カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

『イスカリオテのユダ――神の恵みの選び――』(その2−1)

『イスカリオテのユダ――神の恵みの選び――』(その2−1)
再推敲・再整理版です。

 

カール・バルト『イスカリオテのユダ――神の恵みの選び――』川名勇訳、新教出版社に基づく

 

 この翻訳本は、訳者「あとがき」によれば、1942年刊行の『教会教義学U/2 神に関する教説』(吉永正義は「神論」と訳している)にある「(神の恵みの選び)の第三五節(個人の選び)の第四項(棄てられた者)の注の全訳を本論とし、序論としてオットー・ヴェーバー(カール・バルトの教会教義学入門)の六八−七八頁の翻訳を中心にバルトの原著を適宜、挿入した紹介を付け加えたものである」と記されているから、先ず以てオットー・ヴェーバーや川名勇のバイアスがかかった本でもあるということを念頭に置いて読んでいく必要がある。何故ならば、ヴェーバーは、『和解論』「第13章 神わららと共に」を、次のように論じているからである(『カール・バルト教会教義学 和解論T/1』「和解論の対象と問題」)――(ア)バルトにとって、イエス・キリストが「インマヌエルであり、『神われらと共に』であり給う」。また、バルトは、「実存哲学を用いることをしないで、客観・主観の分裂の克服は、イエス・キリストの名という現実の中に、すでにあらかじめ与えられていると考える」、と。このことが、われわれ人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)は、客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられるものである、というように理解されたものであるならば首肯できるものである。何故ならば、「神に敵対し神に服従しない」われわれ人間は、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは(≪生来的な自然的な人間理性を含めて≫)神に接するための器官や能力」を一切持ってはいないから、起源的な第一の形態の「神の言葉(≪具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言≫)が人間によって信じられる……出来事」――すなわち信仰の出来事は、直接的無媒介的な先行させた「人間自身の業」ではなく、徹頭徹尾神のその都度の自由な恵みの決断による「神の言葉自身」――すなわち起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動(客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の自己運動、すなわち「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」)とその啓示の出来事の主観的側面としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」である「聖霊の注出」(「聖霊の注ぎ」)においてのみ可能となる出来事だからである、すなわち「言葉を与える主」は、同時に「信仰を与える主」だからである。しかし(イ)「バルトは『客観的なもの』を重視あるいは絶対視し、ブルトマンは『主観的なもの』を重視あるいは絶対視するという風に、規定することは出来ない。その対立は、さらにいっそう深いところにある」。このような思惟と語りは、神学における思想の問題について、それ故にその問題を明確に提起するということについて、何も言わないのと同じである。(ア)と(イ)の曖昧模糊としたヴェーバーの思惟と語り――これではやはり、橋爪大三郎に『ふしぎなキリスト教』で、「一番肝腎なところが書かれていない。根本的な疑問ほど、するりと避けられてしまっている」と書かれても仕方がないのである。神学における思想の問題は、次の点にあるのである――ブルトマンが、先行させた前期ハイデッガーの哲学原理(人間学)を第一次化させることによって、それ故に旧態依然として、先行させた人間からする神との「混淆」・「混合」、神との「共働」・「協働」、「神人協力」、先行させ第一次化させた人間学と神学との「混合神学」を目指す、それ故にまさにフォイエルバッハやハイデッガーが客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的に原理的に批判した対象そのものである人間的理性や人間的欲求やによって対象化された「存在者レベルでの神への信仰」(偶像神信仰)を目指す、それ故にまた先行させた人間の「自己表現としての宣教」を目指す自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返しているのに対して、バルトは、徹頭徹尾「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を堅持し、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示は、その啓示自身に固有な証明能力を、キリストの霊である聖霊の証しの力を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、全き神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて啓示認識・啓示信仰を与えることができる授与能力を、聖霊自身の業である客観的可視的に存在している「啓示されてあること」――すなわち「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造を持っている、それ故に第三の形態の神の言葉に属する教会、その一つの機能としての神学は、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、その思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者とすべきである、総括的に言えば先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」という立場において、古今のすべての自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階を根本的包括的に原理的に止揚し克服して、<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと移行したのである――このような神学における思想の問題を明確に提起するというバルトの在り方に、神学における思想家の貌を見ることができるのである。因みに、バルトにおける「インマヌエル」についての理解は、次の点にある――「『神がそこでわれわれに出会い給うその恵みの御言葉は、イエス・キリストと呼ばれる。すなわち、神の子にして人の子、真の神にして真の人、インマヌエル、この一つなる方におけるわれらと共なる神である』と、答えうるにすぎない。キリスト教信仰は、この『インマヌエル』との出会いである。(≪「和解ないし啓示」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉としての≫)イエス・キリストとの出会いであり、イエス・キリストにおける神の活ける御言葉(≪起源的な第一の形態の神の言葉である≫)との出会いである。われわれが(≪第二の形態の神の言葉である≫)聖書を神の御言葉と呼ぶ場合……、われわれは、それによって、聖書を、この神の唯一の御言葉についての(イエス・キリストについての、神のキリストであり永遠にわれわれの主にして王なるイスラエルから出たこの人についての)預言者・使徒の証しとして(≪イエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性も賦与され装備された預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」として≫)、考えているのである。そして、われわれがそのことを告白する場合、われわれが(≪第三の形態の神の言葉である≫)教会の宣べ伝えを神の御言葉と敢て呼ぶ場合、それによってイエス・キリストの宣べ伝え(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、教会の宣教、その思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、あの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」という連関≫)が理解されていなくてはならない」(『教義学要綱』)。「私は……『今日の神学的実存』誌の第一号において……何も新しいことを語ろうとしたのでは ……ない。すなわち、われわれは神と並んで、いかなる神々をも持つことはできないということ、(≪その人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての≫)聖書の聖霊は、教会をあらゆる真理へと導くのに十分であること、イエス・キリストの恵みは、われわれの罪の赦しとわれわれの生活の秩序にとって十分であることを語った。但し、私がまさにこのことを語ったのは、それがもはやアカデミックな理論などといった性格にはとどまりえず、むしろ、私がそういうものにしようともせず、また実際にそうしなかったのに、それが呼びかけ、要求、戦いの標語、信仰告白にならざるをえなかったという状況においてであった」、と(『カール・バルトの生涯』)。したがって、バルトは、教会の宣教(説教と聖礼典)は「自己表現としての宣教」であってはならず、またその説教は、説教者の自由事項や決定事項ではないのであるから、すなわち自己主張という恣意的独断的な「自分自身の言葉から由来すべきではない」のであるから、「どのような場合であれ、その形式と内容において、聖書への絶対的信頼に基づく聖書講解であることの義務を負っている」と述べたのである(『説教の本質と実際』)。

 

 さて、バルトのように徹頭徹尾神の側の真実としてある事柄にのみ依存するのではなく、この本の序論で、ローマ3・22、ガラテヤ2・16等の「イエス・キリストの信仰」を人間的契機の直接性に依存させた目的格的属格(イエス・キリストを信じる信仰)として理解しているオットー・ヴェーバーと彼に依拠した川名は、「選ばれるという出来事は、具体的には(≪先行させた人間の側からする≫)『彼(≪イエス・キリスト≫)への信仰のうちに』成立するものである」と述べている。そのことを、「バルトは、(中略)イエスを信ずるとは、彼の復活と彼の祈りを目の前に置き、心の中に保つことを意味する。まさにそのことこそ、選ばれるという意味である」と述べている。しかし、このような、神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける「神の放棄」を包括した「神の選び」ではないところの、また「不信」を包括した「信」ではないところの、直接的無媒介的な人間の側からする「信」と「選ばれること」を語る彼らとは全く違って、バルトは、次のように思惟し語るのである――先ず以て「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり(≪生来的な自然的な≫)『自分の理性や力(≪知力、感情力、意志力等≫)によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、(≪主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい≫)という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」、と(『福音主義神学入門』)、また「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の「イエス・キリストの信仰」(≪ギリシャ語原典ピスティス・イエスー・クリストゥーの属格≫)は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである」(神の側の真実としてあるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストが信ずる信仰による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済、平和そのものは、主格的属格として理解された「ただイエス・キリストの名だけ」である)――このことが「福音と律法の真理性」における福音の内容である、また「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、(≪神の側の真実としてある≫)神の子が信じ給うこと(≪主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」――このイエス・キリストが信ずる信仰による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの≫)に由って生きるのだということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(われわれの「召命」、「和解」、「義認」、「聖化」、「救済」、そして「更新」を可能とするのは、「今日に至るまで罪人の手に渡され・十字架につけられ・死んで甦られ給うたイエス・キリストにある『復活の力』のみ」である)――このことが、「福音と律法の現実性」における勝利の福音の内容である。

 

 さて、『教会教義学 神論』「神の恵み」(1942年)の内容は、『カール・バルト著作集3』の「ハンガリーとルーマニアに旅行した際に、デブレッツェンとクラウゼンブルクの神学大学で行った講義」の『神の恵みの選び』(1936年)の内容の豊富化と深化(研究成果の時間累積)としてあるから、神学における思想家のバルトの場合、その内容は一貫性を持っているのであり、そこでは、次のように述べられている――先ず以て「神の恵みの選び」とは、「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在」における内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての外的・外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方(性質、業、働き、行為、行動)、すなわち父、子、聖霊なる神の愛の行為の出来事としての神の存在の「選び」に関わる事柄として、「予定説」は、「イエス・キリストにある救いの自由な表現」そのものである。言い換えれば、それは、その死と復活の出来事において「真に罪なき、従順なお方」まことの神にしてまことに人間イエス・キリスト自らが、われわれ人間のために、われわれ人間に代わって、「見捨てられた人間となり、その罰を引き受け給うたということである」。すなわち、それは、「福音と律法の真理性」と「福音と律法の現実性」の全体性・総体性ということであるから、イエス・キリストをのみ信ずるということ、イエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執し固着するということに関して、第一次的な直接的な契機はわれわれ人間には全く何もないということを意味している。したがって、そのイエス・キリストの死と復活の出来事における内容は、「生来人間は、神の恵みに敵対し、神の恵みによって生きようとしないが故に、このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急であった」ということを、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に依拠して、その信仰の類比を通して、われわれは自己認識・自己理解・自己規定させられ、自覚させられるのである、承認し確認するのである。その時、われわれは、「神の選び」を「イエス・ キリストの復活」において認識し、「神の放棄」を「イエス・キリストの十字架」において認識することができるのである、「神の選び」に包括された「神の放棄」について認識することができるのである、その事柄をその全体性・総体性において認識できるのである。それだけでなく、その時また、われわれは、「われわれが本当に神の啓示を認識する時、われわれは初めて、神に対する人間的反抗、「神の敵」、「神に相対して、自分の力を誇り、まさにそのことの中でこそ罪深い堕落した人間として自分自身を、またそのような人間の世」を、自己認識・自己理解・自己規定することができ、自覚することができるのである。
 まさに「永遠のまことの神性」を本質とする「十字架のイエス・キリストこそが、神に選ばれたお方」である。われわれ人間は、それが人間論的な自然的な人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、「そのままでは恵みを受け取る状態にはない」し、また「自分でそのような状態にすることもできない」のである。したがって、「もし人がその恵みを受け取り得たとすれば、そのこと自体が恵みなのである」。すなわち、「私たちの召命・義認・聖化」は、われわれ人間的契機の直接性において無媒介的に「私たち自身の中に生起」するのではなく、徹頭徹尾「イエス・キリストの御業として、私たちのために、私たち自身の中に生起する」のである。このようにキリストにあっての神の「恵みの選びを認識する場合、私たちに要求する洞察はイエス・キリストを信ずる信仰の二重の洞察」、すなわち「パウロの神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順の中に閉じ込めたのであるという二重の洞察」は、福音の内容そのものである主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリスト」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済、平和そのものである「イエス・キリストを信ずる信仰」(ここで、バルトは「を」に強調点を付している)において明らかとなる(このことは、まさにキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請である。すなわち、ただ主格的属格として理解されたイエス・キリストをのみ信ぜよ、このイエス・キリストにのみ感謝をもって「固着」せよ、このイエス・キリストをのみあの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」という連関において告白し・証しし・宣べ伝えよ)。何故ならば、われわれが、そのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法に生きようとする時、初めて、われわれは、その信仰に全く生きていないし・全く生きようとしていないし・全く生き得ないということを、また常に神から遠ざかり・遠ざかり続けているということを、また罪を新たな罪を犯し続けているということを、総括的に言えば自主性・自己主張・自己義認の欲求のただ中で、換言すれば無神性・不信仰・真実の罪のただ中で生きているということを、自己認識・自己理解・自己規定させられ、自覚させられるからである。したがって、バルトは次のように語るのである――マルコ福音書の「信じます。不信仰な私を、お助け下さい」、「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい」。「私たちが神に向かって語る。『ああ……!』というこの小さな嘆息」、それは、「すべての祈りの源」である。「そこにはただ、(≪「赦す神」としての「永遠のまことの神性」を本質とする≫)神の子の全く素直な赦しがあるだけである。あなたが祈れない時、この赦しを用いるのが、あなたのなすべきことである」、と。
 このような訳で、われわれは、パウロの語る「すべての人」において、「放棄される危険の全くない選ばれた者とか、選ばれる約束も一切ないほど放棄された者が存在するという考えは、はっきりと排除されている」ことを理解すことができる。したがって、このことは、「イエス・キリストにあるときにおける威嚇である」。しかし、われわれは、「イエス・キリストにおいて与えられた約束によって、この威嚇から解放されている」。すなわち、その死と復活の出来事におけるイエス・キリストにおいては、換言すれば「福音と律法の真理性」と「福音と律法の現実性」の全体性・総体性としてのイエス・キリストにおいては、その「威嚇」は、止揚された威嚇、「克服された威嚇」である。何故ならば、「すべての人を救うために、罪なきただ一人の選ばれたイエス・キリスト」が、「この怒りを正しい怒りとして引き受けて下さったが故」に、われわれは、「イエス・キリストにあって死なないで、生きるであろうという約束が与えられている」からである。神は「すべての人をあわれむために、すべての人を不従順の中に閉じ込めた」については、全き自由の神の全き自由の「恵みの選び」においてということであるから、「罪の増し加わったところには、恵もますます満ちあふれた」と言うことができる。ここにおいて、われわれは、新たな啓示認識を得ることができる。すなわち、それは、われわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求、無神性・不信仰・「真実の罪」の一切は、その死と復活の出来事におけるイエス・キリストによって止揚され「克服された」それであるということである。また、イエス・キリストは、われわれ人間に対して、イエス・キリストにのみ「固着」する霊を授与されるということである。したがって、信仰の出来事としてのイエス・キリストを信ずるということ、「イエスは主なりと告白する」ということ、それは、全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」における神の恵みの賜物である「聖霊の注ぎ」によるのである。

 

 さて、本書にある「棄てられた者は、神の御前に棄てられた者として独立した存在を持っているのではない。彼はただ棄てられた者でしかないように神によって定められているのではない」、新約聖書において特定の人間のユダは、「永遠的刑罰の具体化」の例や「救いようのない棄却と喪失の例」ではない、「選ばれた者とは、……選ばれた『棄てられた者』」であるとは、前述したことなのである。すなわち、「棄てられた者は、神の御前に棄てられた者として独立した存在を持っているのではない。彼はただ棄てられた者でしかないように神によって定められているのではない」ということは、すべての人々は、神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける「神の放棄」を包括した「神の選び」において、また「不信」を包括した「信」において存在することがゆるされているということである。また、「選ばれた者とは、……選ばれた『棄てられた者』」ということは、キリストにあっての神は、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事が授与された信仰者として、「選ばれている『棄てられた者』となることを望んでおられる」ということである。したがって、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教は、あの「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)――「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請)という連関において、すべての人々が純粋なキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えへと向かわなければならないのである。この事柄は、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」である(『福音と律法』)。

 

 さて、バルトは、イスカリオテのユダの問題を、他人事ではなく、まさに使徒団の只中にある、現存する信仰・神学・教会の宣教の只中にある、内在的問題として取り扱い語っている。
 新約聖書における、イエス自らが「選んだ」(ヨハネ6・70)使徒(召命、任命、派遣された者)の一人としてのユダ(イエスと同じユダ族)およびユダの罪、ユダについての主調音は、「予定された働きをもった予定された人物のように登場する」点にある。「あなたたちのうちには信じない者たちもいる。」「イエスは最初から、信じない者たちがだれであるのか、また、御自分を裏切る者がだれであるのかを知っておられたのである」(ヨハネ6・64)。そして最後にイエスはユダに向かって、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」(ヨハネ13・27)と言われた。したがって、バルトは、ヨハネ6・68以下について、ペテロだけでなくユダも「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」――このような、先行させた人間の直接的契機の主観性の中における真実の告白(主観的にだけ真実の告白)は、それは裏側に「不信」を隠し持っている(例えば、マルコ14・29以下――「ペテロが、『たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません』といった。イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。』ペテロは力を込めて言い張った。『たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。』皆の者も同じように言った」。しかし、14・66以下で、ペテロは、イエスが言われたように、「鶏が二度鳴く前に、……三度」、イエスを「知らない」と言った)。何故ならば、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ人間は、生来的な自然的な「『自分の理性や力(≪知力、感情力、意志力等≫)によっては』――全く信じることができない」からである。また、啓示認識・啓示信仰の授与という信仰の出来事は、「聖霊の注ぎ」によるのであるが、われわれ人間の側に信仰の出来事を起こさせる聖霊は、「人間精神と同一ではない」し、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」し、聖霊によって更新された理性も聖霊ではないのであるから(『教義学要綱』)、われわれ人間が、われわれ人間の自由事項・決定事項として、「わがまま勝手に」聖霊を実体化することは許されないし・できないからである。

 

 先に述べたように、新約聖書が伝えているユダは、「一人の本当に棄てられた者がいたというようなことではない」。すなわち、イエスに「選ばれた」「本当の使徒たちの一人」であるユダが、同時に、「イエスを裏切る者として」、「棄てられたものであった」ということである。すなわち、バルトは、「棄てられた者は、神の御前に、棄てられた者として独立した存在を持っているのではない」、「彼はただ棄てられた者でしかないように神のよって定められているのではない」と語る。したがって、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて信仰するとは、「自分が選ばれている『棄てられた者』であることを」告白するということである。言い換えれば、このことは、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠して、その信仰の類比を通して、われわれは、「神の選び」を「イエス・ キリストの復活」において認識し、「神の放棄」を「イエス・キリストの十字架」において認識するということである、その「神の選び」に包括された「神の放棄」というその全体性・総体性において認識するということである。

 

 さて、バルトは、ユダの裏切りについて、次のように述べている――「裏切る」と訳された言葉は、「もともとは、ずっとアクセントの弱い言葉で『引き渡す、ゆだねる』というほどの意味である」。この意味からすれば、ユダの行為は、イエスを、「ただ引き渡したに過ぎない行為」であり、その行為の本質は、「彼の弟子と使徒のうちの一人によって、教会の真唯中から」、「『人々の手に』」、イエスを出来るだけ目立たないように捕える機会をうかがっていた「祭司長たちの手に、異邦人の手に――そして十字架に向けられた手に――引き移された」、「引き渡たされたということである」。ただその行為は、十字架へと続く端緒となっている。したがって、「福音書のユダを正しく理解するためには、この出来事の全く取るに足らぬ性格とその重大な結果という両面を見なければならない」。それだけでなく、その「イエスの弟子、使徒」であるユダの「引き移し」、「引き渡し」の行為は、「十二使徒自体が、……イスラエルおよび異邦人世界と共に、イエスに対して咎を負っている」ということを意味していると同時に、「そのことによってイエスが十二使徒とイスラエルとこの世に対し」、神の側の真実としてあるその死と復活の出来事において、換言すれば子なる全き自由の神の存在としての全き自由の神の全き自由の愛の行為の出来事において、「神の御意を行うようになるためである」。イエスの引き渡しの「原初的」・「根源的」な「罪と咎」は、「ユダに帰せられる」。すなわち、ユダは、「新約聖書の最大の罪人そのものである」。そのユダにおけるイエスの引き渡しの計画は、「光は闇の中に輝いている」(ヨハネ13・30)場所において、「実に悪魔」の方からやってくる。その「夜」「闇の業」は、「イエスの民の業、狭い意味における……使徒ユダという形」における「イエスの民の業でもある」。しかし、使徒職は、イエスの召命によるそれであり、またイエスが「彼らに対し臨在と守護と保護を与えてこられた」それであるから、「使徒自体は全くきよい」のである。したがって、イエスの洗足は、すべての使徒にもある「きよくない部分」としての足の払拭行為、すなわち「全体きよい者といえども持っている、きよくない部分」の払拭行為である、「すべての使徒にも残っている」「きよくない部分」・「足の汚れ」を、「ぬぐい去る」行為である。したがって、この意味で、ユダは、使徒全体にある「きよくない部分」の代表である。また、イエスを「引き渡し」たユダは、「イエスの臨在と守護と保護が、イエスの選んだ者に対しても無駄になってしまうことがありうるという事実」と「その程度」を明らかにする「人物」の代表である(ヨハネ12・1−8)。
 すべての使徒の「きよくない部分」の代表とされる「ユダの汚れ」とは何か? バルトは、次のように述べている――家の中が香油の香りで包まれてしまう程に、ラザロの姉妹マリアは、「三百デナリオン」する「純粋で非常に高価なナルドの香油」を「イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった」。このマリアの行為は、イエスの「死に栄光を帰す」「捧げ物である」。ほんとうは、このマリアの在り方こそが、「使徒たちの生活」(教会の宣教)でなければならない。そうする時には、そうした使徒たちの「生活によって」、「この世界」も香油の香りでいっぱいになるだろう。しかし、そのためのマリアの、神の側の真実としてあるイエス・キリストに対する「全然物惜しみしない、無私の」、「完全に謙遜な行為」、「全面的献身」の行為は、イエスの死に栄光を帰そうとしないすべてのその思惟と語りと行動、その自己欺瞞に満ちた市民的常識・市民的観点からは浪費でしかなかったし、浪費とにしか思えない行為であった、特にすべての使徒の「きよくない部分」の代表であるユダにとってはそのように思えた。自己欺瞞に満ちた市民的常識・市民的観点からするあるいは文学的には嫉妬心(太宰治『駆込み訴え』)からする思惟と語りと行動に憑依された「きよくない部分」の代表であるユダには、マリアの行為を理解することは出来なかった。使徒団の中にあってイエスと同じ「ユダヤ人を代表している」ユダにとって、「イエスなどは、自分の考えた善事に比べれば、結局は取るに足りぬものでしかなかった」、ユダにとっては「イエスに従うことは、目的ではなく自分の目的達成のための手段」であった、それ故に「盗人」ユダは、他の使徒に対してだけでなくイエスに対しても、自分が主導権を取ることを望んだ、「自ら支配する自由」を望んだ、ユダは「イエスに束縛されようとはしなかった」、「イエスに自分を捧げようとはしなかった」、それ故にまたその対価である「銀貨三十枚」のために、「イエスを棄ててしまうことが出来た」、ちょうど自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返すことを目指す時にそうなってしまうように。このイエスに対するユダのその思惟と語りと行動実践が、「ユダの罪」・「咎」・「汚れ」である。その「罪」・「咎」・「汚れ」・「きよくない部分」・「足の汚れ」は、「イスラエルが常に、ヤーウェと並んで他の神にも仕える道を開き」「ヤーウェを常に銀三十枚で売り払ってきた」それであり、すべての使徒にもある「使徒全体」のそれであり、また「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を堅持せず、先行させた人間の側からする神との「混淆」・「混合」、神との「共働」・「協働」、「神人協力」、先行させた人間学と神学との「混合神学」、二元論的なキリストの福音の宣教(言葉)だけでなくそれとは独立させた社会的政治的実践(行為)との「混合宣教」を目指す、現存する自然的な信仰・神学・教会の宣教にもあるそれである。言い換えれば、「汚れた者」としてのすべての使徒の代表であるユダが意味していることは、「イエスの死に栄光を帰すより何か重要な目的がこの人生にあるとする者」のことであって、その場合、「本来きよくない者であり、イエスの選びに逆らい、自分を使徒とすることを不可能にする者である。このような者こそイエスを引き渡さざるを得ず、また実際引き渡してしまう者であり、しかも十字架につけるために人々に引き渡してしまう者である」。これらのバルトの論述の内容は、総括的に言えば、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教に対する、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、教会の宣教、その一つの機能としての神学、その思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者としたところからする根本的包括的な原理的な批判である。

 

 さて、ユダは、「イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして」(マタイ27・3)、「≪わたしは罪のない人の血を引き渡すようなことをして、罪を犯しました≫」(マタイ27・4)、と「未来喪失」の「自己審判」としての死を伴う後悔をしていることから、われわれは、ユダがイエスの十字架の結末までは考えていなかったことを知ることができる。しかし、当然にも、そのユダの行為は、「罪」・「咎」・「汚れ」であり続ける。この場合、「心からの悔い改め、罪の告白、行為による充足」は、ユダとイエスの間に「客観的に、取り返しのつかぬものとして起こった事柄」として、すなわちユダのその「行為において」、「ユダ族は、自分たちに約束され、……贈られたメシヤを棄ててしまったことを証明する」「取り返しのつかぬ出来事」として、また「使徒全体も、メシヤを棄ててしまったことについて同罪とされる」「取り返しのつかぬ出来事」として認識する点にある。しかし、そのことは、イスラエルよっては、またユダ自身によっては全く不可能である。また、そのことは、ユダ以外のすべての使徒によっても、教会によっても、全く不可能である。したがって、われわれは、ユダのその「罪」・「咎」・「汚れ」が心からの悔い改めとして成立し可能となるためには、すなわち「浄化、聖化、更新」されるためには、「永遠のまことの神性」を本質とするイエス・キリストの死と復活の出来事を必要とすることを認識するのである。「赦す神」の側からやってくるのである、すなわちその死と復活の出来事におけるイエス・キリストの「まことの人間」性からやってくるのではなく、「まことの神」性からやってくるのである、換言すれば「われわれ人間の更新を可能とするのは、今日に至るまで罪人の手に渡され・十字架につけられ・死んで甦られ給うた」「永遠のまことの神性」を本質とする「イエス・キリストにある復活の力だけである」。いずれにせよ、先ず以ては、「もし万一可能となるとすれば、それはただ(中略)イエスがその死において、全世界の罪のために、従ってまたイスラエルの罪のために、従ってまたユダの罪のためにも、成し遂げ給うた、本来の事態改善の力によってのみ可能となる」。そして、その神の恵みの現実化は、「イエスの復活」によるのである。したがって、イエスの死と復活の出来事の「成就」のこちら側において、イエスの棄却を遂行したユダの悔い改めは、すなわち「マリヤとは違って、来るべき和解にあずかることを初めから断念していた」ユダの悔い改めは、まだなお依然として「棄てられた悔い改め」でしかないのである。
 このように、ユダは、第二の形態の神の言葉に属する使徒としても、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会においても、「未来喪失」の代表であって、教会において「将来」、未来を持つのは、マリアのその思惟と語りと行動に代表される「使徒職」、教会だけであると言うことができる。バルトは、ユダが自分で買った地所に「まっさかさまに落ちて、腹がまん中から裂け、はらわたがみな流れ出てしまった」(使徒行伝1・18)について、新約聖書において「はらわた」は「はっきり外に表された、人間の最も内面的なものにほかならない」から、ユダは、「自分自身によって」死んだのではなくて、「自己審判」として「自分自身に」(バルトは、「に」に強調点を付している)「死なざるをえなかった」、換言すればユダのように「イエスを殺す者」は「自分自身をも殺す」、と述べている。この意味で、バルトは、「ユダはまさに事実上、(≪第二の形態の神の言葉である≫)使徒団と(≪第三の形態の神の言葉である≫)教会の真唯中におけるイスラエルの代表として『滅びの子』、サタンがはいりこんだ者、いや悪魔ですらある」と述べている。