カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

16.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」

16.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
推敲済みです。

 

「神学の道」(4)
 アンセルムスの「ラチオ(≪「根拠」、「原因」、「理由」、「理性」≫)概念」は、彼が「理性的ニあるいは諸根拠カラあるいは必然的理由ニヨッテと言う時」における「尋ね求められた知解へのを表示している」「知解する人間的なラチオ」(奪格的側面、探究の手段)と、彼が「根拠ヲ熱望スル、求める、示す、知解スルことについてについて語る時」における「尋ね求められた知解そのものを表示している」「信仰の対象そのものに固有なラチオ」(対格的側面、探究の目標)との構造としてある。

 

 啓示の「真理ノ根拠」(「あるいは真理ノ理性的根拠」)」は、「それとして……厳格に理解されるならば、最高ノ本性ノ理性と……同一である」、すなわち「父と同質である神的な言葉(≪啓示者である父なる神の子としての「啓示の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの≫)と同一である」、換言すればご自身の中での神としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」におけるその<起源>・<根源>としての第一の存在の仕方の「父は子の父」・「言葉の語り手」・啓示者であり、その区別された第二の存在の仕方の「子は父の子」・「語り手の言葉」・啓示であるところの、愛に基づくこの父と子の交わりとしての第三の存在の仕方(「性質」・「働き」・「業」・「行為」・「行動」・「活動」)である「最後的な実在」・聖霊と同一である。したがって、この啓示の「真理ノラチオは、神のラチオである」。それは、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」・聖霊と同一である。「それがラチオであるが故に、それは真理を持つのではなく」、「失われない単一性」を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の「神が、(≪その神の外在的な啓示の≫)真理が、それを持つが故に、それは真理を持つのである」。したがって、「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」。アンセルムスの「ラチオratio」は、「すべてのそのほかの神ノラチオと同一ではないが」、「神の被造物のラチオとして、神ノラチオにあずかっているラチオ(≪聖霊によって更新されたラチオ≫)について言えることである」(しかし、「聖霊は、人間精神と同一ではない」、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」、聖霊によって更新された理性も聖霊と同一ではない――『教義学要綱』および『バルトとの対話』)。したがって、啓示の「真理がそのようなラチオに制約されているのではなく」、そのような「ラチオが(≪啓示の≫)真理に制約されている」のである。

 

 このような訳で、「認識的なラチオの使用を念頭に置いた」「ラチオの真理」は、「表示ノ真理」、「例えば、一つの命題の真理と同一」ではあるが、しかし、前述したことが「第一に認識的なラチオに対して、適用される」時には、人間に生来的な「自然的な思惟能力あるいは言語能力の『真理』以上のこと」、すなわち「徹頭徹尾その表示が表示された対象と一致するということを通して、条件づけられている規則が妥当する」。何故ならば、「対象の存在と本質の真理」は、人間論的な自然的人間、第三の形態の神の言葉に属する教会論的なキリスト教的人間――この「ワレワレノラチオノ真理」「それ自身の中に基づいてはおらず」、「神的な言葉……を通して、その対象が創造され、その対象に対してそれが造られると共に」、「神によって語られた言葉としてのそれ自身に固有な真理(≪「啓示の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの≫)との類似性を賦与する神的な言葉」(第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、最初の直接的な第一の「啓示」の「概念の実在」)の中に、それ故に「厳格に理解された(≪啓示の≫)真理ノラチオ(≪「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」・聖霊≫)の中に基づいている」からである。

 

 「第二に、存在的なラチオに関しては、……(≪啓示の≫)真理へのそれの参与は、原則的に認識的なラチオの参与以外のものではないが」、「それよりもより高度な参与であるということ」、そしてその「参与」は、「認識的なラチオ……の場合と同様に、すべてのラチオの真理としての真理そのもの(≪啓示者である父なる神の子としての「啓示の実在」そのもの≫)によって存在的なラチオが賦与されなければならないということが生じてくる」、すなわち三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)が賦与されなければならないということが生じてくる――「この賦与は、認識的なラチオの側においては、その都度下される決断(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、「他律的服従」と「自律的服従」との全体性において、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とするという意志、決断と態度≫)の事柄である一方」、「存在的なラチオについては、……それのラチオが存在的なラチオであるその対象の創造と共に、真理が賦与されているということが語られなければならない」、すなわち自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者としての、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)が賦与されているということが語られなければならない。このことは、「アンセルムスにとって問題である信仰ノラチオについて妥当する」。したがって、この「信仰ノラチオratio」(根拠、原因、理由、理性)は、「アンセルムスにとって、疑いもなく真理ノラチオ(≪「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」・聖霊≫)と本来的な厳密な意味で同一である」。したがってまた、信仰ノラチオが「真理ノラチオであるかどうかについてではなく、それがそのようなものとして自分を知解させるかどうかについての決断が問題である」。「信仰ノラチオ」は、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義である「Credoの中に」、それ故に預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、「啓示ないし和解」の「概念の実在」である「聖書の中に隠されており、それは、自分自身をわれわれに知らせるためには、自分自身を(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で≫)啓示しなければならない」。すなわち、「啓示の真理」自身が、「啓示に固有な証明能力」を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」である聖霊の証しの力を、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(「啓示と信仰の出来事」)に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)を与えることができる授与能力を、そのことに基づいたキリスト教に固有な個体的自己の信仰的成果の世代的総和(類)とその時間性を、換言すれば三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)を持っている、すなわち先ず以て起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を、それからまた第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、そしてそれからその聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義を持っている。したがって、「『私タチガ(≪啓示の≫)真理ニ根ザシタ理由カラ学ンダ……』」この「信仰ノラチオ」は、「そのことを、ただ(≪啓示の≫)真理、神ご自身が(≪その都度の自由な恵みの決断により終末論的限界の下で≫)そのことをなす時にだけ、なすことによってだけ、なす」のである。

 

 このような訳で、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいた終末論的限界の下での「信仰ノ知解intellectus fidei」は、換言すれば第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義である「Credoの考え抜かれた理解」は、「最後的には祈りおよび祈りの聞き届けの問題である」から、すなわち「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの(≪祈りの≫)人間的態度に対し神が応じて下さる(≪祈りの聞き届け≫)ということに基づいて成立している」から、それを手に入れるためには、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の成員のわれわれは、前述したような仕方で、「信仰ノ知解を、祈りのもとで、(≪「他律的服従」と「自律的服従」との全体性において、≫)力を尽くして(≪聖霊によって更新された≫)理性的能力を用いつつ探し求めなければならないのである」。

 

 「アンセルムスのラチオ概念の構造をさらに探究する前に、ここでいくつかの後ろを振り返り見る注が挿入されてよいであろう」。
(ア)「知解と恵みの、知解と祈りの関連性の上に」、「どのような光が……さしてくるかが指し示されなければならない」。先ず以て、(17.)で述べたように、「すべてのラチオの相対性に関して、事情がそのようであるとしたら」、前述したように「信仰の対象のラチオに対する信頼が、また自分自身の理性的な能力を正しく用いようとするよき意志が、……『プロスロギオン』一章で為されているような仕方で、知解を求めて祈らなければならないということである(中略)知解を求めて祈られるし、明らかにただ祈られることしかできない」。

 

(イ)「先ず第一義的に優位に立つ原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」としての起源的な第一の形態の神の言葉自身、「啓示の実在」そのもの――啓示の「真理がすべてのラチオを自由に支配し」、「啓示が、先ず第一に、原則的に、権威の様式」において、「外的なテキストの様式」において「起こらなければならない」。この様式において「真理のラチオ」は、「命令以外の何ものでもあり得ない」から、「この命令に相応する用い方の中で、人間的な能力もマコトノラチオとなる」。したがって、「信仰は常に権威信仰」であり、「権威信仰」は理性的な態度であるから、「権威信仰」が「『非理性的な』態度であるかのような考え」は、権威信仰にとって「縁遠いもの」なのである。「信仰」は、「権威に従うことによって」、すなわち自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身に、それ故に具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書に信頼し固執し固着し連帯することによって、「それと共に人間的なラチオに対して立てられた問題を受け取り取り上げるために、信仰の対象の隠れたラチオを肯定する」。「信仰」は、すなわち神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)は、人間の感覚と知識を内容とする経験を超えて、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」である聖霊の証しの力を、先に述べて来たような仕方で理性的(論理的)に肯定する。

 

(ウ)啓示の様式」は、「知解スルintelligereことの」出来事、すなわち「マコトノラチオヲモッテ(≪まことの手段をもって、すなわち「聖霊の注ぎ」をもって≫)マコトノラチオヲ(≪信仰の対象そのものに固有な目標、すなわち純粋な教えとしてのキリストにあっての神を≫)探究スルコトの出来事」、「内部ニ立チ入ッテ読ムintus legereこと」である、換言すれば第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>信仰告白および教義(Credo)の中であらかじめ語られていることを、後続して「後から考えること」である。また、それは、「内的テキスト(≪固有な証明能力を持っている「啓示の実在」そのものであるイエス・キリスト自身≫)が、……自分を開示する内部ニ立チ入ッテ読ムintus legereことである」、換言すればその「内的なテキストは、もちろん(われわれから見て)外的なテキスト」、すなわちイエス・キリスト(「啓示ないし和解の実在」そのもの」)によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性も賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)が、「その権威のある主張から見ても、われわれの信仰という点から見ても」、啓示の「真理であるということ以外のことを語っておらず」、「その内的なテキストは外的なテキスト以外のところで見出されることもないのであるが」、「しかもそれでいて、ここで外的なテキストを聞き・読み取ることはそのまま内的なテキストを聞き・読み取ることになるということでは決してなく」、「特別な意志と特別な行為によって、なかんずく特に決定的なこととして、特別な恵みによって」、すなわち神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」である「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(「啓示と信仰の出来事」)に基づいて終末論的限界の下で、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二形態の神の言葉である「聖書(「外的なテキスト」)……の中で尋ね求められ・見出されなければならない」という点にある。このことについては、カール・バルトについてのノート:13.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」神学の道(1)を参照されたし。

 

 「権威とラチオの対立は、神と人の対立と符合せず」、「人間は先ず第一に信仰へと(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰へと≫)、それから信仰に基づいて……(≪あの「他律的服従」と「自律的服従」との全体性において≫)ラチオノミニヨッテ知解へと来る神のひとつの道……の二つの段階の区別を言い表している」。

 

(エ)「ラチオ概念を探究するわれわれの引き続いての探究」は、ラチオ概念のいたるところで見出される「必然性の概念」と「ラチオ概念」との「関連性の考察」へと向かわなければならない。アンセルムスが、「客観的な信仰の対象に固有なラチオ(≪ラチオの対格的側面、探究の目標≫)について語った時」、彼は、「ラチオと必然性」を「ドノヨウニアノ死ガ合理的マタ必然的デアルト証明出来ルカ」というように「マタetでもって」、「アルイハvelおよびマタetでもって」、「結びつけた」。「探求され、あるいは見出された客体の表示として、まさにラチオを予期するであろうところで」、例えば「生来的に人間は神の恵みに敵対し、神の恵みによって生きようとしない」から、このことが「第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急であった」が故に、「神ガ必然性カラ人間トナラレタトイウ先生ノ立証ハ」、「実際ニ、モシ考エ得サエシタナラ、ソレハ(スナワチ、神ハ)必然的ニ存在スル」、「私タチガキリストニツイテ信ジテイルコトハスベテ必然的ニ実現スベキコトヲ……証明スル」といように「ただ必然性だけを用いた」。また、アンセルムスが、「主観的な弁証法的に得られたあるいは得られるべきラチオ(≪ラチオの奪格的側面、探究の手段としての、生来的な自然的な理性による信仰の認識としての神認識、啓示認識の<不可能性>と、聖霊によって更新された理性による信仰の認識としての神認識、啓示認識の<必然性>≫)について語った時も」、「真理ノ理性的根拠、スナワチ必然性」というように「ラチオを必然性と等置し」、「理性的必然性ニヨッテ」、「……理性モ、……必然性ヲ伴ウ」というように「ラチオを必然性を通して」、「推理ノ必然性」、「理性的必然性」というように「必然性をラチオを通して解釈した」。