本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十五節 ~認識の実現」「二 人間の前での~」(その2−1)−1

カール・バルト『教会教義学 神論T/1 ~の認識』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十五節 ~認識の実現」「二 人間の前での~」(その2−1)−1 (54−86頁)

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしておりますが、引用の不備や誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)(また、今回以降、indemについてだけは、井上良雄的に「……することによって」というように引用し直しています)

 

「二十五節 ~認識の実現」
「二十五節 ~認識の実現」について、バルトは、次のような定式化を行っている。
 ~認識は、~の言葉の啓示が聖霊を通して実現される中で、起こる。したがって、信仰と信仰の服従の実在の中で、また信仰と信仰の服従の必然性をもって、起こる。~認識の内容は、われわれがすべてにまさって愛することがゆるされるが故に、すべてにまさっておそれなければならない方、またその方自身われわれに対しご自身をそのように明らかに示し、また確かなものとなし給うたが故に、われわれにとって秘義であり続ける方、の現実存在である。(3頁)

 

〔この定式の詳述〕
 この定式の詳述については、『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十五節 ~認識の実現」「一 神の前での人間」(その2−1)−1で行っていますので、参照してください。

 

註:「啓示の認識原理」であり「教会の宣教の批判と訂正」の規準・原理・法廷・審判者・支配者である<三位一体論>の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)、を参照してください。

 

「二 人間の前での~」(その2−1)−1
 「一 神の前での人間」において、「われわれは(≪~の側からする人間との架橋、すなわちあくまでも~のその都度の自由な恵の決断による、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方である~の言葉自身の出来事の運動において、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力および神の恵みの出来事を人間的主観に実現させるキリストの霊である聖霊の証しの力に基づいて初めて認識可能となる客観的な「啓示の実在」そのもの――すなわち起源的な第一の形態の≫)~の言葉に(≪具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉に他律的な服従と自律的な服従の同在性・同時性・構造性において≫)拘束されている(≪啓示認識・啓示信仰、すなわち信仰の認識としての≫)神認識を、……それの人間的側面から理解しようと試みた」。このような仕方で、人間は~の前に立っている。したがって、教会の宣教、その説教、それゆえにその教義学の語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」なのであって、人間自身教会自身の決定事項・裁量事項・自由事項ではないのである。言い換えれば、第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)における終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識は、自己還帰する自在であって他在(他在であって自在)な、対自的であって対他的な、全き自由の、「失われない」単一性・神性・永遠性を本質とする「失われない差異性」における三つの存在の仕方――この三位一体の神のその内在的な他在性・対他性・存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動)の顕現化、外化、外在化、対象化、客体化としての、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、キリスト教に固有な類・歴史性としての、客観的な対象として与えられ存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の~の言葉、「イエス・キリストの名」、客観的な「啓示の実在」そのものの側からする、すなわちこの先行する~の側からする「第一の行為」において、~が先行して人間の「<前>に立ち給う」がゆえに可能となるのである。すなわち、その神認識は、そのように~が人間に対して先行して「先立たれ」るがゆえに、その起源的な第一の形態の~の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの(具体的には教会に宣教を義務づけている第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉、客観的な啓示の「概念の実在」)による「限界づけ」の下で可能となるのである、それを教会の宣教における「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」として、それに聞き教えられることによって可能となるのである。したがって、第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)にとっては、具体的には、あの~の言葉に対する他律的な服従と自立的な服従の同在性・同時性・構造性において、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、聖書的啓示証言における客観的な啓示の「概念の実在」に聞き教えられという仕方でのみ可能となるのである。したがって、それぞれの時代、それぞれの世紀、それぞれの世代における第三の形態に属する全く人間的な教会における、「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すところの、換言すれば純粋な教え(キリストの福音)としてのキリストにあっての神を尋ね求める「~への愛」を志向し目指すところの、キリスト教に固有な類の時間累積としての教会の<客観的>な信仰告白・教義は、そういう仕方でのみ構成することができるのである。このような仕方で「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯する「これらすべては、徹頭徹尾、人間は常にただ(≪あの~の言葉自身の出来事の運動の<後>に≫)従って行くことができるだけであるところの神ご自身の存在(≪単一性・神性・永遠性を本質とするその存在、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とするその存在≫)と業(≪その~の存在の仕方≫)である」ということを意味している。聖書的啓示証言の本来的テーマは、三位一体の第二の存在の仕方である「子なる神、キリストの神性」を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊を問う問いとが包括されている点にあるのが、このことは、単一性・神性・永遠性を本質とする「自己を覆い隠す」、隠蔽性・秘義性・「聖性」としての神、すなわちその第一の存在の仕方である父としての神が、その第二の存在の仕方において子として「自分を自分から区別」したことを意味するから、この~の自己啓示は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」、すなわち「イエス・キリストの名」、その第二の存在の仕方(性質、業と行為)において、その本質である単一性・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示なのである。言い換えれば、このように自己啓示するキリストにあっての神は、「まさに顕サレタ~こそが隠サレタ~」なのである。したがって、この啓示認識・啓示信仰は、~のその都度の自由な恵の決断による具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰として与えられるのである、換言すれば第三の形態に属する全く人間的な人間自身教会自身の自由事項・決定事項・裁量事項として与えられるのではないのである。
 このような訳で、信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての「神認識についての教説」は、「神についての本来的な教説(≪神論≫)に対し(≪神論と神認識という二元論的な≫)独立した序説を形造っているのではなく」、「それ自身既に神論に属している」。「なぜならば、(≪キリストにあっての≫)神認識についての教説は決定的にただ(≪キリストにあっての≫)神の存在(≪~と人間との無限の質的差異におけるその存在、単一性・神性・永遠性を本質とするその存在、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とするその存在≫)と行為(≪そのキリストにあっての~の三つの存在の仕方≫)の記述から成り立つことができるだけだからである」。したがって、この「~の存在と行為」が、「~についてのすべての人間的な語りと聞くことが関連づけられている」「実在根拠」であるだけでなく、「実在根拠として」、「また~についてのすべての人間的な語りと聞くことが由来してくる認識根拠でもある」のである、それゆえに「~の存在と行為の特別な規定が問題である」。
 さて、「神認識の内容」は、「われわれがすべてにまさって愛すること(≪起源的な第一の形態の~の言葉、啓示・和解、イエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのもの、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリスト、客観的な啓示の「概念の実在」に終末論的限界の下で絶えず繰り返し聞き教えられることを通して、純粋な教えとしてのキリストにあっての神を尋ね求める「~への愛」≫)がゆるされるが故に、(≪起源的な第一の形態の~の言葉、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉を、教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として≫)すべてにまさって恐れなければならない方(≪起源的な第一の形態の単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の、その人間性と共に神性を賦与され装備された聖書的啓示証言におけるイエス・キリスト≫)」、「その方自身われわれに対しご自身をそれほどまでに明らかにまた確かなものとなし給うたが故に、われわれにとって秘義であり続ける方(≪なぜならば、神は、~と人間との無限の質的差異の下で、単一性・神性・永遠性を、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とするから。したがって、ドストエフスキーの『罪と罰』に依拠して言えば、「何もかも合点が行く!……誰も彼も合点が行く」ためには、「万人を裁いて、万人を赦される」キリストの再臨の日を待たなければならない≫)」の「現実存在」――このような「現実存在」こそが「人間の前での~」、「~の言葉に拘束されている神認識によれば、(≪その存在の仕方、その業と行為において、人間に<先行>して、≫)人間に出会い、人間に対して働きかけ給う~」である。
 「神は、われわれがすべてにまさって愛することがゆるされる方である」。「もしもわれわれが」、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、~の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」、すなわち「イエス・キリストの名」に拘束されているのであれば、この「すべてにまさって愛されるべき方として、神は存在し給い、~はわれわれの認識の対象であり給う」。あの「~への愛」がゆるされているということこそが、他律的な服従と自律的な服従の同在性・同時性・構造性において~の言葉(起源的な第一の形態の~の言葉、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉)に拘束されていることを意味しているのである。したがって、あの「~への愛」は、「先ず第一に、……許し、解放、許可」である、それゆえにこの「許し、解放、許可」の認識なき「~の言葉に対するわれわれの従順」は、「まだ依然としてあるいはもはや信仰の服従ではない……」。なぜならば、第三の形態に属する全く人間的な教会におけるその認識なき従順は、他律的な服従と自律的な服従の同在性・同時性・構造性において、徹頭徹尾、起源的な第一の形態の~の言葉、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉を、その宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに聞き教えられることを通して、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、純粋な教えとしてのキリストにあっての神を尋ね求める「~への愛」のベクトルを持たないであろうからである。例えば、聖霊論的説教論のルドルフ・ボーレンや佐藤司郎や小泉健は、あのキリスト教に固有な類・歴史性としての「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の、具体的には第二の形態の聖書駅啓示証言における「~の言葉」だけでなく、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍の尊重、「経験の尊重」も必要だという二元論の陥穽に陥ったのである。この時、「~の言葉に対するわれわれの従順」は、「もはや信仰の服従ではないであろう」。総括的に言えば、「シュラエルマッハー以外の他の人々の所でも」遭遇するところの、神の人間化、人間の神化を志向し目指す「ヘーゲルの強力な痕跡」を持った信仰・神学・教会の宣教における「~の言葉に対するわれわれの従順」は、「もはや信仰の服従ではないであろう」。なぜならば、その服従は、あの他律的な服従と自律的な服従の同在性・同時性・構造性の認識と自覚がないところの、換言すれば「神の自由を認識していない」・それゆえに「人間の自己運動を~のそれと取り違えるという混淆」(『ヘーゲル』)を犯しているところの、人間自身教会自身の恣意的嗜好的独善的な服従であるだろうからである。「ゆるされているということ」は、「第一」に、「~はご自身の中で、われわれの愛に値するところの方」、それゆえに「幻滅」させられることのない方である、ということから成り立っている。「第二」に、それは、~「ご自身われわれによって愛されることを欲し給うような仕方で」、あの~の言葉自身の出来事の運動において、「~はわれわれに対してご自身を知らせまた提供し給う」ことによって、「われわれのためにそこにい給う方として、事実、愛することができるということから成り立っている」。「最後」に、それは、「~……ご自身」が、人間の即自的な「『自分の理性や力(≪意志力、感情力等≫)によっては』――全く信じることができない」(『福音主義神学入門』)ところの「われわれの中で、……(≪聖霊の注ぎによって「われわれ」の即自的な理性を更新することによって、他律的な服従と自律的な服従の同在性・同時性・構造性において≫)~を愛する可能性」を、その「意志と用意を造り出し給うが故に、そのことが事実起こること……から成り立っている」。このようにして、~は、他律的な服従と自律的な服従の同在性・同時性・構造性における「対象であり給う」。「われわれはこの(≪「対象」としての≫)~を愛することがゆるされる」。他律的な服従と自律的な服従の同在性・同時性・構造性における「対象」、単一性・神性・永遠性を本質とする起源的な第一の形態の~の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、イエス・キリストの名(具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉、啓示・和解、客観的な啓示の「概念の実在」)――「わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに、慕うものはない」(詩篇七三・二五)。

 

 「われわれは今、さらに続けて」、「~をすべてにまさって愛することがゆるされるが故に」、~を「すべてにまさって恐れなければならない」、と言わなければならない。Tヨハネ四・一八における「全き愛によって取り除かれるところの恐れ」は、「われわれがすべてにまさって……恐れなければならない」ところのキリストにあっての~への恐れではない。すなわち、あのヨハネ四・一八における恐れは、キリストにあっての~「以外の他者あるいは他の物を恐れる際の恐れである」。言い換えれば、「~の言葉に拘束されているということ」は、「旧約および新約聖書全体によれば、疑う余地なく、……われわれは、この言葉をわれわれに向かって語り給う方をすべてにまさって恐れなければならないということである」。この事柄は、すべてにまさって「~への愛」をゆるし給う~の「命令、補足、われわれの身に及ぶ公用徴収である」。なぜならば、そうでないならば、そこでの対象はキリストにあっての「~ではいないであろう」し、それゆえに「決して神認識ではいない」であろうからである、またそこには、「~の言葉に相対してのいかなる信仰も、いかなる信頼もないであろう」からである、それゆえに他律的な服従も自律的な服従もないであろうからである、それゆえにそこには、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、起源的な第一の形態の~の言葉、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉を教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返しそれに聞き教えられるという作業が為されないがゆえに、人間自身教会自身の「わがまま勝手」な恣意性嗜好性独善性しかないであろうからである。したがって、「ここでも次のことが警告されなければならない」。それは、「すべてにまさって恐れなくてもよいようなひとつの対象の認識の問題性というものを、~認識(≪キリストにあっての神認識≫)の探求の中に運び入れることはゆるされないということである」。言い換えれば、キリストにあっての神認識の探求における対象とその認識可能性の問題は、「われわれがすべてにまさって……恐れなければならない」ところのキリストにあっての神が対象であり、その認識可能性が問題であるのであるから、第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)にとっては、三位一体論の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての、客観的な対象として与えられ存在している、必然性不可避性としてある「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の~の言葉、イエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのもの、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリスト、客観的な啓示の「概念の実在」を、その宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それを媒介・反復するということが、それに聞き教えられるということが問題なのである。すなわち、他律的な服従と自律的な服従の同在性・同時性・構造性において、純粋な教えとしてのキリストにあっての神を尋ね求める「~への愛」が問題なのである。したがって、この「~への愛」は、「ねばならない」ところのそれである。それは、第一に、「~がご自身において恐るべき方であり給うということ、それであるから~の前から逃れる道がある……などと考えることはできないとということから成り立っている」。第二に、「~がわれわれに対し恐るべき仕方で出会い給うということ、そこで神ご自身がわれわれに対してそのことに対する根拠と契機を提供し給うことによって、われわれが~を恐れることを神ご自身が欲し給うということが明らかとなるような仕方でわれわれのためにそこにい給うということから成り立っている」。「最後に、……~ご自身がわれわれに~の恐るべき姿に対する目と耳を開き給うということ、それであるから神を恐れるわれわれの恐れが実際に出来事となって起こるということから成り立っている」。このことは、第三の形態に属する全く人間的な教会(その成員)とこの世における、神に敵対し神に服従しないその現にあるがままの現実的な人間存在における「われわれ」は、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力」を一切持ってはいない」のであるから、神の言葉は、神ご自身のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、その隠蔽と顕現において、「われわれのところに来る」ということを意味している、換言すれば神ご自身が「われわれ」に対して自己啓示されないならば、すなわち神ご自身の側において~と「われわれ」人間とを架橋されないならば(『ローマ書』に引き寄せて言えば、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、~の言葉、啓示・和解である「イエス・キリストにおける神の愛」は、神の「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」)、全く不信仰で罪に穢れた「われわれ」人間は、終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰をさえ持つことはできないことを意味している。このような訳で、「われわれがすべてにまさって恐れなければならない方」(キリストにあっての神)は、「われわれがすべてにまさって愛することがゆるされるまさにその方」(キリストにあっての神)であるということと「切り離」すことはできないのである。したがって、この関連性は、「最も密接な、最も必然的な関連性」である。「われわれがその方をすべてにまさって愛することがゆるされるという許し、解放、許可(≪純粋な教えとしてのキリストにあっての神を尋ね求める「~への愛」に対する許し、解放、許可≫)を持つことことによってこそ」、「われわれはまた」、~を「すべてにまさって恐れなければならない」(「自分の現実存在」の根拠である、純粋な教えとしてのキリストにあっての神を尋ね求めて、徹頭徹尾、起源的な第一の形態の~の言葉、啓示・和解、イエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのもの、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉、啓示・和解、イエス・キリスト、客観的な啓示の「概念の実在」を、教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それを媒介・反復しなければならない、それに聞き教えられなければならない、それに信頼し固執し連帯しなければならない)という「われわれの身に及ぶ」「命令」・「補足」・「公用徴収」を持たされるのである。「われわれは、その方を愛することがゆるされる自由が、その方の少しも義務を負うていない賜物であり、まさにこの賜物を(≪あの他律的な服従と自律的な服従において≫)用いることが大切であるということを考慮することなしに、そのような自由を所有しつつ、その方の前に立つこと」はできない。したがって、このことを「考慮しつつ、われわれは~を恐れなければならない」。このような仕方で、「~は、人間が愛することがゆるされ、恐れなければならない方として、人間の前に立ち給う」。
 ルターは、「小教理問答の中で、……第一の命令……それからすべてのそのほかの命令を説明するための主要な概念として用いた二つの概念、恐れと愛」という概念に依拠して、「~に相対して立っている人間の正常な状態というものを、それと共に、……人間に相対して立ち給う神ご自身を、(中略)……『われわれは~を恐れ、~を愛さなければならない』」というように記述した。このルターは、第一の命令の説明において、「イエス・キリストの中でわれわれに啓示される~以外のいかなるものも、理解される」ことを欲しなかったから、キリストにあっての神への「信頼」という概念も用いている。このキリストにあっての神に「信頼を寄せつつ生きる具体的な生は、したがってこの神に服従しつつ生きる具体的な生は、その時、この神対する恐れと愛の中で生きる生である」。このルターの場合、その「恐れから愛へと向かう運動」理解の態度の中で、「命令を守るようになるのである」。しかし、「イエス・キリストの中でわれわれに啓示される~が問題であることを堅くとって離さないでいるべきであるとすれば、またわれわれわれがそこから再び人間を振り返り見るとするならば、その時、人間の運動は本来まさに、ルター……とは逆な仕方で、記述されなければならない……」。すなわち、「恐れが愛の後に続かなければならないのであって、その逆ではない」、「愛は恐れの根拠として名指され、理解されなければならない」、「恐れは愛から説明されなければならない」、純粋な教えとしてのキリストにあっての神を尋ね求める「~への愛」・「~を愛する愛から生じて来る~を恐れる恐れ」として説明されなければならない。このようにして、「人は、~を恐れる恐れが~を愛する愛と並んで聖書全体の中に(実際また新約聖書の中にも)その場所を持っているということ、またなぜそうであるのかということを理解する」。その場所は、「~への愛」が「われわれを愛し給う神の愛の中に基礎づけられており、愛はこの神に対して応答しているという……想起を通して規定され」、それゆえに~を恐れる恐れよって「規定され、また限界づけられている場所であるということを理解する」。その「愛はわれわれを愛し給う神の愛(≪「イエス・キリストにおける神の愛」は、神ご自身の「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」≫)の中に基礎づけられており」、その方が「われわれがその方をすべてにまさって愛することがゆるされることが、その方からしてまこと」であり、「その同じ~であり給うが故」に、「われわれがその方をすべてにまさって恐れなければならないことが、その方からして同じようにまことである」、換言すればその方が「われわれがすべてにまさって愛することがゆるされているが故にすべてにまさって恐れなければならない方であり給う……故にこそ、~を恐れる恐れは人を癒やす……力を持つのである。それ故にこそ、まさに~を恐れる恐れに伴われ、それによって規定され、限界づけられた……愛だけが、まことであり、力強いのである」。人はここで、すぐに、ルターの「律法と福音」の順序(律法と福音を対立させる二元論的な、律法から福音へという順序)――この思惟と語りの根拠である、ローマ3・22、ガラテヤ2・16等の「イエス・キリストの信仰」の属格の目的格的属格理解、~だけでなく即自的な人間もという~と人間との即自的な「協働」・「共働」関係に依拠したイエス・キリストを信じる信仰――と、バルトの「福音と律法」の順序(律法は、キリストの福音を内容とする福音の形式である、すなわちここで「誡命中の誡命」、律法は、キリストの福音をすべての人々が現実的に所有することができるために、第三の形態に属する全く人間的な教会が為さなければならないところの、教会自身に対する、この世に対する、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えである)――この思惟と語りの根拠である、ローマ3・22、ガラテヤ2・16等の「イエス・キリストの信仰」の属格の主格的属格理解、換言すれば~の側の真実としてのみある、それゆえに~の側に根拠づけられた客観的現実性・客観的実在・永遠的実在としてある、「律法の成就」として「唯一回」的に人間のために人間に代わって為されたイエス・キリスト自らが信じる信仰(なぜならば、啓示の真理によれば、人間は自主性・自己主張・自己義認の欲求、換言すれば不信仰・無神性・真実の罪のただ中を生きており、神の恩寵を嫌悪し回避する存在であるから、人間は「『自分の理性や力によっては』――全く信じることができない」、意志力、感情力、自然を内面の原理とする修行等によっては全く信じることができないから)――、との根本的包括的な原理的な差異性に気づくであろう。このようなルターの思惟と語りは一貫しているのであって、『キリスト者の自由』では次のように述べられている――律法と福音を対立させ、まずは「罪人を怖れさせ、その罪を暴露して、痛悔し且つ回心させるためには、誡めを説教すべきである」・しかしそれだけではいけないので、その次に「他の言、すなわち恩恵の呼びかけを説教して、信仰を教えるべき」である・「かようなときにはじめて他の言、すなわち神からの約束の告知が現われて、そして語る」・「さらばキリストを信じなさい」、「あなたが信じるならこれを得られるし、信じないなら得られない」。ここには、信の過程をその頂へと一方通行的に上昇して行く往相の信が語られている。ルターは、時代性によってか資質によってか自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教を志向し目指したために、換言すれば「イエス・キリストの信仰」の属格を目的格的属格として理解したために、すなわち神だけでなく人間もという神と人間との「共働」・「協働」関係を志向し目指したために、信の頂へと向かう往相の信を語ることはできても、そこからもう一度意識的に下降し不信をも包括し止揚した還相の信、換言すれば~の側の真実においてのみ、不信を包括し止揚し克服した信、信と不信を架橋した信を語ることはできなかったのである。このような思惟と語りにおける言葉は、不信とむなしさと不安と不確かさが蔓延した現在から未来に生きる言葉とはなり得ないのである。なぜならば、ルターのその思惟と語りは、その信の頂へと向かう一方通行的な一面的皮相的固定的な往相の信を持っていても、そこから意識的に下降することで得られる~の側の真実としてのみある不信を包括し止揚し克服した還相の信を同在性・同時性・構造性において持っていないからである。
 さて、~の言葉に拘束されている信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識の内容は、「われわれが(その対象としての)その方をすべてにまさって愛することがゆるされているが故に、すべてにまさって恐れなければならない方の現実存在であるということ……が理解されるならば」、換言すれば単一性・神性・永遠性を本質とする~の内在的な他在性・対他性・存在の仕方(業と行為)の顕現化、外化、外在化、対象化、客体化におけるそれであるということが理解されるならば、その「神認識は~に相対しての服従(≪その対象に対する他律的な服従と自律的な服従の同在性・同時性・構造性におけるそれ≫)の中で生起するということである」。言い換えれば、第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教において、そのような神認識は、あの~の言葉自身の出来事の運動における、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての、客観的な対象として与えられ存在している、必然性不可避性としてある「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の~の言葉、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉を、その宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それを媒介・反復することを通して、それに聞き教えられ教えることを通して、純粋な教えとしてのキリストにあっての神を尋ね求める「~への愛」と、そのような「~への愛」を根拠とした「~の讃美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式である律法、誡命中の誡命、すなわちすべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)を志向し目指すところの、~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従の同在性・同時性・構造性における「服従の中で生起する」。このような「~の言葉への拘束の下で生起する」信仰の認識としての神認識は、このことに対する第三者的な異論に対して、すなわち「他の諸々の人間的な立場から疑念を差しはさみ、攻撃しようとする第三者」に対して、「確固とした揺るぎない立場なのである」。なぜならば、あの純粋な教え(キリストの福音)としてのキリストにあっての神を尋ね求める「~への愛」とその「~への愛」に根拠づけられた「~の讃美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式である律法、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)を志向し目指すという「この服従は、~を愛する愛の中に根ざしている神に対する恐れの中で生起する服従である」からである。ここで、他律的な服従と自律的な服従について、再度整理しておこう――キリスト教に固有な類・歴史性に信頼し固執し連帯する第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)は、例えば「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところ」「すべての大学社会の神学」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)における第三者的態度に終始する客観主義やまた例えば二元論的に説教と行為あるいは説教と社会的政治的実践あるいは宣教Aと宣教Bという主張における人間自身教会自身の「わがまま勝手な」恣意的嗜好的独善的態度に終始する主観主義の陥穽に陥らないために、「その特定の人間的行為」である説教、それゆえに教義学の形式的な課題としての、あの起源的な第一の形態の~の言葉、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉をその宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに「聞き教えられる」という他律的な服従と、その実質的な課題としての、そういう仕方で聞き教えられることを通して「教える」(単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方である~の言葉、すなわちイエス・キリストに対する奉仕、あの「神への愛」に根拠づけられた「神の讃美」としての「隣人愛」、誡命中の誡命、~の命令・要請・要求としてのキリストの福音を内容とする福音の形式である律法、すなわちキリストの福音をすべての人々が現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え、マタイ26・6−13、マルコ14・3−9)という「自律」的な服従との同在性・同時性・構造性を生きるのである。因みに、鎌倉初期を生きた親鸞も次のように述べている――「聖道の慈悲」(往相浄土)は困窮する者を「不憫におもい、悲しみ、助けてやることである。けれども思うように助けおおせることは、きわめて稀なことである」・このような往相過程における救済は、相対的・部分的なそれであって、緊急的過渡的な救済でしかないだろう、それゆえにそれは一切の衆生を究極的総体的永続的な救済に導くことはできない・したがって、自分が現に身近に接している「食物の飢え」等で 困窮している具体的な一人の人や一部の人を施しや奉仕によって相対的・部分的に救済しようとする課題は、往相的な緊急過渡的課題に属している・それに対して、「浄土の慈悲」(還相浄土)は、「念仏をとなえて、いちずに仏に成って、大慈大悲心をもって思うがまま自在に、衆生をたすけ益することを意味するはずである」――この阿弥陀仏の側の真実にのみ信頼し固執すれば、一切の衆生の究極的総体的永続的な救済は可能となるだろう・このように、還相的な課題は、偶然に出会った個別の衆生を助けるという往相的な過渡的相対的部分的な緊急的過渡的救済にはないのであって、煩悩や生老病死等々で困窮し疲弊する「一切の衆生」の救済という還相的な究極的総体的永続的な救済にあるのである・このように、親鸞は、天災、 飢餓、病気、餓死、煩悩等で苦悩し疲弊する衆生の究極的総体的永続的な救済の課題に対して、往相的な宗教的学問的知識的な言葉ではなく、意識的な還相的な思想の言葉、意識的に非知にまで下降した言葉で答えていくことを眼目としたのである・言い換えれば、親鸞は、「善」の自覚よりも「悪」の自覚の方が阿弥陀仏による救済に近づきやすいように、「知」よりも「愚」――すなわち「南無阿弥陀仏」の称名念仏(一念義)の方が阿弥陀仏による衆生の究極的総体的永続的な救済に近づきやすいというように意識的還相的に思惟し語ったのである(吉本隆明『吉本隆明全仏教論集成「親鸞について」および「親鸞の教理ついて」』、『未来の親鸞』、『今に生きる親鸞』、『最後の親鸞』、『親鸞復興』)。宮沢賢治も、個人の幸福と全体の幸福について考えて、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」、全体が幸せにならなければほんとうの幸せとはならない、と述べたのである(『農業芸術概論綱要』、『よだかの星』)。前述したように、~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性・同時性・構造性における教会の宣教の「その特定の人間的行為」は、起源的な第一の形態の~の言葉、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における「~の言葉に対する服従として特徴づけることができる」のである。したがって、第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教の補助的奉仕としての教義学の「聖書的、信仰告白的、教会的な態度」、全く人間的な領域における「神律性」は、「他律性」――すなわち、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、起源的な第一の形態として~の言葉の中で出来事となって起こっている神の業と行為(~の存在の仕方)、具体的には第二の形態における~の言葉の中で出来事となって起こっている神の業と行為(~の存在の仕方)に聞き教えられるという「他律性」、客観的側面としての「他律性」と、「自律性」――すなわち、説教、それゆえに教義学を為す「人間的な主体自身の自由な」「~の言葉に対する服従」の「決断」・態度という相対的で具体的な形態としての「自律性」、主体的側面としての「自律性」との同在性・同時性・構造性において語られなければならないのである。なぜならば、もしもそうでないならば、その教会の宣教は、人間自身教会自身の「偶然あるいは恣意に委ねられた空虚な理念でしかないであろう」からである、空虚な思惟と語りでしかないであろうからである、それゆえにそれは「何の助け」にもならないであろうからである、それゆえにそのような人間自身教会自身の言葉に聞くよりも吉本隆明やヘーゲルやフォイエルバッハやマルクスや太宰治や宮沢賢治やドストエフスキー等々の言葉や言説に耳を傾けた方がいいに決まっているであろうからである、その方が、実際的に、確実に、人間や世界の本質を指し示してくれるだろうし、人間的な慰安も励ましも喜びも心の響き合いも心の豊かさも享受させてくれるであろうからである。したがって、信仰の認識としての神認識においては、「信仰の従順(ローマ一・五、一六・二六)」、「キリストへの服従(Uコリント一〇・五)」、「信仰を受け入れる(使徒行伝六・七)」ということが「問題である」。すなわち、あの~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性・同時性・構造性における「服従ということでもって、信仰そのものを理解する」ことが、「信仰の服従」を理解することが、肝要なことなのである。
 このような訳で、あの~の言葉自身の出来事の運動において、~が、「人間の信仰」を、すなわち「神ご自身についてのわれわれの認識」を、「服従の業」・行為として「目覚まし、造り出し、保持される方として人間の前に立ち給う所」においては、「また~が人間の信仰の認識の対象および内容として人間に対してご自身を提供される所」においては、「~はそのことをこの存在(≪単一性・神性・永遠性を本質とする存在≫)と行為(≪その、性質、業、存在の仕方≫)の中でなし給う」。したがって、「この対象が必然的に呼び起こす恐れの中での愛」は、「われわれをこの対象を認識することから逸脱させはしない」のである、あの~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従の同在性・同時性・構造性から逸脱させはしないのである、換言すればその「対象の性質(≪存在の仕方、業と行為、顕現)と本質(≪存在の本質――単一性・神性・永遠性を本質とする、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする、存在≫)を通して要求されている仕方で結びつける」。したがって、神ご自身のその都度の自由な恵の決断によるあの~の言葉自身の出来事の運動の中において、「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すことを通して、換言すればあの「神への愛」とそれに根拠づけられた「~の讃美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式である律法、誡命中の誡命)を志向し目指すことを通して、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性は歴史的連続性を持つことができる、キリスト教に固有な類・歴史性は保持されるのである。「恐れの中での愛のうちにあってわれわれ」は、「いかなる中断もあり得ず、……立ち止まることなく、進み続けることができるだけであり、また実際進み続けて行くであろうところの円環の中に置かれて」おり、この「円環の中でわれわれは、信仰から信仰へと、認識から認識へと進むのであるが、……決してわれわれ自身でもって、つまり決してわれわれ自身の信じ、また認識する能力でもって始めるのではなく、それゆえに……決してわれわれ自身で、つまりわれわれの信仰と認識への無能力でもって中止することなく、ただ(≪あの~の言葉自身の出来事の運動の中において≫)進み続けて行くことができるだけであるし、また進み続けて行くであろう」。
 人間による信仰の認識としての「神認識の問題を服従の問題にされる」~は、換言すれば「われわれがすべてにまさって愛することがゆるされているが故に、すべてにまさって恐れなければならない」ところの~は、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方(~の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの)であるイエス・キリストにおける、インマヌエル(~われらと共にいます)というその存在の仕方で、顕現、自己啓示したのである。このことは、単一性・神性・永遠性を本質とする「自己を覆い隠す」隠蔽性・聖性・秘義性としての第一の存在の仕方である父としての~が、その存在の仕方において子として「自分を自分から区別」したことを意味し、その内在的な存在の仕方(他在性、対他性)を顕現化、外化、外在化、対象化、客体化したことを意味するのである。したがって、~の言葉(存在の仕方)が受肉したのであって、神性(存在の本質)が受肉したのではない。したがって、この自己啓示は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」、すなわち「イエス・キリストの名」(その存在の仕方)において、その存在の本質である単一性・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示なのである。言い換えれば、このように自己啓示する神は、その存在の仕方(性質、業と行為)において「まさに顕サレタ神こそ」が、「隠サレタ神」――すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする聖性・秘義性・隠蔽性としての~なのである。この事柄は、神認識の形式と形態を規定する。「われわれが持つことをゆるされている~を愛する愛」、換言すればあの純粋な教えとしてのキリストにあっての神を尋ね求める「~への愛」に対しては、「~がわれわれにご自身を提供し給う明らかさと確実さが対応している」、換言すればあの~の言葉自身の出来事の運動における、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、~のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて与えられる終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、客観的な対象として与えられ存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の~の言葉、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉が対応している、そしてこの第二の形態の聖書的啓示証言をその宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるところの第三の形態に属する全く人間的な教会の客観的な信仰告白・教義が対応している、すなわちキリスト教に固有な類・歴史性が対応している。もしもこのことが「啓示でないならば、どうして和解があるであろうか」。したがって、そのような仕方で啓示を認識し信仰することは、「神の啓示を受け取るということを意味している」。このように「神の啓示を受け取ることによって、われわれは既に、われわれが~を愛することがゆるされているということを用いているのである」。それに対して、「われわれが神に対して持たなければならないところの恐れに対しては」、「~がわれわれに対してご自身を提供し給うところの秘義が対応している」、単一性・神性・永遠性を本質とする聖性・秘義性・隠蔽性が対応している、神の不把握性が、終末論的限界が対応している。「一体、裁きなしの和解があるであろうか。したがって、秘義なしの啓示があり得るであろうか」。啓示を認識し信じることを「真剣に受け取ることは、~の啓示の中で~の秘義を認識し承認するということを意味している」。「まさにわれわれが神の啓示の中で~の秘義を認識し承認することによってこそ、われわれはわれわれが~を恐れなければならないということを真剣に受け取っているのである」。
 このような訳で、~と人間との無限の質的差異の下で、人間に対して、その存在の本質である単一性・神性・永遠性は隠されている、「まさに顕サレタ~こそが、隠サレタ~」である、それゆえに受肉――「~が人間となる」、「僕の姿」、「自分を空しくすること、受難、卑下」は、その存在の本質である「神性の放棄」や「神性の減少」を意味するのではなく、「神的姿の隠蔽」「覆い隠し」を意味している、「~であり給う言葉(≪~の第二の存在の仕方≫)が人間となったのであって、決して神性(≪その存在の本質≫)それ自体が人間となったのではない」、ヨハネ1・14の「言葉は肉となった」という新約聖書の中心的命題――そのヨハネの「言葉」は、単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体における~の「神的な創造主、和解主、救済主なる言葉、神の永遠のみ子」、「まことの神にしてまことの人間」イエス・キリスト(~の第二の存在の仕方、性質・業・働き・行為・行動、~の子、~の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの)のことである、それゆえにナザレのイエスという「人間の歴史的形態」――「イエスの名」(~の第二の存在の仕方)において、その「存在の本質」である単一性・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示なのである、それゆえに第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)においては、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言を信仰・神学・教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返しそれに聞き教えられるという仕方において、~のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論限界の下で与えられる人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰が問題なのである、信仰の認識としての神認識が問題なのである(『教会教義学 ~の言葉T/1・2』)。それに対して、『イエス』で、「イエスは別段自分を超人間的存在として自覚していたわけではなく、『人の子』語句でもって人間存在の根底を語り続けた」「ただの人であり、ただの人として自らを自覚し、ただの人の真実のあり方を告げた」というようにイエスに本来的な人間存在の在り方・範型を見る八木誠一は、それゆえに啓示認識・啓示信仰が問題ではない八木誠一は、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストのその本質だけでなくその存在の仕方も揚棄し捨て去ってしまったのである。このことを見抜いたのは牧師や神学者やキリスト教的著述家ではなく、思想家で文芸批評家の吉本隆明であった――親鸞論を書いた吉本が八木に対して、「信仰することによって信仰していない者には見えない何か新しい地平線が見える」と「思うけれども、……そこをうまく開陳してみてくれませんか」と尋ねたことに対して、八木は、「かつての自分には見えなかったものが見えてきた」ことが「二つある」と述べて、第一には、それは、「観念的なものに重点を置いて、そっちが真実だと思っていた」のだが、それは「ほんとは虚しいものなんだ」と述べている(おそらくこのことは、滝沢克己的な近代主義者の八木が観念のリアリティの獲得の問題を、科学主義的にか歴史主義的にかその実証可能性においていることを意味しているに違いない)・また第二には、それは、「エゴイズム」に依拠して「自分を確かめて自分を知り、たしかめ、また立てようとしていた」ことが「明らかになった」と述べている(このことはおそらく、人は不可避的にある歴史的現存性のただ中にある親の下で生誕し、その人間の個・現存性――類・歴史性を生きる、ということを自覚したことを意味しているに違いない、換言すれば不可避的な被企投性としての歴史的現存性の概念を自覚した時に、企投性としての個・現存性の概念を見出したということに違いない。あるいは、その現にあるがままの現実的な人間存在に失望し、自分がそうなれるかどうかは別として、客観主義的にか主観主義的にか、イエスに本来的な人間存在の在り方・範型を見出したということに違いない、あるいは人間の存在様式が均質ではないことに気づいたということに違いない)・この八木の答え方に対して、吉本は、「だけど今の八木さんの説明では、……あらゆる認識が、もし自分自身の体験、それから自分自身の資質というか、そういうものを全部根こそぎ動員して、認識と言うものを追究していくと出てくる問題と、あまり違わない」というように疑義を呈し、「それ宗教(≪信仰≫)と関係あるかな、ということですね、やはり納得できるように思いません」、と述べたのである(『現代思想11 一九七五年「<新約思想をどうとらえるか>吉本隆明/八木誠一」』)。八木は、まさに、滝沢克己と同じように、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところ」「すべての大学社会の神学」、すなわち自然神学の系譜に属する人間学的神学、哲学的神学を目指したのである。この在り方を教会の宣教に敷衍すれば、説教者自身の恣意的嗜好的独善的な「自己表現としての宣教」となる。したがって、そのように「自己表現」され、対象化され、客体化された神、啓示、イエス・キリストは、その人間学的神学者自身あるいは哲学的神学者自身あるいはキリスト教的哲学者自身の、その説教者自身の、自由な自己意識・思惟・理性が、その類的活動において表現し、対象化し、客体化した、まさにその人間自身が造り出した「存在者レベルでの神」――すなわち偶像でしかないものなのである。したがって、バルトの次のような言葉は、現実性と妥当性があるのである――@「哲学、歴史学、心理学等は、この神学的問題領域のどれにおいても、事実上、教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしなかった」・「神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった」、またその場合「哲学は哲学であることをやめ、歴史学は歴史学であることをやめる」、キリスト教哲学は「それが哲学であったなら、それはキリスト教的ではなかった」、また 「それがキリスト教的であったなら、それは哲学ではなかった」(『教会教義学 ~の言葉T/1・2』)、A「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわら ず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」、すなわち神学も理性的な知的営為ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」のである(『バルトとの対話』)、B「私が『方式』なるものをもてっているとすれば、……時間と永遠との『無限の質的差別』……、をあくまで固守した、ということである。『神は天にいまし、汝は地に在り』。私にとっては、この神とこの人間との関係、ないしはこの人間と神との関係が<聖書の主題>であり、同時に<哲学の要旨>である」(『ローマ書』)。因みに、バルトは、「人の子」語句について、次のように述べている――「人々は人の子(あるいはわたし)は誰であると言っているか(マタイ一六・一三)」と聞かれ、 ペテロ(教会の信仰告白)は「あなたは生ける神の子キリストです」と答えた・「メシヤの名」に対する「『人の子』というイエスの自己称号」は、「(覆いをとるのではなくて)覆い隠す働きをする要素として、理解する方がよい」、それに対して「逆に使徒行伝一〇・三六でケリグマが直ちに、すべての者の主なるイエス・キリストという主張で始められている時、それはメシヤの秘義を解き明かしつつ述べている」というように理解した方がいい(『教会教義学 ~の言葉T/1・2』)。このような訳で、「~の言葉に拘束されているならば、われわれは~の現実存在でもって」――すなわち「われわれ」に先行する~の存在の仕方(内在的な他在性・対他性・存在の仕方の顕現化、外化、外在化、対象化、客体化、その業と行為)でもって、「換言すれば、その中で(単一性・神性・永遠性、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする)~ご自身をわれわれに対して明らかにまた確かなものとし給うた~の現実存在でもって始めなければならない」(なぜならば、このように、~は、「われわれによって直観と概念を用いて認識されることができるような仕方で、ご自身をわれわれに対して対象として示し給う」のであるから)。この場合、「われわれが、われわれは拘束されているとみなしたの……ではなくて、われわれは(≪あの~言葉自身の出来事の運動に≫)拘束されているのである」。したがって、第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教(説教と聖礼典)、それゆえにその教義学の思惟と語りが、キリスト教的な思惟と語りの「正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」なのであって、人間自身教会自身の決定事項・裁量事項・自由事項ではないのである。したがって、教会の宣教における説教、それゆえに教義学の態度は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基」づいて成立しているのである、~のその都度の自由な恵の決断に基づいて成立しているのである。単一性・神性・永遠性を本質とする~が、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」――「イエス・キリストの名」(~の第二の存在の仕方)において自己啓示し給うたがゆえに、換言すれば「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の~の言葉、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉を、第三の形態に属する全く人間的な教会に対して、その宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として与え給うたがゆえに、「われわれ」は、「~を愛することがゆるされているのである」、~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従の同在性・同時性・構造性において純粋な教えとしてのキリストにあっての神を尋ね求める「~への愛」を、それゆえに「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すことがゆるされているのである。言い換えれば、「われわれはもはや~なしでは存在できないし、またわれわれはもはや~なしでは自分自身であろうと欲しないし、自分自身を持とうと欲しないのである」。~と人間との無限の質的差異の下で、「われわれの現実存在は、~の現実存在と共に立ちもし倒れもする」のである。すなわち、「~の現実存在の光の中でわれわれの現実存在は、~の現実存在と比べて、……比べものにならないほど劣った仕方で、明らかであり、確実であるに過ぎない」のである。このような訳で、信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識は、「常に~の現実存在(≪起源的な第一の形態の単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、~の言葉、イエス・キリスト、具体的は第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリスト≫)の認識から由来してくることができるだけである」。このことは、第一に、第三の形態に属する全く人間的な教会における「われわれは、常に(具体的には聖書的啓示証言という第二の形態において)この認識をすでに持っている」ということを、第二には、「われわれはそのことに基づいて~を認識するために神ご自身から(≪あの~の言葉自身の出来事の運動の中において、~のその都度の自由な恵の決断による、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて≫)この認識を手に入れなければならない」ということを、意味している。なぜならば、~は、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言を第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として置き、あの~の言葉自身の出来事の運動における客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、「われわれによって直観(≪対象的意識≫)と概念(≪自己意識・思惟・理性≫)を用いて認識されることができるような仕方で、ご自身をわれわれに対して対象として示し給う」からである。「われわれはこの関係を自分で取り除くことはできない……」。このことが、「聖書の中で人間に対する神の啓示として証しされているところのことを考えている限り、啓示の意味である。啓示が出来事となって起こったということを承認することが信仰であり、そして出来事となった啓示と共に始まる認識が信仰認識である」。信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識である。このような訳で、「~の現実存在は信仰に認識にとって、……既に解決済みの問題である」。「まさに事情がそうであるが故にこそ……われわれは今や続けて……~は、われわれにとって秘義であり続け給う方である」という「限界」について語らなければならない、「顕サレタ~こそが、隠サレタ~である」ということ――この~の自己啓示の中で、聖性・隠蔽性・秘義性を本質とする神の不把握性についても語らなければならない。このことは、~と人間との無限の質的差異の下で、信仰の認識としての神認識の対象が~であり、「われわれは認識する人間であるということから」生起する「必然的な規定と限界」の想起としてある。したがって、ここで、信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識は、「まさに、~をその秘義の中で認識する」認識である、終末論的限界の下で認識する認識である。