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『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十五節 ~認識の実現」「一 神の前での人間」(その2−1)−2

カール・バルト『教会教義学 神論T/1 ~の認識』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十五節 ~認識の実現」「一 神の前での人間」(その2−1)−2 (3−26頁)

 

 

「神認識の実現」は「どのように起こるのか」、神認識は「どの程度まで……されるのか」。
 ~の言葉自身の出来事の運動において「み言葉が……教会に対して自分を一度贈り与えた」ことによって、「約束としてすべての未来にわたって教会と自分を結びつけた限り」において、すなわちキリスト教に固有な類・歴史性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の~の言葉において、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における神の言葉において、また第三の形態の全く人間的な教会が具体的には聖書的啓示証言に聞き教えられることを通したその客観的な信仰告白・教義において、「神認識の実現」は「実際に起こっている」。そのキリスト教に固有な類の歴史的連続性(歴史性)において、「イエス・キリストの教会は生きている」。このように、「神認識の実現(≪「神認識の実在」≫)は現実に起こっており」、それゆえに「われわれはただこの実現(≪神認識≫)がどのように起こるのかその起こり方(≪「神認識の可能性」≫)を問うことができるだけ」なのである。この時、「この認識の対象を問う問い」は、「この認識の仕方を問う問い」を規定する。『教会教義学 ~の言葉T/1・2』によれば、聖書において神(テオス)あるいは主(キュリオス)は、イエス・キイスとの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示した・この聖書的啓示証言の本来的テーマは、単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の第二の存在の仕方である「子なる神、キリストの神性」を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル御霊」・「聖霊を問う問い」とが包括されている点にある。「われわれは……神認識において」、その「神」について、「聖書の中で神および主と呼ばれている方のことを考える」。したがって、「われわれは……神認識において」は、人間の自己意識・理性・思惟が対象化した類的本質としての「存在者レベルでの神」(偶像)――例えば「世界根拠、……世界精神、……最高善あるいは最高価値、物自体、……絶対者、運命の、……存在と理念の単一性としての起源の認識を問うことはできない」。なぜならば、「われわれが従事している神認識の実現」は、徹頭徹尾、前述した『教会教義学 ~の言葉T/1・2』で論じた聖書的啓示証言における神に基づいているのであって、人間自身教会自身が「この対象やあの対象、この『神』やあの『神』を自由に選ぶことに基づいてはいない」からである。自在であって他在、対自的であって対他的、全き自由の神の、あの~の言葉自身の出来事の運動に基づいているからである。したがって、「われわれを活動させている神認識」は、第三の形態に属する全く人間的な教会の「自由な選択の中では起こらず、教会の宣教における「先ず第一義的に優位に立つ原理」である起源的な第一の形態の~の言葉、イエス・キリスト、「啓示の実在」そのものの支配、具体的には第二の形態の教会に宣教を義務づけているその原理である聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリスト、啓示の「概念の実在」の支配、それゆえにあくまでも神のその都度の自由な恵の決断による、その客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事、という「全く特定の拘束の中で起こる」のである。第三の形態に属する全く人間的な教会におけるそれは、「そのみ言葉の中で(≪あの~の言葉自身の出来事の運動の中で≫)神として認識するようご自身を与え給う神に拘束されている。この拘束の中で、それは、まことの神のまことの認識である」。この「まことの神認識」は、「ただ~の言葉への拘束の中でだけ」、換言すれば終末論的限界の下で絶えず繰り返し、起源的な第一の形態の~の言葉に、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉に、他律的な服従の中で聞き教えられることを通してだけ、「遂行される~認識である」。したがって、この他律的な服従からの「逸脱は、偽りの神々、非なる神々への移行を意味」するのである。すなわち、それらの神々は、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的活動において対象化された類的本質としての「存在者レベルでの神」々、偶像なのである。しかし、あの客観的な対象として与えられ可視的に存在している、「必然性」不可避性としてある「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の「~の言葉」に、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における「神の言葉に結びつけられている拘束の中」においては、「事実ただ、……選択が、いかなる恣意(≪嗜好、独善≫)も意味しないところで支配する自由の中で、それと共に確実さの中で……神認識と神の認識可能性の仕方が問われ得るだけ」なのである。第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教における、それゆえに教義学における他律的な服従におけるその営為は、起源的な第一の形態の「~の言葉」を、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における「神の言葉」を、教会の宣教における、それゆえに教義学における原理・規準・法廷・審判者・支配者として持つがゆえに、空虚さに拡散することはなく、終末論的限界の下で「勝利に満ちた戦い」となると言うことができる。なぜならば、その営為は、あの~の言葉自身の出来事の運動に信頼し固執したそれであるからである。このような訳で、起源的な第一の形態の「~の言葉に結ばれている拘束――換言すれば」、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における「~の言葉によって証しされている神に結ばれている拘束」と第三の形態に属する全く人間的な教会の「われわれの神認識の確実さのと間」には、不可避的な「必然的な関連性が成り立っている」のである。この単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストに結ばれている拘束――すなわち「~の言葉に結ばれている拘束」は、「われわれの神認識の対象が、~の言葉(≪起源的な第一の形態の~の言葉、「啓示の実在」そのもの、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉、その直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」≫)を通してわれわれに提供された対象であって、それ以外の何ものでもない」のである。このことは、「神認識」と「神の認識可能性」における、あの~の言葉自身の出来事の運動性からやってくる「限界設定」としてある。したがって、起源的な第一の形態の神の言葉、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における神の言葉に信頼し固執し連帯した「自分の課題と自分の限界について意識している護教論」は、「既に前もって」、「神がそのみ言葉の中でご自分をまことの神として現に示し給うということでもって示されている」ということを「証しする」だけなのである。なぜならば、それ自身が固有な証明能力を持っている啓示は、第三の形態に属する全く人間的な教会のそれぞれの世代、それぞれの世紀において、「例証されようとせず、解釈されることを欲する」からであり、「解釈するとは、別の言葉で(具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉、啓示の「概念の実在」と)同一のことを言うこと」であるからである。したがって、その人間の恣意的嗜好的独善的な自己主張を付け加えたりはしないのである。したがってまた、「自分の課題と自分の限界」を自覚したそれは、近代主義や近代主義的プロテスタント主義から対象的になって距離を取り、近代主義的プロテスタント主義的信仰・神学・教会の宣教が「キリストの永遠のまことの神性の告白を信用しない」ことに対して、キリスト教に固有な類・歴史性における第二の形態の聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯して、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、~の言葉、啓示・和解、「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストの「神性」を告白し・告知し・証しし・宣べ伝えるのである。言い換えれば、聖書的啓示証言を「確認する証言」として「証しする」のである。先ず以て、人は、起源的な第一の形態から、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言から「神認識」と「神の認識可能性」惹き起こされるのであって、第三の形態に属する全く人間的な教会(その全成員)が起源的な第一の形態の対象を「わがまま勝手に」恣意的嗜好的独善的に設定したり、その認識とその認識可能性を論じることはできないのである。なぜならば、後者の道は、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーが根本的包括的に原理的に批判した宗教そのものの道でしかないからである。その自然神学の系譜に属する世俗化した共同宗教としてのキリスト教の道は、マルクスが批判したように、最後的には、観念の共同性を本質とする第一義化・価値化された政治的近代国家に辿り着く道でしかないからである。キリスト教界の戦後過程において、一昨年の日本基督教団の「平和を求める祈り」やカトリックの「抗議声明」は、私たちに、世間一般に、諸にその実姿を裸形化させたのである。しかし、聖書的啓示証言によれば、「現に~の言葉に結ばれている起源的な拘束から人は由来して来ることができるだけ」なのである。すなわち、第三の形態に属する全く人間的な教会の成員は、「すべての自分の(≪恣意性嗜好性独善性による≫)意図や選択なしに、自分自身既に一つの立場の中に」、換言すればすでに「初めのところで、~の言葉(≪起源的な第一の形態のそれ、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言におけるそれ≫)による拘束が生起しなければならない」という立場の中に、その「~の言葉によって示された可能性以外にはほかの可能性は問題となら」ないという立場の中にいるのである。先ず以て「このはじまりの点で、~の言葉から、そのような拘束は、われわれの身に迫ってくるのであり、それがそのところで、承認され、われわれがそれをそのところでわれわれの身に起こらしめるということ、そのためにこそ(≪他律的な服従と自律的な服従の同在性における≫)信仰のよき戦いが戦われなければならない」のである。ここで、「詩篇一二七・一−二の言葉が、……全く決定的なものとして聞かれなければならない」――「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。あなたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っているときにも、なくてはならないものを与えられるからである」。
 このような訳で、第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教にとって、「~の言葉によって実現される~認識」は、その宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者である「特定の、一つの対象(≪起源的な第一の形態の~の言葉、啓示・和解、イエス・キリスト、「啓示の実在」そのもの、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉、啓示・和解、イエス・キリスト、その直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」≫)に拘束されているということ」が、「ほかならぬこの対象を知る認識」である。ここに、終末論的限界の下で、具体的には聖書的啓示証言を媒介・反復することを通した、「確実性の中」での「間接的な」媒介的反復的な「神認識」があるのである。言い換えれば、「神ご自身においてのみ実在であり真理である」「自由」・「主権」、その自在であって他在、対自的であって対他的、全き自由の「神がご自身を人間に対して、み言葉の啓示(≪客観的な対象として与えられ可視的に存在している起源的な第一の形態、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言≫)の中で、聖霊(≪「啓示の出来事の中での主観的側面」――聖霊の注ぎによる人間的主観に実現される神の恵みの出来事≫)を通して(≪具体的には客観的な聖書的啓示証言における啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて≫)、(≪終末論的限界の下で、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰として≫)与え給うのであれば」、そのことは、単一性・神性・永遠性を本質とする主体としての神が、あくまでも神と人間との無限の質的差異の下で、人間に対して「客体の関係に入り給うということ」を、換言すれば「その啓示(≪客観的な対象として与えられ可視的に存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態、「啓示の実在」そのものとしてのそれ、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言、啓示の「概念の実在」としてのそれ≫)の中で人間によって直観と概念をもって把握され給う」ということを意味している。また、~と人間との無限の質的差異の下で、単一性・神性・永遠性を本質とする主体としての神が、人間に対して「客体の関係に入り給うということ」は、「神ご自身においてのみ実在であり真理である」「自由」・「主権」、その自在であって他在、対自的であって対他的、全き自由の神ご自身がその対他性において人間へと向かうために、対他的となった神的な自己意識(神ご自身の自己意識の対他的意識)を外化したということを・自己を客体化したということを――すなわち、単一性・神性・永遠性を本質とする~が、その三つの存在の仕方(性質・行動・業・行為・働き)において実際に人間に対して存在し「客体の関係に入り給う」たと共に、そのことによって自分自身にとっても実際に三つの存在の仕方において存在するということを、意味しているのである。「神が起源的に本来的にご自身にとって対象であり給うということ、そのことは言うまでもなく、神はまた人間にとっても全く別な仕方で対象であり給うということ」である。また、「神がご自身を直接的に認識し給う時、そのことによって、人間は神をその啓示に基づいて間接的に、ただ間接的にだけ(≪なぜならば、人間は、神と人間との無限の質的差異の下に存在しているから、『ローマ書』に依拠して言えば神と人間との無限の質的差異は「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨」であるから)、それであるから(≪具体的には第二の形態の啓示の「概念の実在」である聖書的啓示証言を媒介・反復することを通して、換言すれば神のその都度の自由な恵の決断による、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、≫)対象的に認識する」ことができるのである、「直観と概念をもって把握すること」ができるのである。また、三位一体の根本命題に即して言えば、全き自由の神ご自身の対自的となった神的な自己意識(神ご自身の自己意識の対自的意識、「父なる名の内三位一体的特殊性」、区別を包括した自己同一性)は、単一性・神性・永遠性を本質とする父は子として「自分を自分から区別」するし自己啓示する神として自分自身が根源であり、それゆえにその区別された子は父が根源であり、愛に基づく父と子の交わりである聖霊は父と子が根源であるということを、そしてこの神は、子の中で「創造主として、われわれの父」として自己啓示するのであるが、その本質から父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主であるということを、またその本質から父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもあるということを、意味しているのである。因みに、バルトは、この啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比において、@「内被造世界での、……父という呼び名は確かに真実である」が、「非本来的なもの」であり、「神の内三位一体的父の名の力と威厳に依存」しているものとして理解しなければならない、A「聖霊はみ子の霊であり、それ故、子たる身分を授ける霊である」から、私たちは「聖霊を受けることによって」、客観的な「啓示の実在」そのものである「イエス・キリストが神の子であるという概念」(第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における啓示の「概念の実在」)を根拠として、私たちは「神の子供」・「世つぎ」・「神の家族」であり、「『アバ、 父よ』と呼ぶ」(ローマ八・一五、ガラテヤ四・五)ことができるのであり、「和解者が神の子であるがゆえに、……和解、啓示」の受領者たちは、受領者と授与者との無限の質的差異において、「神の子供」である、と述べている。したがって、人間の、自由な、対自的で対他的な、自己意識・理性思惟の類的活動は、あくまでも神と人間との無限の質的の下で、「神ご自身においてのみ実在であり真理である自由」の類比としてあるのである。これらの事柄は、聖書的啓示証言における三位一体の神ご自身の自己認識・自己理解・自己規定である。したがって、この神認識は、神と人間との無限の質的差異を「取り除いてしまう認識」、換言すれば「対象的でない、認識するものと認識されるものの間の区別を取り除いてしまう認識」の「すべてに対して限界を引くのである」。これは、「シュライエルマッハー以外の他の人々の所でも……強力な痕跡」を見出すことができるヘーゲルの哲学原理に対する根本的包括的な原理的な批判である。なぜならば、ヘーゲルにおいては、区別を包括した同一性の原理、思惟と思惟されたものとの等価性の原理、「彼の思惟が思惟したもの(≪対象≫)の中に彼の思惟が完全に現存」(対象的意識の段階、現実とは意識された現実・現実の意識である、現実性とは具象性と抽象性の総体である)し、「彼の思惟の中に彼の思惟に思惟されたもの(≪内在化された対象≫)が完全に現存」(自己意識の段階、内在化された対象を対象とする意識、内在化された対象を感情的対象として対象化する内観化・空間化の意識あるいは内在化された対象を概念的対象として対象化する概念化・時間化の意識)するからであり、この場合、自己意識の思惟と思惟されたもの、対象化されたそれは、自己還帰して等価となり、そのように思惟に思惟を重ねて具体的普遍の頂へと高次化する思惟は、自然から超出した精神であるから、その頂を極めた「精神は、また精神自体としては神と全く同一」となるからである。これを支えているものが、無限と有限との統一としての「究極的同一性」であり、この「究極的同一性」においては、「神の理性」――すなわち<神を思惟する理性>というその属格理解における理性は、人間の理性が<神を思惟する理性>ということが、その人間の理性が<神を思惟する理性>から、神の理性そのものが<神を思惟する理性>に転化され、人間の理性の思惟は、神の理性の思惟と等価性を持つことになるがゆえに、この事態は、人間の神化、神の人間化、神と人間との無限の質的差異の止揚・廃棄を意味するのである。ヘーゲルは、神と人間との無限の質的差異を止揚し廃棄してしまったところで、「~ご自身においてのみ実在であり真理である」「自由」「主権」と人間のそれ、人間の、対自的であって対他的な、自在であって他在な、自由な、自己意識・理性・思惟の類的活動と~のそれとを等価とする原理を発見したのである。キリスト教における信仰・神学・教会の宣教における「神だけでなく人間も」、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという神と人間との混淆論、共働論・協働論、混合論は、この原理の変形である。「最も単純な形」において「神の啓示の実在を問う」問いに対する「新約聖書の答え」、すなわち 聖書的啓示証言の答えは、「永遠なる神性」(単一性・神性・永遠性)を本質とする「まことの神」にして「まことの人間」「イエス・キリストの名」(~の第二の存在の仕方、神の言葉・子、啓示・和解、神の側の真実としてある主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」・「律法の成就」・神と人間との無限の質的差異の下での神の側からする神と人間との平和的関係の回復それと共に人間と人間との平和的関係の回復、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和、「啓示の実在」そのもの、「~の言葉」の<起源的>な「第一の形態」)だけである。
 さて、「アウグスティヌスの『告白』」の中の「オスティアでの内庭に面した窓辺で交わされた」「アウグスティヌスと母モニカの対話」における「最も美しい……同時にまた最もどうかと思われる箇所」は、次の点にある――それは、「目ガマダ見ズ、耳ガマダ聞カズ、人ノ心ニ思イ浮カビモシナカッタトコロノ(聖徒タチガウケル)永遠ノ生命(Tコリント2・9)に関するもの」で、彼らが「感覚によって得られる最高の喜ビについての考察を越えて、さらにソレ自身ナルモノノ中ヘと(詩篇四・九、ワタシハソレ自身ナルモノノ中デ安ラカニ眠り、マタ伏シマス……)高まっていったかについて報告している」箇所である。「『ワレワレヲ造ッタノハ、私タチ自身デハナイ。ワレワレヲ造ッタノハ、永遠ニトドマリ給ウオ方デアル』と言ウデアロウ……すべての者」が、沈黙して「神の方に耳を傾け」る時、「ソシテ神ゴ自身ガタダヒトリ、……自分デ語リ、コノ言葉ヲ私タチガ……聞く時、スナワチ、タッタ今、私タチガ思イヲ伸バシ、万物ヲ越エテトドマリ給ウ永遠ノ知恵ニアワタダシイ思惟ニヨッテフレタヨウニ、ソノモノゴ自身ヲ聞く時、この状態が持続して、他のもろもろの表象が取り除かれ、タダコノ一ツノ直観ニ見ル者ノ心がウバワレ、スイコマレ、深イ内的歓喜ニヒキイレラレル時、ソシテ、今アエギ求メ、コノ一瞬悟リエタモノガ、永遠ニ続ク生命トナル時、ソレコソハマサニ『汝ノ主ノ喜ビノウチニハイレ』(マタイ二五・二一)と言ワレル時デハナイカ」。ここで、アウグスティヌスは、「未来の最後の時における神の永遠の観照」について語っているだけでなく、あの「窓辺」での「あの日の体験について語っている」。「ここで彼はソレ自身ナルモノを求めて努力し、……それを見出したのである」。すなわち、アウグスティヌスは、「時間の中で、無時間的な真理」と出会ったのである。言い換えれば、アウグスティヌスは、、彼の現存性(彼の内在的時間、個体史)における彼に内在する神と出会ったのである。なぜならば、アウグスティヌスは、あの、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、客観的な対象として与えられ可視的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(啓示の真理)――すなわち「啓示の実在」そのもの、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における神の言葉(啓示の真理)――すなわち啓示の「概念の実在」を媒介・反復することを通して出会っていないからである。すなわち、アウグスティヌスは、「無時間的な真理」と出会ったのである。したがって、あの場所あの時間という一回性を本質とする「体験の現実性および内容が何であれ」、「人間的な現実存在と状況規定と条件全体を昇り、超越シタ結果」(その何らかの抽象を以て始められた信の尖端・頂へと上昇する人間の自己意識・理性・思惟、知識、観念の自然的な往相過程を上り詰めた結果)としての「そのような無時間的な、対象的でない見ることと聞くことの表象を通しては」、神と人間との無限の質的差異の下での、終末論的限界の下での、神のその都度の自由な恵みの決断による啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく、「み言葉の中での神認識の実在」には「到達」できないのである。しかし、アウグスティヌスの次のような言葉――「自分ノ聞キタイコトヲアナタカラ聞コウトスルヨリムシロ、アナタカラ聞クコトヲ(≪神語り給うゆえに神語り給うことを聞く、換言すれば起源的な第一の形態の神の言葉に、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における神の言葉に聞き教えられることを≫)ソノママ受ケトリタイト心ガケル人コソガ、最良ノアナタノ僕ナノデス」という言葉は、「よい言葉」なのである。したがって、アウグスティヌスのあの「昇り、超越スルことは、神がその啓示の中で人間と出会い給い、神が人間に対しご自身を、聞き、見るために、与え給う場所(≪あの客観的な対象として与えられ可視的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態、具体的には第二の形態≫)を見捨てること、あるいは少なくとも見捨てようと欲することを意味している……」のである。このような訳で、そのような、思惟と語りにおける原理・基準・法廷・審判者・支配者としての客観的な対象を持たないところの、あの百人百様の恣意性に拡散するところの「体験の形での神認識」、内在的なあの体験から段階的に「昇リ、超越スル」形での神認識は、神と人間との無限の質的差異の下で、終末論的限界の下で、起源的な第一の神の言葉(啓示の真理)――すなわち「啓示の実在」そのものを、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における神の言葉(啓示の真理)――すなわち啓示の「概念の実在」を媒介・反復する形での神認識、換言すればそういう仕方で「神を直観と概念を用いて把握する」神認識、ではないのである。なぜならば、その神認識は、あの「特定の対象、その言葉の中でご自身を認識すべく与え給う神に拘束」されていないだけでなく、それゆえに「またそれの対象性にも拘束」されていないからである。終末論的限界の下で、絶えず繰り返し、あの客観的な対象として可視的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(「啓示の実在」そのもの)を、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉(啓示の「概念の実在」)を、キリスト教的な思惟と語りの原理・規準・法廷・審判者・支配者として媒介・反復するということ、その~の言葉に聞き教えられるということは、神の言葉自身の出来事の運動が与え強いてくる「必然性」不可避性としてあるからである。いずれにしても、基本的に、アウグスティヌスの思惟と語りは、自然神学の系譜に属している、と言うことができる――?「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」とした「カントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」(『カント』)、A「存在するものそのもの」・「その純然たる造られた存在」に依拠したアウグスティヌスの「造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」という、神と人間との無限の質的差異を止揚し後継へと退けたところでの思惟と語りに対して、バルトは、そのような三位一体の跡は、「世界に対して超越する創造神の跡」として理解することはできない、と根本的包括的な原理的な批判を加えた。したがって、アウグスティヌスは「被造物ノ中デノ三位一体ノ跡」というように語ったが、神と人間との無限の質的差異の下で思惟し語るバルトは「三位一体ノ中デノ被造物ノ跡」と語った、Bこの自然神学の系譜に属する思惟と語りを行うアウグスティヌスは、「三位一体の痕跡」である「想起(記憶)、知解、愛」としての「人間の中での神の像」を、「最も身近な最も高貴な認識根拠」とすると共に、それは、アウグスティヌスにとって「聖書的・教会的・教義的前提」であった、Cアウグスティヌスは、『神の国』で、神は「時間ノ創造者マタ決定者と呼んでいる」が、『告白』では、自然神学の系譜に属する思惟と語りで、個の現存性(内在的時間性、個体史)において、「過去、現在、未来は精神の中にあって、ほかのどこにあるのでもない」と語った・しかし、~の時間(イエス・キリストの時間、啓示の時間)と人間の時間(人間の個の現存性の時間、内在的時間、個体史あるいは人間の類の時間、人類史、世界史)との無限の質的差異を恣意的独善的に揚棄し後景へと退けたアウグスティヌスにおける「自分で時間を創造」した自分の精神の中にある「時間」は、聖書においては「『失われた』時間」・「否定された時間」・「否定的判決の時間」であり、「実在の時間」である「イエス・キリストにおける啓示の時間」から「『攻撃』された時間」なのである(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)。
 キリストの復活からキリストの再臨までの聖霊の時代における人間による~認識にとって決定的なことは、「人間が、み言葉(≪あの「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の~の言葉――すなわち「啓示の実在」そのもの、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉――すなわち啓示の「概念の実在」≫)の中で、したがって間接的に(≪第三の形態に属する全く人間的な教会において、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言を媒介・反復することを通して≫)、(≪その都度の神ご自身の自由な恵みの決断による具体的には聖書的啓示証言における啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて≫)ご自身を認識すべくわれわれに(≪終末論的限界の下で、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰を≫)与え給う~としての神の前に立っている」ところの~認識を、「われわれは……信仰の認識として理解しなければならない」という点にある。この思惟と語りの中に、第一級の根本的包括的な原理的なキリスト教批判を為したフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーからも、それゆえにさまざまな「外部から」も「決して攻撃されて」いない、「また攻撃され得ない~認識の実在と必然性があるのである」。このバルトのように、形而上学的一面的皮相的固定的抽象的空論的な宗教批判ではなくて、第一級の根本的包括的な原理的なキリスト教批判を為したフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーのその宗教批判を、もっと正確に言えば、第三の形態に属する全く人間的な自然神学の系譜に属するすべてのキリスト教を、その信仰・神学・教会の宣教における原理・認識方法と概念構成それ自体で根本的包括的に原理的に止揚し克服することが問題なのである、肝要なことなのである。「問題の定式化〔問題を明確に提起すること〕は、その問題の解決である」(マルクス『ユダヤ人問題によせて』)。

 

 前述したことから、「神認識は信仰の認識である」という命題を、「われわれは今ここで論じなければならない」。この命題は、「先ず第一に、……神認識は(~の言葉を通して提供されているその)対象(≪あの「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の~の言葉、イエス・キリスト、「啓示の実在」そのもの、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリスト、啓示の「概念の実在」≫)に、しかも決して除去されることのできないその対象性(≪あの、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、客観的な対象として与えられ可視的に存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態、具体的には第二の形態≫)の中での対象に、(≪その人間の、その人間の類の「全体性」が≫)拘束されているということの確認以外の何ものでもない」のである。したがって、イエス・キリストが、人間に対して、聖書的啓示証言に絶えず繰り返し聞き教えられるという仕方で教える教会の宣教を通して「同時的となる時と所」、「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは(≪その人間、その人間の類の「全体性」において≫)神の支配のもとに入る」ことを認識し承認し確認するのである、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認するのである、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを認識し承認し確認するのである。このような訳で、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、~の言葉、啓示・和解、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の場所は、人間の、その個・現存性と類・歴史性との生誕から死までのすべてを見渡せる場所、それゆえに「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所、それゆえにまた教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」、「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所なのである。このキリストにあっての神に対する「積極的な関係」(神の人間に対する「要求」としてのそれ)、すなわち「人間がこの神へと身を向け、自分を開き、身を捧げる出来事」(神の人間に対する「要求」としてのそれ)、換言すればこの神に他律的服従と自律的服従において「完全に拘束されている」と「認識する」ことによって、「『心』の中で神に向かって語る然り、人間が自分を神の前で神に属する者として」、「神は神であり給い」、それゆえに徹頭徹尾、神と人間との無限の質的差異の下で、「彼の神であり給う」という「明瞭さの光の中で認識し、言葉に出して語る義務」(神の人間に対する「要求」としてのそれ)――「それが信仰である」。したがって、バルトは、「単なる知識」と「認識」とを厳密に区別している。「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神のその都度の自由な恵みの決断による神の自己啓示を通して(具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて)、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に感謝をもって信頼し固執する「認識」――すなわち啓示認識・啓示信仰である。その時初めて、神の言葉は、人間に対して「実在」となり、またその人間も人間的にそれを「実在として理解」することができるのである。したがって、ただ「単なる知識」に過ぎないある理念・ある概念の実体化・「最高存在」・「最モ完全ナ存在」としての啓示の概念は、人間の自由な対自的で対他的な自己意識の類的活動において対象化された類的本質そのものでしかないのである、換言すれば「存在者レベルでの神」・偶像でしかないのである。神の言葉は、「人間の現実存在の内部」にはないのである。なぜならば、キリスト者を含めてその現にあるがままの現実的な人間存在における人間――すなわち神に敵対し神に服従しない人間は、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力」を一切持ってはいないからである。このような訳で、「イエス・キリストの名」において、具体的にはその聖書的啓示証言において、「言葉を与える主」は、同時に、聖霊の注ぎにより「信仰を与える主」なのである。したがって、聖書の中で証しされている教会の宣教の課題である啓示――すなわち「イエス・キリストの名」における福音の宣べ伝え(福音を内容とする福音の形式である律法、神の命令・要求)を目指すことのない自然神学の系譜に属する「単なる知識」としての形而上学的な教義学は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方」のものであっても、教義学は、教会の宣教における補助的奉仕であり一つの機能である「教義学としては非学問的」なのである(『教会教義学 ~の言葉T/1・2』)。具体的には第二形態の聖書的啓示証言における~の言葉(その直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」)に聞き教えられる「啓示の出来事」とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰の授与の中で、「神認識(≪キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」、「心からなる信頼」、「従順」、他律的服従と自律的服従、「神への愛」を根拠とした「~の讃美」としての「隣人愛」≫)も遂行されるのである」。言い換えれば、この「信仰の規定」は、神認識のあの「全体性の中での信仰の規定なのである」。「そのようなわけでわれわれが信仰の認識について語る時」には、「その全体性の中での信仰について語っているのである」。「われわれは、信仰の本質について語りつつ神認識について語る」のである。なぜならば、そういう仕方でしか、「神認識について語ることはできない」からである。カルヴァンはジュネーブ「信仰問答の冒頭の言葉」で、「人生ノ主ナ目的ハ何カ。神ヲ知ルコトデアル。キリスト教の人を救う信仰の定義」――「信仰トハ、神ノワレワレニ対スルイツクシミノ意志ニツイテノ、堅固デ確実ナ認識デアル。ソシテ、コレハキリストニオケル価ナシノ約束の真理ニ基礎ヲ置キ、聖霊ニヨッテ、(≪換言すれば、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉、啓示・和解、イエス・キリストの啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいた啓示認識・啓示信仰の授与として、換言すれば聖霊の注ぎによる人間的主観に実現された神の恵みの出来事として≫)ワレワレノ精神ニ啓示サレ、ワレワレノ信条ニ証印サレルモノデアル」。肝要なことは、信仰は、「認識」、「心からなる信頼」、キリストにあっての「神への愛」、「従順」、他律的服従と自律的服従、キリストにあっての「神への愛」を根拠とした「~の讃美」としての「隣人愛」、その「全体性の中で記述」しなければならないし、「記述」することができるという点にある。

 

 さて、「われわれが信仰を認識として理解する」ことによって、「われわれは、信仰を、人間が対象としての神に向けて方向づけられることであると理解する」、換言すれば「認識として理解された信仰」の中での「中心」・「第一の場所」としての神のその都度の自由な恵の決断による啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいたキリストにあっての「神への愛」へのベクトル変容の出来事、換言すれば具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、終末論的限界の下で絶えず繰り返し聞き教えられることを通してキリストにあっての神を尋ね求めること(キリストにあっての「神への愛」)であると理解する。あのキリストにあっての「神への愛」へのベクトル変容の出来事に、「信仰の中での神認識がある」。なぜならば、「認識としての信仰は、対象としての神(≪あの「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の~の言葉、イエス・キリストにあっての神、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリストにあっての神≫)に向けて方向づけられること」だからである。その場合、信仰は、あの「全体性の中」での信仰である。その場合、「聖書の中で信仰として述べられているものが持っている特徴」は、「それとしての人間について、人間の行動と状態について語られるすべてのことは、徹頭徹尾、対象としての神に向けて彼が方向づけられていることの規定、その限り彼が為す神認識の規定として現れてくる」という点にある。第三の形態に属する全く人間的な「昔の教会」は、「ワレハ父ヲ、ソノミ子イエス・キリストヲ、聖霊ヲ、信ズ」という客観的な信仰告白で、「明らかに必要なすべてを告白していると考えた」、それゆえにそれ以外に何か人間的なもの、人間の自主性・自己主張・自己義認、神と人間との混淆・協働・共働・混合を「付け加えて告白」する必要はないと考えた。キリストにあっての神は、「ご自身の現実存在(≪神と人間との無限の質的差異の下で、人間へと向かう神の三つの存在の仕方、性質・働き・業・行為・行動≫)と本質(≪単一性・神性・永遠性≫)を通して」、神に対する「人間の愛、信頼、服従を呼び覚まし」給う。具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて「~が語り給う。彼が要求し、彼が約束され、彼が行為され、彼が怒り、彼が恵み深くあり給う」。「この(≪単一性・神性・永遠性を本質とする三つの存在の仕方における≫)『彼』の客体性(≪対象性、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」・「イエス・キリストの名」――「まさに顕サレタ~こそが隠サレタ~」。聖書的啓示証言において~は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示した≫)は、聖書的信仰から……決して取り除くことはできない。約束を信じるアブラハムの信仰からも、キリストを信じるパウロの信仰」、「キリストの信仰(ピリピ三・九以下)(≪主格的属格としての「キリストの信仰」――すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、~の言葉、啓示・和解、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストが信じる信仰による神の義を信じる信仰、その事柄に感謝をもって信頼し固執する信仰≫)からも、取り除くことはできない」。「われわれは、われわれの主としてのイエス・キリスト(≪の名≫)に固執することにより、またイエス・キリスト(≪の名≫)がわれわれのかしらであるということに固執することにより、(中略)この主とかしらのもとで、またこの主とかしらとともに、……これからは(≪あの主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」――すなわちイエス・キリスト自らが信じる信仰による≫)神の義、神の子の義、神自身の義をまとっている者として生きることを許される」(『ローマ書新解』)・「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、 かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の「イエスの信仰」は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである)」・「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)・「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性 や力(意志力、感情力、自然を内面の原理とする修行等)によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略) 『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)。
 このような訳で、「信仰とは聖書の中では、人間的な主体性が神的彼の客体性(≪あの、客観的な対象として与えられ可視的に存在している「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、~の言葉、啓示・和解、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」・「イエス・キリストの名」、「啓示の実在」そのもの、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」、聖書的啓示証言におけるそれ≫)を通して、この客体性に向かって、開かれ、この開かれることの中で人間的な主体性が新しく基礎づけられ、新しく規定されることを意味している。『神に近くあることはわたしに良いことである。わたしは主なる神をわが避け所として、あなたのもろもろのみ業を宣べ伝えるであろう』(詩篇七三・二八)」。したがって、「信仰とは、聖書の中では決定的に、(≪キリストにあっての≫)神認識(≪なぜならば、聖書において自己啓示された神は、「啓示者」であるイエス・キリストの父、「啓示」そのものである子としてのイエス・キリスト自身、客観的な「啓示の出来事の中での主観的側面」・聖霊の注ぎにより人間的主観に実現された神の恵みの出来事――すなわち「啓示されてあること」である父と子の霊である聖霊であるから≫)ということを意味している」。しかし、「われわれ」は、「(「神の対象性に基づいている」)信仰を神認識として理解する」ことによってこそ、「さらに続けて」、「信仰の対象である神の認識(≪その終末論的限界の下での神認識における思惟と語りが、恣意的嗜好的独善的ではなく、キリスト教的な正しい内容の認識を志向し目指したものであるのかどうか、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」を志向し目指したものであるのかどうか≫)が問題である」と言わなければならない。したがって、「信仰の対象である神」における「対象」は、人間の外在的なコミュニケーションにおける自己意識の対他的意識(実践的意識)を外化(表現)することによって自己を客体化し、他者にとっての対象(対象的存在)となると同時に自分にとっても対象(対象的存在)となるという、すなわち百人百様の享受の対象となるという、そのような「自分自身を認識すべく与え、認識される」「何かあるひとつの対象」としての「対象」が問題ではないのである。したがってまた、「〔信仰の対象である神の〕対象性は、特別な、徹頭徹尾独一無比な、神の対象性である」。このような訳で、「信仰の対象である神の認識」は、この「信仰の特別な、徹頭徹尾独一無比な認識であるということが対応している」。言い換えれば、キリスト教的信仰やキリスト教的神認識が人間自身教会自身の恣意性や嗜好性や独善性に拡散してしまわないためには、換言すれば近代<主義>、自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教という陥穽に陥らないためには、近代<主義>的プロテスタント主義的信仰・神学・教会の宣教という陥穽に陥らないためには、聖書的啓示証言によれば~の言葉自身の出来事の運動における、三位一体論の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての、客観的な対象として与えられ可視的に存在している、「必然性」不可避性としてある「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態――すなわち~の言葉、啓示・和解、イエス・キリスト、「啓示の実在」そのものに、具体的には第二の形態――すなわちその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリスト、啓示の「概念の実在」に、他律的な服従と自律的な服従の同在性において、終末論的限界の下で絶えず繰り返し聞き教えられるという仕方で、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」を志向し目指していくことが必要なのである、それゆえに聞き教えられることを通して教える教会(その成員)は、この「神への愛」を根拠とした「~の讃美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式である律法、神の命令・要求・要請)、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、 教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」――キリストの福音の告白・告知・証し・宣べ伝えを志向し目指していくことが必要なのである。言い換えれば、キリストの復活からキリストの再臨までの聖霊の時代において終末論的限界の下で絶えず繰り返しあの聞き教えられることを通して教えるイエス・キリストを主・頭とするキリスト教会(その成員)は、神の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある、キリストの死と復活の出来事における「われわれには絶対に実現出来ぬイエスの代理的な信仰」・「われわれの生命がキリストと共に保管されている」ということ、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和、インマヌエル――このキリストの福音を、終末論的に<すでに>と<いまだ>の啓示の弁証法において、告白し・告知し・証しし・宣べ伝えていくように命令・要求・要請されているのである。「神がそこでわれわれに出会い給うその恵みの御言葉は、イエス・キリストと呼ばれる。すなわち、神の子にして人の子、真の神にして真の人、インマヌエル、この一つなる方におけるわれらと共なる神である」と、答えうるにすぎない。キリスト教信仰は、この『インマヌエル』との出会いである。イエス・キリストとの出会いであり、イエス・キリストにおける神の活ける御言葉との出会いである。われわれが聖書を神の御言葉と呼ぶ場合……、われわれは、それによって、聖書を、この神の唯一の御言葉についての(イエス・キリストについての、神のキリストであり永遠にわれわれの主にして王なるイスラエルから出たこの人についての)預言者・使徒の証しとして、考えているのである。そして、われわれがそのことを告白する場合、われわれが教会の宣べ伝えを神の御言葉と敢て呼ぶ場合、それによってイエス・キリストの宣べ伝えが理解されていなくてはならない」(『教義学要綱』)。
 さて、神と人間との無限の質差異の下で、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする~の下で、それゆえに終末論的限界の下で、それゆえに人間自身教会自身の自由事項・裁量事項・決定事項においてではなく、あくまでも神のその都度の自由な恵みの決断において、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言(起源的な第一の形態の「啓示の実在」そのもののその直接的な最初の第一の啓示の「概念の実在」)における啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて与えられる人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の中で、換言すれば聖霊の注ぎによる人間的主観に実現された神の恵みの出来事における啓示認識・啓示信仰の中で、「神が……人間的な対象となるとするならば、そのことは、神は人間的な直観と人間的な概念を用いて把握する」ことができる「対象となるということを意味」するのである。「まさにそのことに基づいて、神について語り、聞くことが可能となり、また必然的となる」。しかし、「すべての人間的な直観と概念を用いて把握することが神認識なのではない」。神認識は、「徹頭徹尾独一無比な出来事である」から、それは、神と人間との無限の質的差異の下で、神のその都度の自由な恵みの決断による啓示の出来事(具体的にはその人間性と共に神性を賦与され装備された聖書的啓示証言における啓示の出来事)と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる人間が人間的に所有する人間の神認識である。この啓示「信仰の認識はそれとして原則的に、人間が、そのほかの諸対象と区別されている(≪独一無比な神を対象としている≫)ように、また(≪神と人間との無限の質的差異の下で、≫)人間自身とも区別されている神と結ばれていることを意味している」。したがって、第三の形態に属する全く人間的な教会、人間が、独一無比な神を対象として、具体的には第二の形態の啓示の「概念の実在」である聖書的啓示証言を媒介して人間的な直観と人間的な概念を用いて把握するということは、「特別な認識」であって、独一無比な「特別の対象としての神から定義されなければならない」ことなのである。このようにして、「神について語り、聞くことが、可能となる、必然的となる」。なぜならば、身体と精神を介した全人間の普遍的で実践的な類的活動における天然自然あるいは人間的自然としての「そのほかの諸対象と同じ系列の中で、それらと同じもののひとつとして、直観と概念を用いて把握された」ものであるならば、「そのものは神ではない」からである。「われわれは神認識とその対象がこのように区別されているということを、神の超越性および超世界性について前もって抱いているある考えに基づいて教えているのではない。また、われわれの信仰経験の主張という形で教えているのでもない」。「われわれは、聖書の中で信仰として宣べ伝えられ、指摘されていることを(≪具体的には教会に宣教を義務づけている教会に宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者である聖書的啓示証言・≫)聖書から読み取ることによって、そのことを教えているのである」――「『神は天にいまし、汝は地に在り』」。神と人間との無限の質的差異、「私にとっては、この神とこの人間との関係、ないしはこの人間と神との関係が聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」(『ローマ書』)。ここでは、「神的な『彼』の客体性の中で人間に出会い給う方が、その方を認識するいかなる人間的な主体とも同一でないように、またそのほかの(≪自然科学におけるあるいは人間科学における≫)人間的な認識の客体(≪自己身体、他者身体、天然自然、人間的自然≫)の系列の中でのいかなる客体とも同一ではない」のである。キリストにあっての「神を信じる信仰は、聖書の中では例外的な仕方(≪人間的な認識の仕方一般とは異なる仕方≫)で出来事(≪神と人間との無限の質的差異の下で、神のその都度の自由な恵みの決断により、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の啓示認識、聖霊の注ぎによる人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)となって起こる」のである。その出来事において、「神はご自分を聖となし給う。換言すれば、ご自分をほかのすべての対象から分けて(≪神と人間との無限の質的差異の下で、区別して≫)目立たしめ給う。まさにそれと共に人間をも神との関係の中で聖め給う。換言すれば、ほかと分けられた立場に置き給う。イスラエルは諸国民から選ばれ、連れ出される。そして(≪イエス・キリストを主・頭とする≫)教会の現実存在は、今やすべての民を貫通して為される人間を(すべてのそのほかの立場に相対する)固有な、特別な立場へと選び出し、連れ出すという形(≪あの「神への愛」、あの「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――すべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるためのそれ、実践・行為≫)で起こっている」。このことは、「〔イスラエルの選び出しという〕あの出来事の包括的な継続以外の何ものでもない」のである。「この固有な、特別な立場こそが信仰の立場である。信仰とは聖書の中では聖別を意味している。そして聖別とは、聖書においては選びを実行に移すことである。それは、特別な場所、時間、人間、出来事、歴史的な関連を選別することである。そのような聖別が行われるところ、そこでは、聖書によれば、神認識にまでくる」。「この聖別と選びの根拠と主体」は、「聖書的信仰の対象」――すなわち「徹頭徹尾独一無比の対象であり給う神」である。このキリストにあっての「~の言葉を通して起こるところのもの、そのものはこの選びと聖別の歴史である」。言い換えれば、「この選びと聖別の歴史」は、~の言葉自身の出来事の運動における、キリスト教に固有な類・歴史性としての「~の言葉の三形態」――@起源的な第一の形態の単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、神の言葉、啓示・和解、まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、「イエス・キリストの名」、「啓示の実在」そのもの、A具体的には第二の形態のイエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちのその人間性と共に神性を賦与され装備された直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、啓示の「概念の実在」、B具体的には第二の形態の聖書的啓示証言に絶えず繰り返し聞き教えられることを通して教える第三の形態に属する全く人間的な教会(その成員)の客観的な信仰告白・教義、というキリスト教に固有な歴史的連続性のことである。したがって、「ただわれわれがこの歴史を堅くとって離さないでいる限り、(≪あのキリスト教に固有な≫)われわれ自身の信仰が活動するようになるのである」。「ただそのような仕方でだけ、われわれは、神をほかの諸対象から、それと共に~認識をそのほかの諸認識から区別する」することができるのである。イエス・キリストを主・頭とする教会は、このような仕方で、人間がキリストにあっての「神に聞く」ことによって、「神が人間に語り給うゆえに聞き、神が人間に語り給うことを聞く」ことによって、「基礎づけられ、支えられているのである。そこではたとえ二人三人の集まりであっても」、イエス・キリストを主・頭とする「教会は存在する」・したがって、そうでない場合は、「どのような大群衆をその中に擁し、どのように優れた個人をその中に擁していても(≪イエス・キリストを主・頭とする≫)教会は存在しない。またそれが、もっとも豊かな生命を示し、国家と社会において、どのように尊敬されようとも(≪イエス・キリストを主・頭とする≫)教会は存在しない」(『啓示・教会・神学』)。したがって、二元論的に、それゆえに場当たり的一面的皮相的固定的抽象的空論的に、キリストの福音の宣教だけでなく社会的あるいは政治的実践も必要であるということで、即自的に即事的な擬制民主主義でしかない議会制民主主義、私利・私意を精神とする現実的な資本主義社会(近代市民社会)――観念の共同性を本質とする政治的近代国家の枠組みの中での法的制度的政策的な言語を介することを政治的実践だと勘違いしている日本基督教団やカトリック教会等々に対しては、私たちはバルト共に、はっきりと、次のように言わなければならない――「教会の存在と現状が、……福音から考え・行動し・処理されているということを語っていないならば、教会の説教も福音宣教も虚しいものとなるであろう(≪それだけでなく、革命の過渡的課題と究極的課題を提起もしないで、それゆえに結局は政治的近代国家の枠組みに丸ごと包摂されてしまって体制化し体制を支えてしまうところの、政治的実践も虚しいものとなるであろう、社会的実践も虚しいものとなるであろう。具体的にはイエス・キリストを主・頭とするキリスト教会(その成員)として聖書的啓示証言に聞き教えられることを通して、その根を掘り下げ止揚し克服するキリスト教に固有な方途を提起しないところの、それゆえにただ見かけ的に自分は平和<主義>者だ・弱者や虐げられた者の味方だ・正義の味方だと語り行動しているだけの一面的皮相的固定的抽象的で中途半端な彼らは、結局は「夢想家」なのである≫)」(『キリスト者共同体と市民共同体』)、イエス・キリストを主・頭とする教会が、「宣教の規準」や「世界の救い」を、「何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求め」るならば、また何かある「社会機構」、「経済機構」、支配機構の内に求めるならば、また何かある「文化的傾向」の内に求めるならば、また「特定の人種、民族、国民」の内に求めるならば、その「教会の説教も福音宣教も虚しいものとなるであろう」、イエス・キリストを主・頭とする教会において、「福音が純粋ニ教エラレ、聖礼典が正シク執行サレルということ」がなされないままに、礼拝改革、社会的政治的実践、キリスト教教育、教会と国家および社会との関係とか、国際間の教会的な相互理解というような領域で、「何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考える」ならば、その時には、その「教会の説教も福音宣教も虚しいものとなるであろう」(『啓示・教会・神学』、『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』、『教会教義学 ~の言葉T/1・2』)。