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25の7.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」

25の7.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
推敲済みです。

 

「U 神の存在の証明」「B 証明の遂行 『プロスロギオン』二−四章注釈」「一 神の一般的な存在 『プロスロギオン』二章」
 「ダカラ、ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイ何カトイウ(≪神の存在としての神の名の≫)コトヲ聞ク時、愚カ者ハ理解シ、理解シタモノハ(≪その人にとって、それは意識されており≫)何デモ理解ノウチニアルカラ、ソレガ少クトモ理解ノウチニアルコトハ、彼ニシテモ納得シテイルコトデアル」。

 

 しかし、キリストにあっての啓示、啓示の真理、啓示神学、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)、キリストにあっての啓示自身が持っているあの総体的構造(下記の【注】を参照)に立脚するアンセルムスとは違って、「『(≪一般的啓示、一般的真理、自然神学、存在の類比に立脚する≫)コノ愚カ者自身ハ……モチロンソノ聞イタコトヲ(≪ただ主観的にだけ≫)理解スル』でもって開始された円を閉じ」(循環し)、存在的に「神は、考えられ得る最大のもの(≪人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された意味的世界、物語世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」≫)である」と主張する。われわれは、「これまでのところでは、ただ探究の対象を確定することが問題であった」。「神ハ存在シナイという愚カ者の異議申し立て」は、「既に(≪イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、第一の問題としてある≫)神の存在の問題が自明的にそこにあるわけではないということ」を、自然神学の段階で停滞と循環を繰り返す「信仰を持った考える人に対しても思い出させる」。したがって、自然神学の段階で停滞と循環を繰り返す「信仰を持った考える人」によって考え出された神と、「神ハ存在シナイという愚カ者」によって「否定されたものであるとはいえ」考え出された神は、その人間の人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」として同じである。したがってまた、キリスト教「信者に対しても、神の存在を信じる彼の認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰≫)とならしめるために、どこではじめなければならないかが示されなければならない」。「この教示の出発点は、神についての何か一般に存在している、あるいは接近することができる人間的な確信ということではなく」、神の側の真実としてある神の側からするあの総体的構造に基づいて「神の宣べ伝えれ信じられた神の名であった」。「この名は、人間によって聞かれ、理解されることができる。この時、この名は、人間に対して、何かあるもの、あるいは誰かある者(≪あの総体的構造を持っているイエス・キリストにおける神の自己啓示からして、第二の問題である神の本質の問題を包括した第一の問題である神の存在の問題≫)を表示したのである。すなわち、(≪第二の問題である神の本質の問題を包括した第一の問題である神の存在の問題を表示した≫)名でこの名が現にあるところの者が、いまや信じられようと信じられまいと、そのまことの存在の中で肯定されようと否定されようと、いずれにしても人間の理解ノウチニあるのである」――「ここのところに、おそらくはただここのところにだけであるかもしれないが、その者は、存在を持っている」。「いずれにしても、(≪あの総体的構造に基づいた≫)あの名を認識することの出来事」は、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、「ただそのことだけが確かに問題なのであるが」、第二の問題としての神の本質を問う問いを包括した第一の問題としての神の存在を問う問い、「神の存在の問題を舞台に登場させる」。イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、神の存在としての「神の名は、単なる単語ではなく、表示、その中で表示されたものが思惟し得る仕方で現存する表示であり」――何故ならば、その名は、あの総体的構造の中で、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書という、われわれ人間の思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者を持っているからである――、「またそのことを度外視しても、そのように表示されたものの本質についての推測への指示が決して欠けることがないということを言われなければならない」。「まことの存在の理解」は、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、われわれ人間の「精神の外ででも存在する神の存在が問題である」から、神の側の真実としてある神の側からするあの総体的構造に基づいたものでなければならないであろう。このことが、「まさに本来的な、決定的な証明そのものの対象であるであろう」。「このところでうけ合われつつ確信されなければならなかったことは、神の、(≪われわれ人間の≫)精神の中で存在する存在という前提の可能性であった」、(あの総体的構造の中での客観的な「存在的なラチオ性」に包括された主観的な「認識的なラチオ性」に基づく終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事としてのわれわれ人間の精神の中で存在する存在という前提の可能性であった)。「この可能性」は、「愚カ者がなす神否定のことを考える中ででも否定されることはできない」。もしもそうでないならば、「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」(『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演 下」)であろう、キリストにあっての「(中略)神の啓示の内容は、(≪キリストにあっての≫)神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した」ものに過ぎないであろう、それ故にその「対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』」であろう(『キリスト教の本質』)。

 

【注】
 イエス・キリストにおける神の自己啓示は、自己自身である神としての(ご自身の中での神としての)自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれは、神の不把握性の下にある)「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動)、すなわち起源的な第一の存在の仕方としてのイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解者、第三の存在の仕方としての神的愛に基づく父との交わりとしての聖霊――「啓示されてあること」・キリスト教に固有な客観的に存在しているイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間、「真に罪なき、従順なお方」「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」(「ただイエス・キリストの名だけ」)において、その内在的本質である「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示である。
 そのような訳で、神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける神の自己啓示は、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」(客観的な「啓示の出来事」の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を包括した客観的な「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」)を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)という総体的構造を持っている。そうでないならば、神は、人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化され第一義化・価値化・絶対化された人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質に過ぎないものであるであろう、すなわち「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下でのキリストにあっての神としての神ではないであろう。
 「まさに(≪イエス・キリストにおける神の自己≫)啓示の中でこそ、まさにイエス・キリストの中でこそ、隠れた神は、ご自身を把握できるものとし給うた」。しかし、そのことは、「決して直接的にではなく、間接的にである」、あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる「信仰に対してである」、「その本質の中においてではなく、しるしの中においてである」、このように「とにかくご自分を把握できるものとし給うた」。その内在的本質が肉となったのでは決してなく、その「外に向かって」の外在的な第二の存在の仕方における「言葉が肉となった」――「これが、すべてのしるしの最初の、起源的な、支配的なしるしである」、換言すれば人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化されたに過ぎない「存在者」では決してなく、徹頭徹尾神の側の真実としてある、イエス・キリストにおける神の自己啓示としての、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方における言葉の受肉としての「存在者」である。したがって、それは、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」ではない、それ故にその対象からして「存在者レベルでの神への信仰」ではない。「このしるしに基づいて、このしるしのしるしとして」、「そのほかにも神の永遠の言葉の被造物的なしるしが存在する」。先ず以て第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)が「しるしのしるし」として客観的・可視的に存在している、また「教会に宣教を義務づけている」聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)が「しるしのしるしのしるし」として客観的・可視的に存在している。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストと地上における可視的なみ国」――「これこそ、神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握し、したがってまた神について語ることができる」「偉大な可能性」である。

 

 しかし、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、その啓示自身が持っているあの総体的構造からして、「モチロンノコト、ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイモノガ(≪われわれ人間の主観的な≫)理解ノウチニノミアルコトハアリ得ナイ」。

 

 ここでは、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、第二の問題である神の本質を問う問いを包括した第一の問題である神の存在を問う問い、「神の存在に対する本来的な証明が着手される」。この「われわれの命題は、何が今、……証明されるべきかということを語っている」。それは、キリストにあっての啓示自身が持っているあの総体的構造からして、「神がただ(≪われわれ人間の主観的な≫)理解のうちでだけ存在することの不可能性ということ、換言すれば神が(≪客観的な≫)対象性の中でも存在することの存在の必然性」ということ、「神のまことの存在の必然性」ということである。神は、あの総体的構造の中での「認識的なラチオ性」を包括した「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の連続性において「神の名が宣べ伝えられ、聞かれ、理解されるということに基づいて、(≪われわれ人間の≫)人間的な理解のうちに存在するという前提」が、「これまでのところで基礎づけられた」。われわれ人間の主観的な「この理解のうちでの存在」は、「問題的な……吟味されなければならない存在である」。「すべての存在するものに対してと同様、神に対して適用されるべき」「存在の真理の一般的な……標準」は、「まさにあの(≪われわれ人間の主観的な≫)『理解のうちでの存在』という制限の否定である」。「神は、まことに存在するとしたら、ただ単に(≪われわれ人間の主観的な≫)理解のうちにだけ存在することはあり得ない」。したがって、「真理」は、イエス・キリストにおける神の自己啓示自身が持っているあの総体的構造からして、「先ず第一に」、われわれ人間の主観的な「理解のうちに存在するのではなく」、「最後に」、すなわちわれわれ人間がその先行する客観的に存在している真理に後続するという仕方で、われわれ人間の「理解のうちに存在する」。「真理は、まず第一に、(≪われわれ人間の≫)対象の中で真理であり、またまず第一に、(≪あの総体的構造における主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的な「存在的な必然性」として≫)自分自身のうちで真理である」。したがって、「ただ(≪われわれ人間の主観的な≫)理解のうちだけで真理であるようなもの」は、例えば、人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」、「人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの」は、「メッキされた木製の鉄であるであろう」。また、「ただ(≪われわれ人間の主観的な≫)理解のうちと対象の中でだけ真理であり、それ自身のうちででは真理でないような真理についても」、例えば客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(啓示の真理、「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、すなわちその最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、その「啓示ないし和解」の「概念の実在」を対象的に認識した意識(理解)された聖書の中の神、聖書の中の神の意識(理解)についても、「それ自身のうちででは真理でない」であろう(Tコリント13・8以下)。しかし、イエス・キリストにおける神の自己啓示自身が持っているあの総体的構造からして、「いずれにしても、まず第一に、それがただ単に(≪われわれ人間の主観的な≫)理解のうちだけでなく、また対象の中ででも真理であるということが、真理の標準である」。「証明の対象」は、「この命題の否定的な最初の部分」、「すなわち、ただ単に(≪われわれ人間の主観的な≫)理解のうちにだけ存在するのでないものがまことに存在する」として、「ただ(≪われわれ人間の主観的な≫)理解のうちにだけ存在するとして理解されることが不可能なものが理解される」。このことが「神に関して理解される時、神の存在は、(とにかく神とは異なった事物の存在も証明されることができるような制限された意味で)証明されるのである」。

 

 「ナゼナラ、モシ少ナクトモ(≪われわれ人間の主観的な≫)理解ノウチニダケデモアルナラ、ソレガ実在トシテ存在スルコトハ考エラレ得ルシ……」

 

 アンセルムスは、「まず第一に、……前もっての決断、『神は(≪われわれ人間の主観的な≫)理解のうちに存在する』が、制限的に理解されて、確定的として受け取られる」、それ故に「神はただ(≪われわれ人間の主観的な≫)理解のうちにだけ存在するとして受け取られる可能性のことを想定する」。「もしも事情がそうであるとしたら、それにも拘らず」、われわれ人間の主観的な「考えの中で」という「この括弧」を、すなわち「ただ理解のうちにだけ」というこの「仮定された実在」を「解消し」、「ただ単に理解のうちだけでなく、また実在としても存在する存在を帰して行く可能性が成り立っているであろう」。神の存在としての神の名――すなわち「ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイ何カ」が、「神について考えることがゆるされることおよびゆるされないことに対して道しるべとなる限り」、イエス・キリストにおける神の自己啓示自身が持っているあの総体的構造は、それへの他律的服従とその決断と態度としての自律的服従との全体性を、われわれに強いるであろう。その時、「そのような考エルコト」は、「厳格な意味での真理に対して、いかなる要求もかかげず、むしろ自分自身をただ単に、神についての知識の、自分自身の意識の中での、反射として理解する」。「いずれにしても、実在トシテ考エラレ得ル」、「ただ単に理解のうちだけでなく、また実在としても存在する存在を考えられ得る」。

 

 「……マタソノホウガヨリ偉大デアル」。

 

 「まさに告げ知らされた二重の可能性に付け加えられたこれら三つの言葉は、証明にとって決定的な議論を告げ知らせている」。「もしも(一)神が、ただ理解のうちにだけ存在するならば」、「もしも(二)神が単に理解のうちにだけでなく、また対象性の中でも存在することが考えられ得るならば」、「その時、そのことは、……最初の『神』として仮定されたものよりもより偉大なものが考えられ得るということを意味している」。「理解のうち実在として存在するものの方が、ただ理解のうちにだけ存在するものものよりも『より偉大である』という」、「ここで前提された一般的な規則は、公理ではなく、……アンセルムス的な真理についての教説と認識論の結論である」。このアンセルムス的な真理についての教説と認識論からすれば、主観的な「理解の領域は、第三の最後の秩序を形造っている」が、換言すれば意識された対象、対象の意識(内在化された対象)をさらに対象化するという最後の秩序を形造っているが、客観的な「対象の領域は、第二の(直接の第一の秩序、真理そのものの領域にかかわる)事物の秩序を形造っているが故に」、「ただ単に理解のうちだけに存在しているものよりも『より偉大で』なければならない」。このことは、「すべての真理の起源の、量的でなく、質的な優位性を、確かに(それが神と同一でない限り)自分自身のうちに持っているのではないが」、「神によって賦与されて、理解に対して自分のものとして持っている」、ちょうどあの総体的構造の中での主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的な「存在的な必然性」を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)が、第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会の宣教(その一つの補助的機能としての神学)の思惟と語りにおける「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」・「標準」であるように。このような訳で、「このアンセルムスにとって、自明的な規則に従って、考えられ得る理解のうち実在として存在する神」は、「理解のうちだけに存在すると仮定された神よりもより偉大であり、しかも原理的によりより偉大である」。「まさに、ヨリ偉大ナモノは、アンセルムスの諸前提によれば、原理的により偉大なもの、より高い秩序のものであるが故に、このヨリ偉大ナモノを考えること」は、「このヨリ偉大ナモノが、それまで神として想定されたヨリ小サナモノ、すなわちタダ理解ノウチニダケ存在するものと同一であるという同一性を破砕する」。「神に対して、(≪われわれ人間の≫)精神のうちで精神の外での存在を帰するところの者」は、「聖書の主題であり、哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を認識し自覚しているが故に、またキリストにあっての神は、人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」、「タダ理解ノウチニダケ存在するもの」(われわれ人間の「精神のうちでだけ存在するとして受け取られた神」)と同一ではないことを認識し自覚しているが故に、ここに立脚する。したがって、「このヨリ小サキモノに対して、あのヨリ大キナモノ」は、「同時に、別ナモノ」でなければならない、「別ナモノ」として、「ヨリ小サキモノに相対して出会う、新しい第二の主体」でなければならない。「モノガ理解ノウチニアルコト」という時、その時、神は、「人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である」から、「他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる」ところの、「人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」神であり、人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された「存在者レベルでの神」であり、「タダ理解ノウチニダケ存在するもの」としての神であり、「精神のうちでだけ存在するとして受け取られた神」である。しかし、「モノガ存在スルコトヲ理解スルコト」、具象性と抽象性の総体としての意識(理解)された対象、対象の意識(理解)という時、例えば客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(啓示の真理、「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、すなわちその最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、その「啓示ないし和解」の「概念の実在」を対象的に認識した意識(理解)された聖書の中の神、聖書の中の神の意識(理解)におけるキリストにあっての神である。この次元での神と前者の次元での神との間には次元の差異がある。前者の神は、まさに一般的啓示、一般的真理、自然神学、存在の類比に立脚したところでの神認識としての神である。それに対して、後者の神は、キリストにあっての啓示、啓示の真理、啓示神学、恵ミノ類比(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)に立脚したところでの神認識としての神である。しかし、この後者における神も、自己自身である神としての自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、われわれ人間は神の不把握性の下にある)「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「父なる名の内三位一的特殊性」・「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」(それ故に、「三神」・「三つの対象」・「三つの神的我」ではない)の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉であり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて自己啓示された神そのものではない(Tコリント13・8以下)。