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14の5『教会教義学 神論Ⅰ/1 神の認識』「五章 神の認識 二十七節 神認識の限界」「二 人間の神認識の真理性」

14の5『教会教義学 神論Ⅰ/1 神の認識』「五章 神の認識 二十七節 神認識の限界」「二 人間の神認識の真理性」(424-449頁)
再推敲・再整理版です。

 

「二 人間の神認識の真理性」
 われわれは、自己自身である神としての自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、われわれは神の不把握性の下にある)「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」(それ故に、「三神」・「三つの対象」・「三つの神的我」ではない)の、われわれのための神としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方、すなわち起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――語り手の言葉・啓示・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体における、第二の存在の仕方――すなわち「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける神の自己啓示からして(下記の【注】を参照)、「今もう一度、神の啓示の中での隠れと顕れが共に互いに中に入り込み合っている姿に出会った」。キリストにあっての神が、一方で、「その啓示(≪われわれのための神としての、その外在的な「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」、第二の存在の仕方≫)の中で、ご自分(≪聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互内在性」における自己自身である神、「三位一体の神」として、その「失われない単一性」・神性・永遠性という内在的本質≫)を隠し給うということ」(それ故に、われわれは神の不把握性の下にある)――「そのことが、われわれの言葉と神の存在との間の関係を言い表す言葉として、同一性という概念を排除する」(逆に言えば、不同一性という概念を排除しない)のである、換言すれば徹頭徹尾キリストにあっての神としての神は神であり、人間は人間であるという「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>(『ローマ書』)を自覚さるのである。他方で、キリストにあっての神が、「その(≪イエス・キリストにおける≫)啓示の中で、(≪聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位相互内在性」における自己自身である神、三位一体の神としての≫)ご自分を顕わし給うということが、不同一性の概念を排除する」のである、詳しく言えばキリストにあっての神が、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、「その啓示の中で、ご自分を」、われわれのための神としての、その外在的な第二の存在の仕方において、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものである「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストの名」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」において「顕わし給うということが、不同一性の概念を排除する」のである(逆に言えば、同一性という概念を排除しないのである)。何故ならば、神の側の真実としてある神の側からする、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」(客観的な「啓示の出来事」の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を包括した客観的な「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」――復活に包括された死と復活の出来事)を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)という総体的構造を持っているからである。

 

【注】
 イエス・キリストにおける神の自己啓示は、自己自身である神としての(ご自身の中での神としての)自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれは、神の不把握性の下にある。Ⅰコリント13・8以下)「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)、われわれのための神としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動――父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間、「真に罪なき、従順なお方」「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」(「ただイエス・キリストの名だけ」)において、その内在的本質である「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示である。

 

 そのような訳で、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、人間的な「恣意(≪・独断≫)に基づくいかなる変化と交代も成り立たせることはない」のである。これが、神の側の真実としてある神の側からする、「目的論的に秩序づけられた弁証法」(啓示の弁証法)である。この「神の隠れと顕われが、(≪「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける≫)神の啓示の中でまことであるということ」が、「恵ミノ類比」、啓示の類比、信仰の類比、関係の類比という「類比の概念を用いるようわれわれを強いるのである」。すなわち、キリストにあっての啓示が、「恵ミノ類比」、啓示の類比、信仰の類比、関係の類比という「類比の概念」を措定するのである。したがって、「われわれは、これら両方(≪神の隠れと顕現≫)の概念でもって神の啓示の恵みについて語っているのである」。「何故ならば、(≪キリストにあっての≫)神は、ただ単にその顕われの中だけでなく、またその隠れの中ででも、ただ単にわれわれの業に相対して罪をゆるし、聖化する然りの中だけでなく、その裁く否の中ででも、恵み深くあり給うからである」。「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」――すなわち、「時間の主の時間」である「イエス・キリストの時間」の中では、換言すれば「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」である「実在の成就された時間」の中では、その「単一性と区別」、区別を包括した単一性において、裁きと否は、恵みに包括されたそれである。「そして、ただその顕われの故にだけ、神はご自身を覆い隠し給う。ただその然りの故にだけ、神はまた(≪恵みに包括された≫)否を語ろうと欲し、語り給わなければならない」。この意味で、神の「顕われと隠れは、(≪常に先行するキリストにあっての≫)神がわれわれと共に進み行く道を言い表している……」。このように「目的論的に秩序づけられた啓示の弁証法の外では」、「福音は、……また律法」も、「その都度そのようなものとして、換言すれば(≪二元論的に対立させられた≫)神の福音および律法として、われわれにとって疎遠なものであり続けなければならないであろう」。それに対して、徹頭徹尾神の側の真実としてある主格的属格として理解されたローマ3・22,ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものにおいては、福音と律法は二元論的に対立していないのであって、律法はあの総体的構造に基づいた純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式である。すなわち、それは、主格的属格として理解されたイエス・キリストをのみ感謝をもって信ぜよ、イエス・キリストにのみ感謝をもって固着せよ、あの総体的構造に基づいた純粋な教えとしてのキリストの福音をすべての人々が現実的に所有することができるために、そのキリストの福音を告白し・証し・宣べ伝えよ、という神の命令・要求・要請のことである。これこそ、あの総体的構造におけるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の連続性に連続して行くことによって純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関・循環における「隣人愛」である――それは、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、<教会>が<教会自身>と<世>に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のことである」(それ故に、ここで「隣人愛」は、通俗的な、市民的観点・市民的常識における「隣人愛」のことではない)(『福音と律法』)。「正しく見られ理解された福音は、常に勝利に満ちた、常に最後の言葉を手放さない福音である」、すなわちそれは、徹頭徹尾神の側の真実としてある神の側からする、主格的属格として理解されたローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に平和を包括した成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済そのものである「ただイエス・キリストの名だけ」である。この福音は、「律法を、訓練する教師(≪内容≫)として、自分の外にではなく、(自分の前にでも、後ろにでもなく)自分の中に持っている」(それは、律法を、福音を内容とする福音の形式として自分の中に持っている)。「われわれの言葉と神の存在との部分的な対応と一致」は、あの総体的構造における「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の連続性に連続していくという仕方において「与えられている約束である」。

 

 バルトは、「人間的な神認識の真実性の問題が……アナロギア問題の形態の中で……どのように昔の神学おいて取り扱われたか」について、「A・クエンシュテットの記述を選ぶこと」によって、次にように論じている。
(ア)「ドン・スコトスとその学派」において「本質、実体、霊、善、知恵、正義のような諸性質」・「属性」は、「神オヨビ理性的被造物ニ関シテ……類比的ニ用イラレテイル」、「同ジ意味デ語られている」。すなわち、彼らは、「人間的な言葉と神的存在との間の同一性についての命題」を述べている。それに対して、クエンシュテットは、「被造物が神と共通に持っているもの」を、「被造物は、神に依存する形で」、すなわち「先ず第一に神の中で存在し、それからはじめて神を通して、被造物の中で存在するという仕方で持っていると異論を唱えている」。すなわち、「神についてと被造物について、同ジ意味デ語ることはできない」と述べている。言い換えれば、「同じ概念を二つの異なった対象に適用しつつ、その都度一方の中と他方の中で違った事情を言い表しているものは、違ッタ意味デ語られている」、「名ヲ共通ニ持ッテイルガ、名ニヨッテ表示サレテイルモノヲ共通ニ持ッテイナイモノハ違ッタ意味デ、ひとつの概念の下に立っている」。このことは、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、「われわれが、われわれの言葉と神の存在との間の不同一性についての命題と呼んだところのことである」、換言すれば「われわれの言葉」と聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互内在性」における自己自身である神、「三位一体の神」として、その「失われない単一性」・神性・永遠性という内在的本質を隠し給う(それ故に、われわれは神の不把握性の下にある)「神の存在との間の不同一性についての命題と呼んだところのことである」、
(イ)クエンシュテットは、「この命題が、特に一七世紀初頭のある改革派神学者たちのところで代表されているのを見出した」。「事実……ポラーヌスのところで……霊ハ神ト天使ト人間ノ霊魂ニツイテ決シテ同ジ意味デ語ラレテオラズ、違ッタ意味デ語られている」。それに対して、クエンシュテットは、「神は確かに本質オヨビ実体ニオイテ最モ卓越シタ方であり給うことによって、また被造物もソレ自身特有ナ仕方デ存在、本質、実体である」、「また神は、確かに独一無比な仕方で霊であり給うが、他方天使たちと人間の魂もそれなりの仕方で霊である」、「神はいかなる非存在も創造し給わず、またキリストは人間の性質をおとりになった際にいかなる非存在もご自分のものとされなかったと異論を唱えている」。また、クエンシュテットは、「違ッタ意味デということを肯定するならば、……神は被造物(≪例えば「神ニツイテ多クノコトガラヲ論証的ナ仕方デ証明シテイルトコロノ哲学者タチ」≫)によって認識されることができない……という理由で」、トマス・アクィナスが自然神学の陥穽に陥ってその「違ッタ意味デということを拒否した時」、そのトマス(一般的真理、自然神学、存在の類比の肯定)の「議論の仕方を正しいものとみなした」のである――「タダ神ノミガ本質カラシテ存在デアリ給ウ。シカシソレダカラトイッテホカノモノガマコトニ存在スルコトガ否定サレテイルノデナク、アルイハ存在ノ可能性ヲ持ツコトガ否定サレテイルノデモナイ」(一般的真理、自然神学、存在の類比の肯定)、
(ウ)「同一の概念を二つの異なった対象に適用させながら、それらの対象のうちのひとつのものと他のものの中にある同じひとつの事情を、違った仕方で言い表しているものは、類比的ナ仕方デ語られている」、「名ト名ニヨッテ表示サレタ事物ヲ共通ニ持ッテイルガ、シカシ違ッタシカタデ持ッテイルモノは、類比的ナ仕方デひとつの概念の下に立つ」。この意味で、神と被造物が、「ひとつの概念の下に立つかどうかという問いに対して」、クエンシュテットは、「トマスおよびほとんどの神学者と哲学者(特にルター派のそれ)と一致しつつ肯定的に答えている」――アナロギアにおいては、「譲与ノアナロギア」、すなわち「二つの対象に共通なものがまず第一に、本来、一方のものの中にあり、それから、第二のものがその第一のものに依存していることに基づいて、この第二のものの中にもあるということから成り立っている(二つの対象の間の)類似性が問題である」。このように、「アナロギアはあの第一のものの中ではアナロギアヲ与エルモノであり、この第二のものの中ではアナロギアヲ与エラレルモノである。これが、神と被造物の間に成り立っている類似性」、「それに基づいて両者が共通の概念の下に立つことができる類似性である」。このことは、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、誤謬である、またそこでは、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>が排除されているということが問題である。クエンシュテットは、さらに「神と被造物との間では、ただ単に外的ナ譲与ノアナロギア」だけでなく、「内的ナ譲与ノアナロギアが問題である」と言う。言い換えれば、アナロギアは、「神にとっても」、理性的な「被造物にとっても」、「内的に本来的ナ仕方である」。「ただその場合、被造物は、それを副次的ニ、依存スル形デ持っている。ソノヨウナワケデ、……神ニツイテモ理性的ナ被造物ニツイテモ……それは実体デアリ、非物質的ナモノデアル等々トイウコトガ、マコトニ言ワレルノデアル。ソウハ言ッテモ同ジ仕方ト同ジ意味ニオイテデハナイ。……神ハ絶対的ナ実体デアリ、独立的ナ仕方デ実体デアリ給イ、ソレニ対シテ被造物ハ依存シタ仕方デ参与スルトイウ形デ実体デアル」。ここで注意すべきことは、この立場においては、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰であるとしたカントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」(『カント』)という一般的真理、自然神学、存在の類比の陥穽に陥ってしまうことが問題である。何故ならば、そのような思惟と語りは、主観的な人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神への信仰」を持ってはいるが、その神認識を、啓示認識を、客観的に的確に自己吟味し、「的確に批判し、訂正して行く」ことができる、神の側の真実としてある神の側からする、あの総体的構造におけるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)という客観的な原理・規準・法廷・審判者・支配者を持っていないからである、それ故にそれぞれの時代、それぞれの世紀、それぞれの世代における、あの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関・循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指す終末論的限界の下での途上性における純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音の深化と豊富化(キリスト教に固有な類としての世代的成果)およびその時間累積(キリスト教に固有な時間性、歴史性)を持っていないからである。そのような一般的真理、自然神学、存在の類比の段階における思惟と語りは、キリストにあっての神に「誠実と真実をささげる」のではなく、また「責任的応答をなす」のではなく、むしろ「同時代の人たちの思考の前提に対して」、また「そこから形成された理解の規準に対して」、「誠実と真実をささげる」のであり、「責任的応答をなす」のである。

 

 そのような訳で、クエンシュテットに対して、「われわれは、どの程度まで彼と同じことを語り、どの程度まで違ったことを語ったの……か。この問いにはっきりと答えることは、歴史的にみて報いられることなのである」。何故ならば、クエンシュテットは、「昔の神学を要覧的にまとめた人として認められる」からである。したがって、彼の立場に対する「われわれの立場」を明確に提起することによって、「そもそも昔の神学に相対して明らかにして行くことができるからである」。また、この問いにはっきりと答えることは、「内容的にみても報いられるものである」。何故ならば、「この比較」は、「われわれによって占められている立場」を、「古典的な相対する立場を念頭に置いて、またそのような古典的な立場を標準にして、もう一度吟味し、解明して行く契機をわれわれに与える」からである、自らの立場によって対立する諸観念を包括し止揚して行く契機を与えるからである。

 

 「われわれは、……まず共通的なことを確認することにする」。すなわち、それは、「人間的な言葉と神的存在との交わりの意味を問うに際して、クエンシュテットと共に」、形而上学的にその一面だけを抽象し固定化させた(一面だけを拡大鏡にかけて全体化・絶対化した)「同一性の概念および不同一性の概念に反対して」、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、その区別を包括した単一性(その全体性・総体性)において、「われわれは……アナロギアの概念を選択することを決断した」ということである。先ず以て、「われわれは……アナロギアを譲与ノアナロギアとして理解している……彼の立場に同意することができる」。われわれにとってこの「譲与ノアナロギア」は、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神の側の真実としてある、神の側からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である自己自身である神としての自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、われわれのための神としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方(働き・業・行為)、すなわち起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「啓示ないし和解の実在」そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、常に先行する「神の用意の中に含まれて、(≪後続する≫)人間にとって、神に向かっての」、「神認識に向かっての人間の用意が存在する」という意味での、キリストにあっての啓示の側から措定されてくるそれである。何故ならば、われわれは、神の側の真実としてある神の側からする、あの総体的構造における神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて(それに「依存」して)、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音に、終末論的限界の下で「参与することがゆるされる」からである。したがって、われわれの「譲与ノアナロギア」は、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、クエンシュテットの言う「神と被造物との間の与える者と与えられる者との内的ナ譲与ノアナロギア」のことではないのである。ここに、われわれの「譲与ノアナロギア」とクエンシュテットのそれとの差異性がある。神と被造物が「ひとつの概念の下に立つかどうかという問い」に対して、啓示の真理、啓示神学、「恵ミノ類比」に立脚するのではなく一般的真理、自然神学、存在の類比に立脚する「トマスおよびほとんどの神学者と哲学者(特にルター派のそれ)と一致しつつ肯定的に答えている」クエンシュテットは、「この事柄について語っている問イ全体の中で」、キリストにあっての「神の啓示について一語も語っていない」のである。すなわち、クエンシュテットが「譲与について語っている時、彼は、事実、(≪キリストにあっての≫)神的な啓示の恵みとは全く別なことを語っている」のである。クエンシュテットは、キリストにあっての啓示から措定されてくる類比概念に依拠しなかったのである、換言すれば彼は、「類比」概念を、生来的な自然的な理性的「被造物自身に『内的に』、本来的に固有なものとした」のである、「外的ナ譲与の概念」を選択することを決断しなかったのである、すなわちキリストにあっての啓示、啓示の真理、啓示神学、「恵ミノ類比」にとどまるのではなく、「哲学者タチ」のために一般的真理、自然神学、存在の類比にとどまることを決断したのである。「もしも彼が(≪キリストにあっての≫)啓示の恵みのことを考えていたのであれば」、「ルター派信者として」、「ただ信仰のみによって罪人が義とされるというルター的な義認論を念頭においていたのであれば、……外的ナ譲与の概念を選択することを決断したであろう」。クエンシュテットは、「義認論」については、「原因トナル理由、スナワチ、義認ノ力ヲ」、「ソレ自体デマタソノ本性カラシテ」、「信仰ガ持ッテイルノデハナイ」、義認は、「神ノ自由ナ判定、アルイハ承認ノ故ニある」のであって、ある「価値ヲ持ツわれわれ人間の故にある」のではないと述べていたにも拘らず、類比の概念の選択においては、そのように決断したのである。このことを、神認識の問題に適用すれば、次のように言うことができる――「被造物を神の類比体にするもの」は、「被造物とそのもともとの性質の中に含まれておらず」、またそれは、「神が被造物の性質の中に含まれている何かをご自分から類比体として承認するという意味ででも含まれていない」のであって、それ故にそれは、神の側の真実としてある神の側からするあの総体的構造における神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての「神認識の中で類比的に認識された対象、したがって神ご自の真実性の中にだけ含まれている」のである。まさに、教会の宣教における思惟と語りおよびその一つの補助的機能としての神学における思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」のである、すなわちそれは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度(≪生来的な自然的な「『自分の理性や力によっては』全く信じることができないことを知り、告白する」「祈り」の態度≫)に対し神が応じて下さる(≪あの総体的構造に基づく「祈りの聞き届け」≫)ということに基づいて成立している」のである(『教会教義学 神の言葉』)。

 

 そのような訳で、「譲与の類比は、被造物にとって、受領の形で外的ナ仕方デ含まれているのであって、内的ナ仕方デ含まれているのではない」のである。しかし、クエンシュテットは、「類比」概念を、理性的な「被造物自身に『内的に』、本来的に固有なものとした」のである。クエンシュテットだけがそうしたのではなく、「彼と共に、若干の幸運な例外と首尾一貫性の欠如をもってであるが、正統主義全体もそうした」のである、換言すれば彼と共に正統主義全体も、一般的啓示、一般的真理、自然神学、存在の類比の陥穽に陥ったのである。したがって、クエンシュテットは、「何の障害も、何の留保もなしに、トマス・アクィナスと共に(≪一般的啓示、一般的真理、自然神学、存在の類比の≫)道を進み」、それ故に理性的「被造物に対して、創造主に対してと同じように、類比の本来性を帰することができた」のである。したがってまた、キリストにあっての啓示、啓示の真理、啓示神学、「恵ミノ類比」、啓示の類比、信仰の類比、関係の類比に立脚せず、一般的真理、自然神学、存在の類比に立脚したクエンシュテットは、「明らかに彼が依存について語る時」、「イエス・キリストにあっての神の認識から切り離されても認識することができる」ところの、「創造主と被造物との間の関係のことを念頭に置いていた」のである。このような訳で、「既に、人間的な言葉と神的存在との間の同一性と不同一性を否定する否定」は、その「否定において(≪「譲与ノアナロギア」において≫)彼と一致するにもかかわらず」、その意味は、「内的ナ譲与ノアノロギアを肯定する(≪一般的啓示、一般的真理、自然神学、存在の類比に立脚した≫)彼のところ」と「内的ナ譲与ノアノロギアを否定する(≪キリストにあっての啓示、啓示の真理、啓示神学、「恵ミノ類比」、啓示の類比、信仰の類比、関係の類比に立脚する≫)われわれのところでは別な意味を持つことになる」のである。すなわち、その差異は、「われわれのところでは、(≪イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、≫)同一性についての命題に相対して」、聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位相互内在」における三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方である「キリストにあってのその啓示の中での神の隠れの否定の防止であるもの」が、彼のところでは主観的な人間的理性によって対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」、すなわち人間の概念の実体化としての「絶対的存在と相対的存在そのものの間の区別の否定の防止である」という点にあるのである。また、それは、「われわれのところでは、(≪イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、≫)不同一性についての命題に相対して、キリストにあっての神の啓示の中での顕われの否定の防止であるもの」が、彼のところでは「相対的存在と絶対的存在の真理における一致の否定の防止である」という点にあるのである。したがって、そのクエンシュテット等々に対しては、まさにフォイエルバッハが客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的に原理的に批判したキリスト教として、「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」ということが、「神の啓示の内容は、(≪キリストにあっての≫)神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神(≪「存在者」、「存在者レベルでの神」≫)から発生した」ということが、それ故にその「対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」ということが、「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」ということが成立するのである。したがってまた、「人間的言葉と神的存在の交わりの真実性を問うに際して、(≪キリストにあっての神の≫)その啓示の中での神の隠れと顕われを告白したいと思う者」は、「それゆえ同ジ意味デも違ッタ意味デも(≪一般的啓示、一般的真理、自然神学、存在の類比に立脚するクエンシュテットの思惟と語りを≫)拒否しようと思う者」は、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、キリストにあっての啓示、啓示の真理、啓示神学、「恵ミノ類比」、啓示の類比、信仰の類比、関係の類比に立脚して、「あの交わりを明らかに神の啓示の中に尋ね求め、またあの交わりの真実性」を、イエス・キリストにおける神の自己「啓示の恵みの中に尋ね求める」のである。それとは「逆に、(≪一般的啓示、一般的真理、自然神学、存在の類比に立脚するクエンシュテットのように、≫)一方において絶対的な存在と相対的な存在の間の区別を、他方においてこれら二つのものの真理の一致を主張しようとし、また同ジ意味デと違ッタ意味デを(両者はあの主張に矛盾するであろうという理由で)拒否する者」は、「あの交わりを神と被造物に共通な存在の中に、そして真実性をこの存在の弁証法の中に、その相違性と一致、一致と相違性の中に尋ね求める」のである、ちょうど一般的啓示、一般的真理、自然神学、存在の類比に立脚して「存在するものそのもの」、「その純然たる造られた存在」に依拠して、「造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」と思惟し語ったアウグスティヌスのように。まさに、クエンシュテットは、イエス・キリストにおける神の自己啓示からしてのキリストにあっての啓示の真理のことではなく、「一般的な存在の真理のことを言おうとしている」のである。「われわれは、初めから、……(≪イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、≫)それ自身で恵みの特別な存在である存在の真実性のことを言おうとした」(「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」の真実性のことを言おうとした)。「そのような訳で、われわれは、(≪イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、≫)それを、ただ(≪神の側の真実としてある神の側からするあの総体的構造を持っているキリストにあっての≫)神の啓示の中に尋ね求めることができた。われわれは同ジ意味デに反して決断を下さなければならなかった。なぜならばそれは、その啓示の中での神の隠れを言い表す告白と抗争する(≪相反する≫)からである。また、われわれは、違ッタ意味デに反対して決断を下さなければならなかった。なぜならばそれは、神の顕われを言い表す告白と矛盾するからである」。われわれは、「そのうちの一方に対しても、他方に対しても、それがまさにその啓示の中での神の恵みを言い表す告白と一致させることができないが故に、反対して決断を下した」のである。このような訳で、われわれは、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、あの総体的構造における神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる人間が人間的に所有する「部分的な対応と一致」における「われわれの真理(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)は、神の真理(≪神の側の真実としてある「神の恵みの真理」、啓示の真理≫)であるという命題はひっくり返され得ない命題として理解した」が、「直ちに」「神の真理はわれわれの真理ではないということを付け加えた」のである。しかし、一般的啓示、一般的真理、自然神学、存在の類比に立脚したクエンシュテットは、「ただ相対的なものであることができるだけであるわれわれの存在」は、「われわれが相対的な仕方である者で」、「神が……絶対的な仕方であり給う限り」、「われわれの真理は神の真理である」と言うのである、また彼は、「われわれは、神が絶対的な仕方であり給うところのその同じ者で、相対的な仕方である」から、「神の真理はまたわれわれの真理である」と言うのである。このように転倒させた一般的啓示、一般的真理、自然神学、存在の類比に立脚したクエンシュテットは、「恵みを真理の標準」としないで、「存在を真理の標準」としたのである。したがって、クエンシュテットは、「哲学者タチ」を念頭に置いていて、「われわれを神の真理にあずからせるために、まず(≪キリストにあっての神の恵みの≫)啓示を必要としてはいない」のである。このことは、自然神学者であるエーバーハルト・ユンゲルも同じである――「アブラハム、イサク、ヤコブの神を、たといこの神が幾何学的方法によって論証可能なお方ではないにせよ、哲学者にとっても、思惟可能な神として信じるにあたいするというふうに思惟することはよいことなのである。ただ福音においてのみ言葉に言いあらわされる神を信じるとき人は哲学者であることをやめねばならないということは、よく分からない」(『神の存在 バルト神学研究』)。「恵みを真理の標準」としない両者は共に、「神的な力の介入と賦与の確認が、……脱落している」のである。クエンシュテットにとって、「アナロギアの発見」は、キリストにあっての「啓示を、そしてまた信仰を必要としない」ところの、理性的「被造物的な存在について、……反論の余地のない仕方で遂行されるべき人間(≪「哲学者タチ」≫)の自由な反省の道の上で遂行されるものなのである」。したがって、クエンシュテットが「譲与のアナロギア」を語った時、「義認について」語った時には前景化されていた「恵みの神の自由」を後景へと退かせてしまったのである、換言すれば彼が「内的ナ譲与ノアナロギア」を語って時、彼は、神の「自由な介入を通して賦与された神と被造物との類似性についての考えを避けてしまったのである」、すなわち彼は、「類似性」、「部分的な対応と一致」を、「創造主と被造物の共存の中で、共存と共に与えられ確認される類似性として理解することを欲した」のである、ちょうど「三位一体の痕跡である想起(記憶)、知解、愛としての人間の中での神の像を、最も身近な最も高貴な認識根拠とした」アウグスティヌスが、徹頭徹尾「教義学的な合理主義を明確に否定した」アンセルムスのように起源的な第一の形態の神の言葉であるキリストにあっての啓示に、それ故に具体的にはそのイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書に「教えられつつ語る」啓示神学に立脚したのに対して、「われわれの理性に内在している神概念の再想起において創造しつつ神について語ろうとする」自然神学に立脚したように(『教会教義学 神の言葉』および『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)。

 

 「もしもクエンシュテットの言うことが正しいならば、人間によってなされる神認識」は、キリストにあっての「神の啓示を度外視しても」、それ故に「イエス・キリストなしにも成り立つことができる」ところのそれであるし、それ故にまたそれは、「現実であるばかりでなく、現実であると認識し、そのようにわれわれによって要求することができるところの神と人間の交わりが成り立っていることに基づいて起こる」ところのそれであることになる。この時、イエス・キリストにおいて自己啓示された神は、そのイエス・キリストにおける神の自己啓示からして、自己自身である神としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、われわれは神の不把握性の下にある)「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位相互内在性」における三位一体の神の、われわれのための神としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて自己啓示されたキリストにあっての「神とわれわれの関係」は、「創造主と被造物の両方」が、「創造主は絶対的な仕方で、被造物は相対的な仕方で……存在し、両者に共通な存在は、ただ単に神にとって知られているだけでなく、また(≪人間に内在する神的本質として≫)人間にとっても知られている」ことになる。このような「関係の中でのすべての真理の標準は、決して(≪キリストにあっての≫)神ではなく、……神と人間が、前者は絶対的な仕方で、後者は相対的な仕方で参与している存在……である」。すなわち、その関係性における参与は、神の側の真実としてある神の側からする、あの総体的構造における神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)において「人間が神にあずかる参与ではなく、むしろ神と人間が、最後の、最後的には神と人間のいずれに対しても優越した存在の真理(≪人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」、「道徳的な、精神的な、超越的な、経験的な、人類的な、個人的な」「最深の本質」、「最高の理想」、「最高存在」、「最モ完全ナ存在」≫)にあずかる参与」である。「神の恵みと人間の罪、神の啓示と人間の信仰、それらすべてのこと」は、「神は絶対的な仕方で」、人間は「相対的な仕方で……内的ニ、本来的ナ仕方デ、したがって神と共通的な仕方デ持っている存在……にあずかる参与の形態である」。「すべての特別なキリスト教的な真理」、啓示の真理、すなわちそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」も、一般的な真理、その時間累積(歴史性)の一つの形態である。一般的啓示、一般的真理、自然神学、存在の類比に立脚したクエンシュテットや「古プロテスタント正統主義者たち」の「事柄の論理」が、「哲学者タチ」のためにも、「事実そうせざるを得ないことであるが」、「一般的な神論の危険な地盤を、一度乗り越える」ならば、すなわちイエス・キリストにおける神の自己啓示からして、そのキリストにあっての啓示、啓示の真理、啓示神学、恵ミノ類比、啓示の類比、信仰の類比、関係の類比を立場として、そうした「事柄の論理」を包括し止揚し克服するならば、「彼らが存在について知っていると考えていることから神について教えられるのではなく」、「神がご自身について啓示されたことから存在について教えられること(≪キリストにあっての啓示、啓示の真理、啓示神学、恵ミノ類比、啓示の類比、信仰の類比、関係の類比≫)へと戻って行くであろう」と言うことができるのである。「キリスト論から、彼らは、プロテスタントの神学者として、人間の原罪と罪について、意志ノ自由と奴隷的意志について、罪人の義認と聖化について」「教えられることへと戻って行くであろう」と言うことができるのである。その時には、神学も、哲学も、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>(『ローマ書』)を自覚的に貫徹することができるであろう、「聖霊は、人間精神と同一ではない」、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」、聖霊によって更新された人間の理性も聖霊と同一ではない(『教義学要綱』)ということを自覚的に貫徹することができるであろう。このように、「われわれはここでも、……プロテスタント正統主義が……自然神学の事柄に関して作業を続けた……現象の前に立っていた」のである。このような訳で、「われわれは、アナロギアについての正統主義の教えを、そのまま取り上げ繰り返すことはできない」のである。したがって、「一般的な神論の危険な地盤を一度乗り越える」ためには、「一七世紀の人間に関しては……弁解の余地があることだとしても、それ以降のキリスト教の神学史における「歴史的な経験によれば、われわれとしては、弁解をなすことは無責任な行為となる」のである。何故ならば、「人間が立ち向かうのはいつも自分が解決できる課題だけだからである、というのは……課題そのものは、(≪それが現実的な領域のそれであれ、観念的な領域のそれであれ、≫)その解決の物質的諸条件がすでに現存しているかまたは少なくともそれができはじめている場合に限って発生するものだからである」(マルクス『経済学批判 序言』)。このような訳で、「一般的な神論の危険な地盤を一度乗り越える」ために、「われわれは、……昔の正統主義がなしたのとは違った仕方」で、すなわち「キリスト論は……神学全体の生の中心であり、あくまでも神学全体の中心であり続けなければならないということを念頭に置いて」、「当然なされなければならないような仕方でアナロギア論を理解し形成しようと努めた」のである。何故ならば、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言における「事柄から言って、神学においては二重の真理をもって」、すなわち二元論的にキリストにあっての啓示(啓示の真理)とは別にキリストにあっての啓示(啓示の真理)から独立させた真理(一般的啓示、一般的真理)をもって「作業することはよいものであり得ないということの認識が大事だからである」。このような訳で、「神論においても、また神認識についての教説においても」、「ほかのところからではなく」、すなわち人間の感覚と知識を内容とした経験的普遍や生来的な自然的な人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観等からではなく、ただ神の側の真実としてある神の側からする、あの総体的構造における客観的な「存在的な必然性」としての「イエス・キリストから」のみ、客観的な「存在的なラチオ性」としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の「神の言葉から」のみ、具体的には、その第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)から、「語り論じられなければならないということが大切なのである」、まさに常に先行する「神の用意」に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」。

 

 さて、「われわれとして進まなければならない道の必然性と正当性」は、「神の存在とわれわれの言葉との間の交わりの真実性を問うに際して」、「われわれがその真実性を、クエンシュテットとは違って、はじめから神の恵みの真実性として理解したことによって、真実性についてのあの特定の概念(≪「恵ミノ類比」、啓示の類比、信仰の類比、関係の類比というアナロギア概念≫)」を提起したのである。その提起によって、われわれは、「クエンシュテット的なアナロギア論、換言すれば古正統主義的なアナロギア論における最後的に恣意的な前提」は、「疑いもなくその教えが内容的にはローマ・カトリック主義の主要教義」、すなわち「そこからは人は、ただカトリック的に、あるいは自由主義的に思惟してゆくことができるだけである」「存在ノ類比についての教説と同じである」ということ、「それ故……(≪クエンシュテット的な≫)あの前提を拒否していかなければということを証明した」のである。したがって、「存在ノ類比的(アナロギア・エンティス的)なアナロギア論を退ける時、そのこと」は、「恣意の行為であると言ってはならない」のである。何故ならば、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、キリストにあっての啓示、啓示の真理、啓示神学、「恵ミノ類比」に立脚した「われわれは、われわれ自身の(≪選択の≫)決断」を、クエンシュテット的な選択の決断とは違って、あの総体的構造の中での「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である「聖書(≪その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」≫)が述べていることに対応しており、その限り神の言葉によって要求されている(≪選択の≫)決断として基礎づけられていると見做すことができる」からである。したがって、「ローマ・カトリック主義の主要教義(≪一般的啓示、一般的真理、自然神学、存在ノ類比≫)についてのわれわれの神学史的判断も、この標準に照らして基礎づけられていなければならない」のである。「最後的に、本来的に、神と人間との交わりを基礎づけ保持しているのは、神と人間に共通な存在ではなく」、神の側の真実としてある神の側からする「神の恵みである」。したがって、この視点に立てば、「神の恵みこそが、(それをもってわれわれがアナロギアの問題に近づいていった)前提および標準でなければならない」。「まさに(≪神の側の真実としてある神の側からする、あの総体的構造における「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である≫)聖書こそ」が、「裁判官(≪――すなわち、原理・規準・法廷・審判者・支配者≫)として、われわれ(≪キリストにあっての啓示、啓示の真理、啓示神学に立脚したわれわれの「恵ミノ類比」、啓示の類比、信仰の類比、関係の類比というアナロギア概念≫)とあの別な解釈(≪一般的啓示、一般的真理、自然神学に立脚した「存在ノ類比」というアナロギア概念≫)の代表者たちの間に立ち、(≪判決を携えて≫)自ら語ってくることができる」のである。したがって、「われわれの最後の言葉は、まさにこの裁判官に向かって差し出されているわれわれの訴えをはっきりと言葉に出して繰り返すことでなければならない……」のである。