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25の6.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」

25の6.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
推敲済みです。
この知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明についてさらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります
https://karl-barth-studies.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。

 

 

「U 神の存在の証明」「B 証明の遂行 『プロスロギオン』二−四章注釈」「一 神の一般的な存在 『プロスロギオン』二章」
 「ソモソモ、モノガ理解ノウチニアルコトト、モノガ存在シテイルコトヲ理解スルコトハ同ジデハナイ。コノヨウニ、画家ガソノ描コウトシテイルコトヲ予メ考エル時、彼ハ、ソレヲ理解ノウチニ持ッテイルコトハイルガ、マダ描イテイナイモノヲ存在スルトハマダ理解シテイナイ。シカシ、描キアゲタ時、彼ハ、ソレヲ理解ノウチニ持チ、マタスデニ描イタモノガ存在スルコトモ理解シテイル」。

 

 われわれ人間にとって現実は、先ず以て具象性と抽象性の総体としての意識された現実、現実の意識として存在している。この現実の意識は、対自的となった人間的意識(自己意識の対自的意識、言語の自己表出)と対他的となった実践的意識(自己意識の対他的意識、言語の指示表出)の構造としてある。したがって、画家は、少なくとも具象絵画の場合、例えばその対象が自然の森の場合、描こうとする現前しているその対象を、先ず以て意識された対象、対象の意識(その自然そのものとしての対象ではなく、人間化された自然)として持っている。そして、その対象を、自分の絵画理念、色や構成等々自分のテーマに基づいて描く。すなわち、自己意識における対自的意識(<表出>過程、心的過程)と対他的意識との構造である現実的意識の外化としての絵画<表現>は、「現実的人間との関係の意識、いわば対他的意識(≪実践的意識≫)の外化である」。そのようにして画家は、自己を客体化し、他者の対象となり、社会的関係に入りのであるが、その時、その<表現された>絵画は、客観的な対象として百人百様の享受の対象となり、交通の手段(コミュニケーションの手段)となり、その外化された実践的意識(対他的意識)は、「確かに他の人々にとって存在するとともに、そのことによってはじめて私自身にとってもまた実際に存在するところの現実の意識である」(下記の【注1】を参照)。このように、「モノガ理解ノウチニアルコトト、モノガ存在シテイルコトヲ理解スルコトハ同ジデハナイ」。「われわれが、この記述の中で、われわれの前で持つものは、存在を理解することについての(一般的な)アンセルムス的概念の、きわめて明瞭な展開である」。この記述は、「たとえそれが存在することを理解したのではないにしても、彼の理解のうちにあるという留保と結びついている」。この時、「理解スルという概念も、存在スルという概念も、ここにおいてもあそこにおいても、違った意味で用いられていなければならない」。「人は、事物を、それの存在を理解することなしに」、「まさにただ理解のうちだけ存在を持っているにもかかわらず、存在するとして理解することができる」。したがって、われわれ人間の主観的な「理解のうちでの……存在」と「この(≪主観的に≫)理解のうちで存在するものを理解すること」と、それに対して、客観的な「そのものの存在」――すなわち「単に志向され……考えられただけでない存在」と「この(≪客観的に存在する≫)存在を理解すること」――「すなわち、理解の限界を超えている、(≪客観的に存在している≫)真正の存在を理解すること」とは「別なものである」。ちょうど、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」――このイエス・キリストにおける神の自己啓示からして、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)の連続性における「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身と、このイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)と、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義との間には、超えることができない次元の差があるようにである。

 

【注1】
 われわれ人間にとって現実は、具象性と抽象性の総体としての意識された現実、現実の意識として存在している。何故ならば、「対象物から眼に到達する光作用に対して、生理過程として網膜の背後にある色彩、明暗、形態を弁別できる諸神経の刺激の継続と強弱」、「刺激の質量の度合という自体的な識知」、すなわち「生理過程の<変容>」と同時に、その生理過程の外部に出て、「対象物を全体的に構成し、了解(≪「対象的識知」≫)する対象的過程」によって「<この対象は茶碗だ>、<この対象は森だ>とか了解される個体の知覚作用」に、われわれ人間の固有性があるからである。したがって、われわれ人間は、「対象を再構成し、了解するところまでやらなければ、対象物にたいして、どう行動するか、どう行動しないかさえできない」のである。ここで一旦疎外された観念は、その観念自体の自体的展開過程と自己増殖過程を持つのである――「人間の心的な過程が存在するためには、身体の存在は絶対的条件である。それにもかかわらず、人間の心的な過程の内容は、必ずしも身体の存在の反映ではない」。この立場においては、思想の課題としての唯物論か観念論かという二元論的対立論を包括し止揚できるのである(吉本隆明『思想の基準をめぐって』、『行動の内部構造』)。
 個体とは、その内部構造・意識構造・「存在の根本的な構造」における人間存在の一様式のことである。その個体の内部構造・意識構造は、自己関係づけと自己抽象づけとの構造としてある。自己関係づけとは自己の身体がここ(空間)にあるという意識、自己を自己として関係づける意識である。すなわち、自己の自然的な生理的身体を内在的に関係づける意識、空間的な自己意識である。また、自己抽象づけとは自分の身体が現(時間)にあるという意識であり、自己を自己として抽象する意識である。すなわち、自己の自然的な生理的身体を内在的に抽象化する意識、時間的な自己意識である。したがって、「対象的に関係づけられて存在するのが個体である」とする現象学や実存主義は「本質直観」における知覚や感覚に依拠した自己了解や自然了解を、すなわち「自己対象了解……自然対象了解……を人間の存在本質の根本におくわけですけれども、わたくしどものかんがえではそうではない」と吉本は批判するのである。すなわち、この自己関係づけと自己抽象づけの構造において、「個体は個体として自己に関係づけられるから」、対象(自然としての自己身体、性としての他者身体、外界としての自然)を「自己対象了解……自然対象了解」することができるのである。この人間的個体は、様々な観念的諸生産物を創出する。ところで、自己抽象付けの度合は、了解性によって測られ、了解性は時間性によって測られる。したがって、認識の了解性の度合、抽象の度合の差異は、時間化度の差異による。また、知覚の拡がりや延長という自己関係づけの度合は空間化度によって測られる。また、了解性が時間性である根拠は次の点にある。すなわち、「人間はさまざまな体験や感覚のみがき方をし」、そうした時間累積の果てに「現代的な感覚や現代的な知覚作用をもつにいたった」という点にある、原始・未開から現代までの時間累積(歴史性)にある。したがって、古代人と現代人において、感官に映る対象は同じであっても認識の度合に差異が生じるのは、時間化の度合、時間累積の度合の差異、すなわち了解性の度合の差異による。「古代人が山の頂の巨大な岩石を霊的な信仰の対象として認識し、現代人はその岩石を単なる自然物であると認識する」時、その差異性の根拠は、古代から現代までの時間累積(歴史性)の度合、了解化の度合、時間化の度合の差異にある。このように、「人間の意識に対象としてやってくるすべてのものは根源的には空間および時間に分割されるほかはない」のである(吉本隆明『メルロオ=ポンティの哲学について』、『自立思想の形成について』、『人間にとって思想とはなにか』、『言葉の根源について』)。

 

 主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的な「存在的な必然性」としてのキリストにあっての啓示、啓示の真理、啓示神学に立脚したアンセルムスは、イエス・キリストにおける神の自己啓示(下記の【注2】を参照)からして、キリストにあっての「神が第一の意味で存在(≪第二の問題である神の本質を包括した第一の問題である神の存在≫)を持っているということ(≪「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」を持っているということ、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの、「啓示ないし和解の実在」そのものがあの総体的構造(下記の【注3】を参照)を持っているということ≫)、またその名が宣べ伝えられ、聞かれ、理解されるということ(≪そのイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書、その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」≫)を、……これまで示した」。「しかし、アレトコレハ違ウノデアル」。すなわち、「単に志向され……考えられただけでない……(≪客観的に存在している≫)真正の存在」と、その「理解の限界を超えている、(≪客観的に存在している≫)真正の存在を理解すること」とは違うのである。ここにおいて、アンセルムスは、第一の問題としての神の「存在の問いがはじめてたてられ、論議すべき対象がはじめて表示されるということを明らかにした」。したがって、「神の存在の証明においては、第二の意味での存在と存在を理解することが問題である」。すなわち、「単に志向され……考えられただけでない……(≪客観的に存在している≫)真正存在」とその「理解の限界を超えている、(≪客観的に存在している≫)真正の存在を理解すること」との差異性の認識と自覚が重要な問題である。イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、「先ず第一に、あの第一の意味で、神の存在(≪あの総体的構造における主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的な「存在的な必然性」≫)を確かめることは、欠かすことができないことである」。「そして、後で、既に起こったということが想起される」――このことは、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在しているあの総体的構造を持っている第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)の現存が証明している。「モノガ(≪主観的に≫)理解ノウチニアルコトの真理性について」は、「モノガ(≪客観的に≫)存在シテイルコトヲ理解スルが決定する」。「この出発点の状況」は、「画家の理念(≪画家の内在的な表出過程、心的過程におけるそれ≫)と業(≪外在的なその表出の外化としての表現≫)との間の関係についてのたとえが例証している」。その例証は、「事物の、心のうちでの存在および心のうち心の外での存在がある」、それ故に「それに相応する二重の存在についての理解があるということから成り立っている」。このうちの「第二のもの」が――すなわち、「心のうち心の外での存在がある」ということが、「本来的な存在理解である」。「まさに存在についての理論」が、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、あの総体的構造における三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在しているあの総体的構造を持っている第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)の現存からして、「存在の実在の後に従わなければならず、存在について考えること」が、「対象の存在の後に従わなければならない時にこそ」、「それは、先ず第一に」、あの総体的構造における神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいた、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の連続性に連続していく他律的服従とその決断と態度としての自律的服従との全体性において、絶えず繰り返し、純粋な教えとしてのキリストにあっての神を尋ね求めて行くという「権利と義務を持っている」。

 

【注2】および【注3】
 イエス・キリストにおける神の自己啓示は、自己自身である神としての(ご自身の中での神としての)自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれは、神の不把握性の下にある)「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動――父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間、「真に罪なき、従順なお方」「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」(「ただイエス・キリストの名だけ」)において、その内在的本質である「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示である。
 そのような訳で、神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける神の自己啓示は、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」(客観的な「啓示の出来事」の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を包括した客観的な「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」)を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)という総体的構造を持っている。そうでないならば、神は、人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化され第一義化・価値化・絶対化された人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質に過ぎないものであるであろう、すなわち「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下でのキリストにあっての神としての神ではないであろう。
 「まさに(≪イエス・キリストにおける神の自己≫)啓示の中でこそ、まさにイエス・キリストの中でこそ、隠れた神は、ご自身を把握できるものとし給うた」。しかし、そのことは、「決して直接的にではなく、間接的にである」、あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる「信仰に対してである」、「その本質の中においてではなく、しるしの中においてである」、このように「とにかくご自分を把握できるものとし給うた」。その内在的本質が肉となったのでは決してなく、その「外に向かって」の外在的な第二の存在の仕方における「言葉が肉となった」――「これが、すべてのしるしの最初の、起源的な、支配的なしるしである」、換言すれば人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化されたに過ぎない「存在者」では決してなく、徹頭徹尾神の側の真実としてある、イエス・キリストにおける神の自己啓示としての、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方における言葉の受肉としての「存在者」である。したがって、それは、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」ではない、それ故にその対象からして「存在者レベルでの神への信仰」ではない。「このしるしに基づいて、このしるしのしるしとして」、「そのほかにも神の永遠の言葉の被造物的なしるしが存在する」。先ず以て第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)が「しるしのしるし」として客観的・可視的に存在している、また「教会に宣教を義務づけている」聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)が「しるしのしるしのしるし」として客観的・可視的に存在している。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストと地上における可視的なみ国」――「これこそ、神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握し、したがってまた神について語ることができる」「偉大な可能性」である。

 

 「人は、どのようにアンセルムスの画家の例えを理解すべきでないかということを、(われわれにとって警告となる仕方で)ガウニロは、二つの点で示している」。
(1)画家の内在的な表出過程、心的過程においては、「モノガ存在シテイルコトヲ理解スルという前提のもとで、モノヲ理解ノウチニ持ッテイルコトが、モノガ存在スルコトヲ理解スルコトと時間的に一致するということ」を、アンセルムスは、「『プロスロギオン』の箇所において、はっきりと言葉に出して語った」、換言すれば、「モノガ存在シテイルコトヲ理解スルという前提のもと」で、そのモノは人の主観的な意識や理解に関係なく客観的に存在しているそれであるから、そのモノは人に意識されないならば、その人の意識や理解の内に存在することはできない、それ故にそのモノが人に意識されないならば、その人は、そのモノを意識の内に持つことはできないから、そのモノヲ理解ノウチニ持ツことはできないが、そのモノが人に意識されたならば、その人は、そのモノを意識の内に持つことができるから、その「モノヲ理解ノウチニ持ッテイルコト」が、「モノガ存在スルコトヲ理解スルコトと時間的に一致するということ」を、アンセルムスは、「『プロスロギオン』の箇所において、はっきりと言葉に出して語った」。「シカシ、描キアゲタ時(≪外在的な表出の外化として絵画表現した時≫)、彼ハ、ソレヲ理解ノウチニ持チ、マタ……(≪客観的にそれが≫)存在スルコトモ理解シテイル」。したがって、その画家の絵画表現における内在的な表出過程、心的過程と外在的な表出の外化としての表現との構造を理解しなかったガウニロが、画家の内在的な表出過程、心的過程における「モノガ存在スルコトヲ理解スルコトに先行する中立的なモノヲ理解ノウチニ持ッテイルコトの可能性を疑ったということ」は、換言すればそのモノは人の主観的な意識や理解に関係なく客観的に存在しているそれであるから、そのモノは人に意識されないならば、その人の意識や理解の内に存在することはできない、それ故にそのモノが人に意識されないならば、その人は、そのモノを意識の内に持つことはできないから、そのモノヲ理解ノウチニ持ツことはできないが、そのモノが人に意識されたならば、その人は、そのモノを意識の内に持つことができるから、その「モノヲ理解ノウチニ持ッテイルコトの可能性を疑ったということ」は、彼が、「アンセルムス的な証明の、……歩みに対して、どんなに僅かしか理解していなかったかを示している」。それは、次のようにである。ガウニロは、アンセルムスにおいては、「モノガ理解ノウチニアルコトが時間的な以前を意味し、モノガ存在スルコトヲ理解スルコトが時間的な以後を意味しなければならない」ということを非難した、「しかも、モノガ存在スルコトヲ理解スルコトの前提のもとで」、「モノガ理解ノウチニアルコトが……モノガ存在スルコトヲ理解スルコトと同時的に起こらなければならないところで時間的な以後を意味しなければならないということを非難した」――「絵ガ最初画家ノ魂ノウチニアリ、次ニ作品トシテアル場合ノヨウニ、時間的ニ先ンジテ、アル対象ヲ理解ノウチニ持ツコトト、時間的ニ遅レテ、ソレガ存在スルコトヲ理解スルコトニハ、スデニ相違ガナイ」。
(2)ガウニロは、「アウグスティヌスは、技工が箱を作品として作ろうとすると、この箱は、まず創造者的な立ちまさった仕方で、技工の技術の中に存在しており、また『作品トシテ作ラレタ箱ハ生キタモノデハナク、技術ノウチニアル箱コソ生キタモノデアル。ソレハ、技工ノ魂ガ生キテイルカラデアル』と語ったということ」から、「アウグスティヌスを粗雑に手直しつつ、……『ソモソモ、アノ絵ハ制作サレル前ニ画家ノ技術自体ノ内ニ含マレテオリ……、ソノヨウナモノハ知恵以外ノ何モノデモナイ……ソレラハ魂自身ノ知識アルイハ知恵以外の何モノデモナイ』」と述べている。
 しかし、あの総体的構造におけるそれ自身が聖霊の業であり啓示(啓示の真理)の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における「ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイモノの真理に関しては、それが真理であり、そのようなものとして知性ノウチにあると前提して」、その時、その真理が、それを「把握スル知性と同一であるといった具合ではあり得ない」。それにも拘わらず、ガウニロは、この「業(≪子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事≫)に対する(≪人間の≫)理念の優位性」、「神の存在に関して人間の創造者としての役割」を自己主張したのである。このガウニロの思惟と語りは、「アンセルムスにとっては、何の意味も持たない」ものであった。しかし、ガウニロは、「アンセルムス的なモノヲ理解ノウチニ持ツコト……の中に」、誤解と曲解の中で、「突然、フォイエルバッハ的な主張」、すなわちフォイエルバッハが客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的に原理的になしたキリスト教批判の対象そのものである、「人間を神の創造者へと高める」という主張を見出したのである。このガウニロにおいては、「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」し、また「神の啓示の内容は、(≪「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固執するという<方式>の下でのキリストにあっての≫)神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神(≪「存在者」、「存在者レベルでの神」≫)から発生した……」ものであるし、それ故にその「対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」ものであるし、また「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)(≪人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化され第一義化・価値化・絶対化された人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質≫)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」ものである(『キリスト教の本質』、『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演 下」)。

 

 アウグスティヌスは、「三位一体の痕跡である想起(記憶)、知解、愛」としての「人間の中での神の像」を、「最も身近な最も高貴な認識根拠とした」。それは、アウグスティヌスにとって、「聖書的・教会的・教義的前提であった」。そして、アンセルムスにとってもそうであったが、キリストにあっての啓示、啓示の真理、啓示神学に立脚したアンセルムスの場合は、一般的啓示、一般的真理、自然神学に立脚したアウグスティヌスとは違って、第一に、徹頭徹尾あの総体的構造の中でのそれ自身が聖霊の業であり啓示(啓示の真理)の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに絶えず繰り返し「教えられつつ語る」のであって、一般的啓示、一般的真理、自然神学に立脚したアウグスティヌスのように「われわれの理性に内在している神概念の再想起において創造しつつ神について語ろうとはしなかった」。第二に、アンセルムスにとっては、客観的な「存在的なラチオ性」に包括された主観的な「認識的なラチオ性〔理性性〕」は、あの総体的構造の中での主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的な「存在的な必然性」、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」、すなわち「啓示、恵み、信仰を前提条件としていた」。キリストにあっての啓示、啓示の真理、啓示神学、「恵ミノ類比」に立脚したバルトは、『教会教義学 神の言葉』で、ハイデッガーとアウグスティヌスの時間概念に対して、客観的な正当性と妥当性とをもって、次のような根本的包括的な原理的な批判を加えている――ハイデッガーは、「時間から対象性をはぎとって、時間を人間の現実存在の存在形式として理解した」。すなわち、自分の意志とは全く無関係に不可避な歴史的現存性(被企投性・現前性・被制作性)に投げ出された個体的自己が、「自分の最も固有なぬきん出た存在可能性に向かおうとする『先行的な決意性』」(企投性)によって時間化する時、「自分自身の時間、自分自身の未来・過去・現在を創造し持つことができる」とした。言い換えれば、個体的自己が「自分自身を実現してゆく」個の現存性に意識的意志的自覚的に生きようとする時、「時間を創造し持つことができる」、自然時間でもなく、歴史的時間でもなく、内在的な個体的自己の現存性に固有な時間を創造し持つことができるとした。このことは、時間を、「被造物的――人間的現実存在の規定」、「被造物である人間存在の自己規定として理解している」こと、すなわち人間的現実存在は時間性であること(時間化)、その時間性が存在を規定すること(存在了解)を意味する。アウグスティヌスの場合、『神の国』で神は「時間ノ創造者マタ決定者と呼んでいる」が、『告白』では「過去、現在、未来は精神の中にあって、ほかのどこにあるのでもない」と述べている。バルトは、アウグスティヌスの後者の思惟と語りに、アウグスティヌスにある自然神学性を見出しているのである。アウグスティヌスやハイデッガーにおいては、「自分で時間を創造することによって時間を持つ」。それに対して、バルトは、彼らの時間概念は、「聖書においては『失われた』時間」、「否定された時間」、「否定的判決の時間」であり、「実在の時間」である「イエス・キリストにおける啓示(≪死と復活の出来事におけるそれ≫)の時間」から「『攻撃』された時間」である。それに対して、徹頭徹尾神の側の真実としてあるイエス・キリストの時間、「時間の主の時間」は、「問題に満ちた非本来的な失われたわれわれの時間」の中で、「本来的な実在としてのイエス・キリストにおける新しい時間」、「実在の成就された時間」(使徒行伝1・3「キリスト復活の四〇日」)――「まことの現在」である。したがって、ここに、「まことの現在」、それ故に「まことの過去」と「まことの未来が存在する」し、「神の言葉」、あの総体的構造におけるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)がある。