本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十五節 ~認識の実現」「一 神の前での人間」(その2−2)−2

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十五節 ~認識の実現」「一 神の前での人間」(その2−2)−2 (26−54頁)

 

一 神の前での人間(その2−2)−2
 さて、「神認識は信仰の認識である」――この信仰の認識としての神認識は、それがひとつの認識である限り、「そのほかの認識と同じようにひとつの対象を持っている……」のである。しかし、「神認識は信仰の認識としてすべてのほかの認識と、その対象が人間の生きた主(≪神と人間との無限の質的差異の下での聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする生きた主≫)であるという点で、最高に違っている」。なぜならば、生きた主が、もしも神と人間との無限の質的差異の下での聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする生きた主でないならば、その主は、人間自身教会自身の恣意性嗜好性独善性によって対象化されたさまざまな「存在者レベルでの神」、偶像に入れ替え可能の主となってしまうだからである。ある、文化的傾向に、思想的傾向に、科学的、歴史的、経済的、政治的傾向に、最後的には政治的近代国家、自由主義国家へと馳せ下る世俗主義的な共同宗教としてのキリスト教に入れ替え可能となってしまうからである。したがって、そこでの信仰の「認識対象は、人間が、その方を認識する以前に既に、その方から由来している人間の創造主、イエス・キリストを通して聖霊の中でご自身についての認識を現実のものとし可能とする彼の和解主ご自身、その方についてのすべての現在的な認識の未来的な真理である救済主、であり給う」。言い換えれば、それは、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト(「啓示の実在」そのもの)、すなわち客観的な対象として存在している起源的な第一の形態である。なぜならば、聖書的啓示証言の本来的テーマは、三位一体の第二の存在の仕方である「子なる神、キリストの神性」を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊を問う問いとが包括されているからである。したがって、具体的には、信仰の「認識対象」は、イエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちのその人間性と共に神性を賦与され装備された直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(啓示の「概念の実在」)、客観的な対象として与えられ存在している第二の形態の聖書的啓示証言である。したがって、第三の形態に属する全く人間的な教会(その成員)が、この聖書的啓示証言(啓示のしるし)における啓示、啓示の「概念の実在」を教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それを媒介・反復することを通して、換言すれば神のその都度の自由な恵の決断による聖書的啓示証言における客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、間接的媒介的反復的にイエス・キリストと同一化することができるということは、すなわちそれに聞き教えられることができるということは、「恵みの立場」なのである。「神認識は信仰の認識(≪啓示認識・啓示信仰≫)として、この立場の中で起こる」のである。「そうでないとしたら神認識は全く起こらないであろう」。このことは、第三の形態に属する全く人間的な教会は、「いかなる場合でも、いかなる意味においても、対象(≪起源的な第一の形態の~の言葉、イエス・キリスト、「啓示の実在」そのもの、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリスト、啓示の「概念の実在」≫)を支配すること……はできないということを意味している」。なぜならば、その信仰の認識の「対象」こそが、教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者であるからである。また、そうでないならば、そのキリスト教、そのキリスト教会、そのキリスト教宣教は、まさしく、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの現実性と妥当性のある根本的包括的な原理的なキリスト教批判(宗教批判)の対象そのもの、人間自身教会自身が造った・神学者や牧師や著述家が造った偶像、その偶像崇拝、<宗教>そのものでしかないからである。言い換えれば、「われわれは神を、そのほかの諸対象を持つように持っているのではない」のである。マルクスの自然哲学における、身体と精神を介した全人間の普遍的で実践的な全自然(自然としての自己身体および他者身体、環界――天然自然および人間的自然)との相互規定的な対象的活動における<対象>ではないのである。したがって、信仰の認識としての神認識における「対象」を、人間自身教会自身の恣意性嗜好性独善性における対象に「抽象することはできない」のである。このことは、「主要な対象性の中での神」についても、「副次的な対象性の中での神についても妥当する」のである。したがって、「神認識は信仰の認識である」というところのその認識「対象」(客体)は、第三の形態に属する全く人間的な人間自身教会自身の認識論に対して、その認識に対して、徹頭徹尾、「自由」と「支配力」を持っているのである、持ち続けるのである。なぜならば、「ただ神が、ご自身を対象として措定し給うことによってだけ、人間は神を認識することができるものとして措定されている」からである。したがって、「神が主要な、またその副次的な対象性の中で、われわれにとって対象であり給う時、そのことは神の自由な恵であり、あくまで神の自由な恵であり続ける」のである。「この行為の中で」、具体的には聖書的啓示証言における客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、「神はご自身を認識すべく与え給う」のである。「われわれ」が、単一性・神性・永遠性を本質とする「神の存在」を、「その都度の神の活動(≪存在の仕方≫)から切り離す」ことをするならば、「われわれ」は、単一性・神性・永遠性を本質とする「創造主、和解主、救済主」なる神を認識することはできないのである。したがって、その場合、「どうして、そのようなもの(≪業と行為なき・存在の仕方なき「神の存在」≫)は生ける主であるだろうか」。したがって、具体的には聖書的啓示証言における単一性・神性・永遠性を本質とする神の「業と行為」(存在の仕方)を媒介・反復することなき「神の存在」は、換言すればその神の「業と行為」なき、「存在の仕方」なき「神の存在」は、人間自身教会自身が対象化した「存在者レベルでの神」(偶像)でしかないだろう。なぜならば、神と人間との無限の質的差異の下における、単一性・神性・永遠性を本質とする、聖性・秘義性・隠蔽性を本質(内在的な自在性・対自性)とする神は、人間のために人間に対して、神自らがその存在の仕方(内在的な他在性・対他性、業と行為)において顕現化し、外在化し、対象化し、客体化しなければ、「われわれ」は、終末論的限界の下での信仰の認識としての神認識を与えられ持つことはできないからである。したがって、「信仰は、人間が神の活動、生ける主としての神の存在の活動(≪神の存在の仕方、働き、業、行為≫)を通して方向づけられることと共に立ちもすれば倒れもする」のである。このような訳で、「信仰の神認識」――すなわち信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識は、神の「活動する存在(≪存在の仕方、業と行為≫)とだけ、……かかわりを持たなければならない」のである。聖書的啓示証言の本来的テーマは、三位一体の第二の存在の仕方である「子なる神、キリストの神性」を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊を問う問いとが包括されているのであるから、「信仰の神認識」は、まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストの名」へと方向づけられているのである。したがって、人は、「神がご自身を認識すべく与えた給うように」、「必然的に、祈らなければならない……」のである。このことは、「神認識の内容にとって……決定的な、実際的な意味を持っている。恵の立場は、神の恵みが呼び求められ、祈り求められることによって、占められ、保持される……」。なぜならば、啓示認識・啓示信仰という「信仰の認識としての神認識」は、あの~の言葉自身の出来事の運動、具体的には神の自由な恵の決断による聖書的啓示証言における客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間のそれとして与えられ持つことができるからである。「恵が真理であり、真理がただ恵としてだけ持つことができることが確かである限り、事情はどうしてもそうなのである」。したがって、「われわれは、再び聖書に戻ると共に」、そこで「われわれに対し神認識として記述されていること」は、「そのほかの認識の働き」に対して、それらと区別されて、「事実、常に(≪全き自由の~の恵の決断における、~の側からする、~の側の真実としての≫)神の何らかの行動と一致するということによって、ぬきんでていることを思い出すことにしよう」。
 信仰の認識としての神認識は、「神がご自身の中で神であり給うことによってではなく、むしろ神がご自身をそのようなものとして啓示し給う(≪単一性・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」の内在的なその他在性・対他性(存在の仕方)の顕現化、外在化、対象化、客体化、すなわち神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊――このような三位一体の神として自己啓示した≫)ことによって」、また「ただ神の業(≪神の存在の仕方≫)がそこにあることによってではなく、むしろ神がそのみ業(≪神の存在の仕方≫)の中で働き給うことによって(≪~の言葉自身の出来事の運動、神の自由な恵の決断による、客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて≫)、神は認識され給う」。このように、聖書的啓示証言における信仰の認識としての神認識は、「常に」、神の側からする、それゆえに神の「主導権」による、「人間と神との出会い」である。したがって「それは、人間にとって常に予見され得ない何ものか、驚くべき、新しい何ものかを持って」いる。したがって、それは、絶えず繰り返し為されるそれ「以前の出会いの継続」、その個の現存性における出会いの時間累積であり、「その中で神認識が新しい決断の対象となるところの出会い」である。したがって、「例えば、アブラハム、モーセ、ダビデ」においても、神の側からは「一度ですべてにわたって力を奮う仕方で彼らに関して決められたことが、その都度絶えず新たにされる更新の長い歴史の中で――彼らひとりびとりにとっては一生涯を通して――彼らの身に実現され、成就されなければならない」のである。すなわち、「その都度、(≪あの神の自由な恵の決断による、~の言葉自身の出来事の運動に基づいて≫)この更新が生起し、効果を発揮することによって、彼らは、聖書が神認識と呼ぶところのことを持つのである」。イスラエルの民は、「神ご自身の偉大な対象化」(神の第一の存在の仕方の顕現化、外在化、対象化、客体化)としての、「神の業およびしるし」としての「エジプトからの脱出」という、信仰の認識としての神認識を与えられ持ったのである。しかし、出エジプトの神は、「イスラエルの歴史のすべての時代にわたって」、「人がバアルを持つことができるが、ヤハウェを持つことができないような仕方で、……異なる神々への堕落の形をとって速やかにその本性をあらわす(≪堕落した形態の≫)ヤハウェ信仰が存在した」から、「そのみ業の中で認識され、再認識されるために、預言者たちに向かって、また預言者たちを通して、語り、<繰り返し>語り給わなければなら」なかったのである。このような訳で、「新しい恵なしには、そのみ業の中で神が働き給うことなしには、イスラエルは、いつ何時、神から身を背け、それからまた内的にも自分の身に汚辱を招きつつ滅びてしまうであろう」。したがって、キリスト教に固有な信仰の認識としての神認識の類・歴史性は、「神がご自身を証しすることをやめ給わないということによってもってかかっている」のである。この「旧約聖書的な線」は、新約聖書におけるイエス・キリストの「昇天にいたるまで……続いている」。それと同じように、民も、「イエスに選ばれ、召された弟子たち」も、「イスラエルの民およびその神の人たちのように、常に新しい状況の中で、確信のないもの、疑うもの、誤謬と失敗を重ねるものとして」、神の側の真実としてある「イエスの忠実さ」による「支え」と「更新」によって、「常に新しい教え、叱責、励ましによって強められることを必要としており、また事実そのようなものにあずかっているものとして、描かれている」。しかし、「使徒たちと使徒職の担い手たちに関する限り、使徒行伝の……聖霊降誕日以降」、「彼らがアブラハム、モーセ、ダビデと同じように、旧約の民全体と同じように、堕落することができ、更新を必要としているということ」は、「もはや強調されていない」。それ以降は、その主調音が「変えられる」。「今や、ただこれらすべての人間たち……に対してイエス・キリストのみ名が宣べ伝えられなければならず、そのものたちに対してイエス・キリストのみ名が既に宣べ伝えられており、新しい恵、新しい教え、慰め、叱責をあのように必要としている人間たち……が現れている」のだが、「使徒行伝以後登場してくる」「使徒たちと使徒職の担い手たち」は、その「神認識を確認し、強固なものにして行くために、事実、新しい恵を必要としないのである」。「これらの人間は、今や確かに、キリストの甦えりと昇天のこちら側では」、そのことは、「ただ、イエス・キリストの中で起こった神の業の生ける構成要素としての彼らの役割の中でだけ、重要であり、興味深いものなのである」。なぜならば、彼らにとって、神の第二の存在の仕方における「神の業が今や彼らを通して起こるということが重要」だからである。そして、神の側からする「神の業が彼らを通して起こる限り」、それゆえに神の側から「彼ら自身が恵の道具である限り」、その時「彼らは……あの更新を必要としていないのであ」って、「あの更新の問題」は、その「彼らに相対して」いる、あの~の言葉自身の出来事の運動をとして与えられる信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識を必要としている「ほかの者たちにとってだけ立てられている」のである。今や、「使徒行伝以後登場してくる」「使徒たちと使徒職の担い手たち」にとっては、すべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるために、キリストの福音を内容とする福音の形式である律法、「もろもろの誡命中の誡命」、キリストの福音の告白・告知・証し・宣べ伝えが最重要である。なぜならば、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストこそが、人間のために人間に代わって人間の「神の恩寵への嫌悪と回避」に対する神の答えである刑罰(死)を「唯一回なし遂げ給うた」のであり、そういう仕方で律法を成就されたのであり、それゆえに「われわれ」人間の更新を可能とするのは「今日に至るまで罪人の手に渡され・十字架につけられ・死んで甦られ給うた」イエス・キリストにある「復活の力」のみであり、このイエス・キリスト(福音)こそが「律法の目標」であり、それゆえに律法はキリストの福音を内容とする福音の形式であるからである。言い換えれば、この信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識に依拠した信仰の類比を通した「われわれ」人間の自己認識・自己理解・自己規定は、赦罪や和解や平和や救済について、「われわれ」人間から「生ずる現実は何もない」ということである。
 このような訳で、第三の形態に属する全く人間的な教会(その成員)が為すべきことは、具体的には聖書的啓示証言を教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それを媒介・反復することを通して教えられ教えるという仕方で、換言すればそれに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」(なぜならば、「ピリピ三・一二以下によれば」、「パウロ自身も捕らえたとは考えず」、キリスト・イエスによって「捕らえられていることに基づいて、捕らえようとして追い求めている」からである)と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」(福音を内容とする福音の形式である律法)、すべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるために、キリストの福音を告白し・告知し・証しし・宣べ伝えて行くこと以外にないのである。神の第三の存在の仕方である聖霊の注ぎにより「聖霊の中で神認識を現実にし、可能にするところの和解主」――すなわち客観的な啓示・和解である単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方である「イエス・キリストは、いうまでもなく(≪「子の根源」としての神の起源的な第一の存在の仕方である≫)創造主であり、……また(≪父と子の交わりである神の第三の存在の仕方である、復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる聖霊に関わる≫)救済主」、すなわち「すべての神認識の(≪神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的な「永遠的実在」としてある、信仰の確実性、希望の確実性における≫)未来的な真理であり給う(≪復活したキリストの再臨、完成の時、ドストエフスキーの『罪と罰』によれば、神が「万人を裁いて、万人を赦され」る「その時」には「何もかも合点が行く」、「誰も彼も合点が行く」のである≫)」。「まさに本当に神ご自身が、(≪その都度の神の自由な恵の決断による、客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて≫)聖霊にあって~のみ子が……忠実であり、繰り返し初めから人間とことを始め、繰り返しそのみ業(≪存在の仕方、業と行為≫)の中で働くことをやめ給わないということ、それが、神の前に立っており、神を認識する人間について、新約聖書が描いている絵の内容である」。
 最後に、あの神言葉自身の出来事の運動に基づいて与えられた「信仰の中で自分を神から区別し」(神と人間との無限の質的差異を認識し自覚し)、キリストにあっての神へとベクトル変容させられた信仰の認識としての神認識にまで来た時に、間接的媒介的に「自分を神と結びつける」ことができるところの「認識する人間はそれからどうなる」のか。この出来事は、「神的な『以後』」の問いを意味している。この命題の「積極的な意味」は、信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての「神認識は(≪キリストにあっての≫)神に対する服従である」ということである。「人は次のことに注意せよ」――このことは、「神認識はまた服従である、あるいは神認識は必然的に……服従を持っている、あるいは」それは「自分のところに服従を招きよせる」ということではない、ということに注意せよ。「そうではないのであって、神<認識>は信仰の<認識>としてそれ自身」、「必然的に服従であり、(≪あの神言葉自身の出来事の運動における≫)神的決断の行為に対応する人間的決断の<行為>であり、生ける主としての(≪単一性・神性・永遠性を本質とする≫)神的存在のあの行為(≪存在の仕方、業と行為≫)に対応し、(その中で神を信じる信仰が基礎づけられており、その都度新たに基礎づけられる)恵の行為に対応する人間的決断の<行為>である」(このような訳で、福音と律法の関係がそうであるように、認識と行為は、二元論的に二元化、分離、乖離することはできないのである)。「まさに、(≪単一性・神性・永遠性を本質とする≫)神がご自身をこの行為(≪存在の仕方、業と行為≫)の中でわれわれの対象(≪間接的媒介的な対象性における対象≫)として、またわれわれを(≪あの神言葉自身の出来事の運動において≫)神ご自身を認識するものとして措定し給うことによって」、「われわれの神認識はただ、われわれがこの行為(≪その神の存在の仕方、業と行為≫)に従い、われわれがこの行為(≪その神の存在の仕方、業と行為≫)の対応となり」、それゆえに「われわれはその現実存在全体をもって」、その存在・その思惟・その実践全体をもって、「そのようにしてまたわれわれの直観と概念を用いて」信仰の認識としてのキリストにあっての神認識を志向し目指す働きをもって、「神的な行為に対応する人間的な行為(≪認識と行為という二元論においてではなく、信仰の認識としての神認識がおのずからその行為を生じさせるところの神的な行為に対応する人間的な行為≫)となるということについて決定が下されている」のである。このバルトは、『教会教義学 ~の言葉T/1・2』において、「単なる知識」と啓示認識・啓示信仰としての「認識」を厳密に区別して、その「単なる知識」と「認識」の差異性について論じている――「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に感謝を持って信頼し固執する「認識」、啓示認識・啓示信仰である・その時初めて、神の言葉(神の第二の存在の仕方)は、私たち人間に対して「実在」となり、またその人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる・この信仰の認識における神認識は、おのずから「服従、信仰の服従」を惹き起こす、このキリストにあっての神<認識>は、おのずからそれに根拠づけられた信仰の服従、決断の<行為>を惹き起こす・したがって、「単なる知識」に過ぎないある理念・ある概念の実体化・「最高存在」・「最モ完全ナ存在」としての啓示概念は、神の言葉でも、それゆえに啓示の概念的把握でもないのである・神の言葉は、徹頭徹尾、「人間の現実存在の内部」の中にはないのである。言い換えれば、神から遠ざかり神に敵対し神に服従しない「われわれ」人間は、「肉であって、それゆえに神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力」を一切持ってはいないのであるから、神の言葉は、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性の下で、それゆえに終末論的限界の下で、その都度の神の自由な恵の決断における、あの~の言葉自身の出来事の運動に基づいて「われわれのところに来」るのである。このような「服従の行為としてだけ、神認識は信仰の認識であり、それと共に現実の神認識である」。なぜならば、単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神は、その内在的な他在性・対他性(存在の仕方)の顕現化、外在化、対象化、客体化において「現にある方として認識されることを欲し給う」ということ、「現にある方として(≪その存在の仕方において≫)行動し給う」ということ、「この行動するものとして(≪その存在の仕方、業と行為を通して≫)……認識されることを欲し給う」ということ、この「行動するものとして神を認識することは、神に服従すること(≪神的決断の行為に対応するあるいはその信仰の類比としての人間的決断の<行為>≫)を意味している」からである。このような訳で、信仰の認識としての神認識は、「神の自由な恵の(≪神的決断の行為による≫)認識」であり、「そのみ業(≪その神の三つの存在の仕方、性質・働き・業・行為・行動≫)の中での神の働きを知る知識」である。このところで、「われわれは、(中略)神が、ご自身をわれわれの対象として、またわれわれ」に対して「神ご自身を(≪その存在の仕方、業と行為において≫)認識するものとして、措定してくださるようにとの祈り」を持たなければならない。「具体的に次のように祈らなければならない」――@「わたしたちを……神の副次的および主要な対象性を、客観<主義>的に、参与も、服従もせずに、表向き保証された場所に留まりつつ考察しようとする誘惑に……陥らせないで下さい(≪この客観主義に対して、認識と行為、言葉と行為、宣教Aと宣教B、説教と実践、説教と社会的あるいは政治的実践という二元論は、主観<主義>と言うことができる≫)」、A「わたしたち」を、「まるであなたが……(……認識する自由をわれわれが持っているほかの諸対象のような、ひとつの)対象(≪すなわち、全人間の身体と精神を介した普遍的で実践的な全自然との相互規定的な対象的活動における諸対象、天然自然や人間的自然のうちのひとつ対象≫)であるかのように思い違いをする誘惑に陥らせないで下さい」、B「わたしたち」を、神語り給うゆえに神語り給うことに「聴従しつつことを始めることなしに(≪具体的には聖書的啓示証言に聴従しつつことを始めることなしに≫)、あなたについてほんの少しでも知り、語り、聞くことができるかのように、……あなたを認識しようとする誘惑に陥らせないで下さい」。これらの「誘惑」は、「既に神の民および教会へと召された人間にとって特徴的な……誘惑」である。第三の形態に属する全く人間的な教会における指導的立場の人間、牧師、神学者、それに類する人間が、この誘惑に陥った場合、その成員の異議申し立てがない限り、その「民の場のただ中において、教会の場のただ中において、神認識はおしまいになってしまう。しかも、単に部分的にだけでなく、完全におしまいになってしまうのである」。この問題は、人々にバルトを誤解させ、バルトに迷惑をかけるという位相の問題ではなく、キリストにあっての神を、人々に誤解させるだけでなく、キリストにあっての神の人間に対する愛を台無しにしてしまうことになるのである。「ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(≪彼の自由な自己意識・思惟が対象化したその類的本質としての「存在者レベル神」・偶像の名と呼びかけによる救いの企て≫)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法(≪例えば、一昨年の日本基督教団の「平和を求める祈り」やカトリックの「抗議声明」≫)が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである」(『啓示・教会・神学』)。「われわれ自身からでていること」は、「選ばれ、召された人間、照らし出され、委任を受けた人間」においても、それは「常にこの誘惑であるだろう」。この誘惑にとらわれたキリスト者を、非キリスト者は、その人間的領域において見抜くのである――阪神・淡路大震災の時、ある牧師が「武器を持って神戸市役所かどこかに押しかけて行って、被災者の住めるような建物をすぐにつくってくれと、職員を脅かした」行為を話すために、吉本にわざわざ電話をかけたことに対して、吉本は、その牧師は「じぶんがやったことを<得々と>しゃべるわけです。ぼくは、ははぁ、戦前とちっとも変っていないやと思いながら聞いていた……。(中略)<正義>のために脅かしたのだと<得々と>しゃべることは、ぼくらが戦争中に<『お国のために』>といわれたのとまったくおなじことで、そんなの、ちっともよくない」(≪国家共同性を第一義化・価値化する、権威としての天皇と政治的権力としての国家との国体を理想とする佐藤優もそうだ、靖国参拝推進論者のキリスト者である富岡幸一郎もそうだ≫)、と述べている。このような訳で、そのような「誘惑が克服されるように、祈らなければならないのである」。「もしも彼が恵の神を彼の神として、また神と区別され、それでいてまた神と結ばれている罪深い人間として自分自身のことを認識しているのでないとしたら、もしも彼が生ける主である神の行為を通して裁かれた人間でないとしたら」(なぜならば、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストが、「われわれ」人間のために「われわれ」人間に代わって、「われわれ」人間の「神の恩寵への嫌悪と回避」に対する神の答えである刑罰(死)を、「唯一回なし遂げ給うた」という「律法の成就」の出来事は、キリストにあっての神は、「われわれ」人間からは「何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さず」とも、「神であることを廃めず」に、「われわれ」何ら価値や力や資格もない「罪によって暗くなり・破れた姿」の「人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬよう」に、「しかも混淆されぬように、統一し給うた」ということを内容としているから)、それゆえに「もしも彼が神へと方向づけられた姿の中で服従の中に立っていないとしたら」、その~の言葉自身の出来事の運動に基づいた信仰の認識としての神認識は「全く遂行されていないことになるであろう」。なぜならば、キリストにあっての啓示の「真理はただ恵として(≪その都度の神の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて与えられる、終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、すなわち信仰の<認識>としての神<認識>として≫)受け取ることができるだけであることが確かであるように」、その「恵を得ることは、服従の決断から成り立っていなければならないであろう」からである、人間的決断の<行為>から成り立っていなければならないであろうからである。

 

 「信仰についてのカルヴァンの定義」――信仰は、「ワレワレニ対スル神ノ恵ミノ認識デアル」。カルヴァンは、「それに対応しつつ、『綱要』のはじめで、……神の認識について」、「ソレハ、モシモアダムガ堕落シナイママニトドマッテイタトシタナラバ、自然ノ本性ノ秩序ニ導カレテワレワレニソナワッテイタデアロウ。ナゼナラ、本来ノ意味デ言エバ、『宗教』モ『敬虔』モナイトコロニハ、神ヲ認識スルコトガアルトハ言ウベキデナイカラデアル」・「宗教の前提である敬虔」は、「神ヘノ愛が神ヘノ敬イト結ビツイタモノである」・「敬虔が生まれる純粋ニシテ現実性ヲモッタ宗教とは」、「神ヘノオゴソカナ恐レト結ビツイタ信仰のことであり、ソレハ恐レガ自発的ナウヤウヤシサヲウチニ含ムトトモニ、律法デ規定サレテイルヨウナ正シイ礼拝ヲトモナウ」、と述べている。「人は次のことによく注意せよ」――「それは……自発的ナウヤウヤシサと神の律法に対応する正しい礼拝は神を真剣に恐れることに基づいており、~を恐れる真剣な恐れは信仰の属性であり、他方信仰そのものは神の恵ミヲ知ル知識に基づいている」ということに、「そのようなわけでわれわれが神を問う時、すべてのことは、神の力を感ジトルコトに、すなわち神がイッサイノ善ノ源泉として認識されるということに、よってもってかかっている」・「『神ハ何デアルカ』というのではなく、~の存在の仕方、その業と行為を通して、『神ハドノヨウニアリ給ウカ』とわれわれは問わなければならない」。したがって、バルトは次のように述べたのである――@教会の宣教を「より危険なものにしてしまう」のは、「福音が純粋ニ教エラレ、聖礼典が正シク執行サレルということ」がなされないままに、礼拝改革とか、社会的政治的実践とか、キリスト教教育とか、教会と国家および社会との関係とか、国際間の教会的な相互理解というような領域で、「何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考える」ところにある(『教会教義学 ~の言葉T/1・2』)、A「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求め」ようとしないで、「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待するべき」である(『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』)。カルヴァンは、「世界の現実存在と動き全体」を、「ただ単に神ハ何デアルカという問いに対してだけでなく、また神ハドノヨウデアリ給ウカに対する答えであり、(≪「空虚ナ思弁ニ」よって「空想スルノデハナ」く、「知覚ニ……触レ」仕方で、すなわち「客観的に、また主観的に、内容を満たしつつ」「非常ニ生キ生キト」≫)神ヲ知ルヨウニトノ唯一の招きである」、と述べた。すなわち、カルヴァンは、ここでは、知識を、「人間ノ精神ノウチニ生マレナガラニシテ入レラレテイル神ニツイテノ知識」として理解した。このカルヴァンの部分を拡大鏡にかけて全体化し、自分の自然神学を、「すこぶる宗教改革的」であり、「全くカルヴァンの思想に近い」、その神の像の形式的側面に関する思想と「『ほとんど全く』同じ」と述べたのがエーミル・ブルンナーである。しかし、カルヴァンのその思惟と語りは、「ただ、後で、聖書によって仲介され、イエス・キリストにあって実現された神認識として記述されることの先取り」でしかなかったのである。したがって、ブルンナーは、トータルなカルヴァン像の把握に失敗したのである。カルヴァンの根本的包括的な原理的な把握に失敗したのである。このような訳で、バルトは、『ナイン!――エーミル・ブルンナーに対する答え』でブルンナーに対して、次のように根本的な批判を加えている――@カルヴァンは、「天地万物からする神認識とキリストの中での神認識との二つの神認識について語った」が、啓示神学に対して、それをも規定し得る「独力で立」った「堅固な下部構造」の人間に固有な「結合点」を主張したブルンナーとは違って、啓示に対するまたキリストの中での新生活に対する「結合点を見出していない」。すなわち、「聖書以外にさらに聖書を補う別な啓示の根源を、理性や歴史や自然の中に何とかして求め」、それらに独自性を与えて、「後から追加的に『何らかの仕方で』……発言せしめる」ことをしていない、Aカルヴァンの認識のベクトルは、ブルンナーと違って、「天地万物の中における神認識」は、「キリストの中における神認識そのもの」において可能であるとしている、B因みに、ブルンナーの言う「神的汝をあこがれ求めている理性」は、「自信過剰」の半減された「近代的精神」ということであるが、しかしそれも結局は人間の自由な自己意識・思惟・理性のことでしかないのであるから、それは、神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張もという含みを多分に持った新たな神との「共働者」関係の構築を目指すそれのことなのであり、それゆえにここでも「ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇する」(『ヘーゲル』)のであり、それゆえにブルンナーは、「信じる者は、……『自分の理性や力(≪意志力、感情力、自然を内面の原理とする修行等≫)によっては』……全く信じることができないことを知っており、それを告白する」(『福音主義神学入門』)ということを明確に告白できないところの、自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教<者>なのである。また、このバルトは、『教会教義学 ~の言葉T/1・2』では、アウグスティヌスに対して、次のような根本的な批判を加えている――「存在するものそのもの」、「その純然たる造られた存在」に依拠したアウグスティヌスの「造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」という語り方に対して、バルトは、そのような三位一体の跡は、~と人間との無限の質的の下で「世界に対して超越する創造神の跡」として理解することはできない、それはただ単なる人間の自己意識・思惟によって対象化された人間自身の自己認識・自己理解・自己規定すなわち人間自身の「内在的に理解」された「宇宙の諸規定・人間的な現実存在の諸規定」・「単なる宇宙論や人間論」でしかないものである・したがって、そのような三位一体論は、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、「復活され高挙されたキリストの霊」である「聖霊の証しの力」に「信頼しない」人間自身に基づく「人間の世界理解の、最後的には人間の自己理解」・「神話」でしかないものである・このような訳で、教会の宣教、その神学を、「ただ(≪起源的な第一の形態の~の言葉≫)啓示の中にのみ基礎づけ」るために、「罪深い曲がった人間」の「究極的な限界性」を自覚した知覚と概念を用いて把握する人間の言語を前提として、具体的に第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言(啓示の「概念の実在」)に信頼し固執し連帯したバルトは、「三位一体を、世界から説明しようと欲」しないで、逆に、「世界を三位一体から説明せんと欲」したのである。すなわち、アウグスティヌスの「被造物ノ中デノ三位一体ノ跡」という思惟と語りに対して、バルトは「三位一体ノ中デノ被造物ノ跡」と思惟し語ったのである。いずれにしても、「現実の神認識の客観的根拠」は、「天地創造の中で啓示された神ノ力ガ、堕罪の故に、生まれながらの人間には事実隠されたままであり、その結果、自然的な神認識の形でのまことの神認識にまで」到達することができないことが「実際的問題」としてある時、換言すれば「天ト地トヲ洞察サセルコトニヨッテ、神ガスベテノ人ヲゴ自分ニ招カレテモ意味ガナイ時」、第二の形態の「聖書(≪単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちのその人間性と共に神性を賦与され装備されたイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、客観的な啓示の「概念の実在」≫)の中で証しされているイエス・キリストにあっての神の啓示(≪起源的な第一の形態、客観的な「啓示の実在」そのもの」≫)」こそがそれであり、それゆえに具体的には第二の形態の聖書的啓示証言を媒介・反復することを通してのみ「客観的に……、今や神ガソノミワザ(≪単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、性質、業と行為≫)ニオイテ正シク、生キ生キトワレワレニ描キ出サレル」ということであり、それゆえに「ソコデハ、神ノミワザ(≪神の第二の存在の仕方≫)ソノモノガ、ワレワレノ判断ノヨコシマニヨッテデハナク、永遠ノ真理ノ尺度ニヨッテ評価サレテイル」のである。教会の宣教、その神学の、原理・規準・法廷・審判者・支配者は、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言(「啓示の実在」そのものの直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」)なのである。信仰の認識としての「すべての現実の神認識の原則」は、第三の形態に属する全く人間的な教会(そのすべての成員)にとっては、あの~の言葉自身の出来事の運動――すなわち啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、具体的には~の自由な恵の決断による第二の形態の聖書的啓示証言における客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて与えられるという点にあるのである。これが、最後的にカルヴァンが到達した神認識の原則である。「イッサイノ正シイ神認識」は、聖書的啓示証言を教会の宣教、その神学の原理・規準・法廷・審判者・支配者とする、他律的および自律的「服従カラ……生マレル」。「真実ナ知識ハ、(≪具体的には、あの祈りの中で聖書的啓示証言を媒介・反復することを通して≫)神ノ御声ヲ聞コウトスル敏捷ナ積極的態度カラハジ」まる。この時、「ワタシタチガ神を知ルトスグ神ヲ愛スル(≪キリストにあっての神を尋ね求める≫)ヨウニナルノハ、タダ神ノ本性カラ由来スルダケデハナク、ワタシタチノ悟性ヲ照ラス聖霊自身ガ、ワタシタチノ心ノ中ニモ知識ト一致スル愛(≪終末論的限界の下で、キリストにあっての神を尋ね求める、純粋な教えを求める「神への愛」≫)ヲヨビ起コシテ下サルカラデアル」。「シカシ神ヲ知ルコトニヨリ、ワタシタチハオノズカラ神ヘノ恐レト愛トニ導カレル」。「ナゼナラバワタシタチハ、神ノ従順ナ子デアリ神ヘノ義務ヲ果タス僕デアルコトヲ示スコトナク、自分ノ側カラ神ヲ主トシテ、マタ父(神ゴ自身ガ言ッテイルヨウニ)トシテ認識スルコトハデキナイカラデアル」。神がその自由な恵の決断において、その意志において、「われわれ」人間へと向かう、その内在的な他在性・対他性(存在の仕方)の顕現化、外在化、対象化、客体化を通して、「ご自分をわれわれに対し認識するよう与え給い、われわれが神のこの意志に服従する(≪他律的な服従と自律的な服従の同在性において服従する≫)ことによって、神はわれわれによって認識され給う」という、カルヴァンにおける「現実の神認識の遂行の……循環」は、「明らかに……旧約聖書および新約聖書の中で神認識と呼ばれていることと正確に対応している」。「この循環の外では、聖書によれば、神認識は存在しない」。なぜならば、「すべてのこと」は、すべての神認識は、先ず以て、「この神が先立ち行き給うということ(≪イエス・キリストによって啓示され定められた道≫)によってもってかかっている」からである。「そのようなわけで、すべてのことは(≪すべての神認識は≫)同じように、(≪その後から≫)人間が……(≪イエス・キリストによって啓示され定められた道を≫)共に進み行くということによってもってかかっている」。「イエスは、ヨハネ一四・六によれば、ご自分のことを何らの修飾語も伴わずに道と呼び、それから真理と生命、すなわち啓示と救いと呼び給う」・「父ト子ヨリ出ズル御霊」――「復活され高挙されたキリストから降下し注がれる霊」である「聖霊降誕日の後、イエスの名の宣べ伝えとその名を信じる信仰は、明らかに広い範囲にわたって、……『この道』と言われている(使徒行伝九・二、二二・四、二四・一四。なおUペテロ二・二を参照せよ)」。したがって、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方(性質、業と行為、~の言葉、啓示・和解、客観的現実性・客観的実在、「永遠的実在」としての完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和)であるまことの神にしてまことの人間「イエス・キリストの名」こそが、すべての人間の、その個・現存性と類・歴史性の生誕から死までのすべてを見渡せる場所であり、それゆえに「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所であり、またキリスト教信仰・神学・教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」、「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」(カール・バルト『ヨブ』ゴルヴィッツアー編)ことが見渡せる場所なのである。このバルトは、確信を持って明確に、「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、いま一つの事実、すなわち彼は神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々に語っている、ということである。(中略)聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している(『ローマ書』)と述べ、最終的に離脱した宗教的社会主義における「そこでの人間の困窮と人間に対する助け」は、「聖書が理解しているほどには、真剣に理解されておらず、深く理解されて」(『証人としてのキリスト者』)いなかった、と述べたのである。
 このような訳で、それぞれの時代、それぞれの世紀、それぞれの世代において、ある不可避的な歴史的現存性のただ中に現存する第三の形態に属する全く人間的なキリスト教会のすべての成員にとっては、キリスト教に固有な類・歴史性として存在している、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、客観的な対象として与えられ存在している、啓示認識における必然性不可避性としてある「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の~の言葉、イエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのもの、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示初源における~の言葉、イエス・キリスト、客観的な啓示の「概念の実在」――この「~の言葉(神のその都度の自由な恵の決断による、~の言葉自身の出来事の運動)に拘束された神認識」が問題なのである。神認識は、~の側からする、「~が人間にとって対象となり給う」という信仰の認識である。したがって、その対象は、信仰の認識として神認識する人間を、「他から分かち、聖化する」「特別な対象」である。「それであるから、神認識は必然的に、そのほかの出来事との関連の中で、際立った出来事」である。「神のこの対象化は……神のみ業の形態(≪父、子、聖霊という存在の仕方における創造、和解、救済≫)の中で起こる」。単一性・神性・永遠性を本質とする~の、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の、神認識ではなく、単一性・神性・永遠性を本質とするその存在の仕方(その性質、業と行為)を媒介・反復することを通して得られる「間接的な神認識」である、換言すれば具体的には、神のその都度の自由な恵の決断による、第二の形態の聖書的啓示証言における客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての神認識(「神の自由な恵の賜物」)である。したがって、このような信仰の認識としての神認識は、神の自由な恵みの決断――すなわち神的決断の<行為>に対して、人間の「服従の決断」――すなわち人間的決断の<行為>において遂行されるのである。言い換えれば、この場所では、「勝手気ままな」恣意的独善的な主観<主義>の立場に立脚することはできないのであり、また第三者的な客観<主義>の立場に立脚することもできないのである、すなわち両者の立場に身を置くことはできないのである。

 

 これまでの論述は、「神の前での人間」、その「人間から見た場合の、~の言葉に拘束された神認識の遂行である」。したがって、次には、そのような拘束された神認識の遂行について、「人間の前での神」、その「神から理解しなければならない……」。「当然のことながらこの拘束された神認識」も、「ひとつの人間的な立場」であり、「人間的な主張であり、実質的にひとつの人間的な命題である」。したがって、この立場、主張、命題は、ほかの人間的な立場、主張、命題に対して、「特別な優越性と保証」を「要求することはないのである」――「いや、(≪それは、≫)ほかの人間的な立場と比べて同等の権利を持つことさえ証明しようとしないで、自分自身をただそのままあれらの人間的立場……に置く点で……すべての人間的な立場と比べて、さらに要求するところの少ないものである」。この立場は、人間的な理性や寛容さを介した、あるいは人間的な意志を介した、あるいは政治的な調整を介した、あるいはヘーゲル的な共同性価値論に基づく「脱中心化された公共的意識」により百人百様の分裂と動態化を惹起させた西欧社会における近代主義的法概念の再構成による法制的な共同体の統括力の回復の試み――「近代の未完のプロジェクト」の完成、すなわち憲法を法制的中枢とする法体系の中での生得的に有する自然権である自由と平等(自己意識の対自性、理性・思惟としての個人の関わり方、主体的な関わり方)と、国民主権(自己意識の対他性、普遍妥当的な相互承認と相互制約による共同性構成)との内的連関付けにおける「討議によって産出されるコミュニケーション的権力」( J ・ハーバーマス『事実性と妥当性』)等を介した、時代が強いる多様性の容認や多元主義の容認、換言すれば党派性の容認や多元主義的党派性の容認とは全く違っている。バルトの言う立場とは、次のような位相にあるものである――@「(≪私は・私たちは、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間「イエス・キリストの名」、この客観的な「啓示の実在」そのもの、~の言葉、具体的には聖書的啓示証言におけるそれ、すなわちその直接的な最初の第一の客観的な啓示の「概念の実在」、この≫)一つの事柄に仕えなければならないのであって(≪この一つの事柄に仕える立場に立たなければならないのであって≫)、ひとつの党派(≪学派、教派、思想傾向、文化的傾向、経済的政治的傾向、時流や時勢、社会的あるいは政治的な言説や実践等≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、(≪あれら≫)別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)、A「対立する双方に真理があるというような(≪党派的な、多元主義的な≫)俗説が、世界史的に流布され、流通している」中で、自らの立場において、両者を包括し「止揚しなければならないということが思想的な問題」である(吉本『思想の規準をめぐって』)、それぞれの価値規定を伴いながら差異性として流布され流通している、知と非知を、信と不信を、キリスト者(教)と非キリスト者(教)を、何々と何々を、自らの立場において包括し止揚して、それら両者を架橋しなければならないということが「思想的な問題」である(キリスト教には、多くの教派があり、多くの主義があるけれども、ほんとうは――すなわち根本的包括的には原理的には、自然神学の系譜に属するそれか、それとも<非>自然神学に属するそれか――すなわち自然神学の系譜に属するすべての信仰・神学・教会の宣教を根本的包括的に原理的に止揚し克服した<超>自然神学に属するそれか、しか存在しない)。したがって、この「~の言葉に拘束された神認識」の立場は、「その実在と可能性を(≪起源的な第一の形態の~の言葉、イエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのもの、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリスト、客観的な啓示の「概念の実在」の≫)外から問わせない」ところの立場であり、他律的な服従を強いる立場である。したがって、あの神の言葉自身の出来事の運動、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、~のその都度の自由な恵の決断による第二の形態の聖書的啓示証言における客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰としての神認識、三位一体論の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての「~の言葉の三形態」における関係と構造・秩序性(その起源的な第一の形態、具体的には第二の形態は、第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者である)、に信頼し固執し連帯する立場は、「本質的である」。したがって、「もしも何かそれと別なことが起こっている時には」、その「人間的な立場は既に解釈し曲げられており、裏切られ、結局、除去されてしまわなければならないであろう」。神と人間との無限の質的差異の下にある、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性の下にある、それゆえに終末論的限界の下にある「われわれは、~の言葉に拘束されている神認識」を、「徹頭徹尾人間によって規定されたのではなく、徹頭徹尾その対象としての神によって規定された出来事として理解しなければ」ならない、「神が、この出来事の中でご自分を人間から区別し給う(≪神はその都度の自由な恵みの決断により、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰として神認識を与え給う≫)」、「また神がこの出来事をほかのすべての出来事から区別し給う」。したがって、そうでないならば、その神認識が「どんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫したもの」であっても、それは形而上学な知識としてのそれであって、それゆえにそれは終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰としての神認識ではなく、それゆえにそれは自然神学の系譜に属する「単なる知識」としてのそれなのである。そのアジア的日本的な典型が、天台本覚論に依拠したと言える近代主義者の滝沢克己である――「もはやいかなるキリスト者も、『聖書』や『イエス・キリスト』という名を記憶している人たちさえも、もはやこの地上のどこにも残っていないとしても、それでもなお、「神われらとともに」 という事実(Faktum)にわたしたちが堅く結びつけられているということそのことは、神において永遠に決定されていることなのだ」 (『カール・バルト研究』)。