カール・バルト(その生涯と神学の総体像)を理解するためのサイト

3.『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示<上> 三位一体の神』(邦訳76-100頁)

3.『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示<上> 三位一体の神』(邦訳76-100頁)
再推敲・再整理版です。
この教会教義学 神の言葉U1 神の啓示 言葉の受肉』についてさらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります
https://karl-barth-studies3.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。

 

 

三位一体ノ〔痕〕跡
 「三位一体ノ〔痕〕跡」について、バルトは、次のように述べている――「(中略)聖書の啓示概念は、その分析を最も単純な分析へと徹底させてゆけば、父と子と聖霊として三重の神が一人の主である」ことが、「三位一体論の根である……」。すなわちイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、ご自身の中での神としての「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神であることが、「三位一体論の根である……」。何故ならば、ご自身の中での神としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における三つの存在の仕方、すなわち起源的な第一の存在の仕方である父(子としてのイエス・キリストの父)は、子(イエス・キリスト自身)として「自分を自分から区別する」し、自己顕現・「自己啓示する神」として、「自分自身が根源」であり、その区別された子(子としてのイエス・キリスト自身)は「父が根源」であり、愛に基づくその父と子の交わりである聖霊(「父ト子ヨリ出ズル御霊」)は「父と子が根源」であるところの「一神」、「一人の同一なる神」、「三位一体の神」であるからである。したがって、キリストにあっての神は、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない。それからまたこの内在的な三位一体の神は、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト(和解主、啓示、語り手の言葉)の中で「創造主(≪起源的な第一の存在の仕方、啓示者、言葉の語り手≫)として、われわれの父として」自己啓示するのであるが、その内在的な存在の本質からして父だけが創造主なのではなく、子と霊(愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方、「啓示されてあること」、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性、救済主)も創造主であり、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある。このように、「聖書の啓示概念そのものが、三位一体論の根である。三位一体論は、イエスはキリスト、或いは主であるという認識の展開以外の何ものでもない」。前述したように、イエス・キリストは、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質としているから、「啓示の出来事においてはじめて神の子」、「神の言葉」となるのではなく、「父を啓示するもの」、そして「われわれを父と和解させるもの」として、すなわち「啓示ないし和解」として、「イエス・キリストは神の子」、「神の言葉」なのである。したがって、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、自然神学の段階を根本的に原理的に包括し止揚し克服して<非>自然神学の段階へと移行した「われわれは、(≪前述した「神の啓示の中でとられた神の形態としてではなく」、神とは全く異なる「被造物的実在の中での類似体という意味」で「三位一体ノ〔痕〕跡」という概念を使用している、存在の類比の概念に依拠している自然神学の段階で停滞するアウグスティヌスに対して、またそれに類する思惟と語りを為している・為し続けている者たちすべてに対して≫)批判的・論争的にこう言うのである……」。

 

 われわれは、ここで、「三位一体ノ〔痕〕跡」について、自然神学の段階で停滞するアウグスティヌスの思惟と語りと<非>自然神学の段階へと移行したバルトの思惟と語りとを比較衡量してみる。
(1)アウグスティヌスは、そして大学神学者を筆頭とするのであるが多くの彼に類する人たちは、ほんとうは世界を三位一体から説明しようと欲するべきであったにもかかわらず、三位一体を世界から説明しようと欲した。彼は、そして大学神学者を筆頭とするのであるが多くの彼に類する人たちは、ほんとうは人間の理性を支配する「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼」すべきであったにもかかわらず、人間の理性が啓示を支配し表現できる能力を持つものとして人間の理性能力に信頼した。彼は、そして大学神学者を筆頭とするのであるが多くの彼に類する人たちは、「三位一体を聖書から導き出し、基礎づける」のではなく、「三位一体を人間的自意識から、あるいは別の被造物的秩序から導き出して基礎づけることができる」と考えた。彼は、そして大学神学者を筆頭とするのであるが多くの彼に類する人たちは、「人間にとってはるかに身近な内世界的三位一体の方に向かい」、「ますます内世界的三位一体自体の中に神的三位一体を見出すと考えるようになった」。彼は、そして大学神学者を筆頭とするのであるが多くの彼に類する人たちは、ほんとうは神が「自分自身を啓示する三位一体の中で、三位一体が被造物的形態をとる限り」においてではあるが、「三位一体ノ中デノ被造物ノ跡」のことであると言うべきであったにもかかわらず、「被造物ノ中デノ三位一体ノ跡」と言った。ここで、前述の三位一体の「被造物的形態」、「三位一体ノ中デノ被造物ノ跡」とは、バルトにおいては、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)のことである。したがって、われわれは、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として認識し自覚しなければならない。

 

(2)バルトは、「存在するものそのもの」・「その純然たる造られた存在」に依拠したアウグスティヌスの「造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」という思惟と語りに対して、根本的な原理的な批判を加えている――そのような三位一体の跡は、「世界に対して超越する創造神の跡」として理解することはできない。それは、人間的理性や人間的欲求やによって、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能によって対象化され客体化された人間自身の「内在的に理解」されたただ単なる「宇宙の諸規定・人間的な現実存在の諸規定」、「単なる宇宙論や人間論」でしかない、またそのような三位一体論は、人間自身に基づく「人間の世界理解の、最後的には人間の自己理解」・「神話」の位相にあるものである、と。何故ならば、そのような先行する人間の側からする神との「混淆」・「混合」論、神との「共働」・「協働」論、「神人協力説」は、神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける啓示自身が、その客観的な啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)を与えることができる授与能力を持っていることに、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を持っていることに、その「啓示に固有な証明能力に信頼しない」からである。したがって、バルトは、次のように言うのである――「神学をただ啓示の中にのみ基礎づけ」るために、聖書に依拠した<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教は、「罪深い曲がった人間」の「究極的な限界性」を認識し自覚した人間の言語を前提として、「三位一体を、世界から説明しようと欲しないで、逆に」、「世界を三位一体から説明せんと欲」する、と。この自然神学の段階で停滞するアウグスティヌスと<非>自然神学の段階へと移行したバルトとの根本的な原理的な差異性は、前者においては「被造物的実在の中での類似体」・「被造物ノ中デノ三位一体ノ跡」というように語られ、後者においては「神の啓示の中でとられた神の形態」、「三位一体ノ中デノ被造物ノ跡」、具体的には三位一体論の唯一啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)というように語られる点にある。「啓示は例証されようとはせず、解釈されんことを欲する」。不可避的にそれぞれの現実と時代に強いられて「解釈する」とは、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、「別の言葉で同一のことを言うこと」である。したがって、「例証する」・「例証する者」とは、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼」せず、「人間にとって啓示よりもいつもはるかに身近」な、そして「最後的には人間自身に固有な存在と本質である」人間の自由な自己意識の類的機能の無限性を、人間の感覚と知識を内容とした経験的普遍を、人間学的な哲学原理・認識論・世界観を第一次化して「同一のことを別の言葉で言うことである」。

 

 しかし、バルトのように自覚された「神学的言語」における「どんなに潔癖な教義学」であっても、「その中に例証の要素が見出されないような啓示の解釈は存在しない、というのが事実であるかもしれない」から、われわれは、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方を必要とするのである。バルトは、次のように述べている――第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を対象とする釈義神学による聖書的教えの認識や概念も、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの、「啓示ないし和解の実在」そのもの、イエス・キリスト自身ではない。したがって、教義学は「使徒や預言者たちが語ったことを問う」のではない。もしも彼らの語りをそれとして問うことをしたならば、それは、彼らによって人間の言語を介して対象化された彼らの語りを問うことになってしまうからである。したがって、教義学は、「『使徒と預言者たちに基づいて』何をわれわれ自身が語るべきかを問わなければならない」。すなわち、不可避的にそれぞれの現実と時代に強いられたわれわれは、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、「『使徒と預言者たちに基づいて』何をわれわれ自身が語るべきかを問わなければならない」。「その時だけ、キリスト教的語りは今日何を語ることがゆるされ、語るべきかを問うよう自分が要請され・命じられていることを知る」。教義学そのもの、また神についての教会の語りは、「信仰のない」人間の、「信仰にさからう理性を用いての語り」であるが、教義学そのものが、「神についての語りをはかる規準を、イエス・キリストの中で、受けとる限り、教義学は真理の認識として可能」となる。その場合、教義学は、「人間的な問いの中で、人間的な問いと共に、人間的な問いのもとで、……神的な答えについて語る」ことができる。しかしもちろん、その思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」のである。したがって、教会の宣教、その一つの機能としての教義学は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立しているのである」。したがってまた、われわれは、次のように言わなければならないのである――「人間が人間自身の力によって、自然的な能力・その悟性・その感情に応じて認識しうるもの、それは精々、最高の実在・絶対的存在のようなもの・絶対に自由な力の精髄・一切事物を超越する存在の精髄であろう。このような絶対最高の存在・このような究極最深のもの・このような『物自体』は、神とは何の関りもない」(『カール・バルト著作集10』「教義学要綱」)。

 

 三位一体論の根・根拠・基礎は、「ただ啓示の中にのみありうる」。「人は二人の主に兼ね仕えることはできない」。したがって、先行する人間の側からする神との「混淆」・「混合」論、神との「共働」・「協働」論、「神人協力説」、神学と人間学との「混合神学」においては、「誤謬は必然」となる。「被造物ノ中デノ三位一体のまことの跡」は、「神の言葉の三つの形態」――すなわち「われわれがわれわれの人間的な耳と概念で神の啓示を聞くときに聞くところのこと」(起源的な第一の形態の神の言葉そのもの、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」イエス・キリスト)と、「われわれが聖書の中で聞きとる……ところのこと」(第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言における、「啓示ないし和解」の「概念の実在」におけるイエス・キリスト)、「神の言葉の宣教で(われわれの生〔活〕の中で)事実あるところのこと」(教会の客観的な信仰告白および教義におけるイエス・キリスト)、すなわち三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)において客観的可視的に存在している。

 

 『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』に即して言えば、こうである。アウグスティヌスは、「三位一体の痕跡」である「想起(記憶)、知解、愛」としての「人間の中での神の像」を、「最も身近な最も高貴な認識根拠」とした。それは、アウグスティヌスにとって、「聖書的・教会的・教義的前提」であった。そして、アンセルムスにとってもそうであったが、アンセルムスの場合は、アウグスティヌスとは違って、徹頭徹尾「教えられつつ語る」のであって、生来的な自然的な「われわれの理性に内在している神概念の再想起」において「創造しつつ神について語ろう」とはしなかった(また、アウグスティヌスは、『神の国』においては「神は時間ノ創造者マタ決定者と呼んでいる」が、『告白』においては「過去、現在、未来は精神の中にあって、ほかのどこにあるのでもない」と述べているから、この後者の立場においては、「問題に満ちた非本来的な失われたわれわれの時間」の中で、「実在の成就された時間であるイエス・キリストにおける啓示の時間」・「イエスがご自分〔の生きていること〕をお示しになった」「キリスト復活の四十日(使徒行伝1・3)」――すなわち「成就された時間」・「時間の主の時間」とは別に、その再想起において、人間が時間を創造することができる。この時、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰であるとしたカントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」のである。われわれは、ここに、自然神学の段階で停滞するアウグスティヌスを垣間見ることができるのである)。したがって、A「認識的なラチオ性〔理性性〕」は、「啓示、恵み、信仰を前提条件としていた」、換言すれば神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事、それに依拠した信仰の類比、関係の類比を通した人間の自己認識・自己理解・自己規定を前提条件としていた。このアンセルムスの紙一重を超える在り方に、彼の神学における<思想性>はあるのである。

 

 さて、バルトは、三位一体論の<世俗化>であるアウグスティヌス的「三位一体の跡」の諸現象を例示している。言い換えれば、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍を媒介する「存在の類比(analogia entis)」における諸現象を例示している。<非>自然神学への道を歩んだアンセルムスも、三位一体における父、子、聖霊を、自然の存在の「ナイルと呼ばれうる」「泉、川、海」およびその相互関係と比較した。ルターは、「すべての被造物の中に、聖なる三位一体の指し示しがあり、人はそのような指し示しを見る」として、「先ず第一に本質」は「父なる神の全能」を、「次に形態と形式」は「子の知恵」を、「第三に有用さと力」は「聖霊のしるし」を指し示している、とした。また、ルターは、「純粋な言葉が……流れる泉」「父は、神的事物において言語学である」、「事物」の秩序正しい「配列の仕方を示す」「子は、弁論術である」、「生きたもの、力あるものにする」「聖霊は、雄弁術」「雄弁家」である、とした。教会史においては、例えば、「ペテロ的な過去の国、おそれの国……父の国」・「パウロ的、現在の国、真理の国……み子の国」・「ヨハネ的な、将来の国、愛の国……霊の国」という「三つの国」論が繰り返し現れた。モルトマンは、ヘーゲルの歴史は自由の概念の実現過程であるということに基づいて、「律法・父の国・奴隷状態の歴史(≪世界史的段階で言えば、自然にまみれた原始未開の段階≫)」、「恩寵・子の国・神の子供状態(≪世界史的段階で言えば、自然から対象的にはなったけれども、その対象的自然を人間の自由な自己意識・理性・思惟によって対象化して自然から完全に超出でき得ていない自然を原理とするアジア的段階≫)」、「自由・霊の国・神の友の状態(≪世界史的段階で言えば、自然から完全に超出し自由を認識し自覚し獲得した自由を原理とする西欧近代の段階、未来の希望・終末と歴史の統合としての「真のユートピア」の段階≫)」、という神学的な三段階的進歩史観において救済史を構想した(山崎純『神と国家』)。ヘーゲル主義者と言えるエーバーハルト・ユンゲルの「近代的な自由および自律の意識の加工処理」・「近代的自律の神学的加工処理」は、西欧「近代の未完のプロジェクト」の完成を目指したユンゲル・ハーバーマスの人間学の後追い知識としての「混合神学」的概念である(E・ユンゲル『神の存在 バルト神学研究』)。また、アウグスティヌスは、「記憶」――過去・現在・未来という時間性を持つ、「知解」・「認識〔知〕」――思惟による記憶の現在化、「愛」――「一方を他方と関連付け、そのようにして知覚の働きを遂行する能力」、「記憶、理解〔知性〕、意志」として内在する人間の「精神の三つの能力」(「存在スルコト」・「知ルコト」・「意志スルコト」)に、自由な「神ノ、……三位一体ノ、跡以上」の、「似像」を見出した。このように、われわれは、「シュライエルマッハー以外の他の人々の所でも」、人間に内在する神的本質の概念、「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」、「神の自由を認識しない、というヘーゲルの哲学的手法」、「ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇するであろう」(バルト『ヘーゲル』)。これらは、アウグスティヌスの「三位一体ノ〔痕〕跡」論の結果である。「全世紀を通して、つよい印象を与え、学派を造ったもの」は、そしてまた綿々として尽きない「アウグスティヌス的な三位一体の論証の変形以外の何物」でもない自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の系譜を形成したものは、このアウグスティヌスの「三位一体ノ〔痕〕跡」についての理論であった。