6−3.『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示<上> 三位一体の神』(邦訳289-323頁)
6−3.『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示<上> 三位一体の神』「子なる神」(邦訳289-323頁)
(3)子なる神
バルトは、聖霊論について、新訳聖書の彼らが、恣意的な「思索の結論」としてではなく、「事実」として「承認しつつ」、「今三度」、「信」じ、「それ故に語」った「新約聖書の、イエスは主であるという証言」に信頼し固執して、次のように定式化を行っている――「ひとりの神は聖書によれば救済主として、すなわち、われわれを自由にするところの主として、ご自身を啓示し給う。神はそのような方として、それを受けることを通してわれわれが神の子供となるところの聖霊である。何故ならば、聖霊は父なる神と子なる神の愛の霊として、前もって自分自身の中で、そのような方であり給うのであるから」(289・290頁)。
新訳聖書の彼らは、「イエスは主であるという証言」を、「イエスに関する……思惟の目標として言うのではなく、……思惟の始めとして」、「イエスが主であるがゆえに、言うのである」。したがって、その彼らは、「イエスは上からの、あるいは下からの半神である〔一つの〕神的理念が人間の姿をとったもの」でもなく、「〔ひとりの〕超人」でもなく、「イエスは神である」と言うのである。神の言葉・神の子・神の第二の存在の仕方であるイエスは、単一性・神性・永遠性をその存在の本質とする、と言うのである。この啓示認識・啓示信仰は、「先ず吟味された後ではじめて受け入れられる」という位相のものではなく、イエスとの「出会いそのものが神との出会いである」という「出会い方」におけるそれである。ここで、私たちは、「彼らが子(≪啓示≫)を通して父(≪啓示者≫)を、父(≪啓示者≫)を通して子(≪啓示≫)を信じるということはいかにして起こるのか」、という信仰の可能性の問いの前に立たされるのであるが、次のように言う。すなわち、その啓示認識・啓示信仰の可能性のためには、あくまでも、イエス・キリストにおける啓示の出来事と、神自身のその都度の決断による「父ト子ヨリ出ずる御霊」の「注出」・「注ぎ」が「付け加わってこなければならない」、と――「啓示におけるこの特別な要素は……、新約聖書がまさに啓示の出来事の中での主観的側面として……、聖霊と呼ぶところのものと同一である」・「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』(Tコリント12・3)と言うことはできない」(290ー293頁)。言い換えれば、その要素は、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」のことである。
また、ヨハネの名による洗礼とイエスの名による洗礼の差異は、イエスの洗礼には「聖霊」概念が存在する点にある(使徒行伝19・2以下)――「イエスは(洗礼者ヨハネと違って)聖霊によってバプテスマを授けるかたである(ヨハネ1・33)」(293・296頁)。「神の霊」、「キリストの霊」は、「神の子」と同じように比喩的表現である。ここで「霊」・プネウマは、「ここから来り、秘義に満ちた仕方で彼方へと去ってゆく風」である(ヨハネ3・8、使徒行伝2・2)。精密には「息、(目に見えない仕方で、また両者の間の空間的なへだたりをなくすことなしに)ひとつの生けるものの口から出てほかの生けるものにとどくことができる息、である」(Uテサロニケ2・8、ヨハネ20・22)。神が人間にこの「霊」・「聖霊」を注ぎ与え・人間がそれを受けることは、啓示認識・啓示信仰の出来事として、信仰のまた宣教の教会共同性を「造り出」すことであり、「その教会に約束とともに救いを与え」ることでもある。「その教会の中で、彼は彼らのものとなり、彼らを彼のものとなし給う」。その意味は、「聖化、すなわち、それを受けたところの人間の選り出すこと、……自分では、自分からは、あり得ないし、なり得ないところのもになる」ということ・また「聖書の語り方の原型、……創世記2・7(中略)神が人の顔に生命の息をふきこまれ、……まさにそのようにして始めて、人は生けるものとなった」ということ、である。聖化・更新である。したがって、啓示認識には、この聖霊の注ぎによって更新された理性を必要とするのであるが、その更新された理性も聖霊と同一ではない――神自身においてのみ「実在であり真理」である全き自由における「神の霊、聖霊」は、「彼〔神〕が単に人間のところにまで来るというだけでなく、人間の中にいまし、そのようにして人間をご自身に対し開かせ、……そのようにして彼の啓示を人間の上に遂行しうる限りにおいて、啓示の中における神自身である」(293・294頁)。したがって、私たちは、現役の神学者の小泉健が、ルドルフ・ボーレンの「神律的相互関係」の概念に依拠して、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」と直截的・断定的に聖霊や聖霊の言葉を実体化させて語っている時、その語り方は、根本的な誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて語っているだけである、と言うのである。すなわち、その自然神学的な語り方は、その最初から、「誤謬は必然」の語り方なのである。
ヘーゲルにとって現実とは、空間として見れば国家であり、時間として見れば歴史であった。個人は、個人として無限の価値が認められる近代的個人でさえ、このふたつの現実のなかでは、自分自身のために生きることをゆるされず、国家あるいは歴史に随順し、そのめざすところをみずからの目的とすることで、かろうじて有意味な存在であった。(長谷川宏『ヘーゲルの歴史意識』講談社)
(中略)個々人は民族の子であるとか、時代の子であるとかというとき、……全体を逸脱する個人的な要素は歴史から断固きりすてられなければならない、という歴史観上の当為をも意味していた 。(前掲書)
このことは、人は、自己の意志を生きられるのは半分だけで後は人間の類・歴史性を不可避的に生きるほかはないという人間の存在様式から言えば、その半分は首肯できるとしても、「国家あるいは歴史に随順し、そのめざすところをみずからの目的とする」という人間の類・歴史性に価値を置くという価値意識に関わる時首肯することはできない。そこでは、個体性と共同性の関係において倫理の問題が浮上しているのであるが、あくまでも価値は個体性の側にあるとするのが思想の原則である。国家の共同性の問題や公共性の問題は、決して個の集合としてあるわけではない。それは、ある集団や共同体のなかに登場する個体の共同的な存在の在り方のことである。したがって、この思想の原則を持たないならば、「個と共同性の逆立の構造」を介して、個体は、個体における個と類との関係においてだけでなく、共同的存在における個と類との関係においても、共同性価値の論理によって侵蝕され・抑圧され・支配されることになる。
さて、このように共同性に価値をおくヘーゲルは、神自身にとって「最高に必要であり必然的であるのは教団」であって、「教団の精神であることによって初めて神は精神となり神となることができる」、と述べている。それに対して、バルトは、「個々の人間による和解の主体的実現という問題は、絶対に欠くことの出来ない問題」ではあるが、「イエス・キリストにおいて客観的に起った和解の主体的実現は、まず第一に教団において、イエス・キリストの聖霊の業として遂行される」と述べている(『カール・バルト教会教義学 和解論T/1』)。このことは、バルトが個と教団との関係において、神学的な共同性価値論に立っていることを意味している。この場合、「私自身は、ヘーゲルが好きだという弱みを持っていますし、そしていつでも≪ヘーゲル的に考える≫のが好きです」(エーバハルト・ブッシュ『バルトの生涯』)と述べていたバルトにとって、神学における思想家として、「超自然な神学」におけるその神学の認識方法および概念構成において、ヘーゲル哲学を紙一重で超えなければならないのである。したがって、バルトのその共同性価値論は、現実的な個や家族や社会から逆立的に疎外された観念の共同性である国家共同性価値論とは全く異なったものでなければならない。またそれは、ヘーゲルのような客観的精神の弁証法的展開の果てに想定される哲学的な国家的共同性価値論とも全く異なっていなければならない。したがって、バルトは、次のように言わなければならなかった――一切の近代主義・一切の自然神学的な信仰や神学や教会の宣教やキリスト教と抗するために、まず「神の霊と人間の精神の全面的な区別」が強調されなければならない。そして、その「啓示の主体的現実」化を、「人間の業としてではなく、まさに神の霊の行為としてとらえることによって、聖霊を、神の似姿の『唯一の現実』として、人間の『恩寵に敵対する態度』に立ち向かって戦うものとして、実存を超えたところにある神の子としての身分の創造者として理解」しなければならない。その上で、「(聖霊と密接に関連して)記されている」、「真理の柱、真理の基礎」とは、「神の教団」・「イエス・キリストの教団」・「使徒ヨリノ唯一ノ聖ナル公同教会」のことであって、その「イエス・キリストと個人的関係を持つ」その「肢々」としての「一人一人のキリスト者」・「キリスト者個人」のことではない、と(『カール・バルト教会教義学 和解論 T/1 「和解論の対象と問題」』)。バルトは、このことで、神と人間との無限の質的差異の自覚の重要性と、キリスト教に固有な啓示の「概念の実在」(類・歴史性)に信頼し固執し連帯し続けていくことの重要性を述べているのである。
神はご自身との共同性の中に生きてい給う。そして神は人間との共同性の中に生きてい給う。そして人間は他人との共同性の中で生きている。共同性ということが、人間が神に似ていることの根拠だ。……教会なきところではイエスはキリストであり給わない。教会は永遠よりえらばれたものだ。そして、キリストは、その頭としてありつづけ給う。……個々人と共同体の対立は近代的な対立であって、新約聖書のものではない。……新約聖書の「体」の概念はこの対立を超えたものだ。(ゴッドシー編『バルトとの対話』古屋安雄訳、新教出版社)
バルトにとって、イエス・キリストにおいては、個と共同性は逆立し対立するのではなく、正立し平和なのである。それだけではなく、神性を本質とするイエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」・「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体」に向かっての運動において、そのあるがままの不信・非キリスト者・非知、全人間・全世界・全人類に対して完全に開かれているのである(『カール・バルト教会教義学 和解論 T/1 「和解論の対象と問題」』)。このバルトとは違って、近代主義者・シュライエルマッハーは、人間学的に「教会とは、『ただ自由な人間的行為を通して発生し、またただそのような自由な人間的行為を通して存続することのできる共同体』であり、『敬虔性と関連した共同体』である」と言う。またシュライエルマッハーおいては、信仰も、人間実存の歴史的存在の一つの在り方として理解される。神学における「近代主義的思惟は、人間が、誰かによる呼びかけを受けることなしに、(中略)人間がじぶんを相手に自分だけでひとりごとを言っているのを聞く。それ故、近代主義にとっては、宣教は、『教会』と呼ばれる人間的な共同体の一つの必然的な生の表現」となる。シュライエルマッハー等近代主義者は、人間の「精神的な促進〔霊的な奨励〕のために、自分と彼らに共通な宝庫からくみ取りつつ、この宝庫をさらに豊かにするために」、人間の自由な自己意識の意味的世界・自分自身の恣意的なプログラム・「自分自身の歴史」と「現在の解釈」を表現しようとする。すなわち、「自己表現としての宣教」を企てる(カール・バルト『教会教義学 神の言葉』)。これらは、バルトの根本的なシュライエルマッハー批判である。この批判は、ブルトマン神学批判にも通底している――「私と同時代の神学者たちが試みかつ遂行した神学的企てのなかで、最も私の注意をひいて来たのは、ルドフル・ブルトマンの新約聖書の『非神話化』である。と言っても、それが提示する具体的な問題のため」ではなく、それがルターの宗教改革を出自としそして「シュライエルマッハーによって育成されたタイプの神学の主題と方法(≪人間学的な哲学原理・認識論・世界観を第一次化した、神と人間・神学と人間学の混淆論・「共働」論に基づく主題と方法≫)を再び採用している点で、非常に印象的であるからである」・「私はその特殊な主題について、ましてその原理的な方法について、ブルトマンに従うことはできなかった。そこでは、神学は……新しく特定の哲学にとらわれて、エジプト捕囚ないしバビロン捕囚の身になっているのを、私は見たのである」(カール・バルト『バルト自伝』)。私たちは、ブルトマンの「容易に修得しえない」「先行的理解と言語〔表現〕」という一方通行的な知識的に上昇する往相過程だけの信仰・神学・教会の宣教・キリスト教が、近代主義的なキリスト教的教養人には受け入れ可能であっても、そのあるがままの不信や非キリスト者や非知や大多数の一般大衆に対しては全く閉じられていく以外にないことを知る。したがって、バルトは、そうしたブルトマン(その学派)等々に対して、「『現代人』が実際に存在するのは」、「ただ教養人の間だけではない」のであるから、「実存主義への特別な拘束力が生じるべきだ」と語ったのである(『カール・バルト著作集3』「ルドルフ・ブルトマン」)。
旧約聖書・新約聖書において、神自身においてのみ「実在であり真理」である神の自由における「神の霊、聖霊」は、神の第三の「存在の仕方」(人間へと向かう「実在的な〔現実の〕仕方」)で、「被造物に対して現臨され」、この現臨によって「彼自身に対する被造物の関係づけ(≪神自身が、神自身の自由な決断において、神と人間とを架橋する出来事、神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の出来事に基づく、人間におけるその啓示認識・啓示信仰の主観的現実化≫)を実現し」、そのことによって、「被造物に生命を与えることのできる、神ご自身である」。人間は、啓示(和解)なしには「確実に失われたものであることが確かである限り、……啓示を必要とする」(294頁)。したがって、啓示認識・啓示信仰は、神自身に由来する「固有な出来事」である。すなわち、それは、あくまでも、神性を本質とするイエス・キリストの啓示の出来事と、神自身のその都度の自由な決断に基づく聖霊の注ぎによる信仰の出来事、によるものなのである。バルトは、「単なる知識」と「認識」とを厳密に区別し、「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示(イエス・キリストの啓示の出来事)と聖霊の注ぎによる信仰の出来事を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に信頼し固執する、啓示認識・啓示信仰である。その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる。したがって、人間学的なただ「単なる知識」に過ぎないある理念・ある概念の実体化・「最高存在」・「最モ完全ナ存在」としての一般的な啓示概念は、神の言葉・啓示の「概念の実在」(類・歴史性)ではないのである。聖霊は「真理の博士」・「ソレヲ通シテワレワレガ聖化サレル神ノ指」である、「ワレワレヲ再生サセ、新タナ被造物ニシ、カクシテワレワレハ、イエス・キリストニオイテワレワレニ贈ラレテイルスベテノ宝ト贈物トヲ、聖霊にヨッテ受ケルノデアリマス」、聖霊は「結ビツケルモノ、照ラシ出スモノ、聖化スルモノである」(295頁)。
さて、神の第三の存在の仕方である聖霊は、聖書でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は「失われない差異性の中」で三つの「存在の仕方」(性質・行為・働き)において「三度別様」に父・子・聖霊なる神であって、その「存在」は「失われない」神性・単一性・永遠性を「本質」とする「一神」・「一人の同一なる神」であり、したがって、「三神」・「三の対象」・「三つの神的我」ではなく、父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」の、神性・単一性・永遠性を「存在の本質」とする「一人の同一なる神」、すなわち「三位一体」の神であるから、神の第一の存在の仕方である父と同一でないように、神の第二の存在の仕方である「神の子」・「神の言葉」とも同一ではない(296頁)。したがって、Uコリント3・17の命題「主は霊である」とは、「イエス・キリストと霊との同一視(同一にすること)が問題」ではなくて、その霊は、主が「自由」と「神性」を本質としていることを意味している。また、聖霊は、「イエス・キリストの死と復活の彼方においてのみ、すなわち」、「客観的啓示の終結および完成の前提の下でのみ存在する」。「復活と完成との間」は、「イエス・キリストの父であり、イエス・キリスト自身であり、この父とこの子の霊」としての「聖霊の時代」である。「高挙された」主から、私たちに「下ってくるものが霊」である。この聖霊は、復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である。聖霊のこの「降下」は、「使徒行伝の考えである」(使徒行伝2・2、10・44、11・15)。したがって、ヨハネ20・22の「聖霊を受けよ」は、ただ復活せるキリストの言葉でのみあり得る」。したがってまた、「使徒行伝2章において聖霊降臨」は、「イエスの生涯、死、復活についての完了され、成就せるケリグマに付け加わってくる業として記述されている」(296頁)。
イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間、「われわれのための神の時間」――それは、イエス・キリストの受難と死および「成就された時間」(キリスト復活の40日)であり、「待望の旧約聖書的時間」、「想起の新約聖書的時間」、「この出来事についての証しの時間」である。すなわち、その「成就の待望」と「成就の想起」を持った「成就された時間、啓示の時間」、「啓示についての旧約聖書的および新約聖書的証言の時間」、それは「神ご自身の時間」、「実在の時間」である。「成就された時間」の以前とは、先ず「出来事として起こっている特定の歴史の時間」・「旧約聖書の時間」・「啓示の待望についての証言の時間」のことである。また「想起の時間」は、新約聖書における啓示証言の時間、新約聖書の時間、使徒の時間であり、「既に出来事として起こった啓示から……由来していた歴史」のことであり、「成就された時間」(キリスト復活の40日)と切り離せない仕方で結びついている時間のことである。すなわち、新約聖書における啓示証言の時間、新約聖書の時間、使徒の時間の後に続く時間は、「成就の時間」(キリスト復活の40日)に属した「新約聖書の信仰」におけ「想起の時間」・「聖霊降臨日のあとの時代」・時間である。したがって、「キリストの死」とともに終わる「まことの過去」は、「成就された時間」(キリスト復活の40日)を待望する形においてある。また、まことの「未来」は、キリストの復活とともに初まり、ただキリストの復活を想起する形においてのみある。言い換えれば、「旧約聖書的な待望の時間」と「新約聖書的な想起の時間」との間の「成就された時間」とは、「イエスがご自分〔の生きていること〕をお示しになった」復活の「あの四〇日(使徒行伝一・三)」のことである。「新約聖書の証人たち」は、このキリスト復活の40日を想起することを通して、「キリストの死」と「キリストの生涯」を想起する時、「光を得」ることができたのである。彼らは「甦えりの証人」である。そして彼らは、「既に来た」イエス・キリストは「またこれから来たり給う方」であることを語る。「新約聖書の信仰」は、「想起の時間」である「聖霊降臨日のあとの時代」である。したがって、この「想起の時間」・聖霊降臨日以降の時間は、「成就された時間」・キリスト復活の40日ではない。しかし、その「想起の時間」は、「甦えられた方」・復活のイエスを想起する「想起の時間」として、必然的に「甦えられた方を待ち望む待望の時間」、終末・救贖・完成を待望する時間であり、そのようにしてそれは、「成就された時間」(キリスト復活の40日)に参与する。ここで、「すべての以前と以後においても」「同一の方であり給う」イエス・キリストにおいて、未来(終末・救贖・完成)を考えること・待望することは過去(復活)を考えること・想起することであり、過去(復活)を考えること・想起することは未来(終末・救贖・完成)を考えること・待望することであると同時に、「成就された時間」の前(過去)にまで遡及して考えることでもあるのである(『教会教義学 神の言葉』)。「新約聖書の見解は、しかしそれにもかかわらず」、時系列的に「聖金曜日と復活日の後になってはじめて、聖霊を受けた人が存在するようになった、というのではないであろう(マタイ16・17、マルコ9・2以下および並行記事)」。「確かに……複雑である」(297頁)。
新約聖書における啓示の出来事の中での聖霊の「三つ」の「意味と働き」は、次の点にある。
1)聖霊は、人間の啓示への「個人的な参与を保証する」。「聖霊の働きの中で」、秘義としての「神の言葉に向かっての然り」、すなわち人間が人間的に所有する人間の啓示「信仰、認識」・「従順が存在する」(299頁)。ここで注意すべきは、聖霊についてのパウロの見解、すなわち「霊は『われわれの中に住み給う』」(ローマ書8・9、11)についてである。このことは、人間の自由事項ではなく、「彼が聖霊を受けるがゆえに、受ける限りにおいて、人は神の宮である」(Tコリント3・16、6・19、Uコリント6・16)、と言うことである。言い換えれば、神自身の「その都度の自由な決断」による聖霊の注ぎを「受ける限りにおいて」・「受けるがゆえに」、と言うことである。したがって、神学者・小泉健のように、聖霊を恣意的に人間の自由事項にしてしまって、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」、と直截的・断定的に聖霊や聖霊の言葉を実体化させることはできないのである。したがってまた、バルトは、『説教の本質と実際』において、「聖霊が(あるいは別の霊であっても)言葉を吹きこむこととか、あるいは一つの構想を持っていることなどあてにしてはならない」・「説教は語ることであるが、……一語一語準備し、書き記しておいたもののこと」である、と述べるのである。パウロにおいて、「霊にあって」とは、「救いの福音を聞き、信じるようにさせる霊」・「知恵と啓示の霊」による「神の啓示への参与」、すなわち聖霊の注ぎによる信仰の出来事における「人間の思惟、行為、語ること」を、「主観的に表示している概念」である。また、「キリストにあって」とは、イエス・キリストにおける啓示の出来事と「全く同じ事柄を、客観的に表示している概念」である(300頁)。
2)「聖霊は、人間精神と同一ではない」・「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」(『カール・バルト著作集10』「教義学要綱」)。聖霊は、人間に対して「教化と指導を与える」のであるが、それは、聖霊が「われわれ自身と同一でない」ということ・「われわれ自身と同一になることはない」ということを意味している。「パウロの人間論の概念として、霊……聖霊は、全面的に部分的に、起源的にあるいは後になってからでも、人間の本質に属するものである、と言っているのではなく、むしろ、霊は、せいぜいのところ」、あくまでも神自身のその都度の自由な決断による聖霊の注ぎにおいて、「聖霊を受けることが現実となり得るところの場所(Tテサロニケ5・23)、からだと霊魂を超えた彼方での場所を表示している」(300頁)。「聖霊は……主であり続ける」。聖霊は、「慰め主として、……『真理の御霊』である(ヨハネ14・17、15・16、16・13)」。聖霊は、「あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう(ヨハネ14・26)」(301頁)。
3)聖霊は、@「キリストについて語ることができるようにする能力付与である」・A「預言者および使徒に力を与える装備」である・B教会を「み言葉の奉仕へと召す」(「召命」する)。このことは、聖霊は、「われわれを自由にする主である」ということ、またその賜物を受け・所有することによって「われわれが神の子供となるところの主である」ということ、を意味している(304頁)。イエスが「聖霊の特別な働きとして約束」したものは、「慰め主」としての霊と「真理の御霊」であるが、聖霊は、聖書の中の「キリスト教原理を、覆いをとって明らかにする」・「キリストについて語ることができる能力」授与(ヨハネ14・26)であり、「上から」の「よき賜物」である。この聖霊の注ぎにより「聖霊を持つ」ということは、「キリストにおいて起こった和解にあずかること」であり、「キリストと共に、死から生命への」方向転換におかれることである。この二つの方向転換において「イエス・キリストにあっての神の啓示の要素としての霊の本質」は、「キリストにある自由」を意味している。この「キリストにある自由」とは、「キリストの奴隷」となることであるが、そのことは、私たち人間が、その存在・その思惟・その実践において、神の側の真実であるイエス・キリストにおける啓示、インマヌエル、すなわち主格的属格としての「イエスの信仰」、啓示の客観的現実性にのみ信頼し固執することを意味している。この聖霊が、教会を「み言葉の奉仕」へと向かわせるのである。このイエス・キリストの啓示の客観的現実性の事柄は、その概念から明らかなように、キリスト者だけの独占事項ではない。したがって、私たちは、「心を頑固にし福音を認めない人間」や「異教徒」に対して、「恵みから語り、恵みについて語るという以外のこと」をなすことはできない。すなわち、私たちがそうした人々に呼びかけることができるのは、@「私がその人をその中に置くことによってではなく」、Aイエス・キリストが(≪神性を本質とするイエス・キリストが≫)すでにその人をその中に(≪神の側の真実である啓示の客観的現実性、すなわちイエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)の中に≫)置いてい給うことによってである」。したがって、私たちは、「キリストにあるものとしての人間のために、努力し得るにすぎない」(『証人としてのキリスト者)』)。このバルトの信仰の<完全な開放性>について、ブッシュは次のように述べている―-「教会は、(中略)信仰の完全な開放性において理解されなければならない。その信仰の開放性においては、『イエス・キリストは≪マルクス主義者≫のためにも死に給うたのだが、また≪資本主義者≫と≪帝国主義者≫と≪ファシスト≫のためにも死に給うた』ということから出発することができる……」(エーバハルト・ブッシュ『バルトの生涯』)。したがって、私たちは、ほんとうは、次のように言わなければならない――寺園喜基は、「イエスの信仰」を目的格的属格として理解しているために、ただ往相的な一方通行の信の上昇過程の場所からのみ、諸民族は「イエスキリストを信ずる信仰へと呼びかけられている」のであるから、諸民族をその希望である「イエス・キリストを信ずる信仰へと呼び出す」ところに、キリスト者とキリスト教会の責務がある、と理解した。このように、目的格的属格理解の場合は、寺園のように、一方通行的な信の上昇過程の場所しか持たないから、常に自分を信の立場において思惟し発言する。だから、橋爪に、正当性のある語り方で「『信仰の立場』を後ろに隠して、どこか押しつけがましく」、「上から目線で教えをたれる」と言われてしまう。だからと言って、佐藤優のような、一般的な受けを狙って、「高等教育を受け、『天にいる神』をもはや素朴に信じることができなくなったわれわれには神学が必須です。われわれは『天にいる神』をほんとうに信じていませんが、ほんとに信じていないことを口にしてはいけないというのが、キリスト教信仰の第一の前提です」、という言い方も根本的な誤謬に普遍性の後光をかぶせた言い方に過ぎないものである。したがって、神学における思想家バルトは、すべてのキリスト者とすべてのキリスト教会を含めて、諸民族は主格的属格としての「イエス・キリストが信ずる信仰による神の義」にのみ信頼するように「呼びかけられている」のであるから、キリスト者やキリスト教会や諸民族は、徹頭徹尾全面的に、天然自然や一切の人間的自然に左右されない、全人間・全世界・全人類の救済・平和の希望であるイエス・キリストにおける啓示の客観的現実性にのみ信頼し固執していいのだ、と宣べ伝えていくところにキリスト者とキリスト教会の責務がある、と語るのである。
また、「聖霊はみ子の霊であり、それ故、子たる身分を授ける霊である」から、私たちは「聖霊を受けることによって」、「イエス・キリストが神の子であるという概念」を根拠として、私たちは「神の子供」・「世つぎ」・「神の家族」であり、「『アバ、父よ』と呼ぶ」(ローマ8・15、ガラテヤ4・5)ことができる。そしてまた、「和解者が神の子であるがゆえに、……和解、啓示」の受領者たちは、受領者と授与者との無限の質的差異において、「神の子供」なのである。これが、「信仰ノ類比」に依拠した、聖霊の働きの内容である――「彼は聖霊を受けることによって、神の子供である。(中略)彼は……子が彼の父に属するように神に属するものであり、子が彼の父を知るように神を知るものであり、父が彼の子のためにそこにいるように、そのもののために神がそこにい給う」。「あなたがたはみな、神の子である(ガラテヤ3・26)、したがって、僕ではない……そうではなく世つぎである(ローマ8・17、ガラテヤ4・7)」。「聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである(エペソ2・19)」。「キリストにおいて起こった和解に彼があずかる参与は成り立っている(中略)そのことが聖霊をもつということである」(309頁)。このことは、イエス・キリストの啓示の出来事と神のその都度の自由な決断による聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰について述べている。そして、「聖霊の働きの本質的なもの」・「直接性」は――@私たちが、「一人の主」なる神をのみ、「主として持つ自由」を私たちに与えるがゆえにそのように告白することを要求する。なぜならば、「聖霊の働きは……ひとりの主、……神を、主としてもつ自由から」「成り立っている」からである。したがって、、「真に自由たるものは、……神の僕として(Tペテロ2・16)自由である」。A私たち人間の「中に」も・「中から」も、「純粋なもの、聖いものは何も出て来」ないと告白することを要求する。B私たち人間の「理性や力ではイエス・キリストを主と信じることもできず、知ることもできない」と告白することを要求する、C私たち人間の究極的限界性・終末論的限界を告白することを要求する、という点にある(305−307頁)。新約聖書の教会は、神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストを、「主イエス」として、「神ご自身として信じる信仰を告白した」。同じように、聖霊の「神性の定義」である「父ト子ヨリ出ズル御霊」の神の第三の存在の仕方の聖霊は、「聖書証言に従えば、(中略)神ご自身であり、全き仕方で神である」(311頁)。なぜならば、「聖霊が被造物だとしたら、その時それはわれわれに対しいかなる神との交わりをも仲介し得ない」からである。啓示認識・啓示信仰は、徹頭徹尾全面的に、神のその都度の自由な決断による聖霊の注ぎによるものであれば、神性否定のキリスト論の場合、神性否定の聖霊論とならざるを得ない。なぜならば、「新約聖書のキリストが、上からのあるいは下からの半神であるなら、イエスへの信仰(≪イエス・キリストの啓示の出来事についての啓示認識・啓示信仰≫)は、(≪聖霊の注ぎによる信仰の出来事を必要とせず、≫)一つの人間的な可能性」となるからである(312頁)。その場合、「聖霊の代わりに、人間の区別する能力、判断能力が登場」してくる。また、その場合、人間の啓示認識も、聖霊の注ぎを必要とせず、したがってその啓示認識に依拠した「信仰ノ類比」を通した人間の自己認識も、「終始人間ノ理性ト感覚」に依存することになる(313頁)。そしてまたその場合、神の自由の概念も、ヘーゲル哲学におけるそれと同一となる。したがって、その場合、「聖書の主題であり哲学の要旨である」(『ローマ書』)神と人間との無限の質的差異は破棄される。したがってまた、その場合、フォイエルバッハの宗教批判の対象そのものである、あるいは、ハイデッガーの揶揄・批判した「存在者レベルの神への信仰」そのものである、神の人間化が、人間の神化が、キリスト教の宗教化が、神学の人間学化が、惹き起こされる。近代以降は特に、神学は人間学の後追い知識でしかないから、人間学に対する優位性は全くあり得ないのである。にもかかわらず、ルドルフ・ボーレンや佐藤司郎や小泉健は、神学者として恥じ入ることなく平然と、「聖霊論的出発」は「神学の優位性を否定することなく」「人間学的局面にもその位置を正しく与える」とか、聖霊論的説教論は「神学の優位性を確保しつつ、人間学を正当に評価する位置を与え得るもの」であると述べているのである。ボーレンや佐藤や小泉の聖霊論的説教論の根本的な誤謬と錯誤性は、状況論なき思想なきその停滞した中世的思考にあるのである。バルトは、次のように述べた――聖書また教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する。したがって、この啓示が、教会の宣教の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠である。この三位一体論は、神論の決定的に重要な構成要素であり、「啓示の認識原理」である。したがって、「教会の宣教の批判と訂正」は、常にこの三位一体論に即して行わなければならないのである。なぜなら、この三位一体論を啓示認識の原理にしない場合、すぐに神性否定のキリスト論や半神・半人キリスト論や三神論や神と人間・神学と人間学との混淆論・共働論という自然神学的なキリスト論・聖霊論・神論に埋没していくほかないからである。
もう少し例示しよう――蘇光正が、『神学者カール・バルト』の「訳者あとがき」で、バルトは『教会教義学』の「第四巻(殊に第三部)以来……截然と、排他的にイエス・キリスト自身の霊的臨在またはその力をさし、したがって……『父の霊』は考えられていない」と書いた時、また佐藤優が父なる神の否定を前提として宗教論を書いた時、根本的な誤謬に普遍性の後光をかぶせて語られたその言説に対して、神学者や牧師や著述家は、拝聴したまま済ませてしまって、どうして、真っ先に、すぐに、根本的な批判を加えなかったのだろうか? 1948年バルトは次のように書いた―「六〇〇万人のユダヤ人が殺され……ありとあらゆる恐怖と困窮が人間を襲い、しかもすべてはちょうど風が……花の上を吹くように来て、また去って行った。……草や花はしばらく身を曲げる。しかし風が静まれば、また身を起こす。……ある近代劇」――神性を本質とするイエス・キリストの啓示の実在そのものを第一次化しないで、またその不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性としてある啓示の「概念の実在」に連帯しないで、人間学的な哲学原理や認識論や世界観を第一次化し、それに依拠して神と人間・神学と人間学との混淆論・共働論を目指した、自然神学的な神学者・牧師・著述家・教会の宣教・キリスト教が、「『私たちはまた逃げおおせた』という言葉でこれを言い直しているように」(エーバハルト・ブッシュ『バルト神学入門』)。まだあるのだ。第二次世界大戦後において、「私は教会のなかに、破滅に急ぎつつあった一九三三年当時と同じ構造、党派、支配的傾向を見出した」。「公然たる信条主義や教権主義、およびいろいろ賑やかな姿で現われている典礼主義への興味によってよびおこされた関心」を見出した。「私は、前よりももっと明瞭に人間―-―キリスト者もまた、そしてキリスト者こそ!――がもともと頑なであり、容易に悔改めに導かれえないということを認識したのである」(カール・バルト『バルト自伝』)。したがって、バルトは、彼が批判の対象とした者たちのその考え方の様式・感じ方の様式・行動の様式、また党派的・学派的思想、そしてまた閉じられた教会・教団共同性に対して、次のように述べるのである――@「あらゆるキリスト者の生が、意識するにせよ、しないにせよ、やはりひとつの証しである」限り、「教会とその信仰を基礎づけている神の言葉から、提起される」「真理問題はあらゆるキリスト者に向けられている。この証しにおいてこの真理問題に対する責任を負う限り、いかなるキリスト者も彼自身がまた、神学者としても召されている」(『カール・バルト著作集10』「福音主義神学入門」)、A「教授でないものも、牧師でないものも」、著述家でないものも、「彼らの教授や牧師」や著述家の「神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任」を負っている(カール・バルト『啓示・教会・神学』)、B「教義学は、決して信仰と、その認識のより高い段階を意味しない」。なぜなら、「最も単純な福音の宣教も、それが神のみ心である時には、最も制限されない意味で、真理の宣べ伝えであることができるし、最も単純な聞き手に対しても、この真理を完全な効力をもって、伝えてゆくことができる」。「教義学者」や牧師や著述家は、「信仰者としても、知識を持つ者としても、神がここでなし給うことに関しては、教会の誰か一人の会員よりも、よりよい状況にあるわけではない」。「教義学者」とは「ただ単に教義学を専攻する大学教員や著述家」や牧師だけのことではなく、「広く一般に、今日および昨日の教義学的問いによって突き当てられ動かされる者たち」のことである(カール・バルト『教会教義学 神の言葉』)、Cイエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく人間の啓示認識、それに依拠した信仰の類比・関係の類比・啓示の類比を通した人間の自己認識、また聖書証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白と教義である啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)に連帯したそれであっても、それが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神」自身の決定事項なのであって、私たち人間の決定事項ではない。したがって、教義学の在り方は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基」(『教会教義学 神の言葉』)づいて成立している。そして、神と人間との無限の質的差異・神の隠蔽性・神の言葉の秘義性・神の不把握性・神の聖霊と人間の理性との無限の質的差異・終末論的限界の諸概念だけでなく、このCの認識方法と概念構成それ自体も、正当性のあるフォイエルバッハの宗教批判やハイデッガーの揶揄・批判した「存在者レベルでの神への信仰」を単純にしかし根本的に包括し止揚することができるそれなのである。
さて、「聖霊を受けても人間は依然として人間であり、罪人は依然として罪びとであり続ける。また聖霊の注ぎの中でも神は依然として神であり続ける」。「聖霊は、人間精神と同一ではない」。聖霊によって更新された理性も、聖霊と同一ではない。「聖霊なる神は、われわれを自由にする救済主である」とは、神についての「神認識と神賛美の命題」であり、「この命題によれば、われわれ自身は信仰にあって救われたもの、自由とされたもの、神の子供」である(315頁)。「われわれの救済は、ただ神の側からして理解することができるだけである」・「われわれの救済を、神から置かれ、しかも成就され執行されたとして理解すること、それが信仰である」。このことは、『福音と律法』に即して言えば、@あくまでも神の側からする、主格的属格としての「イエスの信仰」=啓示の客観的現実性=イエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)――この啓示の出来事と、聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰の授与、を意味している。A神と人間との混淆論・「共働」論・「神人協力説」に対する根本的な批判を意味している。B一切の近代主義・一切の自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教を包括し止揚して、そこから超出していくことを意味している(316頁)。救済・完成は、私たちにとって、「将来のものとして、……神の側からして……やって来るものとしてのみ理解できる」・「われわれが救済を信仰の中で持つということは、われわれは救済を約束として持つということである」・私たちは、「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは」、「死の谷のさ中」にあることを知っている。しかし、私たちは、その「人間の人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは」、「われわれの未来の存在を信じる。……永遠の生命を信じる」。この「未来性の中で、われわれは永遠の生を……所有する」。この「所有の確実性は……信仰の確実性である」。この「信仰の確実性とは、希望の確実性ということである」(317頁)。これら終末論的事柄における終末的とは、「非本来的、非実在的ということ」を意味しない。すなわち、それは、神的な事柄・「神的成就と実行の永遠的実在」と人間的な事柄・私たち人間の「経験と思惟にとってまだきていないところのこと」との関係の構造においてあるということである。啓示の弁証法においてある、ということである。「新約聖書は、人間が召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時、終末論的に語る」。なぜならば、「創造主が先にあり、それから被造物があるように」、「永遠性が先であり、それから時間があ」り、したがって「未来が先であり、それから現在がある」からである、「人間は永遠の生命を生きるのではない。永遠の生命は神の、聖霊の賓辞であり、どこまでも神の、聖霊の賓辞であり続ける」からである(319・320頁)。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」にとっての<いまだ>であり、神の側の真実である啓示の客観的現実性、「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである(『教会教義学 神の言葉』)。私たち人間が現存する場所は、終末論的なすでにといまだにおける、すなわちイエス・キリストの復活と再臨の中間時、和解と救贖・完成の中間時における場所である。したがって、中間時における人間とは、終末論的限界と啓示の弁証法において、すでに「自由の身になったという吉報を受け取った」けれども、いまだ「牢獄から外に出てしまっていない」状態にある人間のことである(ゴッドシー編『バルトとの対話』)。このことを『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、こうである――啓示とは、「子あるいは言葉の業」すなわち「神の現臨とご自分を知らせること」が「人間の闇の中で、人間の闇にも拘わらず、……出来事として起こるという事実」のことである。この啓示は、「和解」という言葉・概念と一致する。それは、「われわれによって破壊された……神と人間の交わりの回復」を意味する。したがって、「啓示の事実の中で神の敵はすでに神の友」として、「啓示そのものが和解」である。しかし、聖霊の業に関わる救贖・完成概念は終末論的用語であるから、和解の概念と一致しない。救贖・完成は、新約聖書においては、啓示あるいは和解から見て、未だ来ていない現実性である。「復活と完成との間」は、「イエス・キリストの父であり、イエス・キリスト自身であり、この父とこの子の霊」としての「聖霊の時代」である。言わば、このことは、私たち人間にとって、終末論的限界を意味している。このことを文学の言葉で表現すれば、「ただ万人を憐み、万人万物を解する神様ばかりが、われわれを憐んで下さる」、「神さまは万人を裁いて、万人を赦され」、「最後の日にやって来て」、「……われわれに、御手を伸ばされる。その時こそ何もかも合点が行く!……誰も彼も合点が行く」。「主よ、汝の王国の来たらんことを」という語り方になる(『罪と罰』――マルメラードフの告白)。「新約聖書の意味での神の子供こそ、……『わたしは自分の理性や力(「感覚、理知、理解力」)ではイエス・キリストを主と信じることもできず、近づくこともできないことを信じます』」、と告白する(321・322頁)。この語り方は、聖書の歴史認識の方法についても踏襲されている――@「中立的な観察者」として「聖書の中に証しされている啓示の『史実的な(historisch)』確かさを問う問い」は、「聖書にとっては全く縁遠いもの」であり、「聖書の証言の対象にとって」異質なものである。しかし、その聖書的証言に対して、それを「聞くもの、見る者、信じる者」である「非中立的な観察者」にとっては、啓示・聖書・教会の宣教の中に「同時に啓示の秘義があったし、あり続けた」。したがって、その非中立的な観察者だけが、聖書の中の歴史について、「史実的」には「全く何も確かめられない」ということ知らされたし、「啓示の出来事にとって重要でないものだけ」・「啓示とは別の何かだけ」しか確認できないということを知らされた。A歴史主義は、人間精神が生み出したものを問題とする限り、「啓示を問おうとしない」で人間精神の自己理解を第一義として「聖書の中でも神話を問う」ことをする。しかし、「啓示の証言としての聖書の理解」と、「神話の証言としての聖書の理解」は、相互排除の関係にある。したがって、聖書記事を歴史物語とみなし、聖書記事の「一般的な歴史性(Geschitlichkeit)を問題化すること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃しない」。しかし、聖書記事を「神話として受けとること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃する」。なぜなら、啓示は、人間学的な「歴史の枠に、はめ込まれてしまうような歴史的出来事ではない」からである。したがって、聖書の歴史認識の方法は、その歴史を、「一般的な歴史性」を含んではいるが史実史ではない歴史物語・古譚として受けとる点にある。神学における思想の言葉でバルトは次のように述べ、また人間学的領域において吉本隆明は次のように述べている。
(中略)確かに受肉は中心的にして重要なものではあるが……新約聖書の本来的内容であるというふうには言ってはならないのである。(中略)それはおよそすべての他の宗教世界の神話や思弁の中にも見出されるものである。(中略)人は、聖書が語っている受肉を、ただ聖書からのみ、換言すればイエス・キリストの名からのみ……理解することができる。……神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない(≪人類史のアジア的段階の日本において、非農耕民は「尊ばれると同時に蔑まれる」ところの神人と呼ばれていた≫)。新約聖書の内容とは、ただイエス・キリストの名だけであり、そのイエス・キリストの名がたしかにまた、そしてとりわけ、彼の神人性の真理をその名に含んでいるのである。ただまったくこの名だけが、啓示の客観的現実を言いあらわしている。(カール・バルト『教会教義学 神の言葉』)
神話にはいろいろな解釈の仕方があります。比較神話学のように、他の周辺地域の神話との共通点や相違点をくらべていく考え方もありますし、神話なるものはすべて古代における祭式祭儀というものの物語化であるという考え方もあります。また神話のこの部分は歴史的〈事実〉であり、この部分はでっち上げであるというより分け方というやり方もあります。そのどの方法をとっている場合でも、この説がいいということは、いまのところ残念ながら断定できません。プロ野球で三割の打率があれば相当の打者だということになるのと同じように、神話乃至古代史の研究において、打率三割ならばまったく優秀な研究者であるとわたしはおもっています。じぶんでそれ以上の打率があるとおもっているやつはバカだとかんがえたほうがいいとおもいます。(吉本隆明『敗北の構造』「南島論」)
(中略)ぼくは、マタイ伝の象徴している思想内容にくらべたら、史実性はあまり問題にならない……。(中略)日本でいえば荒井献さんでもいいし、田川健三さんでもいいんですが、歴史的イエスをどこまで限定できるかとか、できないとか、そういう立証のしかたや歴史観があるわけでしょう。ぼくはいまでもそれほどの重要性があるとはおもってないんです。それからそれがほんとうに、そういうふうに実証できているともおもえないところがあります。(吉本隆明『信の構造2―全キリスト教論集成』春秋社)
神に敵対し神に服従しない私たち人間は、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力」を一切持ってはいない。神の言葉は、その都度の神自身の自由な決断において、またその隠蔽と顕現において、「われわれのところに来」る。この神の隠蔽性・神の言葉の秘義性とは、私たち人間のその啓示認識が、常に終末論的限界(自己相対化)の前に立たされる・立たされているということである。したがって、神の言葉が「人間によって信じられる……出来事」・信仰の出来事は、徹頭徹尾全面的に、人間「自身の業」ではなく、「神の言葉自身」、啓示の出来事と「聖霊の注出」においてのみ可能となるそれである。したがってまた、その「聖霊の注ぎ」は、まさに、神の側からの神の恵みなのである(323頁)。