14の6『教会教義学 神論Ⅰ/1 神の認識』「五章 神の認識 二十七節 神認識の限界」「二 人間の神認識の真理性」
14の6『教会教義学 神論Ⅰ/1 神の認識』「五章 神の認識 二十七節 神認識の限界」「二 人間の神認識の真理性」(449-468頁)
再推敲・再整理版です。
「二 人間の神認識の真理性」
われわれは、神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける神の自己啓示からして、キリストにあっての「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、キリストの霊である聖霊の証しの力、あの総体的構造(下記の【注】を参照)に基づいて終末論的限界の下で与えられる人間が人間的に所有する人間の「人間的な(≪信仰の認識としての≫)神認識の真実性」を、客観的な「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」)に包括された主観的な「認識的な必然性」(その啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)に基づくものとして、キリストにあっての「啓示の中での神の真実性……として定義した」。また、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で、その啓示から措定されてくる「外的ナ譲与ノアナロギア」、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)、「アナロギアヲ与エルモノとアナロギアヲ受ケルモノとの部分的な対応と一致」、「類似性」において、他律的服従と自律的服従との全体性において「神の真実性にあずかるこのわれわれの参与を、感謝の態度……として解明した」。また、その「類似性を、その起源からして、それの成立の過程からして、その実在からして説明した」。「それと共に、われわれは再び啓示そのものの実在の前に、すなわち神の隠れから顕われへと通じる啓示の道」、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト――この「啓示の道……の前に立った」。何故ならば、一般的啓示、一般的真理、自然神学、存在の類比に立脚するのではなく、キリストにあっての特別の啓示、啓示の真理、啓示神学、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)に立脚して、常に先行するキリストにあっての神に後続することを目指すわれわれは、終末論的限界の下でのその途上性の中で、あの総体的構造における主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神のことである聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者とするという「最後の保証と確認を必要としている」からである。また、一般的啓示、一般的真理、自然神学、存在の類比に立脚して、「人は、……こう言うこともできるであろう、最後の保証撤廃と保証除去を必要としている」、と。このような訳で、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、われわれは、「結局、疑いもなく、(その中で、われわれが、神認識の出発点を見出した)神の隠れから出発し、また神認識の目標を確認するに際して、まさに神の隠れへと戻った円環」・「循環」、あの総体的構造に基づいた「われわれの(≪信仰の認識としての≫)神認識の真実性の間接的証拠を必要とする」のである。それは、あの総体的構造の中での客観的に存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)の現存である――あの総体的構造の中での客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」のであり、そういう仕方で「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるしである」。あの総体的構造に基づいたキリストにあっての啓示の「真理ノ循環」が、「何らかの抽象をもって始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」等において「形而上学的に深められた人間的な自己認識(≪・自己理解・自己規定≫)のさまざまな形式と混同することを防止する」のである。したがって、そうした「形而上学的に深められた人間的な自己認識(≪・自己理解・自己規定≫)のさまざまな形式」を限界づけ防止するのは、「われわれが啓示、恵み、啓示と恵みの神学という概念を中心的に、どんなに注意深く体系的に使うとしても、そのようなわれわれの人間的な概念ではない」のである。われわれの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者は、あの総体的構造の中での「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における「先ず第一義的に優位に立つ原理」・規準・法廷・審判者・支配者としての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)と共に、第三の形態の神の言葉である全く人間的な「教会に宣教を義務づけている」第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)である。われわれは、「神認識の真実性を問う問い」において、あの総体的構造に基づいた「神認識は現実のことであり、可能であるということを前提していた」のであるが、ここでは「『神認識の限界』の問題全体がもう一度提示されている」のである。したがって、われわれは、最後的には、次のように言わなければならない――教会の宣教およびその一つの補助的機能としての神学における思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」、それ故にそれは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度(≪「祈り」の態度≫)に対し神が応じて下さる(≪「祈りの聞き届け」≫)ということに基づいて成立している」、と(『教会教義学 神の言葉』)。もしもそうでないならば、その時には、「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」だろう、また「神の啓示の内容は、(≪「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下にあるキリストにあっての≫)神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって(≪恣意的独断的に≫)規定された神(≪「存在者レベルでの神」≫)から発生した……」ものであるだろう、それ故にその「対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」であろう(『キリスト教の本質』)、「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」であろう(『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演 下」)。
【注】
イエス・キリストにおける神の自己啓示は、自己自身である神としての(ご自身の中での神としての)自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれは、神の不把握性の下にある)「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動)、すなわち起源的な第一の存在の仕方としてのイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解者、第三の存在の仕方としての神的愛に基づく父との交わりとしての聖霊――「啓示されてあること」・キリスト教に固有な客観的に存在しているイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間、「真に罪なき、従順なお方」「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」(「ただイエス・キリストの名だけ」)において、その内在的本質である「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示である。
そのような訳で、神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける神の自己啓示は、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」(客観的な「啓示の出来事」の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を包括した客観的な「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」)を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)という総体的構造を持っている。そうでないならば、神は、人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化され第一義化・価値化・絶対化された人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質に過ぎないものであるであろう、すなわち「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下でのキリストにあっての神としての神ではないであろう。
「まさに(≪イエス・キリストにおける神の自己≫)啓示の中でこそ、まさにイエス・キリストの中でこそ、隠れた神は、ご自身を把握できるものとし給うた」。しかし、そのことは、「決して直接的にではなく、間接的にである」、あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる「信仰に対してである」、「その本質の中においてではなく、しるしの中においてである」、このように「とにかくご自分を把握できるものとし給うた」。その内在的本質が肉となったのでは決してなく、その「外に向かって」の外在的な第二の存在の仕方における「言葉が肉となった」――「これが、すべてのしるしの最初の、起源的な、支配的なしるしである」、換言すれば人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化されたに過ぎない「存在者」では決してなく、徹頭徹尾神の側の真実としてある、イエス・キリストにおける神の自己啓示としての、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方における言葉の受肉としての「存在者」である。したがって、それは、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」ではない、それ故にその対象からして「存在者レベルでの神への信仰」ではない。「このしるしに基づいて、このしるしのしるしとして」、「そのほかにも神の永遠の言葉の被造物的なしるしが存在する」。先ず以て第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)が「しるしのしるし」として客観的・可視的に存在している、また「教会に宣教を義務づけている」聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)が「しるしのしるしのしるし」として客観的・可視的に存在している。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストと地上における可視的なみ国」――「これこそ、神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握し、したがってまた神について語ることができる」「偉大な可能性」である。
前述したように、「われわれはすべてのことを、信仰の中で、まさにそれ故にこそ真実な(≪信仰の認識としての≫)神認識の中で考え語ったと主張するだけでは決して十分ではない」。「ここで最後的な保証と確認があるとするならば、……それは確かに同時に、最後的な保証撤廃と保証撤去から成り立っていなければならない」。「もしもわれわれが信仰の中で(≪あの総体的構造に基づいた信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事の中で、キリストにあっての≫)神ノ(≪啓示の≫)真理ノ循環の中を、(≪あの総体的構造における主観的な「認識的なラチオ性」を包括した「存在的なラチオ性」――すなわち、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に基づいて≫)神ノ(≪啓示の≫)真理ノ循環の中を、動いてきたのであれば」、われわれは、「われわれの思想の歩み全体のこの最後的な保証と保証撤去」は、「われわれによって遂行されることのできる行為ではないということについて明らかでなければならない」、換言すれば最初の段落で引用したフォイエルバッハの『キリスト教の本質』や「宗教の本質にかんする講演 下」の中での思惟と語りを包括し止揚することができるバルトの『教会教義学 神の言葉』におけるような思惟と語りを必要とするのである。われわれが、「実際に信じているのか、そして信じる者として、真実に神を、神を真実に認識(≪・信仰≫)しているのかという問い」は、「徹底的で根底から土台を揺り動かさずにおかないものである」。あの総体的構造に基づいて終末論的限界の下で与えられたわれわれの「信仰の中では、人はただ、(≪あの総体的構造に基づいて、≫)再び信じ、初めから信じ、続けて信じることができるだけである」。したがって、信と不信の二元論的なあるいは信と不信の二元主義的な「すべてのそのほかのことは、まさに真剣ではなく、ただ(≪「無思慮な敬虔性」として≫)宗教的な、あるいは(≪「無思慮な不敬虔性」として≫)非宗教的な気取りに、あらゆる種類の経験主義的な、あるいは自由思想家的な高級な詐欺に導くことができるだけである」。われわれ人間の側の不信を包括し止揚し克服したところの、徹頭徹尾神の側の真実としてある主格的属格として理解されたローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)においては、その死と復活の出来事において、不信を包括した信、信と不信を架橋した信が成立している。まさに常に先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、(≪徹頭徹尾神の側の真実としてある主格的属格として理解された≫)神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』」(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである(『福音と律法』)。何故ならば、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、生来的な自然的なわれわれ人間は、「神に敵対し神に服従しない」し、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」からである、生来的な自然的なわれわれ人間の「『自分の理性や力(≪知力、感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とした禅的修行、人間学的な哲学原理・認識論・世界観、心理学、歴史学、教育学、コミュニケーション論、人間の感覚と知識を内容とした経験的普遍等≫)によっては』全く信じることができない」からである。自己自身である神としての自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質する「父なる名の内三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方、「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、「神ノ(≪啓示の≫)真理ノ循環」と「神ノ(≪啓示の≫)真理ノ循環」が問題である。イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、キリストの霊である聖霊の証しの力、あの総体的構造における主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的な「存在的な必然性」に基づいた主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下でのその途上性の中で、絶えず繰り返し、それに対する他律的服従とそのことに対する決断と態度としての自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請)という連関・循環においてイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指して行かなければならないということが問題である。
あの総体的構造を持っているイエス・キリストにおける神の自己啓示からして、「われわれの信仰を問う問い」は、「それが、神から来るが故に、われわれの信仰に肉迫する」。したがって、われわれが、「信仰」を、われわれの側において第三者的立場で「外から考察し、……わがまま勝手に、敬虔性に向かって、あるいは不敬虔性に向かって行くために」、「信仰から身をひいてしまう時には、その問いは、決してわれわれの身に肉迫することはない」のである。その時には、キリストにあっての神は、あの総体的構造における「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の連続性に連続して行こうとしないわれわれを、「ただわれわれの最後的には確かに真剣でない、実りを結ばない、(≪われわれ人間の恣意的独断的な≫)自己吟味と自己判決に任せることができるだけである」。「われわれが、真剣にわれわれの信仰を問い」、「あの二重の神ノ真理ノ循環の中にわれわれが立ち」、「われわれがあの二重の神ノ真理ノ循環の中を進んでいるかどうかを問う」には、あの総体的構造における「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の連続性に連続して行こうとしているかどうかということが問題なのである。「われわれの信仰に肉迫するところの、神的な業」――すなわち、「われわれの信仰に対し働きかけ給う神ご自身の業であるところの祝福された最後的な保証」と「保証撤廃」の「試練にあずかるためには」、あの総体的構造に基づいた「信仰を必要としているのである」。このことを、「イスカリオテのユダの……信仰と区別された」ところの、神の側の真実としてある神の側からやってくる「神的な業」、あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいた「洗礼者ヨハネ……またペテロ……の信仰」は、「疑わない」のである、「疑うことはできない」のである。そこにおいては、神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという、不信仰・無神性・真実の罪は「取り去られてしまう」のである、そこにおいては、常に先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」ということに「耳を傾け、感謝し、感謝し続ける」のである。「信仰は試練に遭うが、そのことが起こる時、『むしろ非常に喜ばしいことと思う』(ヤコブ一・二以下)」。キリストにあっての「神は試練を堪え忍ぶ力も与え給うから」、あの総体的構造に基づいて与えられた「信仰は、『試練を耐え忍ぶ人は、幸いである』(ヤコブ一・一二)と告白する」。「何故ならば、試練は、信仰がそこにあるかどうかを問う神の問いだからである。信仰にとっては、この問いを受ける以上に喜ばしいものはない」。「試練の中で信仰は人間から取り去られる、それは信仰の対象からその人間に(≪試練を包括し克服した信仰が≫)再び与えられるためである。試練の中で信仰は殺される、それは信仰が信じる方を通して(≪不信を包括し克服したその方の信を通して≫)新たに生かされるためである」。このような訳で、われわれが、われわれの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者としての聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方での信仰の認識としての「神認識についての吟味検討」を、「何らかの批判的な哲学」、人間学的な哲学原理・認識論・世界観、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍等を「原理として、問いに付すべきだとみなすことによって」、あるいは「批判的に括弧にくくることによって」、「自分自身をいわば裁く神の傍らに並べることによって」、「試練としての信仰がそこにあるかどうかを問う神の問いに対して、その圧力を軽減し」、「良心の安らぎを得、肩の荷を下ろそうとするならば」、その試みは、「恐るべき誤解」に基づいたものである。したがって、そのような教会(教会の宣教の一つの機能としての神学)には、「われわれの信仰に対し働きかけ給う神ご自身の業であるところの祝福された最後的な保証」と「保証撤廃」という「試練は存在しない」のである。
そのような訳で、「二重の神ノ真理ノ循環(≪「円環」≫)を念頭に置いて何らかの積極的な結論をひく際の真剣さに関して、……人は思い違いをしてはならない……」のである。何故ならば、「神学が、まことの信仰とその真実な(≪信仰の認識としての≫)神認識を問うに際して」、その「認識が動いている円環」が、思惟に思惟を重ねて具体的普遍の頂へと高次化した思惟は、完全に自然から超出した自由の精神であるから、その頂を極めた自由の「精神は、また精神自体としては神と全く同一である」という「有限と無限との究極的同一性」(人間に内在する神的本質)を主張したヘーゲルのように、自己還帰する対自的であって対他的な、自由な「絶対的な精神の円環と同一であるということを自分で自分に保証することによって、(≪自分で自分を慰め≫)自ら気をしずめようとした時代があった」からである、今もその試みが現存しているからである。言い換えれば、「神学が、自分の避難所を、信仰はそれがいわば人間的な自己意識の原行為として、最後的な精神的な実在の裁きの座の前で、自らが自分の保証人であるが故に信仰であり(≪「存在者レベルでの神への信仰」であり≫)、……真実な神認識(≪「存在者レベルでの神」の認識≫)であるということの中に、見出した時代があった」からである、今も現存しているからである。「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」の時代が、「神の自由」と「人間の自由」を「取り違えるという混淆」の時代があったからである、今も現存しているからである。しかも、「実際的な経験、あるいは聖なる三位一体を、また(≪起源的な第一の形態の神の言葉である≫)イエス・キリストを引合いに出して」である。彼らは「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を排除したのである、人間の神化・神の人間化を目指したのである、今も目指している人々が現存しているのである。人は、「信仰およびその神認識は、……人間存在の、いや、そもそもすべての存在の、最高価値あるいは最高善に対応するということによって確認され正当化されるということでもって、(≪自分で≫)自らを慰めた」のである。そのために、「聖書的、教会的な響きを持った積極的な答えが考え出され、……しばしばいろいろな表現でもって言い表された」のである。すなわち、「人は、(≪あの総体的構造に基づいてではなく、恣意的独断的に≫)絶対者の代わりに聖霊をして最後の言葉たらしめることができる」、また「すべての問いに対して、それらの問いは、聖霊の現臨と働きを通して答えられ、聖霊を通してわれわれの信仰はまことの信仰であり、われわれの神認識は真実な神認識であるということに依拠することができる」と主張したのである、ちょうど東京神学大学の実践神学者の小泉健が、ルドルフ・ボーレンの恣意的独断的な「神律的相互関係」の概念に依拠して、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」と、恣意的独断的に実体化させたように――今も、なお依然として、「われわれは、シュライエルマッハー以外の他の人々の所でも、ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇する……」のである。しかし、「われわれの信仰に対し(≪あの総体的構造に基づいて≫)働きかけ給う神ご自身の業であるところの祝福された最後的な保証」と「保証撤廃」という「試練と慰め」の事柄においては、それら「すべてを引合いに出して頼ろうとすること自体が不真面目なものであって、悪から出ていることを見てとることは大切なことである」。何故ならば、われわれの「まことの信仰とその真実な(≪信仰の認識としての≫)神認識」は、神のその都度の自由な恵みの決断によるあの総体的構造に基づいて、終末論的限界の下で与えられるからである。したがって、あの総体的構造における客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者としないで、恣意的独断的に「人が頼ろうとして引合いに出すところ、人が自分自身で答えるところ、そこでは人は、その答えが内容的にどれほど真剣なものであろうと」、「自分自身で(≪自分を≫)保証することができると考えているのである」。「もしも人が、信仰を、また信仰と共に彼が為す(≪信仰の認識としての≫)神認識の真実性を、(≪あの総体的構造に基づくことをしないで、≫)自ら確認し保証することができると考えるとすれば、人はひそかに信仰から身をひいてしまっているのであり、神がその答えを携えつつわれわれを見出したいと望んでおられる(≪あの総体的構造に基づいたあの「二重の神ノ真理ノ循環」の≫)場所にいないことになる」のである。それに対して、「お前は信じているのかという徹底した、根底を揺り動かす問いを投げかけられ、試練をまともに受けた者、そのようにして神的な救助に対して準備のできたものにされた者」は、「『自分の理性や力によっては』――全く信じることができないこと」を、「自分で自分を救うことができないことを(≪あの総体的構造に基づいて与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比を通して知らされ≫)知っている」のである。すなわち、「われわれの信仰の確認」、われわれの信仰の認識としての「神認識に関する……体系的な考察と確定の必要な保証」は、あの総体的構造に基づいて、「外からわれわれのところにこなければならない」。われわれは、「慰めにあずかるためには、換言すれば……信仰を持っており、信仰の中で真実な(≪信仰の認識としての≫)神認識を持っているという確認にあずかるためには、(≪あの総体的構造に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示≫)信仰を必要としているのである」。この信仰は、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」ということに「耳を傾け感謝し、また感謝し続ける」というそれであるから、キリストにあっての啓示に対して、啓示とは独立して、われわれ人間の恣意的独断的な自主性・自己主張・自己義認の欲求に基づいて「主張しないし、また頑強に抵抗することもしない」のである、われわれ人間の側から「すべての公理や保証をつかもうとして手をのばすことをやめるのである」、「人間は自分自身を慰めることが出来ないということ、慰めは試練と同じように神のみ業であるということを知っている」のである。ここのところで、徹頭徹尾神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものであるイエス・キリストを「信じる者は救われる。この慰めによって信仰は生きる」と言うのである。言い換えれば、生来的な自然的なわれわれ人間の「自分の理性や力」による信仰は、あの総体的構造に基づいて「われわれから取り去られ、まさにそのようにしてこそ」、あの総体的構造に基づいて「われわれに実際に与えられるために、そのようにしてこそ基礎づけられ生かしめられるために」、あの総体的構造に基づいてそれは「われわれに取り去られ、殺されるところでこそ、(≪あの総体的構造に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事は≫)はじまる」のである。「慰め」は、「信仰を、自分自身を超えて望み見、自分自身を超えて指し示すよう教示することによって、慰める」、「信仰を、信仰の外にある真理(≪あの総体的構造を持っているキリストにあっての啓示の真理≫)でもって」、すなわち「神の(≪啓示の≫)真理として……そのようにしてこそ信仰の真理(≪あの総体的構造に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)として、信仰の上に、高きところにある真理でもって」、「慰める」、それ故に「慰めは、信仰を、(≪終末論的信仰における≫)希望でもって慰める」のである。このようにしてこそ、その慰めは、「すべての自分で自分を慰める行為とはちょうど天と地が違っているように、ちょうど試練と疑いが違っているように違っているところの、実際の神的な慰めである」。したがって、新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」、「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで、キリスト復活からその復活されたキリストの再臨、終末、「完成」までの聖霊の時代において「終末論的」とは、われわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてある「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである。このような訳で、信仰の認識としての「神認識についてのわれわれの教えの積極的な結論」――すなわち、あの「二重の神ノ真理ノ循環を問う未決な問いに対するわれわれの答え」は、「われわれによって遂行されなければならない総合の行為とは何の関わりもない」ものなのである、あの総体的構造に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)における「神の答えに対する告白としてわれわれの答えである時にだけ答えである」ところのそれである。
そのような訳で、「それによってわれわれの最後の言葉を語るためではない」が、「結論としてもう一度、ただイエス・キリストが指し示されなければならない」、自己自身である神としての自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一的特殊性」・「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方――すなわち、「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、キリストの霊である聖霊の証しの力、あの総体的構造が明確に提起されなければならない。何故ならば、われわれ人間は、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、あの「二重の神ノ(≪啓示の≫)真理ノ循環に関して」、「最後の言葉を語ることができない」からである。われわれは、あの総体的構造に基づいて、終末論的限界の下でのその途上性の中で、絶えず繰り返し、あの「二重の神ノ真理ノ循環をただ繰り返すことができるだけである……」。このように、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、「われわれは、われわれの(≪信仰の認識としての≫)神認識の限界について、またそもそも(≪信仰の認識としての≫)神認識について結論的に語りたいと思う時にこそ、まさにいかなる結論にも到達しはしない」ということを認識させられるのである。すなわち、われわれは、「繰り返し」、「いかに神が、その真実な啓示の中で、神がなさる認識の真実性にわれわれをあずからせ給い、そのようにして(それから……われわれは果たして信仰の中に立っているのかということが問われ、問われ続けるべく)われわれの認識に対して、神の認識との類似性を与え」、換言すればイエス・キリストにおける神の自己啓示からして、第二の問題としての神の本質の問題を包括した第一の問題としての神の存在の問題における先行させるべき神の存在とあの総体的構造に基づいて終末論的限界の下で与えられるわれわれ人間の言葉(人間的な言語を介した直観と概念を用いての信仰の認識としての神認識)との「部分的な対応と一致を与え」、「まさにそれと共に真実性を与え給うか、ということを語ることができるだけである」。ここで、「われわれは、確かに、最後的な言葉を持っていない」のである。したがって、「まさにそれであるからこそ、(≪イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、≫)イエス・キリストを指し示す指示も、いかなる場合にも、決して最後的完結的な言葉という性格を、(≪終末論的限界の下で生かされている≫)われわれの側で持つことはできないし、そのようなことは許されない」のである。このような訳で、われわれ人間にとっては、「問いに際しても、答えに際しても、イエス・キリストが問題」であって、それ故にあの総体的構造におけるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在して第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下でのその途上性の中で、絶えず繰り返し、それに対する他律的服従とそのことに対する決断と態度という自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関・循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指して行くことが問題であって、「われわれ自身が問題ではない」のである。したがって、「われわれ自身が問題である」時には、「自分を無にしつつ」、「ただ……イエス・キリストが問題であるということに基づいてのことである」、ちょうど常に先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」ように。したがってまた、われわれが「指し示さなければならないのは、キリスト論の諸命題ではない」。何故ならば、あの総体的構造に基づかないところの、人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化(表現)された「それとしてのキリスト論そのものは、信仰の試練でもなければ、信仰の慰めでもない」からである。したがって、われわれは、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者であるところの、あの総体的構造におけるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在して第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)に基づいて、「(われわれがその中で運動している)神ノ真理ノ循環が包まれている神的存在としての神の試練および慰めについて語ったことによって」、「キリスト論的に語りつつ、イエス・キリストご自身を指し示す」のである。ここで、「神的存在」は、「まさに(≪「顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間≫)イエス・キリストご自身である」。