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3の3(その3−2).『教会教義学 神の言葉U/2 第2章 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』

3の3(その3−2).『教会教義学 神の言葉U/2 第2章 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』(234-301頁)
再推敲・再整理版です。
この教会教義学 神の言葉U2 神の啓示 聖霊の注ぎ』についてさらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります
https://karl-barth-studies5.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。

 

 

「十七節 宗教の揚棄としての神の啓示――一 神学の中での宗教の問題」(234-301頁)
(ウ)「第一の来臨」――すなわち、イエス・キリストの誕生、復活に包括された死(「古い世・時間」の「裁き」、「まことの過去」、「神の裁きの啓示」、「律法」)、復活(神の側の真実としてある「古い世・時間」の克服、「新しい世・時間のはじまり」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」である「キリスト復活四〇日(使徒行伝1・3)」、「実在の成就された時間」、「神の恵みの啓示」、「福音」)――と、「第二の来臨」――復活されたキリストの再臨(終末、「完成」)――との間の聖霊の時代における終末論的限界の下でのその途上性において、絶えずくり返し「まことの宗教」であろうとする「宗教」は、あの総体的構造(下記の【注】を参照)を持っているキリストにあっての「啓示によって支えられ、その啓示の中で救い出されることができる」。したがって、そのことが認識され自覚されない時には、換言すればキリストにあっての啓示、啓示の真理、啓示神学、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)に立脚しない時には、逆に言えば一般的啓示、一般の真理、自然神学、存在の類比に立脚する時には、「キリスト教宗教の真理の実際の認識にとって大きな損害を招くしかないひとつの秩序……が問題となる」。その時には、自らにもある人間的な実在と人間的な可能性に偏向した不信仰としての人間的な「いつわりの宗教」、「偶像礼拝」、「業による義」、「啓示の恵みから抽象された(≪不信仰としての≫)啓示<宗教>」、「その根拠と対象を奪われた」「(≪不信仰としての≫)啓示<宗教>」、「空疎化された宗教」という同じ土俵の上で、「ほかの宗教に対して反駁し、ほかの宗教を克服しようとすることになってしまう」ことが問題となる、総括的に言えば自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返すことが問題となる。「無神論的宗教批判との対決は、人間論のレベルと哲学的論証によって為されなければならない」と述べたパンネンベルクが、また、「人間学の後追い知識」としての混合神学、人間学的神学を目指し、「神学を表象の媒介のレベルから概念という高位のレベルにまで高めるという〔ヘーゲルの〕思弁的要求を何としても否定しなくてはならないようなことは、わたしにとって、神学を歴史哲学から何としても限界づけなくてはならないということと同様、二次的なことなのである」、「アブラハム、イサク、ヤコブの神を、たといこの神が幾何学的方法によって論証可能なお方ではないにせよ、哲学者にとっても、思惟可能な神として信じるにあたいするというふうに思惟することはよいことなのである。ただ福音においてのみ言葉に言いあらわされる神を信じるとき人は哲学者であることをやめねばならないということは、よく分からない」と述べたエーバーハルト・ユンゲルが、また神学とヘーゲルの歴史哲学との混合神学、人間学的神学を目指したモルトマンが、また人類史のアジア的段階における自然原理とマルクスの『自然哲学』に立脚して人間学的神学、哲学的神学を目指し、「もはやいかなるキリスト者も、『聖書』や『イエス・キリスト』という名を記憶している人たちさえも、もはやこの地上のどこにも残っていないとしても、それでもなお、(≪未だ区別や分節化がされていない未分化のまま一切が包摂された総合状態・無規定の状態・「無」性状態であり、一切の区別や規定性や分節化の源泉でもあるところの自然や宇宙の概念と言ってもよい≫)『神われらとともに』という事実(≪「根源的事実」、「インマヌエルの事実」≫)にわたしたちが堅く結びつけられているということそのことは、(≪人間の自己意識・理性・思惟によって恣意的独断的に対象化され客体化された「存在者レベルでの神」としての≫)神において永遠に決定されていることなのだ」と述べた滝沢克己が、その典型である。

 

【注】
イエス・キリストにおける神の自己啓示は、自己自身である神としての(ご自身の中での神としての)自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれは、神の不把握性の下にある)「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動)、すなわち起源的な第一の存在の仕方としてのイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解者、第三の存在の仕方としての神的愛に基づく父との交わりとしての聖霊――「啓示されてあること」・キリスト教に固有な客観的に存在しているイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間、「真に罪なき、従順なお方」「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」(「ただイエス・キリストの名だけ」)において、その内在的本質である「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示である。
 そのような訳で、神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける神の自己啓示は、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」(客観的な「啓示の出来事」の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を包括した客観的な「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」)を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)という総体的構造を持っている。そうでないならば、神は、人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化され第一義化・価値化・絶対化された人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質に過ぎないものであるであろう、すなわち「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下でのキリストにあっての神としての神ではないであろう。
 「まさに(≪イエス・キリストにおける神の自己≫)啓示の中でこそ、まさにイエス・キリストの中でこそ、隠れた神は、ご自身を把握できるものとし給うた」。しかし、そのことは、「決して直接的にではなく、間接的にである」、あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる「信仰に対してである」、「その本質の中においてではなく、しるしの中においてである」、このように「とにかくご自分を把握できるものとし給うた」。その内在的本質が肉となったのでは決してなく、その「外に向かって」の外在的な第二の存在の仕方における「言葉が肉となった」――「これが、すべてのしるしの最初の、起源的な、支配的なしるしである」、換言すれば人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化されたに過ぎない「存在者」では決してなく、徹頭徹尾神の側の真実としてある、イエス・キリストにおける神の自己啓示としての、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方における言葉の受肉としての「存在者」である。したがって、それは、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」ではない、それ故にその対象からして「存在者レベルでの神への信仰」ではない。「このしるしに基づいて、このしるしのしるしとして」、「そのほかにも神の永遠の言葉の被造物的なしるしが存在する」。先ず以て第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)が「しるしのしるし」として客観的・可視的に存在している、また「教会に宣教を義務づけている」聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)が「しるしのしるしのしるし」として客観的・可視的に存在している。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストと地上における可視的なみ国」――「これこそ、神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握し、したがってまた神について語ることができる」「偉大な可能性」である。

 

 彼らとは違って、あの総体的構造を持っているイエス・キリストにおける神の自己啓示、キリストにあっての啓示、啓示の真理、啓示神学、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)に立脚したバルトの立場は、明確である。人間的なもの一切から対象的になって自由であるべきわれわれは、徹頭徹尾神の側の真実としてある、主格的属格として理解されたギリシャ語原典ローマ3・22、ガラテヤ2・16等の「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この救済概念に、平和の概念は包括されている)そのものであり、「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身(「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「ただイエス・キリストの名だけ」)――「この一つの事柄に仕えなければならないのであって、一つの党派(≪学派、教派、党派性、党派主義、党派的多元主義、様々な主義、特定の人種、民族、特定の法や制度、特定の文化傾向、思想傾向、時流や時勢、特定の社会構成や支配構成、特定の社会的政治的な言説や運動等々≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」。したがって、バルトは、次のように言うのである――「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」、神学も理性的な知的営為ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」、と。したがってまた、バルトは、次のようにも言うのである――「哲学、歴史学、心理学等は、この神学的問題領域のどれにおいても、事実上、教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしなかった」、「神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった」、またその時には「哲学は哲学であることをやめ、歴史学は歴史学であることをやめる」、「キリスト教哲学は、それが哲学であったなら、それはキリスト教的ではなかった」、「それがキリスト教的であったなら、それは哲学ではなかった」、と。何故ならば、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事は、キリストにあっての「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、あの総体的構造に基づいて終末論的限界の下で与えられるものだからである。言い換えれば、「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは(≪生来的、自然的なままでは≫)神に接するための器官や能力を持ってはいない」から、また生来的な自然的な「『自分の理性や力(≪知力、感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とした禅的修行等々≫)によっては』全く信じることができない」から、「心が開かれ、み言葉を受け入れまた聞くためには」、客観的な「存在的な必然性」――イエス・キリストにおける「啓示の出来事」と、その啓示の中での主観的な側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(主観的な「認識的な必然性」)を前提条件とした客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に包括された主観的な「認識的なラチオ性」――すなわち、聖霊によって「再生」・「更新」された理性を必要とするのである。この時、「聖霊は、理性を抑圧しない」のである、「理性の再生をもたらす」のである。しかし、この時、われわれは、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>からして(『ローマ書』)、「聖霊は、人間精神と同一ではない」、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」し、聖霊によって更新された理性も徹頭徹尾聖霊と同一ではない、と言わなければならないのである(『教義学要綱』)。しかし、「実存的釈義家」は、「本文と彼自身との対話だけでなく、ある特定の人間学、つまり一つの思惟の型(≪ブルトマンで言えば前期ハイデッガーの哲学原理、モルトマンで言えばヘーゲルの歴史哲学≫)を前提として」思惟し語るから、そのような思惟と語りにおいては、「あやまちは必然」となるのである。それに対して、あの総体的構造を持っているイエス・キリストにおける神の自己啓示、啓示の真理、啓示神学、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)に立脚したバルトの場合は、彼がただの人間である以上、確かに「あやまちは可能である」が、「あやまちは必然」ではないのである。

 

 バルトは、キリスト教宗教が、人間的な実在と人間的な可能性に偏向した不信仰としての<宗教>を構成した時に惹き起こされた「困窮状態」の展開を、時系列的に、次のように述べている。
(A)「コンスタンティヌス以前の古代の教会の時代」、キリスト教宗教(教会や神の子供たち)が、「非合法的ナ宗教」・「圧迫サレタ教会」として、「外面的に、政治的に、社会的に、文化的に、大きな名誉をかちとること」を、現実や時代状況がゆるさなかった。現実や時代状況が、「使徒的<弱さ>」を誇ることを強いた。この「弱さ」は、パウロにおける「固有な特別なもろもろの啓示」、「一回的な唯一無比な啓示を通して」――すなわち、「主イエス・キリストを通して」、「全く仮借ない仕方で限界づけられていること、『わたしは弱い時にこそ、わたしは強い』ということに根拠づけられていた」。すなわち、それは、神だけでなく人間の自主性・自己主張・自己表現・自己義認・自己聖化の欲求も、「自己を誇る」ことの欲求もという人間的な実在と人間的な可能性に偏向した「宗教的自己意識」としての宗教そのものを、限界づけ、相対化し、揚棄し、そこから超出していくそれである。しかし、「護教論者、初期の教会教父、……当時の教会の、比較的洞察力のある指導者たちは皆」、「古代末期の異教主義の貧しさを見抜いていたのである」が、「旧約および新約聖書が要求していた罪深い、異教的――宗教的な人間に対立させる」のではなく、人間的な実在と人間的な可能性に偏向した不信仰としての「普遍的な……宗教としてのキリスト教宗教」(自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教におけるキリスト教宗教)を、特殊的土俗的な「貧しい異教徒の諸宗教と対立させ」、「自らを普遍的なよりよい宗教として売り出してゆこうとした」のである。

 

 「二世紀および三世紀の護教論者の論述を読む時」、「被迫害者として彼ら」は、イエス・キリストにおける神の「恵みこそキリスト教の真理であるということを誇らず」に、また「キリスト者はアブラハムのように不敬虔な者として義とされた者、宮にのぼった取税人、放蕩息子、貧乏人ラザロ、イエス・キリストとともに十字架につけられた犯罪人であるということを十分に認識せず」に、恣意的「独善的」に、「思慮深さをなくして、(≪特殊的土俗的な≫)異教的な宗教の世界に相対して」、その不信仰としての<宗教>という同じ土俵上で、「人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である」ということからして、すなわち「人間は他人がいなくとも(≪自分自身で≫)考えるとか(≪自分自身と≫)話すとかという類的機能……を果たすことができる」ことからして、人間的な実在と人間的な可能性に偏向した自然神学の「長所について誇った」のである。したがって、彼らは、「イエス・キリストの恵みよりも自分自身の一神論、道徳、神秘主義を誇った」のである(≪人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された「存在者」、意味世界、物語世界、「存在者レベルでの神」を誇ったのである≫)、そのような「存在者レベルでの神」の名と呼びかけによる「救いの道」・「知恵」・「道徳性」・「人間性」・「理想における長所について誇った」のである、それらを「自己推薦しようとした」のである。「テルトリアヌスのような人」が、人間的な実在と人間的な可能性に偏向した不信仰としての人間的な<宗教>(一般的啓示、一般的真理、自然神学、存在の類比に立脚した人間的な<宗教>)の「脅威の危険を正しく見抜いていながら、しかも同時に全く正しくみてはおらず、かえって自らそのような危険を増大させるのに加担してしまった……」のである。「ここで実質的、形式的にみて、中心的、本来的にキリスト教的なものの放棄あるいは軽視(≪イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、キリスト教に固有なあの総体的構造を放棄あるいは軽視≫)が起こったその程度に応じて、逆にあらゆる種類の実質的、形式的な、世との融合同化……が起こった」、「諸説混合主義」、世俗主義化が起こったのである。

 

(B)「コンスタンティヌス以来の発展の中で、(≪「教会と国家が一つであるという」≫)キリスト教統一国家(corpus christianum)という理念によって支配されていた時期全体にわたって」、キリスト教<宗教>における思惟と語りは、「エレミヤの警告」――すなわち、「どうしてあなたがたは、『われわれには知恵がある、主のおきてがある』と言うことができようか。見よ、まことに書記の偽りの筆がこれを偽りにしたのだ。知恵ある者は、はずかしめられ、あわてふためき、捕えられる。見よ、彼らは主の言葉を捨てた、彼らになんの知恵があろうか(エレミヤ八・八以下)」という、「旧約聖書的宗教からの逸脱」や「啓示の恵みから抽象された(≪不信仰としての≫)啓示<宗教>」や「啓示の贋造」や「祭儀的不誠実と道徳的荒廃に対して向けられている」「悔改めと裁きの説教」や「あなたがたは、(≪「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉である≫)わたしが語った言葉によって既にきよくされている。(≪「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉である≫)わたしにつながっていなさい。……枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたも(≪「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉である≫)わたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。……(≪「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉である≫)わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである(ヨハネ一五・一以下)」が故に、「Tコリント一三章」における「愛」を「啓示された神の事実としてのイエス・キリストという名に置き換える」ことができるパウロにおける思惟と語りやから逸脱していった。したがって、その時、「神の前でアブラハムが義とされるということはただ不敬虔なものの義認であり、アブラハムの信仰はこの義認を信じる信仰であり、それ故決して自分の行い、割礼および律法を信じてより頼むことではなかった(ローマ四・一以下)」というアブラハムやエレミヤやパウロにおける思惟と語りは、「姿を消していった」。したがってまた、「教会は、公認された国家教会として、高次元の、あるいは低次元の政治的な要因とおおっぴらに手を組んで」、「神の名誉が問題であるという旗印のもとで」「第二の世界勢力となってゆくことを誇った」。「聖職任命権をめぐって皇帝と教皇の間で争われた(≪「一〇七五−一一二二年の」≫)時代、十字軍の時代、ゴシックの世界において、どこにあの(≪パウロのような≫)キリスト教の真理としての恵みを知る知識があったであろうか」、「クリューニー修道院の偉大な改善において……そもそも修道院のあり方において、一体、どの程度までキリスト教の真理としての恵みを知る知識が問題であったであろうか」、「中世の教会の中で、……人間がほかの人間に対していつでも実証できるような力ではなく、すべての人間をひくくし……、そのようにしてこそまた恵む神の力、福音の力が相対して出会うことができたであろうか」、「どの程度まで教会は、東方および南方でしきりに教会を圧迫していたイスラム教に対して、何か本当に(≪根本的包括的に原理的にキリスト教に固有な≫)独創的なものを……もっていたであろうか」、「どの程度までまた、教会のキリスト教的敵対者、例えば皇帝派、国民派の勢力、あるいは異端的な宗派は、教会の行動と態度から、教会においては本当に神の名誉が問題なのであって、結局、自分自身の名誉が問題なのではないということをみてとることができたであろうか」。このように不信仰としてのキリスト教<宗教>は、キリストにあっての啓示、啓示の真理、啓示神学、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)、キリストにあっての「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の自己運動、あの総体的構造を持っているイエス・キリストにおける神の自己啓示が問題なのではなく、それ故に「自分に固有な中心」、「啓示された神の事実」、「イエス・キリストの名」から「精神的に遠ざかってゆく疎遠化(≪人間的な実在と人間的な可能性へと偏向して行く不信仰としてのキリスト教<宗教>≫)」へと、「それと手を携えて進んだ教会の内的な世俗化の動きへと向かっていった」。「いまやキリスト教は特定の、普遍的な、知的――道徳的――審美的な世界形態にまで形成されてゆき、……補充的に、それぞれの特別な民族宗教的な自己意識をもった国民的キリスト教の形成を可能にし、必然的にした」。

 

(C)「中世末期における……ルネサンスと共にはじまった……(≪資本主義を経済的基盤とした人類史における自由の精神を原理とする西欧≫)近代」において、「西洋の人間のあり方は、成熟した大人になったために、公式のキリスト教……なしですますことができるようになった」(まさに共同宗教としてのキリスト教の最後的形態は、観念の共同性を本質とする信教の自由が保障された政教分離の政治的近代国家である――ここにおいては、人間が社会的に(それ故に、現実的に)解放されていなくても、国家は自由主義国家であり得る。したがって、その観念の共同性を本質とする国家は自由主義国家であり得るが、それを逆立的に疎外したこちら側の価値としての人間は恣意的にだけ自由であり得る。一方で、現実的な市民社会における具体的な私人としての個別的私的生活においては、「私利・私意」に基づく利己主義的な私的他者との競争や対立や争いの生活、利害共同性との競争や対立や争いの生活と、他方で、あたかもそうした競争や対立や争いのない法的政治的な共同的観念によって統一された公的な共同性の一員、公民としての生活との二重の生活を強いられる。したがって、観念の共同性を本質とする観念的な法的生活(非生活日常)においては平等であっても、現実的な社会的生活(生活日常)においては不平等であり得る。貧困等々で喘ぐ人々がいるただ中で、大多数の被支配としての一般大衆・一般市民・一般国民のために碌に成果をあげていないにも拘らず、丸山穂高衆院議員によれば、保守や野党を含めて昨年の国会議員の12月の最高収入額は一人当たり一般サラリーマンの平均年収を優に超えた1200万円ということである、また別の報道によれば、国民民主党は昨年の9月「今年支払われるべき政党交付金と、解党に伴うさまざまな事務費用、解散総選挙が近いということで応援資金として」「62人に(≪一般サラリーマンの平均年収を優に超えた≫)1000万円/人ずつ支給した」ということである。国家公務員試験等についても、応募に関しては平等であっても、採用に関しては不平等である。大多数の被支配としての一般大衆・一般市民・一般国民に閉じられていく擬制民主主義下の議会制民主主義の日本においては、議員定数や議員報酬に対して大多数の被支配としての一般大衆・一般市民・一般国民が直接的に制限することができる直接民主制的な手段がないから、保守・野党議員たちのやりたい放題が続いている。したがって、大多数の被支配としての一般大衆・一般市民・一般国民が困窮していても、高収入の問題や高収入の<過剰>議員定数問題も抜本的に是正されたことがない。現実的な客観的な正当性と妥当性のある理由に基づいてそのような理不尽な国家の法制度を糾弾するために、国会傍聴席でその理不尽さについて大声で叫べば傍聴席から退出されられる、しかしそれに抗してさらに叫び続け、そしてその行為が法に抵触すれば罰せられる、また民間化したNHKを観ないような手立てをしても、まだ強制的に視聴料を支払わせられる等々)。このような現実と時代状況の中で、「西洋の人間は全体として」、「少しばかりの唯一神教、道徳、奥義以上のものを教会の中に見出さなかった……。それ故にこそまた西洋の人間はこれ以上何も教会に拘束されつづけなければならない義務はないということに気づいたのであり」、またそれこそが、「教会がなした喜ばしい発見だったのである」。「決然と世俗的な即事性へとおもむいていった」のである。「教会……キリスト教」は、そうした「ひとり立ちするようになった(≪自由の精神を原理とする≫)近代の人間を原則的に承認した」のであるが、その時、「教会……キリスト教」は、一般的啓示、一般的真理、自然神学、存在の類比に立脚することに拍車がかかったのである。そのようなキリスト教<宗教>の、近代の宗教的形態である科学主義、古代史的研究における歴史的事実、史実だけを重んじる聖書研究における歴史主義(歴史主義は、「人間精神が生み出したものを問題とする限り、啓示を問おうとしないで、人間精神の自己理解を第一義として聖書の中でも神話を問う」)、哲学、心理学、教育学、コミュニケーション論等々「同時代の人たちの思考の前提」、「そこから形成された理解の規準」に対する「後追い」的な在り方を、バルトは、「補助的立場」、「人間学の後追い知識」とも述べている。これは、まさしく、キリスト教<宗教>(教会や神の子どもたち)の、「世俗主義化」そのものである。したがって、キリスト教<宗教>は、キリストにあっての「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、あの総体的構造の中における三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)、すなわちキリスト教に固有な類と歴史性の関係と構造(秩序性)という概念を発見するのではなく、人間的な実在と人間的な可能性へと偏向した不信仰としての「『宗教』という一般概念……を発見する」。

 

 キリスト教<宗教>は、「伝道におけるキリスト教とキリスト教以外の宗教との対決」の課題を、「有効妥当性」に置いたために、すなわち「ヨーロッパ的――アメリカ的なキリスト教を代表」とすべきか、「アフリカ的ないしアジア的な、土着的なキリスト教を代表」とすべきかという人間的な実在と人間的な可能性における課題にすり替えてしまったために、結局は、「その課題に終止符をうつことはできなかった」のである。したがって、一般的啓示、一般的真理、自然神学、存在の類比に立脚した「キリスト教真理」は、「ある時は絶対主義的権威的な人間的真理として、ある時は個人主義的、浪漫主義的な人間的真理として、ある時は自由主義的な、ある時は民族主義的な、あるいは……人種主義的なものとして、現れてこざるを得なかったために、あのキリスト教真理」――すなわち「裁き(≪「恵み」に包括された「裁き」≫)、祝福(≪「裁き」を包括した「恵み」≫)を与える神の真理として現れてくることはなかった」のである。まさに、「キリスト教の歴史」は、キリストにあっての啓示、啓示の真理、啓示神学、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)に立脚した、換言すれば「ただイエス・キリストの名だけ」に立脚したパウロ的な「キリスト教的人間」――すなわち、「ただその弱さの中でのみ強くあるということ、……恵みをもって足れりとするということが、……ない歴史」であったし、あり続けたし、なお依然としてそうあり続けているのである。パウロ的な「キリスト教的人間」は、バルトの言葉で言えば、次のように言うことができるであろう――「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求めようとしないで、私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待するべきである」、「西でも東でも等しく通用し、西でも東でもひとしく稀であり、人々に好まれぬ福音に、無償の恩寵によって、素直に止まるべきである」(『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』)。「それにもかかわらず、キリスト教の歴史は、全体として、このことを認めようとしない」のである。

 

 前述したような人間的な実在と人間的な可能性に偏向した「キリスト教の歴史」は、「全体として、恵みに対する反抗の歴史であり、それは、不信仰であり、不信仰は……それこそまさに本来的な罪」、「真実の罪」であるという認識を持ち得ていないのである。「問題の定式化〔問題を明確に提起すること〕は、その問題の解決である」(マルクス『ユダヤ人問題によせて』)が、キリスト教の歴史は、その課題を明確に提起することができないために、なお依然として、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返しているのである。したがって、キリスト教の歴史は、人間的な実在と人間的な可能性への偏向した人間の自主性・自己主張・自己表現・自己義認の欲求、「人間の誇り」の欲求、すなわち無神性・不信仰・真実の罪を、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、あの総体的構造に基づいて「的確に批判され、訂正され」て、あの総体的構造を持っている「啓示された神の事実」・「イエス・キリストの名」に「期待」しつつ、「まことの宗教」・「まことのキリスト教宗教となる」ことを目指さなければならないのである。すなわち、そのことは、人間的な実在と人間的な可能性への偏向した不信仰としてのキリスト教<宗教>が、「自分自身の罪を認識しつつ、われわれの罪を無制限にあがなう神の義に頼り、……(≪「不敬虔なる者の義認」としての≫)神の恵み(≪「裁き」を包括した「神の恵み」≫)をかたくとって離さないでいることを意味している」。

 

 キリスト教宗教は、「裁き」を包括した「恵みの宗教といえどもその内在的な姿においては、恵みに逆らうあの反抗に……参与しているのである」から、「あの方の祝福をほめたたえる讃美と感謝をもって、人間的な主張の放棄への歩みと、わたしたちは繰り返し新たに神に言い逆らう者ですというあの告白を強いられるのであり、その告白をなすのである」。すなわち、「裁き」を包括した「恵みの宗教もただ(≪「裁き」を包括した≫)恵みそのものを通してだけ、それであるから決して自分自身を通してではなく、義とされ、まことの宗教とされることができるのである」。ここでは、「自己欺瞞に陥る」ことはないであろう、終末論的限界の下でのその途上性において、絶えず繰り返し、「まことの宗教」へと向かうことができるであろう。「創世記三二・二二以下の箇所」で、「神は――よく理解せよ――ヤコブに勝てなかったと記されている」から、「ヤコブは内在的に見たならば、……恵みの敵であるし、敵でありつづける。そのことをまた、『神と人とに、力を争って勝った』が故に与えられた『イスラエル』という新しい名が示している」。「この出来事の意味と目標」は、第一に、「ヤコブのもものつがいが神によって……はずされたことから、彼は神によって……、……力をそがれた者となり、力をそがれた者でありつづける」、第二に、ヤコブは「神によって祝福されることを切に望み、神の祝福を求め続けた」、第三に、神は「ヤコブの執拗な求めによって、祝福し給う」、第四に、「ヤコブはこの戦いの場所を、わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きているから」、「ペニエル(神の顔)と呼んだ」、それ故にその「場所は、神のみ顔を見、み顔の中で真理を認識する……場所でなければならないし、ただそのような場所であることができるだけである」。

 

(D)バルトは、「キリスト教に最も厳格に、包括的に、明瞭に対応する『異教』的な平行事象、……宗教形態として、法然の浄土宗と、それを体系的に展開し原理的なものにまで高めた親鸞の浄土真宗を挙げ」、その「親鸞の信心」について、この信心も阿弥陀仏の方からやってくるものであるが、「人間のなすべきこと、なしうることはただ一つ、人間の側からするいかなる活動(≪自力の計らい、自力作善≫)もなしに、阿弥陀仏(「無量光」・「無量寿」)によってもたらされた救済に対する感謝だけであって、それ以外には何もない」と述べている。阿弥陀仏による絶対他力による救済について述べている。バルトは、「浄土宗と浄土真宗を、神の摂理としての日本的プロテスタント主義と呼んだ」。それと同時に、バルトは、「キリスト教的なプロテスタント主義と日本的なプロテスタント主義との同一性について語ろうとすることは、思慮の浅い受け止め方であるであろう」とも述べている。何故ならば、「恵みの宗教としてのキリスト教宗教の真理」は、「ただ、神の啓示の客観的実在の総内容であるところのイエス・キリストというひとつの名だけである」からである――ここに、根本的包括的な原理的な差異性があるからである。また、バルトは、親鸞には日本的「プロテスタント主義としての神の摂理性がある」、と述べている。何故ならば、親鸞の教理は、「異教的証しとしての日本的プロテスタント主義と呼ぶことができる」からである。バルトは、キリスト教的「プロテスタント主義」と日本的「プロテスタント主義」との差異性について、次のように述べている。
◎後者の浄土運動の出発点は、「救いの道を求める庶民的問いであった」が、前者の宗教改革運動の出発点は、「庶民的な問い」ではなかった。
◎後者の自然を原理とする人類史のアジア的段階における阿弥陀仏には「神性と怒りについての教説がない」。
◎後者の自力作善、「祭儀的、道徳的な業による義に対する……反対命題」には、「人間の我意と高慢に抗して神の誉れのためにたたかう戦いという強調点が欠けている」。
◎後者が「立つか倒れるかは……寂滅による救い、涅槃、……阿弥陀仏自身それへの途上にある仏性」、「これらすべて……をひたむきに求めてやまない人間の願いの内的な力と正当性にかかっている」。例えば、確かにその極限には無念義を想定することができるが、一念義を説いている。バルトは、「非キリスト教的な諸宗教に相対してキリスト教宗教が異なっている本来的、本質的な区別、それとともにまた虚偽の宗教に対する真理の宗教としてのその性格はそれとして、ただ、(≪あの総体的構造の中での客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態の神の言葉である≫)教会が(≪その教会の宣教の思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者としての第二の形態の神の言葉である≫)聖書の指し示しにしたがって……ますます大きな心の喜びをもってただイエス・キリストだけを(≪「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであるただイエス・キリストの名だけを≫)恵みおよび真理として聞き、宣べ伝え、また信じるということ、イエス・キリストの約束にしたがってこの自分に委ねられた務めに進んで身を捧げ、それであるからまた(≪第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした≫)教会の告白と証言のなかで自ら(≪「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものである≫)イエス・キリストご自身の告白者、証言者となるということ、そのことが事実であり、現実の出来事として起こる中でだけ、実証されるのである」と述べている。なお、私のホームページ「カール・バルト(その生涯と神学の総体像)」、ライブドアブログ「『カール・バルト』および『吉本隆明』等」に、吉本隆明「親鸞」論を載せている。

 

 イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、あの総体的構造に基づいて、終末論的限界の下でのその途上性において、絶えず繰り返し、「となる」ことによって「ある」ところの「まことの宗教」の「存在」は、「イエス・キリストにおける神の恵みの行為の中で起こる出来事である」。それは、キリスト教宗教、「神の教会と神の子供たちが存在する現実存在の中で(≪あの総体的構造に基づいて≫)起こる出来事である」。あくまでもこのような仕方でだけ、イエス・キリストにおける「神の恵みよって生きる」「まことの宗教の担い手たちとしての神の教会と神の子供たちが存在する限り、人間の宗教の世界のただ中でまことの宗教が存在する」と言うことができる。この時、その「神認識と神崇拝とそれに対応する人間の行為」は、「一方ではあくまで……倒錯……罪……汚れ…無益な手段をもってする虚偽と不正の試みとしてのそれである」が、それ故に「偶像礼拝……業による義に対する神の告訴から免れていない」のであるが、それにも拘らず、他方で、神の側の真実としてあるあの総体的構造を持っている「啓示された神の事実」・「イエス・キリストの名」に基づいて、「まことに神が認識されあがめられ……まことに神と和解された人々の行動がなされている」というそれなのである。すなわち、「彼らの神認識、神崇拝、および教えや礼拝や生活の中での神奉仕」は、「すべて人間的な思惟、意志、行動に先行し、すべての人間的倒錯を正す神の自由なる愛についての洞察を通して規定されている」それなのである。この時、「彼らの神認識、神崇拝、および教えや礼拝や生活の中での神奉仕」は、「ただイエス・キリストの名だけに対する信仰と感謝として規定される」。「彼らの神認識、神崇拝、および教えや礼拝や生活の中での神奉仕」、「キリスト教宗教を、まことの宗教とし、彼らの宗教を一般の宗教史の水準の上に置くもの」は、あくまでも「神の恵みを通して(≪あの総体的構造を持っている「啓示された神の事実」・「イエス・キリストの名を通して」≫)神の恵みによって生きる」という点にある。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストが、「子として人間(≪その内在的本質である神性の受肉ではなく、その第二の存在の仕方における言葉の受肉であるそれ≫)となり給うたが故」に、それ故に「われわれ人間の功績やそのふさわしさからではなく」、「神の子の中で人間を引き受けられた恵みによって」、「人間も神的なみ心に適う」「神的適意の対象となったが故」に、また「このひとりの方の中で人々の間での神の啓示、神と人間との和解が一度ですべてにわたって力を奮う仕方で遂行されたが故」に、また「彼が聖霊を与え給う故」に、「このひとりの方の中で(≪あの総体的構造を持っているキリストにあっての啓示、イエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である≫)神の教会が存在するし、神の子供たちが存在する」、「まことの宗教」がまことのキリスト教宗教が存在する」と言うことができる。