本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「十八節 神の子らの生活」「二 神への愛(その3−2)―1」

『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「十八節 神の子らの生活」「二 神への愛(その3−2)―1」(322−352頁)

 

 西欧の限界と危機のただ中で、現実的な人間存在を生き生活し、信仰し神学し教会の宣教をした、バルトの著作は、すべてにおいてそうなのであるが、状況論を持ち神学における思想の課題を認識し自覚し担ったそれ、であった。したがって、バルトのそれは、即自的無自覚に、ただ単に<自然神学>の<段階>で停滞し循環しているだけの、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「大学社会」の、神学者・それに類する牧師やキリスト教的メディア的著述家たちのようなそれ、ではなかった。すなわち、バルトのそれは、すべてにおいて、時代状況や思想状況に強いられたところで、神学における思想の課題を認識し自覚し担った、そしてあくまでも啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力、具体的には啓示の主観的可能性としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通した、信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成それ自体によって、一切の近代<主義>を、一切の<自然神学的なもの>を、またこれら両者の極限に想定されるヘーゲルの哲学原理を、そしてフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの正当性のある根本的包括的な原理的な宗教批判を、まさしく根本的包括的に原理的に止揚してそこから超出した、現在から未来に生きる、「超自然な神学」の<段階>へと移行したそれ、なのである。バルトの「超自然な神学」とは、まさしくこのことなのである。したがって、バルトは、次のように述べたのである――「私は、福音宣教から独立し、それと接触しない、『自己決定の権利』を国家に与えている、いまわしいルター派の教説をこれまで決して承認しようとはしなかった。(中略)私の神学的思惟は、神の主権と、キリスト教の使信全体の終末論的性格と、キリスト教会の唯一の課題としての純粋な福音の宣教の強調に中心があり、またそれにこれまで中心をおいてきた。現実の人間を考慮しない(『神はすべてであって人間は無である!』)抽象的な超越神、現代にとっての意義を伴わない抽象的な終末の待望、この超越的な神にのみに専念し、深淵によって国家や社会から分離された同様に抽象的な教会――それらすべては私の頭に存在したものではなくて、私の本を読んだ多くの人々の頭(≪バルトは、ほんとうはこう言いたかったのだ――状況論なき、神学における思想の課題に対する自覚なき、それゆえに身に沁みる暑さや寒さや波風や暴風雨や暴風雪なき、形而上学的抽象的一面的皮相的固定的空論的な自然神学の段階で停滞と循環を繰り返しているだけの質の悪い頭、と≫)のなかに、また特に私についての評論をしたり、一冊の本を書いたりした人々の頭(≪バルトは、ほんとうはこう言いたかったのだ――まさに前回扱った牧師・関口康やファン・ルーラーのような、形而上学的抽象的一面的皮相的固定的空論的な自然神学の段階で停滞し循環しているだけの、それゆえに根本的包括的な原理的な誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて語っているだけの、人間学の後追い知識に過ぎない非自立的で中途半端な人間学的神学者やそれに類する牧師やキリスト教的メディア的著述家たちの質の悪い頭、と≫)のなかにのみ存在していたのである」 (カール・バルト『バルト自伝』)。このような訳であるから、私たちは、バルトの信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成を根本的包括的に原理的に理解するためには、拙著21−60頁あるいはホームページにおいて述べた<八つの事柄>を理解し、その事柄を自覚的に扱っていく必要があるのである。その事柄を、整理すれば、それは、<三位一体論的――キリスト論的>な立場からする、次のような事柄にある、と言うことができる。
1)神と人間との無限の質的差異――「私が『方式』なるものをもっているとすれば、……時間と永遠との『無限の質的差別』……、をあくまで固守した、ということである。『神は天にいまし、汝は地に在り』。私にとっては、この神とこの人間との関係、ないしはこの人間と神との関係が聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」 (『ローマ書』)
2)「イエス・キリストの名」(啓示の客観的実在、啓示の客観的現実性)、神の側の真実としてのみある「本源的な客観性」、「われわれが何かを考察するより先にわれわれを考察するところの(≪その現にあるがままの、われわれすべての現実的な人間存在を考察し認識し理解し規定するところの≫)」根本的包括的総体的永遠的な「客観性」、主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」、神の義そのの、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストの誕生・死と復活における啓示の出来事、すなわち「新約聖書で聞く啓示、和解」、イエス・キリストにおける<完了>された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的救済・平和(史)、その内容であるインマヌエル――@「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の「イエスの信仰」は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである)」、A「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである )』」(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。
3)人間の、対自的で対他的・他在であって自在・自由な自己意識・理性・思惟の無限性も、また聖霊によって更新された理性も、聖霊と同一ではない――単一性・神性・永遠性を本質とする「父ト子ヨリ出ズル御霊」、「聖霊は、人間精神と同一ではない」、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」(『教義学要綱』)。
4)神の言葉は、それ自体が聖霊の業である三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)としてある。したがって、それは、「啓示の主観的可能性」としてあるものである。その<第一形態>は、信仰・神学・教会の宣教における「第一義的に優位に立つ原理」としての、人間に向かって語られた神の自己啓示(神自身の自己認識・自己理解・自己規定)、すなわち「啓示の実在」・啓示の客観的実在・啓示の客観的現実性そのものである、単一性・神性・永遠性を本質とする「イエス・キリスト」・「イエス・キリスト名」である。その第二形態は、第一義的な「啓示の実在」そのものともに、信仰・神学・教会の宣教における「原理」であり、教会に宣教を義務づけている「聖書」(その言葉・証し・証言・宣教・説教)である。その第三形態は、「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯してそれを絶えずくり返し媒介・反復することを通してのみ成立する「教会」(その<客観的>な信仰告白・教義)である。そして、その第二形態と第三形態が、「啓示の『概念の実在』」である。したがって、聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのであり、それゆえに教会は、イエス・キリストに、具体的には教会に宣教を義務づけている聖書に絶えずくり返し聞くことによって教会となること・教会となり続けること・その運動(過程)が肝心なことなのである。なぜならば、「新約聖書で聞く啓示、和解」は、福音を内容とする福音の形式である律法(神の要求・要請)を通して、すなわち「神がすでに為した」・イエス・キリストの死と復活において<完了>された、究極的包括的総体的永遠的な義認・聖化・和解・救済――その内容である「インマヌエル」・「イエス・キリストの名」に対する感謝の応答としての告白と証しと宣べ伝えを通して、そして聖霊の注ぎにおいて授与されるからである。したがって、この「イエス・キリストの名」に対する感謝の応答としての告白と証しと宣べ伝えこそが、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」なのである。だからこそ、バルトは、啓示に固有な証明能力、具体的には「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯しそれを媒介・反復することを通して、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」たのである・尋ね求め続けたのである。このような仕方で、バルトは、一方において、個性や時代性を刻んだのである。このような厳格な意味において、バルト自身は、啓示に固有な証明能力に基づいて、「三位一体論から始め」たのであるが、「キリスト教的主観主義(≪啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力における、それ自体が聖霊の業である不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性、すなわち「啓示の主観的可能性」としての「神の言葉の三形態」、あるいはイエス・キリストにおける啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される「啓示の主観的実在」としての啓示認識・啓示信仰、またあるいは「啓示の出来事の中での主観的側面」、「聖霊の注ぎ」、聖霊論≫)から始めること」もできる、と述べたのである。したがって、例えば、神学者・小泉健や佐藤司郎が、中世的思考に停滞したまま、人間学の後追い知識に過ぎない人間学的神学・「神学の優位性を確保しつつ、人間学を正当に評価する位置を与え得る」と空想し主張する根拠となっている形而上学的抽象的一面的皮相的固定的なルドルフ・ボーレンの「聖霊論的説教論」は、全く、バルトを批判できる質にはないものなのである。なぜならば、批判は、根本的包括的に原理的になされなければならないのであるが、ボーレンは、先ず以てバルトを根本的包括的に原理的に理解した上でそうしてはいないからである。この場合、バルトを根本的包括的に原理的に超えることはできないのである。したがって、彼らは、旧態依然として、ただ単に<自然神学>の<段階>で停滞し循環を繰り返しているだけなのである。したがってまた、神学者の寺園喜基が、ボーレンは「キリスト論的思考によって聖霊論的思考の根拠が示されているにもかかわらず、それとして十分に展開されていない」とバルト神学を批判している、と述べた時、それはただ根本的な誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて語っているだけのものなのである。
5)バルトの場合、その信仰・神学・教会の宣教における原理・認識方法と概念構成それ自体が、教会や神の子供たち・キリスト教的人間の、その個体性においても・教会共同性においても、それが社会的な事柄であれ政治的な事柄であれ、何であれ、かつて語った言葉が、「かつて語った説教(≪「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」イエス・キリストにおける福音についての言葉≫)の一貫した繰り返し」のその言葉が、「(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから実践に、決断に、行動になって行」く、行為・行動・業・実践を惹き起こす、という質の良さを持っている。すなわち、バルトの場合、言葉と行為、理論と実践、の関係は、ボンヘッファーのような言葉だけでなく行為も、理論だけでなく実践も、という在り方にではなく、「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯しそれを媒介・反復するところで自ら発した・発し続けた、その信仰・神学・教会の宣教の言葉自体が、その理論自体が、「(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから」必然的に、「実践に、決断に、行動になって行った」という、在り方にあるのである(拙著37・38頁および140−143頁あるいはホームページ参照)。
6)私たち人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、それゆえに私たち自身の信にある不信を、異端性を、人間的な実在と人間的な可能性に偏向・偏在した<宗教>そのものを、総括的に言えば<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返しているだけの信仰・神学・教会の宣教における福音が「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」・「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」・「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことを、見渡すことができる場所は、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、死と復活の出来事、啓示・和解、性質・行為・働き・業)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の場所だけである。なぜならば、@第一に、聖書また教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示するのであり、それゆえにこの神の自己啓示が教会の宣教の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠であり、そしてこの三位一体論が神論の決定的に重要な構成要素であり「啓示の認識原理」である、からである。単一性・神性・永遠性を本質とする神の自己啓示は、<まこと>の神にして<まこと>の人間――イエス・キリストにおける「神ご自身」の自己認識・自己理解・自己規定であるから、私たちは、その啓示に固有な証明能力に基づいて、具体的には「神の言葉の三形態」を通して、終末論的限界の下で、<まこと>の神と<まこと>の人間について、その存在の本質と存在の仕方について、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰を授与されるし、それと同時的同在的に、それに依拠した信仰の類比・関係の類比を通して人間の自己認識・自己理解・自己規定を授与されるのである。なぜならば、A第二に、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストが、私たち人間に対して、啓示の客観的実在それ自体が持つ啓示に固有な証明能力に基づいて、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことになるからである。したがって、私たちは、その啓示に固有な証明能力に基づいて、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認するのである。すなわち「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪「裁き」≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界(≪究極的限界、終末論的限界≫)の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけであることを認識し承認し確認するのである。したがって、この単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の場所は、例えば、万物に質量(重さ)を与える根元であるヒッグス粒子の概念を、「正直に受け取ることができる」場所なのである。このことは、ヒッグス粒子が発見されても、宇宙の謎の90何%以上が未解明のままであると言われているからではなく、たとえ宇宙(自然)の謎が100%解明されそれが人間の対象性として人間的自然となったとしても、それはあくまでも人間によって対象化された宇宙・自然(人間的自然)であって、神そのもの、啓示の実在そのものではないからである。すなわち、バルトの信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成それ自体においては、神そのもの・啓示の実在そのものは、常に、一切の天然自然や一切の人間的自然の、彼岸・外、にあるからである、彼岸・外、にあり続けるからである。このことは、iPS細胞(人工多能性幹細胞)についても事情は変わらない。そのiPS細胞に関する科学や技術の進歩発達およびその知識の増大は、自然史的必然に属する事柄であり、停滞したり逆行したりすることはあり得ないのであるが、しかしそれは、人間によって対象化された自然・人間的自然でしかないものであるから、私たちは、ヒッグス粒子の発見やiPS細胞の研究成果等を、人間的世俗的真理として正直に受け取ることができるのである。
 ここに、教会や神の子供たち・キリスト教的人間の、イエス・キリストの復活から再臨までの、すなわち聖霊の時代における、途上の道における歩みがあるのである――救済を「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」(人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍)にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてのみある啓示の客観的実在・啓示の客観的現実性、「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである、このことを文学の言葉で言えば、「ただ万人を憐み、万人万物を解する神様ばかりが、われわれを憐んで下さる」、「神さまは万人を裁いて、万人を赦され」、「最後の日にやって来て」、「……われわれに、御手を伸ばされる。その時こそ何もかも合点が行く!……誰も彼も合点が行く」。「主よ、汝の王国の来たらんことを」という語りになるのである(ドストエフスキー『罪と罰』)。
7)『教会教義学』に関して言えば、佐藤は『はじめての宗教論』において、恣意的独断的に、「『教会救義学』のうち「第三巻第四部(邦訳『創造論IV』全四冊)だけはぜひ読んだほうが良い」と述べているのであるが、この読み方では、バルトを根本的包括的に原理的に認識し理解することは全くできないのである。このことは、事実的に、バルトを根本的包括的に原理的に認識し理解していない佐藤の論述を読んでみれば、すぐに分かることである。バルトの<自然神学>論を高校の倫理レベルの知識で述べていた冨岡幸一郎もその類である。したがって、状況論も神学における思想の課題も持たない彼らは、バルトの信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成からは決して生じてくることはない、<権威>としての<天皇>制的<国家主義>(佐藤)を標榜し、またA級戦犯が合祀されている靖国神社参拝推進論(冨岡)を標榜してしまうのである。神学者・佐藤司郎の「カール・バルトのエキュメニカルな神学への道」論も、牧師・関口康の「カール・バルトの神学の構造上の致命的欠陥はどこにあるか」論も、バルトを根本的包括的に原理的に認識し理解することなく論じられたものなのである。総括的に言えば、彼らのそれは、<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返しているだけのそれでしかないものなのである。
 さて、バルト自身は、『バルト自伝』において、明確に、「イエス・キリストにおける私の恩寵の神学として組織だてる」という「私の仕事に生じた変化の意義を見かつ理解するためには、一九三二年と三八年に現われた私の『教会教義学』の最初の二冊を、ある程度研究する必要がある」と述べている。すなわち、教義学的頂に向かうバルトを根本的包括的に原理的に認識し理解するためには、邦訳の『神の言葉』T/1、T/2、II/1、II/2、II/3、II/4を読む必要があるのである。このことは、ほんとうのことなのである。
8)「(≪私たちは、神の側の真実としてのみある「本源的な客観性」である啓示の客観的実在そのもの、すなわちイエス・キリストの名、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示、その啓示に固有な証明能力、この≫)一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪党派性・党派的共同性・党派的多元主義・様々な主義・学派・教派・思想傾向・社会構成・支配構成・文化構成・民族・人種・時流や時勢・社会的政治的な言説や運動≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」(『教会教義学 神の言葉』)。
9)時代状況や思想状況が強いる神学における思想の課題としては、ほんとうは、自らの信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成それ自体において、信と信にある不信、信・知・キリスト者(教)と不信・非知・非キリスト者(教)、の両者を架橋し、その枠組を取り除き、信・知・キリスト者(教)を、その現にあるがままの不信・非知・非キリスト者(教)・大多数の被支配としての一般大衆一般市民に、完全に開かなければならないのである。バルトにとって、神の側の真実としてのみある「本源的な客観性」である主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」、神の義そのもの、単一性・神性・永遠性を本質とする「イエス・キリストの名」(神の子、神の言葉、死と復活の出来事、啓示・和解、啓示の客観的実在)における「『神われらと共に』という言葉」・「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの不信・非知・非キリスト者(教)、大多数の被支配としての一般大衆一般市民、全人間・全世界・全人類、に対して完全に開かれているのである(『カール・バルト教会教義学 和解論 T/1 「和解論の対象と問題」』)。
10)牧師・関口康は、「日曜日の礼拝中、説教中は、涙を流して感動し、興奮状態になったとしても、『このわたし』の現実は何一つ変わっているわけではないし、『このわたし』には日曜日以外の週日も生きていかなければならない責任があるのです。我々は、バルトが神学的論理によって締め出したものの只中で、生きていかなければなりません」・「論理の力というのは、実に恐ろしいものです。人間の営みや文化に意味も位置も与えられない神学の論理は、人を『神学的に』絶望に追いやることさえありえます。ガチで死にたくなる人がいてもおかしくないレベルです」・「人間の営みや文化は、全く意味も位置も持ちえなくなります。二千年の教会史も、教会制度も、もちろん牧師や長老や教会員の存在や努力なども、教会の青年会やキャンプやリトリートなども、キリスト教国の歴史も、エキュメニカルな対話も、全く無意味になります。そのような(客観的な)『キリスト』と(主観的な)『このわたし』の間に介在する一切のものは無意味・無価値と化し、時間が停止した真空の宇宙空間の中に『キリスト』と『このわたし』だけが漂っているかのようです」。私は、バルトを根本的包括的に原理的に理解もしないで、このような出鱈目な嘘を平然と並び立てる牧師・関口に驚愕する者である。
 この関口は、一方では「私の意図は、神学研究におけるフェアネスはどうすれば確保しうるのか、テキストを読まないで批判する人々のアンフェアな姿勢をどうすれば正すことができるのかについてのささやかな問題提起です」と述べながら、他方ではバルトを根本的包括的に原理的に理解もせずに、このように恣意的独断的な出鱈目な戯言を平然と述べているのである。関口は、おそらくは誰かの質の悪いバルト論を介在させてバルトを論じているに違いない。このような言葉の一貫性に欠ける関口の語り方から、私たちは、関口の言う「論理の力というのは、実に恐ろしいものです」ということを、出鱈目で良いという関口の主張、と理解するのである。
 ほんとうは、教会や神の子供たち・キリスト教的人間であれ、誰であれ、その「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは」、すなわちその現にあるがままの現実的な人間存在の生や生活である限りは、自己自身の問題や家族問題や生活問題や愛憎問題や喜怒哀楽や生老病死しか見ないに決まっているのである。しかし、教会や神の子供たち・キリスト教的人間は、啓示に固有な証明能力に基づいて、一方で、その人間の現実的な人間的存在が「イエス・キリストの人間的存在である限り」は、救済と平和・「甦りと永遠の生命以外の何ものをもみない」のである。このように、バルトは、終末論的限界の下で、啓示の弁証法において、私たちのその現実的な人間存在を見ているのである。このバルトに貫徹されているキリスト教の使信全体に通底している終末論的な性格と啓示の<弁証法>を、形而上学抽象的一面的皮相的固定的な思考をする牧師・関口は全く理解できないのである。関口は、どのような説教をしているのだろうか? バルト自身は、次のように述べている――@「キリスト者になる以前でも、彼は(≪すべて人間は≫)、キリストにおける神との連続性の中にある。ただ、彼はそのことを発見(≪認識≫)していないのだ(≪認識し信仰していないだけである≫)。彼が信じはじめるようになるとき、はじめてそのことを理解する(≪認識する・自覚する≫)」(『バルトとの対話』)。認識することは信仰することであり、信仰することは認識することである、A「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである )』」(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」・「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」(『福音と律法』)。このような事柄を、論理的に展開することが、教会の一つの機能である教義学の役割である。この場合、肝心なことは、次のことなのである――「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に信頼し固執する「認識」・信仰である。その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる。したがって、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍や人間論や人間学的なただ「単なる知識」に過ぎないある理念・ある概念の実体化・「最高存在」・「最モ完全ナ存在」としての啓示概念は、「神の言葉の三形態」における啓示の「概念の実在」ではないのである。神の言葉は、「人間の現実存在の内部(≪人間の対自的で対他的・他在であって自在・自由な自己意識・理性・思惟の無限性というヘーゲルの哲学原理の極限に想定される人間に内在する神的本質≫)」にはないのである。なぜならば、神に敵対し神に服従しない私たち人間は、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力」を一切持ってはいないからである。神の言葉は、その都度の神の自由な決断において、またその隠蔽と顕現において、「われわれのところに来」るのである。この神の聖性、神の隠蔽性・神の秘儀性とは、私たち人間のその啓示認識が、常に終末論的限界(≪自己相対化≫)の前に立たされるということである。したがって、神の言葉が「人間によって信じられる……出来事」・信仰の出来事は、徹頭徹尾人間「自身の業」ではなく、「神の言葉自身」である啓示の出来事と「聖霊の注出」においてのみ可能となるのである。すなわち、「言葉を与える主」は、同時に、「信仰を与える主」である。したがって、聖書の中で証しされている教会の宣教の課題である啓示、イエス・キリストにおける啓示の出来事の宣べ伝えを目指すことのない<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返すだけの、神学としても人間学としても非自立的で中途半端な人間学的神学における「単なる知識」としての形而上学的な教義学は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方」のものであっても、その教義学は「教義学としては非学問的」なのである。このことが、牧師・関口には全く理解できないのである。
11)これらの事柄を念頭に置いてバルトを読み理解し論じない場合、根本的包括的な原理的な誤謬に陥るのである。すなわち、その場合、バルトを形而上学的抽象的一面的皮相的空論的にしか読み理解し論じることしかできないのである。それが、大学神学者であろうが、教会牧師であろうが、キリスト教的メディア的著述家であろうが、そうなのである。また、信仰・神学・教会の宣教は、神学者や牧師やキリスト教的メディア的著述家の占有物では全くないのである。したがって、バルトは、次のように述べたのである――@「あらゆるキリスト者の生が、意識するにせよ、しないにせよ、やはりひとつの証しである」限り、「教会とその信仰を基礎づけている神の言葉から、提起される」「真理問題はあらゆるキリスト者に向けられている。この証しにおいてこの真理問題に対する責任を負う限り、いかなるキリスト者も彼自身がまた、神学者としても召されている」(『福音主義神学入門』)。A「教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任」を負っている(『啓示・教会・神学』)。B「教義学は、決して信仰と、その認識のより高い段階を意味しない」、なぜならば、「最も単純な福音の宣教も、それが神のみ心である時には、最も制限されない意味で、真理の宣べ伝えであることができるし、最も単純な聞き手に対しても、この真理を完全な効力をもって、伝えてゆくことができる」、「教義学者は、信仰者としても、知識を持つ者としても、神がここでなし給うことに関しては、教会の誰か一人の会員よりも、よりよい状況にあるわけではない」。教義学者とは「ただ単に教義学を専攻する大学教員や著述家だけ」のことではなく、「広く一般に、今日および昨日の教義学的問いによって突き当てられ動かされる者たち」のことである(『教会教義学 神の言葉』)。これら@・A・Bが肝心なことは、「良き神学」でない神学がごまんとあるからである。
 例えば、
ア)バルトは聖書の歴史認識の方法について、次のように述べている――@「聖書の中で物語られているもろもろの歴史」は、史実史や神話ではなく、「ただ、(一人、あるいは何人かの)物語者が物語られた歴史に対して、多かれ少なかれ(主観を交えて脚色しており、そういう意味で)干渉し、関与する」という「歴史物語あるいは古譚の要素を持ったもの」である。したがって、「中立的な観察者」として「聖書の中に証しされている啓示の『史実的な(historisch)』確かさを問う問い」は、「聖書にとっては全く縁遠いもの」であり、「聖書の証言の対象にとって」異質なものである。しかし、その聖書的証言に対して、それを「聞くもの、見る者、信じる者」である「非中立的な観察者」にとっては、啓示・聖書・教会の宣教(「神の言葉の三形態」)の中に「同時に啓示の秘義があったし、あり続けた」。したがって、その非中立的な観察者だけが、聖書の中の歴史について、「史実的」には「全く何も確かめられない」ということ知らされたし、「啓示の出来事にとって重要でないものだけ」・「啓示とは別の何かだけ」しか確認できないということを知らされた。このような訳であるから、史実的に正しい内容が重要なのではなく、重要なことは、聖書が、「シリアの総督のクレニオ」と「聖降誕の出来事」、「ポンテオ・ピラト」と使徒信条というように、神の啓示に対してその都度ごとに、一つの年代的・時間的と地誌的・空間的・地域的との限定性において、「出来事として起こったもろもろの歴史(Gschichten)」について語っているという点にある、A聖書の中の歴史は歴史物語あるいは古譚であって、そのような「神と人間との間に起こったもろもろの歴史」は、「神的な側面」からは、常に、人間が人間的に所有する人間の一般的な歴史認識・概念の彼岸・外にあるものである。すなわち、聖書証言の報知における歴史(Gschichte)・「特殊な歴史〔的出来事〕」については、いかなる「『史実的な(historisch)』判断」認識・概念もあり得ないのである。しかし、歴史主義は、人間精神が生み出したものを問題とする限り、「啓示を問おうとしない」で人間精神の自己理解を第一義として「聖書の中でも神話を問う」ことをする。しかし、「啓示の証言としての聖書の理解」と、「神話の証言としての聖書の理解」は、相互排除の関係にある。したがって、聖書記事を歴史物語とみなし、聖書記事の「一般的な歴史性(Geschitlichkeit)を問題化すること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃しない」。しかし、聖書記事を「神話として受けとること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃する」。なぜならば、啓示は、人間学的な「歴史の枠に、はめ込まれてしまうような歴史的出来事ではない」からである。したがって、聖書の歴史認識の方法は、その歴史を、「一般的な歴史性」を含んではいるが史実史ではない歴史物語・古譚として受けとる点にある(『教会教義学 神の言葉』)。
イ)このようなことは、人間学的領域においても言えることである。吉本隆明は、次のように述べている――@「(中略)ぼくは、マタイ伝の象徴している思想内容にくらべたら、史実性はあまり問題にならない……。(中略)日本でいえば荒井献さんでもいいし、田川健三さんでもいいんですが、歴史的イエスをどこまで限定できるかとか、できないとか、そういう立証のしかたや歴史観があるわけでしょう。ぼくはいまでもそれほどの重要性があるとはおもってないんです。それからそれがほんとうに、そういうふうに実証できているともおもえないところがあります(吉本隆明『信の構造2―全キリスト教論集成』春秋社)・「神話にはいろいろな解釈の仕方があります。比較神話学のように、他の周辺地域の神話との共通点や相違点をくらべていく考え方もありますし、神話なるものはすべて古代における祭式祭儀というものの物語化であるという考え方もあります。また神話のこの部分は歴史的〈事実〉であり、この部分はでっち上げであるというより分け方というやり方もあります。そのどの方法をとっている場合でも、この説がいいということは、いまのところ残念ながら断定できません。プロ野球で三割の打率があれば相当の打者だということになるのと同じように、神話乃至古代史の研究において、打率三割ならばまったく優秀な研究者であるとわたしはおもっています。じぶんでそれ以上の打率があるとおもっているやつはバカだとかんがえたほうがいいとおもいます(吉本隆明『南島論』)、Aまた、ミシェル・フーコーは、「形而上史学的な歴史の科学」とは異なる評価の方法について、次のように述べている――「ダーウィンの進化論の主要な構成は、遺伝学によって完全なかたちで裏付けられることになりましたが、彼はその進化論において鍵となるいくつかの概念を、今日では批判され捨て去られている科学的領域から引き出しました。(《しかし、そのことは》)、全く重大なことではないのです 」(『ミシェル・フーコーとの対話』)。
 このような訳であるから、私たちは、知識人や神学者や牧師やキリスト教的メディア的著述家たちの知識や情報を、そのまま鵜呑みにしたり模倣したりしない方がいいのである。

 

(B)事項――
 バルトは、「十八節 神の子らの生活」について、次のような理性的な定式化を行っていた。

 

「神の啓示は、それが聖霊の働きの中で信じられ認識されるところでは、神をイエス・キリストの中で尋ね求めることなしにはもはや存在せず、また神が既に彼らを見出されたことを証しすることなしには存在することができない人間を造り出す」。(302頁)

 

 私たちは、この定式から、「神の子らの生活」について、次のような事柄を聞いた――「啓示がなすよき業」、啓示に固有な証明能力によって規定されたキリスト教的人間の「存在」、すなわち聖霊の注ぎによって更新された「新しい主体と本質として……呼びかけられる」その「存在」・その思惟・その実践は、
@「内面的なもの」、すなわち「ほかの何人も彼のために代理をつとめることができない」「神との向かい合いの中にある」「個人」性・「孤独」性・個体性、「教会のただ中ににあっての個人」性・「孤独」性・個体性、対自的で対他的な「個人」性・「孤独」性・個体性、その「個人」性・「孤独」性・個体性における、神に向かっての自由な「決断」・神のための自由な「決断」、イエス・キリストに対する感謝の応答としての彼にのみ信頼し固着する自由な「決断」、神をキリストの中で尋ね求めるキリストにあっての「神への愛」・「神に対する人間の愛」と、
A「外面的なもの」、すなわち表現された外化された「個人」性・「孤独」性・個体性、客観的対象性、「神への讃美」としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)への信頼と固執と連帯を通した「交わり」・教会共同性、その「特定」の「行動すること」、その不可避的「必然的な行動」、「新約聖書において聞く啓示、和解」、イエス・キリストの死と復活の出来事、その内容であるインマヌエルの出来事、の告白・証し・宣べ伝え、
との同時性・同在性・構造性において理解することができる。
 キリスト教的人間・「彼の生活、行為」、自由な決断、が、「『キリスト教的』性格を明瞭に描き出す」場合、それは、向こう側から、「外から」、「神から」、神の側のから、やって「来る」、それである。すなわち、私や私たちの、「生活、行為」、自由な決断、における「『キリスト教的なもの』は、つねにただ」、「わたし」や「われわれ」ではなく「彼、主」が、私や私たちの「ために」・「代わりにということの表明であることができるだけ」なのである。したがって、それは、終末論的限界の下における、あの啓示に固有な証明能力を通して授与された人間的な人間の自己認識・自己理解・自己規定としての「神の子らの生活」・「教会の生活」・キリスト教的人間の生活としてのそれなのである。このように、それは、主が、イエス・キリストが、「慰めと警告と命令を与えつつ、限界づけつつ、力を奮うということ」であり、「神の子らの生活」・「教会の生活」・キリスト教的人間の生活の根拠である、ということである。したがって、この「神の子らの生活」・「教会の生活」・キリスト教的人間の生活における「キリスト教的なもの」の「実在」は、「彼ら自身の現実存在の隠れた実在である」。このことは、理解し易いように・イメージし易いように、『福音と律法』に即して言い換えれば、@「私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)」(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」ということである、A「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」ということである。すなわち、「彼ら自身の現実存在の隠れた実在」は、「わたし」や「わたしたちではなく彼が」・主が、「イエス・キリストという唯一の名」が、「この実在である」、ということである。
 「ただ間接的にのみ彼はわれわれと、われわれは彼と同一である。なぜならば、彼は神であり、われわれは人間であるからである」、「彼は天にいまし、われわれは地上にいる」からである、「彼は永遠に生き給い、われわれは時間的に生きるからである」、「この限界、終末論的な限界、は、彼とわれわれの間であくまで引かれ続けている」からである。私たちが、「神の子どもたちの生活」、「教会の生活」、キリスト教的人間の生活、を、「聖霊が造り出すものとして理解する時」、この認識と信仰を得る時、例えば前述した『福音と律法』(@・A)における、「交差し合っている」その存在・その思惟・その実践(行為)の人間的な自己認識・自己理解・自己規定を得るのである。「神の子供たち」・キリスト教的「人間の実際に異なった二つの規定」、すなわち聖書的な「生まれかわりと回心、義認と聖化、信仰と服従、神の子供と奴隷」の区別は、それを「規定する方」である単一性・神性・永遠性を本質とする「イエス・キリストと聖霊」において、「交差し合っている」、ということができるのである。
 聖霊によって更新された「彼」、すなわち「個人」性・「孤独」性・個体性における「彼」は、聖霊の注ぎによって「確かに神の言葉」を、「永遠の言葉、すなわち、肉をとり、ご自分の肉の中で、われわれの肉を、この言葉を聞き信じるすべてのものの肉を、父の栄光の中へと取り上げた永遠の言葉」を、「聞き、信じる」のであるから、「神をキリストの中」で「尋ね求めることこそ」が、教会や神の子供たち・キリスト教的人間の「生活の内面的なこと」であり、「個人」性・「孤独」性・個体性であり、その対象化された外化(表現)された「個人」性・「孤独」性・個体性は、彼らの外面的な「行為の意図」・教会共同性である。啓示に固有な証明能力に基づいて、具体的には啓示の主観的な可能性としての「神の言葉の三形態」を媒介・反復することを通した、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、「神を見出した者たち」、すなわち啓示認識・啓示信仰を授与された者たち、が、「神をキリストの中で尋ね求めることについて語っている聖書的概念」は、「神への愛」、「神に対する人間の愛」である。この「神への愛は、その人間がキリストとともに甦えらされたが故に、そのほかの彼の存在が彼から取り去られた後、ただそれだけが彼に残されている存在である」。なぜならば、「イエス・キリストご自身」が、「イエス・キリストにあってなし遂げられたわれわれの義認と解放が、われわれ自身の中においても現実となるため」に、私たち人間に「力と愛と慎との霊を与え給う」からである。「力の霊」とは、イエス・キリストにのみ信頼し固着させる霊である。「愛の霊」とは、イエス・キリストの「御意に従わしめる」霊・「律法の完成」であるイエス・キリストに対する愛の霊のことである。「慎みの霊」とは、人間が神の要求に対して自己主張し破滅することを防ぐ霊であり、人間が神を救い主として神を見・神に聞くよう促す霊である。
 この時、理性的な定式化における前者の「個人」性・「孤独」性・個体性は、「神をイエス・キリストの中で、尋ね求めることなしに、もはや存在すること」・思惟すること・実践することができないそれなのである。しかし、ただなお、「彼の背後には、……彼の既に片づけられた(≪キリストの復活によって根本的包括的に止揚し・克服された≫)罪、死の深淵がある」。すなわち、イエス・キリストにあって、「彼」は、啓示の弁証法において「恵みを受けた罪人である、義トサレタ罪人である」。また、理性的な定式化における後者のキリスト教的人間の、「外面的なもの」、「特定」の「行動すること」、「交わり」・教会共同性、「神への讃美」は、「彼らに語らなければならない彼ら自身に関する真理」である「神がすでに為した」・完了したところの全人間・全世界・全人類のために「キリストは死に、甦えられた」というイエス・キリストの死と復活の出来事、その内容であるインマヌエル――神、罪深きわれらと共に、ということ、「新約聖書において聞く啓示、和解」の出来事、その告白・「証し」・「宣べ伝え」にあるのである。なぜならば、「彼」は、聖霊の注ぎにより、「神の自由の中で、彼自身自由となり、神の子供となった」し、「神に向かって自由」となったし、「神のための自由」を得た、のだからである。したがって、「彼」は、「彼の現実存在全体を通して」、神に向かっての自由、神のための自由、の「決断」において、「生きるのである」。しかし、「彼の背後」には、依然として、神に向かっての人間の自由、神のための人間の自由、の「決断」とは違った「決断」を行う、イエス・キリストの死と復活の出来事によって止揚し・克服されたところの、人間の神からの離反・背き・罪、無神性、不信仰、があるのである。したがって、「彼」は、「ただ、キリストにあって」のみ、「救われている」のである。「まさにそれだからこそ、キリストについての証言に向かっての(≪神に向かっての自由、神のための自由、の≫)決断の中で、彼は生きる」のである。「彼」は、聖霊の注ぎによって、授与される啓示認識・啓示信仰である「義トサレタ罪人として」、キリストの「死と復活」の出来事を、神に向かっての自由、神のための自由、の「決断」において、「証ししようと欲し」、「証しし、告白する」のである。「外的な行い・業へと向か」わせられるのである。この時、彼は、キリスト教的人間における「個人」性・「孤独」性・個体性であるにもかかわらず、教会共同性の中に、「教会の交わりの中にいるのである」。聖書的概念として、「われわれが見出され、救われていることをこのように証しし、告白すること」は、「神への讃美」である。それは、キリストの死と復活の出来事からやってくる、不可避的「必然的な行動」としての、告白・証し・宣べ伝え、である。なぜならば、「個々の人間による和解の主体的実現という問題は、絶対に欠くことの出来ない問題」ではあるが、「イエス・キリストにおいて客観的に起った和解の主体的実現は、まず第一に教団において、イエス・キリストの聖霊の業として遂行される」(『カール・バルト教会教義学 和解論T/1』)からである、また、恩寵が「告知」・「証し」・「宣教」される時、「私は私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものだ」、イエス・キリストにのみ固着せよ、という福音を内容とする福音の形式である律法が建てられるのであるが 、それは、その律法(神の要求・要請としてのあの告白・証し・宣べ伝え)がなければ、私たち人間は、現実的に福音を所有することができないからである(『福音と律法』)。
 キリスト復活から再臨・終末・救贖・完成までの聖霊の時代における「キリスト教的生活」、「教会の生活」、「神の子供たちの生活」は、終末論的限界の下において、「神をキリストの中で尋ね求め」、「見出す人間」の途上の生活である。ここに、「神学的倫理学……の原理」がある。それは、「神への愛」、「神に対する人間の愛」、と、「神への讃美」、イエス・キリストの死と復活の出来事の告白・証し・宣べ伝え、との同時性・同在性・構造性においてあるのである。このように、教義学が、「キリスト教的人間の問題を既にその基本的な考察」の対象として「承認し、取り扱」い、「倫理学を自分の中に取り上げている」のであるから、「特別な、神学的倫理学」を必要としないのである。なぜならば、「教義学自身」が、終末論的限界の下での「神の言葉についての反省的考察」であり、神学的な「倫理学であるからである」。

 

 

「十八節 神の子らの生活」「二 神への愛」(その3−2)−1

 

 身体を座として持つ現実的な人間存在を生き死んでいく「キリスト信者の生活は、愛でもってはじまり……愛でもって終わる」。したがって、「信仰もまた愛に先行するものではない」。なぜならば、「信仰とは、……(≪神の側の真実としてのみある啓示の客観的実在そのものである主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」におけるその≫)イエス・キリストを信じる信仰である」から、「人が信じるならば、彼にとっては、キリストにあって神を愛する愛の中での存在」として、「彼は(≪その存在・その思惟・その実践において、キリストにあっての≫)神を尋ね求めることなしにいることはできないからである」。言い換えれば、「彼」は、啓示に固有な証明能力、具体的にはそれ自体が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復した、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいた、キリストにあっての「神を尋ね求めることなしにいることはできないからである」。この信仰、この信仰に先行する愛は、主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」におけるイエス・キリスト自身の死と復活による人間の「不信仰の罪に対する神の勝利」に根拠づけられたそれである。このイエス・キリストにおける人間の「不信仰の罪に対する神の勝利」は、単一性・神性・永遠性を本質とする「イエス・キリストにあってなし遂げられたわれわれの義認と解放が、われわれ自身の中においても現実となるため」に、私たち人間に対して「力と愛と慎との霊を与え給う」出来事である。キリストにあっての神の側の真実としてのみある、第一義的な、第一次的な、この「不信仰の罪に対する神の勝利」・「力と愛と慎との霊」の授与こそが、「信仰もまた愛に先行するものではない」ということの根拠である。「力の霊」とは、イエス・キリストにのみ固着させる霊である。「愛の霊」とは、イエス・キリストの「御意に従わしめる」霊・「律法の完成」であるイエス・キリストに対する愛の霊のことである。「慎みの霊」とは、人間が神の要求に対して自己主張し破滅することを防ぐ霊であり、人間が神を救い主として神を見・神に聞くよう促す霊である。このように、先ず以て、神に向かっての人間の自由、神のための人間の自由は、神の側の自由な決断においてのみ、神の側の真実としてのみ、やってくるそれである。このことは、すべての人間に、その現実的な人間存在すべてに、完全に開かれたそれである。したがって、人は、神に向かっての人間の自由、神のための人間の自由、に背反すること、すなわちキリストにあっての神から遠ざかり・遠ざかり続ること、また神に背き背き続けること、もあり得るのである。したがってまた、不信や非キリスト教においてだけでなく、信の中での・キリスト教の中での、不信や偶像崇拝や異教や異端もあり得るのである。この時、「彼」は、聖霊の注ぎによって、授与される「神の言葉の三形態」を通した人間の啓示認識・啓示信仰およびそれと同時的同在的に授与される人間の自己認識・自己理解・自己規定(啓示の主観的実在、啓示の主観的現実化、終末論的限界の下での啓示の「概念の実在」の内在化)である「義トサレタ罪人として」、キリストの「死と復活」の出来事を、神に向かっての人間の自由、神のための人間の自由、の「決断」において、すなわち「神への愛」の「決断」において、「証ししようと欲し」、「証しし、告白する」のである。これは、その「愛」の対象化・外化・表現、「神への讃美」である。そして、ほんとうは、このことこそが、信仰におけるすべての人間への愛の実践である。なぜならば、「イエス・キリストの名」こそが、完了された全人間・全世界・全人類の根本的包括的総体的永遠的な救済・平和(史)そのものであるからである。したがって、完了された全人間・全世界・全人類の根本的包括的総体的永遠的な救済・平和(史)そのものであるイエス・キリストについての「証言、宣教、説教」の繰り返しの言葉が、現に身近にいる「食物の飢え」等で困窮している具体的な一人の人や一部の人を施しや奉仕等によって相対的・部分的に救済しようとする緊急的過渡的な救済の「外的な行い・業」へと、「ある状況下において、その状況に抗する」「実践、行動」へと、「おのずから」・必然的につれて行くのである、「外的な行い・業へと向か」わせるのである。そうでなければ、「無に等しい」、「何の益もない」(Tコリント12・31、13、およびTヨハネ4・7−12)。ある者は「盲目的に」仕事へと没頭し、ある者は「人目をひくような簡素さと寡欲さに沈潜する」、また、ある者は「その時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行う」ことに、ある者は「大規模な世界改良の偉大な計画」に邁進する、そしてまた、ある者は「大衆や時代の傾向と手をたずさえて、ある種の正義」に邁進する、「まことに空の空なるかな、である。これらすべてのことが、一体何だろうか」である(『福音と律法』)。この言葉の背後には、最終的に離脱したバルトの宗教社会主義における体験思想が隠されている。バルトは、次のように述べている――「そこでの人間の困窮と人間に対する助けとが、聖書が理解しているほどには、真剣に理解されておらず、深く理解されて」いなかった、と(『証人としてのキリスト者』)。バルトは、啓示に固有な証明能力に基づいて、存在の類比には立脚せず、啓示の類比・信仰の類比・関係の類比に立脚しているのである。
 さて、「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、私たちの知識は一部分、予言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう」(Tコリント8−10)――このことを、パウロは、「来るべき世においての贖われた人間の存在と行為についても妥当する」と考えている、「神を顔と顔とを合わせて見るであろう永遠の生命の中においても、彼は愛するものであろう」、と考えている。(322・323頁)

 

 「愛」は、教会や神の子供たちの生活、キリスト教的人間の生活、「キリスト信者の生活の本質である」。「愛はローマ一三・一〇によれば、律法を完成するもの、Tテモテ一・五によれば、命令の目標である」。「マルコ一二・二九以下で律法と預言者とが……二重命令、あなたは、神とあなたの隣人を愛せよ、の中でまとめられている」。「愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える(Tコリント一三・七)」。「愛の中で真理は尊ばれる(Uテサロニケ二・一〇、Tコリント一三・六、エペソ四・一五)。愛は教会を建てる(Tコリント八・一、エペソ四・一六)」。この「キリスト信者の生活」、その「生活の表現としての愛」、現実的な人間存在・「人間の現実存在の自己規定としての愛」は、「自然の光」の中においてではなく、「恵みの光」の「領域」の中において、その「光の秩序と力」によって、啓示に固有な証明能力に基づいて、「神の言葉を聞き、信じる時」、それゆえに「神の子供として新しく生まれる時に、……理解されることができる」。なぜならば、「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に信頼し固執する「認識」・信仰であり、その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる、からである。またなぜならば、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」において、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識し承認し確認する、それゆえに、その時、私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認する、すなわち「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪裁き≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを認識し承認し確認する、からである。

 

ア)キリスト者における「愛するということをなすということ」・愛の行為は、先ず以て、「キリスト信者の生活がいまや愛でもってはじまることができるために」、そのキリスト者の生活そのものに、「人間に向かっての(≪キリストにおける≫)神の愛が、……先行していなければならない」、キリストにおける神に「彼が愛されるということ、彼が愛されたものであるということ」にのみ基づいていなければならない。なぜならば、単一性・神性・永遠性を本質とするまことの神にしてまことの人間「イエス・キリストにおける神の愛」は、神の「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」からである(『ローマ書』)。したがって、「キリストもルカ一四・三六で……言い給う」ているように、徹頭徹尾、「全身全霊をもって」「神への愛」を全うするということができ得ていない・でき得ない、「自分自身と全世界に対して敵となること」までしてそうすることができ得ていない・でき得ない、私たちの、現実的な人間存在における、「神への愛」の「困窮状態」・「絶望」――すなわちいつも、神から遠ざかり・遠ざかり続けている、神に背き・背き続けている、罪を新たな罪を犯し続けている「困窮状態」・「絶望」は、啓示に固有な証明能力に基づいて、神が私たち人間に対して「啓示されるようになる時」に、「神の言葉が肉(≪「イエス・キリストの名」・啓示の客観的実在≫)となり、われわれの肉」である「われわれの目と耳をあけ、そのようにして信仰(≪啓示の主観的実在≫)へと目覚ましめる聖霊を通して」、啓示の出来事と信仰の出来事を通して、それが無神性・不信仰として「裁きとなる時に」、キリストの復活によって根本的包括的に止揚され克服された・「慰められた絶望」・「困窮状態」として、「キリスト信者の生活にまでくる」のである。この時、「神の子供たちの誕生と生活が生起する」。「ただそのようにしてだけ、実在の人間が現実に愛するようになるのである」。このことは、丁度、次のような事柄と同じである――人間の「不従順・不信仰に抗して、イエス・キリストにあって義とされている」がゆえに、律法は人間をその不従順・不信仰によって「罪に定めることは出来ない」、このように、神の律法が人間を「真に罪に定めない」のであるから、律法は「もはや絶対に『罪と死との法則』」ではない、それは「生命の御霊の法則」である、したがって、ルターに強烈に存在したところの、人間が「律法に対して全体的に不従順であるという事実」における人間に生ずる「生の不安」は、根本的包括的に「克服された……慰められた……癒された不安、望みと喜びの確かな岸によって取りかこまれた不安にすぎない」、このことは終末論的限界と啓示の弁証法において語られており、それは、「生の不安」がなくなるということではなくて、イエス・キリストにおいて根本的に包括し止揚された・「克服された」・「慰められた」・「癒された」・「望みと喜び」の確かさに取り囲まれた「不安」ということである(『福音と律法』)。したがって、バルトは、佐藤優のように、「われわれは『天にいる神』をほんとうに信じていませんが、ほんとに信じていないことを口にしてはいけないというのが、キリスト教信仰の第一の前提です」と嘘ぶることなく、全く、正直に、素直に、次のように告白するのである――「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』」その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)、佐藤の言うような、通俗的な「神学(≪知識≫)」や「神学的な操作(≪非神話化等の操作≫)」では全くないであろう。
 「聖書の中でキリスト教的愛について語られている差異の文脈によく注意」すれば、次のように言うことができる――「神がまず、わたしたちが罪人であった時に、キリストの死の中で私たちに対する愛を示された(ローマ五・五)ことに基づいて」、すなわち「わたしたちが神を愛したというのではなく、神がわたしたちを<愛された>こと……に注意」しなければならない、「そしてご自分をわたしたちの罪の和解のためにつかわされたことの中に愛がある。わたしに愛の中にとどまっていなさいと主は命じ給う。なぜならば、父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのであるから(ヨハネ一五・九)」、したがって、「神への愛」は、この啓示の出来事と、「われわれに与えられる聖霊を通して」・キリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事を通して、「わたしたちの心の中に注がれるのである」。「『わたしを愛し、わたしのためにご自身を捧げられた』神のみ子を信じる信仰によって、パウロは、肉にあっての生活を生きる(ガラテヤ二・二〇)」。この「神のみ子を信じる信仰」は、バルトの場合、あくまでも、徹頭徹尾、神の側の真実としてのみある<主格的属格>としての「イエス・キリスト」そのもの、ということを念頭に置いて理解する必要がある。すなわち、私たち人間の義認と聖化と更新と救済の根拠は、<主格的属格>としての「イエスの信仰」・神の義そのもの、単一性・神性・永遠性を本質とするそのイエス・キリストの死と復活、にのみあるのであって、私たちのその「神のみ子を信じる信仰」にあるのではないのである。言い換えれば、この私たちの「神のみ子を信じる信仰」は、あくまでも啓示に固有な証明能力に基づいて授与された啓示認識・啓示信仰に対する感謝の応答、その告白と証しと宣べ伝え、としてあるのであって、それが私たちを義とするわけではないのである。ここに、バルトの啓示認識・啓示信仰の一貫性があるのである。ここに、バルトの信仰・神学・教会の宣教のその原理・認識方法と概念構成の一貫性があるのである。したがって、バルトは、「キリスト者になる以前でも、彼は(≪すべて人間は≫)、キリストにおける神との連続性の中にある。ただ、彼はそのことを発見(≪認識≫)していないのだ(≪認識し信仰していないだけである≫)。彼が信じはじめるようになるとき、はじめてそのことを理解する(≪認識する・自覚する≫)」、と述べたのである(『バルトとの対話』)。また、バルトは、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」・「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの不信・非キリスト者・非知、全人間・全世界・全人類に対して完全に開かれている、と述べたのである(『カール・バルト教会教義学 和解論 T/1 和解論の対象と問題』)。このようなバルトの信仰・神学・教会の宣教のその原理・認識方法と概念構成の一貫性は、次のように言うことができる――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリスト(≪一切の天然自然や一切の人間的自然に左右されることのない、啓示・和解の客観的現実性・客観的実在そのもの≫)が、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。
 「申命記三〇・六において、既にイスラエルに向かってこう言われている」――「あなたの神、主はあなたの心とあなたの子孫の心に割礼を施し、あなたをして心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主を愛させ、こうしてあなたに命を得させられるであろう」。したがって、信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成が<自然神学>の<段階>にある「トマス・アクィナスが、(≪神を、≫)……ワレワレニヨッテ〔ワレワレノ本性カラシテ〕自然ニ愛スルコトガデキルと考え」ること、すなわち「人間が神の啓示を度外視して」・啓示に固有な証明能力を「度外視し」捨象して、それゆえに人間自身の「啓示に先行する自然的な能力」と存在の類比に基づいて「神への自然的な愛」を考えること、は、「聖書の箇所」においては「考慮に入れられていない」のである。(323−326頁)

 

イ)したがって、「神の子供たちの愛」は、「被造物的な実在」として、現実的な人間存在の行為において、先行する「神的」な恵みの「光の中で神ご自身」によって「新たに創造」されるという「出来事となって起こる」のである。言い換えれば、このことは、「愛でないもの」が「愛」あるものとなる出来事である。この場合、「被造物的な実在」が、「神的な実在」に転化するわけで決してない。神の人間化や人間の神化を決して意味しない。すなわち、「イエス・キリストの中で起こった言葉の受肉と厳格に類比的関係を持っている」。言い換えれば、その「神の子供たちの愛」・その「彼の生活の新しさ」は、啓示に固有な証明能力、具体的には「神の言葉の三形態」を媒介・反復した、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて授与される、人間の啓示認識・啓示信仰、それと同時的同在的な、それに依拠した信仰の類比・関係の類比を通して授与される人間の自己認識・自己理解・自己規定によれば、次のことである――神の言葉の受肉・「神が人間となる」・「僕の姿」・「自分を空しくすること、受難、卑下」は、神の存在の本質である単一性・神性・永遠性の受肉ではなく、神の第二の存在の仕方である神の言葉の受肉であって、それゆえに単一性・永遠性・「神性の放棄」やその「減少」を意味するのでは決してなくて、あくまでも「神的姿の隠蔽」・「覆い隠し」・「秘義」を意味しているように、愛なきものから愛あるものとなる被造物的実在における出来事は、その現実的な人間存在における「人間性がそれとして損なわれることなし」、すなわちその人間性が神化されたり・その人間性に神的なものが付加されたりすることなしに、イエス・キリストにおける「神の言葉の中に……自分の人間性の主体を、見出す」出来事である。なぜならば、神の言葉の受肉――イエス・キリストの「その人間であるあることの中で」、その被造物的実在「のために、イエス・キリストが父の右に立ち、とりなし給うからである」。したがって、その被造物的実在は、その現にあるがままの現実的な人間存在でありつつ、「しかも神をこのイエス・キリストの中で尋ね求めること」、それゆえに神を「愛するということ以外のことは残されていないのである」。また、受肉・「神が人間となる」ことは、単一性・永遠性・「神性の放棄」やその「減少」を意味するのでは決してなくて、あくまでも「神的姿の隠蔽」・「覆い隠し」であったように、神の愛の中に基礎づけられた神の子供たちの神を愛する愛・「神の子供たちが……天的なかしらを慕い求めるものは」、「そのかしらのからだの地的な肢体」なのである。まことの人間イエス・キリストの「人間性」におけるそれである。したがって、イエス・キリストにおける「天的な愛すること」・「神的な愛」ではない。「神は愛である(Tヨハネ四・八、一六)という命題」は、「例えば神は霊である(ヨハネ四・二四)、あるいは主は霊である(Uコリント三・一七)と違って、〔主辞と賓辞を〕ひっくり返すことのできない命題である」。この命題は、「神的な方の愛のことを教えている」。啓示の真理によれば、人間は、自主性・自己主張の欲求、無神性・不信仰・真実の罪を本質としており、神の恩寵を嫌悪し回避する存在である。この人間に対して、神は、神の恩寵を嫌悪し回避する人間が「生きるためにのみ」、その「死を欲し給う」。しかし、人間はその神の要求(福音を内容とする福音の形式としての律法)に対してさえも、聞き従おうとはしない。したがって、福音の内容は、神の自由な愛によって、単一性・神性・永遠性を本質とするまことの神にしてまことの人間イエス・キリストが、その神の要求に対して然りと言い、人間のために人間に代わって、人間の「神の恩寵への嫌悪と回避」に対する神の答えである刑罰(死)を、「唯一回なし遂げ給うた」(律法の成就)ところにあるのである。すなわち、この福音の内容であるインマヌエルの出来事は、私たち人間からは「何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さず」とも、「神であることを廃めず」に、何ら価値や力や資格もない「罪によって暗くなり・破れた姿」の「人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬよう」に、「しかも混淆されぬように、統一し給うた」ということを内容としている(『福音と律法』)。言い換えれば、福音の内容は、神の側の真実としてのみある主格的属格としての「イエスの信仰」、神の義そのもの、そのイエス・キリストの死と復活の出来事、啓示・和解、インマヌエル、「イエス・キリストの名」、のことである。この「愛についてだけ、神は愛(≪神的な愛≫)であると言うことができる」。「われわれが愛するすべての愛」とは無限の質的差異があるこのイエス・キリストにおける神的な愛こそが、「その被造物的実在」における「神の子供たちが愛する愛の基礎づけである」。言い換えれば、この「愛の基礎づけ」は、啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」を媒介・反復させた、具体的には「まず第一に」「聖書にしたがっ」た、イエス・キリストにおける啓示の出来事と、聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰(啓示の主観的現実性、啓示の主観的実在)の授与として、「聖霊の奇蹟」(「愛の発生の秘義」)として、すなわち、自主性・自己主張・無神性・不信仰・真実の罪のただ中を生きる「この罪深い被造物である人間に対して……約束を信じる信仰の中でイエス・キリストが出会い給い、現にあるところの方、まことの神、まことの人間として、したがって彼の和解主として」、認識され信仰され明らかにされるという仕方で、人間の側にやってくるのである。三位一体の根本命題に即して理解すれば、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第三の存在の仕方である聖霊なる神は、「三度目」に、父と子の二つの存在の仕方から生じる「一つの存在の仕方」である。したがって、この聖霊の存在の仕方は、父と子の啓示に対する「特別な第二の啓示」ではなく、「父なる神と子なる神の愛の霊」である。ここに、聖霊の「起源」がある。神は、唯一性、単一性・神性・永遠性を本質としているから、父は子として「自分を自分から区別」するし自己啓示する神として自分自身が根源である。したがって、その区別された子は父が根源であり、愛に基づく父と子の交わりである聖霊は父と子が根源である。この聖霊において、父と子(≪神的対関係≫)は、愛に基づく完全な共存的な関係・交わり(≪神的共同性≫)においてある。すなわち、聖霊は、その「交わり」の中で、「父は子の父」・「言葉の語り手」であり、「子は父の子」・「語り手の言葉」であるところの「行為」・性質・働きである。ここに、神は愛・愛は神であることの根拠がある。「愛は神にとって、最高の法則であり、最後的な実在」である。愛は、自由がそうであったように、先ず以て「神ご自身」においてのみ「実在であり真理」である。したがって、愛も、啓示に固有な証明能力に基づく、啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して、人間の自己認識・自己理解・自己規定としてやってくるのである。この聖霊は、三度目の最後的な「存在の仕方」として、神にとって最高の法則・愛であって、その愛に基づく父の「存在の仕方」と子の「存在の仕方」の交わり・関係であり、神と人間との交わりの根拠である。

 

 さて、アウグスティヌスによれば、「聖霊は三位一体の中で……、父が子を愛する愛、子が父を愛する愛であり、われわれに対して……この聖霊が与えられている」・「人間的な精神ノ活動の代わりに、……人間のキリスト教的生活の中に」、そのような「聖霊ご自身が」、「直接……入ってくる」(「以上のような教えの「代表」は、「われわれが神と隣人を愛する愛は、神、しかも聖霊ご自身以外の何ものでもない」と主張したペトルス・ロンバルドゥスである)。それに対して、トマス・アクィナスの場合は、「われわれが愛するということ」は、「神ノ愛ヘノアル種ノ参与であり、それ自身では人間的な端緒をもった人間的理性と意志の活動」、「自己愛の対象的な疎外」・自己愛の外化(表現)である。「意志が聖霊ニヨッテ愛スルヨウニト動カサレルナラ、ソノ上意志ソノモノガコノ愛スルトイウ行為ヲ行ナウコトハフサワシイコトデアル」。このトマスの事柄が、啓示に固有な証明能力に基づいて、それゆえに人間の「功績」とならないところで<おのずから・必然的に>というのであれば、トマスにも正当性があるのであるが、しかしトマスが「われわれが愛すること」は「功績となる」という言葉を付加した時、彼は、根本的包括的な誤謬を犯すことになるのである。また、トマスは、「(≪われわれの≫)愛ノ行為が遂行されるためには」「神的な基礎と人間的な基礎の間」の「真中のところで働く」「第三の基礎」、すなわち聖霊によって、「人間ノ自然的能力」(人間的理性と意志の活動)が、「愛ノ運動」(愛の行為)へと「向ケサセ」られ・「愛ガ進ンデ、喜ンデナサレルヨウ」に「ツケ加エラレ」た「習慣的トナッタ形相」を要請したが、この場合、「人がより多くその神的な性格を強調するならば」、聖霊と人間的理性や意志との同一化・混淆へと向かうし、「人がより多くその人間的な性格を強調するならば」、前述した「聖霊の奇蹟」(愛の発生の秘義)は捨象されてしまうことになる。いずれにしても、両者とも、形而上学的抽象的一面的皮相的な、「ロンバルドゥスとともに『仮現論的な』人間論に、あるいはトマスとともに『エビオン主義的な』人間論に、すなわち総括的に言えば、<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返してしまうことになるし、「義トサレタ罪人」という啓示の弁証法における現実的な人間存在を捨象してしまうことになり、根本的包括的な誤謬を犯すことになるのである。したがって、「われわれが……愛の人間的な可能性問う問いに答えようと欲する時」は、「人間は確かに教会の領域の中で生きており」、それゆえに「洗礼を受け」、それゆえにまた「イエス・キリストは……彼のためにも死なれ甦えられたという約束の成就を望み見る展望をもっているということ」を「指し示すことがゆるされるだけであろう」。このことこそが、「まことのツケ加エラレ、習慣的トナッタ形相……である」。したがって、私たちは、「教会、洗礼、約束に、聖霊の力を、……信頼しつつ帰さ」なければならないし、それゆえに「愛を基礎づける力を、信頼しつつ帰さ」なければならないのである。この時、「人は……、実際にあるがままの人間、つけ加えも削除もなしの現実の人間が、約束にあずかることができるし、……その自然的な能力(それはそれ自体全くの無能力なのであるが、……)をもったこの人間が信仰の中で約束にあずかるようになり、信仰の中で愛しはじめるということから聖霊の注ぎの奇蹟が成り立っているということ……を考慮に入れる」のである。私たちは、これらのバルトの語りの内容から、すぐに、彼が<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返しているだけの神学者や牧師やキリスト教的メディア的著述家たちを、根本的包括的に原理的に止揚してそこから「超自然な神学」(A事項の「まえがき」で書いた意味でのそれ)・信仰・教会の宣教へと超出していることを理解することができるであろう。ルターが「Tヨハネ四・八、一六を註釈しつつ、愛について……語った時」、「ロンバルドゥスとともに聖霊と同一な愛のことを……、またトマスとともに、超自然な資質(≪聖霊によって「人間ノ自然的能力」に付加された「習慣的トナッタ形相」、人間の神化≫)として理解された愛のことを言おうとしていた」のではない。すなわち、ルターは、「人間的な領域においてただ約束と信仰の中にだけ基礎づけられた」前述した「愛のことを言おうとしていたのである」。「そのようなわけで彼は愛を、……讃美した。なぜならば彼は愛を、神と呼ばれるものにしているからである。……すべての被造物を超えて神ご自身の中においている。それであるから両者はひとつの同じものである(ルター)」。

 

 さて、バルトは、「個々の人間による和解の主体的実現という問題は、絶対に欠くことの出来ない問題」ではあるが、「イエス・キリストにおいて客観的に起った和解の主体的実現は、まず第一に教団において、イエス・キリストの聖霊の業として遂行される」と述べている(『カール・バルト教会教義学 和解論T/1』)。また、次のようにも述べている――聖書によれば、聖霊は、私たち人間の「救済主」である。しかし、単一性・神性・永遠性を本質とする聖霊は、「救済主」であるだけでなく、「子とともに、子の霊として、また和解者」でもあり、また、「父および子とともに創造主なる神」でもある。新約聖書の「イエスは主である」という「証言」は、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストを、「事実の承認」として・「思惟の初め」として語っている、したがって、この「イエスは主である」・「子を通しての父を、父を通しての子」を信じるこの「信仰」、神との出会いであるイエス・キリストとの出会い、この「信仰の出来事」は、聖霊の注ぎによるのである。この信仰の出来事は、新約聖書において、「啓示の出来事の中での主観的側面」、「聖霊の注ぎ」による人間的主観に実現された神の恵みの出来事、啓示認識・啓示信仰、啓示の主観的実在、啓示の主観的現実化のことである。そしてまた、救済を「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである、「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」、「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」、この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である、新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである、ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」、私たち人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍、にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてのみある啓示の客観的現実性・啓示の客観的実在・「イエス・キリストの名」、「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである、と。したがって、私たちは、「教会、洗礼、約束に、聖霊の力を、それであるから愛を基礎づける力を、信頼しつつ帰さ」なければならないのである。それ自体が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)における第三形態である教会の存在は、「聖霊の力」によるのである。したがってまた、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である「聖書こそ」が、教会に宣教を義務づけているのであるから、「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならない」のであり、絶えずくり返し聖書に聞くことを通して、教会は教会となることによって教会である、という途上の道を歩まなければならないのである。(326−330頁)

 

 さて、私たち人間に対する「神の愛」は、「われわれを愛する神の愛」と、それに基づく「神を愛するわれわれの愛」、との同時性・同在性・構造性としての「キリスト教的愛」の「実在根拠」であり「認識根拠」である。言い換えれば、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の客観的実在そのもの、そしてそれ自体が持つ啓示に固有な証明能力そのもの、が、「キリスト教的愛」の「実在根拠」であり「認識根拠」である。私たちが、愛は何であるか、と問う場合、具体的には聖書に依拠して、「まず第一に、われわれに対して向けられた神の、唯一の、無比な愛を問わなければならない……」、次に第二に、「われわれを愛し給う神の愛に応じるわれわれの答え」は「どのようでなければならないか」というその「内容を得てこなければならない」。そしてそこにおいて、「われわれのそのほかの、愛について自由に形成された諸概念が吟味されなければならないであろう」。

 

 トマス・アクィナスにおける「キリスト教的な愛」の定義は、先ず、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍、存在の類比、において理解された個体性における「愛情」を置き、次にそれに「キリスト教的愛の中での……相互的ナ愛シ合イ」を「つけ加」え、またそれに重ねて「神と人間との間の伝達」、「友愛」を「つけ加」えてできあがっている。それに対してバルトは、次のように述べている――「まず第一に、根本的に、それとして神的愛であるところの神の啓示の中での最高に一方的な伝達」、啓示の客観的実在そのもの、そしてそれ自体が持つ啓示に固有な証明能力そのもの、「があって、それから、それに基づいて、しかし……それから区別されて(相互的ニ……という言葉……と同一の段階におかれてはならない)人間的な愛シ合イ……があるのであり、その人間的な愛シ合イから」、「友愛という概念に関して考えられるべきものが引きだされなければならない……」、と。

 

 ヘーゲルの哲学原理は、人間の自由な自己意識の無限性の原理、区別を包括した同一性の原理、思惟と思惟されたものとの等価性の原理において、「本質的にキリスト教の正統的教義と一致する」。この時、「キリスト教のもろもろの根本真理」は、その「哲学によって維持され保管されることになる」。なぜならば、ヘーゲル哲学において啓示は、「意識に対して存在するものすべてのものが、意識にとって一つの対象となる時のような仕方において」現われるからである。自己意識・理性・思惟における、思惟の思惟、すなわち対象的意識と自己意識の統一的段階から、さらに思惟に思惟を重ねて具体的普遍の頂へと高次化する思惟は、自然から超出した精神であるから、その頂を極めた「精神は、また精神自体としては神と全く同一である」、これを支えているものが、無限と有限との統一としての「究極的同一性」である。他者に対する愛は、対自的な自己意識における、他者を媒介として自己還帰する自己否定の契機を伴う他者との「区別」を包括した「同一性の感情および意識」である、この時、「私は私の自己意識を私の内にもたず、むしろ他者の内にもつが、しかし私はこの他者の内においてのみ満足し、私の平安を見出す」、この「両者はただそれらの相互外在および同一性のこの意識である」、この自己意識である、この自己意識における「統一の直観」、「感知」、「知」、である。言い換えれば、「愛」としての「神は永遠の単純な理念である」。したがって、この運動する理念の弁証法的展開過程が、愛の実現過程である。この時、神は人間に転化し、人間は神に転化する。このように、ヘーゲルが「愛と等置しようとしている一般的な可能性」は、「非同一性」を包括した「同一性の可能性」である。「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」・「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」・「(中略)神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」(フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)。それに対してバルトは、次のように述べた――キリスト教的愛における「神は、(全く真剣な意味で)われわれから区別された在り方の中で、徹頭徹尾その自己意識をわれわれの中でもったり、あるいはわれわれのところで失ってしまうことなしに、われわれに対して働きかけ給う。『わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さった』(Tヨハネ四・一〇)」・このことに基づいて、「われわれが……神を愛し返す時、……われわれがわれわれの自己意識を神の中に持っているとか、あるいは神のところで失うということを意味していない。われわれが神と区別されている区別に関しても真剣なのである」・神と人間との無限の質的差異において、「ただこの区別の中でのみ、まさにこの区別の中でこそ、われわれは神を愛することができるし、神を愛するであろう」。私たちは、このバルトの語りから、すぐに、今回の序論の1)・2)・3)で述べた、神学における思想の課題としての、ヘーゲルの哲学原理を紙一重で超えて行く、バルトの信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成の重要性について理解することができるであろう。また、私たちは、愛は「相互に自分を相手の中に失い合うこと……という浪漫主義的概念」における、ヘーゲル的概念の通俗化にも「反対」しなければならない。

 

 リッチュルは、「愛は……ほかの、精神的な、したがって同質の人格に対して、その本来の、最高の定めを達成するようすすめ励まし、しかもそのことの中で愛する者自身が自分の最終目的(第三版では自己目的)を追求する不断の意志」、「他者の生の課題をこのように自分の課題とすること」、は、「自分自身を否定することではなく、むしろ自分自身を強める肯定である」、と述べている。すなわち、リッチュルは、「個人的な意志決定と社会的な意志決定」との「一致および均衡の可能性」を、「愛」と定義した。それに対してバルトは、次のように述べた――リッチュルが、「われわれに対する神の愛」(神的愛)について、「三位一体の神の啓示に」、「特にイエス・キリストの人格と業に視線を向けていたならば」、「神が、ご自分が愛されるということの中で、自分自身の自己目的を追求し給うというような言い方は、……決して思い浮かばなかったし、……書きはしなかった言い方である」、と。また、「神を愛するわれわれの愛」(人間的愛)について、「愛する者(人間)が『別な、精神的な、したがって同質の人格(神)に対して、その本来の、最高の定めを達成するようすすめ励ます』ということ」が問題ではないし、「われわれ自身の自己目的を追求することが……本質構成的に属していることであるかどうか問」われなければならない。人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍や人間論や人間学的における知識を、神的愛や人間的愛に適用することは、その最初から「誤謬は必然」となるであろう。因みに、人間学的に言っても、リッチュルは「他者の生の課題を……自分の課題とすること」は「自分自身を強める肯定である」と言っているのであるが、その生の課題を明確に提起せずにその言葉を述べているだけではないのか? 例えば、リッチュルは、神学的における思想の課題で言えば、個や一部の人の生の困窮の課題およびその救済と、全体の生の困窮の課題およびその救済とを架橋する課題を明確に述べていないし、人間学・国家論(革命論)における思想の課題で言えば、政治的観念的な部分的相対的緊急的な解放・救済という往相的課題と同時に、国家の無化を伴う人間の社会的現実的な究極的総体的永続的な解放・救済という還相的課題を明確に述べていないのである。

 

 さて、「神を愛するわれわれの愛を現に基礎づけ、それとともにそのような愛の本質を前もって規定しているわれわれを愛し給う神の愛」・神的愛は、次のように言うことができる。「自由・主権」は、三位一体の「神ご自身」においてのみ、「実在であり真理」であったように、「愛」もそうである。したがって、「われわれを愛する神の愛は、聖書によれば……ある特定の存在、態度、行動から成り立っている」(「ホセア一一・一、四、エレミヤ三一・三、申命記七・八、一〇・一四以下、詩一一・七、三三・五、Tヨハネ三・一、ヨハネ一五・一三以下、エペソ五・二、ローマ八・三七」)。神は「ご自身の中で愛であり給う」、それゆえに「われわれは」、その神に「愛されることによって」、啓示に固有な証明能力に基づいて、具体的には「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)に基づいて、「比喩的表現」としての「神の『心』」、すなわち「父・子・聖霊」としての三位一体の「神の『心』の中をうかがい見ることがゆるされる」し、「現にあるがままの神を認識する」ことができる。その「比喩的表現」としての「神の『心』」・「神の内面」は、「われわれを愛する神の愛は満ちあふれる、自由な愛」、愛それ自身としての神の自在であって他在・自由、というように表現することができる。このことは、「われわれに向けられた神の『外面』」、「神はわれわれを愛し給うたという事実」、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける「神の啓示の出来事」、具体的には、それ自体が聖霊の業であるのであるが、啓示の主観的可能性としての、三位一体論の唯一の啓示の類比である神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することを通してだけ、言うことができる。「この事実から」こそ、すなわちあの聖書の引用箇所の「神が選び、導き、助け、救出し給うという事実の言葉」からこそ、「われわれは、……神の愛……を学ばなければならない」。そして、その総括の言葉は、インマヌエルの出来事、すなわち「人間の罪、失われた状態、死、を引きうけ、これらすべてをご自分の身に負われて、人間に味方して立ち給う」「啓示と和解の出来事」、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の子・神の言葉、死と復活の出来事、啓示・和解、性質・行為・働き・業)「イエス・キリストの名」だけである。「神はそのひとり子を賜った(≪インマヌエル、神は単一性・神性・永遠性を本質とする「み子をわれわれの現実存在の中へと与え給うた」≫)ほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の生命を得るためである(ヨハネ三・一六)」。イエス・キリストにおいて、神は「われわれに対して現臨し給うことによって、われわれに負わされている恥と呪いは、彼に負わされるようになる。われわれの恥と呪いの担い手として、神はわれわれの恥と呪いとをわれわれから取り除いてくださる。神がそれら両方のものを自ら担いつつ取り除いてくださることによって、神はわれわれをきよく、汚れのない子供として父の前に立たせてくださる。そのように神は世をご自分と和解させ給う(Uコリント五・一九)」。このことが、「神がわれわれを愛し給う愛について……の事実」である。この事実の言葉を、私たちに向かって語り、「わたしはあなたを愛するがゆえに、恐れるな、わたしはあなたと共にいる(イザヤ四三・四以下)」と語るのは、「聖霊の業であり、賜物である」。聖霊の注ぎによって、この出来事が惹き起こされる時、それは、啓示認識・啓示信仰の授与(啓示の主観的実在)の出来事である。そして、「われわれはこの事実を聞く時、……万物の造り主がわれわれを愛してくださるということを聞くのである」。なぜならば、単一性・神性・永遠性を本質とする神は自己啓示する神として自分自身が根源であるから、先ず以て、父は子として「自分を自分から区別」するのであるが、その区別された子は父が根源であり、愛に基づく父と子の交わりである聖霊は父と子が根源であるからである、この神は、子の中で「創造主として、われわれの父」として自己啓示する、また、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主である、同様に、神は単一性・神性・永遠性を本質とするから、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある、からである。しかし、「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない。この意味は、「和解ないし啓示」は、神の「存在の仕方」の差異性における神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストの「新しい神の業」である。それは、「神的な愛の力」・「和解の力」である。イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、神の第二の存在の仕方において神の第二の神的行為・働き・業を遂行したのである。この神の存在の仕方の差異性における「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者≫)と言葉(≪啓示≫)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、創造主・父に先行することはできないのである。しかし、父・子は共に単一性・神性・永遠性を本質としているから、この従属的な関係は、その存在の本質の差異性を意味しているのではなく、その存在の仕方(性質・行為・働く・業)の差異性を意味している。
 「ルターがエラスムスに対し抗議している際の腹立たしい気持ち」は、次の言葉で表現されている――エラスムス「汝ハキリストニツイテ一言モ言及シテシナイ。アタカモ汝ハ、キリスト信者ノ敬虔ガキリストナシニ可能デアルト考エテイルカノヨウデアル。本性カラシテ最モ慈悲深イ神ガ全力ヲ尽クシテ〔シカモ〕コノ程度ニシカ敬ワレナイトシタラ。エラスムスヨ、ワタシハココデ何ヲイウベキデアロウカ」。バルトと共に、私も、このルターを首肯する。

 

 「わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである(ローマ八・三八)」・「神はみ旨によって、御子(イエス・キリスト)のうちに(神の)すべての満ちみちた徳を宿らせ、そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させてくださったのである(コロサイ一・一九以下)」・「啓示の中で万物を保っておられるのは、神のみ子である……和解主として、罪のきよめの業をなし終えてからいと高き所にいます大能者の右に、座につかれた方、……神のみ子である(ヘブル一・三、四)」。したがって、「創造主なる神の愛について」、形而上学的抽象的一面的皮相的固定的に思惟し・語ることをしないためには、「……われらの主イエス・キリストの永遠の父は、そのみ子キリストのゆえに、わたしたちの神またわたしたちの父でいます(ハイデルベルク信仰問答……第一条の説明の中での主要命題)」と述べなければならないのである。なぜならば、聖書また教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示するからである、それゆえに、この啓示が教会の宣教の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠である、この三位一体論は、神論の決定的に重要な構成要素であり、「啓示の認識原理」である、からである。したがって、「創造主としての神の働きについて、あるいは創造主としての神に負うている善き業について、語られなければならないすべてのことは、この主辞的命題」・あの主要命題に対する「賓辞としてつけ加えられるべきなのである」。単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストが、私たち人間に対して、啓示に固有な証明能力、具体的には「神の言葉の三形態」、もっと具体的には聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識し承認し確認する、したがって私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認する、すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪裁き≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを認識し承認し確認する、のである。私たちは、このように理解しなければ、その現にあるがままの、全人間・全世界・全人類は存在できないだろうし、次のような事柄も正直に受けとることができないであろう――「歴史とは個々の世代(≪個体的自己の成果の世代的総和≫)の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力を利用(≪媒介・反復≫)する」(マルクス『ドイツ・イデオロギー』)・「私の立場は、経済的な社会構造の発展を自然史的過程として理解しようとするものであって、決して個人を社会的諸関係に責任あるものとしようとするものではない。個人は、主観的にはどんなに諸関係を超越していると考えていても、社会的には畢竟その造出物にほかならないものであるからである」(マルクス『資本論』)・マルクスは資本主義の分析の際に、「労働者の貧困という問題に出くわして自然の希少のためだとか計画的な搾取のせいだとかといった、ありきたりの説明を拒」んだ。なぜならば、資本主義制度における生産は、制度的必然・「その基本的法則によって必然的に貧困を生産せざるをえない」ものだからである。すなわち、資本主義制度は、「何も働き手を飢えさせるために存在しているわけではないが、かといって彼らを飢えさせずに発展することもできない」ものなのである。したがって、「マルクスは搾取を告発するかわりに、生産を分析した」のである(ミシェル・フーコー『セックスと権力』)。

 

 このような訳で、「われわれに対する神の愛を記述しようとする時、われわれは……ただ」、神の愛そのものとしての「自由な憐れみであり、自由な恩恵である」「イエス・キリストのみ名を語り、宣べ伝えることができるだけ」なのである。したがって、そのこと自体が、「神の愛について語ることを意味している」。なぜならば、神は、「ご自身の中で、三位一体の神として愛であり給う」からである。このことは、「アウグスティヌスによって強調」された「思想」である。このような訳で、「神の愛はまた必然的に」おのずからわたしたちの愛の応答を・「われわれの愛し返しを呼び起こす」のである。「われわれがもっているよきもの、それは神ご自身であるか、あるいは神からくるものであるかそのいずれかである」、愛も先ず以て神の側からやってくる、それゆえにそれに対する愛の応答・感謝の応答が「必然的に」おのずから喚起されるのである。なぜならば、人間の愛は、不可避的に、「自己愛の対象的な疎外」、すなわち自己愛の外化(表現)としかならないからである。
 「神が存在すべきであり、また世を愛すべきであるということ、世に対して何か善いものを与えるべきであるということ、そのことはわれわれのすべての理性、感覚、悟性、術を超えている。(中略)まことに世が値した神の怒りの代りに、神は世を愛し、しかもあのように限りなく、理解を絶した仕方で世を愛されたので、神はそのひとり子を世に、その最も邪悪な敵対者に、与え給うたのである。(中略)あるがままの世……。悪い、恥ずべき人々に満ちた豚小屋。その人々は神のすべての被造物を最も恥ずべき仕方で乱用し、神を冒涜し(≪人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」・偶像を増産し、そしてその「神」の名と呼びかけによる人間自身が支配し管理するプログラムを増産し≫)、神にすべての害悪の責任を負わせている。しかもその恥ずべき人々を神は愛し給う。それこそすべての愛にまさった愛である。神はまことに善意に満ちた神であり給う。(中略)それはあまりに高く、わたしの術を超えている(ルター)」、終末論的限界の下で、「わたしは事実、あるがままに、それを詳述することはできないし、仔細を尽くして描き出すことはできない(ルター)」。

 

 さて、それでは、「われわれを愛し給う神の愛」に対する応答としての「われわれが愛する愛」とは何か?
 先ず以て語るべき、それは、私たちを「愛し給う」神的な愛から、「必然的に」おのずから喚起されるものである、ということである。言い換えれば、それは、あの、啓示の客観的実在それ自体がもつ啓示に固有な証明能力、具体的にはそれ自体が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」を通した、イエス・キリストにおける啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰、それと同時的同在的な、それに依拠した信仰の類比・関係の類比を通した自己認識・自己理解・自己規定、に根拠づけられた「記述でなければならない……」、ということである。「われわれを愛する神の愛についての、聖書的な証言は、聖霊の注ぎそのものがこの啓示のひとつの要素であるが故に、神を愛する人間の正しい愛を証しする(≪。それゆえに、それは、≫)われわれを見捨てない」、ということである。すなわち、それは、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍や人間論や人間学や存在の類比を通した人間の自己規定としては記述できない、ということである。したがって、そうした場合には、「われわれはキリスト教的愛を定義するに当たって、確実に、誤解の源(≪キリスト教に固有な愛の概念ではなく、一般的な愛についての概念の源≫)を開くことになるであろう」、その最初から「誤謬は必然」の道を歩むことになるであろう。この場合、人間の経験的普遍や人間論や人間学的な愛についての概念の混合・折衷が行われるだろうし、人類史段階における愛(感情・意識)の比較考量も行われだろう。したがって、例えば、この後者の問題から言えば、イザベラ・バードが総括していたように、「善悪・道徳の観念、高度な宗教をもたない」、人類史のアフリカ的縄文的<段階>の自然的な愛(感情・意識、これも「自己愛の対象的な疎外」・自己愛の外化である)を保管していたアイヌ人の方が、明治期の日本人や「キリスト教徒として生れ、洗礼を受け、クリスチャン・ネーム名をもらい、最後には聖なる墓地に葬られる」西洋人よりも、「誠実、高貴、立派な生活を送っている」し、総体として「アイヌ人は純潔であり、他人に対して親切であり、正直で崇敬の念が厚く、老人に対して思いやりがある」、と言うことができるであろう。このように、キリスト教的な愛を、あの神的な愛に根拠づけずに、人間的な自己愛の外化としての愛の奉仕を第一義化し第一次化して強調する場合、それで終わりである。この事例は、その現にあるがままの身近な教団共同性を垣間見るだけで、例示することもできる。すなわち、教会相互間において人事的資金的な適正な再分配等を行うことができない教団共同性を垣間見ればいい、また「後任牧師の選任」基準を、西洋の後追い知識でしかない、それゆえに大したことは全くない(吉本隆明によれば、夏目漱石の質の良さ・偉大さの一つは、彼がこのことに気づいていた点にある)「外国留学」と「学位」においている教会のその馬鹿げた教会共同性を垣間見ればいい。
 したがって、キリスト教的愛の固有性は、先ず以て、神の愛そのものである、神の側の真実そのものである、インマヌエルの出来事そのものである、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(性質・行為・働き・業、神の子、神の言葉、死と復活の出来事、啓示・和解)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける完了された全人間・全世界・全人類の根本的包括的総体的永遠的救済・平和(史)にあるのである。したがって、マタイ26・6−13、マルコ14・3−9は、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて神学における思想の課題に引きよせて言えば、イエスに注いだ香油を高く売ればある一部の「貧しい人々に施すことができたのに」とベタニアの女を叱責した弟子たちの往相的な相対的・一面的・部分的・過渡的・緊急的な救済の言葉に対して、イエスは、還相的な究極的・包括的・総体的・永遠的な全人間・全世界・全人類の救済・平和(史)の言葉を投げかけているのであるが、その思想の往還の認識と自覚が重要なのである。バルトは確信をもって語る――「すべての人間はキリストの実質上の兄弟である」、「キリスト者になる以前でも、彼は、(≪その現にあるがままで≫)キリストにおける神との連続性の中にいる。ただ、彼はそのことをまだ発見(≪認識・信仰≫)していない」だけである。
 このような訳で、信仰・神学・教会の宣教における思想の課題として、私は、身近な農民のために身も心も尽くした宮沢賢治の思想の往還の言葉、全体と個・部分との幸福・救済・平和を希求する同時的・同在的・構造的な言葉、すなわち「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『農業芸術概論綱要』)・全体が幸せにならなければほんとうの幸せとはならない(『よだかの星』の主題)における両者を架橋する思想の言葉が肝心なことであると確信する者である。

 

 「第一(のいましめ)はこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。第二はこれである『自分のようにあなたの隣り人を愛せよ』(マルコ一二・二九―三一)(この神への愛と隣人愛の聖句は、マタイ二二・三七以下、ルカ一〇・二七以下にもある)」。第一の戒めは、「絶対性と排他性」における命令である。したがって、「すべての命令中の命令」である。このような訳であるから、例えば、「神の愛の規定全体をそのまま隣人愛へと転用すること」は、「註釈的にゆるされない」ことである。なぜならば、「神への愛」は、「絶対性と排他性」における命令であるからである。この「絶対性と排他性」における命令を、隣人愛に転用することは矛盾となる。また、神への愛と隣人愛との「同一」化も「註釈的にゆるされない」。なぜならば、先ず隣人を神への愛と同じ位相で、「心をつくし、精神をつくし、……愛さなければならない」と言うことになるし、次に神を隣人愛と同じ位相で、自分を愛するように愛するということになってしまうからである。この極限を想定すれば、神と人間との無限の質的差異を捨象し無視した、「神は隣人であり、隣人は神であるという、滅びに導く冒?と混乱である……」。いずれにしても、このような「聖書的な啓示証言によって基礎づけ」られない・「聖書的な啓示証言に逆」らった「特定の、ゆるされざる……人間学的――神学的前提」は、「滅びに導く冒?と混乱」である、人間学の後追い知識として神学としても人間学としても非自立的で中途半端な、ただ単に<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返すだけの「大学社会の神学」・混合神学・人間学的な神学・信仰・教会の宣教でしかないものである。(330−341頁)

 

(1)マルコのみが「申命記六・四」にある「命令の前提」となっている「呼びかけ」の「言葉」を記している。「イスラエルよ、聞け」。したがって、この「愛の命令は、人類とか、何らかの自然的あるいは歴史的な交わりの中で生きている人々に向けられているのではない」。すなわち、この命令は、「ユダヤ人および異邦人の中から選ばれたメシアを信ずる者たちの教会」、「まことのイスラエル、イエス・キリストの教会だけ」に向けられている。なぜならば、この命令を聞くことができるためには、啓示に固有な証明能力に基づいて授与される人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰を必要とするからである、神のその都度の自由な決断に基づく「聖霊の注ぎ」による「神の言葉の三形態」への信頼と固執と連帯とそれの媒介・反復を必要とするからである。このように「キリスト教的愛」は、「その根底において、キリスト教的に愛するようにという要請と招きにおいて」、キリスト教に固有な「ひとつの存在なのである」。単一性・神性・永遠性を本質とする、「われわれのためにご自身を捧げられた、神の救う言葉」・「神のひとり子」・「イエス・キリストの名」に、「イスラエル、信ずる者の民」は、「属している」。しかし、即自的な「イスラエル」がこの「イスラエル」ではない、即自的な「民」がこの「民」ではない、即自的な宗教的建造物・制度・組織を擁した「教会」がこの「教会」ではない。後者のこの「イスラエル」・この「民」・この「教会」は、神に「聞く」ことによってのみ、「常に新しく決定される」。すなわち、具体的には、聖書に、絶えずくり返し聞くことによってのみ、教会は教会となる、ことができる。したがって、キリストの復活から再臨までの聖霊の時代における教会やキリスト者の生活は、絶えずくり返し、「神の言葉の三形態」に信頼し固執し連帯してそれを媒介・反復することにおいて、この「神の子供たち」、この「教会」となることができるのである。「何人も神の子供であることなしに聞くことはできないが、同時にまた何人も、聞くことなしに、しかも繰り返し聞くことなしに、神の子供であることはできない」。なぜならば、愛された、「聞くイスラエル」、聞く民、聞く神の子供たち、聞く教会は、おのずから必然的に、絶えずくり返し、その「命令の成就に向かって進んでゆく」からである。しかし、このことは、徹頭徹尾、イエス・キリストが、「イエス・キリストにあってなし遂げられたわれわれの義認と解放が、われわれ自身の中においても現実となるため」に、私たちに対して「力と愛と慎との霊を与え給う」ことに基づいている。「力の霊」とは、イエス・キリストにのみ固着させる霊である。「愛の霊」とは、イエス・キリストの「御意に従わしめる」霊・「律法の完成」であるイエス・キリストに対する愛の霊のことである。「慎みの霊」とは、人間が神の要求に対して自己主張し破滅することを防ぐ霊であり、人間が神を救い主として神を見・神に聞くよう促す霊である(『福音と律法』)。「イエス・キリストの中で、神は彼らのために味方してい給う。したがって、イエス・キリストの中で、彼らは、命令を聞く」ことによって、「愛するものとしての彼ら自身の未来を、彼らが律法を成就する成就を、つかむのである」。福音を内容とする福音の形式である律法は、@人間に対して、「罪と死の法則」の律法・「汝斯く斯くなるべし」という要求から、「生命の御霊の法則」・「汝斯く斯くならん」という約束へと回復せしめられたそれである、A「遂行せよ」と求める要求から、「信頼せよ」と求める要求へと回復せしめられたそれである。したがって、私たち全人間・全世界・全人類は、「生命の御霊の法則」である律法によって「イエス・キリストにあって解放された」のであるから、「われわれが己の解放を与えられるためには、彼に固着し得る」だけなのである(『福音と律法』)。
 聖書によれば、聖霊は、私たち人間の「救済主」である。しかし、聖霊は、「救済主」であるだけでなく、単一性・神性・永遠性を本質とする「子とともに、子の霊として、また和解者」でもあり、そしてまた「父および子とともに創造主なる神」でもある。新約聖書の「イエスは主である」という「証言」は、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストを、「事実の承認」として・「思惟の初め」として語っている。したがって、この「イエスは主である」・「子を通しての父を、父を通しての子」を信じるこの信仰、神との出会いであるイエスとの出会い、この「信仰の出来事」は、聖霊の注ぎによる。この信仰の出来事は、新約聖書において、「啓示の出来事の中での主観的側面」、「聖霊の注ぎ」による人間的主観に実現された神の恵みの出来事である啓示認識・啓示信仰のことである。救済を「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」・人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてのみある啓示の客観的実在・啓示の客観的現実性、「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである。したがって、バルトは次のように語るのである――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。(342−344頁)

 

(2)さらに、「命令の(≪「明瞭な」≫)前提」は、「主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である」、という点にある。「愛せよという厳命」が、「ヤハウェの独一無比性……と結びつけられていること」は、「かしこにおいてイスラエルに対しモーセを通して『われわれの神』……、イスラエルの主として、えがかれている方、その同一の主」は、「共観福音書のイエスの言葉にしたがっても」、啓示に固有な証明能力に基づいて「イエスを信じる者たちにとって」、単一性・神性・永遠性を本質とする「『ただひとりの主』であり給う」。単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストは、「彼らの人間的な現実存在を恥と呪いから、罪と死から解き放つという業において、……行動し給う」「ただひとりの主」である。「神は、神なき者がその状態(≪神だけでなく人間の自主性・自己主張もという欲求、無神性・不信仰・真実の罪≫)から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給う」、したがって、その自由な愛によって、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストが、その神の要求に対して然りと言い、私たちすべての人間のために人間に代わって、人間の「神の恩寵への嫌悪と回避」に対する神の答えである刑罰(死)を、「唯一回なし遂げ給うた」(律法の成就)のである(『福音と律法』)。このような訳で、その神の「命令」は、「独一無比な命令」であるし、しかも先ず以て福音を内容とする福音の形式としての命令である、すなわち先ず以て「要請、要求、指令といったようなものではなく、……賜物、提供、約束」である。したがって、それは、「人間に対してそこでなされているこの約束であるが故に、同時にまた無比な要請、要求、指令としての誡命」、福音を内容とする福音の形式、である。なぜならば、この福音の形式としての律法・誡命がなければ、私たちは、現実的に福音を所有することができないからである。したがって、このこと自体が福音の形式としての誡命に基づいていることであるが、福音が「告知」・「証し」・「宣教」される時、「私は私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものだ」、イエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固着せよ、という福音の形式である律法が建てられるのである。したがってまた、福音の形式としての律法・誡命は、単一性・神性・永遠性を本質とする、イエス・キリストを模倣することでは全くないし、イエス・キリストが信じたように信ずることでも全くないのである。それは、「福音の中核」であるイエス・キリストが、「律法を満たし・すべての誡めを遵守し給うたという事実」から考えられなければならないから、素直な感謝の応答、その告白・証し・宣べ伝えにあるのである。したがって、「われわれには絶対に実現出来ぬイエスの代理的な信仰を、承認し受け入れる」こと、「われわれの生命がキリストと共に保管されている」ことを承認し受け入れること、「十字架につけられ甦り給うたイエス・キリスト」に信頼し固着すること、これらが「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が(≪神の子供たちが、キリスト教的人間が≫)教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」なのである(『福音と律法』)。単一性・神性・永遠性を本質とする「この主に人間は属している」。そして、この主が、第一に、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ」、という「命令の内容について、決定を下されている」。その内容は、「わたしはお前のためにそのことをなした。お前はわたしのために何をなすか」ということではない。なぜならば、その場合、「彼は……神の無比の業の必要性と十分性」、すなわち神の業の完全性や完了性を「否定することになる」からである、その場合、神と人間との混淆・混合・共労・共働・協働が惹き起こされるからである、その場合、「確実に、神と並んでなおほかの実際の主人たち(≪信に内在する異端・不信・無神性、人間自身が対象化した神々、偶像、「神々の名」、その「神」の名と呼びかけによる人間自身が支配し管理するプログラム≫)が存在する……という思想に対し余地を与えることになる」からである。

 

 「イスラエルにおいて、しばしば繰り返された神に対する反逆の罪の正体」は、私たち自ら、神から遠ざかり・遠ざかり続けてしまう、また神に背き・背き続けてしまう、そしてまた罪を・新たな罪を犯し続けてしまう、というこのどうしようもない、人間の頑なさ、人間の自主性・自己主張の欲求、無神性・不信仰・真実の罪にある。私たちは、このことを、啓示に固有な証明能力において、<実感的>に認識することができる。前回述べたファン・ルーラー称賛者の牧師・関口康の出鱈目で軽薄で質が悪いバルト論におけるバルトとは違って、バルト自身は、啓示に固有な証明能力に基づいて、自らの信仰・神学・教会の宣教における体験の思想化という<実感的>な認識を介しながら、キリスト教的人間のその現にあるがままの現実的な人間存在における信仰を、次のように規定している――「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を「持っている」、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)。このバルトの質の良い言葉を対峙させるだけで、キリスト教的メディア的著述家・佐藤優の「われわれは『天にいる神』をほんとうに信じていませんが、ほんとに信じていないことを口にしてはいけないというのが、キリスト教信仰の第一の前提です。だからこそ神学が不可欠なのです。神学的な操作(≪非神話化等の操作≫)を経ない限り、われわれは古代の世界像をもっているキリスト教を信じることはできないということです」という形而上学抽象的一面的皮相的な発言やそれと同類の牧師・関口康の発言の、全くの質の悪さを知ってしまうのである。このような訳で、私は、二、三流の百冊や百語よりも、一流の一冊や一語、ということを確信している者である。状況論なき神学における思想の課題なきモルトマンに評価されたから評価できるのだとファン・ルーラーを称賛している関口は、せめて牧師としては、『福音と律法』の「難解さは、ここに論じられている事柄そのものの重さとこれを論じるバルトの洞察の深さから来ている。この難解さに堪えて読まれる人には、それに報いて余りある喜びが分かたれるにちがいない」、と訳者「あとがき」で書いた井上良雄のような質の良い言葉を発信して欲しいものである。いずれにしても、イスラエルの民が、人間の自主性・自己主張の欲求から神に反逆し、「ただひとりの助け主としての神から自分たちを引き離してしまった……中で、偶像をたてておがむことは、異教の祭壇がたてられる前に、既におこっていたのである」。それでは、「イエス・キリストの教会における堕落とは何」か? それは、イエス・キリストを、三位一体論的――キリスト論的に、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストとして認めないで、それゆえにその「傍らに」また「ひとつの特別なキリスト教的義とか神聖さとか生命……を……おき、……対立させておこうとした」点にある。それは、総括的に言えば、彼らが、<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返すだけのキリスト教的な信仰・神学・教会の宣教を目指している、という点にある。例えば、それは、「もはやいかなるキリスト者も、『聖書』や『イエス・キリスト』という名を記憶している人たちさえも、もはやこの地上のどこにも残っていないとしても、それでもなお、『神われらとともに』という事実(Faktum)にわたしたちが堅く結びつけられているということそのことは、神において永遠に決定されていることなのだ」 (『カール・バルト研究』)と述べた滝沢克己に見出すことができる、また「イエスは別段自分を超人間的存在として自覚していたわけではなく、『人の子』語句でもって人間存在の根底を語り続けた」・「ただの人であり、ただの人として自らを自覚し、ただの人の真実のあり方を告げた」(『イエス』)と述べた、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストを捨象してしまっただけでなく、神の第二の存在の仕方におけるイエス・キリストの神性性をも捨象してしまった八木誠一に見出すことができる。そしてまた、状況論なき思想なきその停滞した中世的思考において、「聖霊論的説教論」は「神学の優位性を確保しつつ、人間学を正当に評価する位置を与え得るもの」であると主張した佐藤司郎や小泉健やルドルフ・ボーレンに見出すことができる。さらに、ヘーゲルの西洋近代を頂点とする直線的な進歩史観に依拠して神学的三段階的進歩史観を主張した状況論なき思想なきモルトマンに見出すことができる。この、ヘーゲルの進歩史観の神学化に過ぎない主張をしたモルトマンに評価されたからファン・ルーラーを評価できると主張した牧師・関口康に見出すことができる。

 

 このような訳で、「ただひとりの主としての神の命令」は、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストにおける神を「愛せよ」として、聞かれるところでだけ、「聞かれ尊ばれる」。なぜならば、聖書また教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示されたからである。したがって、この啓示が教会の宣教の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠である。したがってまた、この三位一体論は、神論の決定的に重要な構成要素であり、「啓示の認識原理」である。このような訳で、「教会の宣教の批判と訂正」は、常にこの三位一体論に即して行わなければならないのである。なぜならば、この三位一体論を啓示認識の原理にしない場合、すぐに神性否定のキリスト論や半神・半人キリスト論や三神論や「超人」や人間の「最深の本質」や「最高の理想」や神の人間化・人間の神化や神学と人間学との混合神学・人間学的神学へと埋没していく以外にないからである。総括的に言えば「空虚な」<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返す以外にないからである。
 人間の、神への愛、神を「愛するということ」は、その存在・その思惟・その実践において、「神がただひとりの神であるという唯一性」「独一無比な意味で」、私と私たち(教会や神の子供たち、キリスト教的人間)とすべての人間の完了された究極的包括的総体的永遠的な救済・平和のために「死に甦られた」、それゆえに私と私たち(教会や神の子供たち、キリスト教的人間)とすべての人間の生と生活の根拠・希望そのものである、イエス・キリストにおける神を、「自分の主として選ぶこと」、「主たらしめること」、にある。しかし、この神への愛の「命令の成就」は、人間の意志力や意志的行為の極限に想定されるそれでは全くない。このことは、キリスト者として、信仰において、実感的に認識できることである。したがって、神は「ひとりの主である」から、人間が神への愛を、「自分自身のものとして」、自分自身で意志的に成就できるものとして、「さし出そうとするとき」、「神への愛は否定され踏みにじられてしまうことになる」、人間の自主性・自己主張の欲求に基づく恣意的独断的な神に対する「熱心さの無知」を生じさせる。なぜならば、キリスト教的人間であれ身体を座とする「肉」であるから、その現実的な人間存在における「われわれ自身のものは神を愛するわれわれ自身の愛……も、……常にただわれわれの恥であり、呪いであり得るだけである」からである、不可避的にどうしようもなく「自己愛の対象的な疎外」、自己愛の外化(表現)とならざるを得ないからである。したがって、このことは、人間の人間に対する愛、愛の奉仕についてもそうなのである。キリスト者のそれであれ、誰のそれであれ、現実的な人間存在、その現にあるがままの現実的な人間存在、における愛は、その質や程度の差はあれ、どうしても不可避的に自己愛の外化としかならないのである。啓示に固有な証明能力に基づいて授与された啓示認識は、「徹底的に(≪そのことについて≫)承認」し確認をさせるのである、「われわれが愛のない者としてしかも神によって愛されている者であるということを承認」し確認させるのである。ただ<自然神学>の<段階>で停滞と循環を繰り返しているだけの牧師・関口康の恣意的独断的で出鱈目で軽薄なバルト論における人間理解を、このバルトの現在から未来に生きる人間の現実存在についての「深い洞察力」(井上良雄)の言葉は、ファン・ルーラーや関口の「空虚な」戯言を粉砕してしまうであろう。

 

 このような訳であるから、単一性・神性・永遠性を本質とする「イエス・キリストご自身の中にこそ」、それゆえに「イエス・キリストをわれわれが承認することの中にこそ」、イエス・キリストに信頼し固執することの中にこそ、「唯一の主としての神の前での、神の中での」、「神がわれわれを愛してくださった愛に答えるところのわれわれが愛する愛」の「はじまりと継続をもつことができるのである」。なぜならば、@「イエス・キリストにおける神の愛」は、神ご自身の「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」からである(『ローマ書』)、A「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」 からである。(344−347頁)

 

(3)あの「命令はわれわれを〔一つの〕『汝は……すべし』の前におく」。しかし、この福音を内容とする福音の形式である「『汝は……すべし』(Du sollst!)の(≪命令の≫)中」には、同時的に同在的に、「福音の『汝は……するであろう』(Du wirst!)」が「含まれている」ところそれである。なぜならば、イエス・キリストの死と復活の出来事による「律法を悪用する罪に対する神の勝利」とは、「神ご自身」が、私たちを「罪と死との法則」である律法から解放した出来事のことであり、それゆえに人間の「不従順・不信仰に抗して、イエス・キリストにあって義とされている」がゆえに、律法は人間をその不従順・不信仰によって「罪に定めることは出来ない」からである。このように、神の律法が人間を「真に罪に定めない」のであるから、律法は「もはや絶対に『罪と死との法則』」ではない。したがって、ルターに強烈に存在したところの、人間が「律法に対して全体的に不従順であるという事実」における人間に生ずる「生の不安」は、「克服された……慰められた……癒された不安、望みと喜びの確かな岸によって取りかこまれた不安にすぎない」。このことは終末論的限界と啓示の弁証法において語られており、それは、「生の不安」がなくなるということではなくて、イエス・キリストにおいて根本的包括的に止揚された・「克服された」・「慰められた」・「癒された」・「望みと喜び」の確かさに取り囲まれた「不安」ということである。このような訳であるから、福音を内容とする福音の形式である神の律法・神の命令・神の要求・神の要請は、人間に対して、「罪と死の法則」としての律法・「汝斯く斯くなるべし」という要求から、「生命の御霊の法則」としての律法・「汝斯く斯くならん」という約束へと回復せしめられたそれである、「遂行せよ」と求める要求から、「信頼せよ」と求める要求へと回復せしめられたそれである。したがって、私は、私たちは(教会や神の子供たちは、キリスト教的人間)、全人間・全世界・全人類は、「生命の御霊の法則」としての律法によって「イエス・キリストにあって解放された」のであるから、「われわれが己の解放を与えられるためには、彼に固着し得る」だけなのである(『福音と律法』、拙著155−159頁およびホームページ参照)。単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執すること、その素直な告白・証し・宣べ伝え――これこそが、福音を内容とする福音の形式である神の律法・神の命令・神の要求・神の要請である。イエス・キリストにおける死と復活の出来事、啓示・和解、インマヌエル、イエス・キリストの名(啓示の客観的現実性、啓示の客観的実在)が、このイエス・キリストと共に「われわれの生命が……保管されている」ことが、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」である。そうでないならば、神の命令・神の律法は、形而上学的抽象的一面的皮相的固定的空論的なそれ、「抽象的な『律法』」・「抽象的な義務意識」・諸利害や諸矛盾、対自的な自己意識の世界、情念の世界、を押し隠した自己欺瞞に満ちた市民的観点・市民的常識(往相的観点)・「道徳的な生活態度」・「神的な『汝は斯くなすであろう』」を恣意的に変じた「人間的な余りに人間的な『汝は斯くなすべし』」等々のそれでしかないものであるだろう。(348−352頁)
 「福音の『汝は……するであろう』(Du wirst!)」が「含まれている」、福音を内容とする福音の形式である「『汝は……すべし』(Du sollst!)の言葉は、おのずから「必然」的に、「自明」的に、不可避的に、「自発的に」、神を愛する行為へと、神への愛へと、「ひとつの服従の行為」へと、向かわしめるのである。この時、神への愛は、「命令の成就」、「服従」、「服従の行為であり得るだけである」。このように、バルトの信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成においては、言葉だけでなく行為も、理論だけでなく実践も、と言わなくても、その言葉自体が、その理論自体が、行為の方へと実践の方へと、おのずから「必然的につれてゆくようにできあがっていた」し・「必然的につれてゆくようにできあがって」いるのである。したがって、バルトは、それが教会的なそれであれ・社会的なそれであれ・政治的なそれであれ、自らの神学的実存について、「かつて語った説教の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから実践に、決断に、行動になって行った」、と述べたのである(『カール・バルトの生涯』)。言い換えれば、バルトにおいては、キリスト教的人間のその現にあるがままの現実的な人間存在におけるその両者の関係性は、「イエス・キリストの名」において架橋されたそれだったのである。したがって、バーゼルの刑務所での説教奉仕も、ドイツ教会闘争も、反ナチ闘争も、<神への愛>について「かつて語った説教の一貫した繰り返し」の言葉・理論が、おのずから必然的に、そうさせたそれなのである。それに対して、国家の無化を伴う究極的包括的永続的な社会的現実的な人間の解放の構想(革命論・国家論)を明確に提起することなくなされたクラッパートや寺園喜基における、「キリストと同じ形になること」を目指す、「神学的なもの」と「政治的なもの」との「必然的関係」および「正しい関係」としての地続き的な「倫理―隣人愛―仕える教会―信徒―民主主義的社会主義―平和運動」という形成倫理学は、形而上学的抽象的一面的皮相的固定的空論的な戯言に過ぎないものなのである。また、『説教と牧会』で、信仰・神学・教会の宣教の領域において、「キリストの証言」は、「<言葉>と<行為>とを……要求する」、言葉だけでなく行為も、理論だけでなく実践も、と述べた、また革命論(国家論)における過渡的なまた究極的な課題も持たずになされた、ボンヘッファーの正義の体現行為としての「ヒトラー暗殺計画の陰謀」は、ただ「夢想家」(バルト)としての行為でしかないものだったのである。したがって、たとえその政治的実践が成功したとしても、また新たな人間自身が支配し管理する法的政治的な権力の構成で終わってしまうものでしかなかったのである。バルトは、次のような質の良い思想の言葉を持っている――@「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになっている」・「国家は支配であり、文化は支配」である。したがって、「どのような国家形態にも、どのような文化傾向にも、無条件に『然り』とは言わぬ」(『啓示・教会・神学』)、A「西の獅子に全力をあげて抵抗しないような人びとは、決して東の獅子にも抵抗しえないし、また事実、抵抗しない」。(もちろん、竹中・小泉路線もそれであったが、アメリカにおけるキリスト教も加担した新保守主義と結びついた小さな政府を目指す新自由主義も、国家を第一義・価値とする国家経済的自由至上主義であり・国家至上市場主義経済化に過ぎないが)、ナチズムも、全体主義も、スターリニズムも、修正資本主義も、国家を第一義(価値)とする国家社会主義に過ぎないことを理解できなかったラインホルド・ニーバーは、西側イデオロギー・権力に加担することだけを目指した、ただ単なるキリスト教的政治屋に過ぎなかった(『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』)、B「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求め」ようとしないで、「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待」するべきである(前掲書)、C「不毛な反抗や反論を避けて」、「西でも東でも等しく通用し、西でも東でもひとしく稀であり、人々に好まれぬ福音に、無償の恩寵によって、素直に止まる」べきである」(同書)、D「われわれは平和を維持するためにできる限りのことをしなければならない」。しかし、「このことは、われわれは平和主義者でなければならないということを意味しない。平和主義は一つの絶対主義だ(すべての主義のように)。われわれは神には服従するが、一つの原理や理念にはしない。したがって、われわれは最後の手段のために、(≪政治的近代国家・民族国家が存在する限り、すなわち民族国家が軍事部門を構成し一部支配上層の意思によって戦争が行われ得る可能性があるという意味で≫)戦争の可能性はあけておかなければならない」。このように、バルトは、教条主義者では全くないのである。(『バルトとの対話』)。