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3の3(その3−3).『教会教義学 神の言葉U/2 第2章 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』

3の3(その3−3).『教会教義学 神の言葉U/2 第2章 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』(234-301頁)
再推敲・再整理版です。

 

「十七節 宗教の揚棄としての神の啓示――一 神学の中での宗教の問題」(234-301頁)
 バルトは、「まことの宗教」について、次のように述べている。
(エ)神の側の真実としてある、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、その「啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、キリストの霊である聖霊の証しの力、あの総体的構造(下記の【注】を参照)を持っている「啓示された神の事実としてのイエス・キリストの名」(≪「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」≫)によって、「イエス・キリストの名を信じる人間(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を与えられた人間≫)が存在する」。このことが、「キリスト信者とキリスト教宗教の自己理解(≪・自己認識・自己規定≫)である限り、キリスト教宗教に関して……、……ただそれのみが、まことの宗教である」――この「命題は、四つの特別な観点のもとで展開され、説明されなければならない」。
(A)「啓示された神の事実としてのイエス・キリストの名」と「キリスト教宗教」との関係においては、神の側の真実としてある「神的な創造の行為」が介在する。すなわち、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神の側の真実としてある、神の側からする神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である、自己自身である神としての自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の~」の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方、「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)に向かっての人間の用意が存在する」のであるから、「ただひとりイエス・キリストの名だけがキリスト教宗教を創造した」のである。このことは、「歴史的に……、また直ちに現実的……現在的に……理解されなければならない」。すなわち、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「神の教会と神の子供たちの地上的――歴史的なキリスト教宗教」は、「われわれ自身の現実存在や世界の現実存在と同じように、今日も、昨日と明日におけると同じように」、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、あの総体的構造を持っている「イエス・キリストの名を通して創造されなければならない」。何故ならば、「キリスト教宗教」は、あの総体的構造における「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下でのその途上性において、絶えず繰り返し、それに対する他律的服従とそのことに対する自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請)――すなわち、徹頭徹尾神の側の真実としてある、主格的属格として理解されたローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この救済概念は、平和の概念を包括している)そのものであるイエス・キリストをのみ信ぜよ、イエス・キリストにのみ固着せよ、すべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるためにキリストの福音を告白し証しし宣べ伝えよという連関・循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指して行くところに出来事として生起するからである。言い換えれば、「キリスト教宗教」は、実体的に存在しているわけではないのであって、前述したような仕方で、あの総体的構造を持っている「イエス・キリストの名によって……存在したし、いまも存在するし、これからも存在するであろう」、またそのことによって、「まことの宗教であったし、あるし、あるであろう」、またそのことによって、「人が神に反逆しつつただ自分ひとりとだけいるのではなく、神との平和のうちに(≪常に先行する神に後続するという仕方で≫)神の前に歩むところの神認識、神崇拝、神への奉仕……であったし、あるし、あるであろう」。したがって、「啓示された神の事実としてのイエス・キリストの名」は、「まさしく、有名な中世の論争の意味での単なる名ではない」、「それはすべての実在の総内容と源泉である」。「啓示ないし和解の実在」そのものであり、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の時間的連続性(キリスト教に固有な歴史性)に連続するそれぞれの世紀、それぞれの時代、それぞれの世代における「キリスト教宗教」は、「神性」を内在的本質とするイエス・キリストの「人性」の知覚的な「付属物」である(ヨハネ15・3-5)。すなわち、それは、「かしらであり給うイエス・キリストが彼らをご自分の天的なからだの地上的な形態としてとり上げ、集め給うたことを通して実在へと呼び出された」、「啓示された神の事実としてのイエス・キリストの名のからだおよびその肢体……の生である」。したがって、「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉自身である「イエス・キリストから切り放されるならば」、その肢体、その肢体の生は、「幻影」・「非存在の中に、逆戻りして落ちてしまうことができるだけである」。このような訳で、その肢体、その肢体の生は、「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉自身である「イエス・キリストの中で生きるか、さもなければ全く生きないかそのどちらかである」。したがって、その肢体、その肢体の生は、「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉自身である「イエス・キリストの名のからだおよびその肢体……の生にあずかる……参与によって生きるか、それとも全く生きないかそのどちらかを選ぶ選択だけをもっている」。

 

【注】
イエス・キリストにおける神の自己啓示は、自己自身である神としての(ご自身の中での神としての)自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれは、神の不把握性の下にある)「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動)、すなわち起源的な第一の存在の仕方としてのイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解者、第三の存在の仕方としての神的愛に基づく父との交わりとしての聖霊――「啓示されてあること」・キリスト教に固有な客観的に存在しているイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間、「真に罪なき、従順なお方」「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」(「ただイエス・キリストの名だけ」)において、その内在的本質である「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示である。
 そのような訳で、神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける神の自己啓示は、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」(客観的な「啓示の出来事」の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を包括した客観的な「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」)を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)という総体的構造を持っている。そうでないならば、神は、人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化され第一義化・価値化・絶対化された人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質に過ぎないものであるであろう、すなわち「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下でのキリストにあっての神としての神ではないであろう。
 「まさに(≪イエス・キリストにおける神の自己≫)啓示の中でこそ、まさにイエス・キリストの中でこそ、隠れた神は、ご自身を把握できるものとし給うた」。しかし、そのことは、「決して直接的にではなく、間接的にである」、あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる「信仰に対してである」、「その本質の中においてではなく、しるしの中においてである」、このように「とにかくご自分を把握できるものとし給うた」。その内在的本質が肉となったのでは決してなく、その「外に向かって」の外在的な第二の存在の仕方における「言葉が肉となった」――「これが、すべてのしるしの最初の、起源的な、支配的なしるしである」、換言すれば人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化されたに過ぎない「存在者」では決してなく、徹頭徹尾神の側の真実としてある、イエス・キリストにおける神の自己啓示としての、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方における言葉の受肉としての「存在者」である。したがって、それは、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」ではない、それ故にその対象からして「存在者レベルでの神への信仰」ではない。「このしるしに基づいて、このしるしのしるしとして」、「そのほかにも神の永遠の言葉の被造物的なしるしが存在する」。先ず以て第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)が「しるしのしるし」として客観的・可視的に存在している、また「教会に宣教を義務づけている」聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)が「しるしのしるしのしるし」として客観的・可視的に存在している。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストと地上における可視的なみ国」――「これこそ、神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握し、したがってまた神について語ることができる」「偉大な可能性」である。

 

(B)「啓示された神の事実としてのイエス・キリストの名」と「キリスト教宗教」との関係においては、神の側の真実としてある「神的な選びの行為」が介在する。したがって、「キリスト教宗教」は、「イエス・キリストの名に対して、……自分独自のものとして主張できるようなものは何もなかったし、何もないのである」。すなわち、それは、「自由な神のあわれみと理解を絶する(≪「神のみ心に適う」≫)神の適意に基づいていて」、神のその都度の自由な恵みの決断によるあの総体的構造に基づいて、それ故に「それ以外の何ものにも基づいていない選びの基礎の上に、実在となる」。したがって、それは、「徹頭徹尾まさにイエス・キリストの名の中で古い契約が成就したことから」、それ故に「この名を前提」として、「ユダヤ教の発展と、ローマ皇帝時代における地中海周辺の国々の政治的、精神的、道徳的な諸条件を考慮に入れて」、「キリスト教宗教の発生と必然性の……唯一の歴史的な説明と由来の解明」、「イスラエルと結ばれた契約の歴史からの説明と解明をなす時」、「有無を言わさぬ仕方で、その事情を明らかにするものとなる」のである。「まさにその当時、そこで、そのようにイエス・キリストの名の中でご自分を啓示することが神のみ心に適ったということ、……その必然性(≪その「認識的な必然性」を包括した「存在的な必然性」≫)をそれ自身の中にもっていた」のである。キリスト教宗教は、「イエス・キリストの名のゆえに、実在であり、単なる非実在でない時、そのことは昔から今日にいたるまで、神の自由なあわれみと意志による選びによる」のである。それは、「神の真実と忍耐による」あの総体的構造に基づいた「継続的ナ選ビ」である。したがって、それは、「神の義務ではない」、あくまでも「神の恵みであって、……決して人間的な功績ではないし、キリスト教的な功績でもない」のである。したがって、第三の形態の神の言葉である「教会が(≪「教会の宣教」としての≫)み言葉(≪説教≫)と聖礼典をつかさどるということも、……(≪イエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である≫)聖書と(≪その聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした教会の<客観的>な≫)信仰告白(≪および教義、すなわちCredo≫)をもっているということも、……すべて選びであり、……恵みである」。また、「教会の(神)礼拝が、単にユダヤ教の会堂の礼拝と古代末期の密儀宗教の礼拝とが奇妙に入り混じった変種であるばかりでなく、(≪あの総体的構造に基づいた≫)霊とまことをもっての礼拝であるならば、それは選びである」。また、教会が、「ひとつの随意的な宗教結社であるばかりでなく、キリストのからだであるならば」、「国家や社会に対して、真正の対立関係」(人間的なもの一切から対象的になって距離をとること)を維持し、「まさにそのようにして真正の交わりを行うならば」、「それは選びである」。また、「神学が対象のない、空虚な学問でないならば」、何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」でないならば、換言すればそれぞれの世紀、それぞれの時代、それぞれの世代において、あの総体的構造における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として「本当に神の言葉を聞き、注釈し、教会の教えが純粋さを保つよう奉仕しているとするならば、そのことは選びである」。したがって、個体的自己としての「すべての人間はキリストの実質上の兄弟であり、キリスト者になる以前でも、彼は、(≪その現にあるがままで≫)キリストにおける神との連続性の中にいる」のであり、「ただ、彼はそのことをまだ発見(≪認識≫)していないだけである」(『バルトとの対話』)ということを念頭において、またわれわれは「心を頑固にし福音を認めない人間や異教徒に対して、恵みから語り、恵みについて語るという以外のことをなすことはできない」のであり、それ故にわれわれが「そうした人々に呼びかけることができるのは、私がその人をその中に置くことによってではなく、イエス・キリストがすでにその人をその中に置いてい給うことによってである」から、換言すればイエス・キリストが、徹頭徹尾神の側の真実としてある主格的属格として理解されたローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この救済概念は、平和の概念を包括している)そのものの中に置いてい給うことによってであるから、「キリストにあるものとしての人間のために、努力し得るにすぎない」(『証人としてのキリスト者』)ということを念頭に置いて、「キリスト教的敬虔性……キリスト教的慣習……キリスト教的愛の活動……キリスト教的教育……キリスト教的政治について言うことができる」。そのような仕方で、「『キリスト教的』という重要な形容詞が本当に力をもつところ、そこでは選びが起こったのである」。

 

 そのような訳で、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>におけるのと同じように、「啓示された神の事実としてのイエス・キリストの名」と「キリスト教宗教」との関係は、「ひっくり返すことができないそれである」。「(汝ら)主こそ神であることを知れ。われらをその民、その牧の羊たらしめたのは主なる神であって、われわれではない(詩篇一〇〇・三、ルター訳)」・「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためである(ヨハネ一五・一六)」――これらの言葉は、「啓示宗教の教団に対して向けられている」。しかし、「キリスト教宗教」、「神の教会および神の子供たち」には、「繰り返し身近に迫ってくる誘惑」、あの関係性の転倒への「誘惑」、「イエス・キリストの名」を「随意的な付加物のように見る誘惑」があるのである。すなわち、その「誘惑」は、「啓示された神の事実としてのイエス・キリストの名」を、「理念」や「有神論的形而上学」や「われわれに管理されるプログラム」や「鋭さをなくした十字架象徴論」や「<暗号>に過ぎない神秘主義へと変えていく」それである、「その時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行う」ことへと、「大規模な世界改良の偉大な計画に邁進する」ことへと、「大衆や時代の傾向と手をたずさえて、ある種の正義に邁進する」ことへと変えて行くそれである、「律法の成就」・「律法の完成」そのものである「イエス・キリスト」(福音)を「律法の目標」(福音を内容とする福音の形式としての律法の目標)としないために、「律法の目標」を、人間的な「自然法」や「抽象的理性」や「民族法」へと転倒させて行くそれである。このように、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者」、意味世界、物語世界として「選ばれた、繰り返し選ばれた……イエス・キリストの名を、一八世紀から二〇世紀にかけてのほとんどの神学全体の中で、そしてまた……敬虔性および教会性の中で、見出すことができる」のである。「もともと……キリスト中心的ではなかった」「一八世紀のライマールスや一九世紀のDav.Fr.シュトラウスや二〇世紀のA・ドレウスに対する学問的な護教論的熱心さの中に、見出すことができる」のである。したがって、「この時代の敬虔主義と信仰覚醒運動のイエス崇拝には、深く疑わしい点がつきまとう」のである。「わたしとわたしの家とは共に主に仕える」が、「あなたがたは……、あなたがたの先祖が、川の向こうで仕えた神々」、「メソポタミヤの神々」、「カナンの神々」、「今……住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい」(ヨシュア二四・一五以下)。「人々は人の子(あるいはわたし)は誰であると言っているか」(マタイ一六・一三以下)と聞かれ、弟子たちは「洗礼者ヨハネだ」、「エリヤだ」、「エレミヤだ」、「預言者の一人だと選ぶことをしている」のであるが、「ペテロ(教会の信仰告白)」は「あなたは生ける神の子キリストです」と答えた。「ルターやカルヴァンの神学はもともとから……、そのような奇妙な下心や呼び名なしにも、キリスト中心的であったから……、……あとからはじめてキリスト中心的になる必要などなかった……」。「神の自由の中で既に下された決断に対する服従の決断というものが、聖書によって……イエス・キリストの名を信じる信仰の決断として記述されているところのものである」。この場合、「イエス・キリストの名を肯定する肯定の力」は、人間的な実在と人間的な可能性における力ではなく、あの総体的構造を持っている「啓示された神の事実としてのイエス・キリストの名」・「その名自身の力である」。

 

(C)「啓示された神の事実としてのイエス・キリストの名」と「キリスト教宗教」との関係においては、「神的義認あるいは罪の赦し(≪裁きを包括した恵み≫)の行為」が介在する。このことは、「キリスト教宗教」は、その「罪深い」「教会の歴史も個人としての神の子供の生涯の歴史も、まことの宗教となるふさわしさをもっていない」ということ、「まことの宗教であるのに全くふさわしくない」、不信仰(無神性)としての「すべての宗教は偶像礼拝であり業による義であるという判決」(恵みに包括された裁き)の対象そのものであるということを意味している。したがって、キリスト教宗教は、「罪人を義とする神的義認のおかげで、神的な罪の赦しのおかげ(≪裁きを包括した恵みのおかげ≫)で、まことの宗教となる」と言わなければならない。すなわち、それは、「イエス・キリストの名自体の自由と力としての選びを通してまことの宗教となる」のである。「教会と神の子供たちが、彼らの汚れの中できよくあり、贖われた者が彼らの全く贖われない姿の中で贖われた者であるところの言葉を聞くことができる」のである。この「主張を、決定的に確認し、すべての恣意から救い出し、徹頭徹尾必然的な主張とさせるところの事実」は、神の側からの「神の義と裁き」・「神の光」・「神の秩序」にある。この「神の義(≪裁きを包括した恵み≫)と裁き(≪恵みに包括された裁き≫)の光は人間的な宗教の世界の上に、この世界の一部分の上に」、すなわち「キリスト教宗教の上に、おちてくる」。

 

 そのような訳で、われわれは、「啓示された神の事実としてのイエス・キリストの名」――すなわち、神の側の真実としてあるイエス・キリストの死と復活の出来事における「神の義(≪裁きを包括した恵み≫)と裁き」(恵みに包括された裁き)、「神の光」、「神の秩序」において、「言い渡されている判決(≪恵みに包括された裁き≫)を認識し、承認する時」、その恵みに包括された「神の判決を、それが言い渡されているままに……受けとらなければならない」のである。われわれは、啓示された「神の事実がひとたびそこで出来事となって起こり、その判決(≪恵みに包括された裁き≫)がひとたび下された後では、もはや全く何の功績やふさわしさ……なしで、神的義認あるいは罪の赦し(≪裁きを包括した恵み≫)の行為」(「無罪判決」)を、「かたくとって放さないでいることができるだけである」。

 

 「啓示された神の事実としてのイエス・キリストの名」、イエス・キリストの死と復活の出来事における、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な「キリスト教宗教の義認は正しい、しかし徹頭徹尾神の義(≪裁きを包括した恵み≫)に基づいている、それであるから徹頭徹尾キリスト教宗教の何らかの性質を通して条件づけられているのではない無罪判決であるという理由の故に……キリスト教宗教の義認」は、「罪の赦し(≪裁きを包括した恵み≫)の行為以外のものとして理解されることはできない」のである。「ただ赦し(≪裁きを包括した恵み≫)としてのみ」、キリスト教宗教は、「真理を自分のものとすることができる」。何故ならば、われわれは、「全く何の功績やふさわしさも持ってはいない」し、「キリスト教宗教の性質の総和というものも、偶像崇拝と業による義、不信仰、したがって罪である(≪『福音と律法』によれば、神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もというわれわれ人間の欲求は、「無神性」、「不信仰」、「真実の罪」である≫)ということから成り立っている」からである。その時、われわれ、キリスト教宗教は、「神の要求」を、人間的な「自分自身の要求」に、「自分で満足させ得る要求」に変えて、「神的な『汝は斯くなすであろう』を変じて」、「人間的な余りに人間的な『汝は斯くなすべし』」を、人間的な「巨大な欺瞞」・「無数の儀文」・「偶像崇拝」・「神冒?」、人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された「存在者」、意味世界、物語世界、「存在者レベルでの神」、その神の名と呼びかけによる「救い(≪・平和≫)の計画と救い(≪・平和≫)の方法」をつくり上げるのである。

 

 「イエス・キリストの名という啓示された神の事実」に基づく罪の赦しの行為としてのキリスト教宗教の義認(裁きを包括した恵み)は、イエス・キリストの死と復活の出来事における「神の義(≪裁きを包括した恵み≫)と裁き(≪恵みに包括された裁き≫)の行為」である。「啓示された神の事実の秩序」――すなわち、「イエス・キリストの名の秩序」は、神の側の真実としてあるイエス・キリストの死と復活の出来事における「神の義(≪裁きを包括した恵み≫)と裁き(≪恵みに包括された裁き≫)」、「神の光」、「神の秩序のことである」。したがって、これ以外のところからは、人間的な実在と人間的な可能性に偏向したところからは、生来的な自然的な「人間の能力」、生来的な自然的な人間の「理性や力(≪知力、感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とした禅的修行等≫)」からは、人間の自力作善からは、自己欺瞞に満ちた人間の支配行為、「不信仰としての宗教だけが生まれ出てくる」のである。このような訳で、「イエス・キリストの人間的な性質の中で、人間は、偶像礼拝と業による義を盾にとって神に逆らう代わりに、(≪あの総体的構造に基づいて≫)神に信仰の服従を捧げ、それであるから神の義(≪裁きを包括した恵み≫)と裁き(≪恵みに包括された裁き≫)を実際に満足させ、したがって彼の無罪判決を、したがってまた、まさに彼の宗教の無罪判決、義認を実際に勝ち取ったのである」。まさに、常に先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」。

 

 唯一イエス・キリストが主・頭であるキリスト教宗教における教会や神の子供たちの「地上的な生活」は、イエス・キリストの「人間的な性質との交わり」、その「主ご自身の正義と義にしたがって勝ちとられた無罪判決にあずかる参与」、「いかなる人間によっても模倣されることができない、義とするイエス・キリストの信仰の後に従う信仰であるならば」、その時には、「そのほかどの宗教の信仰とも同じように、神の赦し(≪裁きを包括した恵み≫)を必要としているのであるが」、それ故に「厳格な、正しい神の判決」(恵みに包括された裁き)の下にあるのであるが、それと同時に、「神の赦し(≪裁きを包括した恵み≫)を実際に受け取り、持っている」。この赦し(裁きを包括した恵み)は、彼らが自分自身の何らかの尽力の「功績によって勝ち取ったのではない赦し」――すなわち、徹頭徹尾神の側の真実としてある「イエス・キリストの名という啓示された神の事実によって、イエス・キリストの死(≪復活に包括された死、恵みに包括された裁き、「神の裁きの啓示」、律法≫)と復活(≪死を包括し克服した復活、裁きを包括した恵み、「神の恵みの啓示」、福音≫)の出来事によって勝ち取られた赦し(≪裁きを包括した恵み≫)である。したがって、キリストにあっての啓示、啓示の真理、啓示神学、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、あの総体的構造に立脚しないところの、換言すれば一般的啓示、一般の真理、自然神学、存在の類比、人間的な実在と人間的な可能性、人間学的な哲学原理・認識論・世界観等々に立脚するところの、それ故にまたイエス・キリストの教会の主・頭である「み子の地上的なからだの地上的な肢体となろうとしない」ところのキリスト教宗教における教会や神の子供たちの、その存在・その思惟・その実践は、「異教主義と同様の不信仰」、無神性、「虚偽……不正としての宗教としかならない」のである。したがって、「イエス・キリストの名という啓示された神の事実」、「神の光」は、「ひとつの、唯一の、まことの宗教に創造し選ぶところの創造と選びである」。したがってまた、キリストにあっての啓示、啓示の真理、啓示神学、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、あの総体的構造に立脚したバルトは、「イエス・キリストの名という啓示された神の事実」、「神の光」において、あの総体的構造に基づいて、終末論的限界の下でのその途上性の中で、絶えず繰り返し、キリスト教自らにも内在している不信仰(無神性)としての宗教(異端)を包括し止揚し克服して行こうとする「ただキリスト教だけが、……すべての宗教に対して唯一のまことの宗教として出会ってゆき」、「まことの宗教へと立ち返るように招き、要請する委任と全権をもっている」と述べたのである。その時には、そのキリスト教、教会の宣教は、「生命力ある、健康な、強いものであるだろう」。したがってまた、人間的な実在と人間的な可能性に偏向して、そのほかの「自分の望み」、自分の欲求、「教会的な制度」、「神学の体系」、「個々の信者の内的体験、道徳な意味での生活の改善」、「世界をかえてゆくキリスト教全体」を目指して邁進して行く時、それは、「まことの宗教への道」ではなく、不信仰、無神性としての「キリスト教宗教の不確実さをもたらす道」なのである。

 

(D)「啓示された神の事実としてのイエス・キリストの名」と「キリスト教宗教」との関係においては、「神的聖化の行為」が介在する。すなわち、「イエス・キリストの名の啓示の歴史的現象および歴史的手段となるところのキリスト教宗教における教会や神の子供たち」は、神の側の真実としてあるその死と復活の出来事において「啓示された神の事実としてのイエス・キリストの名」(ナザレのイエスという人間の歴史的形態)によってのみ、その「神の義、神の子の義、神自身の義」によってのみ、その「義認、創造、選びの光」によってのみ、「義とされ」、聖化され、ほかの宗教から「区別され、分けられ、……形造られ、形成され、その奉仕へと要求される」。「神の側での出来事に対して、それは、結局、神の受肉した言葉(≪その内在的本質である神性の受肉ではなく、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方における言葉の受肉≫)、人間をとり上げ、ご自分のものとし給うた神の側での出来事であるが、その神の側での出来事に対して――徹頭徹尾神の言葉を通して規定されたものであるのであるが、人間の側でのある全く特定の出来事が対応している」。それは、あの総体的構造に基づいて「ただこの名(≪啓示された神の事実としてのイエス・キリストの名≫)を証しし、ただこの名への想起(≪「実在の成就された時間である(キリスト復活四十日)」――すなわち「まことの現在」に参与するところの、復活されたキリストを覚える想起の時間≫)とこの名への待望(≪「まことの過去」である「旧約聖書的な待望の時間」、「まことの未来」である復活されたキリスト、「甦られた方を待ち望む待望の時間」≫)を呼び覚まし、目覚めさせておくことができる」それである。そして、それは、あの総体的構造における「聖霊の注ぎ(≪主観的な「認識的な必然性」としての、客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事≫)の中で働くイエス・キリストの名(≪客観的な「存在的な必然性」≫)の力と権威にしたがって」、「イエス・キリストの名の力と権威が命じるままに、語り、……また沈黙して」、啓示の「真理を指し示し、……宣べ伝える限りにおいてだけ、真理に参与することができる」。ここに、「啓示された神の事実としてのイエス・キリストの名」による、「神的な設定と任命の故に」、「特別な存在」と「特別な形態」としてのキリスト教宗教における教会や神の子供たちの「神的聖化」の介在があるのである。言い換えれば、全く人間的なキリスト教宗教における教会や神の子供たちは、「それ自身全く決してきよくはない」から、「それ自身のきよさ故に義とされているのではない」のである。すなわち、それは、「啓示された神の事実としてのイエス・キリストの名」、その「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものによって、「義とされるが故に、また聖化されるのである」。したがって、それは、「聖化される時に、まことの宗教となることができる」のである。あの総体的構造に基づいて「イエス・キリストの名を告げ知らせるために召され、能力を与えられた実在の中での(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の全く人間的な≫)教会と神の子供たちの現実存在、それがキリスト教宗教の聖化である」。「啓示された神の事実としてのイエス・キリストという名」が、「キリスト教宗教の義認であるばかりでなく、またキリスト教宗教の聖化でもある」。言い換えれば、全く人間的な「キリスト信者は罪人(≪神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという不信仰・無神性・真実の罪の中にある人間≫)であり、教会は罪人(≪神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという不信仰・無神性・真実の罪の中にある人間≫)の教会である」(したがって、ここで「罪人」は、親鸞に義絶された善鸞のような自力の計らいに過ぎない意識的意志的積極的な「造悪説」を肯定する悪人・罪人ということを決して意味してはいない。ここで「罪人」は、「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持っていない」が故に、生来的な自然的な「『自分の理性や力(≪知力、感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とした禅的修行等≫)によっては』全く信じることができない」、またわれわれは資質や現実や時代に強いられている、またわれわれは誰であれ神の律法を守ることができない、総括的に言えばわれわれはキリストにあっての神から日々瞬間瞬間遠ざかり遠ざかり続けているし罪を新たな罪を犯し続けている、自分の罪深さと弱さと惨めさを、呻きながら認識し自覚している「罪人」である。したがって、われわれは、ただ「啓示された神の事実としてのイエス・キリストの名」だけに、「ただ神の子の全く素直な赦し」にだけ依り頼み固着する「罪人」である)。しかし、それと共に、彼らを義とする、「啓示された神の事実としてのイエス・キリストの名」、その「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものである「言葉(≪あの総体的構造における「存在的必然性」≫)と霊(≪あの総体的構造における「認識的な必然性」≫)の力で、また聖化された罪人、換言すれば……啓示の秩序のもとにおかれた罪人、彼らの罪深さの全体の中で……彼らを義とし給う主を想起し、主を待望しなければならないところの罪人、……主の指示のもとに立っている罪人である」。「ただ単にイエス・キリストにあっての世が神と和解させられたという和解の事実が存在するだけでなく」、その「和解の中で、和解と共に、はじまった人間的な願い、『神の和解を受けなさい』(Uコリント五・一)が存在する」。すなわち、神の恩寵が「告知」・「証し」・「宣教」される時、「私は私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものだ」、「イエス・キリストにのみ固着せよ」という福音の形式である律法が建てられる。何故ならば、このキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法(神の命令・要求・要請)がなければ、われわれ人間は、現実的にキリストの福音を所有することができないからである。この意味で、この律法(神の命令要求・要請)は、本来的には「生命に導くべきもの」・「神の恩寵を証しするものという事実」において、キリストの福音を内容とする福音の形式なのである。したがって、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法は、「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉であり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストを模倣することではないし、イエス・キリストが信じたように信ずるということでもないのである。すなわち、それは、「福音の中核であるイエス・キリスト」が、「律法を満たし・すべての誡めを遵守し給うたという事実から考えられなければならない」から、「われわれには絶対に実現出来ぬイエスの代理的な信仰を、承認し受け入れる」ということ、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものとしての「十字架につけられ甦り給うたイエス・キリストに固着する」ということ、「われわれの生命がキリストと共に保管されていることを承認し受け入れる」ということ、キリストの福音をすべての人々が現実的に所有することができるために、あの総体的構造に基づいてキリストの福音を告白し証しし宣べ伝えるということにある。ここに、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、<教会>が、<教会自身>と<世>に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」がある。したがって、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法(神の命令・要求・要請)は、「自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝える(Uコリント四・五)」という点にあるのである。「それであるから(≪「主なるイエス・キリストを宣べ伝える」≫)それは厳格な意味で」、「啓示された神の事実としてのイエス・キリストの名による神的な義認(≪裁きを包括した恵み≫)の行為を通し、この義認を基礎づけている神的な創造と選びを通して、徹頭徹尾拘束され、徹頭徹尾神的義認(≪裁きを包括した恵み≫)の行為に依存している出来事である」。