カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

3.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」

3.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
再推敲・再整理版です。

 

 神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)としての「信仰は、それが(≪キリストにあっての≫)を信じる信仰である限り」、それ故に「正しいものを信じるものである限り」、それは、徹頭徹尾キリストにあっての「神に負うている」ところの、「神によって要求され、救いに益となる『経験』と結びついた正しい意志的行為である」、すなわちそれは、ただ「単なる知識」とは異なる、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)を内容とする経験≫)と結びついた正しい意志的行為である。何故ならば、『教会教義学 神の言葉』によれば、「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を一切持ってはいない」し、また『福音主義神学入門』によれば、「信じる者は、自分が――つまり(≪生来的な自然的な≫)『自分の理性や力(≪知力、感情力、意志力、禅的な自然を内面の原理とする身体的修行等≫)によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白」せざるを得ないし、また『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』によれば、「ソレヲ信ジナイモノハソレニ向カウコトガ出来ナイ」(「ソレヲ信ジナイモノハ」、あの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」という連関を志向し目指さない)からである。キリストにあっての神への「信仰は、聞くことから来、聞くことは説教から来る」――「私ガ知ッテイル事柄、知ッテイルカラ主張シテイル事柄、ソシテ主張シツツ愛シテイル事柄ヲ、私ハキリスト教ノ学校デ学ンダ」、換言すれば私は、『教会教義学 神の言葉』によれば、具体的には三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(聖書、啓示ないし和解の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で学んだ、もっと言えばそういう仕方で「神の言葉の三形態」に時間累積させてきた教会の客観的な「信仰告白および教義」に学んだ。したがって、あの「啓示と信仰の出来事」に基づいたこの「信仰」は、「キリストの言葉」を、ただ「単なる知識」ではない信仰の認識としての神「認識」(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)という「知識(下記の【注】を参照)として受け取ることと肯定すること」である。この時、「キリストの言葉は、『キリストを宣べ伝える者たちの言葉』と同一である」――「ローマ一〇・一三−一四および一七がよく注意されなければならない。『ダガ、コノ信仰ハ聞クコトカラト言ウコト(≪神の言葉の第二の形態、聖書的啓示証言、最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」≫)(スナワチ、パウロが言ウコト)ハ、精神ガ聞クコトヲ通シテイダイタコトカラ来ルトイウ意味ニ理解スベキデ、サラニハ、精神的ニイダイタコトダケデ信仰ガ人ノウチニ生マレルトイウノデハナク、信仰ノ存在ニハ精神的ニイダクコトガ必要ダトイウコトデアル……』」、「『聞クコトハキリストノ言葉(≪起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示ないし和解の実在」そのもの≫)ヲ通シテ』、スナワチキリストヲ宣ベル者ノ言葉(第三の形態の神の言葉である教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者としての起源的な第一の形態の神の言葉およびその第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯した教会の客観的な信仰告白および教義≫)ヲ通シテ来ル」。「アンセルムスにとっては、聖書が、特に際立った仕方で、そのような人間の言葉に属していることは確かである(≪換言すれば、ご自身の中での神としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする内在的な三位一体の、われわれのための神としての「外に向かって」外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち起源的な第一の存在の仕方であり啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解」、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性も賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」に属していることは確かである≫)」。このアンセルムスは、第二の形態の神の言葉である「聖書ニオイテ学ブ修行をしきりにすすめた」。アンセルムスは、「教会の宣教の源泉としての聖書の意味について、原則的に(中略)……預言者ト使徒タチノ心ソシテ福音ヲ奇蹟的ニ(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づくものとして≫)、人間ノ教エナシデ、救イノ種デ肥沃ナモノトシタ。(中略)ソモソモ私タチノ説クコトデ救霊ニ役立ツコトハスベテ、聖霊ノ奇蹟(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事≫)ニヨッテ肥沃ニサレタ聖書ガ語ッテイルカ、ソノウチニ含マレテイル」、換言すれば神のその都度の自由な恵みの決断による第一の形態の神の言葉である客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事(具体的には第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言におけるそれ)とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事」「ニヨッテ肥沃ニサレタ聖書ガ語ッテイルカ、ソノウチニ含マレテイル」≫)。

 

 しかし、アンセルムスによれば、「聖書という概念それ自体は、……原則的にもっと広く把握されるべきである」という。すなわち、「同様の威厳と標準性とをもって矛盾なしに聖書の本文から結果として生じてくるもろもろの帰結」(聖書に信頼し固執し連帯した、それぞれの世紀、それぞれの世代の、キリスト教に固有な類としての教会の客観的な信仰告白および教義、類の拡大・深化・豊富化)を、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼」する、それ故に「聖書の本文」に信頼し固執し連帯するキリスト教に固有な類の歴史性(時間性)に「付け加わ」えることができる――「私タチハ、聖書ニ書カレテイルコトダケデナク、ソレラノコトカラ、ドノヨウナ反対理由モナク、理性的必然性ヲモッテ、結論ヅケラレルコトヲモ、確信ヲモッテ受ケ容レルベキデアル」。このキリスト教に固有な類の歴史性(時間性)は、『教会教義学 神の言葉』によれば、「例証」の歴史ではなく、あの「啓示と信仰の出来事」に基づいた「解釈」の歴史であるからであり、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動から言って「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」からであり、「解釈するとは別の言葉で同一のこと(≪起源的な第一の形態の神言葉、「啓示の実在」そのものと、それ故に具体的にはその第二の形態の神の言葉、最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」、聖書的啓示証言と同じこと≫)を言うことである」からである。このような訳で、アンセルムスは、「彼の『信仰』を、ローマ信条、ニケア・コンスタンティノポリス信条、アタナシウス信条に照らして告白した」――「コレハ、キリストがソノ上ニ教会ヲ建テ給ウタ岩デアッテ、冥府ノ門モソレニウチ勝ツコトハナイ。(中略)コノ岩ノ上ニ、私ハ家ヲ建テヨウ。コノ信仰ノ確カサノ上ニ建テル者ハ、キリストノ上ニ建テルノデアル。(≪起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの、啓示・和解そのものである≫)キリストヲ別ニシテ、他ノ基礎ヲスエルコトハ出来ナイ」。

 

【注】バルトは、『教会教義学 神の言葉』で、ただ「単なる知識」と「認識」(信仰)とを厳密に区別している。すなわち、「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、その「出来事」、「確証」は、ただ「単なる知識」ではなく、その啓示に感謝をもって信頼し固執し固着する「認識」(信仰)――すなわち信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事である。その時初めて、神の言葉は、われわれ人間に対して「実在」となり、またわれわれ人間も人間的にそれを「実在として理解する」ことができるのである。したがって、『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』で指摘されたような人間学との「混合神学」(総括的に言えば、自然神学)を目指すが故に「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」(知識)――すなわち学業的なただ「単なる知識」における神やその啓示、先行する人間的理性や人間的欲求やによって対象化された「存在者レベルでの神」やその啓示、「最高存在」、「最モ完全ナ存在」、「物自体」としての神概念は、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事ではないのである。何故ならば、起源的な第一の形態の神の言葉(啓示ないし和解)は、「神に敵対し神に服従しない」・「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を一切持ってはいない」われわれ「人間の現実存在の内部」、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能の無限性の中にはないからである。神の言葉は、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、その隠蔽性と顕現性(イエス・キリストは「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」)において、終末論的限界の下で「われわれのところに来る」のである。言い換えれば、神の隠蔽性、秘義性、それ故に神の不把握性において、すなわち終末論的限界において、神の言葉が「人間によって信じられる……出来事」、「信仰の出来事」は、われわれ「人間自身の業」ではなく、神のその都度の自由な恵みの決断による起源的な第一の形態の「神の言葉自身」の出来事の自己運動に基づいて、すなわちあの「啓示の出来事」とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて与えられるのである。このように、「言葉を与える主は、 同時に信仰を与える主」である。したがって、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストの出来事(その死と復活の出来事)の宣べ伝えを目指すことのない自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教における「単なる知識」としての形而上学的な教義学は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方のもの」であっても、その教義学は「教義学としては非学問的」なのである。したがってまた、われわれは、次のように言わなければならないのである――「われわれが哲学的用語(≪人間学的用語≫)をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」、すなわち神学も理性的な知的営為ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」、と(『バルトとの対話』)。

 

 また「同時に……定式的に表現された(≪第三の形態の神の言葉に属する教会の客観的な≫)教義」に「必然的に信仰の要素を受け取ることに対しても余地を残した」――「私タチハ、信ジマタ告白スベキコトガスベテコノ信教ニ表明サレテイルワケデハナク、マタソレヲ発布シタ人タチガ、ソコニ書キ入レタコトダケヲ信ジマタ告白スコトデ、キリスト教信仰ガ満足スルコトヲ望ンダノデハナイコトヲ知ッテイル」。この意味で、アンセルムスは、「さらに、公教会ノ教父タチノ、特ニ最モ多ク祝福サレタ聖アウグスティヌスノ書物を、思惟の源泉としてではないが、しかし規準として強調しつつ名指した」、すなわちそれを肯定的にあるいは否定的に媒介すべき契機として強調しつつ名指した。例えば次のようにである――アウグスティヌスは、「三位一体の痕跡」である「想起(記憶)、知解、愛」としての「人間の中での神の像」を、「最も身近な最も高貴な認識根拠」とした、それは、アウグスティヌスにとって、「聖書的・教会的・教義的前提」であった。そして、アンセルムスにとってもそうであったが、アンセルムスの場合は、アウグスティヌスとは違って、(ア)先に述べたような仕方で、徹頭徹尾「教えられつつ語る」のであって、「われわれの理性に内在している神概念の再想起において創造しつつ神について語ろう」とはしなかった、すなわちアンセルムスの場合、(イ)「認識的なラチオ性〔理性性〕」は、「啓示、恵み、信仰(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)を前提条件」としていた、このように(イ)において、アウグスティヌスの神学を否定的に媒介するという仕方で、自然神学の段階で停滞していたアウグスティヌスを紙一重で超えたのである。言い換えれば、先に述べたような仕方で「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)に信頼し固執し連帯するという自らの立場において、アウグスティヌスを根本的に原理的に包括し止揚し克服していく在り方に、すなわち<非>自然神学の段階へと移行して行く在り方に、アンセルムスの神学における<思想性>はあるのである。

 

 「そして最後に」、アンセルムスは、「教会の中で起こった誤謬の神学的反駁をローマ教皇に提出してソノ賢慮アル検討ヲ仰グことを、最も安全なことだと明言した。簡単に言って、ここで教会が現われる」――「公教会ガ心デ信ジマタ口デ告白すること」(換言すれば、第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とする第三の形態の神の言葉である公教会の客観的な信仰告白および教義)は、「いかなる場合でも決して否定の対象であることはできない」。

 

 このような訳で、「アンセルムスの主観的なcredo〔ワレ信ズ〕」は、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とする第三の形態の神の言葉である「教会の客観的なCredo(≪信仰告白および教義≫)を、換言すれば人間的な言葉で定式的に表現された諸命題の総和を、……関係点として持っている」。言い換えれば、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とする第三の形態の神の言葉である「教会の客観的なCredo(≪信仰告白および教義≫)」を信じる信仰自身が、「既に知解スルこと」であるが、そのことが問題である。「キリストの言葉」は、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における「『キリストを宣べ伝える者たちの言葉』と同一であるといった具合に、そしてそのこと中で」、「(信仰が信じる)『正しいこと』である」。「キリスト教の宣教の、この人間的な言葉に対する関係の中で」――すなわち第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とする第三の形態の神の言葉である教会の客観的な信仰告白および教義である「Credoに対する関係の中で、信ジル(≪credo≫)ことは、知解スルことの前提である」。人間論的な自然的人間、教会論的なキリスト教的人間、誰であれ、「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を一切持ってはいない」し、また「『自分の理性や力によっては』――全く信じることができない」し、また「ソレヲ信ジナイモノハソレニ向カウコトガ出来ナイ」から、先ず以て先行する神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で「信ジルこと」は、換言すれば第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とする第三の形態の神の言葉である教会の客観的な信仰告白および教義である「Credo」に信頼し固執し連帯して「信ジルことは、知解スルことの前提である」。