本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

カール・バルトの三位一体論 その1 序説(ア)

カール・バルト『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示(上) 三位一体論』吉永正義訳(新教出版社)等々に基づく

 

 

神学における思想としてのカール・バルトの三位一体論 その1 序説(ア)
 バルトは、神学を単に学問としてだけでは扱っていません。バルトは、いつも、教会の宣教との関わりの中で、神学における思想的課題を自覚的に扱っています。ここに、バルトにおける特異性、すなわち神学者でもあり・牧師でもあり・思想家でもある、という特異性があります。言い換えれば、バルトは、神学者として・牧師として・思想家として、神の側の真実である主格的属格としての「イエスの信仰」・「福音と律法」の「真理性」と「現実性」の構造としてある啓示の客観的現実性の下で、すなわちその福音の下で、そして終末論的限界の自覚の下で、一切の近代主義・一切の自然神学の系譜に属する信仰や神学や教会の宣教やキリスト教を、およびヘーゲル哲学を、ならびに正当性のある根本的なフォイエルバッハの宗教批判やマルクスのそれやハイデッガーのそれを、その信仰・その神学の認識方法と概念構成それ自体において、包括し止揚して、そこから超出していく道を歩み続けました。
 さて、主格的属格としての「イエスの信仰」(ローマ3・22およびガラテヤ2・16等)、神の側の真実としての啓示の客観的現実性、全人間・全世界・全人類のイエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)に基づいて、パウロの場合は、ユダヤ人と異邦人との空隙を埋め・その両者を架橋する点に神学における思想の課題があったが、バルトの場合は、信・知・キリスト者と不信・非知・非キリスト者との空隙を埋め・その両者を架橋する点に神学における思想の課題があった。非自立的で中途半端で皮相的な神学と人間学との混淆や対話路線や折衷路線では、そうした神学における思想的課題を扱えないことは、神学における思想家であったバルトはよく自覚していた。しかし、それに対して、その信仰・神学において、一方通行的な往相的過程しか持たない、一面的・部分的・形而上学的な神学者や牧師や著述家たちには、そうした自覚がなかった。また、世界的な水準にあるバルトの神学思想を理解するためには、それに対する批判の在り方がそうであるように、単純にしかし根本的にそしてトータルに理解したり・批判したりすることが原則であるから、神学における思想としてのバルトの三位一体論を理解したり・批判したりするためには、その原則が適用させなければならない。しかし、このことも、信仰・神学において、一方通行的な往相的過程しか持たない、一面的・部分的・形而上学的な神学者や牧師や著述家たちには、理解できなかった。したがって、私は、もちろんそれはバルトの『教会教義学 神の言葉T/1 序説/教義学の規準としての神の言葉』と『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示(上) 三位一体論』に即して書かれたものであるが、拙著『全キリスト教、最後の宗教改革者 カール・バルト』において論じたバルトの三位一体論を整理したそれと、バルト自身の『教会教義学 神の言葉T/2』の「啓示(≪三位一体≫)における神」・「神の三位一体性」について整理したものを、先ず以て序説として載せておきたいと思う。ほんとうは、前者の私が整理したものだけでも、充分に、バルトの三位一体論に関わる事柄はすべて、根本的にトータルに理解することができるのであるが……。
 それは、例えばこういうことである。
@「『神の人間性』に見る後期バルトの神観」を書いた牧師は、バルトの「神の神性において、また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」という語りから、「神の神性において」(神の「存在の本質」としての単一性・神性・永遠性)という言葉を恣意的に取り除いて述べているのであるが、バルト自身は、確実に、人間へと向かう神性を存在の本質とする神の他在における「神の神性」と「神の人間性」(「存在の仕方」)について述べているのである。この語り方をキリスト論に即して言えば、神性を本質とする(神の「存在の本質」)、「まことの神」であり「まことの人間」であるイエス・キリスト(神の言葉・神の子・神の「存在の仕方」)、となる。このイエス・キリストの神性の認識・概念と、神と人間との無限の質的差異の認識・概念は、一切の近代主義・一切の自然神学の系譜に属する信仰や神学や教会の宣教やキリスト教に抗することのできる神学における思想的武器なのである。したがって、バルトは、「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」と述べるのである。この言葉は、そうした誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて語る神学者や牧師や著述家がいるであろうことを予想して置かれているのである。また、バルトには、啓示の弁証法が一貫して踏襲されている。したがって、「第二の方向転換」としての「神の人間性」の「主文章」化は、「第一の方向転換」の「神の神性」の「主文章」化と「対立」関係にあるのではなく、その主文章化と副文章化とのベクトル変容は、あくまでもある時代状況に規定された言表なのである。したがってまた、バルトの『神の人間性』は、ただ「神の神性において」というその神性を本質とする「神の人間性」が主文章化されたということであって、その背後に「神の神性」が保存される構造となっているのである。
A『神学者カール・バルト』の訳者である蘇は、その「訳者あとがき」で、時系列的判断に依拠して、「バルトが『聖霊』を口にする場合、それは『教会教義学』の第四巻(殊に第三部)以来ますます載然と、排他的にイエス・キリスト自身の霊的臨在またはその力をさし、したがって自然神学へのブルンナー的遡行(またはヘーゲル的哲学化)を許す『父の霊』は考えられていない」と断定的に述べているのであるが、そのようなことはバルト神学においてはあり得ないことである。聖霊論を含めて神と人間との無限の質的差異の一貫性においてその神学の認識方法および概念構成を行っているバルトの場合、「父ト子トヨリ出ズル御霊」としての「父の霊」に対して排他的にならなくても、「自然神学へのブルンナー的遡行(またはヘーゲル的哲学化)」を防ぐことはできるのである。啓示の弁証法を持たない形而上学的神学者・蘇には、そのことが理解できないのである。また、バルトの三位一体論における神の「存在の本質」の概念から言えば、蘇の言う「父の霊」への「排他」性は本質的に成立しないのである。すなわち、蘇の言うバルトの「キリスト自身の霊的臨在」の強調は、和解論がイエス・キリストの「存在の仕方」に関わる事柄だからであり、その場合バルトは、神性を本質とするイエス・キリストの「存在の仕方」に重点を置いて論じているだけなのである。
B佐藤優は、「神学がなくても信仰は成立しますが、高等教育を受け、『天にいる神』をもはや素朴に信じることができなくなったわれわれには神学が必須です。われわれは『天にいる神』をほんとうに信じていませんが、ほんとに信じていないことを口にしてはいけないというのが、キリスト教信仰の第一の前提です」、と書いた。この語り方は、不信とむなしさと不安とが蔓延した現在における神学における思想的課題、すなわち信・知と不信・非知の空隙を埋めて両者を架橋する課題を、最初から放棄してしまっている佐藤の往還思想なき最も悪い語り方である。言わば、この佐藤の語り方は、近代主義を骨肉にまで受け入れた「イエスの信仰」の目的格的属格理解の成れの果ての語り方である。
C一方通行的な信の上昇過程の場所からのみ、諸民族は「イエスキリストを信ずる信仰へと呼びかけられている」のであるから、諸民族をその希望である「イエス・キリストを信ずる信仰へと呼び出す」ところに、キリスト者とキリスト教会の責務がある、と主張する寺園喜基の語り方も、「イエスの信仰」の目的格的属格理解の成れの果の語り方である。
D「神学を表象の媒介のレベルから概念という高位のレベルにまで高めるという〔ヘーゲルの〕思弁的要求を何としても否定しなくてはならないようなことは、わたしにとって、神学を歴史哲学から何としても限界づけなくてはならないということと同様、二次的なこと」だと語るエーバーハルト・ユンゲルの語りも、近代主義のその場を生き・それとヘーゲル主義とを骨肉にまで受け入れた「イエスの信仰」の目的格的属格理解の成れの果ての語り方である。
E「キリスト者」も、「聖書」も、「イエス・キリストという名を記憶している人たちさえも、もはやこの地上のどこにも残っていないとしても」、「神われらとともに」という「根本的事実」だけは残ると書いた滝沢克己は、アジア的日本的な自然思想への復古性に依拠したイエスの神人論を認めているが、自由な自己意識の恣意性・主観性によってイエスの神性性を揚棄してしまった。
F北森嘉蔵は、日本におけるナショナルなものである滅私奉公的な在り方を神の痛みと結び付け、、「十字架における神の愛」・「『神の痛み』としての「『神の愛』は直接的な『神の愛』をば否定的媒介契機として自己の中に止揚しているものであって、『神の愛』より一段高次のものである」と書いたとき、その土俗的神学において、人類史におけるアジア的日本的な自然原理とヘーゲル主義とを折衷した。この根にあるものも、「イエスの信仰」の目的格的属格理解に基づいた人間の自由な自己意識の恣意性・主観性である。この北森の『神の痛みの神学』をモルトマンは評価している、と喜田川信が書いているのを知った時、私は、西洋の神学者もその程度だっのかということを知って驚いた。それに対して、ただ唯一、バルトだけは違っていた。バルトの三位一体論における神の「存在の本質」(単一性・永遠性・神性)、すなわち神自身においてのみ「実在であり真理」である他在であって自在としての神の自由、というその神学の認識方法および概念構成においては、神の「存在の仕方」の差異性はあっても、低次の神の愛と高次の神の愛という段階的概念は、本質的に成立できないのである。言わば、北森には、神学における思想としての良質な三位一体論と、神性を本質とするイエス・キリストにおける「福音と律法」の「真理性」と「現実性」の構造的把握がないのである。
Gバルトの神学においては自然神学の根本的な概念規定が重要なのであるが、文芸評論家の富岡幸一郎は、高校の「倫理・政経」(私のときはこう呼んだ)レベルの通俗的な自然神学の概念規定しか行っていなかった。また冨岡は、バルトのキリスト論的集中神学についても述べているのであるが、バルト神学の核にある主格的属格としての「イエスの信仰」を全く理解しないまま――『福音と律法』を翻訳した井上良雄だけが、バルトの主格的属格理解を初めて紹介していた。私には衝撃的なことだった。私は、井上を、キリスト者としても・文芸批評家としても、正直で誠実な人だと思った――、したがってバルトの「超自然な神学」の概念を理解しないまま、したがってまた、冨岡の語りも、やはり「イエスの信仰」の目的格的属格理解の成れの果ての語り方となっていた。
 さて、ここで、『カール・バルト著作集8』「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」と『教会教義学 神の言葉T/1 序説/教義学の規準としての神の言葉』・『教会教義学 神の言葉T/2 神の啓示(上) 三位一体論』を翻訳(これは大きな功績である)した吉永正義の『バルト神学とその特質』における三位一体論の解説記事を少しだけ覗いてみることにする。吉永は、教会のひとつの機能としての学問として『教会教義学』を扱っているのであるが、その場合の根本的な欠陥は、次の点にある。吉永は、「福音と律法の問題を除いて」バルトとルターは最も近い立場にある、と述べている。この語り方は、両者には「福音と律法」理解において根本的な差異があるとしても、それ以外においては「最も近い立場」にあったということを意味する。しかし、その「福音と律法」論における「イエスの信仰」の属格理解の差異は、バルトとルターの間に、その信仰・その神学の認識方法および概念構成において、根本的かつ究極的な差異を生じさせているのであって、その紙一重を超えることが、神学における思想の問題なのである。両者のその差異は、
1)「イエスの信仰」の属格に対する、バルトの主格的属格理解とルターの目的格的属格理解の差異にある。言い換えれば、バルトにおける啓示の客観的現実性とルターにおける啓示の主観的現実性との差異、自然神学的なルターの神学・教会の宣教・キリスト教と、バルトにおける「超自然な神学」・教会の宣教・キリスト教との差異にある。
2)神学における往還思想の構成の問題、すなわちその信を、そのあるがままの不信に対して完全に開くことができないルターの一方通行的な往相的信仰・神学と、そのあるがままの不信に対して完全に開いたバルトの往還思想の信仰・神学との差異にある。ここにもう一人、神学における思想家がいる。それは、カンタベリーのアンセルムスである。アンセルムスは、「いかなる人間もほかの者に教えることができないことを教えることができ、また繰り返し教えるであろうことを信頼していた客観的な根拠」、すなわち「信仰の対象そのものの客観的根拠」の「力強さを念頭において」、「非キリスト者をキリスト者として、不信者を信者として語りかけ」、「信者と不信者の間の深淵を超え」出て、「彼が自分を不信者たちに対して不信者たちと同類の者としておき、不信者たちを自分と同類の者として受けとる」ことができた。この「客観的根拠」の概念は、神の側の真実であるイエス・キリストにおける啓示の客観的現実性と同じ位相のものである。それは、アンセルムスにおける思想の言葉・還相の言葉である。
 また、吉永は、神の像問題について、次のように述べている――「ブルンナーは『罪を犯しても人間は神の像を全く失ってしまったのではない』と言い、バルトは『失ってしまった』と言」ったということが、「今日神学界で一般に理解されているところであるが、それは間違いである。バルトの立場も、『罪を犯しても人間は神の像を全く失ってしまったのではない』という立場」である。ただそれは、「まがりなりにも残っている神の像を人間が自分の能力をもっては認識できない」ということであって、「認識できるのは、啓示によるほかはない」ということである、と述べている。確かにバルトは『バルトとの対話』で、微妙な言い回しをしている。「神はすべてのものを見られ、はなはだ良しとされた」がゆえ「その本性は良い」、しかし、その「良い本性に対抗してわれわれが罪をおかしている」がゆえに、「私は人間の内にある『善性のこり』については語らないのだ」、というのがそれである。それではなぜ、バルトはそのことを語らないのか。それは、バルトが、近代以降においてその「善性ののこり」や神の残像を語れば、すぐに神と人間・神学と人間学との混淆論や共働論や「神人協力説」に基づく人間の啓示認識、それに依拠した存在の比論を通した人間の自己認識という自然神学的な認識方法および概念構成に直通していくことをよく自覚していたからである。もう少しだけ、吉永が語っていることに関わってみよう――吉永は、神と人間との無限の質的差異における父なる神を、現存する「人間的・自然的な父」から規定することはできない、「むしろ、人間的・自然的な父……に意味と品位を与えるものを」、「神が父であることからして得るのである」、と述べている。このことは、次のことを意味している。すなわち、人間の自己認識・自己理解・自己規定としての自然的・人間的な父の概念は、イエス・キリストにおける啓示の出来事(神の自己啓示、神の自己認識・自己理解・自己規定)と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて人間が人間的に所有する人間の啓示認識である「神の内三位一体的父の名の力と威厳」に依拠した信仰の比論・関係の比論・啓示の比論を通して初めて得られるそれ、ということである。もう一点、吉永は、バルトの『教会教義学』に即して、近代主義的プロテスタント主義神学が、「キリストの永遠のまことの神性の告白」を信用しない場合、それは「視覚的錯覚」によっているとも、述べている。その場合、その神学者や牧師や著述家は、その認識方法と概念構成を、人間論的人間学的身体性や人間の感覚と知識を内容とする経験・存在の比論に置いている、ということである。ルドルフ・ボーレンの聖霊論的説教論を紹介していた佐藤司郎や小泉健も「人間の経験の尊重」と書いているのであるが、もっと明確に言えば、人間の感覚と知識を内容とする経験や情報のことである。それに対して、バルトは、次のように述べている――「説教者が、実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない(≪人間の経験・感覚や知識を内容とする経験・情報が不足している≫)、と考えるようなことがある限り、彼は、この信頼、信仰を持っておらず、真に信仰によって生き」ようとしていないのである。福音は、「われわれの思考や心情の中にあるのではなく、聖書の中にある」から、私たちは、「思想」、「最高の習慣、最良の見解、そのようなものいっさい」を、聖書に「聴従」することの前で、「放棄」しなければならない。その「聖書は神の言葉となる」ところで、「聖書は神の言葉なのである」。すなわち、聖書に「聴従」するために、神のその都度の自由な決断に基づく啓示の出来事と信仰の出来事において、その神の言葉の「出来事」の運動の中において、聖書によって導かれなければならないのである。説教者にとって、「彼らに語らなければならない彼ら自身に関する真理」は、「神がすでに為した」「わたしの前にいるこの人々のために、キリストは死に、甦られた」――神、罪深きわれらと共に、ということである(『説教の本質と実際』)。
 このように、学者・牧師・著述家が述べたからといって、その述べたことが、決して、根本的に正しいわけでも・トータルに理解されているわけでも、全くないのである。したがって、私たちは、世界的な神学者で・牧師で・思想家でもある<バルト自身>のその信仰・その神学の認識方法と概念構成を、それがたとえ拙いものであって、自分なりに、出来得る限り、単純にしかし根本的にそしてトータルに把握することを目指さなければならないのである。
 さて、ここで今回使用する主要な参考文献であるバルトの著作を時系列にたどってみると、
1931年:教会教義学T/1の内容を、ボン大学の夏学期に講義している(『教会教義学T/1』の出版は1932年)。『知解を求める信仰 アンセルムス神の存在の証明』
1935年:バルメンで「福音と律法」講演(『福音と律法』の出版は1936年)
1937年:『教会教義学T/2』完成(出版は1938年)、となっている。
 まず、『知解を求める信仰 アンセルムス神の存在の証明』においては、萌芽的な啓示の客観的現実性の概念とそれに基づいた思想の往還が、また『福音と律法』においては、徹頭徹尾全面的に、神の側の真実である主格的属格としての「イエスの信仰」(キリスト論的集中)の概念とそれに基づいた「福音と律法」の「真理性」と「現実性」の構造的把握による啓示の客観的現実性の概念と往還思想の構成が、そしてまた、『教会教義学T/1』と『教会教義学T/2』の「神の言葉」論においては、それらの事柄を前提として、その信仰・神学・教会の宣教・キリスト教を、バルトの「超自然」なそれと、「自然」神学の系譜に属するそれとの二つの系譜に基づいて三位一体論に関わる事柄が、論じられている。。
 理解しやすくするために、まず、富岡幸一郎の自然神学理解について述べてみよう――富岡は、自然神学とは「人間が生まれながらにもつ理性によって神の存在を捕えることができるという考え方」であると説明し、具体的にはトマス・アクィナスの神学がその典型であって、トマスは「アリストテレスの哲学を神学にもちこむことで、人間の理性では自然的に神を認識することはできず、神の啓示と恩寵によらなければ、神を知ることはできないというアウグスティヌス的な信仰理解をこえようとした」と述べている。しかし、バルトはそう考えてはいない。バルトの神学に依拠して自然神学と「超自然な神学」とを単純に根本的にそしてトータルに分類すれば、その度合の差はあれ、アウグスティヌスもトマスもルターもシュライエルマッハーもブルトマン等も、またローマ・カトリック主義や近代主義的プロテスタント主義やアジア的日本的な自然思想の復古性に依拠した近代主義的プロテスタント主義の神学群とその宣教も、すべて自然神学の系譜に属するそれなのである。このことは、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」とした「カントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」と述べたバルト自身の言葉から明かなことである(『カント』)。
1)バルトの「超自然な神学」とは、神の側の真実=イエス・キリストにおける啓示の実在=神性を本質とする まことの神でありまことの人間であるイエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)=啓示の客観的現実性にのみ信頼し固執することによって、一切の近代主義、一切の自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教、ヘーゲル哲学、正当性のある根本的なフォイエルバッハの宗教批判やマルクスのそれやハイデッガーのそれを包括し止揚して、そこから超出した信仰・神学・教会の宣教・キリスト教のことである。ここで、イエス・キリストにおける神の側の真実にのみ信頼し固執する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教とは、ローマ3・22およびガラテヤ2・16等の「イエスの信仰」の属格を、「イエス・キリストが信ずる信仰による神の義」と主格的属格として理解する立場のことである。バルトは、この神学における思想において、信・知・キリスト者と不信・非知・非キリスト者との空隙を埋め、両者を架橋し、信・知・キリスト者を、そのあるがままで不信・非知・非キリスト者に完全に開いたのである。神学における往還思想の構成によって、絶対的思想、党派的感情・党派的意識・党派的思想・党派的共同性を止揚したのである――こういった事柄に、現在に生き・現在から未来に生きる、神学における思想家であるバルトの、根本的で永続的な神学における思想的課題はあったのである。
2)それに対して、「自然神学」とは、イエス・キリストにおける神の側の真実だけでなく、天然自然や人間的自然、人間の自由な自己意識の無限性、人間の感覚や知識を内容とする経験、感情・理性・実存等の人間的契機の直接性、人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観にも信頼し固執して啓示の主観的現実性を目指す信仰・神学・教会の宣教・キリスト教のことである。ここで、神だけでなく人間の自主性・自己主張・自己欲求も、という神と人間・神学と人間学の混淆論・共働論・「神人協力説」とは、「イエスの信仰」の属格を、「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」と目的格的属格として理解する立場のことである。この自然神学の系譜に属する神学者・牧師・著述家たちは、バルトにおけるような、根本的で永続的な神学における思想的課題を持たなかったのである。彼らの思惟は、いつも、一方通行的で一面的で形而上学的であったのである。現在もそうである――第二次世界大戦後において、「私は教会のなかに、破滅に急ぎつつあった一九三三年当時と同じ構造、党派、支配的傾向を見出した」。「公然たる信条主義や教権主義、およびいろいろ賑やかな姿で現われている典礼主義への興味によってよびおこされた関心」を見出した。「私は、前よりももっと明瞭に人間―キリスト者もまた、そしてキリスト者こそ!――がもともと頑なであり、容易に悔改めに導かれえないということを認識したのである」(バルト『バルト自伝』)。
3)バルト神学のその認識方法と概念構成においては、神の自己啓示 =イエス ・キリストの出来事=啓示の実在=啓示の真理、また永遠 =超歴史 =啓示の時間 =救済史は 、常に 、人間が人間的に所有する人間の啓示認識 ・概念 ・教義 、また人間の時間 ・歴史の 、<彼岸 ・外>にある 。そしてこのことは、啓示自体から与えられた、私たち人間における「終末論的限界」を意味している。またこのことは、まことの神は「隠蔽性・秘義性」を本質としており、その神に対して人間の理性は「全く闇に閉ざされ」た「盲目」性を本質としている、という「神の不把握性」を意味している。そしてまた、これらの認識は、イエス・キリストの出来事(啓示の客観的現実性)と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて初めて人間が人間的に所有することができる人間の啓示認識であり、その啓示認識に依拠した信仰の比論・関係の比論・啓示の比論を通して初めて得られる人間の自己認識・自己理解・自己規定である。したがって、ここにおける啓示認識は、自然神学におけるような、啓示の主観的現実性に基づく人間の啓示認識や、人間の経験的普遍の直接性に依拠した類推のことではない――バルトは、「哲学、歴史学、心理学等は、この神学的問題領域のどれにおいても、事実上、教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしなかった」、「神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった」、またその場合、「哲学は哲学であることをやめ、歴史学は歴史学であることをやめる」。キリスト教哲学は、「それが哲学であったなら、それはキリスト教的ではなかった」。また、「それがキリスト教的であったなら、それは哲学ではなかった」、言い換えれば、自然神学的な人間学的神学・教会の宣教・キリスト教は、時流や時勢との迎合・同化において、また大衆迎合・大衆同化・大衆啓蒙において、そしてまた人間学の後追い知識において、神学としても人間学としても非自立的で中途半端なものとして、現在から未来に生きることは決してできない、と述べた(『教会教義学 神の言葉』)。また、バルトは、自らの「超自然な神学」からして当然にも、「存在するものそのもの」・「その純然たる造られた存在」に依拠したアウグスティヌスの「造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」という語り方に対して、根本的な批判を加えている。すなわち、そのような三位一体の跡は、「世界に対して超越する創造神の跡」として理解することはできない。それは、ただ単なる人間の自己意識によって対象化された人間自身の自己認識、すなわち人間自身の「内在的に理解」された「宇宙の諸規定・人間的な現実存在の諸規定」・「単なる宇宙論や人間論」でしかないのである。また、そのような三位一体論は、人間自身に基づく「人間の世界理解の、最後的には人間の自己理解」・「神話」、すなわち自然神学的な神の人間化・神学の人間学化・人間学的神学の位相にあるものである。なぜなら、そのような神と人間・神学と人間学との混淆論・共働論・「神人協力説」に基づく人間の啓示認識、それに依拠した存在の比論を通した人間の自己認識を目指す自然神学的な神学や教会の宣教やキリスト教は、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼しない」からである。したがって、バルトは、「神学をただ啓示の中にのみ基礎づけ」るために、聖書に依拠した神学・教会の宣教・キリスト教は、「罪深い曲がった人間」の「究極的な限界性」・終末論的限界を自覚した人間の言語を前提として、「三位一体を、世界から説明しようと欲」しないで、むしろ逆に、「世界を三位一体から説明せんと欲」する、と述べた。すなわちバルトは、啓示の出来事と信仰の出来事に基づく啓示認識、その啓示認識に依拠した啓示の比論を通した人間の自己認識を目指したのである。このアウグスティヌスとバルトとの根本的な差異性は、前者においては「被造物ノ中デノ三位一体ノ跡」というように語られ、後者においては「三位一体ノ中デノ被造物ノ跡」というように語られる点にある。「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」。「解釈する」とは、「別の言葉で同一のことを言うこと」である。

 

バルトの三位一体論の理解のための前提
1)神と人間との無限の質的差異が、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」(バルト『ローマ書』)。
2)徹頭徹尾全面的に、神の側の真実である主格的属としての「イエスの信仰=「福音と律法」の「真理性」と「現実性」の構造としての啓示の客観的現実性は、一切の近代主義・一切の自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教に対するアンチテーゼであり、また根本的かつ究極的な宗教改革の核となるものである(『福音と律法』)。
3)「聖霊は、人間精神と同一ではない」・「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」(『教義学要綱』)。したがって、聖霊によって更新された理性も、聖霊と同一ではない。
4)教会の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠としての神の啓示は、旧約聖書におけるヤハウェ・新約聖書における神(テオス)あるいは主(キュリオス)自身の自己啓示のことである。聖書また教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する。したがって、この啓示が教会の宣教の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠である。この三位一体論は、神論の決定的に重要な構成要素であり、「啓示の認識原理」である。したがって、「教会の宣教の批判と訂正」は、常にこの三位一体論に即して行わなければならないのである。なぜなら、この三位一体論を啓示認識の原理にしない場合、すぐに神性否定のキリスト論や半神・半人キリスト論や三神論や神と人間・神学と人間学との混淆論・共働論・「神人協力説」という自然神学的なキリスト論・聖霊論・神論に埋没していく以外にないからである。
5)神は、「存在」上・「認識」上、人間との無限の質的差異において、また自由・主権において、そしてまた神性・単一性・永遠性において、三位一体の神として自己啓示する。自由・主権は、神自身においてのみ「実在であり真理」である。このことを、バルトは、啓示の出来事と信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示の真理として述べている。そして、バルトは、この啓示認識に依拠した啓示の比論を通して、人間における自由の自己認識とその概念を得るのである。この認識方法および概念構成によってバルトは、神と人間との無限の質的差異を揚棄してしまったヘーゲル哲学における自己還帰する他在であって自在である自由の概念や、神と人間また神学と人間学との混淆論や共働論や「神人協力説」に基づく人間の啓示認識、それに依拠した存在の比論を通した人間の自己認識、そうした自然神学的な神学の認識方法および概念構成を根本的に批判し包括し止揚してそこから超出しているのである。
6)聖書的証言の本来的テーマは、「三位一体の第二」の存在の仕方である「子なる神、キリストの神性」を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル」聖霊を問う問いとが包括されている点にある。神は、イエス・キリストにおいて、インマヌエル=「神われらと共にいます」という存在の仕方で、顕現・自己啓示した。このことは、神性を存在の本質とする「自己を覆い隠す」・隠蔽性・「聖性」としての神が、その「存在の仕方」において子として「自分を自分から区別」したことを意味する。したがって、その自己啓示は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態、イエスの名」・「存在の仕方」において、その「存在の本質」である単一性・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示である。このように自己啓示する神は、啓示の弁証法において「まさにアラワサレタ神こそが隠サレタ神」である。またこのことは、神自身が私たち人間に対して自己啓示されないならば、また神自身が神と私たち人間とを架橋されないならば、全く不信仰で罪に穢れた私たち人間は、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・概念・教義をさえ持つことはできないことを意味している。
7)神の言葉は、三位一体論の唯一の比論としての神の言葉の実在の出来事=「神の言葉の三形態」、すなわち人間に向かって語られる神の自己啓示=イエス・キリストの名=啓示の実在そのものと、また聖書の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」においてある。そして、この啓示の「概念の実在」は、その「概念の実在」の歴史性(時間的連続性)においてある。
8)バルトは、「単なる知識」と「認識」とを厳密に区別している。「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に信頼し固執する「認識」・信仰である。その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、
また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる。したがって、人間学的なただ「単なる知識」に過ぎないある理念・ある概念の実体化・「最高存在」・「最モ完全ナ存在」としての啓示概念は、神の言葉・啓示の「概念の実在」ではない。神の言葉は、「人間の現実存在の内部」・人間の感覚と知識を内容とする経験・感情や理性や実存や意志・人間論や人間学的な哲学原理や認識論や世界観の中にはないのである。なぜなら、神に敵対し神に服従しない私たち人間は、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力」を一切持ってはいないからである。神の言葉は、その都度の神自身の自由な決断において、またその隠蔽と顕現において、「われわれのところに来」る。この神の隠蔽性・神の秘義性とは、私たち人間のその啓示認識が、常に終末論的限界(≪自己相対化視座≫)の前に立たされるということである。したがって、神の言葉が「人間によって信じられる……出来事」・信仰の出来事は、徹頭徹尾人間「自身の業」ではなく、「神の言葉自身」=啓示の出来事と「聖霊の注出」においてのみ可能となる。すなわち、「言葉を与える主」は、同時に、「信仰を与える主」である。したがって、聖書の中で証しされている教会の宣教の課題である啓示=イエス・キリストの出来事の宣べ伝えを目指すことのない自然神学的な「単なる知識」としての形而上学的な教義学は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方」のものであっても、その教義学は「教義学としては非学問的」なのである。
9)啓示は、神自身の自己啓示、自己認識・自己理解・自己規定として、「われわれに啓示されたイエス・キリスト」であり、父なる神に関わる。このイエス・キリストにおける啓示は、神の言葉の三形態における「第一の形態」であり、神の言葉の直接性であり、「啓示の実在そのもの」である。それは、「すでに来たり給うた」、また「再臨し給う」イエス・キリスト自身、「イエス・キリストにおいて起こった和解」、イエス・キリストにおけるインマヌエルとしての神の言葉である。この啓示は、教会の宣教に対して「先ず第一に優位に立つ原理」である。したがって、「啓示の中」での体系は、イエス・キリストだけである。したがってまた、教会の宣教・その客観的な信仰告白と教義の中での「体系」は、神の側の真実である主格的属格としての「イエスの信仰」にのみ信頼し固執するキリスト論的集中神学の認識方法および概念構成にある。
10)バルトの啓示認識の可能性の問いを誤解したままバルトを批判したトラウプの啓示認識の方法に対して、逆にバルトは次のように根本的な批判を加えている――@啓示認識の可能性は、啓示という「認識対象の特性」から、この「対象を認識する認識概念」が、「ほかの諸対象を認識する場合」の「一般的な認識概念に照らして……最後的に決められてしまってはならず」、あくまでもその認識対象から規定されるものでなければならない。すなわち、啓示認識は、神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてのみ可能である。Aまた、そうして得られた人間が人間的に所有する人間の啓示認識・概念・教義・言葉性であってもそれは、啓示の実在そのものではない。すなわち、啓示は、神の隠蔽性・神の不把握性・終末論的限界において、人間の「言葉性に縛」られることはないのであり、逆に人間の「その言葉性の方が神に縛られている」のである。したがって、私たち人間は、「神の言葉」・「神の恵みの実在」・啓示の実在そのものの「認識を問うことはできない」のである。Bにもかかわらず、トラウプは、啓示の「概念の実在」において「どのように人間は神の言葉を認識することができるのか」というバルトの問いを、自然神学的な常道に従って誤解し、直接的無媒介的に「どのようにわたしは、神の言葉」を「神の言葉として、また実在として、肯定することにまでくることができるのか」という問いに変じてしまったのである。すなわち、バルトは、あくまでも不可避的な、聖書証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」の歴史性において啓示の認識可能性を論じているのにもかかわらず、トラウプは啓示の実在そのものの認識可能性を論じているのである。言い換えれば、トラウプは、人間の自由な自己意識による直接的無媒介的な啓示認識・概念・教義と啓示の実在そのものとの一致の可能性について論じているのであり、啓示の実在を、人間の啓示認識・概念・教義の此岸・内に求めようとしているのである
11)聖書は旧・新約聖書における預言者・使徒の言葉と霊としてのイエス・キリストの出来事の証しであり証言であり、子なる神、イエス・キリストに関わる。この聖書は、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての啓示の実在=イエス・キリストと共に、教会の宣教における原理である。なぜなら、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である「聖書こそ」が、教会に宣教を義務づけているからである。したがって、「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」。
12)教会は、人間が、「人間にあまりに信頼」し、また「神にあまりに信頼」しないことによって成立している宗教的共同体・共同性ではない。教会は、神と人間との混淆論や共働論に基づく宗教的共同体・共同性ではない。したがって、教会の宣教が、時流や時勢や人間論や人間学に取り残されるのではないかという不安の中で自主的なプログラムを打ち立てる場合、教会の宣教の「規準としての聖書の性格」・「聖書の自由な力」は喪失される。
13)父なる神は、創造主としての神(創造の神)・永遠の父である。三位一体の根本命題に即して理解すれば、父なる神は、創造主としての神である。神の「存在の本質」としての一神=神の単一性・神性・永遠性の認識を保証するのは、神と人間との無限の質的差異における「父なる名の内三位一体的特殊性の認識」、すなわち神自身においてのみ「実在であり真理」である自在性の認識・自在であって他在としての自由の認識・区別を包括した自己同一性の認識にある。ここでバルトが、神と人間との無限の質的差異の概念と「父なる名の内三位一体的特殊性」の概念によって、ヘーゲル哲学を紙一重で超えていることを、私たちは理解することができる。したがって、次のように言うことができる――神と人間との無限の質的差異の下で、神の「存在の本質」は、自在性、単一性・神性・永遠性にあるから、父は子として「自分を自分から区別」するし、自己啓示する神として自分自身が根源である。したがって、その区別された子は父が根源であり、愛に基づく父と子の交わりである聖霊は父と子が根源である。この神は、子の中で「創造主として、われわれの父」として自己啓示する。また、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主である。同様に、神の「存在の本質」から言えば、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある。イエス・キリストが父として啓示する神は、「われわれの生を、死を通して永遠の生命に導くために死を欲し給う」神である。したがって、私たち人間を永遠の生命に導くために、「ゴルゴダにおいて、イエス・キリストにあって、イエス・キリストと共に、われわれすべてのものの生命が十字架につけられた」のである。また、バルトは、「内被造世界での、……父という呼び名は確かに真実である」が、「非本来的なもの」であり、「神の内三位一体的父の名の力と威厳に依存」しているものとして理解されなければならない、と述べている。この認識方法と概念構成は、啓示の出来事と信仰の出来事に基づく啓示認識に依拠した啓示の比論を通したそれであって、それは、自然神学的な神学の認識方法と概念構成だけでなく、ヘーゲル哲学をも根本的に包括し止揚したバルトの「超自然な神学」における一貫性のある認識方法と概念構成である。
14)聖書でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない差異性の中」で三つの「存在の仕方」=「存在の様態」(性質・行為・働き)において「三度別様」に父・子・聖霊なる神であって、その「存在」は「失われない」神性・単一性・永遠性を「本質」とする「一神」・「一人の同一なる神」である。したがって、「三神」・「三の対象」・「三つの神的我」ではなく、父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」の、神性・単一性・永遠性を「存在の本質」とする「一人の同一なる神」、すなわち「三位一体」の神なのである。したがってまた、神性・単一性・永遠性を「存在の本質」とする神の完全さ・自由さは、父・子・聖霊の三つの「存在の仕方」の完全さ・自由さなのである。「われわれに出会う神」である父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」は、「啓示者、啓示、啓示されてあること」、「神の聖(≪隠蔽≫)、あわれみ(≪顕現≫)、愛(≪父・隠蔽と子・顕現の愛に基づく交わり≫)」、「聖金曜日、復活日、聖霊降誕日」、「創造主なる神、和解主なる神、救済者なる神」の三つの「存在の仕方」に対応している。この神は、「隠蔽」と「顕現」において、またその都度の自由な決断において、「人間に対して自己を伝達」・啓示する。バルトは、この「三度別様」の「三つ」を、「他との関係なしにそれ自身で存在している」近代的な「個体」と区別させるために、「人格の名で呼ぶことを避け」て、「存在の仕方」・「存在の様態」と呼んだ(エーバハルト・ブッシュ『バルトの生涯』)。
 子なる神は、イエス・キリスト、和解主としての神(和解の神)・永遠なる子である。このことは先にも述べたことであるが、近代主義的プロテスタント主義神学群が、「キリストの永遠のまことの神性の告白」を信用しない場合、それは、その認識方法と概念構成が人間論的人間学的身体性に依拠した「視覚的錯覚」・感覚と知識を内容とする人間の経験・存在の比論に依拠しているからである。その場合、バルトが述べているように、和解に関して言えば、「赦す神」が人間に内在しなければならないことになり、その認識自体が自然神学的な思弁でしかないものなのである。そのような認識の在り方においては、イエス・キリストは、「下からの半神」・「超人」・人間の「最深の本質」・「最高の理想」・キリスト教的実存の範型・社会的奉仕活動の範型・事実的な政治的実践の範型等の単なる「空虚な概念」でしかなくなってしまう。したがって、バルトは、そうした自然神学的な神学や教会の宣教やキリスト教に対して、「キリストの神性についての教義」・思想こそが、一切の近代主義・一切の自然神学的な神学や教会の宣教・キリスト教およびヘーゲル哲学に抗することができ、またそれらを包括し止揚してそれから超出できるそれなのである、と述べた。すなわち、その神学における思想・教義こそが、「神的啓示と人間的な信仰の間」における神と人間・神学と人間学との混淆論・共働論・「神人協力説」を、その「幻想性」を、その「形而上学」性を打破できる信仰・神学における思想的武器なのである。
 神の自己啓示であるイエス・キリストについて、もっとよく理解するために、バルトに依拠して簡潔に整理してみれば、次のように言うことができる――@「最も単純な形」において「神の啓示の実在を問う」問いに対する「新約聖書の答え」、すなわち聖書の証言・証しとしての啓示の「概念の実在」は、「永遠なる神性」を存在の本質とする、「まことの神」であり「まことの人間」である「イエス・キリストの名」(神の言葉・子・存在の仕方)だけである。三位一体の根本命題に即して理解すれば、イエス・キリストのその「存在」は神性を「本質」としているから、「啓示の出来事においてはじめて神の子」「神の言葉」となるのではなく、「父を啓示するもの」、そして「われわれを父と和解させるもの」として、「イエス・キリストは神の子」・神の言葉・神の「存在の仕方」なのである。そのキリストの神性は、「啓示および和解におけるキリストの行為の中で認識」することができる。すなわち、その啓示と和解(「存在の仕方」)が「キリストの神性」の根拠ではなくて、「キリストの神性」・キリストの「存在の本質」である神性性が「啓示と和解を生じさせる」のである。ここに一切合財があるのであって、「赦す神」はたとえその人がまことの人間であっても人間に内在することは決してないのである。このイエス・キリストは、教会の信仰告白・教義における「一切の思惟、洞察、解釈、省察の前提」である。したがって、教会の「教義」は、私たちに対して「人間的な教育的な威厳」はあるとしても、「いかなる神的な威厳」も持ってはいない。これは、神と人間との無限の質的差異、神の隠蔽性、神の不把握性、終末論的限界における言表である。この自覚のもとで私たちは、使徒たちや古代教会の「教義が言っていることを、そのまま言うことができるし、言わなければならない」のである。A「イエス・キリストは主なり」という信仰命題は、「概念の最後的・究極的意味」において、イエス・キリストが神性を本質としており、「自分自身の中に基礎づけられて」、「唯一の」「もろもろの」「主」「主権」であるということを意味している。この神性を本質とするイエス・キリストの「存在」が、「イエス・キリストを直接に」「唯一の神である」「父の場所へと移す」。イエス・キリストは神であるという「キリストの神性についての命題」・単一性・永遠性を「存在の本質」とするキリストは、「彼の父を啓示する」・「父を啓示するものは神を啓示する」ということを意味している。このイエス・キリストは、啓示の中で、「主」として、「永遠の真理」および啓示の「実在自体」として、「降下突入してくる」。「われわれは、光よりの光、神よりのまことの神、造られずして生まれたものとしてのイエス・キリストを信ず」――この概念は、「キリストの神性についての三位一体神学の本来的にして決定的な規定」である。「造られずして、生まれ」とは、イエス・キリストの「存在の仕方」は、神性を「存在の本質」とする「神から由来する」ということを意味している。和解主としてのイエス・キリストは、神ご自身であり、したがって、その「存在の本質」は単一性・「神性」・永遠性であるがゆえに、イエス・キリストのその「存在の仕方」における「人間的『性質』」、「人間であること」、「神との和解者として、われわれに出会うところの人間」であることは、「啓示および和解として現実に有効」なのである。「超自然な神学」者バルトにとっては、「キリストの神性」の認識またイエス・キリストの出来事における神われら罪人と共にという認識は、その承認・受認によってはじまる。そのために不信仰な私たち人間には、永遠の言葉の受肉・イエス・キリストの啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事を必要とする。そして私たちは、その啓示認識に依拠した啓示の比論を通して「義とされた罪人」であること・「人間的不真実の中で、神的真理」について語ることが許された者であること・神に「敵対」し「耳を傾けず」「耳を閉じて」聞こうとしない自主性・自己主張・自己欲求にとらわれた真実の罪人であることを、自己認識することができる。この啓示認識の「可能性の主観的側面」は、「聖霊論」と関わる事柄である。B「創造された世界」における「神の愛」と「われわれの世界」における「イエス・キリストの事実の中における神の愛」との間には差異がある。すなわち、後者の神の愛は、『福音と律法』の「真理性」と「現実性」の構造における神の愛を意味している。それは、「まさしく神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった人間の失われた世界に対する神の愛」である。すなわち、「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない。この意味は、「和解ないし啓示」は、神の「存在の仕方」の差異性における「第二の存在の仕方」=イエス・キリストの「新しい神の業」である、ということである。それは、「神的な愛の力」・「和解の力」である。イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、神の「第二の存在の仕方」において「第二の神的行為を遂行」したのである。この神の「存在の仕方」の差異性における「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者≫)と言葉(≪啓示≫)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、創造主・父に先行することはできない。しかし、父・子は共に神自身のその「存在」において神性・単一性・永遠性を本質としているから、この従属的な関係は、「存在の本質」の差異性を意味しているのではなく、「存在の仕方」の差異性を意味している。言い換えれば、このことは、父なる神の存在の仕方の中での一人の神(存在の本質)・子なる神の存在の仕方の中での一人の神(存在の本質)・聖霊なる神の存在の仕方の中での一人の神(存在の本質)、という神の「存在の本質」(単一性・神性・永遠性)とその神の人間へと向かう「存在の仕方」(性質・行為・働き)における自在であって他在である神の自由を意味している。「創造が無からの創造であるように、和解は死人の甦り」である。「われわれは創造主なる神に生命を負うているように、和解主なる神に永遠の生命を負うている」。この神の自由において創造は、「契約の外的根拠」として、イエス・キリストが始原であり中心であり終極である「恵みの契約の歴史のための場所設定」である。また恵みの契約の歴史は、「創造の内的根拠」として、創造の目標であるその契約の歴史の始原であり、中心であり、終極であるイエス・キリストご自身である。それは、父なる神と子なる神と「父と子より出ずる御霊」の三一論的な神自身の自己啓示、自己認識・自己理解・自己規定である。神性を本質とするまことの神でありまことの人間である「イエス・キリストにおける神の愛」は、神自身の「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」(『ロ−マ書』)。15)聖霊なる神は、救済主なる神(救済の神)・永遠なる霊である。三位一体の根本命題に即して理解すれば、聖霊なる神は、「三度目」に、父と子の二つの存在の仕方から生じる「一つの存在の仕方」である。しかし、この聖霊の存在の仕方は、父と子の啓示に対する「特別な第二の啓示」ではない。聖霊は、「父なる神と子なる神の愛の霊」である。ここに、聖霊の「起源」がある。この聖霊において、父と子(≪神的対関係≫)は、愛に基づく完全な共存的な関係・交わり(≪神的共同性≫)においてある。すなわち、聖霊は、その「交わり」の中で、「父は子の父」・「言葉の語り手」であり、「子は父の子」・「語り手の言葉」であるところの「行為」・性質・働きである。ここに、神は愛・愛は神であることの根拠がある。「愛は神にとって、最高の法則であり、最後的な実在」である。愛は、自由がそうであったように、先ず以て神自身においてのみ「実在であり真理」である。この聖霊は、三度目の最後的な「存在の仕方」として、神にとって最高の法則・愛であって、その愛に基づく父の「存在の仕方」と子の「存在の仕方」の交わり・関係であり、神と人間との交わりの根拠である。このことは、啓示の出来事と信仰の出来事に基づく啓示認識である。すなわち、私たちは、この神の他在としての外に向かっての三つの働き・「存在の仕方」における啓示の「事実」を、ただ承認し受認し確認できるだけである。「父と子より出ずる御霊」――これは、聖霊の「神性の定義」である。この聖霊は、復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である。聖霊は、「啓示への個人的な参与を保証する」。パウロにおいて、「霊にあって」とは、「救いの福音を聞き、信じるようにさせる霊」・「知恵と啓示の霊」による「神の啓示への参与」、すなわち聖霊の注ぎによる信仰の出来事における「人間の思惟、行為、語ること」を、「主観的に表示している概念」である。また、「キリストにあって」とは、啓示の出来事=イエス・キリストにおける出来事と「全く同じ事柄を、客観的に表示している概念」である。
 聖書によれば、聖霊は、私たち人間の「救済主」である。しかし、聖霊は、「救済主」であるだけではない。聖霊は、その「存在の本質」である単一性・神性・永遠性において、「子とともに、子の霊として、また和解者」でもあり、また、「父および子とともに創造主なる神」でもある。新約聖書の「イエスは主である」という「証言」は、神性を本質とするイエスを、「事実の承認」として・「思惟の初め」として語っている。したがって、この「イエスは主である」・「子を通しての父を、父を通しての子」を信じるこの「信仰」=神との出会いであるイエスとの出会い=「信仰の出来事」は、聖霊の注ぎによる。この信仰の出来事は、新約聖書において、「啓示の出来事の中での主観的側面」・「聖霊の注ぎ」による人間的主観に実現された神の恵みの出来事・啓示認識・啓示信仰の主観的現実化のことである。すなわち、私たちは、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて全人間・全世界・全人類の救済が、神の側の真実であるイエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)=啓示の客観的現実性にのみあることを認識し信仰することができる。また、救済を「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」にとっての<いまだ>であり、神の側の真実である啓示の客観的現実性、「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである。バルトに依拠して言えば、「聖霊の働きの本質的なもの」・「直接性」は、@私たちが、「一人の主」なる神をのみ、「主として持つ自由」を私たちに与えるがゆえにそのように告白することを要求する。A私たち人間の「中に」も・「中から」も、「純粋なもの、聖いものは何も出て来」ないと告白することを要求する。B私たち人間の「理性や力ではイエス・キリストを主と信じることもできず、知ることもできない」と告白することを要求する。C私たち人間の究極的限界性・終末論的限界を告白することを要求する。
 さて、イエスが「聖霊の特別な働きとして約束」したものは、「慰め主」としての霊と「真理の御霊」であるが、聖霊は、聖書の中の「キリスト教原理を、覆いをとって明らかにする」・「キリストについて語ることができる能力」授与(ヨハネ14・26)であり、「上から」の「よき賜物」である。この聖霊の注ぎにより「聖霊を持つ」ということは、「キリストにおいて起こった和解にあずかること」であり、「キリストと共に、死から生命への」方向転換におかれることである。この二つの方向転換において「イエス・キリストにあっての神の啓示の要素としての霊の本質」は、「キリストにある自由」を意味している。この「キリストにある自由」とは、「キリストの奴隷」となることであるが、そのことは、私たち人間が、その存在・その思惟・その実践において、神の側の真実=主格的属格としての「イエスの信仰」=啓示の客観的現実性にのみ信頼し固執することを意味している。この聖霊が、教会を「み言葉の奉仕」へと向かわせる。また「聖霊はみ子の霊であり、それ故、子たる身分を授ける霊である」から、私たちは「聖霊を受けることによって」、「イエス・キリストが神の子であるという概念」を根拠として、私たちは「神の子供」・「世つぎ」・「神の家族」であり、「『アバ、父よ』と呼ぶ」(ローマ8・15、ガラテヤ4・5)ことができる。そしてまた、「和解者が神の子であるがゆえに、……和解、啓示」の受領者たちは、受領者と授与者との無限の質的差異において、「神の子供」なのである。このことは、啓示の出来事と信仰の出来事に基づく啓示認識、それに依拠した啓示の比論を通して得られる人間の自己認識である。

 

(予定)
 次回は、『教会教義学T/1』に即して、三位一体としての啓示における神、をもう少し詳しく論じる。
 第3回は、『教会教義学T/1』に即して、神の三位一体性、をもう少し詳しく論じる。
 第4回は、『教会教義学T/1』に即して、父なる神、をもう少し詳しく論じる。
 第5回は、『教会教義学T/1』に即して、子なる神、をもう少し詳しく論じる。
 第6回は、『教会教義学T/1』に即して、聖霊なる神、をもう少し詳しく論じる。