6−2.『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示(上) 三位一体の神』(邦訳224−288頁、その2−1)
6−2.『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示(上) 三位一体の神』(邦訳224−288頁、その2−1)
再推敲・再整理版です。
この『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中> 言葉の受肉』について、さらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります。
https://karl-barth-studies3.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。
二 永遠なる子
第三の形態の神の言葉に属する教会の三位一体の教義(三位一体論)は、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)から、「神の子は、誰であるか」という問いに対する答えを、「父を啓示するものとして、そしてわれわれを父と和解させるものとして、イエス・キリストは神の子である」、「なぜならば、イエス・キリストは、現に神の子あるいは神の言葉であることによって、ご自分をわれわれのところに来た神の子として、あるいはわれわれに向かって語られた神の言葉として啓示するからである」と洞察し、次のように解釈した――「子と霊は父とともにひとつの本質である。神的本質のこの単一性(≪「失われない単一性」≫)の中で子は父から、霊は父と子からであり、他方、父は自分自身以外の何ものからでもない」。言い換えれば、イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現されたキリストにあっての神は、先ず以てご自身の中での神としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」である――このご自身の中での神における<起源>・<根源>としての父は「子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が根源」であり、その区別された子は「父が根源」であり、「父なる神と子なる神の愛の霊」である聖霊は「父と子が根源」である、それ故に「三神」・「三つの対象」・「三つの神的我」ではない。したがって、その子としてのイエス・キリストは、「啓示の出来事においてはじめて神の子あるいは神の言葉となるのではない」。すなわち、「イエス・キリストはこの啓示の出来事から離れても、また自分自身の中で、すでに初めからそうであるものとして、自分自身を啓示するがゆえに」、「永遠の」「神的真理と神的実在を持っている」、したがってまた、「神は子なる神である。それはちょうど神が父なる神である」ように、また「イエス・キリスト、神の子は、神自身である。それはちょうど彼の父が神自身である」ように。それからまた、この神は、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動、活動)、すなわち起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造主、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示の実在そのもの・語り手の言葉、起源的な第一の形態の神の言葉・和解主、第三の存在の仕方である愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――啓示されてあること・「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)・救済主なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体である。
さて、「創造された世界における神の愛」(神が「創造することを欲せられ」、創造された「起源的人間、世に対する神の愛」)と「われわれの世界におけるイエス・キリストの事実の中における神の愛」(「神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった」「罪に落ちた人間」、「罪と死がある」「われわれの世界」、「人間の失われた世に対する神の愛」)との間には差異がある。後者における「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない。すなわち、後者における「和解ないし啓示」は、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動、活動)であるイエス・キリストの「新しい神の業」である。それは、「神的な愛の力」、「和解の力」である。このような訳で、イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、神の第二の存在の仕方において第二の神的行為を遂行したのである。この外在的な「失われない差異性」における神の存在の仕方の「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父(≪啓示者・言葉の語り手・創造主≫)と子(≪啓示・語り手の「言葉」、起源的な第一の形態の神の言葉・和解主≫)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、「創造主としての父」に先行することはできないのである。しかし、この父と子の従属的な関係は、ご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の観点からは、その内在的な本質におけるそれではなくて、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における起源的な第一の存在の仕方と第二の存在の仕方の差異性におけるそれを意味しているのである。「創造が無からの創造であるように、和解は死人の甦り」である。「われわれは創造主なる神に生命を負うているように、和解主なる神に永遠の生命を負うている」。したがって、「創造された世に向かっての神が主(≪創造主≫)であるところでは」、ご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における「神の第一の存在の仕方(≪存在の様態、働き・業・行為≫)について語られなければならない」、また「神に対する人間の敵意のまっただ中で神が主(≪和解主≫)であるところでは」、ご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における「神の第二の存在の仕方(≪存在の様態、働き・業・行為≫)について語られなければならない」。このような訳で、聖書的啓示証言における「和解あるいは啓示の出来事」は、それ自身が、「キリストの神性」の「承認(受認)」を要求するそれなのである。三位一体の根本命題に即して理解すれば、イエス・キリストは「永遠のまことの神性」を本質としているから、「啓示の出来事においてはじめて神の子」「神の言葉」となるのではなく、「父を啓示するもの」、そして「われわれを父と和解させるもの」として、「イエス・キリストは神の子」、神の言葉、神の第二の存在の仕方なのである。
これらの事柄は、バルトにとって、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とする第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会の宣教、その一つの補助的機能としての神学における思惟と語りの前提である。何故ならば、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在しているの「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」であるからである。したがって、「どんな省察も」、「この前提を基礎づけようとしてはならない」のである、「この前提に疑いをはさんではならない」のである。「すべての省察は、この前提から出発し、この前提に戻っていくことしかできない」のである。何故ならば、「この洞察からして、キリストの神性(≪「キリストの永遠のまことの神性」≫)についての教会の教義は生じた」からである。したがって、「キリストの永遠のまことの神性の告白を信用しない」近代主義的プロテスタント主義的神学(総括的に言えば、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教)は、その最初から「あやまりは必然」となるのである。何故ならば、その場合、その「(中略)神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、(≪恣意的独断的な≫)人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した」ものである、それ故に「この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」ものだからある(フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)。「彼岸の消尽点が画の中に移され、神自身が人間の霊魂的な、また歴史的な現実の構成要素となり、従ってもはや神ならぬもの、偶像となる。これが特に危険な反乱であり、神への『反逆』である。その危険なわけは、それが、ごうまんにも(≪聖書の≫)神を忘れた公然たる反抗として行われず、実に(≪聖書の≫)神の名において、(≪聖書の≫)神の呼びかけのもとに行われるからである」( E・トゥルナイゼン『ドストエフスキー』)。
さて、バルトは、カルヴァンのキリストの神性の認識について、次のように述べている――カルヴァンの「キリストの神性のまことの認識」は、「すべての信頼とすべての希望をキリストの上におき、キリストの名を呼び求めていることから成り立っている」という点にある、と。しかし、ルターの場合は、キリストの神性の認識について問題があった。すなわち、それは、ルターにとって「神ヲ認識スル唯一カツ単独ナ方法」は、「神ニツイテ正シイ仕方デ認識シタリ、考察シタイト望ム者ハ誰デモ」、「キリストノ人間性ヲ別ニシテ」、「ホカノスベテノコトハ徹底シテ後ニスベキデアル」から、「神ヲ認識シタイト思ウ者ハ、地ニ印サレタスカラ(schala)ヲ見ツメルベキデアル。人間の全理性ハココニ似ツカワシイ」、という思惟と語りにあった。ルターは、キリストの神性の認識を、確かに恣意的思弁においてではなく、「聖書の中に証しされているキリストの人間的現実〔実在〕……、彼のよきみ業」・「神の啓示の認識の道……キリストの恵みの認識の道」を通して「認識されることを欲している」のであるが、彼のその認識の道は、「まず第一に下から上へ、キリストノ人間性カラ神ノ認識へと」と向かうものなのである。したがって、ルターの場合は、バルトの『神の人間性』におけるような、先ず以て「神の神性において、……」ではないのである。すなわち、ルターの場合、先ず以て、ご自身の中での神としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」ではなく、先ず以てわれわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち「下から上へ、キリストノ人間性カラ神ノ認識へと」と向かうものなのである。したがって、ルターの場合は、「キリストガソノヨウニ卑賤ナ姿ニオイテ認識サレルノト同様ニ、キリストガ神デアルコトニモ到達シ、明ラカニサレルノデアル。ソシテソノ時、神が惜シミナク、憐レミ深ク見下ロシ給ウテイルコトガ認識サレルノデアル。したがって、まさしく神の憐れみの認識こそ、結局、再び、道が上から下に通じていること」によっていると思惟し語るのである――「コノ唯一ノ主、王、創造者ハ御子ヲ通シテ、コノヨウナ仕方デ御自身ヲアラワサレタ」。このルターにおけるキリストの神性の認識の方法は、律法から福音へというルターの「福音と律法」理解にも現れている――二元論的に律法と福音を対立させ、先ずは「罪人を怖れさせ、その罪を暴露して、痛悔し且つ回心させるためには、誡めを説教すべきである」。しかしそれだけではいけないので、その次に「他の言、すなわち恩恵の呼びかけを説教して、信仰を教えるべき」である。「かようなときにはじめて他の言、すなわち神からの約束の告知が現われて、そして語る」。「さらばキリストを信じなさい」。「あなたが信じるならこれを得られるし、信じないなら得られない」(『キリスト者の自由』)。バルトは、このようなルターの思惟と語りにある根本的包括的な原理的な問題点について、『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』で、次のように述べている――神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を持たない先行させた人間の側からする神との「混淆」・「混合」論、神との「共働」・「協働」論、「神人協力説」における自然的な信仰・神学・教会の宣教は、「……独立的に現われ活動する神的実体として(中略)(≪それには≫)あらゆることが可能であり、(中略)(≪またそれは≫)、人を義とする……、……愛と善き業を生み出す…、罪や死にも打ち勝ち、人を救う。(≪その≫)信仰と神とは『一団』をなし、信仰は(心の信頼として!)神と偽神(≪人間的理性や人間的欲求やが対象化し客体化したに過ぎない「存在者レベルでの神」≫)の両方を作り、ときには(ただ「われわれ自身の内部において」だけであるが)「神性の創造者」と呼ばれるということもあり得る。さらに重要なのは、……受肉説とそれに関連した事柄である。フォイエルバッハは、このキリスト教の教説を「神は人となり、人は神となる」という定式で簡明に表現し(《たが、それは》)……とくにルター的なキリスト論および聖餐論を前提とする場合には、まったく不可能とか無意味とかいうことはできない。……、神性を天上に求めず地上に求め人間の中に―人間イエスの中に求めることを教え、またかれにとっては聖餐式のパンは高く挙げられたイエスの栄光化されたからだであらねばならなかった(中略)。(中略)これらすべてのことは、……、……天と地・神と人間を?倒する可能性を意味しており、終末論的限界を忘れる可能性を意味している。(中略)ルターと初期ルター派の人々が、天を襲うようなキリスト論を説いて、その後継者たちを、たえず出現する思弁的・人間学的帰結に対しての一種の危険状態・無防備状態の中に置き去りにしたことは疑いない。(≪したがって、≫)神に対する関係があらゆる点で、原理的に?倒不可能な関係だということ――そのことについて(≪「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>について≫)、人々は、フォイエルバッハを有効に防御するためには確信を持っていなければならない……」。
ルターの場合、「義認」と「啓示の神学」が問題であった。したがって、キリスト教に固有な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、一方で、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解の実在」、起源的な第一の形態の神の言葉としてのイエス・キリストに「燃えるような強烈な」意志を示したが、他方では、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の<起源>・<根源>としての父が自分を自分から区別した子としての神、「父を根源」としている神の子の「キリストの神性の認識」に対しては「燃えるような強烈な」意志を示さなかった。したがって、ルターの思惟と語りは、近代主義的プロテスタント主義的な信仰・神学・教会の宣教(総括的に言えば、自然的な信仰・神学・教会の宣教)の萌芽となった。したがってまた、ルターのその一面的な思惟と語りは、近代主義的プロテスタント主義的な信仰・神学・教会の宣教(総括的に言えば、自然的な信仰・神学・教会の宣教)に対する強力な思想的武器を喪失させてしまった。
(ア)「キリストは先ず第一に自分自身の中で神である」とは、キリストは、先ず以てご自身の中での神としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の<起源>・<根源>としての父が「自分を自分から区別」したところの子として神、「父を根源」としている神の子である。それからまた、キリストは、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間である。このように理解しないならば、「赦す神」が「人間の性質の中に含まれることになり、その考え方」(ヘーゲルが発見した神の人間化あるいは人間の神化の原理、換言すれば自然的な信仰・神学・教会の宣教の思惟と語り)は、「決して(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした≫)教会の教義ではないし、それは単なる非神学的な思弁」でしかないものである。すなわち、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方(業、働き、行為)、すなわち「啓示ないし和解」が「キリストの神性の根拠」ではなく、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「三位一体の神」の<起源>・<根源>としての父が「自分を自分から区別した」ところの子としての神(神の子)の「キリストの神性」が「啓示ないし和解を生じさせるのである」。
(イ)われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉そのものである「神の子は、先ず第一に自分自身の中で神の子である」とは、(ア)で述べたとように、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の<起源>・<根源>としての父が「自分を自分から区別」した子として「父を根源」としているが故に、ご自身の中での神としての自分自身の中で神の子である。
(ウ)上述した(ア)と(イ)の啓示認識を「標準、規準」としないならば、「エビオン主義的キリスト論」か「仮現論的キリスト論」に埋没していくほかはない。A・リッチュルのキリスト論は、「疑いもなく『仮現論的な』型に属している」。何故ならば、リッチュルは、「キリストを通しての神の啓示の完全さについての正しい評価」は、「キリストの神性の賓辞の中で保証」されるとするからである。
ニカイア・コンスタンティノポリス信条
これは、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>信仰告白の文書であり、「キリストの神性についての教義の最も重要な文書」である。この信条は、325年のニカイア会議の決定的な三位一体神学の結論を採用しており、「565年以来、東方における、1014年以来は、西方における、礼拝式文の確定的な構成要素となった」ものである。
(ア)「われわれは唯一の主イエス・キリストを信ず」――この「唯一の主」とは、「概念の最後的・究極的意味」において、「主・主権」であることである。それは、「それ自身の中に基づいた主であることである」。この条項――すなわち「イエス・キリストは主なり」という信仰命題は、「自分自身の中に基礎づけられて、……イエス・キリストは、われわれにとってそれを意味することができるところのものであるということである」(すなわち、「われわれに対して、権威と力の保持者であり、要求権を持っており」、「われわれを自由に支配する力を持っている」ところのものであるということである)。「イエス・キリストは主なり」という信仰命題は、「概念の最後的・究極的意味」において、イエス・キリストが、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の<起源>・<根源>としての父が自分を自分から区別した子としての神、「父を根源」としている神の子であり、その「自分自身の中に基礎づけられて」、完全に自由な「唯一の」「もろもろの」「主」「主権」であるということを意味している。この「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストの存在が、「イエス・キリストを直接に」「唯一の神である」「父の場所へと移す」のである。イエス・キリストは神であるという「キリストの神性についての命題」は、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの)であるイエス・キリストは、「彼の父を啓示する」、「父を啓示するものは神を啓示する」ということを意味している。このイエス・キリストは、啓示の中で、「主」として、「永遠の真理」および客観的な「啓示の実在自体」として、「降下突入してくる」。「われわれは、光よりの光、神よりのまことの神、造られずして生まれたものとしてのイエス・キリストを信ず」――この第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義は、「キリストの神性についての三位一体神学の本来的にして決定的な規定」である。「造られずして、生まれ」とは、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(働き、業、行為――子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)であるイエス・キリストは神性を本質とするということを、「神から由来する」ということを意味している。「和解主としてのイエス・キリストは、(≪まさに内在的なご自身の中での≫)神ご自身であるが故に」、イエス・キリストのその外在的な第二の存在の仕方における「人間的『性質』」、「人間であること」、「神との和解者としてわれわれに出会うところの人間であること」は、「啓示および和解として現実に有効」なのである。「自由・主権」は、「愛」がそうであるように、「神ご自身においてのみ実在であり真理である」。
「イエス・キリストは主なり」という信仰命題は、「イエス・キリストがまず、すべてのわれわれの把握に先行しつつ、自分自身において、そのようなものとして、われわれに把握すべくご自身を与える」ということである。言い換えれば、常に先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神の側の真実としてある、神の側からする人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の~の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)に向かっての人間の用意が存在する」のである。信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事は、あくまでも神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(啓示と信仰の出来事)に基づいて初めて(何故ならば、われわれ人間は、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する神の不把握性の下で生かされているからである)、終末論的限界の下で与えられるのである。「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」。「イエス・キリストは主である」という啓示認識・啓示信仰は、「それの承認あるいは受認とともに始まる」。
さて、神の完全な自由は、聖書の主題である神と人間との無限の質的差異を固執するという<方式>と共に、「自己自身である神の自由」(ご自身の中での神の自由、「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の自由)としての「自存性の概念(≪神の自由の概念の積極的側面≫)」と「神とは異なるもの(≪全被造物、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能の無限性≫)によって為されるすべての条件づけからの神の自由」としての「独立性の概念(≪神の自由の概念の消極的側面≫)」との全体性・総体性において定義されなければならない。何故ならば、例えば「世界に対する神の関係」としての「神の創造と和解の概念」と「神の全能、遍在、永遠性の概念」は、「神とは異なるものによって為されるすべての条件づけからの神の自由」としての「独立性の概念(≪自由の概念の消極的側面≫)」に「言及することとなしに、把握し、展開することはできない」からである。キリストにあっての神は内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動)において三度別様に父、子、聖霊なる神であるから、「神とは異なるものによって為されるすべての条件づけからの神の自由」は、「ただ外に向かっての神の行為の本来的な積極性(≪独立性としての神の自由≫)であるばかりでなく」、「また、神ご自身の内的な本質の本来的な積極性(≪自存性としての神の自由≫)である」という「認識の下で起こる時にだけ、正しい仕方で為すことができるし、為す」のである。キリストにあっての「神についての聖書的な証言」は、「神とは異なるすべてのものに対して」持つところの神の「優位性」を、「神とは異なるものによって為されるすべての条件づけ(≪外的条件づけ≫)からの神の自由(≪独立性としての神の自由≫)として」の「神の相違性そのものの中でだけ見ているだけでなく」、「神がそれらを実証することによって」、それ故に「外的条件づけからの(≪独立性としての≫)神の自由」に「相対しても自由(≪自存性としての神の自由≫)であり」、この完全な自由を放棄することなく、「創造主、和解主、救済主として」、「神とは異なった実在との交わりへと歩み入り、その交わりの中でその実在に対して忠実であり給うということの中で」、神の「真実を実証し、まさにそのようにしてこそ現実に自由(≪独立性としての神の自由≫)であり、ご自身の中で自由(≪自存性としての神の自由≫)である」ところの「神の自由」(神の自由の全体性・総体性)の中で見ている。われわれは、「神の存在」を、換言すれば神の自由な愛の行為の出来事としての「神の存在」を、自己運動する「自分自身から生きる存在として理解した」。したがって、自己運動する神の自由な愛の行為の出来事としての神の存在を、「神が愛し給うことを、それ自身の故に愛する愛として」、「無条件的な、自分で自分の根拠と目的を措定する、徹頭徹尾主権的な愛することとして、理解した」のである、自己還帰する対自的であって対他的な、自在であって他在な完全に自由な自己運動する愛として理解したのである、「自存性」における愛として理解したのである。「この精密規定なしには」、すなわちキリストにあっての神は「生き、愛し給う」という「独一無比性についての表示なしには」、われわれは、「神が生き、愛し給うことではなく」、人間の想像能力・思惟能力・表象能力によって「一般的に生きることと愛することについて語る」・語っていることになるのであって、それ故にキリストにあっての「神については語っていない」ことになるのである。まさに「この精密規定は、……自由という概念によって与えられている」。「生きる方、愛する方としての神の存在は、自由の中での神の存在である」。そのように「自由に、神は生き愛し給う。神は、自由の中で生き、愛し給うという仕方で、またそのことの中で、神であり、ご自身をそのほかの生ける者、愛する者から区別し給う。そのような仕方で、自由な人格」、「われ――存在」として「神はご自身をその他の人格から区別し給う」。「神は愛である」・「愛は神である」、「神は愛し給う」――これが、「神の存在の特別な現実性」、「神の行為あるいは神の生……の内容である」、父、子、聖霊なる神の愛の行為の出来事としての神の存在の内容である。イエス・キリストにおいて自己啓示された、イエス・キリストの「父」(創造主)、「子」としてのイエス・キリスト自身(和解主)、父と子の霊である「聖霊」(救済主)なる神という三位一体の「神の名の啓示の中で明らか」にされている神の「本性」、「神の本質」である。
(イ)「われわれは神のひとり子としてのイエス・キリストを信じる」。この「ひとり子」の条項は、イエス・キリストにおける「まことの啓示ないし和解」は「ただ一つであること」、すなわち「その排他独占性、独一無比性」を意味している。一方で、この「ひとり子」は、(ア)の場合と同じように、「本来生まれつき」・「すべての啓示以前に、すべての信仰以前に」、「神である方である」(神自身である)ということを意味している、すなわちご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の<起源>・<根源>としての父が「子として自分を自分から区別」したところの神の子として神ご自身であるということを意味している。
(ウ)「われわれは、よろず世のさきに父より生まれたる(もの)としてのイエス・キリストを信ず」。この条項は、イエス・キリストは、「神を表している」のではなく、「神自身である」、ということの言表である。すなわち、イエス・キリストは、ご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の<起源>・<根源>としての父が「子として自分を自分から区別」したところの神の子として神自身であるということの言表である。ご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「三位一体の神」の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち「われわれのために存在される神の子」、それ故に「啓示者(≪啓示者である父なる神の子としての啓示≫)および和解者」としてのイエス・キリストは、「先在される方である」。「しかも、このイエス・キリスト、すなわち先在される神の子だけが、われわれのために存在される方である」。この子としてのイエス・キリストにおける神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事は、一方で、われわれの「時間の中での、造られた世界の内部における、出来事」であるが、他方で、その彼岸・外にある、神自身においてのみ実在である「始メナク、終リナク、常ニ存在スル」「永遠的実在」における出来事である。「われわれの歴史(≪自然時間の一部としてのわれわれ人間の時間≫)の主としての神」であるイエス・キリストは、「永遠からこの方、永遠なる父の永遠なる子として、神の子である」。「時間の主の時間」であるイエス・キリストにおける啓示の時間とわれわれの歴史、「われわれの時代の時、罪深い被造物の時と歴史」は、「神的な『よろず世のさきに』の中に含み入れられている」ことは、神の「恵みであり、秘義であり」、「神へのおそれをもって認識されるべき基礎である」。