7.『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示<上> 三位一体の神』(邦訳324-366頁)

7.『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示<上> 三位一体の神』「聖霊なる神」(邦訳324-366頁)

 

聖霊なる神、救済主なる神、永遠なる霊 

 

ここでもまた、次の事柄についての認識は重要である。
1)聖書でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない差異性の中」で三つの「存在の仕方」(行為・働き・性質)において「三度別様」に父・子・聖霊なる神であって、その「存在」は「失われない」単一性・神性・永遠性を「本質」とする「一神」・「一人の同一なる神」である。したがって、「三神」・「三の対象」・「三つの神的我」ではなく、父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」の、神性・単一性・永遠性を「存在の本質」とする「一人の同一なる神」、すなわち「三位一体」の神である。したがってまた、単一性・神性・永遠性を「存在の本質」とする神の完全さ・自由さは、父・子・聖霊の三つの「存在の仕方」の完全さ・自由さである。「われわれに出会う神」である父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」は、「啓示者、啓示、啓示されてあること」、「神の聖(≪隠蔽≫)、あわれみ(≪顕現≫)、愛(≪父・隠蔽と子・顕現の愛に基づく交わり≫)」、「聖金曜日、復活日、聖霊降誕日」、「創造主なる神、和解主なる神、救済者なる神」の三つの「存在の仕方」に対応している。この神は、「隠蔽」と「顕現」において、またその都度の自由な決断において、「人間に対して自己を伝達」・啓示する(『教会教義学 神の言葉』)。バルトは、この「三度別様」の「三つ」を、「他との関係なしにそれ自身で存在している」近代的な「個体」と区別させるために、「人格の名で呼ぶことを避け」て、「存在の仕方」と呼んだ(エーバハルト・ブッシュ『バルト神学入門』)。
2)三位一体の根本命題に即して理解すれば、聖霊なる神は、「三度目」に、父と子の二つの存在の仕方から生じる「一つの存在の仕方」である。すなわち、この「父ト子ヨリ出ズル御霊」は、聖霊の「神性の定義」である。しかし、この聖霊の存在の仕方は、父と子の啓示に対する「特別な第二の啓示」ではない。聖霊は、「父なる神と子なる神の愛の霊」である。ここに、聖霊の「起源」がある。この聖霊において、父と子(≪神的対関係≫)は、愛に基づく完全な共存的な関係・交わり(≪神的共同性≫)においてある。すなわち、聖霊は、その「交わり」の中で、「父は子の父」・「言葉の語り手」であり、「子は父の子」・「語り手の言葉」であるところの「行為」・働き・性質である。ここに、神は愛・愛は神であることの根拠がある。愛は、自由がそうであったように、先ず以て神自身においてのみ「実在であり真理」である。この聖霊は、三度目の最後的な「存在の仕方」として、神にとって最高の法則・愛であって、その愛に基づく父の「存在の仕方」と子の「存在の仕方」の交わり・関係であり、神と人間との交わりの根拠である。私たちは、この神の外に向かっての三つの働き・「存在の仕方」における啓示の「事実」を、ただ承認し受認し確認できるだけである(『教会教義学神の言葉』)。
3)聖書によれば、聖霊は、私たち人間の「救済主」である。しかし、聖霊は、「救済主」であるだけではない。聖霊は、その「存在の本質」である単一性・神性・永遠性において、「子とともに、子の霊として、また和解者」でもあり、また、「父および子とともに創造主なる神」でもある。新約聖書の「イエスは主である」という「証言」は、神性を本質とするイエスを、「事実の承認」として・「思惟の初め」として語っている。したがって、この「イエスは主である」・「子を通しての父を、父を通しての子」を信じるこの「信仰」=神との出会いであるイエスとの出会い=「信仰の出来事」は、聖霊の注ぎによる。この信仰の出来事は、新約聖書において、「啓示の出来事の中での主観的側面」・「聖霊の注ぎ」による人間的主観に実現された神の恵みの出来事・啓示認識・啓示信仰の主観的現実化のことである。すなわち、私たちは、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて全人間・全世界・全人類の救済が、イエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)=啓示の客観的現実性にのみあることを認識し信仰することができる。「この陳述が成り立つためには、いかなる特別な弁証法的総合も必要としない。ただ聖書の陳述そのものをそのまま成り立たしめ、……ただ真面目に真剣にとることだけを必要としている」・この教会的な「教義は、ただ、新約聖書の中で、もちろん、自明的に見い出されえたし、見出されるうるというのではないが、とにかく新約聖書において多かれ少なかれ明瞭に指し示されていることを、述べているだけである。聖霊についての教義は、それ自体そのまま聖書の中に出てくるのではなく、それは聖書の釈義である」(324・325頁)。
 教会的教義としての「父ト子ヨリ出ズル御霊」である「聖霊」は、「真の、本来的な、永遠的な神性」・単一性の定義である。したがって、「二世紀……三世紀の教父たち」の「聖霊は一つの被造物……被造物的な力であるとする従属説的な見方」や「聖霊は子あるいはロゴスと同一であるとする様態論的な見方」は、根本的な誤謬の下にある、ということができる(325頁)。そして、キリスト教に固有な良質な聖霊についての認識・聖霊論が、「教会において確かな地位を占めるにいた」ることを困難にさせている起因・理由は、神学者や牧師や著述家たちが、神と人間との無限の質的差異や聖霊と人間精神との無限の質的差異を自覚し「承認しようと欲しないがゆえ」であり、また、人間の感覚や知識を内容とする経験および人間学的な哲学原理や認識論や世界観を第一次化して、神と人間・神学と人間学との混淆・「共働」を目指しているからである(326・327頁)。したがって、バルトは、キリスト教に固有な良質な聖霊論の構成のために必要な前提を、次のように述べたのである――「聖霊は、人間精神と同一ではない」・「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」・聖霊によって更新された理性も、聖霊と同一ではない、と(『カール・バルト著作集10』「教義学要綱」)。したがってまた、バルトは、「神の人間性」において、人間自身の「素晴らしさ」を語るのであるが、人間の感情・理性・意志・実存・構想等を含めた人間的自然や人間的能力や人間的試みの根本的かつ究極的な限界性をも語るのである。また、「神の人間性」という概念と、その「神の人間性」から与えられた人間の人間性との無限の質的差異についても語るのである。すなわち、人間における労働や性・夫婦・家族や理性や感情や意志や実存や言語が対象化した文明や文化等の人間的自然(人間の人間性)の一切は、「神の人間性」ではないということを語るのである(『カール・バルト著作集3』「神の人間性」)。このバルトの認識方法と概念j構成は、例えば、ルドルフ・ボーレンの「神律的相互関係」の概念に依拠して、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」、と直截的・断定的に聖霊や聖霊の言葉を実体化させた小泉健のそれを、根本的に批判し、根本的に包括し止揚しているのである。近代主義的プロテスタント主義は、これらの事柄に関して明確化でき得ていないし・自覚していないのである(328頁)。バルトの夢――それは、「霊的に精神的(≪学識的≫)にきわめてしっかりした基礎を持つ人々」による、「超自然な神学」の認識方法および概念構成における最善最良の「第三項の神学」・聖霊の神学の構成にあった。したがって、バルトは、その聖霊の神学が、自然神学的な人間学的神学の認識方法および概念構成のそれでないことを、また勘違いして恣意的に自分がそれだと思い込んだ誰かによって「軽薄に書きあげられた」聖霊の神学が市場に出回らないことを、衷心から切望したのである。しかし、その神学の動向は、バルトの衷心からの切望を容赦なく打ち砕き、一切の近代主義や自然神学的な全キリスト教を根本的にそしてトータルに包括し止揚し超出すべき状況的思想的な神学的教会的課題を自覚できず、したがってその課題を放棄してしまって、場当たり的な惨憺たるものとなったし・惨憺たるものとなっている。その典型の一つが、状況論なき思想なき停滞した中世的思考の下で、先ず以て非自立的に人間学にも目を配ったところで神学の人間学に対する優位性を夢想しながら、人間の経験の尊重および神と人間・神学と人間学との混淆・「共働」を目指す聖霊論的説教論を掲げる、ルドルフ・ボーレンであり、その亜流である佐藤司郎であり・小泉健である。
 さて、バルトは、聖霊の教義について、出来得る限りの良質さと「正確」さの獲得のために、キリスト教に固有な啓示の「概念の実在」(類・歴史性)に連帯して、すなわち「ニカイア・コンスタンティノポリタヌス信条」に依拠しながら、次のように述べている。
1)「われわれは聖霊、主を信ず」。すなわち、これは、「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊の単一性・神性・永遠性の定義である。したがって、「神は、……聖霊なる神である」(332頁)――「霊は、父および子と同様に、……分離し難い単一性の中で、主である」・「ひとりの主権的な神的主体」・神自身においてのみ「実在であり真理」である自由における自在性としての「主体」である。そして、その自由における他在性としての聖霊の存在の仕方は、「父なる神の存在の仕方と子なる神の存在の仕方の間の共通的なもの」(328・329頁)・共通性、愛の交わり(「父と子の相互的な愛」331頁)、「伝達、愛、賜物」の授与「行為」(332頁)としてのそれである。すなわち、聖霊は、「他の二つと並んで存在する第三の霊的主体ではなく第三の我ではなく、第三の主ではなく、ひとりの神的主体、あるいは主の、第三の存在の仕方である」。聖霊は、「父と子の交わり」における、「父は子の父、あるいは言葉の語り手であり、子は父の子、語り手の言葉であるところの行為」・神の第三の存在の仕方である(330・331頁)。また、聖霊は、「賜物ノ与エ主」である。なぜならば、「父ト子ヨリ出ズル」単一性・神性・永遠性をその存在の本質とする聖霊は、「父および子の霊として、与エ主ノ賜物であるからである」。「シタガッテ、(聖霊ハ)永遠の賜物ダッタノデアル」。聖霊は、「啓示において(≪その存在の仕方において≫)救済主としてわれわれに働きかけ給う(≪単一性・神性・永遠性をその存在の本質とする≫)主であり、現実にわれわれを自由にし、現実に神の子供」とし、教会を「み言葉の奉仕」へと向かわせる主であり」、教会に、その都度の自由な決断において、「神の言葉を語るべく言葉を現実に与え給う主である」(332・333頁)。イエスが「聖霊の特別な働きとして約束」したものは、「慰め主」としての霊と「真理の御霊」であるが、聖霊は、聖書の中の「キリスト教原理を、覆いをとって明らかにする」・「キリストについて語ることができる能力」授与(ヨハネ14・26)であり、「上から」の「よき賜物」である。この聖霊の注ぎにより「聖霊を持つ」ということは、「キリストにおいて起こった和解にあずかること」であり、「キリストと共に、死から生命への」方向転換におかれることである。この二つの方向転換において「イエス・キリストにあっての神の啓示の要素としての霊の本質」は、「キリストにある自由」を意味している。この「キリストにある自由」とは、「キリストの奴隷」となることであるが、そのことは、私たち人間が、その存在・その思惟・その実践において、主格的属格としての「イエスの信仰」(啓示の客観的現実性)にのみ信頼し固執することを意味している。また、聖霊は「み子の霊であり、それ故、子たる身分を授ける霊である」から、私たちは「聖霊を受けることによって」、「イエス・キリストが神の子であるという概念」を根拠として、私たちは「神の子供」・「世つぎ」・「神の家族」であり、「『アバ、父よ』と呼ぶ」(ローマ8・15、ガラテヤ4・5)ことができる。そしてまた、「和解者が神の子であるがゆえに、……和解、啓示」の受領者たちは、「イエス・キリスト、神の永遠の子、との交わりにおいて」(359頁)、また受領者と授与者との無限の質的差異において、「神の子供」なのである(『教会教義学 神の言葉』)。したがって、啓示認識・啓示信仰の出来事が惹き起こされ・授与されるためには、イエス・キリストにおける啓示(啓示の客観的現実性)の出来事と、あくまでも神の側のその都度の自由な決断による聖霊の注ぎ・注出を必要とするのである。すなわち、このことは、人間の側の自由事項ではないのである。したがってまた、私たち人間は、終末論的限界の自覚の下で、教会の宣教や教会の一つの機能としての教義学等々のすべての人間的な語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神」自身の決定事項であって、私たち人間の決定事項ではない、と告白しなければならないのである(『教会教義学 神の言葉』)。いずれにせよ、聖霊は、「概念の近代的意味での第三の『ペルソナ』として理解されることは決してできないであろう」(330頁)。
2)「われわれは、生命の与え主なる聖霊を信ず」の命題も、聖霊の「神性」の定義である。この命題は、「第二条におけるスベテノモノハ主ニヨリテ造ラレタリに相応しつつ、聖霊は父(と子)とともに創造の主体であることを指し示すことによって」、聖霊が神性を本質としていることを教えている。聖霊は、救済主であるだけでなく、和解の最後的完成が救済であるという意味で「救済が和解と解消し難い相関関係」にある限り、聖霊は、「子とともに、子の霊として、また和解者であり給う」。そしてまた、聖霊は、その「存在の本質」である単一性・神性・永遠性において、「父および子とともに創造主なる神」でもある。この聖霊の「現臨と働きは、ただ啓示の基礎の上にだけ、また信仰の中でだけ、認識され、告白されることができる」(333−335頁)。「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に信頼し固執する啓示「認識」・啓示信仰である。その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる。
3)「われわれは父と子よりいずる方、聖霊、を信ず」。この命題は、まず第一に、神性を本質とする神の第三の存在の仕方である「聖霊はいかなる被造物でもない」・「神から『出てくる』ところのもの、それは再び神であることができるだけである」・聖霊は「(≪単一性・神性・永遠性として≫)神の本質の、(≪父なる神の存在の仕方と子なる神の存在の仕方から出ている三度別様の≫)一つの存在の仕方でのみあり得る」、ということを意味している(337・338頁)。すなわち、「聖霊は、人間精神と同一ではない」・「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」(『カール・バルト著作集10』「教義学要綱」)・聖霊により更新された理性も、聖霊ではない。第二には、聖霊の存在の仕方の、子・神の言葉の存在の仕方に対する差異性を意味している。しかし、「決して子の啓示と並んで霊の特別な、第二の啓示があるのではない」。すなわち、両者の存在の仕方の差異性は、「ひとつの啓示の中で、子あるいは神の言葉は、神が人間に向かって自分自身をさし出すという要素(≪啓示の客観的要素≫)を代表し、聖霊は神が人間によってうけとられ、自分のものとされるという要素(≪あくまでもその都度の神の自由に基づく人間の啓示認識・啓示信仰の主観的現実化の要素≫)を代表している」という点にある。したがって、「ヘルマスの牧者が聖霊を神の子と呼んでいる」両者の存在の仕方の差異性についての無自覚は、「全く孤立した変わった」見解である(338・339頁)。また、自然神学的に「被造物ノ中デノ三位一体ノ跡」を語ったアウグスティヌスは、存在の類比において、「人間の魂」の中での「意志あるいは愛」が「思惟」に関係し、その「思惟」から「意志」が「出てくる」・「発出スル」ように、「霊は子からでてくる」と述べた。すなわち、アウグスティヌスは、「認識から生じてくる意志としての聖霊」を論じた。そして、アウグスティヌスは、「ワタシハ知ラナイ」という言い方で、「論議ニヨラズ、祈リヲモッテ閉じようとした」。このアウグスティヌスに対して、「われわれは三位一体ノ像についての理論全体を受け入れることができなかった」ように、「霊に関しての問題」についても、「また、(≪その≫)三位一体ノ像……の理論全体」によっては答えられないと言う、とバルトは述べている。したがって、アウグスティヌスとは違って「三位一体ノ中デノ被造物ノ跡」を語るバルトは、信仰の類比・関係の類比・啓示の類比において、次のように述べている――「ワレワレハ知ラナイ」。ただ、神の隠蔽性、神の言葉の秘義性、「啓示の秘義」、「神の秘義」、終末論的限界の下で、「われわれは父、子、聖霊を定義することはできない」・「われわれはそれらを相互に限界づけることはできない。われわれは、ただ、啓示の中で自分自身を相互に限界づけている三つのものが登場してくるということを確立しうるだけである」・「われわれは神的な出ることと存在の仕方の事実を確立することができる」だけである。そして、「神の啓示の中で登場してくるもの、それは、……父、子、聖霊である」、と。聖霊の「出ずること」は、「父と子からの聖霊の出ずることである」――聖霊は、「父ト子ヨリ出ズル御霊」である。それは、聖霊の、単一性・神性・永遠性の定義である(341ー344頁)。この「出ずること」・「息を吹きかける」というこの概念は、「人が本質的に表現し得ないこと、人が彼の言葉でもって到達し得ないことを表現しようとする一つの試みである」・「どのように神の子が生まれるのであるか、どのように神のことばは語られるのであるか、われわれはそれを知らない」。したがって、「われわれの認識は、ただ、事実の承認あるいは受認であり得る」のみである(341頁)。この語り方は、その認識方法と概念構成それ自体に自己相対化視座を持たせている、神学における思想家バルトに特有な語り方である。復活の出来事についての説教においても、バルトはこのような語り方をしている。それは、信仰者として・牧師として・神学者として・思想家として、正直で根本的な語り方を獲得している。バルトは、バーゼルの刑務所でイエス・キリストの復活の出来事について、「ただ単に考えや夢の中にではなく、何か精神的にではなく、身体的に見、聞き、つかまえることできる形」における弟子への顕現の出来事について説教をしている――復活の出来事が「どのようにして……起こりえたか、また起こったか、……私はあなたがたと同じように、その理由を知らない。それは(≪人間の感覚と知識を内容とする経験に依拠して考えれば≫)人が信じないようなことだと言う以外に、単純な言い方はほかに存在しない。事実、当時でさえも、解き明かすことは愚か、書き記すことや説明することはできなかった」。「イエスの復活は、徹頭徹尾神の業であって、そのようなものとして、最高度に良くなされたが、しかし最高度に理解し難いもの」なのである。したがって、「当時でさえも、ただ認識(≪信仰≫)され、告白され、証しされ、宣べ伝えることができた」だけである(『カール・バルト著作集17 説教集〈下〉』「主を見た時 ヨハネ」)。
 さて、神自身においてのみ「実在であり真理である」神の自由における自在性としての「前もってそれ自身の中での神的存在の仕方の実在」、すなわち「内在的三位一体(本質的三位一体)」についての「命題全体」は、その神の自由における他在性としての「啓示の中での神的存在の仕方の実在」、すなわち「経綸的三位一体(啓示的三位一体)」についての命題を「確証するもの……強調するもの……あるいは内容的に……欠くことのできない前提として、明らかとなる」。したがって、三位一体の命題は、「聖書の証言にしたがって神の啓示における神の実在の中でわれわれに出会うところの、神の存在の仕方の相違と単一性に、あくまでもとどまらなければならないということ」を意味している。したがってまた、聖書また教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する。この啓示が、教会の宣教の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠である。この三位一体論は、神論の決定的に重要な構成要素であり、「啓示の認識原理」である。したがって、「教会の宣教の批判と訂正」は、常にこの三位一体論に即して行わなければならないのである。なぜならば、この三位一体論を啓示認識の原理にしない場合、すぐに神性否定のキリスト論や半神・半人キリスト論や三神論や神と人間・神学と人間学との混淆論・「共働」論という自然神学的なキリスト論・聖霊論・神論に埋没していくほかないからである(348−349頁)。
 単一性・神性・永遠性を本質とする神の「内在〔本質〕的」な「ト子ヨリ」の表現は、「父と子の間の交わりの認識の表現である」。なぜならば、「ただ父の霊でのみあるのなら、その時、神と人間の間の霊の交わりは、客観的な内容と基礎〔根拠〕」を、すなわち神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の出来事を喪失してしまうことになるからである。「聖霊は愛であり、その愛は父および子という神のこれら二つの存在の仕方の間の関係の本質である」。この「交わりの認識」は、「父と子の愛の交わり」が「啓示の中で聖霊を通してつくられるところの、神の人間との間の交わりの根拠である」ことを意味する。それは、聖霊により授与される「賜物」である。そして、この聖霊の存在の仕方の認識を通して、単一性・神性・永遠性を本質とする聖霊における「神ご自身の中での……交わり」、すなわち「神の永遠の愛が、認識されるようになる」・「すべての理性を凌駕した」、啓示の「秘義」として、「聖霊の存在の仕方の中でのひとりの神として認識されるようになる」。聖霊は、「啓示の中でのように、永遠においても、父と子の愛の霊であり、したがって、『父ト子ヨリイデ』である」(350―354頁)。神の「存在の本質」においては、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主である。同様に、神の「存在の本質」においては、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある(「三位相互内在性」――「父、子、霊の働きの単一性は、……三つの存在の仕方の交わりとして、理解されるべきである」(188頁)。これらの出来事は、神自身の自由事項として、「神の中での出来事」としてある(187頁)――「子と霊は父とともにひとつの本質である。神的本質のこの単一性の中で子は父から、霊は父と子からであり、他方、父は自分自身以外の何ものからでもない」(186頁)。「神は、永遠から自分自身の中で父でありつつ、永遠から自分自身を子として生み出す。神は、永遠から子でありつつ、永遠から、父としてご自身から生まれ出る。まさにこの永遠的な自分自身を生み出し、自分自身から生まれ出ることの中で、彼は自分自身を三度目に、……聖霊として、……神を自分自身の中で一つにする……愛として、自分自身をおく。神は、子を生み出す父でありつつ、愛の霊を生じさせる」(345−347頁)。神の「存在の本質」は、単一性・神性・永遠性にあるから、神の内三位一体的父は子として「自分を自分から区別」するし自己啓示する神として自分自身が根源である。したがって、その区別された子は父が根源であり、愛に基づく父と子の交わりである聖霊は父と子が根源である。このことは、「神の三つの存在の仕方の間の循環」・「完全な、……三位相互内在性」のこと、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする「ひとりの神の存在の仕方としての存在の仕方の三位相互内在性」を意味している(358・359頁)。この神は、子の中で「創造主として、われわれの父」として自己啓示する。また、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主である。同様に、神の「存在の本質」から言えば、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある。イエス・キリストが父として啓示する神は、「われわれの生を、死を通して永遠の生命に導くために死を欲し給う」神である(『教会教義学 神の言葉』)。「神は他者に向かっている。神は他者なしであろうと欲せず、ただ、自分を他者とともに、いや、他者の中に持ちつつ、自分自身をもとうと欲し給う」。これは、神自身においてのみ「実在であり真理」である他在であって自在なる神の全き自由を意味している。この神は、「子とともに霊を、愛を、生じさせ、そのようにして自分自身の中で霊、愛である」・「愛は神にとって、最高の法則であり、最後的な実在であって、その逆ではない」。この規定は、次に挙げる規定と同じである――「創造された世界」における「神の愛」と「われわれの世界」における「イエス・キリストの事実の中における神の愛」との間には差異がある。すなわち、後者のそれは、「まさしく神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった人間の失われた世界に対する神の愛」である。したがって、「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない。この意味は、「和解ないし啓示」は、神の「存在の仕方」の差異性における「第二の存在の仕方」であるイエス・キリストの「新しい神の業」である、ということである。それは、「神的な愛の力」・「和解の力」である。イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、神の「第二の存在の仕方」において「第二の神的行為を遂行」したのである。この神の「存在の仕方」の差異性における「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者≫)と言葉(≪啓示≫)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、創造主・父に先行することはできない。しかし、父・子は共に神自身のその「存在」において神性・単一性・永遠性を本質としているから、この従属的な関係は、「存在の本質」の差異性を意味しているのではなく、「存在の仕方」の差異性を意味している(354−358頁)。
 先程も述べたように、「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊は、「父と子からの霊の二重の起源」を意味しているのではなく、単一性・神性・永遠性を本質とする聖霊なる神の定義である。また、「処女降誕の教義」は、人間イエスは、神の子として、「いかなる父をももたないということ(……いかなる母ももたないように)を、言っている」。「キリストの降誕において聖霊に帰せられているところのこと」は、「処女マリアの中での人間存在」が、神の言葉という存在の仕方において、「神との単一性へ取り上げられる」ということである。言い換えれば、「父ト子ヨリ出ズル御霊」・「聖霊は愛であり、その愛は父および子という神のこれら二つの存在の仕方の間」の「交わり」であるから、イエス・キリストは、単一性・神性・永遠性をその存在の本質とする、まことの神であり・まことの人間である、神の子・神の言葉・神の第二の存在の仕方(行為・働き・性質)である。「霊のこの働きは、神の子供たちにおける霊の働きにとって、原型的なものである」。聖霊は、「啓示の中で、神と人間、創造主と被造物、聖なるものと罪人を(彼らが父と子供となるよう)結びつけるように、……ご自身の中で、父を子と、子を父と結びつけるところの交わり、愛である」。この「神の第三の存在の仕方として、聖霊、愛が存在するということ、そのことを父と子は、共通にもっている」(360・361頁)。
4)「われわれは、『父と子とともにおがみ、あがめられる』聖霊を信ず」。この最後の信条の条項も、聖霊の単一性・永遠性・「神性を定義している」。この条項は、「父が、また子が、ひとりの主であるように、また霊も一人の主である」という「第一の条項へと立ち帰らせる」。この条項の「ともに」は「『ならんで』という意味ではない」。「『とともに同時に』(中略)……父と子と『全く同じように』」という意味である。この神性を本質とする聖霊は、神と人間との無限の質的差異の下で、すなわち聖霊と人間精神との無限の質的差異の下で、「啓示において神と人間の(≪人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の主観的現実化のための≫)霊であり、神と人間の交わりの実現(≪人間の啓示認識・啓示信仰の主観的現実化≫)」としての神の存在の仕方である。したがって、聖霊は、徹頭徹尾全面的に、「人間精神と同一ではな」から・また「すべての造られた霊どもと違って」いるから、神のその都度の自由な決断において「人間に対し内在しつつも、同時に、人間に対して超越し、あくまで超越し続け、また常に繰り返し超越するところのもの」である。「義認と聖化」は、「われわれに父と子とともにおがみあがめられるべき」神性を本質とする聖霊の「神的主体の行為である」。したがって、「それはわれわれの救いとなる」(362―364頁)。
 最後に、自然神学の系譜に属しているとは言え、アウグスティヌスの良質さについて述べておく必要があるだろう。それは、アウグスティヌスが、三位一体についての自分の思惟と語りがいつも「危険にさらされている」思惟と語りであることについて十分に自覚しているという点にある。バルトについて言えば、バルト自身は、その神学の原理・認識方法と概念構成それ自体に、自己相対化視座をもっている。このことは、バルトに関する私の諸記述を読まれた方は、よく理解されるに違いない。    了