2の1『教会教義学 神論Ⅰ/1 神の認識』「五章 神の認識 二十五節 神認識の実現」「一 神の前での人間」
2の1『教会教義学 神論Ⅰ/1 神の認識』「五章 神の認識 二十五節 神認識の実現」「一 神の前での人間」(8-26頁)
再推敲・再整理版です。
「神認識の実現」は「どのように起こるのか」、神認識は「どの程度まで……されるのか」
イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動において、その起源的な第一の形態の神の「み言葉」が、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)において、「教会に対して自分を一度贈り与えた」ことによって、「約束としてすべての未来にわたって教会と自分を結びつけた限り」、「神認識の実現」は「実際に起こっている」。このことは、実際に、前述したように三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)が客観的可視的に存在していることによって確かめることができる。言い換えれば、このことは、少数ではあるかもしれないとしても、実際に、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、あの純粋なキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――この「隣人愛」は主格的属格として理解されたギリシャ語源的「イエス・キリストの信仰」としてのイエス・キリストをのみ信ぜよ、すべての人々が現実的にキリストの福音を現実的に所有することができるためにキリストの福音を告白し・証しし・宣べ伝えよ、というキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請ことであるが――という連関において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指す第三の形態の神の言葉である「イエス・キリストの教会は生きている」ということによって確かめることができる。このように、「神認識の実現(≪「神認識の実在」≫)は現実に起こっており」、それ故に「われわれはただこの実現(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)がどのように起こるのかその起こり方(≪「神認識の可能性」≫)を問うことができるだけ」なのである。
この時、「この認識の対象を問う問い」は、「この認識の仕方を問う問い」を規定する。「われわれは……神認識において」、その「神」について、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である「聖書の中で神および主と呼ばれている方のことを考える」。したがって、「われわれは……神認識において」は、人間的理性や人間的欲求やが対象化したに過ぎない、すなわち人間の神化されたものあるいは神の人間化されたものに過ぎない「存在者レベルでの神」(人間自身が造った偶像としての神)、例えば「世界根拠、……世界精神、……最高善あるいは最高価値、物自体、……絶対者、運命の、……存在と理念の単一性としての起源の認識を問うことはできない」。何故ならば、「われわれが従事している神認識の実現」は、徹頭徹尾、「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異の下における前述した第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言における神に基づいているのであって、人間論的な自然的人間や教会論的なキリスト教的人間(教会)が「この対象やあの対象、この『神』やあの『神』」と「自由に選ぶこと」ができる「神に基づいてはいない」からである。「われわれを活動させている神認識」は、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事によるのであるから、人間論的な自然的人間や教会論的なキリスト教的人間(教会)の恣意的独断的な「自由な選択の中では起こらず」、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)の中で、この「全く特定の拘束の中で起こる」のである。言い換えれば、「そのみ言葉の中で(≪具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言の中で≫)神として認識するようご自身を与え給う神に拘束されている。この拘束の中で、それは、まことの神のまことの認識である」。この「まことの神認識」は、「ただ神の言葉への拘束の中でだけ」、すなわち第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言に対する「他律的な服従」の中で「遂行される神認識である」。したがって、この他律的な服従からの「逸脱」は、「偽りの神々、非なる神々への移行を意味」するのである、人間の側からする人間の恣意性独断性への解体を意味するのである。したがって、その最初から、教会の宣教において、時流や時勢に対象的になるのではなく即自的に対応して、自ら人間の恣意性独断性を是認する牧師、自ら「世俗牧師」を宣言する牧師等は、正直なのではなく、その最初から前述したような意味でのイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの教会の宣教を放棄することを宣言しているだけなのである。本当は、前述したような意味での第三の形態の神の言葉に属する教会の宣教に関わる牧師は、大変な重責のある職務を背負わされているのである。われわれ人間の更新を可能とするのは、「今日に至るまで罪人の手に渡され・十字架につけられ・死んで甦られ給うたイエス・キリストにある復活の力のみ」(『福音と律法』)であるということを認識しているならば、教会の宣教において、あのような軽薄な思惟や語りはしないであろう――否、できないであろう。暗さを包括でき得ていない軽薄な「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、(≪明るさを包括でき得た≫)暗イウチハマダ滅亡セヌ」(太宰治『惜別』「右大臣実朝」新潮社)。
起源的な第一の形態の「神の言葉」に、それ故に具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言――この「神の言葉に結びつけられている拘束の中」においては、「事実ただ、……選択が、いかなる恣意(≪・独断≫)も意味しないところで支配する自由の中で、それと共に確実さの中で……神認識と神の認識可能性の仕方が問われ得るだけ」である。したがって、前述したような、第三の形態の神の言葉に属する教会の宣教における、その一つの機能としての教義学における「他律的な服従」は、空虚さに拡散させることなく、「勝利に満ちた戦い」となる。このような訳で、起源的な第一の形態の「神の言葉に結ばれている拘束」、「換言すれば、……神の言葉によって証しされている神(≪第二の形態の神の言葉である聖書によって証されているキリストにあっての神≫)に結ばれている拘束」と第三の形態の神の言葉である教会の成員の「われわれの神認識の確実さとの間」には、「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における不可避的な「必然的な関連性が成り立っている」のである。
このように、「神の言葉に結ばれている拘束」は、「われわれの神認識の対象」が、「神の言葉を通してわれわれに提供された対象であって」、すなわち起源的な第一の形態の神の言葉、それ故に具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を通してわれわれに提供された対象であって、「それ以外の何ものでもない」のである。このことは、「神認識」と「神の認識可能性」における、「限界設定」である。したがって、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、「自分の課題と自分の限界について意識している護教論」は、「既に前もって」、「神がそのみ言葉の中でご自分をまことの神として現に示し給うということでもって示されている」ということを「証しする」だけなのである。言い換えれば、第三の形態の神の言葉である教会(すべての成員)の宣教は、聖書的啓示証言(「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を「確認する証言」(教会の<客観的>な信仰告白および教義)として「証しする」のである。このように、起源的な第一の形態の神の言葉から、それ故に具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言から「神認識」と「神の認識可能性」は出来事となって起こるのである。聖書的啓示証言によれば、「現に神の言葉に結ばれている起源的な拘束から人は由来して来ることができるだけである」。したがって、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の成員は、「すべての自分の(≪恣意的独断的な≫)意図や選択なしに、自分自身既に一つの立場」の中に、換言すれば既に「初めのところで、神の言葉による拘束が生起しなければならないという立場」の中に、すなわち起源的な第一の形態の神の言葉、それ故に具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉による拘束が生起しなければならないという立場」の中に、その「神の言葉によって示された可能性以外にはほかの可能性は問題とならないという立場」の中にいるのである。「このはじまりの点で、神の言葉から、そのような拘束は、われわれの身に迫ってくるのであり、それがそのところで、承認され、われわれがそれをそのところでわれわれの身に起こらしめるということ、そのためにこそ」、他律的な服従――それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)への不可避的な服従と、自律的な服従――その他律的服従への自らの決断と態度との全体性・総体性において、「信仰のよき戦いが戦われなければならない」のである。ここで、「詩篇一二七・一-二の言葉が、……全く決定的なものとして聞かれなければならない」――「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。あなたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っているときにも、なくてはならないものを与えられるからである」。
このような訳で、「神の言葉によって実現される神認識」は、第三の形態の神の言葉である教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者である「特定の、一つの対象に拘束されているということ」が、すなわち起源的な第一の形態の神の言葉、それ故に具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言に拘束されているということが、「ほかならぬこの対象を知る認識」(信仰)である。ここに、終末論的限界の下での、具体的には聖書的啓示証言を媒介・反復することを通した、「確実性の中」での「間接的な」媒介的反復的な「神認識」があるのである。言い換えれば、「神がご自身を人間に対して、み言葉の啓示の中」で、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言の中」で、「聖霊を通して」、換言すれば客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて、信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)を「与え給うのであれば」、このことは、キリストにあっての神が、神と人間との無限の質的差異の下で、われわれ人間に対して「客体の関係に入り給うということ」を、換言すれば「その啓示の中」で、すなわちその「啓示と信仰の出来事」の中で、「人間によって直観と概念をもって把握され給う」ということを意味している。「神が起源的に本来的にご自身にとって対象であり給うということ」、換言すれば内在的な自己還帰する対自的で対他的な・他在であって自在なご自身の中での神として父は「子として自分を自分から区別する」し自己啓示する神として「自分自身が根源」であり、その「区別された子」は「父が根源」であり、「愛に基づく父と子の交わりである聖霊」は「父と子が根源」であり給うということ、「そのことは言うまでもなく、神は、また(≪われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方において≫)人間にとっても全く別な仕方で対象(≪父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事≫)であり給うということ」である。また、「神がご自身を直接的に認識し給う時、そのことによって、人間は神をその啓示に基づいて間接的に、ただ間接的にだけ(≪何故ならば、終末論的限界の下で、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」イエス・リストにおける神は、聖性・秘義性・隠蔽性において存在し給うから≫)、それであるから(≪神のその都度の自由な恵の決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で≫)対象的に認識する」ことができるのである、人間の「直観と概念をもって把握すること」ができるのである。
さて、「アウグスティヌスの『告白』」の中の「オスティアでの内庭に面した窓辺で交わされた」「アウグスティヌスと母モニカの対話」における「最も美しい……同時にまた最もどうかと思われる箇所」は、次の点にある――それは、「目ガマダ見ズ、耳ガマダ聞カズ、人ノ心ニ思イ浮カビモシナカッタトコロノ(聖徒タチガウケル)永遠ノ生命(Ⅰコリント二・九)に関するもの」で、彼らが「感覚によって得られる最高の喜ビについての考察を越えて、さらにソレ自身ナルモノノ中ヘと(詩篇四・九、ワタシハソレ自身ナルモノノ中デ安ラカニ眠り、マタ伏シマス……)高まっていったかについて報告している」箇所である。「『ワレワレヲ造ッタノハ、私タチ自身デハナイ。ワレワレヲ造ッタノハ、永遠ニトドマリ給ウオ方デアル』と言ウデアロウ……すべての者」が、沈黙して「神の方に耳を傾ける」時、「ソシテ神ゴ自身ガタダヒトリ、……自分デ語リ、コノ言葉ヲ私タチガ……聞く時、スナワチ、タッタ今、私タチガ思イヲ伸バシ、万物ヲ越エテトドマリ給ウ永遠ノ知恵ニアワタダシイ思惟ニヨッテフレタヨウニ、ソノモノゴ自身ヲ聞く時、この状態が持続して、他のもろもろの表象が取り除かれ、タダコノ一ツノ直観ニ見ル者ノ心がウバワレ、スイコマレ、深イ内的歓喜ニヒキイレラレル時、ソシテ、今アエギ求メ、コノ一瞬悟リエタモノガ、永遠ニ続ク生命トナル時、ソレコソハマサニ『汝ノ主ノ喜ビノウチニハイレ』(マタイ二五・二一)と言ワレル時デハナイカ」。ここで、アウグスティヌスは、「未来の最後の時における神の永遠の観照」について語っているだけでなく、あの「窓辺」での「あの日の体験について語っている」。「ここで彼はソレ自身ナルモノを求めて努力し、……それを見出したのである」。すなわち、アウグスティヌスは、「時間の中で、無時間的な真理」と出会ったのである。言い換えれば、アウグスティヌスは、彼の現存性(彼の個の時間性、個体史)における彼に内在する神と出会ったのである、人間に内在する神の本質と出会ったのである、総括的に言えば自然神学の段階で神と出会ったのである。何故ならば、アウグスティヌスは、ここでは、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を媒介・反復するという仕方で、聖書的啓示証言における神と出会ってはいないからである、換言すれば「無時間的な真理」と出会っただけだからである、神の時間である「イエス・キリストにおける啓示の時間」、「時間の主の時間」、「成就された時間」(「イエスがご自分をお示しになったキリストの復活の四十日(使徒行伝一・三)」)と出会ったわけではないからである。言い換えれば、現存する人間における自然的なあの場所あの時間という一回性を本質とする「体験の現実性および内容が何であれ」、「人間的な現実存在と状況規定と条件全体を昇り、超越シタ結果」としての「そのような無時間的な、対象的でない見ることと聞くことの表象を通しては」、キリストにあっての神の「み言葉の中での神認識の実在には到達する」ことはできないのである。しかし、アウグスティヌスの次のような言葉――すなわち「自分ノ聞キタイコトヲアナタカラ聞コウトスルヨリムシロ、アナタカラ聞クコトヲ(≪具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、神語り給う故に神語り給うことを聞くことを≫)ソノママ受ケトリタイト心ガケル人コソガ、最良ノアナタノ僕ナノデス」という言葉は、「よい言葉」なのである。
このような訳で、アウグスティヌスのあの「昇り、超越スルこと」は、「神がその啓示の中で人間と出会い給い、神が人間に対しご自身を、聞き、見るために、与え給う場所」を、すなわちそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉、それ故に具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を「見捨てること、あるいは少なくとも見捨てようと欲することを意味している……」のである。したがって、そのような「体験の形での神認識」、内在的なあの体験から段階的に「昇リ、超越スル」形での神認識は、「神を直観と概念を用いて把握する」神認識ではないのである。何故ならば、その神認識は、あの「特定の対象、その言葉の中でご自身を認識すべく与え給う神に拘束されていない」からである、それ故に「またそれの対象性にも拘束されていない」からである、すなわちその人間――認識主体の恣意性と独断性に解体されていくからである。キリストの復活から復活されたキリストの再臨(終末、「完成」)までの聖霊の時代における人間による神認識にとって決定的なことは、「人間が、み言葉(≪起源的な第一の形態の神の言葉である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身≫)の中で、したがって間接的に」、すなわち具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を媒介・反復することを通して、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で、「ご自身を認識すべくわれわれに与え給う神としての神の前に立っている」ところの神認識を、「われわれは……信仰の認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)として理解しなければならない」という点にある。
前述したことから、「神認識は信仰の認識である」(信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)という命題を、「われわれは今ここで論じなければならない」。この命題は、「先ず第一に、……神認識は(神の言葉を通して提供されているその)対象」に、すなわちご自身の中での神としての「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身に、「しかも決して除去されることのできないその対象性の中での対象」に、すなわち三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言の中での対象に、われわれ人間、われわれ人間の類、その時間性の「全体性」が「拘束されているということの確認以外の何ものでもない」のである。言い換えれば、われわれは、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、われわれの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者としなければならないということの確認以外の何ものでもないのである。このキリストにあっての神に対する「積極的な関係」(神の人間に対する「要求」としてのそれ)、すなわち「人間がこの神へと身を向け、自分を開き、身を捧げる出来事」(神の人間に対する「要求」としてのそれ)、換言すればキリストにあっての神に対する他律的服従と自律的服従において「完全に拘束されている」と「認識する」ことによって、「『心』の中で神に向かって語る然り、人間が自分を神の前で神に属する者として」、「神は神であり給い」、それ故に徹頭徹尾、神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で、「彼の神であり給う」という「明瞭さの光の中で認識し、言葉に出して語る義務」(神の人間に対する「要求」としてのそれ)、「それが信仰である」。具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、あの純粋なキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」、キリストにあっての神への「心からなる信頼」・「従順」・他律的服従と自律的服従、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、すなわち主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」としてのイエス・キリストを信ぜよ、すべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるためにキリストの福音を告白し・証しし・宣べ伝えよ、という神の命令・要求・要請)という連関において「神認識も遂行されるのである」。言い換えれば、この「信仰の規定」は、神認識のあの「全体性の中での信仰の規定なのである」。「そのようなわけでわれわれが信仰の認識について語る時」には、「その全体性の中での信仰について語っているのである」。「われわれは、信仰の本質について語りつつ神認識について語る」のである。何故ならば、そういう仕方でしか、「神認識について語ることはできない」からである。
カルヴァンはジュネーブ「信仰問答の冒頭の言葉」で、次のように述べている――「人生ノ主ナ目的ハ何カ。神ヲ知ルコトデアル。キリスト教の人を救う信仰の定義」――「信仰トハ、神ノワレワレニ対スルイツクシミノ意志ニツイテノ、堅固デ確実ナ認識デアル。ソシテ、コレハキリストニオケル価ナシノ約束の真理ニ基礎ヲ置キ、聖霊ニヨッテ、(≪神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて≫)ワレワレノ精神ニ啓示サレ、ワレワレノ信条ニ証印サレルモノデアル」、と。信仰は、「認識」、「心からなる信頼」、キリストにあっての「神への愛」、「従順」、他律的服従と自律的服従、キリストにあっての「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」、その「全体性の中で記述」しなければならないし、「記述」することができるという点にある。
さて、「われわれが信仰(≪啓示信仰≫)を認識(≪啓示認識≫)として理解する」ことによって、「われわれは、信仰を、人間が対象としての神に向けて方向づけられることであると理解する」、換言すれば具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、「認識として理解された信仰」の中での「中心」・「第一の場所」としてある純粋なキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」へとベクトル変容させられる出来事であると理解する。ここに、「信仰の中での神認識がある」、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事がある。何故ならば、「認識としての信仰は、対象としての神に向けて方向づけられること」だからである、すなわち三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言におけるキリストにあっての神に向けて方向づけられることだからである。この時、信仰は、あの「全体性の中」での信仰である。この時、「聖書の中で信仰として述べられているものが持っている特徴」は、「それとしての人間について、人間の行動と状態について語られるすべてのことは、徹頭徹尾、対象としての神に向けて彼が方向づけられていることの規定、その限り彼が為す神認識の規定として現れてくる」という点にある。第三の形態の神の言葉である「昔の教会」は、「ワレハ父ヲ、ソノミ子イエス・キリストヲ、聖霊ヲ、信ズ」という<客観的>な信仰告白で、「明らかに必要なすべてを告白していると考えた」、それ故にそれ以外の何かを「付け加えて告白」する必要はないと考えた。キリストにあっての神は、「ご自身の現実存在」、すなわちわれわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動)、すなわち父――啓示者・言葉の語り手・創造主、子――啓示・語り手の言葉・和解主、聖霊――啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済主なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体と、「ご自身の本質」、ご自身の中での神としての内在的な三位一体の神の本質、すなわち聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質を「通して」、神に対する「人間の愛、信頼、服従を呼び覚まし」給う。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける神の自己啓示は、「ザレのイエスという人間の歴史的形態」――すなわち「イエス・キリストの名」(われわれのための神としての外在的な第二の存在の仕方)において、その内在的な存在の本質である「失われない単一性」・神性・永遠性の認識(啓示認識)と信仰(啓示信仰)を要求する啓示である。神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「神が語り給う。彼が要求し、彼が約束され、彼が行為され、彼が怒り、彼が恵み深くあり給う」。「この『彼』の客体性は、聖書的信仰から……決して取り除くことはできない。約束を信じるアブラハムの信仰からも、キリストを信じるパウロの信仰」、「キリストの信仰(ピリピ三・九以下)からも、取り除くことはできない」(主格的属格としての理解されたギリシャ語原典「キリストの信仰」、すなわちキリストが信ずる信仰である――バルトは、『福音と律法』で、「ローマ3・22、ガラテヤ2・16等」のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」の属格は、神の側の真実としてある「主格的属格として理解されるべきものである」と述べている)。「われわれは、われわれの主としてのイエス・キリスト(≪の名≫)に固執することにより、またイエス・キリスト(≪の名≫)がわれわれのかしらであるということに固執することにより、(中略)この主とかしらのもとで、またこの主とかしらとともに、……これからは(≪あの神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」、すなわちイエス・キリストが信ずる信仰による≫)神の義、神の子の義、神自身の義をまとっている者として生きることを許される」(『ローマ書新解』)、「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。
このような訳で、「信仰とは聖書の中では、人間的な主体性が神的彼の客体性を通して、この客体性に向かって、開かれ、この開かれることの中で人間的な主体性が新しく基礎づけられ、新しく規定されることを意味している」。まさに信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事は、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられるものであり、われわれはその啓示認識・啓示信仰に依拠した、その信仰の類比を通してわれわれ人間についての新しい自己認識・自己理解・自己規定を得るのである、ちょうどあの「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられた啓示認識・啓示信仰に依拠した、その信仰の類比を通して、われわれ人間は「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」ということを、われわれ人間は生来的な自然的な「『自分の理性や力(≪知力、感情力、意志力等≫)によっては』全く信じることができない」ということを自己認識・自己理解・自己規定させられるように、「神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された(≪それ故に、人間の側からする人間の支配行為に過ぎない≫)救いの計画と救いの方法(≪平和の計画と平和の方法≫)が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはない」(『啓示・教会・神学』)ということを自己認識・自己理解・自己規定させられるように、市民的観点・市民的常識が全く自己欺瞞に満ちているということを自己認識・自己理解・自己規定させられるように。『神に近くあることはわたしに良いことである。わたしは主なる神をわが避け所として、あなたのもろもろのみ業を宣べ伝えるであろう』(詩篇七三・二八)」。したがって、「信仰とは、聖書の中では決定的に、(≪キリストにあっての≫)神認識ということを意味している」。しかし、「われわれ」は、「(「神の対象性に基づいている」)信仰を神認識として理解する」ことによってこそ、「さらに続けて」、「信仰の対象である神の認識が問題である」と言わなければならない、すなわちその神認識が、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」を志向し目指したものであるのかどうかが問題であると言わなければならない。したがって、「信仰の対象である神」における「対象」は、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能により「自分自身を認識すべく与え、認識される」「何かあるひとつの対象」としての「対象」が問題ではないのである。「〔信仰の対象である神の〕対象性は、特別な、徹頭徹尾独一無比な、神の対象性である」。このような訳で、「信仰の対象である神の認識」は、この「信仰の特別な、徹頭徹尾独一無比な認識であるということが対応している」。
さて、「神が……人間的な対象となるとするならば、そのことは、神は人間的な直観と人間的な概念を用いて把握する」ことができる「対象となるということを意味」する。「まさにそのことに基づいて、神について語り、聞くことが可能となり、また必然的となる」。しかし、「すべての人間的な直観と概念を用いて把握することが神認識なのではない」。すなわち、神認識は、「徹頭徹尾独一無比な出来事である」から、それは、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)の授与の出来事である。この「単なる知識」とは厳密に異なる「特別な認識」としての「信仰の認識はそれとして原則的に、人間が、そのほかの諸対象と区別されている(≪独一無比なキリストにあっての神を対象としている≫)ように、また(≪神と人間との無限の質的差異の下で、≫)人間自身(≪人間的理性や人間的欲求やによって対象化された「存在者レベルでの神」≫)とも区別されている神と結ばれていることを意味している」。したがって、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方でのみ明らかにされてくる、独一無比な「特別の対象としての神から定義されなければならない」。このようにして、「神について語り、聞くことが、可能となり、必然的となる」。何故ならば、具体的には三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、人間の「直観と概念を用いて把握されたもの」ではなく、人間的理性や人間的欲求やによって対象化された「そのほかの諸対象と同じ系列の中で、それらと同じもののひとつとして、人間の直観と概念を用いて把握されたもの」であるならば、「そのものは神ではない」からである。「われわれは神認識とその対象がこのように区別されているということを、神の超越性および超世界性について前もって抱いているある考えに基づいて教えているのではない。また、われわれの(≪感覚と知識を内容とする≫)信仰経験の主張という形で教えているのでもない」。「われわれは、聖書の中で信仰として宣べ伝えられ、指摘されていることを(≪具体的には教会に宣教を義務づけている教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、<客観的>に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言――すなわち≫)聖書から読み取ることによって、そのことを教えているのである」。ここでは、「神的な『彼』の客体性の中で人間に出会い給う方が、その方を認識するいかなる人間的な主体とも同一でないように(≪何故ならば、神と人間との間には無限の質的差異があるから≫)、またそのほかの(≪自然科学におけるあるいは人間科学における≫)人間的な認識の客体(≪自然としての自己身体、性としての他者身体、外界としての自然、また自然の一部としての人間の身体と精神を介した普遍的で実践的な全自然との相互規定的な対象的活動における成果としての人間的自然、自然史の一部としての人類史の自然史的過程における自然史的成果およびそこから疎外された観念諸形態≫)の系列の中でのいかなる客体とも同一ではない」のである。
キリストにあっての「神を信じる信仰は、聖書の中では例外的な仕方で出来事となって起こる」のである。すなわち、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」――すなわち客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)が起こるのである。この出来事において、「神はご自分を聖となし給う。換言すれば、ご自分をほかのすべての対象から分けて(≪神と人間との無限の質的差異の下で≫)目立たしめ給う。まさにそれと共に人間をも神との関係の中で聖め給う。換言すれば、ほかと分けられた立場に置き給う。イスラエルは諸国民から選ばれ、連れ出される」。そして、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、あの純粋なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とする「神の讃美」としての「隣人愛」という連関において、イエス・キリストを主・頭とするイエス・キリストの「教会の現実存在は、今やすべての民を貫通して為される人間を(すべてのそのほかの立場に相対する)固有な、特別な立場へと選び出し、連れ出すという形で起こっている」。このことは、「〔イスラエルの選び出しという〕あの出来事の包括的な継続以外の何ものでもない」のである。「この固有な、特別な立場こそが信仰の立場である。信仰とは聖書の中では聖別を意味している。そして聖別とは、聖書においては選びを実行に移すことである。それは、特別な場所、時間、人間、出来事、歴史的な関連を選別することである。そのような聖別が行われるところ、そこでは、聖書によれば、神認識にまでくる」。「この聖別と選びの根拠と主体」は、「聖書的信仰の対象」――すなわち「徹頭徹尾独一無比の対象であり給う神」である。このキリストにあっての「神の言葉を通して起こるところのもの、そのものはこの選びと聖別の歴史である」、「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)である。したがって、「ただわれわれがこの歴史を堅くとって離さないでいる限り、われわれ自身の信仰が活動するようになるのである」。「ただそのような仕方でだけ、われわれは、神をほかの諸対象から、それと共に神認識をそのほかの諸認識から区別する」ことができるのである。イエス・キリストを主・頭とするイエス・キリストの教会は、このような仕方で、人間がキリストにあっての「神に聞く」ことによって、「神が人間に語り給うゆえに聞き、神が人間に語り給うことを聞く」ことによって、「基礎づけられ、支えられているのである。そこではたとえ二人三人の集まりであっても」、イエス・キリストを主・頭とするイエス・キリストの「教会は存在する」。したがって、そうでない場合は、「どのような大群衆をその中に擁し、どのように優れた個人をその中に擁していても(≪イエス・キリストを主・頭とするイエス・キリストの≫)教会は存在しない。またそれが、もっとも豊かな生命を示し、国家と社会において、どのように尊敬されようとも(≪イエス・キリストを主・頭とするイエス・キリストの≫)教会は存在しない」(『啓示・教会・神学』)。