「神の隠れ」を、「認識し告白」することができるのである。
 このような訳で、「われわれの神認識の始まり」、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰の「始まり」は、人間論的な自然的人間、教会論的なキリスト教的人間、「われわれが(≪その知覚作用、その対象了解、その感情作用、その概念構成において、われわれの側から≫)神と何か事をはじめることができるであろう始まりではない」、すなわち「その始まりは、常にただ、神が(≪神の側から≫)われわれと事をはじめ給うた始まりであることができるだけである」。したがって、「誰かが自分からして見たところのもの、それは常に神とは別なものである」。聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする「神は、不可見的」(不可視的)であるから、「われわれの外的あるいは内的な知覚の表象の内容となり得るどの対象とも同一ではあり給わない」。「またそれと共に」、「神が何であるかを、いまだかつて何人も、彼の言葉そのものが持つ動力の力によって語った者はいない」、「神が何であるかを、語ることができる者はひとりもいない」。聖書的啓示証言における聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする神は、人間論的な自然的人間、教会論的なキリスト教的人間、「われわれ」が、「言葉に出して語ることができない方である」。このようにキリストにあっての神が「目で見ることができず、言葉に出して語ることができないものであるという」ことは、「世にある無限なるもの、絶対者、無条件的なもの、霊が、目で見ることができず、言葉に出して語ることができない」ということと「同じ意味」ではない。キリストにあっての神は、「神によって造られた肉体的および精神的な世界がそこにあるようにはいまさず」、「神によって造られた世界の内部で、神の啓示の中に、イエス・キリスト(≪それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの≫)の中に、そのみ名の宣教(≪その第二の形態である直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、客観的な啓示の「概念の実在」≫)の中に、その証言(≪説教≫)と聖礼典(≪その第三の形態である全く人間的な教会の聖書的啓示証言を媒介・反復した客観的な信仰告白と教義≫)の中にいまし」、それゆえに「ただ(≪神のその都度の自由な恵の決断による客観的な信仰の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる≫)信仰に対してだけ可見的(≪可視的≫)であり、ただ(≪そのような≫)信仰を通して証しされることができるだけ」である、換言すれば「目に見えないものとしてだけ見られ、言葉に言い表されないものとしてだけ言い表されることができる方であり給う」、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神」であり給う。このことは、「われわれの見ることと語ることの限界あるいは起源の総内容」である、それゆえに「神ご自身が、そのような見ることと語ることに対しわれわれに許可と命令を与え」、「神の言葉を通して、したがってその自由な、恵み深い決断の中で、それに対する能力(≪神の言葉自身の出来事の自己運動、神の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で、純粋な、信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)、キリストの福音、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」に根拠づけられた「神の讃美」としての「隣人愛」――キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを為すことができる能力≫)を与え給うた」のである。なぜならば、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、神の第二の存在の仕方、業と行為、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」――すなわち「イエス・キリストの名」において、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする神のその存在と本質の認識と信仰を要求する啓示だからである。