本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十七節 神認識の限界」「一 神の隠れ」(その3−1)

カール・バルト『教会教義学 神論T/1 ~の認識』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十七節 神認識の限界」「一 神の隠れ」(その3−1)(327−340頁)

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしており、見つけた場合には速やかに訂正をしておりますが、引用上の不備、勘違いによる不備、誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)・(しかし、その論述内容については、少なくともカール・バルトに関しては、根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます。したがって、そうした論述の積み重ねの中で、その内容についての表現の仕方の練り直しと的確化だけでなく、その内容の深化と豊富化が為されていると考えます。また、吉本隆明に関しても、まだ補充すべき点はいろいろあるとしても根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます)・(最後に、indemについてだけは、2017年3月12日以降、吉永正義訳の「……する間に」をすべて、井上良雄的に「……することによって」というように引用し直しています。なぜならば、その方がその文章内容をイメージし理解しやすいからです)

 

「五章 ~の認識 二十七節 神認識の限界」
「五章 ~の認識 二十七節 神認識の限界」について、バルトは、次のような定式化を行っている。
 神はただ神を通してだけ認識され給う。そのようなわけでわれわれは神を、われわれが神の啓示に対し、信仰の中で、応答しようと試みる際に用いる直感および概念の力によって認識するのではない。しかしわれわれはまた神を、神の許しを用い、その命令に聞き従いつつ、そのような〔直感と概念を用いての〕試みをすることなしに、認識するのではない。この試みが首尾よく成功するということは、したがってわれわれが為す人間的な神認識の真実性は、直感と概念を用いて把握しようとするわれわれの営みが神ご自身を通し、恵みの中で、神の真理へと参与させられ、取り上げられ、定められたということから成り立っている(327頁)。

 

〔この定式の詳述〕
 神はただ神を通してだけ認識され給う(なぜならば、「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異の下で、単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神は、聖性・秘義性・隠蔽性において存在しているからである、「隠サレタ神」として存在しているからである。したがって、預言者および使徒たちがそうであったように、個体的自己としての全人間は、すなわち人間論的な自然的人間、教会論的なキリスト教的人間は、神の不把握性の下に存在させられているからである、換言すれば終末論的限界の下に立たされているからである――Tコリント13・8以下、「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部分しか知らなくとも、そのときには、はっきりと知られているようにはっきり知ることになる」。言い換えれば、キリストの復活からキリストの再臨までの聖霊の時代における生と生活は、ドストエフスキーの『罪と罰』におけるマルメラードフの生と生活のように、「ただ万人を憐み、万人万物を解する神様ばかりが、われわれを憐んで下さる」、「神さまは万人を裁いて、万人を赦され」、「最後の日にやって来て」、「……われわれに、御手を伸ばされる。その時こそ何もかも合点が行く!……誰も彼も合点が行く」・「主よ、汝の王国の来たらんことを」という終末倫的信仰における生と生活である。したがって、ここで「愛」は、キリスト教信仰・神学・教会の宣教が、それ自身聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」をキリスト教信仰・神学・教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに絶えず繰り返し聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>な、キリストの福音、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――すなわちキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要請・要求、すべての人々が<純粋>なキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指すという連関の中での「愛」である)。そのようなわけで(≪第三の形態に属する全く人間的な教会の≫)われわれは神を、われわれが神の啓示に対し、信仰の中で、応答しようと試みる際に用いる直感および概念の力(≪直接的無媒介的な人間の対象的認識過程における知覚そのものに伴うとしても知覚そのものとは関わりのない内在化された感情作用や概念構成の力≫)によって認識するのではない(≪すなわち、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それゆえに神の認識可能性である単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識に向かっての人間の用意が存在する」のである、換言すれば客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰は与えられるのである)。しかしわれわれはまた神を、神の許しを用い、その命令に聞き従いつつ、そのような〔直感と概念を用いての〕試みをすることなしに、認識するのではない(≪言い換えれば、第三の形態に属する全く人間的な教会の「われわれ」は、あの、「神への愛」――「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」の連関が命じられているのであるから、神の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」を原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返しそれに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、キリスト教に固有な類、すなわち信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、教会の<客観的>な信仰告白および教義の時間累積を志向し目指すのである、内在的な「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すのである、決して外在的な党派的多元主義的な教会を志向し目指すのではない≫)。この試みが首尾よく成功するということは(≪第三の形態に属する全く人間的な教会の<客観的>な信仰告白および教義が、キリスト教に固有な類・歴史性に、すなわちそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯することができたということは≫)、したがってわれわれが為す人間的な神認識の真実性は、(≪あの、神の言葉自身の出来事の自己運動、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言に基づいた、媒介的・反復的な間接的な人間の≫)直感と概念を用いて把握しようとするわれわれの営み(≪<客観的>な信仰告白および教義の「営み≫)が神ご自身を通し、恵みの中で(≪神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて≫)、神の真理へと参与させられ、(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰として≫)取り上げられ、定められたということから成り立っている(≪したがって、第三の形態に属する全く人間的な教会の思惟と語りが、キリスト的な思惟と語りの「正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」なのであって、人間自身教会自身の決定事項では全くないのである、それゆえにキリスト教会の思惟と語りは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立している」のである。したがって、「この人間的態度に対し神が応じて下さるということ」も、全く以て神の自由な恵みの決断によるのであって、決して第三の形態に属する全く人間的な教会自身の自由事項や決定事項ではないのである≫)。(327頁)

 

註:「啓示の認識原理」であり「教会の宣教の批判と訂正」の規準・原理・法廷・審判者・支配者である<三位一体論>の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)、を参照してください。

 

「一 神の隠れ」(その3−1)
 「どの程度まで神は認識されるのか」・「どの程度まで神は認識可能であるのか」――この問いに対する「原則的な答え」は、イエス・キリストにおける「神の啓示はただ単に、神認識に対する神ご自身の用意であるばかりでなく、また神認識に対する人間の用意でもある」、という点にあった。言い換えれば、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それゆえに神の認識可能性である単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識に向かっての人間の用意が存在する」、という点にあった、それゆえに「われわれ」は、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」ということに耳を傾け「感謝し、また感謝し続けるのである」、という点にあった。このような訳で、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける「神の啓示こそが、神の認識可能性である」、という点にあった。したがって、「この原則的な答えの地盤の上で、また枠の中で、われわれは今、実際的な答えを与えなければならない」。「われわれは、そのことを、神認識の限界(≪「境界」≫)を明確にしてゆくことによって、為す」ことになる。「限界」づけられた「神認識」・「神認識の道」は、「まさに(≪神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる≫)神認識に基づき神認識を生み出す限り提示されたキリスト教の教説自身である」。
 この「一 神の隠れ」における「神認識の限界は、神認識の出発点、始まる点である」。カルヴァンが「その教理問答のはじめのところで、人生ノ主ナ目的は、人間ノ生ノ源デアル神ヲ知ルコトであると言っている時、そのことは誇張を意味していないし、また主知主義的な視野の狭さを意味していない」。なぜならば、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる「神認識なしには、いかなる教説もない」からである、「換言すれば聖書の中に証しされた啓示と和解のいかなる宣べ伝えもない」からである、その「教説なしにはいかなる教会もないし、神の子供たちの生もないし、人間によって神に栄誉が帰せられることもないし、人間にとっていかなる救いもない」からである、神の言葉自身の出来事の自己運動、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」を、教会の思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として媒介・反復した神認識は、「教会とその信仰告白の根拠であり」、「教会の中で」の「教会を通し」た「神との交わり」の根拠であり、そのような仕方での「自分自身の救いと神の栄誉のために召されたすべての者の信仰の根拠である」からである、「客観的および主観的に神ご自身を通して基礎づけられた……神認識」――すなわち神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいて終末論的限界の下で与えられる「神認識」は、換言すれば単一性・神性・永遠性を本質とする神の起源的な第一の存在の仕方である父と、この父を根源とする第二の存在の仕方である子の二つの存在の仕方から生じる「一つの存在の仕方」である第三の存在の仕方としての「父ト子ヨリ出ズル御霊」・「聖霊を通しての父と子である神(≪単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神≫)の認識」は、「われわれの身に起こる神の愛とわれわれから期待されている神の讃美の……唯一の基礎」だからである。したがって、三位一体の教説は、「神論の決定的に重要な構成要素」であり、「啓示の認識原理」なのである。言い換えれば、「われわれに対して働きかけ給う神の行動全体(≪単一性・神性・永遠性を本質とする神の三つの存在の仕方、業と行為全体≫)の中に含まれている神の意図」は、「また……それと並んでわれわれはそのほかの定めを全く持っていないわれわれの定め」は、「事実、われわれが(≪神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で≫)神を認識するということである」。
 このような訳で、主要な問題は、「われわれがそのことを強く強調すればするほど、……神は神を通して認識されるということがわれわれにとって明瞭でなければならない」という点にあるのである。したがって、直接的無媒介的な「人間的な力の中で遂行」される「何らかの企て」、「また、何らかの人間的な、したがって相対的な……結局(≪聖書的啓示証言の側から≫)……攻撃され得る……企てが問題なのではない」。したがって、「われわれは先行する節で、繰り返し……相対的な確実性ではなく」、「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異の下で、~の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性、客観的実在、永遠的実在としてある、「絶対的な、完全な、議論の余地のない確実性、神ご自身の確実性を持つ認識が問題であるということを確かめた」のである。このような訳で、「神認識の出発点」は、「神ご自身を通して神ご自身と関わらなければならないという」点に、「そのようにしてそれは現実の神認識であるという」点にあると言うことができるのである。言い換えれば、それは、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰であるという点にあると言うことができるのである。「それであるからJ・ゲルハルトは、ミ言葉ニ従ッテ、願イ求メラレタ神認識を、……完全な認識であると述べ、その完全サを、それが救イニトッテ十分であることの中でみてとっている。事実、それがわれわれの救いにとって十分であるということ」が、すなわち「われわれが実際に……神ご自身と関わりを持つようになる出来事から成り立って」いることが、「この認識の力である」。なぜならば、「われわれの救いを造り出すところのもの、教会と神の子供たちの生を基礎づけるところのもの」――それは、「神ご自身以下のものではないし、神ご自身以外のものではないからである」、「ただ単に神についての言葉ではなく」、「(神ご自身が語り給う、またただ神ご自身だけが語り給うことができる)真理の言葉としての和解の言葉が公に聞かれるようになること」だからである。このような神「認識の中で神ご自身と関わ」る「神認識の完全性」は、「現実の、換言すれば真実な神認識である」。バルトは、『教会教義学 神の言葉T/1・2』で、「単なる知識」(人間の経験的普遍、学業的知識)と「認識」(啓示認識・啓示信仰、信仰の認識としての神認識)とを厳密に区別して、次のように述べている――「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・思惟し語る責任ある証人となる場合、その「出来事」、「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に感謝をもって信頼し固執し聞き教えられる「認識」(信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰)である・その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる・したがって、人間学的学業的なただ「単なる知識」に過ぎないある理念、ある概念の実体化、「最高存在」、「最モ完全ナ存在」は、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における神の言葉ではないのである、換言すれば神の言葉は、「人間の現実存在の内部」、人間の感覚と知識を内容とする経験普遍、人間学的な哲学原理・認識論・世界観の中にはないのである・なぜならば、神に敵対し神に服従しない私たち人間は、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力」を一切持ってはいないからである・したがって、神の言葉は、あくまでも徹頭徹尾~の側から、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で「われわれのところに来」るのである・単一性・神性・永遠性を本質とする神そのものは、聖性・秘義性・隠蔽生において存在しており、「隠サレタ神」であるから、換言すればこの「神の不把握性」の下で、私たち人間は常に終末論的限界の下に立たされるのであるから、それゆえにその神の第二の存在の仕方である起源的な第一の形態の神の言葉が「人間によって信じられる……出来事」、信仰の出来事は、徹頭徹尾人間「自身の業」ではなく、「神の言葉自身」の業、客観的な啓示の出来事の主観的側面である聖霊の注ぎにおいてのみ可能となる出来事なのである、すなわち「言葉を与える主」は、同時に、「信仰を与える主」なのである・したがって、聖書の中で証しされている教会の宣教の課題である啓示、イエス・キリストの死と復活の出来事の宣べ伝えを目指すことのない自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教における「単なる知識」としての形而上学的な教義学は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方」のものであっても、その教義学は「教義学としては非学問的」なのである。このように、信仰の認識としての「神認識(≪啓示認識・啓示信仰≫)においては、神的な確実さの中で、神ご自身を通して神ご自身と関わらなければならないということ」が、「この出来事の出発点として……正確に……精密に規定されなければならない」のである。この出来事の主体は、「父なる神と子なる神の愛の霊」・「聖霊を通して父なる~および子なる~である」から、「われわれ」は、その単一性・神性・永遠性を本質とする三つの存在の仕方における神――すなわち三位一体の神の信仰の認識としての「神認識(≪啓示認識・啓示信仰≫)について語っている」のである。なぜならば、聖霊において、父と子(≪神的対関係≫)は、愛に基づく完全な共存的な関係・「交わり」(≪神的共同性≫)においてあるからである、それゆえに単一性・神性・永遠性を本質とする神の第三の存在の仕方である聖霊は、その「交わり」・関係の中で、「父(≪「啓示者」≫)は子(≪客観的な「啓示の実在」そのもの≫)の父」・「言葉の語り手」であり、「子は父の子」・「語り手の言葉」であるところの「行為」・業・働き・「啓示されてあること」(「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性)であるからである。ここに、神は愛、愛は神であることの根拠がある――「愛は神にとって、最高の法則であり、(≪第三の存在の仕方において≫)最後的な実在」である、愛は、自由・主権がそうであったように、「神ご自身においてのみ実在であり真理」である。このような訳で、信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)は、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいて終末論的限界の下で与えられるのである。
 このような訳で、「われわれ人間」は、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができている単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、神の言葉自身の出来事の自己運動の中ヘと、あくまでもその「後に(≪神の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において≫)従う」「副次的な……主体として、共に取り上げられている」のである。このように、「われわれ」は、「高所での……出来事の啓示」と共にその「出来事にあずかるわれわれの参与」、その「啓示に基づく(≪神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて与えられる≫)」「人間的な神認識(≪終末論的限界の下での人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰≫)について語っている」。したがって、「われわれは、ただ単に高所において、神的な三位一体の秘義の中で、演じられている出来事についてだけ語っているのではない」、換言すれば「われわれ」は、言語を介在させた「人間的な認識の性質と手法」、生理的反応、知覚作用、感情作用、自己意識・理性・思惟、悟性、想像、意志を「除去」しない、「破壊」しない、「変更」しない。「そもそも人間的な認識は直感と概念を用いて遂行される」のである。したがって、人間は、誰であれ、「明らかに神をそれ以前に、直観と概念を用いて把握することが」できる、「換言すれば知覚し思惟することができる」、「神について、人間的な言葉を用いて語ることができる」、それゆえにさまざまな「存在者レベルでの神」、「偶像」を「造り出すことができる」、「受け取ることができる」。したがって、「聖書の主題」(『ローマ書』)である神と人間との無限の質的差異の認識と自覚を少しでも欠如させた場合、フォイエルバッハの宗教としてのキリスト教批判は、現実性と妥当性のある根本的包括的な原理的な批判の力を持つのである――@「人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ類の機能をひとつもはたすことはできない、しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる」・「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」・「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」・「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」・「(中略)神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』」(『キリスト教の本質』)、A自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教における「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」(『フォイエルバッハ全集第12巻 宗教の本質にかんする講演下』)。したがってこのことが、「われわれ」の「吟味しなければならない」ことである。「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異の認識と自覚が、決定的に重要なことなのである――神の人間化、人間の神化、「神と人間を同一視する神学(中略)『人間の中なる神について』の議論が根絶されない限り、フォイエルバッハを批判する理由は、われわれにはない」のである(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)。したがって、「われわれ」は、聖書的啓示証言に即して、終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰には、あの神の言葉自身の出来事の自己運動において、聖霊によって更新された人間的な理性を必要とする、と言うのである、またこの聖霊によって更新された理性であれ、その理性は、神と人間との無限の質的差異の下で、聖霊に似たものでも、聖霊そのものでもないであって、徹頭徹尾人間的な理性であり続ける、と言うのである。バルトは、ほんとうの処女作『ローマ書』以降『教会教義学』、『神の人間性』まで含めて神と人間との無限の質的差異という認識と自覚の一貫性をもって、『教義学要綱』で次のように述べている――「聖霊は、人間精神と同一ではない」・「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」。したがって、日本基督教団立東京神学大学の実践神学者の小泉健が、まさしく自然神学の立場において、ルドルフ・ボーレンの「神律的相互関係」の概念に依拠して、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」と聖霊や聖霊の言葉を「わがまま勝手に」恣意的独善的に実体化させた時、その主張は、その最初から誤謬は必然の主張であって、それゆえに小泉はただ誤謬の主張に「普遍性と組織性の後光をかぶせて語」っているだけなのである。
 先述したように、聖書的啓示証言によれば、単一性・神性・永遠性を本質とする神は聖性・秘義性・隠蔽性・「隠れ」において存在する限り、それゆえに「神はただ神を通してだけ認識され得るのであれば」、換言すれば人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)は、人間の言語を介した人間の自己意識・理性・思惟の類的機能を用いてのそれであるとしても、あくまでもあの先行する神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面としての聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいて終末論的限界の下でだけ与えられるのであれば、「われわれは、……昔の教会と神学全体の洞察」について――すなわち神認識における直接的無媒介的な「それとしての人間的な認識能力そのもの」について、すなわち人間論的な自然的人間の、教会論的なキリスト教的人間の、「われわれの直観と概念でもって把握する」「固有な可能性について」、「語」ることはできないのである。信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)の出来事は、「神の隠れ……の中で、神がご自身からしてご自分とわれわれ人間との間の交わりを設定し、造り出して下さらない限り」、それゆえにそのことは、「われわれ」人間の側から「われわれの能力を実行に移すだけで起こることではなく」て、「あくまでも神のみ心に適う適意の奇跡(≪神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて起こる奇跡≫)なのである」。すなわち、聖性・秘義性・隠蔽性・「隠れ」において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする「神はわれわれにとって遠く、見知らぬものであり給う……」のである。このような訳で、人間論的な自然的人間の、教会論的なキリスト教的人間の、「われわれの直観と概念を用いて把握する働きをもってしては」、キリストにあっての「神を把握することはできない」のである。したがって、直接的無媒介的な、人間論的な自然的人間の、教会論的なキリスト教的人間の働きにより「把握するところのもの」――それは、「わがまま勝手に」恣意的独善的に対象化され客体化されたその人間の自己意識・理性・思惟の類的本質であって、「存在者レベルでの神」、偶像に過ぎないものであり、それゆえにキリストにあっての「神ではなく」、キリストにあっての「神とは違う実在」なのである。このことは、「ただ単に、われわれがはじめから神の啓示と関わりを持たない時に」、すなわち自然神学の<段階>の企て、自然的な信仰・神学・教会の宣教における企ての時に、換言すれば神を、直接的無媒介的な、人間論的な自然的人間の、教会論的なキリスト教的人間の直観と概念を用いて把握しようとするわれわれの企てが神の啓示を信じる信仰と無縁な恣意的な企てである時に」、「あてはまるだけではない」。言い換えれば、「まさにわれわれが神の啓示と関わらなければならない時にこそ」、それゆえに「信仰の中で神の啓示に応答しつつある……まさにそのような時にこそ」、「われわれ」は、直接的無媒介的な、人間論的な自然的人間からは、教会論的なキリスト教的人間からは、「自分自身から」は、「神との交わりを持ち」、「神を直観と概念を用いて把握し」、「神認識を遂行してゆく能力を持っていない」ということを認識させられ自覚させられるのである。「まさにその時にこそ、……神認識は確かにわれわれの業なしではない」にしても、「それだからといって、われわれの業を通して行われ、われわれの業の実として行われるのではないということが明らかになってくる」のである。「まさにその時にこそ、……神はただ神を通してだけ認識されるし、ただ神を通してだけ認識されることができるという真理(≪客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性≫)が有無を言わさず命令的に、決定的に、われわれの前に輝き出る」のである、それゆえに「まさに(≪神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面としての聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下でだけ与えられる≫)信仰の中でこそ、われわれは神を絶対的な依存の中で、純粋な、後の続く随従と感謝の中で認識する」のである、その時にこそ「われわれの神認識」を「全く真剣な意味で、神の隠れについての認識でもって始」めるのである、それゆえにまた先行する神の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において「われわれ」は、「われわれの直観と概念を用いて神の啓示に応答してゆこうとするわれわれの試み」を、「ただ不十分な手段を用いてする試みとして、ただ無益な僕のする業として判定」し、それゆえに「この試みの成功を、……われわれの神認識の真実性を、いかなる場合にも(≪直接的無媒介的な、人間論的な自然的人間に、教会論的なキリスト教的人間に、≫)われわれ自身に、……われわれの直観と概念を用いて把握する能力に帰することをしない」のである。
 さて、先行する神の用意に包摂された人間の用意ができているイエス・キリストの啓示についての信仰の認識としての神認識における啓示神学も理性的な知的営為ではあるが、その神学は、「哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、哲学的試みが終わるところから始まる」ものであり、「方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」ものなのであるから(『バルトとの対話』)、「神の隠れについての命題」は、「一般的な人間的認識についての理論の脈絡の中に立って」はいないということに、すなわち「そのような一般的な認識論の対立する命題に照らしても、また見かけ上同じ方向をとって述べているように見える命題に照らしても、(≪人間学的な認識論によって≫)測られてはならないということ」に、「人は……注意せよ」。「われわれは……(≪神と人間との無限の質的差異の下で、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする神の不把握性の下で、それゆえに終末論的限界の下で、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、信仰の認識としての神認識という≫)人間的認識と取り組んでいる」のであって、一般的な人間的認識としての「ただ単なる知識」としての「神認識」と「取り組んでいる」のではない。すなわち、「われわれ」は、イエス・キリストにおける「啓示の中での基礎づけを通して区別された神認識と取り組んでいる」のである、換言すれば神の言葉自身の出来事の自己運動、それ自身が聖霊の業(「啓示されてあること」)であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリスト、具体的には第二の形態の直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」を信仰・神学・教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、神の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従の同在性において、絶えず繰り返しそれに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な、キリストの福音、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法――すなわち純粋なキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)を、換言すれば「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指す信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)と「取り組んでいる」のである。したがって、イエス・キリストにおける客観的な「啓示」が、すなわち起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのものが、その「啓示の中で認識される神」とは異なる「ほかのいかなる神をも考慮に入れないようにわれわれ」を「強いる限り」、「神の隠れについての神学的命題」は、「最高存在」について「すべての知覚と理解の働きでもってとらえることができない」、「すべての経験と思惟のすべての範疇を超えた」、「『純粋な』非対象的な」「理性理念として理解されなければならないと主張するプラトン的命題、あるいはカント的命題」(それゆえにカントは、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」と規定した)、それに類する考え方は、「邪道」であり、それゆえにそのような考え方は「人を邪道に導くもの」でしかないものであるということを認識させ自覚させるのである、すなわち「理性理念」を、キリストにあっての神と「同一」ではないものとして認識させ自覚させるのである。イエス・キリストにおける「啓示の中で人間に出会い給う神」、キリストにあっての「神は、決して非対象的なものではない」。このキリストにあっての神は、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、業と行為、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのものとして、まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、人間の歴史的形態――すなわちイエス・キリストの名、客観的な対象として存在している。「それどころか(≪キリストにあっての神は≫)すべての対象性の総内容である」、なぜならば単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、啓示・和解、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書およびその聖書を媒介・反復する教会の宣教を通して「同時的となる時と所」、「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ということを、「世、歴史、社会」は、「その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」であるということを、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ということを認識・承認・確認させられるからである、それゆえに人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所、自然的な信仰・神学・教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」、「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所は、イエス・キリストにおける啓示の場所だけであるということを認識・承認・確認させられるからである。「この(≪キリストにあっての≫)~が、人間に対し隠れた方として出会い給う時、この~の隠れは、ただ単に人間的な知覚し理解する働き」・「行為」と、「その志向する行為」・「働き」に「妥当する」、それゆえに「それはわれわれ自身に対して妥当する」。したがって、「神の隠れは」は、「人間的な自己認識の最後の言葉の内容」ではなくて、「一般的な認識論の命題へと変え」ることができない「神ご自身によって措定された神認識の最初の言葉」なのである。したがってまた、「われわれ」が、「神は隠れてい給うと言う時、われわれについて(≪人間的な「一般的な認識論の命題」について≫)語っておらず、ただ神の啓示(≪具体的には聖書的啓示証言≫)によって教えられ、(≪「隠サレタ」≫)神について語っている」のである。バルトは、『教会教義学 神の言葉T/1・2』で次のように述べている――聖書的啓示証言の本来的テーマは、「三位一体の第二の存在の仕方」である「子なる神、キリストの神性」・単一性・永遠性を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊を問う問いとが包括されている点にある・神は、イエス・キリストにおいて、インマヌエル――「神われらと共にいます」という第二の存在の仕方において、顕現・自己啓示した、このことは単一性・神性・永遠性を存在の本質とする「自己を覆い隠す」、隠蔽性、秘義性、「聖性」としての神が、その存在の仕方(業と行為)において子として「自分を自分から区別」したことを意味する、それゆえにその自己啓示は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」――すなわち「イエス・キリストの名」、第二の存在の仕方において、その存在の本質である単一性・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示である、このように自己啓示する神は、「まさにアラワサレタ神こそが隠サレタ神」である、このことは、「神ご自身がわれわれ人間に対し自己啓示されないならば」、神ご自身の側から神と人間とを架橋されないならば、換言すれば神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面としての聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づかなければ、全く不信仰で罪に穢れた「われわれ人間」は、終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰(信仰の認識としての神認識)を持つことはできないということを意味しているのである。「神の隠れは<信仰>命題である」。なぜならば、「信仰の中でこそ」、「神認識を遂行しつつ」、すなわち「実際に直観と概念を用いて神を把握しつつ」、「われわれは、神を認識し、直観と概念を用いて神を把握することを」、人間的認識の業(行為)や人間的認識能力に基づく業(行為)としてではなく、「ただ神的な適意の奇跡の業として理解することができる」からである、換言すれば「神の隠れ」と終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の「神認識」は、「信仰の中でこそ」、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面としての聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてこそ「理解することができる」からである。したがって、「われわれ」は、「われわれ」がそのような「信仰の中でだけ」、すなわち「ただ(神の啓示の中に基礎づけられているが故に)現実の神認識の中でだけ」、「神を認識することによって」、「われわれは神の隠れ(≪聖性・秘義性・隠蔽性において存在する神の不把握性を、それゆえに人間の神認識における終末論的限界≫)を認識する」。このような訳で、「神認識の出発点」は、「われわれの知覚と推論的な思惟が不可能である」という人間的認識、人間的認識能力の「洞察の目標点と同一ではない」。~の側における「神の隠れは<神の>隠れである」。それは、「まさに神認識がそれとして形をとってはじまるところの神の性質である」。「神の隠れについての命題をわれわれの口にのぼらせるもの」は、「空間と時間についてのあるいはわれわれの思惟の範疇についての反省」ではなくて、「全くただ(≪単一性・神性・永遠性を本質とする≫)神の存在(≪聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする神の存在≫)と行為(≪その神の存在の仕方≫)についての聖書的な証言と(≪あくまでもその証言を媒介・反復するところの≫)教会的な(≪すなわち教会の客観的な≫)信仰告白の偉大な肯定である」。「われわれは、この命題でもって……神を認識することによって、……われわれはそのような能力」を、「われわれの認識の働き」、「われわれ」の認識能力に帰することができないということを、換言すれば「そのような能力をただ神にのみ帰することができるということを告白するのである」。なぜならば、「神の隠れ」における信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)は、神の側から、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面としての聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてやって来るからである。「われわれをこのように告白するよう促し、強いるであろうものは、ただ神のみであり、しかも神の啓示と啓示を信じる信仰である」。このような訳で、人間の側からする「われわれの認識の働き」・「われわれ」の認識能力の「限界づけ」における「真剣さ」の欠如性は、イエス・キリストにおける「神の啓示に相対して」、「結局は(≪自然的な信仰・神学・教会の宣教という仕方で≫)自分自身に神を認識してゆく能力を帰し」て行こうとすることの中で、「あたかもそれがわれわれにとって自由に処理することができる相手であるかのように関わろうとすることの……中で、暴露される」のである。

 

 「神の行為」(単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の存在の仕方、業と行為)について、「詩篇一三九・六で……『あまりに不思議で、わたしには思いも及びません、これは高くて達することはできません』と言われている時」、「あるいはヨブ三六・二六で『見よ、神は大いなる者にいまして、われわれは彼を知らない』と言われている時」、「またパウロが(≪単一性・神性・永遠性を本質とする≫)神を『見えない』方と呼んでいる時(ローマ一・二〇、コロサイ一・一五、Tテモテ一・十七)」、「これらの箇所の近いあるいは遠い文脈からして、そこでは決して人間自身によって措定された目標点について語られておらず、(≪神の側から≫)神によってその啓示の中で措定された(≪聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする「神の隠れ」――すなわち神の不把握性の下で、という信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰の≫)出発点について語られているということを確かめることができる」。単一性・神性・永遠性を本質とする、対自的であって対他的、他在であって自在、全き自由の神の起源的な第一の存在の仕方である父は子として「自分を自分から区別」するし自己啓示する神として自分自身が根源であり、その区別された子は父が根源であり、愛に基づく父と子の交わりである聖霊は父と子が根源であり、それゆえにこの神は、子の中で「創造主として、われわれの父」として自己啓示するし、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主であり、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもあるという内在的な「父なる名の内三位一体的特殊性」におけるその第二の<存在の仕方>、業と行為において顕現されたのであるから、その存在と本質は隠されたままなのである――神の第二の存在の仕方である「御子は、(≪復活したキリストと同じキリストの再臨の時までは、その存在と本質は隠されたままである≫)見えない神の姿であり(≪それゆえにその第二の存在の仕方、業と行為、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」、すなわち「イエス・キリストの名」において、その存在と本質の認識と信仰を要求する啓示であり≫)、すべてのものが造られる前に生まれた方です(≪神から由来する、単一性・神性・永遠性を本質とする方です≫)」(コロサイ1・15)。バルトは、『教会教義学 神の言葉T/1・2』で次のように述べている――「人々は人の子(あるいはわたし)は誰であると言っているか」(マタイ一六・一三)と聞かれ、ペテロ(教会の客観的な信仰告白)は「あなたは生ける神の子キリストです」と答えた。「メシヤの名」に対する「『人の子』というイエスの自己称号」は、「(覆いをとるのではなくて)覆い隠す働きをする要素として、理解する方がよい」、「逆に使徒行伝一〇・三六でケリグマが直ちに、すべての者の主なるイエス・キリストという主張で始められている時、それはメシヤの秘義を解き明かしつつ述べている」というように理解した方がいい、神性(存在の本質)の受肉ではなくあくまでも言葉(存在の仕方)の受肉であるところの受肉・「神が人間となる」・「僕の姿」・「自分を空しくすること、受難、卑下」は、「神性」の「放棄」や「減少」を意味するのではなく、「神的姿の隠蔽」、「覆い隠し」を意味している。このような訳で、聖書的啓示証言における「神の隠れ」の概念と、人間学的な認識論上の「理解を絶したもの」、「近づき難い」・「まことの最高存在」等という「神の隠れ」の概念との差異性についての認識と自覚は重要なのである。
 さて、「神の本質を言い表すものとして『解明し難い』という概念」は、「キリスト教の領域においては最初にクレメンス第一の手紙(三三・三)、それからアテナゴラスの著述の中で出てくる」。「神はスベテノ本質ト人間ノ思イヲ越エタ方である(アタナシウス)」、「ワレワレハ神ニツイテ語ルガ、モシ汝ガ理解シナイトシテモ何ノ不思議ガアロウカ。モシ汝ガ理解スルナラバ、ソレハ神デハナイカラデアル(アウグスティヌス)」、「ソレ故ニ主ヨ、汝ヨリ偉大ナモノガ考エラレナイバカリデナク、汝ハ人ガ考エルコトガデキル以上ニ偉大デアリ給ウ、とカンタベリーのアンセルムスは書いている」。ここで、人は、「神が考えられないということ(≪神の不把握性≫)はまさに神の積極的な偉大さとして考えられており、人間的な欠陥(≪人間の自然的な認識、認識能力≫)に帰せられていないことに注意せよ」。アンセルムスは「言う。神学においては、(神ヲ)理性的ニ理解スルコトハ理解デキナイコトデアルトイウコトが問題である」。すなわち、アンセルムスは、「教義学的な合理主義」を明確に否定したのである、神学を一般的真理としてではなく「啓示から得られた認識」、換言すればそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」から啓示認識の可能性について考えたのである(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)。さらに、「一二一五年の第四ラテラン公会議で、理解デキナイモノということが神の性質としてはじめて教職の表現として出てくる。……トマス・アクィナスのところで、神ヲ認識スルコトハ知的ナ被造物ニハ不可能デアルということを読む」。「この言葉は、神を言い表す表現としてそのまま一六世紀および一七世紀において、一連の改革派の信仰告白書の中に移って行く……(フランス、ベルギー、スコットランド、ウエストミンスター信仰告白)」。なぜならば、聖書的啓示証言に出てくる「『目に見えない』神という表現を考えるならば、事情は当然そうでなければなら」なかったからである。
 しかし、聖書的啓示証言に出てくる「目に見えない」「神との関係づけ、それと同時に信仰命題として」、この「『目に見えない』神」の「命題の性格」は、「古代においても、中世においても、近代においても、少なくともある種の靄の中に覆われていた」。すなわち、「神は解明シ得ナイモノデアル(≪神の不把握性≫)という命題の意義と結果が、結局、昔の教義学においてはそれほどよい実りを結ぶようにならなかった」のである。言い換えれば、「神の不把握性」について、「昔の神学の中で」は、「プラトンおよびプロティヌスから理解しようとしたのか、それとも詩篇一三九篇とパウロから」――すなわち「それとしての神の啓示を確認している信仰命題として理解しようとしたのか」、「最後のところで明瞭ではなかった」ので、「われわれは今」、聖書的啓示証言に即して「大事な実際的な意味を持つようになる」聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする「神ノ不把握性」という「立場」に立脚する。