本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

神学における思想としてのカール・バルトの三位一体論 子なる神(その2 永遠なる子)

カール・バルト『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示(上) 三位一体論』吉永正義訳(新教出版社)等々に基づく

 

神学における思想としてのカール・バルトの三位一体論 子なる神 224−288頁(その2 永遠なる子)

 

 教会の三位一体教義は、聖書の証言から、「神の子は、誰であるか」という問いに対する答えを、「父を啓示するものとして、そしてわれわれを父と和解させるものとして、イエス・キリストは神の子である」、「なぜならば、イエス・キリストは、現に神の子あるいは神の言葉であることによって、ご自分をわれわれのところに来た神の子として、あるいはわれわれに向かって語られた神の言葉として啓示するからである」と洞察し次のように解釈した――「子と霊は父とともにひとつの本質である。神的本質のこの単一性の中で子は父から、霊は父と子からであり、他方、父は自分自身以外の何ものからでもない」(186頁)という神自身においてのみ「実在であり真理」である全き自由における神自身の自己啓示、すなわち神自身の自己認識・・自己理解・自己規定として、イエス・キリストは、「啓示の出来事においてはじめて神の子あるいは神の言葉となるのではない」。すなわち、「イエス・キリストはこの啓示の出来事から離れても、また自分自身の中で、すでに初めからそうであるものとして、自分自身を啓示するがゆえに」、「永遠の」「神的真理と神的実在を持っている」、「神は子なる神である。それはちょうど神が父なる神である」ように・また「イエス・キリスト、神の子は、神自身である。それはちょうど彼の父が神自身である」ように(224・225頁)。この洞察と解釈は、一方で、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」単なる学問としての神学ではなく、一切の近代主義・一切の自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教に対する根本的な批判を構成しているのである。言い換えれば、神学における思想を構成しているのである。したがって、バルトは、繰り返し、次のように述べるのである――近代主義的プロテスタント主義神学群が、「キリストの永遠のまことの神性の告白」・「先ず第一に自分自身(≪神自身≫)の中で神の子あるいは神の言葉である」という告白を信用しない場合、それは、その神学の原理・その神学の認識方法と概念構成それ自体が、人間論的・人間学的身体性に依拠した「視覚的錯覚」・感覚と知識を内容とする人間の経験的普遍・存在の類比の思考法に依拠しているからである、すなわち非神学的であり形而上学的であるからである、と(227頁)。その場合、バルトが述べているように、和解に関して言えば、「赦す神」が人間に内在しなければならないことになり、その認識自体が自然神学的な思弁・空論でしかないものである。そのような認識の在り方においては、その最初からイエス・キリストは、「下からの半神」・「超人」・人間の「最深の本質」・「最高の理想」・キリスト教的実存の範型等の単なる「空虚な概念」でしかなくなってしまう。すなわち、それらの概念は、その最初からフォイエルバッハの宗教批判の対象そのものであり、ハイデッガーの揶揄・批判した「安っぽい無神論」よりさらに安っぽい「存在者レベルでの神への信仰」に過ぎないものでしかなくなってしまう。その典型が、ヘーゲル主義者で宗教哲学者のエーバーハルト・ユンゲルであり、神性否定のキリスト論においてイエスを「ただの人」とした八木誠一、等々である。
 「最も単純な形」において「神の啓示の実在を問う」問いに対する「新約聖書の答え」、すなわち聖書の証言・証しとしての啓示の「概念の実在」は、「永遠なる神性」を存在の本質とする「まことの神」であり「まことの人間」である「イエス・キリストの名」(神の言葉・神の子・神の存在の仕方)だけである。三位一体の根本命題に即して理解すれば、イエス・キリストのその「存在」は神性を「本質」としているから、「啓示の出来事においてはじめて神の子」「神の言葉」となるのではなく、「父を啓示するもの」、そして「われわれを父と和解させるもの」として、「イエス・キリストは神の子」・神の言葉・神の「存在の仕方」なのである。そのキリストの神性は、「啓示および和解におけるキリストの行為の中で認識」することができる。すなわち、その啓示と和解(「存在の仕方」)が「キリストの神性」の根拠ではなくて、「キリストの神性」・キリストの「存在の本質」である神性性が「啓示と和解(≪「存在の仕方」≫)を生じさせる」のである(226・227頁)。ここに一切合財があるのであって、「赦す神」は、たとえその人が「まことの人間」であっても人間に内在することは決してないのである。神と人間との無限の質的差異は、徹頭徹尾全面的に、「聖書の主題であり、哲学の要旨である」(『ローマ書』)。この「キリストの神性についての命題」は、使徒たちの理解したそれであるから、「もし使徒たちを本当に理解したいのであれば」、その命題を「基礎命題として理解しなければならない」・「古代教会の教義が言っていることを、そのまま言うことができるし、言わなければならない」(226頁)。「キリストの神性」の認識またイエス・キリストの出来事における神われら罪人と共にという啓示認識はその承認・受認によってはじまる。
 これらの事柄は、バルトにとって、教会の思惟の前提である。イエス・キリストの啓示の出来事と神自身のその都度の自由な決断に基づく聖霊の注ぎによる信仰の出来事から授与された啓示認識、啓示の真理として、徹頭徹尾、教会の思惟の前提である。なぜならば、神の言葉は、三位一体論の唯一の比論としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」、すなわち人間に向かって語られる神の自己啓示であるイエス・キリストの啓示の実在そのものと、また「聖書」の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)においてあるから、私たちは、先ず以て不可避なこの啓示の「概念の実在」に連帯しなければならないからである。「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」である(239・240頁の内容もこのことである)。したがって、私たちは、それとの不可避的な連帯において、また一方で、その信仰・神学・教会の宣教・キリスト教に、個性や時代性を刻んでいくのである。「どんな省察も」、ルドルフ・ブルトマンや滝沢克己等々のように、先ず以て人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍や人間学的な哲学原理・認識論・世界観を第一次化させて、「この前提を基礎づけようとしてはならない」・「この前提に疑いをはさんではならない」。「すべての省察は、この前提から出発し、この前提に戻っていくことしかできない」。なぜならば、「この洞察からして、キリストの神性についての教会の教義は生じた」からである(225頁)。聖書また教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する。したがって、この啓示が、教会の宣教の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠である。この三位一体論は、神論の決定的に重要な構成要素であり、「啓示の認識原理」である。したがって、「教会の宣教の批判と訂正」は、常にこの三位一体論に即して行わなければならないのである。なぜなら、この三位一体論を啓示認識の原理にしない場合、すぐに神性否定のキリスト論や半神・半人キリスト論や三神論や神と人間・神学と人間学との混淆論・共働論という自然神学的なキリスト論・聖霊論・神論に埋没していく以外にないからである。したがって、佐藤優のように、「われわれは『天にいる神』をほんとうに信じていませんが、ほんとに信じていないことを口にしてはいけないというのが、キリスト教信仰の第一の前提です」と、そのことを前提にしてしまった場合、その信仰・その神学・その教会の宣教・そのキリスト教は、佐藤の駄弁的な独り言でしかなくなってしまうのである。その時、佐藤のそれは、まさしくフォイエルバッハの批判したところの対象化された自己意識の類的本質としての宗教そのもの・佐藤教でしかなくなってしまう。また、同様に、『神学者カール・バルト』の訳者である蘇は、その「訳者あとがき」で、時系列的判断に依拠して、「バルトが『聖霊』を口にする場合、それは『教会教義学』の第四巻(殊に第三部)以来ますます載然と、排他的にイエス・キリスト自身の霊的臨在またはその力をさし、……『父の霊』は考えられていない」と書いた場合、バルト読みのバルト知らずとして、根本的な誤謬に普遍性の後光をかぶせて語ることになるだけなのである。バルトは、世界的な、一流の神学者であるだけでなく、一流の神学における思想家でもあるのである。このことが、頑なな神学者や牧師や著述家には理解できないのである。これでは、一キリスト者の私から見ても、良質な神学生や牧師や神学者は育ちにくいような気がする。もちろん、私は思う、極少数ではあっても、どこかに、良質な神学生や牧師や神学者はいるに違いない。

 

  人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ類の機能をひとつもはたすことはできない、しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる。(ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ『キリスト教の本質 上』船山信一訳、岩波書店)
  もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である。 (前掲書)
  神とはまさに、人間の(≪自由な自己意識の無限性の≫)想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない。(『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演 下」船山信一訳、福村出版)

 

 もう一つ、根本的な誤謬の事例を述べてみる。それは、トラウプに典型的である。バルトは、バルトの啓示認識の可能性の問いを誤解したままバルトを批判したトラウプの啓示認識の方法に対して、逆に次のように根本的な批判を加えている――@啓示認識の可能性は、啓示という「認識対象の特性」から、この「対象を認識する認識概念」が、「ほかの諸対象を認識する場合」の「一般的な認識概念に照らして……最後的に決められてしまってはならず」、あくまでもその認識対象から規定されるものでなければならない。すなわち、啓示認識は、神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてのみ可能である。Aまた、そうして得られた人間が人間的に所有する人間の啓示認識・概念・教義・言葉性であっても、それは、啓示の実在そのものではない。すなわち、啓示は、神の言葉の秘義性・ 神の隠蔽性・神の不把握性・終末論的限界において、人間の「言葉性に縛」られることはないのであり、逆に人間の「その言葉性の方が神に縛られている」のである。したがって、私たち人間は、「神の言葉」・「神の恵みの実在」・啓示の実在そのものの「認識を問うことはできない」。Bにもかかわらず、トラウプは、啓示の「概念の実在」において「どのように人間は神の言葉を認識することができるのか」というバルトの問いを、自然神学的な常道に従って誤解し、直接的無媒介的に「どのようにわたしは、神の言葉」を「神の言葉として、また実在として、肯定することにまでくることができるのか」という問いに変じてしまったのである。すなわち、バルトは、あくまでも聖書証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(類と歴史性)との不可避的な連帯において啓示の認識可能性を論じているのにもかかわらず、トラウプは啓示の実在そのものの認識可能性を論じているのである。言い換えれば、トラウプは、人間の自由な自己意識による直接的無媒介的な啓示認識・概念・教義と啓示の実在そのものとの一致の可能性について論じているのであり、啓示の実在を、人間の啓示認識・概念・教義の此岸・内に求めようとしているのである。したがってこの場合、トラウプにおける神や啓示や信仰や神学の位相は、フォイエルバッハの宗教批判の対象そのものであり、ハイデッガーの揶揄・批判した「存在者レベルでの神への信仰」そのものなのである。このことが、神学における思想を持たない自然神学の系譜に属するトラウプやそれに類した多くの神学者や牧師や著述家たちには理解できないのである。
 さて、バルトは、カルヴァンのキリストの神性の認識について、次のように述べている――カルヴァンの「キリストの神性のまことの認識は、すべての信頼とすべての希望をキリストの上におき、キリストの名を呼び求めていることから成り立っている」という点にその前提がある、と。しかし、ルターの場合は、キリストの神性の認識について問題があった。すなわち、それは、ルターにとって「神ヲ認識スル唯一カツ単独ナ方法」は、「神ニツイテ正シイ仕方デ認識シタリ、考察シタイト望ム者ハ誰デモ、キリストノ人間性ヲ別ニシテ、ホカノスベテノコトハ徹底シテ後ニスベキデアル」から、「神ヲ認識シタイト思ウ者ハ、地ニ印サレタスカラヲ見ツメルベキデアル。人間の全理性ハココニ似ツカワシイ」、という語りにあった。ルターは、キリストの神性の認識を、確かに恣意的思弁においてではなく、「聖書の中に証しされているキリストの人間的現実〔実在〕……、彼のよきみ業」・「神の啓示の認識の道……キリストの恵みの認識の道」を通して「認識されることを欲している」。しかし、ルターのその認識の道は、「まず第一に下から上へ、キリストノ人間性カラ神ノ認識へと」と向かうものである。したがって、ルターの場合は、バルトの『神の人間性』におけるような、先ず以て「神の神性において、……」ではないのである。すなわち、ルターの場合、先ず以て、イエス・キリストは、単一性・神性・永遠性を本質(神の「存在の本質」)とする、まことの神にしてまことの人(神の「存在の仕方」)ではないのである。したがってまた、ルターの場合は、「キリストガソノヨウニ卑賤ナ姿ニオイテ認識サレルノト同様ニ、キリストガ神デアルコトニモ到達シ、明ラカニサレルノデアル。ソシテソノ時、神が惜シミナク、憐レミ深ク見下ロシ給ウテイルコトガ認識サレルノデアル。したがって、まさしく神の憐れみの認識こそ、結局、再び、道が上から下に通じていること」によっている。「コノ唯一ノ主、王、創造者ハ御子ヲ通シテ、コノヨウナ仕方デ御自身ヲアラワサレタ」、と語るのである。このキリストの神性の認識の方法は、律法から福音へ、というルターの「福音と律法」理解にも現れている――律法と福音を対立させ、まずは「罪人を怖れさせ、その罪を暴露して、痛悔し且つ回心させるためには、誡めを説教すべきである」。しかしそれだけではいけないので、その次に「他の言、すなわち恩恵の呼びかけを説教して、信仰を教えるべき」である。「かようなときにはじめて他の言、すなわち神からの約束の告知が現われて、そして語る」。「さらばキリストを信じなさい」。「あなたが信じるならこれを得られるし、信じないなら得られない」(ルター『キリスト者の自由』岩波書店)。バルトは、ルターの信仰論と受肉説の根本的な問題点について、次のように述べている。

 

  (≪神と人間との無限の質的差異を揚棄し、神と人間との混淆論・共働論において、人間の自己意識によって対象化された神・信仰・神学は≫)、……独立的に現われ活動する神的実体として(中略)(≪それには≫)あらゆることが可能であり、(中略)(≪またそれは≫)、人を義とする……、……愛と善き業を生み出す…、罪や死にも打ち勝ち、人を救う。(≪その≫)信仰と神とは『一団』をなし、信仰は(心の信頼として!)神と偽神の両方を作り、ときには(ただ「われわれ自身の内部において」だけであるが)「神性の創造者」と呼ばれるということもあり得る。さらに重要なのは、……受肉説とそれに関連した事柄である。フォイエルバッハは、このキリスト教の教説を「神は人となり、人は神となる」という定式で簡明に表現し(《たが、それは》)……とくにルター的なキリスト論および聖餐論を前提とする場合には、まったく不可能とか無意味とかいうことはできない。……、神性を天上に求めず地上に求め人間の中に―人間イエスの中に求めることを教え、またかれにとっては聖餐式のパンは高く挙げられたイエスの栄光化されたからだであらねばならなかった(中略)。(中略)これらすべてのことは、……、……天と地・神と人間を?倒する可能性を意味しており、終末論的限界を忘れる可能性を意味している。(中略)ルターと初期ルター派の人々が、天を襲うようなキリスト論を説いて、その後継者たちを、たえず出現する思弁的・人間学的帰結に対しての一種の危険状態・無防備状態の中に置き去りにしたことは疑いない。神に対する関係があらゆる点で、原理的に?倒不可能な関係だということ―そのことについて、人々は、フォイエルバッハを有効に防御するためには確信を持っていなければならない……。(『カール・バルト著作集4』「ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ」)
  人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である。  (中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である。
  (中略)神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、「神学の秘密は人間学以外の何物でもない!」……。(引用はすべて、L・フォイエルバッハ『キリスト教の本質 上・下』)

 

 ルターの場合、「義認」が問題であった、「啓示の神学」が問題であった。ここに、ルターの神学の個性と時代性があった。したがって、啓示の「概念の実在」(不可避なキリスト教に固有な類・歴史性)に連帯はしたが、キリストの神性の認識への連帯については、「燃えるような強烈な」意志を示さなかった。したがって、ルターは、近代主義的プロテスタント主義信仰・神学・教会の宣教・キリスト教の萌芽となった(228−234頁)。ほんとうは、キリストの神性を告白する教会の教義は、一切の近代主義・一切の自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教(非神学的思弁、形而上学)と抗することができる信仰・神学における思想的武器なのである。
1)「キリストは先ず第一に自分自身の中で神である」とは、キリストは、神自身においてのみ「実在であり真理」である「自由・主権」において、その「存在の本質」が、神の「存在の本質」としての単一性・神性・永遠性にある、ということである。このように理解しないならば、「赦す神を持つということが、もともと人間の性質の中に含まれること」になり、その考え方は決して教会の教義ではないし、それは単なる非神学的な思弁であり、単なる形而上学でしかないものである。
2)神の子は、「先ず第一に自分自身の中で神の子である」とは、『神の人間性』における「神の神性において、」、すなわち単一性・神性・永遠性としての神の「存在の本質」において、「また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性も」、すなわちまことの神にしてまことの人としての「存在の仕方」において、イエス・キリストは、「われわれに出会う」、ということである。ここにのみ、神の隠蔽性・神の不把握性・終末論的限界の下での、イエス・キリストの啓示の出来事と神自身のその都度の自由な決断に基づく聖霊の注ぎによる信仰の出来事から授与される啓示認識・啓示信仰がある。もしそうでないならば、それは決して教会の教義ではないし、それは、単なる非神学的な思弁であり、単なる形而上学でしかないものである。
3)上記の1)と2)の啓示認識を「標準、規準」としないならば、「エビオン主義的キリスト論」か「仮現論的キリスト論」に埋没していくほかはない。A・リッチュルのキリスト論は、「疑いもなく『仮現論的な』型に属している」。なぜならば、リッチュルは、「キリストを通しての神の啓示の完全さについての正しい評価」は、「キリストの神性の賓辞の中で保証」される、とするからである(237・238頁)。

 

ニカイア・コンスタンティノポリス信条
 これは、啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)への不可避な連帯における全教会の客観的な信仰告白の文書であり、キリストの神性についての教義の最も重要な文書である。この信条は、325年のニカイア会議の決定的な三位一体神学の結論を採用しており、「565年以来、東方における、1014年以来は、西方における、礼拝式文の確定的な構成要素となった」ものである(241頁)。
1)「われわれは唯一の主イエス・キリストを信ず」――唯一の主とは、「概念の最後的・究極的意味」において、主・主権であることである。すなわち、その権威と力において、その全き自由において、支配することである。全人間・全世界・全人類、一切の天然自然や、一切の人間的自然に、徹頭徹尾、左右されることはないということである。神自身においてのみ「実在であり真理」である自由・主権である、ということである。「イエス・キリストは主なり」という信仰命題は、イエス・キリストの啓示の出来事と神の自由な決断に基づく聖霊の注ぎによる信仰の出来事から授与されるそれである――「イエス・キリストがまず、すべてのわれわれの把握に先行しつつ、自分自身において、そのようなものとして、われわれに把握すべくご自身を与える」(243頁)。この「唯一の」主という条項は、イエス・キリストを、単一性・神性・永遠性をその「存在の本質」とする「唯一の」神である「父の場所へと移す」。すなわち、イエス・キリストは、「単にこの本質の……全権使節、代官」ではない。イエス・キリストは「主である」という啓示認識・啓示信仰は、「それの承認あるいは受認とともに始まる」(244頁)。
2)「われわれは神のひとり子としてのイエス・キリストを信じる」。この「ひとり子」の条項は、イエス・キリストにおけるまことの「啓示あるいは和解」は「ただ一つであること」、すなわち「その排他独占性、独一無比性」を意味している。一方で、この「ひとり子」は、1)の場合と同じように、「本来生まれつき」・「すべての啓示以前に、すべての信仰以前に」、「神である方である」。すなわち、「神の内三位一定的父」が、子として「自分を自分から区別」したところの神の子である。したがって、この「ひとり子」は、単一性・神性・永遠性をその「存在の本質」とする「ひとり子」である(245・246頁)。
3)「われわれは、よろず世のさきに父より生まれたる(もの)としてのイエス・キリストを信ず」。この条項は、イエス・キリストは、「神を表している」のではなく、「神自身である」、ということの言表である。「啓示者および和解者」としてのイエス・キリスト、すなわち「われわれのために存在される神の子」は、「先在される方である」。しかも、このイエス・キリスト、すなわち「先在される神の子」だけが、「われわれのために存在される方である」。このイエス・キリストの出来事は、一方で、人間の歴史・「時間の中での、造られた世界の内部における、出来事」であるが、他方で、その彼岸・外にある、神自身においてのみ実在である「始メナク、終リナク、常ニ存在スル」超時間・永遠における出来事である。イエス・キリストは、「永遠からこの方、永遠なる父の永遠なる子として、神の子である」。啓示の時間と人間の時間(歴史)は神的な『よろず世のさきに』の中に含み入れられている」ことは、神の「恵みであり、秘義でり」、啓示の出来事と信仰の出来事によって授与される認識基礎である(247−250頁)。イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間、「われわれのための神の時間」――それは、イエス・キリストの受難と死および「成就された時間」(キリスト復活の40日)であり、「待望の旧約聖書的時間」、「想起の新約聖書的時間」、「この出来事についての証しの時間」である。すなわち、その「成就の待望」と「成就の想起」を持った「成就された時間、啓示の時間」、「啓示についての旧約聖書的および新約聖書的証言の時間」、それは「神ご自身の時間」、「実在の時間」である。「罪におちた人間によって惹き起こされて生じた」私たちが知り持っている時間・「罪にそまった時間」・「われわれの時間」と「神によって造られた時間」とは同一ではなく、両者には無限の質的差異があるから、両者を同一視したり混淆したり共働化したりすることは許されない。したがって、モルトマンの、神学と人間学とのまた救済史と歴史との共働論に基づく、状況論なき思想なき神学的進歩史観は、根本的な誤謬の下にあるのである。すなわち、「神によって造られた時間」・「イエス・キリストにおける啓示の時間」・「時間そのもの」・「実在の時間」は、常に人間が人間的に所有する人間の「われわれの時間」・歴史の彼岸・外にある。言い換えれば、イエス・キリストにおける啓示の時間・永遠の時間・超歴史の時間は、常に、「われわれの時間」・人間の歴史の彼岸・外にある実在の時間・客観的現実性である。そしてそれは、救済史の時間である。
4)「われわれは光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずして生まれ〔たもの〕としてのイエス・キリストを信ず」。この条項は、「キリストの神性についての三位一体神学の本来的にして決定的な規定」の言表である。その規定は、次のように言うことができる――先ず以て、「子と霊は父とともにひとつの本質である。神的本質のこの単一性の中で子は父から、霊は父と子からであり、他方、父は自分自身以外の何ものからでもない」(186頁)。また、聖書でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、その隠蔽性と顕現性の啓示の弁証法において、そしてその「失われない差異性の中」で三つの「存在の仕方」(性質・行為・働き)=創造主・和解主・救済主において「三度別様」に父・子・聖霊なる神であって、その「存在」はその「失われない」単一性・神性・永遠性を「本質」とする「一神」・「一人の同一なる神」である。したがって、「三神」・「三の対象」・「三つの神的我」ではなく、父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」の、単一性・神性・永遠性を「存在の本質」とする「一人の同一なる神」、すなわち「三位一体」の神である。したがってまた、神性・単一性・永遠性を「存在の本質」とする神の完全さ・自由さは、父・子・聖霊の三つの「存在の仕方」の完全さ・自由さである、と。このように、「キリストは神の被造物ではなく、神から生まれた方である」。したがって、私たちは、その「神の行為としての啓示の中で……直接にまた神の本質〔存在〕をも認識しなければならない」(250・251頁)。こう述べてから、神学者であるばかりでなく一流の思想家でもあったバルトは、一方で、その神学の認識方法と概念構成それ自体に、自己相対化視座を持たせるのである。文学で言えば、ちょうど、二、三流売れっ子作家たちとは違って、一流であった太宰治が、『走れメロス』の作品を、単なる倫理・単なる友情物語へと流れる一方通行的な往相的流れを「塞き止め」、最後の数行において還相的な娘の「嫉妬心」で終わらせたようにである。それはこうだ――不可避な啓示の「概念の実在」(不可避なキリスト教に固有な類・歴史性)に連帯し、「われわれはなるほど、この区別(≪差異性≫)と単一性を言い表そうとこころみることができるし、またこころみなければならない。しかし」、「神の言葉の認識はただ信仰の中での、神の言葉の認識であるうるだけであり、したがって、決定的に、この対象を通してわれわれにむけられた問いに対する承認〔受認〕、人間的な応答でだけありうる」・教会の「教義を、いや、聖書の表現を、そのまま〔まねて〕後に続いて熟考し、言葉に表現するとしても……ただ、神の恵みを通してだけ、自分のものとなりうるであろう」・すなわち、人間的な意味での自由な自己意識の無限性における「われわれの思惟と語り」それ自体は、この対象に対し適当なものであることはできず、ただ不適当ものでありうるだけであろう」。したがって、バルト自身は、その信仰・その神学の認識方法と概念構成それ自体に、神と人間との無限の質的差異、神の言葉の秘義性・神の隠蔽性・神の不把握性・終末論的限界、等の自己相対化視座を持たせるのである。
4)のa:「まことの神よりのまことの神」――「まことの神に基づき、まことの神から出ているまことの神」がイエス・キリストである。「マコトノ神とマコトノ神は、独立的な本質として相対して立っているのではなく、それらは同じ一つの独立的な本質(≪単一性≫)の中で、二様(≪二つの存在の仕方≫)なのである」(252・253頁)。
 例えばこうである――「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない。この意味は、「和解ないし啓示」は、神の「存在の仕方」の差異性における「第二の存在の仕方」であるイエス・キリストの「新しい神の業」である、ということである。それは、「神的な愛の力」・「和解の力」である。イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、神の「第二の存在の仕方」において「第二の神的行為を遂行」したのである。この神の「存在の仕方」の差異性における「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者≫)と言葉(≪啓示≫の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、創造主・父に先行することはできない。しかし、父・子は共に神自身のその「存在」において単一性・神性・永遠性を本質としているから、この従属的な関係は、「存在の本質」の差異性を意味しているのではなく、「存在の仕方」の差異性を意味しているのである。
4)のb:「光よりの光」――「具体的にそこで言おうとされていることは、おそらく先ず第一に、教父たちによって特に好んで用いられた、太陽および太陽光線という比喩である」。光源である太陽は、「父は自分自身以外の何ものからでもない」(186頁)神的本質であるから、神の第一の「存在の仕方」である父の比喩であり、その太陽光線は、その神的本質の単一性の中で父が「自分から自分を区別」した・父から「出ズル」神の第二の「存在の仕方」である子・イエス・キリストの比喩である。しかし、とバルトは言う――「厳密にとるならば」、信仰告白の「比喩の言い方はイエス・キリストについての記述として、依然として不適当であり続け、対象は明らかに言葉の彼岸にあり続ける」(254頁)。この自覚は、神学における思想におけるそれである。この自覚が重要なのである。なぜならば、そうでない場合、近代以降はすぐに、状況論なき思想なき、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍による存在の類比という陥穽に陥る可能性があるからである。また、そうした党派性・学派性・教会共同性という陥穽に陥る可能性があるからである。例えば、近代主義(ヘーゲル主義)を受け入れながら日本的な土俗性に依拠した北森嘉蔵は、浄瑠璃「菅原伝授手習鑑」の松王丸における日本におけるナショナルなもの(滅私奉公的な人間の在り方)と、「直接的な『神の愛』をば否定的媒介契機とした」「十字架における神の愛」・「福音の心」とを混淆させたヘーゲル主義的土俗的神学を構成した、等々である。
 バルトは、この信仰告白は、「この比喩の言い方でもって」、「造られた世界の中での三位一体ノ跡を、……指し示そうとしているのではない」、と述べている(254頁)。バルトがこう言う時、次のことを念頭に置いている――バルトは、「存在するものそのもの」・「その純然たる造られた存在」に依拠したアウグスティヌスの「造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」という語り方に対して、根本的な批判を加えている。すなわち、そのような三位一体の跡は、「世界に対して超越する創造神の跡」として理解することはできない。それは、ただ単なる人間の自己意識によって対象化された人間自身の自己認識の類的本質そのもの、すなわち人間自身の「内在的に理解」された「宇宙の諸規定・人間的な現実存在の諸規定」・「単なる宇宙論や人間論」でしかないのである。また、そのような三位一体論は、人間自身に基づく「人間の世界理解の、最後的には人間の自己理解」・「神話」、すなわち自然神学的な神と人間・神学と人間学との混淆論や共働論でしかないものである。なぜならば、それらは、先ず以て、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼しない」からである(『教会教義学 神の言葉』)。また、自然神学的な聖霊論的説教論者たち(ルドルフ・ボーレン、佐藤司郎、小泉健等)は、「説教者が、実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない(≪人間の経験・感覚や知識を内容とする経験・情報・状況論が不足している≫)」と考え、聖書への「信頼、信仰を持」たず、「真に信仰によって生き」ようとせず、ほんとうの状況論と神学における思想的課題を自覚せず持たず、聖霊を恣意的に人間の自由事項の対象として実体化して、神学と人間学の迎合と同化・時勢や時流の迎合と同化ばかりを考えて、場当たり的な神学ばかりを増産している。福音は、「われわれの思考や心情の中にあるのではなく、聖書の中にある」から、私たちは、「思想」、「最高の習慣、最良の見解、そのようなものいっさい」を、聖書に「聴従」することの前で、「放棄」しなければならない(『説教の本質と実際』)。「神学をただ啓示の中にのみ基礎づけ」るために、聖書に依拠した神学・教会の宣教は、「罪深い曲がった人間」の「究極的な限界性」・終末論的限界を自覚した人間の言語を前提として、「三位一体を、世界から説明しようと欲」しないで、むしろ逆に、「世界を三位一体から説明せんと欲」する。すなわち、バルトは、啓示の出来事と信仰の出来事に基づく人間の啓示認識、その啓示認識に依拠した信仰の類比・関係の類比・啓示の類比を通した人間の自己認識を目指しているのである。このアウグスティヌスとバルトとの根本的な差異性は、前者においては「被造物ノ中デノ三位一体ノ跡」というように語られ、後者においては「三位一体ノ中デノ被造物ノ跡」というように語られる点にある。「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」。「解釈する」とは、「別の言葉で同一のことを言うこと」である。また、『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』に即して言えば、こうである――アウグスティヌスは、「三位一体の痕跡」である「想起(記憶)、知解、愛」としての「人間の中での神の像」を、「最も身近な最も高貴な認識根拠」とした。それは、アウグスティヌスにとって、「聖書的・教会的・教義的前提」であった。そして、アンセルムスにとってもそうであったが、アンセルムスの場合は、アウグスティヌスとは違って、@徹頭徹尾「教えられつつ語る」のであって、「われわれの理性に内在している神概念の再想起」において「創造しつつ神について語ろう」とはしなかった。したがって、A「認識的なラチオ性〔理性性〕」は、「啓示、恵み、信仰(≪啓示の出来事と信仰の出来事に基づく人間の啓示認識、それに依拠した信仰・関係・啓示の類比を通した人間の自己認識≫)」を前提条件としていた。バルトと同じように、この紙一重を超える在り方に、アンセルムスの神学における思想性はあるのである。
4)のc:「決定的な定式は、『造られずして、生まれ』という第三の定式である」(254頁)。イエス・キリストは、神の「代官」や「神を表しているもの」や「神の被造物」ではなく、「神の存在の仕方として、(中略)神から由来する」ところの神自身である。神の第二の「存在の仕方」としての「啓示者、また和解者となるべく人間となられた方」=イエス・キリストは、「造られたのではない」から、この「啓示と和解は、創造の内部での一つの出来事」(神の第二の「存在の仕方」の出来事)であり、また「ここで人間となられた方」=イエス・キリストは、単一性・神性・永遠性を本質とする「神であるがゆえに」、歴史的形態としての「彼の人間であることは、啓示および和解として現実に有効なのである」(255頁)。キリストの神性は、「啓示および和解におけるキリストの行為の中で認識」することができる。すなわち、その啓示と和解(神の第二の「存在の仕方」・業・行為・働き)が「キリストの神性」の根拠ではなくて、「キリストの神性」・キリストの「存在の本質」である単一性・神性・永遠性が「啓示と和解を生じさせる」のである。
 さて、イエス・キリストは、自然的な「被造物世界の内部におけるすべての生き物のように、生まれる」、しかし、「神的な創造者の言葉に基づいて、神的な創造者の言葉の前提のもとで、生まれる」。すなわち、「創造と罪が互いに一緒にありつつ、互いに相対立している過程の中で、人間が生まれるように生まれる」(255・256頁)。この比喩も不適当であり、この言表で神が把握できてしまうわけではない。したがって、私たち人間は、先ず以て、神と人間との無限の質的差異の自覚をその認識方法と概念構成の前提としなければならないのである――神と人間との無限の質的差異は、「聖書の主題であり、哲学の要旨である」(『ローマ書』)。したがって、「神学を表象の媒介のレベルから概念という高位のレベルにまで高めるという〔ヘーゲルの〕思弁的要求を何としても否定しなくてはならないようなことは、わたしにとって、神学を歴史哲学から何としても限界づけなくてはならないということと同様、二次的なことなのである」・「アブラハム、イサク、ヤコブの神を、たといこの神が幾何学的方法によって論証可能なお方ではないにせよ、哲学者にとっても、思惟可能な神として信じるにあたいするというふうに思惟することはよいことなのである。ただ福音においてのみ言葉に言いあらわされる神を信じるとき人は哲学者であることをやめねばならないということは、よく分からない」と述べたユンゲルの場合(E・ユンゲル『神の存在 バルト神学研究』)、その最初から「誤謬は必然」なのである。したがってまた、そうしたユンゲルの場合、語れな語るほど、根本的な「誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて語」(吉本隆明)ることになるのである。このユンゲルの亜流である大木英夫と佐藤優も、同じように、そうなってしまうのである。事実、そうであった。いずれにせよ、この信仰告白の比喩は、ほんとうは、「父は子を、彼だけが知っているような仕方で生む」から、私たち人間にとっては「言葉ニ言イ表ワシ得ナイモノデアル」ものを対象としたそれである・したがって「無知ヲ告白スルコトヲ恥ジルコトハナイ。ナゼナラバ、アナタハ御使イタチト共ニ無知ダカラデアル」、ということを意味している(257頁)。なぜならば、「神の中にこそ、父と子の関係」は、「すべての被造物的関係がそうであるように」、「その起源的な本来的な実在をもっている」・「出生の秘義は、起源的に本来的に、被造物世界の秘義ではなく、(一つの)神的な秘義、いやそれこそ神的な秘義である」からである(260頁)。
 「生む」・「生まれる」という父と子の比喩は、「造られた世界の中で、ひとりの父の人格とひとりの子の人格の間に成り立っているような相違性と連続性とが、……成り立っているということである」(258頁)。このことは、次のことを意味している――神の「存在の本質」は、単一性・神性・永遠性にあるから、父は子として「自分を自分から区別」するし自己啓示する神として自分自身が根源である。この「神の中で、神からの、生じること」、この「傑出さの中に」、「造られずして生まれ」の「意味内容がある」(262頁)。このことは、神自身においてのみ「実在であり真理」である、神の全き自由、自在性を意味している(263頁)。したがって、その区別された子は父が根源であり、愛に基づく父と子の交わりである聖霊は父と子が根源である。この神は、子の中で「創造主として、われわれの父」として自己啓示する。したがって、神の「存在の本質」においては、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主である。同様に、神の「存在の本質」においては、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある(「三位相互内在性」)――「父、子、霊の働きの単一性は、……三つの存在の仕方の交わりとして、理解されるべきである」(188頁)。これらの出来事は、神自身の自由事項として、「神の中での出来事」としてある(187頁)――「子と霊は父とともにひとつの本質である。神的本質のこの単一性の中で子は父から(≪「出ズル」であり≫)、霊は父と子から(≪「出ズル」≫)であり、他方、父は自分自身以外の何ものからでもない」(186頁)。私たちは、「神自身が自分自身について語る言葉(≪イエス・キリストの啓示、その啓示の「概念の実在」・この不可避なキリスト教に固有な類・歴史性≫)に、ただ奉仕すべきである」。「そしてそれから、われわれはこう言うべきである。わたしたちは無益な僕です。わたしたちはただ為すべきように、この比喩の中で考え、語っただけです。しかもわたしたちは、そこで考え、語ったことに対して、何ら『正当性』(正しさ)を要求したり、主張することはできません、と。『正当性』は、ただひたすらわれわれがその方について考え語った方にのみ属しており、われわれが考え語ったことに属してはいない」(259)。「われわれはただ不真実の中で、真実について語り得るだけである。われわれが神を父および子と呼ぶ時、われわれは語っていることところのことを知らない」。なぜならば、「われわれが神を父および子と呼ぶ時、われわれが表現している真理はわれわれにとっては隠され、探求され得ない真理である」からである。しかし、「われわれが神をそのように呼ぶ時に、われわれはあくまで真理を、神の真理を表現しているのである」(260・261頁)。しかし、それは、あくまでも、イエス・キリストの啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてである。
 バルトは、ニカイア・コンスタンティノポリス信条に、「欠けている一つの比喩的表現」を補う必要があることを述べている。それは、「新約聖書」や「教会の言葉」における「イエス・キリストは神のことばである、という比喩である」(263頁)。私たちが、神の第二の「存在の仕方」であるイエス・キリストの行為を「内容的に和解として理解する時」、それは「神の子」を指し示しているように、そのイエス・キリストの行為を「形式的に啓示として理解する時」、それは「神のことば」を指し示している。「キリストノ恵ミ〔恩寵〕」は、神自身においてのみ「実在であり真理」である・「真理性と実在性」であるから、それは、単一性・神性・永遠性を本質とする「神自身の……もの」である(264頁)。したがって、次のように言われなければならない――ニカイア・コンスタンティノポリス信条が「神の子」について語る時、「神の言葉」との同在性において理解されることを「欲していた」、と。「言葉は〔あの〕ひとりの主である。ことばは父によってすべての時の前に語られた。言葉は光よりの光、まことの神よりのまことの神である。言葉は造られずして、神によって語られた。したがって、(中略)イエス・キリストは永遠からして語り給う方の永遠の言葉である、永遠からして考え給う父の永遠の思惟である、〔その中で〕神がご自身を考える、ないしは自分自身のもとで自分自身を表現する言葉である」。このようにバルトが語る時、私たちは、バルトが、神と人間との無限の質的差異という認識方法と概念構成によって、また神自身においてのみ「実在であり真理」である「自由」・「自在性」という認識方法と概念構成等によってヘーゲル哲学を紙一重で超えて語っていることを理解することができる。したがって、一方で、「またここでも、(中略)この言い方も」、この「概念」も、「一つの不適切な言い方」であり、「概念」である、と告白しなければならない。「われわれは、イエス・キリストを神の永遠の言葉と呼ぶ時、そもそも何を言っているのか知らない」・「われわれはいかなるまことの言葉を知らない」。したがってまた、次のように言わなければならない――先ず以て「まことの言葉はわれわれにとって、……ただ厳格に排他的に、神の中にかくされた永遠の言葉、イエス・キリスト自身である、と」。「われわれがイエス・キリストを神の言葉と呼ぶ時、それが真理となるように、……啓示を、そして信仰を、必要としている。永遠の言葉の受肉と聖霊の注ぎという、……恵みの出来事(≪イエス・キリストの啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事≫)を必要としている」(267・268頁)。バルトは、「単なる知識」と「認識」とを厳密に区別している。「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に信頼し固執する「認識」・信仰である。その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる。したがって、人間学的なただ「単なる知識」に過ぎないある理念・ある概念の実体化・「最高存在」・「最モ完全ナ存在」としての一般的な啓示概念は、キリスト教に固有な神の言葉・啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)ではない。このように、ほんとうは、ルターやトマス・アクィナスやアウグスティヌスのような自然神学的な「いかなる存在ノ類比もない」のであって、「あるのは信仰ノ類比だけである」(268・269頁)。「われわれは、啓示と信仰の出来事を念頭において、いつもわれわれの人間的不真実の中で、神的真理を語る……ことが赦されるであろう」(270頁)。
5)「われわれは『父と同質である』(父と一つの本質である)として、イエス・キリストを信じる」。バルトは、啓示の「概念の実在」(不可避なキリスト教に固有な類・歴史性)に連帯して、「アタナシウスの同一性」・「アウグスティヌス――西方的解釈」の側に立脚して、「一つの本質」・「同一の本質〔同質〕」解釈を採る。なぜならば、その場合、第一に、@アリウス主義の「『下からの半神』、『超人』」としてのキリスト論に抗することができるからである、A「『造られずして生まれ』を強調し、鋭くする」からである、、Bイエス・キリストを「創造主の側におく」からである。第二には、@「オリゲネス以来……の見解」、すなわち「神性の内部」の段階論におけるキリスト論、また「上からの半神」としてのキリスト論に抗することができるからである、A「『まことの神』を強調し、鋭くする」からである、Bエビオン主義的キリスト論や仮現論的キリスト論に対する「戦線を形造っている」からである。第三に、「失われない差異性の中」で三つの「存在の仕方」・「区別を通して」、「三神」・「三つの対象」・「三つの神的自我」・三つの主体という「多神教」理解に抗することができるからである。「存在の本質」を単一性・神性・永遠性とする「わたしと父とは一つである」。「ただわたしと父という区別(≪存在の仕方≫)の中でだけ『一つ』が有効である」・「ただこの一つであるということの中でだけわたしと父とが存在する」(272−274頁)。この場合、様態論に抗することができる。と同時に、「人が同質という概念を(中略)アタナシウスやアウグスティヌスと共に本質の同一性として、しかしまた新ニカイア派の者たちの関心もとりあげつつ、ひとつの本質の二つの区別された同様の存在の仕方(≪「失われない差異性の中」での神の「存在の仕方」ではない「存在の仕方」≫)について語らせる時、……その概念は、人が哲学において『空虚な概念』として表示するのを常としている如き種類の概念となる」のであるが、そうした哲学的神学にも抗することができる。「哲学者たちと哲学づいた神学者たちは以前からホモウシアの概念を使って、軽はずみな遊戯をしてきた」。「被造物は、自主独立的に、自分勝手にではなく、神の啓示を通して信仰の中で(≪イエス・キリストの啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて≫)神を認識しなければならない」。「われわれのキリストの神性についてのわれわれの考察のすべての線は、イエス・キリストは父と同質である、という教義を正しいとしなければならない点にわれわれを導いた」(275・276頁)。ルターは、キリストは「父と共に唯一のまことの神であり、すべてのことにおいて父と等しく」・「キリストは父からであり、父が彼からではない(≪「失われない」単一性・神性・永遠性を「存在の本質」とする神≫)」・「また、……キリストは固有な、本来的な、神でなければならない」、と語った(277頁)。「神的本質のこの単一性の中で子は父から、霊は父と子からであり、他方、父は自分自身以外の何ものからでもない」(186頁)。
6)「われわれは『〔それによって〕すべてのものが造られた』方としてのイエス・キリストを信じる」。「この命題の内容は、……厳格に三位一体神学的に理解されるべきであり、……それは次のことを意味している」――上述した三位一体論に即して言えば、すなわち神の「存在の本質」である単一性・神性・永遠性において、神の第二の「存在の仕方」である神の子・神の言葉も、神の第一の「存在の仕方」である父の業・「創造の業に参与している」、と言うことができる――「三位一体ノ外ニ向カッテノ働キハ分ケラレナイ」・「子の中で、子とともに父もまた、啓示と和解の中に現臨しつつ行動する限り……父もまたこの啓示と和解の出来事の主体である」・イエス・キリストは「父と等しく、永遠からしてまことの神である」(278―280頁)。「創造とは、すべての被造物性の上方および彼岸での、その根源性の中での神性のことである」。これが、信条における「『すべてのものはその方によりて』で言おうとしている」ことである。「その方によりて」で信条は、「その根源性」、すなわち「父は自分自身以外の何ものからでもない(186頁)」その根源性とその「存在の仕方」において、「子を全く父と区別する」。また「すべてのものは」で信条は、単一性・神性・永遠性を本質とするその神の存在において、「全く子を父と密接に結びつける」・ここには、「創造主の力をもつ啓示者としてのイエス・キリストの一つの実在がある」(287・288頁)。
 さて、この「すべてのものは主によって造られたという思想」は、三位一体論における「失われない」単一性・神性・永遠性を本質とする神の存在と、「失われない差異性の中」での神の「存在の仕方」との総体的構造において理解されなければならない。「彼は自分のところに来た」(ヨハネ1・11)。この神の言葉、イエス・キリスト(神の「存在の仕方」)を通して、「義とされ、聖化されたわれわれはまた存在する」。しかも、この言葉は、単一性・神性・永遠性を本質とする「われわれの存在の彼方、われわれの存在を越えたところにある、われわれの存在の基礎である」(282・283頁)。このことは、「私たちの召命・義認・聖化」は、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の「存在の仕方」であるイエス・キリスト(「神の啓示の中での神の言葉」)の「御業」・行為・働きにおいてのみ、私たちの「ため」に、私たち「自身の中」に生起する、ということを意味する(『神の恵みの選び』)。したがって、「われわれがその言葉を聞こうと聞くまいと、われわれがその言葉に従順であろう不従順であろうと、われわれの存在は現実なのである」(282頁)。「われわれが彼に対して〔応答し〕責任を負おうと欲するかどうかなどということは、問題ではない」。なぜならば、その言葉は、「力と権利をもつ王の支配の行為」であり、「力をもつ……主の言葉」であり、「また創造者でもある和解者の言葉である」からである。「われわれは、われわれに裁きと恵みを告げるそのまさしく同じ言葉を通して生成したわれわれの人間存在以外の人間存在について何も知らない」。「その言葉がわれわれの人間存在の基礎」である(284頁)。単一性・神性・永遠性を本質とするまことの神でありまことの人間であるイエス・キリスト自身(神の言葉・神の子・神の「存在の仕方」)が、人間の「神の恩寵への嫌悪と回避」に対する神の答えである刑罰(死)を、「唯一回なし遂げ給うた」(律法の成就)――このインマヌエルの出来事は、私たち人間からは「何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さず」とも、「神であることを廃めず」に、何ら価値や力や資格もない「罪によって暗くなり・破れた姿」の「人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬよう」に、「しかも混淆されぬように、統一し給うた」ということを内容としている(『福音と律法』)。

 

  神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ―これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ロマ3・22、ガラテヤ2・16「イエスの信仰は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである)。――徹頭徹尾全面的に、神の側の真実の出来事=全人間・全世界・全人類の、イエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)=啓示の客観的現実性 (『福音と律法』)
  「私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)」(ガラテヤ2・19以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ―そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである。(前掲書)
  人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である。(同書)

 

 「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」。すなわち、「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」は、復活へと向かっている。このイエス・キリストの復活・成就の時間は、「福音と律法」の「真理性」と「現実性」との総体構造におけるそれであり、「新しい世」のはじまりである。私たちは、その啓示の出来事と信仰の出来事に基づく啓示認識において、敗北者である「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」は、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」=成就の時間であるキリストの復活における神の「勝利の行為」によって包括され止揚され・克服されて「そこにある」ことを認識し信仰することができる。また、その勝利の行為は、「敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為」であることを認識し信仰することができる。新約聖書によれば、イエス・キリストは、「類語反復」において、「彼は主であるが故に、主である」。このことは次のことを意味する――すなわち、単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストは、「創造主なる神であることによって、同時に、彼ら〔新約聖書の人間たち〕にとって和解主なる神である」・「彼の裁きと彼の恵みは、彼が彼らの現実存在にかかわることによって、同時に、彼らにかかわる」・「彼は彼の裁きと彼の恵みとをもって彼らにかかわることによって、同時に、彼らの現実存在にかかわる」・「彼らがイエス・キリストを通して、彼らの和解について知ることによって、同時に、彼らは自分自身を、彼らの存在を、彼らが造られたものであることを、創造主を、知る」(285頁)、ということを意味する。
 「最も単純な形」において「神の啓示の実在を問う」問いに対する「新約聖書の答え」、すなわち聖書の証言・証しとしての啓示の「概念の実在」は、「永遠なる神性」を存在の本質とする「まことの神」であり「まことの人間」である「イエス・キリストの名」(神の言葉・子・存在の仕方)だけである。三位一体の根本命題に即して理解すれば、イエス・キリストのその「存在」は神性を「本質」としているから、「啓示の出来事においてはじめて神の子」「神の言葉」となるのではなく、「父を啓示するもの」、そして「われわれを父と和解させるもの」として、「イエス・キリストは神の子」・神の言葉・神の「存在の仕方」である。「創造された世界」における「神の愛」と「われわれの世界」における「イエス・キリストの事実の中における神の愛」との間には差異がある。イエス・キリストが父として啓示する神は、「われわれの生を、死を通して永遠の生命に導くために死を欲し給う」神である。したがって、私たち人間を永遠の生命に導くために、「ゴルゴダにおいて、イエス・キリストにあって、イエス・キリストと共に、われわれすべてのものの生命が十字架につけられた」のである。すなわち、後者の神の愛は、「まさしく神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった人間の失われた世界に対する神の愛」である。したがって、神の第二の「存在の仕方」における「和解ないし啓示」は、神の第一の「存在の仕方」における「創造の継続」や「創造の完成」ではない(287頁)。この意味は、「和解ないし啓示」は、神の「存在の仕方」の差異性における「第二の存在の仕方」であるイエス・キリストの「新しい神の業」である、ということである。それは、「神的な愛の力」・「和解の力」である。イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、神の「第二の存在の仕方」において「第二の神的行為を遂行」したのである。この神の「存在の仕方」の差異性における「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者≫)と言葉(≪啓示≫)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、創造主・父に先行することはできない。しかし、父・子は共に神自身のその「存在」において単一性・神性・永遠性を本質としているから、この従属的な関係は、「存在の本質」の差異性を意味しているのではなく、「存在の仕方」の差異性を意味している。、神の「存在の本質」は、単一性・神性・永遠性にあるから、父は子として「自分を自分から区別」するし自己啓示する神として自分自身が根源である。したがって、その区別された子は父が根源であり、愛に基づく父と子の交わりである聖霊は父と子が根源である。この神は、子の中で「創造主として、われわれの父」として自己啓示する。また、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主である。同様に、神の「存在の本質」から言えば、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある。言い換えれば、このことは、父なる神の「存在の仕方」の中での一人の神(「存在の本質」)・子なる神の「存在の仕方」の中での一人の神(「存在の本質」)・聖霊なる神の「存在の仕方」の中での一人の神(「存在の本質」)、という神の「存在の本質」(単一性・神性・永遠性)とその神の人間へと向かう「存在の仕方」(性質・行為・働き)における、神自身においてのみ「実在であり真理」である神の自由(自在性・他在性)を意味している。「創造が無からの創造であるように、和解は死人の甦り」である。「われわれは創造主なる神に生命を負うているように、和解主なる神に永遠の生命を負うている」。この神の自由において創造は、「契約の外的根拠」として、イエス・キリストが始原であり中心であり終極である「恵みの契約の歴史のための場所設定」である。また恵みの契約の歴史は、「創造の内的根拠」として、創造の目標であるその契約の歴史の始原であり、中心であり、終極であるイエス・キリストご自身である。それは、父なる神と子なる神と「父と子より出ずる御霊」の三一論的な神自身の自己啓示、すなわち神の自己認識・自己理解・自己規定である(『教会教義学 神の言葉』)。神性を本質とするまことの神でありまことの人間である「イエス・キリストにおける神の愛」は、神自身の「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である(『ローマ書』)。