本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十五節 ~認識の実現」「一 神の前での人間」(その2−2)−1

カール・バルト『教会教義学 神論T/1 ~の認識』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十五節 ~認識の実現」「一 神の前での人間」(その2−2)−1 (26−54頁)

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしておりますが、引用の不備や誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)(また、今回以降、indemについてだけは、井上良雄的に「……することによって」というように引用し直しています)

 

「二十五節 ~認識の実現」
「二十五節 ~認識の実現」について、バルトは、次のような定式化を行っている。
 ~認識は、~の言葉の啓示が聖霊を通して実現される中で、起こる。したがって、信仰と信仰の服従の実在の中で、また信仰と信仰の服従の必然性をもって、起こる。~認識の内容は、われわれがすべてにまさって愛することがゆるされるが故に、すべてにまさっておそれなければならない方、またその方自身われわれに対しご自身をそのように明らかに示し、また確かなものとなし給うたが故に、われわれにとって秘義であり続ける方、の現実存在である。(3頁)

 

〔この定式の詳述〕
 この定式の詳述については、『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十五節 ~認識の実現」「一 神の前での人間」(その2−1)−1で行っていますので、参照してください。

 

註:「啓示の認識原理」であり「教会の宣教の批判と訂正」の規準・原理・法廷・審判者・支配者である<三位一体論>の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)、を参照してください。

 

一 神の前での人間(その2−2)−1
 第三の形態(キリスト教会)に属する全く人間的なバルトは、第二の形態の聖書的啓示証言を媒介・反復することを通して得られた、「自由」・「主権」は「~ご自身においてのみ実在であり真理である」(『教会教義学 ~の言葉T/1・2』)という啓示認識・啓示信仰――すなわちこの信仰の認識としての神認識に基づいて、次のように述べている。
 自在であって他在、対自的であって対他的、全き自由の「神は、まず第一に、……ご自身を認識(≪単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神として自己認識・自己理解・自己規定≫)し給うことが確かである限り、まず第一に、……(≪単一性・神性・永遠性を本質とするというその内在性において、その内的本質において≫)自分自身に対して(≪内在的に、父、子、聖霊として≫)対象的であり給う」、すなわち「自分にとって<直接的>に対象的であり給う」。言い換えれば、全き自由の自在性(対自性)としての~、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする~、単一性・神性・永遠性を本質とする~、その~である父は、自己啓示する神として、全き自由の他在性(対他性)としてのその存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動)において、子として「自分を自分から区別」(子の中で「創造主として、われわれの父」として自己啓示)するし、自分自身が<根源>である、それゆえにその区別された子は父が<根源>であり、愛に基づく父と子の交わりである聖霊(「父ト子ヨリ出ズル御霊」)は父と子が<根源>である。この事柄について、バルトは、『教会教義学 ~の言葉T/1・2』においては、「父なる名の内三位一体的特殊性」と呼んでいる。この単一性・神性・永遠性を本質とする~は、人間のために人間に対して、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする自らを、~と人間との無限の質的差異の下で、終末論的限界の下で、その~の三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動)において、表現、<顕現化>、<外在化>、<対象化>、<客体化>したのである(それゆえに、受肉は、~の<神性>の受肉ではなく、~の<言葉>――すなわち~の<存在の仕方>の受肉である)。このような訳で、~の神性が「肉となった」(まことの人間となった)のではなく、~の言葉(神の存在の仕方、業と行為)が「肉となった」(まことの人間となった)――すなわちナザレのイエスという「人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」となったのである、換言すれば単一性・神性・永遠性を本質とする~は、この~の第二の存在の仕方において、「和解」(まことの<人間性>が和解を生じさせるのではなく、まことの<神性>が和解を生じさせるのである)という第二の神的行為(業・行為)を遂行したのである。このように、「まさに顕サレタ~こそが隠サレタ~」なのである(『教会教義学 ~の言葉T/1・2』)。したがって、この~の自己啓示は、「イエス・キリストの名」において、その本質である単一性・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示なのである、イエス・キリストの死と復活の出来事においてインマヌエル(神、われら罪人と共にい給う)の認識と信仰を要求する啓示なのである。しかも、終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間のその認識と信仰(啓示認識・啓示信仰)は、その「承認と受認」は、神の恩寵を嫌悪し回避する存在である現実的な人間存在(『福音と律法』)のただ中で、また「『自分の理性や力(≪意志力、感情力、自然を内面の原理とする修行等≫)によっては』全く信じることができない」現実的な人間存在(『福音主義神学入門』)のただ中で、あの~の言葉自身の出来事の運動――具体的には神のその都度の自由な恵の決断による聖書的啓示証言における客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて与えられ初まるのである。この単一性・神性・永遠性を本質とする~は、イエス・キリストの父(その~の起源的な<第一の存在の仕方>――<父>なる神、<創造主>としての~、永遠の<父>)、子としてのイエス・キリスト自身(その~の<第二の存在の仕方>――<子>なる~、<和解主>としての~、永遠なる<子>)、父と子の霊である聖霊(その~の<第三の存在の仕方>――<聖霊>なる~、<救済主>なる神、永遠なる<霊>)――このような三位一体の神として自己啓示したのである。このように、聖書的啓示証言の本来的テーマは、三位一体の第二の存在の仕方である「子なる~、キリストの神性を問う問い」の中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル御霊」・「聖霊を問う問い」とが包括されている点にある。この単一性・神性・永遠性を本質とする、「父は子の父」――「言葉の語り手」、「子は父の子」――「語り手の言葉」、「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊は父の存在の仕方と子の存在の仕方の交わりであり、それは神と人間との交わりの根拠である、すなわち客観的な「啓示の出来事の中での主観的側面」――神の側の真実としてある客観的な神の恵みの出来事の人間的主観への実現の根拠である。言い換えれば、それは、~の側からする、神と人間との出会い、~と人間との架橋、の根拠である。この単一性・神性・永遠性を本質とする全き自由のその他在性・対他性(存在の仕方)の顕現化、外在化、対象化、客体化において「われわれ(≪人間≫)に出会う神」である父、子、聖霊の三つの存在の仕方は、「啓示者、啓示、啓示されてあること」、「神の聖(≪隠蔽≫)、あわれみ(≪顕現≫)、愛(≪父・隠蔽と子・顕現の愛に基づく交わり≫)」、「聖金曜日、復活日、聖霊降誕日」、「創造主なる神、和解主なる神、救済者なる神」という三つの「存在の仕方」に対応している。ここで「啓示されてあること」とは、神のその都度の自由な恵の決断による、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて与えられる啓示認識・啓示信仰の現存、現実的な事実、また客観的な対象として与えられ存在している「~の言葉の三形態」における起源的な第一の形態の~の言葉、「イエス・キリストの名」、「啓示の実在」そのもの、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉、「イエス・キリストの名」、啓示の「概念の実在」、そしてこの聖書的啓示証言を媒介・反復することを通した、それに聞き教えられることを通した第三の形態に属する全く人間的な教会の客観的な信仰告白・教義――すなわち、キリスト教に固有な類・歴史性、キリスト教に固有な類の歴史的連続性を意味しているのである。言い換えれば、このことは、「それ以前に語られた神ご自身の言葉(≪起源的な第一の形態の~の言葉、「啓示の実在」そのもの、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉、啓示の「概念の実在」≫)……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、そういう仕方で「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」であるということであり、それゆえにそれぞれの世紀・それぞれの世代における個性や時代性の刻印は、ある不可避的な歴史的現存性を生きることを強いられた個体(そのキリスト教会のすべての成員における個体)およびその個体的自己としての成果の世代的総和(類)におけるそれなのであって、それゆえに第三の形態に属する全く人間的な教会においてはオリジナルな信仰告白・教義というものはないということなのである。
 さて、この全き自由の「~の三位一体的な生そのものの中」で、すなわち神のその内在性において、「対象性(≪単一性・神性・永遠性を本質とする神の区別を包括した自己同一性における三つの存在の仕方である父、子、聖霊――「~の主要な対象性」≫)」と共にその「認識」(≪三位一体の神としての神の自己認識・自己理解・自己規定≫)」は、第三の形態に属する全く人間的な教会の「われわれにとって」は、次のような意味で、「間接的に対象的」である――すなわち、それは、第三の形態に属する全く人間的な教会の「われわれにとって」は、~と人間との無限の質的差異の下で、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性の下で、それゆえに終末論的限界の下で、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、客観的な対象として与えられ存在している、必然性不可避性としてある起源的な第一の形態の単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるナザレのイエスという「人間の歴史的形態」――「イエス・キリストの名」、客観的な「啓示の実在」そのものと、あくまでも具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言におけるそれを教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返し、それを媒介・反復することを通して、換言すればそれに聞き教えられることを通して、はじめて間接的媒介的反復的に同一となる(間接的媒介的反復的に出会う)ことができる、という意味で「間接的である」。なぜならば、第三の形態に属する全く人間的な教会の「われわれ」は、~と人間との無限の質的差異の下で、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする~の不把握性の下で、それゆえに終末論的限界の下で、全き自由の~の恵の決断による、~の側からする、~の人間との架橋――すなわち人間に対する、単一性・神性・永遠性を本質とする~の内在的な存在の仕方(他在性、対他性)の顕現化、外在化、対象化、客体化された対象そのもの(「啓示の実在」そのもの)の<しるし、証言>――すなわち具体的には、その<対象そのもの>の直接的な最初の第一の聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」を、教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、対象とするからである。信仰の認識としてのキリストにあっての神認識については、この方法以外の方法はあり得ないのである。したがって、バルトは、『バルトとの対話』で、「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」・「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」、と述べたのである。このバルトの思惟と語りは、次のような現実性と妥当性のある根本的包括的な原理的なキリスト教批判を為したフォイエルバッハやハイデッガーの思惟と語りと同じ位相にあるものである――@「『今日まさにこのマールブルクでは、(≪前期ハイデッガーの哲学原理に依拠したブルトマンやブルトマン学派において≫)無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」(木田元『ハイデッガーの思想』)、A「(中略)神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」・「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自 己自身にとって対象的な感情である」(『キリスト教の本質』)。このような訳で、第三の形態に属する全く人間的な教会(その成員)にとっては、神と人間との無限の質的差異の下で、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする~の不把握性の下で、それゆえに終末論的限界の下で、キリスト教に固有な類・歴史性(それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、客観的な対象として与えられ存在している「神に言葉の三形態」における関係と構造・秩序性)という「被造物的な対象性と認識」――すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする「~とは区別された」「われわれ、被造物に適した形式」、換言すれば「~の主要な対象性の中にその対応と根拠を持っている」「~の副次的な対象性」と「認識」が、具体的には聖書的啓示証言(客観的な「啓示の実在」そのものしるし、証言、客観的な啓示の「概念の実在」)における「~の副次的な対象性」と、それを教会の宣教の原理・規準・法廷・審判者・支配者とする「認識」が問題である。このような訳で、第三の形態に属する全く人間的な教会(その成員)において、あの「~の主要な対象性」と「認識」は、神と人間との無限の質的差異の下で、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする~の不把握性の下で、それゆえに終末論的限界の下で、教会の宣教におけるあの「~の副次的な対象性」と「認識」が「存在する以前に」、「神的な実在」であり、「神的な実在」であり続けるのである。したがって、近代主義者受けする言葉で、「われわれは『天にいる神』(≪内容的に、父としての神≫)をほんとうに信じていませんが、ほんとに信じていないことを口にしてはいけないというのが、キリスト教信仰の第一の前提です」と『はじめての宗教論』で述べた佐藤優が、神の恩寵を嫌悪し回避する存在である現実的な人間存在や「『自分の理性や力(≪意志力、感情力、自然を内面の原理とする修行等≫)によっては』全く信じることができない」現実的な人間存在ということを明確に念頭に置いたバルトの『教会教義学 神論』について、根本的包括的に原理的に論じられる訳がないのである。言い換えれば、佐藤の場合、その最初から誤謬は必然であるから、佐藤は、その誤謬にメディア的組織性や普遍性の後光をかぶせて語っているだけなのである。したがって、佐藤の場合は、メディア的組織性を使って、人々にバルトを誤解させ、バルトに迷惑をかけているから、全くたちが悪いのである。このことは、マルクスの『資本論』「第1版の序文」(マルクスの一貫した重要な立場)を全く理解しないまま述べた『希望の資本論』における佐藤の言葉が、メディア的組織性を使って、人々にマルクスを誤解させマルクスに迷惑をかけているのと同じである(私のホームページにある<池上彰×佐藤優『希望の資本論』(朝日新聞出版)から垣間見ることのできるメディア的知識人およびメディア的著述家の知識の位相について>を参照されたし)。マルクスは、『資本論』「第1版の序文」で、「私の立場は、経済的な社会構造の発展を自然史的過程として理解しようとするものであって、決して個人を社会的諸関係に責任あるものとしようとするものではない。個人は、主観的にはどんなに諸関係を超越していると考えていても、社会的には畢竟その造出物にほかならないものであるからである」、と述べている。私意・私利を精神とする近代市民社会は、さまざまな考え方や主張や利害が対立した社会であるから、ある状況的契機さえあればすぐに利己主義的な他者との対立と争いの生活が、他の利害共同性との対立と争いの生活が、惹き起こされる。したがって、そこには、あたかもそのような対立と争いがないかのように擬制する議会制民主主義に基づく法的政治的な共同性が、すなわち<第一義化><価値化>された観念の共同性を本質とする政治的近代国家が聳え立つのである。そこでは人は、社会的現実的には不平等であっても(なぜならば、社会的現実的には解放されていないから)観念的法的には平等であり得る、社会的現実的に不自由であっても(なぜならば、社会的現実的には解放されていないから)内在的恣意的には自由であり得る。しかし、全き自由は、<第一義化><価値化>された観念の共同性を本質とする議会制民主主義に基づく政治的近代国家、自由主義国家にある(なぜならば、自由主義国家は、信教の自由が保障された宗教からの国家の解放であって、共同宗教からの現実的人間の解放ではないからである。それゆえに、この、国家共同性を第一義・価値とする国家形態は、<自然神学>の系譜に属する世俗化した共同宗教としてのキリスト教の最後的形態である)。したがって、このことからする人間的な革命の課題は、過渡的課題(現実的な社会を第一義・価値として、国家をどこまでも国民に開いていく課題)と究極的課題(観念の共同性を本質とする国家を包括し止揚し克服した、人間の社会的現実的な究極的総体的永続的な解放)の提起を要求するのである。したがって、例えば、その思惟と語りにおいて「普天間飛行場の無条件返還・撤去」と「辺野古移設反対」を主張している現地沖縄の人たちは、このような矛盾に満ちた観念の共同性を本質とする政治的近代国家を実感的に認識でき得ているに違いないのである。福島第一原発事故で福島県から横浜市に自主避難した児童(現在は中学生)に対するいじめ問題について、原発事故の結果として起こっていることを問題(教育委員会や教師集団や一部児童やその親の問題)として扱うだけでは一面的であって、片手落ちであって、それと同時的に(なぜならば、そこに原発がなかったならば、そうした児童に対するいじめは起きなかったのであるから)、原発問題の本質的な課題も提起すべきなのである。@先ず、教育現場におけるいじめや嫌がらせや差別について言えば、文科省の役人や自治体の教育委員会の職員たちや教育評論家たちや教職員たち等は、今話題の森友学園問題においても、学校や教育は性善説を前提としていると言うけれども、人は性善だけをあるいは性悪だけを生きるのではなくて性善と性悪の総体を生きるのであって(なぜならば、親鸞の言う通り、往相的観点の即自的な自己欺瞞に満ちた市民的観点・市民的常識に依拠するのではなくて、その観点から対象的なって距離をとった還相的観点に依拠すれば、現実の事実として、たとえ宗教者、知識人、教育者、警察官、善人、誰であろうと、現実的な戦争とか愛憎問題とか利害対立とかの不可避な「機縁」さえあれば、自分が意志しなくとも、人一人だけでなく多数の人を殺し得るから)、私の小学校の頃からずっと見てきた限り、事実、教員同士でも、学校職員同士でも、教員と児童・生徒間でも、児童・生徒間でも、教授と学生間でも、一般的な職場の人間関係においても、いじめや嫌がらせや差別はあったし・あるのであって、もっと言えば教会の中にもあるのである(関田寛雄『「断片」の神学――実践神学の諸問題』において批判していた問題――すなわち露骨に「後任牧師の選任」基準を、「外国留学」と「学位」においている教会があるという問題等々がある)。また、ミシェル・フーコーが言うように、権力は実体ではなく、「個人間に存在するひとつの個的な関係タイプ」であって、それはある価値基準ある時ある場所において、「聖なる者」と「俗なる者」、「教えるもの」と「教えられるもの」、「正常なもの」と「異常なもの」、「支配されるもの」と「支配するもの」等へと関係を規定する政治的合理性の形態(『全体的なものと個的なもの――政治的理性批判に向けて』)であるから、このことに自覚的でない場合、すぐに、その全く同じ人間的な「聖なる者」・「教えるもの」・「支配するもの」は、<権力>的に「上から目線」になってしまうのである。このように、権力は実体ではないから、「教えられるもの」・「俗なるもの」・「支配されるもの」が「教えるもの」・「聖なるもの」・「支配するもの」へと移行した時、そのことに自覚的でない場合、すぐに、同じ事態を惹き起こすのである。現在に引き寄せて言えば、愛憎問題等を含めて、いじめや嫌がらせや差別が、共通的に、すぐに身体等の<現実的>な<侵害>に向かっているような感じを受ける、喜怒哀楽に何か乾いた感じを受ける。吉本は、『マス・イメージ論』において、情報科学や情報技術の高度化は人間の感覚を研ぎ澄まし、高度消費資本主義社会は現実的な衣食住の日常を第一義としない豊かなイメージ価値を消費する社会として、身体的な肺病等に代わって正常と異常との境界を行き来する精神の病を生み落したと述べているが、そのような感じを受ける――@名古屋大学の女子大生による、2012年(高校時代)に起きた硫酸タリウム殺人未遂事件、2014年(大学時代)に起きた宗教勧誘高齢女性斧絞殺殺害事件は、まさに正常と異常との境界を行き来する精神の病のなせる業ではないだろうか(誰であれ性善と性悪の総体を生きるとしても、そして普通なら異常の領域に入り込んだとしてもすぐに正常の領域の方に戻ることができるのだが、この女子大生の場合は、異常の方にすぐに行けてしまうだけでなくその領域に留まってしまう特性を持っていたのではないだろうか)、A1992年新宿伊勢丹のシャネルで「衝動買い」したときから、「眠っていた欲望が暴走し始めた」。その後、60万円の革のコートを購入するのだが、その代金を「カードで支払った時、すさまじい快感に襲われ」た。「以来、海外ブランド物を買いあさる」。一度に買い込む金額は、100万円、200万円とエスカレートしていき、「印税が底をつき、カードが使用停止」になった。「自宅の水道やガス、電話が料金未納で止められたこと」もあった。「買物依存症」がおさまったとき、今度は「美容整形」に走り、現在「顔で原型をとどめているのは口と鼻先の二カ所だけ」となった。「以前なら年をとれば容貌が劣化し、静にあきらめていけた。現代人はあきらめられない地獄に突き落とされている」。「私は消費社会の漂泊者でいたい」(「朝日新聞」刊、2006年9月22日――この中村うさぎは、正常と異常を頻繁に行き来しているように感じる)、B次に、原発問題の本質的な課題は、それがよきものであれ悪しきものであれ、原発が科学的技術的領域に属しており、それゆえにそれは、自然史の一部である人類史における自然史的過程の進歩発展段階の一つ(自然史的必然)である限り、それゆえに道徳や倫理の問題ではない限り、それを遅延させることはできても停滞させたり逆行させたりすることはできないのであるから、それゆえに最大・最悪の災害や事故に対する技術的な解決策と安全確保と安全管理が可能であれば存立は可能であるし、そのことが不可能であれば存立は不可能であるという問題であるのであるから、ほんとうはそういう事柄について十二分に熟慮して原発行政を推進すべきであったにも拘わらず、そうしないまま場当たり的に原発行政を推進してきた無能で無責任な国の原発行政(制度としての、官僚、政治家、それを主導した資本家)の責任についてもほんとうは同時的に扱わなければならないのである(いつも正義漢ぶっている朝日やNHKを含めてメディアは資本主義社会――政治的近代国家の枠組みにおける法的、制度的、政策的言語を介するだけの御用メディアでしかないから、特に小さな島国の特殊日本においては、あの原発事故問題の責任の所在や原発の技術的問題について徹底的に究明されることなく曖昧にしたまま終わってしまった・それゆえに「原発事故の収束」には予定していたよりさらに費用が嵩むからそれも電力消費者に負担させるという事態になっている・これらのことが、犯罪とはならない仕組みを通して――すなわち議会制民主主義に基づく政治的近代国家における、法の支配の下での法による行政に基づく職能団体・官僚や政治家の法的、制度的、政策的言語を介して為されているのである)。
 前段で述べたように、「ご自分にとって直接的に対象的であり給う」~は、第三の形態に属する全く人間的な教会(その成員)にとっては、それ自身聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、客観的な対象として与えられ存在している「~の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性において(具体的には人間に対する、単一性・神性・永遠性を本質とする~の内在的な存在の仕方の顕現化、外在化、対象化、客体化された<対象そのもの>、「啓示の実在」そのものの<しるし、証言>、すなわちその<対象そのもの>の直接的な最初の第一の聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」において)、「われわれにとっては間接的に<対象的>であり給う」のであるから、「『非対象的な』~認識はそれとして~認識ではない」のである。全き自由の単一性・神性・永遠性を本質とする~は内在的なその存在の仕方において、「(≪その根源である≫)父は(≪父を根源とする≫)子にとって、(≪父を根源とする≫)子は(≪その根源である≫)父にとって、何らの媒介物なしに、(≪直接的に≫)対象であり給う」、自在であって他在であり給う、対自的であって対他的であり給う。しかし、この「~は、その啓示の中で、~がわれわれに対してそのほかの諸対象のしるしと外皮のもとで出会われる」のであるから、具体的には神のその都度の自由な恵の決断による第二の形態の聖書的啓示証言における啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて「出会われる」のであるから、このキリストにあっての神は、第三の形態に属する全く人間的な教会の成員である「われわれにとっては間接的に対象的である」。したがって、「われわれは~を、その衣で覆われた対象性の中で、(≪認識し、≫)信じるのであって、決してその衣で覆われない対象性の中で、(≪認識し、≫)信じるのではない」。このように、人は、~と人間との無限の質的差異の下で、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする~の不把握性の下で、それゆえに終末論的限界の下で、存在しているのである。したがって、「何もかも合点が行く!……誰も彼も合点が行く」時は、キリストにあっての神が「万人を裁いて、万人を赦され」る「最後の日」――すなわちキリストの再臨の日(完成の日)、終末においてなのである(ドストエフスキー『罪と罰』)。したがって、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、客観的な啓示の出来事において「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、神の側の真実としてある啓示の客観的現実性・客観的実在、完了・「成就と執行」、「永遠的実在」としての<「すでに」>と「われわれの経験と感性」(現存する人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍)にとっての<「いまだ」>の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである(『教会教義学 ~の言葉T/1・2』)。バルトにとって人間が現存する場所は、この終末論的な<すでに>と<いまだ>における、キリストの復活と再臨の中間時、和解と完成の中間時、なのである。したがって、中間時における人間は、すでに「自由の身になったという吉報を受け取った」のだが、いまだ「牢獄から外に出てしまっていない」状態にある人間のことなのである(『バルトとの対話』)。神の自己啓示とは、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方である「子あるいは言葉の業」すなわち「神の現臨とご自分を知らせること」が「人間の闇の中で、人間の闇にも拘わらず、……出来事として起こるという事実」のことである。この啓示は、「和解」という言葉(概念)と一致する。それは、「われわれによって破壊された……神と人間の交わりの回復」を意味する。したがって、「啓示の事実の中で神の敵はすでに神の友」として、「啓示そのものが和解」なのである。しかし、聖霊の業に関わる救贖・完成の概念は終末論的用語であるから、和解の概念と一致しない。救贖・完成は、新約聖書においては、啓示あるいは和解から見て、未だ来ていない現実性(キリストの再臨と共に完成される客観的な「永遠的実在」)である。したがって、キリストの「復活と完成との間」は、「父ト子ヨリ出ズル御霊」、復活されたイエス・キリストから降下し注がれる「聖霊の時代」である(『教会教義学 ~の言葉T/1・2』)。このような訳で、「われわれが神を信仰の中で認識するということ」は、@第一の形態の単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」――「イエス・キリストの名」、この客観的な「神の対象性の中でまことに認識する」ということ、A第三の形態に属する全く人間的な教会の成員にとっては、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言におけるそれ、その客観的な「衣でもって覆われた対象性の中でだけまことに認識するということ」、この二重性における認識であるということを意味している。このように、人は、神のその都度の自由な恵みの決断による、聖書的啓示証言における客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく「信仰の認識(≪啓示認識・啓示信仰≫)の中で神の前に立っている」、すなわち「人間は、間接的に神の前にたっている」のである。それに対して、佐藤優は、現実性と妥当性のあるフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの根本的包括的な原理的なキリスト教批判を理解することができなかったために、聖書的啓示証言を即自的に科学<主義>や歴史<主義>の対象へと短絡させ、それゆえに近代主義的な「神学的な操作(≪非神話化等の操作≫)を経ない限り、われわれは古代の世界像をもっているキリスト教を信じることはできない」というように、キリスト教を世俗<主義>化して、最後的には<「権威」>としての「天皇」と政治<「権力」>としての「国家」という<価値>としての支配構成、「国体」(国家共同性)を非歴史的(なぜならば、佐藤の場合、錯誤して、人類史における農耕を経済的基盤としていたアジア的段階の7,8世紀以降の日本、日本人を前提としているのだが、現実の事実は、すでにそれ以前に、原日本、原日本人は存在していたから、換言すれば人類史の原型・母胎・母型であるアフリカ的段階、すなわち縄文的段階が存在していたから)に妄想することになったのである。吉本に依拠して言えば、支配・天皇族の占有する外来の文明や文化(大陸の農耕技術等、律令・ 儒教・仏教等の制度・知識)が、被支配から遠く隔絶されていればいるほど、被支配の関係意識にとってその支配・天皇族は、強力に「願望の対象でありながら、恐れの対象であるという両価性」の心性 =「未開の心性」を持つことになる・そして、そこには、その「両価性」の心性=「未開の心性」に基づく「<制度>的な禁制」(共同幻想)が存在することになる・すなわち、支配・天皇族は、外来の文明や文化の占有による格差の関係性に基づいて権力の構成を行ったのである・そしてその関係性において、被支配は、複雑に重層化され隔絶された天皇制的な諸観念(最下層の共同幻想である自然規定、風俗・習慣、心性、文化等を包摂した天皇制的な宗教、儀礼、法、制度等)を、自らが所有してきたそれ以上のものとして共同的に錯覚することにおいて無意識のうちに支配に取り込まれていくことになった・その場合、価値・第一義性は、それを疎外したこちら側――すなわち現実的な個体や対・家族にではなく、向こう側――すなわち自らが疎外した観念の共同性を本質とする国家共同性にあるように擬制された・このように、水平的な概念である共同幻想としての国家は、垂直的な概念である支配――被支配の関係に転化されて観念の共同性を本質とする国家<権力>となる(『共同幻想論』等)。その思惟と語りにおいて第一級のバルトや吉本隆明や太宰治は次のように述べている――@「(中略)確かに受肉は中心的にして重要なものではあるが……新約聖書の本来的内容であるというふうには言ってはならないのである。(中略)それはおよそすべての他の宗教世界の神話や思弁の中にも見出されるものである(≪なぜなら、農耕を経済的基盤とした人類史のアジア段階の日本の社会において、天皇や宗教家を含めて非農耕民は神人と呼ばれたから≫)。(中略)人は、聖書が語っている受肉を、ただ聖書からのみ、換言すればイエス・キリストの名からのみ……理解することができる。……神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない。新約聖書の内容とは、ただイエス・キリストの名だけであり、そのイエス・ キリストの名がたしかにまた、そしてとりわけ、彼の神人性の真理をその名に含んでいるのである。ただまったくこの名だけが、啓示の客観的現実を言いあらわしている」(バルト『教会教義学 神の言葉T/1・2』)、A神話乃至古代史には「いろいろな解釈の仕方があります。比較神話学のように、他の周辺地域の神話との共通点や相違点をくらべていく考え方もありますし、神話なるものはすべて古代における祭式祭儀というものの物語化であるという考え方もあります。また神話のこの部分は歴史的<事実>であり、この部分はでっち上げであるというより分け方というやり方もあります。そのどの方法をとっている場合でも、この説がいいということは、いまのところ残念ながら断定できません。プロ野球で三割の打率があれば相当の打者だということになるのと同じように、神話乃至古代史の研究において、打率三割ならばまったく優秀な研究者であるとわたしはおもっています。じぶんでそれ以上の打率があるとおもっているやつはバカだとかんがえたほうがいいとおもいます」(吉本『南島論』)・「<奇跡>(中略)たとえば、お前は癒された、立てといったら癩患者が立ち上がった……。 これは自分流(≪文芸批評あるいは思想≫)の言葉でいえば、比喩なんです。比喩の言葉というのは、あるばあいにはストレートな真実の言葉よりもっと真実を語るということがありうるわけで、これを実在論に還元してしまうと、田川健三はそうだとおもいますが、こんなのでたらめじゃないか、こういういいかげんなことを書いてる本だという以外にないわけです。しかし言葉としての聖書というのは、信仰の書として読んでも、文学書として読んでも、あるいは思想の書として読んでも、どんな読み方をしょうと人間をのめり込ませる力があるとすれば、これは叡知じゃないとこういうことは言えないという言葉が、そのなかに散らばっているからです。たとえばイエスが、『鶏が三度なく前に私を否むだろう』と言うと、ペテロはそのとおりなっちゃったみたいなエピソードをとっても、人間の<悪>というのが徹底的にわかっていないとだめだし、心というのがわかっていないとだめだし、同時にこれはすごい言葉なんだというのがなければ、やっぱり感ずるということは いとおもうんです(吉本『<非知>へ――<信>の構造 対話編』)、B「聖書を読みたくなって来た。こんな、たまらなく、いらいらしている時には、聖書に限るようである。他の本が、みな無味乾燥でひとつも頭にはいって来ない時でも、聖書の言葉だけは、胸にひびく。本当に、たいしたものだ」(太宰『正義と微笑』)。
 「父なる名の内三位一体的特殊性」、換言すれば自在であって他在、対自的であって対他的、全き自由の「~の三位一体的な生そのものの中」における、「対象性」――すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする神の区別を包括した自己同一性における三つの存在の仕方である父、子、聖霊、すなわち「神の主要な対象性」は、それと共に「認識」(三位一体の神としての神の自己認識・自己理解・自己規定)は、全き自由な神ご自身の内在的な「対象性」と「認識」である。したがって、この「対象性」と「認識」は、神と人間との無限の質的差異の下で、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする~の不把握性の下で、それゆえに終末論的限界の下で、単一性・神性・永遠性を本質とする神の他在性(対他性)における内在的な神の三つの存在の仕方の顕現化、外在化、対象化、客体化において「われわれに対して与え給う」「対象性」と「認識」とは区別される。「神ご自身の内在的な三位一体の生そのもの」における対象性および認識と、聖書的啓示証言におけるそれ、またその聖書的啓示証言を媒介・反復することを通して与えられる教会の宣教におけるそれは区別される。このような訳で、神ご自身の内在的な三位一体の生そのものの顕現化、外在化、対象化、客体化における対象性と認識は、聖書的啓示証言を媒介・反復することを通して得られる第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教の<客観的>な信仰告白・教義である三位一体論の根拠である。したがって、この<三位一体論>は、<神論の決定的に重要な構成要素>であり、<啓示の認識原理>である。また、「最も単純な形」において<客観的>な「神の啓示の実在を問う」問いに対する「新約聖書の答え」は、「永遠なる神性」を本質とする「まことの神」にして「まことの人間」「イエス・キリストの名」だけである――すなわち、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、神の言葉、~の子、啓示・和解、「啓示の実在」そのものだけである。このような訳で、第三の形態に属する全く人間的な教会においては、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、この~の言葉自身の出来事の運動において、すなわち具体的には、神のその都度の自由な恵の決断による、第二の形態の聖書的啓示証言における客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰を得ることができるのである。この啓示認識・啓示信仰の授与の出来事は、神の側からする人間との架橋である、出会いである。このような訳で、キリスト教会の宣教における、それゆえに教義学における、キリスト教的な「思惟と語り」が、「正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」なのであって、人間自身教会自身の決定事項・裁量事項・自由事項ではないのである。したがって、その神の側からの業と行為に対して、他律的な服従(人間的な決断の行為)と自律的な服従(人間的な決断の行為)の同在性において応答しなければならないのである。
 さて、全き自由の「~の三位一体的な生そのものの中」において、「対象性(≪単一性・神性・永遠性を本質とする神の区別を包括した自己同一性における神の三つの存在の仕方である父、子、聖霊――「~の主要な対象性」≫)」と共にその「認識」(≪三位一体の神としての神の自己認識・自己理解・自己規定≫)」は、第三の形態に属する全く人間的な「われわれにとっては間接的に対象的」であるから、それゆえに「われわれ」は、あくまでも、~と人間との無限の質的差異の下で、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性の下で、それゆえに終末論的限界の下で、「父なる名の内三位一体的特殊性」の顕現化、外在化、対象化、客体化として起源的な第一の形態の~の言葉、「啓示の実在」そのものの<しるし、証言>である第二の形態の聖書的啓示証言における、~の言葉、客観的な啓示の「概念の実在」を、教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返し、それを媒介・反復することを通してキリストにあっての神を尋ね求めること(「神への愛」)、すなわちそれに聞き教えられることを通して純粋な教えを尋ね求めること、こういう仕方で、起源的な第一の形態の単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるナザレのイエスという「人間の歴史的形態」――「イエス・キリストの名」、~の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのものと、間接的媒介的反復的に出会うことができるのである、間接的媒介的反復的に同一となることができるのである。この時、第三の形態に属する全く人間的な教会(その成員)は、終末論的限界の下で、聖書的啓示証言における神の対象性を、「知覚し、直観と概念を用いて把握する」のである。ここで信仰の認識としてのキリストにあっての~の認識(「神認識」)は、「被造物的な実在が(≪聖書的啓示証言を教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それを媒介・反復することを通して≫)神的な対象性を証しするものに定められ、用いられることの中で為される神認識である」。したがって、第三の形態に属する全く人間的な教会(その成員)は、この信仰の認識(啓示認識・啓示信仰)としての「神認識」に「感謝する」し、ただこの「神の業」に奉仕し得るだけなのである、それゆえにその「信仰は、……自分自身の人間的な好みに基づいて神認識を考え出してゆくために」、「恣意的に諸対象を……選びはしない」のである、それゆえにその「信仰は、神を、神ご自身によって選ばれた諸対象の手段を通して(≪具体的には第二の形態の聖書的啓示証言を媒介・反復することを通して≫)認識する」のである、それゆえにその信仰は、単一性・神性・永遠性を本質とするキリストにあっての「神の業」(存在の仕方、~の言葉、啓示・和解、その福音)を「証しする証しに……だけ」用いるのである、換言すれば聖書的啓示証言を媒介・反復することを通してキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」を根拠とした「~の讃美」としての「隣人愛」、すなわちすべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるために、キリストの福音(神の第二の存在の仕方)を「証しする証しに……だけ」用いるのである。このように「礼拝が神ご自身によって可能とされ、必然的とされるところ、そこではどのような偶像礼拝も行われない」のである。このような訳で、第三の形態に属する全く人間的な教会(その成員)にとって、具体的には全き自由の「~の三位一体的な生そのものの中」における「~の主要な対象性」と「認識」の「代わりをつとめる」第二の形態における聖書的啓示証言におけるそれは、全き自由の「父なる名の内三位一体的特殊性」の顕現化、外在化、対象化、客体化としての単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストご自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちの、その人間性と共に神性を賦与され装備されたところの、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」におけるそれであり、それゆえに教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者なのである。したがって、その時、そういう仕方でキリスト教に固有な類・歴史性に信頼し固執し連帯した第三の形態に属する全く人間的な教会(ある不可避的な社会構成・支配構成・文明的文化的構成の歴史的現存性のただ中を生きることを強いられたそれぞれの世代・それぞれの世紀の教会、その成員)は、「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」・「解釈するとは、別の言葉で同一のことを言うこと」という人間的な服従の行為を行っている、というように言うことができる。
 さて、聖書的啓示証言を媒介・反復することを通したバルトにおける、神と人間との無限の質的差異の概念、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする~の不把握性の概念、終末論的限界という概念は、ヘーゲル哲学を根本的包括的に原理的に止揚し克服した概念なのである。言い換えれば、これらの概念を、バルトは、まさに現実性と妥当性のあるフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの根本的包括的な原理的なキリスト教批判(宗教批判)の対象そのものである自然神学の系譜に属するところの、換言すれば「人間の時代」の哲学(『ヘーゲル』)であるヘーゲル哲学に包摂され、<人間>学的な哲学原理・認識論・世界観に包摂され、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に包摂され、時流や時勢に包摂され、近代<主義>に包摂され、最後的には政治的近代国家に包摂されてしまうところの、世俗化した共同宗教としてのキリスト教信仰・神学・教会の宣教を、根本的包括的に原理的に止揚し克服する概念として使っているのである、自然神学の系譜に属するキリスト教信仰・神学・教会の宣教から対象的になって距離をとったところで使っているのである――「哲学、歴史学、心理学等は、この神学的問題領域のどれにおいても、事実上、教会(≪その宣教、それゆえにその教義学≫)の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしなかった」・「神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった」・なぜならば、その場合、「哲学は哲学であることをやめ、歴史学は歴史学であることをやめる」からである、キリスト教哲学は、「それが哲学であったなら、それはキリスト教的ではなかった」し、「それがキリスト教的であったなら、それは哲学ではなかった」からである(『教会教義学 ~の言葉T/1・2』)、と言わなければならないのである。「時間と永遠との『無限の質的差別』……『神は天にいまし、汝は地に在り』。私にとっては、この神とこの人間との関係、ないしはこの人間と神との関係が聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」と書いた『ローマ書』から『教会教義学』までの全著作を通して、バルトは、神と人間との無限の質的差異の概念を貫徹させている。このことを、吉本隆明の『カール・マルクス』に依拠して言えば、「もしも個人の生涯の思想が、処女作にむかって成熟し、本質的にそこですべての芽がでそろうものとすれば」、この『ローマ書』はバルトの「真の意味での処女作であり、かれは、生涯これをこえることはなかったといっていい」。「こえることはなかった」ということは、バルトは、~と人間との無限の質的差異という概念を、処女作から最後の作品まで貫徹したということである。現実の事実としてそうであった。したがって、バルトの一部分を拡大鏡にかけて全体化し<前期>バルト(処女作『ローマ書』におけるバルト)と<後期>バルト(『教会教義学』あるいは『~の人間性』におけるバルト)に区分する論述はすべて一面的皮相的固定的抽象的空論に過ぎないものなのである。バルトは、そういう一面的皮相的固定的抽象的なバルト論に対して、例えば後期の『~の人間性』において、次のような思惟と語りで釘を刺している――「神の神性(≪単一性・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」≫)において、また神の神性(≪単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、「まことの神」として「人間ナザレのイエスが~の子」・「~の言葉」である≫)と共に、ただちにまた神の人間性(≪ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」としての~の第二の存在の仕方、「まことの人間」として「~の子」・「~の言葉」が人間ナザレのイエスである≫)もわれわれに出会う」・「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」・『~の人間性』における「第二の方向転換」としての「神の人間性」の「主文章」化は、『ローマ書』における「第一の方向転換」の「神の神性」の「主文章」化と「対立」関係にあるのではなく、その主文章化と副文章化とのベクトル変容は、あくまでもある時代状況に規定された言表なのである、換言すればそれらのことは、キリスト教に固有な類・歴史性に連帯したところでの、「教会と世」に対する状況への発言を意味しているのである。したがって、バルトの一部分を拡大鏡にかけて全体化したバルト論の一切は、現在的に教会の宣教にとって最善最良の神学を構成したバルトを、人々に誤解させ、バルトに迷惑をかけるものでしかないのである。現実の事実としては、そのような一面的皮相的固定的な思惟と論述の仕方が横行しているから、ほんとうに困ったものなのである。
 「ルターにとって」も、「われわれは、神について語り、聞くときに、神の裸ノ本質あるいは本性と関わるのではなく(≪なぜならば、神と人間との無限の質的差異の下で、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性の下で、人は、徹頭徹尾、「父なる名の内三位一体的特殊性」を、その内在的な本質と存在の仕方を、直接的に対象とすることもできなければ、それゆえにそれを認識することもできないから≫)、神の業(内在的な存在の仕方の顕現化。外在化、対象化、客体化、「イエス・キリストの名」)の衣服、殻、特定ノ外形、仮面と関わらなければならないということ(≪なぜならば、聖書的啓示証言の本来的テーマは、客観的な対象として与えられ存在している起源的な第一の形態の~の言葉、「啓示の実在」そのもの――三位一体の第二の存在の仕方である「子なる神、キリストの神性」を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊を問う問いとが包括されている点にあるがゆえに、具体的には客観的な対象として与えられ存在している、その人間性と共に神性を賦与され装備された第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉、啓示の「概念の実在」を媒介・反復することが必然性不可避性として義務づけられ強いられているから≫)」は、「すべての神認識の原則であった……」。このルターの「原則」に対して、「われわれは感謝」すべきなのである。したがって、「われわれは……(≪近代<主義>、科学<主義>、歴史<主義>等々を前景へと押し出す、自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教における≫)直接的な、非対象的な神認識の方を選びとろうとしてはならない」のである。なぜならば、「そのようなことをするならば、われわれはただ単に神を失うだけでなく、また神を敵として持つという危険を冒すことになる」からである。ルターの「原則」やこれらの事柄についての「主張が、聖書そのものの中で、聖書が信仰として言い表し、宣べ伝えていることに関して、同じように強く強調されているということは、何の疑いの余地もないことである」。したがって、「人が預言者的、……繰り返し出てくる単純な『神はかく言い給う』」ということを、「直接的な、非対象的な神認識」が「存在するということ」の「証明として引き合いに出そうとするとき、そのことはひとつの錯覚」でしかないのである。このことに対して、「出エジプト三三・一一−二三」、ルター的な「原則」が、すなわち「それ以前に語られた神ご自身の言葉(≪神の存在の仕方――性質・業・働き・行為・行動、具体的には聖書的啓示証言におけるそれ――これが、第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教における対象、その原理・規準・法廷・審判者・支配者である≫)……と自分を関わらせている…… 時、正しい内容を持っている」(『教会教義学 ~の言葉T/1・2』)ということが、それゆえにそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としてのキリスト教に固有な類・歴史性に信頼し固執し連帯するという必然性不可避性の事柄が、「対立している」のである。「神は、『すべての神の栄光』をモーセの前に通り行かせ給う」がゆえに、モーセは、その「神の業としるし」という「外皮」の中で、すなわち「父なる名の内三位一体的特殊性」の内在的なその他在性・対他性(存在の仕方)の顕現化、外在化、対象化、客体化の中で、「まさに神が通り過ぎ給う中で、……神の名を聞くようになる」のである。なぜならば、「あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないからである」。キリストの再臨までは、「神がモーセと民に、事実、先立ち行き給う時に、神はモーセを岩の裂け目に入れ、モーセが神をただ後ろから……見ることができるように配置し給う」。このようにして、「神はモーセと『人がその友と語るように、顔を合わせて』語り給う。このようにして、「モーセは神の名を聞くようになり、彼は事実神ご自身によって慰められ、指示を与えられる」。このように、「神の顔を見ることができず」にモーセは、ただ「神が通り過ぎ、先立ち行かれる中で、神の業と行為(≪存在の仕方≫)の中で」、その外皮に覆われた「最高の対象性の中で」、「そのみ業(≪存在の仕方≫)のしるしを通して彼と語り給う」「神を認識する」のである、換言すればモーセも、間接的に神を認識するのである。「聖書の著者たちにとって、人間にその副次的な対象性の中で、そのみ業の中で、現臨され、啓示される神がいつも言おうとされていたことは、暗黙のうちに自明的なことであったということを、前提としなければならない……」。したがって、「預言者的な『神はこのように語り給う』」ということは、「旧約聖書の預言全体」――すなわち「その総内容としてのエジプトからの脱出と共にはじまる神のみ業、イスラエルの歴史の中での神の行動を引き続いて説明するという形での神の宣教以外の何ものもないということ」、すなわち預言者たちにとっても、その神の業と「行動そのもの」の「ただ『後ろから』」、その「副次的な対象性の中で知っているところの神」が「語りかけ給う」ということ、なのである。言い換えれば、その「方の言葉を預言者たちはおうむ返しに語るのであり」、その「方の名を預言者たちは宣べ伝えるのである」。神語り給うゆえに神語り給うことを聞くという出来事は、「直接的な向かい合いの中でではなく、ただ間接的な向かい合いの中でだけ起こるのである」。彼らは、「神によって遣わされた」「神の特別な証人、神的な業(≪存在の仕方≫)の担い手である」。「新約聖書の使信は、ここでもまた(恵みによって起こる)神が通り過ぎ給うということに基づいて、……神の名を宣べ伝えること以外の何ものでもない。メシア、約束されたアブラハムの子、ダビデの子、ヤハウェの僕、預言者、祭司、王が現れた。ただ単に神によって遣わされて現れたというだけでなく、ご自身~の子(≪~の第二の存在の仕方≫)でありつつ現れた」。この「言葉は、ただ神の……その永遠性の対象性の中で現れる」のではなく、「言葉は肉となった」のである(すなわち、その本質である神性の受肉ではなく、その存在の仕方における言葉の受肉である)。新約聖書の証人である使徒たちが、~の第二の存在の仕方(その業と行為)を、「甦えりの光の中で」イエス・キリストのその生誕・その十字架の死・その「僕の姿」・「受難」・「卑下」(その人間ナザレのイエスにおける「神的姿の隠蔽」)を、その「神の栄光」を、「父なる名の内三位一体的特殊性」の内在的な他在性・対他性(存在の仕方)の顕現化、外在化、対象化、客体化を、「神ご自身の現臨と行動」を、「副次的な対象性」として「見た」ということは、「神の外皮、しるし、業」を媒介して、キリストにあっての神と「間接的に向かい合」ったということである(預言者および使徒たちは、神と人間との無限の質的差異を、単一性・神性・永遠性を本質とする神を、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする~の不把握性を、それゆえに終末論的限界を認識していたのである)。すなわち、新約聖書の証人である使徒たちは、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神と、間接的媒介的に出会い向かい合ったのである。「仲保者イエス・キリストの神人性こそ新約聖書の中で宣べ伝えられている啓示と和解の遂行であるということは、新約聖書の信仰の認識は間接的な(まさにそのようにしてこそ現実の)神認識であるということ」である。この~の業と行為(聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする~の不把握性の下で、単一性・神性・永遠性を本質とする神の存在の仕方)から「~を認識する」ということ――この「旧約聖書および新約聖書の中で証しされている信仰認識こそが、今やイエス・キリストの教会の使信の認識内容である」。したがって、この神の自己啓示は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」――すなわち「イエス・キリストの名」(その存在の仕方、性質・働き・業・行為・行動)において、その本質である単一性・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示なのである。第三の形態に属する全く人間的な「教会の使信」が、「教会の主」「イエス・キリストの使信」、すなわちまことの「神であり人であり給う仲保者についての使信である」ことによって、その使信(起源的な第一の形態、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言を教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返しそれを媒介・反復することを通したそれ、それに聞き教えられることを通したそれ)は、直接的な「衣をつけていない純粋な対象性であるようなすべての使信」に「対してはっきりと対立している」のである、はっきりと区別されているのである。すなわち、その「教会の使信」は、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言を終末論的限界の下で絶えず繰り返し媒介・反復するという、「間接性の中で、そのみ業のしるしの中で、その衣をつけた対象性(≪あの「父なる名の内三位一体的特殊性」における内在的な神の直接的な対象性とは同一ではない、区別された、あの「父なる名の内三位一体的特殊性」の内在的な他在性・対他性、存在の仕方の顕現化、外在化、対象化、客体化である起源的な第一の形態を、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言を媒介・反復するという間接的な対象性、副次的な対象性≫)の中で、宣べ伝えるということ」である、換言すればそれは、聖書的啓示証言を原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し為される「間接的な神認識の領域」において「宣べ伝えるということ」である。したがって、このような仕方で、キリストにあっての「神ご自身が……尋ね求められ、見出されなければなら」ないのである、「神をそのみ業のしるしの中で、その衣をつけた対象性の中で、宣べ伝えるということ」である。このように、それは、「信仰の使信であり、信仰への招き、呼び出しである」。すなわち、それは、すべての人々が、キリストの福音を現実的に所有することができるために、イエス・キリストを主・頭とする教会(その成員)が為す、あの「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」、キリストにあっての神に対する奉仕、キリストの福音の告白・告知・証し・宣べ伝えである。したがって、この思惟と語りは、知識一般、世俗一般、宗教一般、人間論一般、人間学一般へと拡散せず、不信や非知や非キリスト者(教)に完全に開かれたキリスト教に固有な類・歴史性を形成するのである。