カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

4.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」

4.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
再推敲・再整理版です。

 

 「本質からして、(≪あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、すなわち啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事に依拠した≫)信仰は、知解を求める信仰である」。したがって、「知解スル(intelligere)」ことは、終末論的限界(Tコリント13・8以下)の下における信仰自身の「必然的」な「渇望」である。したがってまた、われわれは、「まさに信仰の確信を持ちつつ、信仰ノ根拠(fidei ratio)を渇望しなければならない」。言い換えれば、第三の形態の神の言葉に属する教会におけるわれわれは、具体的には第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストにあっての神・純粋なキリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(すなわちキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すべての人々が現実的に純粋なキリストの福音を所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関において「神への愛」を渇望しなければならないのである。「アンセルムスの主観的なcredo〔ワレ信ズ〕」は、第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とする「教会の客観的なCredo(≪教会の<客観的>な信仰告白および教義≫)を、換言すれば人間的な言葉で定式的に表現された諸命題の総和を」すなわち第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者としたそれぞれの個体的自己としての信仰者の成果の世代的総和(類)あるいは世紀的総和(類)、その類の時間性、すなわちキリスト教に固有な教会の<客観的>な信仰告白および教義の歴史性を、「関係点として持っている」。したがって、アンセルムスのそれは、主観性を包括した客観性を持っているから、教会の客観的なCredo(教会の<客観的>な信仰告白および教義)を信じる信仰自身が、「既に知解スルこと」となるのである。この時、「キリストの言葉」は、「『キリストを宣べ伝える者たちの言葉』と同一であるといった具合に、そしてそのこと中で」、「(信仰が信じる)『正しいこと』である」。第三の形態の神の言葉である教会の「キリスト教の宣教の、この人間的な言葉(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とする教会の客観的な信仰告白および教義≫)Credoに対する関係の中で、信ジル(≪主観的なcredoワレ信ズ≫)ことは、知解スルことの前提である」。

 

 このような訳で、「教会の客観的なCredo」を信じる「信仰自身」(「credere des Credo〔クレドーを信ジルコト〕としての信仰自身」)が、「既に……知解することである」。したがって、この主観的な「credo〔ワレ信ズ〕」と「教会の客観的なCredo」(教会の<客観的>な信仰告白および教義)の間の「関係からして、……キリスト者は、信ジルことから知解スルことに向かって立ち上がることができるのか」、換言すれば教会の一つの機能としての「神学が可能であるのかが、結果として生じてくる」、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とするあの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」という連関において「神への愛」を志向し目指すという課題が生じてくる。もしもそうでないとするならば、外在的な組織・制度・建造物としての教会は存在することができるとしても、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に根拠づけられた「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)におけるイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」(活きた共同体)は存在することはできない(「私ガ語ルコトヲ、私ガ理解スルヨウニ助ケテクダサイ」)――「ドストエフスキーの書いた(≪『カラマアゾフの兄弟』の≫)あの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(≪彼の人間的理性や人間的欲求やによって対象化された「存在者レベルでの神」の救いと平和の企て≫)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救い(≪と平和≫)の計画と救い(≪と平和≫)の方法が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである。そのような救い(≪と平和≫)の計画と救い(≪と平和≫)の方法の独断性が、神に余りに僅かしか信頼せず、人間に余りに多く信頼するという点に現われるということは、疑いない」(『啓示・教会・神学』)。神の言葉の第三の形態である教会の全成員の「信仰は、キリスト教の宣教を聞くこととして」――すなわち第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とする教会の<客観的>な信仰告白および教義を聞くこととして、「ソノモノヲ意味シテイル言葉を」――すなわち純粋なキリストにあっての神・純粋なキリストの福音を、「知解ノウチニ」「論理的――文法的に表現された意味関連性」を、「知識(≪ただ「単なる知識」ではない、認識・信仰≫)として知ることである」。しかし、この場合、信仰は、「この〔知識として〕知ることを、……不信仰と共通に持っている」。

 

 「知解ノウチニアルコト以外の何かが……まさに不信仰である」が、換言すれば第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とする教会の<客観的>な信仰告白および教義に信頼し固執し連帯しないことが「不信仰である」が、「この〔知識として〕知ること」は、この不信仰としての側面を持っている。したがって、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とする「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」という連関における神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる「信仰は、どうしても、この知ることを超えて知解ノウチニアルコトニ」、「事柄(≪起源的な第一の形態の神の言葉、啓示者である父なる神の子としての啓示ないし和解≫)ノウチニアルコトヲ知解スルコトが付け加わった宣べ伝えられたことを真理として肯定すること」、「宣べ伝えられたことの本来的な、主要な創始者であり、ご自身真理を、ただ真理だけを、宣べ伝えることができるキリストの故の肯定である」――「コノ同ジ神・人ガ新シイ契約ノ基礎ヲ築キ、旧イ契約ヲ確認シテイルノデスカラ、神・人ガ真実ヲ語ッテイルト告白シナケレバナラズ、誰モ聖書ニ含マレテイルコトガ真理デアルコトヲ、一ツトシテ否定出来マセン」、「マタ私ハキリストノオ言葉ガ正シク、ソノ行為ガ理性的ニナサレテイルコトヲ疑イマセン」。何故ならば、このことは、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)、個体的自己の信仰的成果の世代的総和(類)、その類の時間性、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)が証明している。このような訳で、「神ノ意志ハ、決シテ非理性的デハナイ。したがって、信仰が知解ヲ求メル時に、既に起こった知ることと同じように既に起こった肯定の間の中間の道程を進み行くことが問題であり得るだけである」――「神ガコノヨウニ存在シテイルコトヲ理解シテイル者ハ、神ガ存在シナイト考エルコトハ出来ナイノデアル」。このような「私ガ絶対的信仰ヲヨセル神的権威以外ニハ」、「特定の命題を理性ニカナッタ仕方デ教エル方法」はないのである。第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)を包摂した「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性について認識し自覚していたアンセルムスは、「神的権威そのものの中で」、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」とそのような「神への愛」を根拠とする「神の讃美」としての「隣人愛」という連関において、「神への愛」を志向し目指して行くことができる「十分な理由を見出した」のである。ここにおいては、「知解スルコト」は、教会の一つの機能としての「神学は、可能な課題である」。言い換えれば、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、そういう仕方で純粋なキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求めていくことによってその理解を深化させられ豊富化させられていくというあの「神への愛」――「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関における「神への愛」において、絶えず繰り返し教会となることによって教会であろうとする教会が終末論的限界の下での途上の教会(「活ける主の活ける教団」)であるように、そういう仕方における終末論的限界の下での「知解スルコト」、途上の神学は、「可能な課題である」(Tコリント13・8以下)。