カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

「義認と法」

「義認と法」
再推敲・再整理版です。

 

『カール・バルト著作集6 政治・社会問題論文集 上』「義認と法」新教出版社に基づく

 

 バルトは、「義認と法」、換言すればキリストの国と人間の地上の国家、教会と国家について、「新約聖書に関する試論」として述べている。
 バルトは、『義認と法』の「二 国家の本質」においては、次のように述べている――パウロ(ローマ13・1、テトス3・1)やルカ福音書(12・11)の「権威」・「支配」・「支配者たち」(「国家」)・「権力」・「王座」・「権勢」(類概念としては「御使」)は、「造られた力」でありながら、「不可視的・霊的・天的な力」(換言して言えば、実体ではなく、観念の共同性を本質とする力、権威、権力)であり、「他の被造物」に対して「その上にありつつ」(換言して言えば、それを疎外・外化した<第一義性>・<価値性>としての主体はこちら側にあるのも拘わらず、<第一義性>・<価値性>が、その疎外・外化された観念の共同性を本質とする力、権威、権力の方へと移行して)、「或る独立性を持ち、このような独立性を持つことによって、また同時に或る卓越した価値・課題・機能」(換言すれば、「私利・私意」を精神とする現実的な市民社会内部における利己主義的な私的他者との対立・争い・矛盾、また利害共同性との対立・争い・矛盾を、観念的、法的、政治的に調整する機能、法的政策的な共同的観念(国家の言語)よって「公的共同性の一員」、「公民」として統一する機能)を持ち、或る現実的な影響を及ぼすものである」、と述べている。バルトはさらに続けて、次のように述べている――現存する観念の共同性を本質とする国家を大多数の被支配としての一般大衆、一般市民、一般国民に部分的相対的緊急的にどこまでも開いていくという過渡的課題とその観念の共同性を本質とする国家の無化を伴う社会的現実的な人間の全体的永続的な解放という究極的課題との総体としての国家論における過渡的な国家は、「神の意志と定めによって定められた法の擁護者」であると共に、「皇帝礼拝を要求し・聖徒を攻め・神を涜し・全世界を征服する底なき所から上る獣にまで、成りうる」ものである、それ故に「天使的力は、まさに荒廃し・堕落し・腐敗し・かくてデーモン的力となりうる」ものとしてある、と。「イエスを十字架に付けたピラトの国家」が、それである。しかし、天使的力は、「もともと、自分自身に属するものでは決してなく、もともとイエス・キリストの処理にゆだねられているのである」。何故ならば、イエス・キリストが、われわれ人間に対して、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書およびその聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者とする教会の宣教を通して「同時的となる時と所」、「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれ は神の支配のもとに入ることを承認し確認する」からである、それ故にわれわれは「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会として承認し確認する」からである、それ故にまたわれわれは「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪・裁き≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけであることを承認し確認する」からである(『教会教義学 神の言葉』)。このような訳で、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な「教会の存在と現状」が、具体的には「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で教えられたところの、純粋なキリストにあっての神・キリストの「福音から考え・行動し・処理されているということを語っていないならば、教会の説教も福音宣教も虚しいものとなるであろう。教会みずからが、……その行為と態度によって、自己の内なる政治をこの使信に合わせてゆくこと(≪過渡的には自己の内なる政治性を多くの非指導層としての成員に開いていくこと、究極的には自己の内なる政治性を無化していくこと≫)を全然考えないとしたならば、どうして世は、王とその御国の使信を信ずるであろうか」(『教会と国家』「キリスト者共同体と市民共同体」?見和男訳、新教出版社)、「キリスト者は、政治生活において神の正義が人間によって誤認され・蹂躙される場合にも、神の正義は、……天地の一切の力が与えられているイエスの苦しみのゆえに、優越しているということを確信している。悪しき矮小なピラト(≪政治的国家、政治的権力≫)が、結局は無駄骨折をするというように、配慮がなされているのである。その場合、キリスト者が、どうして、ピラト(≪政治的国家、政治的権力≫)のともがらと成ることができようか(『カール・バルト著作集10』「教義学要綱」)。「キリストの御業」は、御使・天使たちの天使的力にも「向けられている」。その「反抗」も、「キリストの甦りと来臨における御国」の「根源的・究極的な秩序」の「限界内において、打ち砕かれてしまうものである」。政治的な天使的力、すなわち国家は、イエス・キリストにおいて起こった「罪人の義認に奉仕する」限りにおいてだけ、「教会に対して真実な正しい自由を与える」限りにおいてだけ、過渡的形態として「正当な相対的な自主性」を持つことができる。したがって、「福音宣教から独立して、それと接触しない、『自己決定の権利』を国家に与えている……ルター派の教説」は「いまわしい」ものなのであり、「承認」することはできない教説である(『バルト自伝』)。したがってまた、われわれは、国家の過渡的形態として、現存する観念の共同性を本質とする法政治的近代国家を第一義性・価値性とする<国家>主義的社会主義ではなく、現実的な社会を第一義性・価値性とする<社会>主義的国家(現存する社会主義国家は、実際的事実的には、ロシヤにしても中国にしてもすべて、国家を第一義性・価値性とする<国家>主義的社会主義である、修正資本主義もそうである)を選びとることができる。したがってまた、われわれは、聖書から、「『もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者』と戦い抜く格闘を行えという呼び掛け(エペソ6・12)」と、同時に、「それらのものがキリストの愛からわれわれを引き離すことはできないという慰め(ローマ8・38以下)」の言葉と、「さらに、それらのものがキリストの再臨において、キリストによって究極的に『揚棄』されることに対する展望(Tコリント15・24)」の言葉を、聞かなければならない。この最後の「それらのものがキリストの再臨において、キリストによって究極的に『揚棄』される」という言葉からも、バルトは全くヘーゲルのような国家共同性価値論の立場に立脚していないことを、われわれは理解することができるし、またバルトが、終末論的観点において、国家論(国家論は国家を「揚棄」・止揚するという点にあるから、それは革命論でもある)の究極的課題を、「地上の国家」の「揚棄」・止揚、国家の無化という点に置いていたことも、われわれは理解することができる。言い換えれば、バルトは、終末、救贖、復活されたキリストの再臨、「完成」においては、「地上の国家」は「揚棄」・止揚される、と考えているのである。この究極的課題は、マルクスや吉本隆明も構想していた課題である。この終末論的観点からバルトは、権力を実体と考えヒトラー暗殺計画へと向かったボンヘッファーとは違って、次のような良質な神学的な思想的原則を持っている――「世界の救いを何かある(≪国家の言語である法的政策的言語≫)国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求めようとしないで、私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待するべきである」(『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』)、「われわれは平和を維持するためにできる限りのことをしなければならない。しかし、このことは、われわれは平和主義者でなければならないということを意味しない。平和主義は一つの絶対主義だ(すべての主義のように)。われわれは神には服従するが、一つの原理や理念にはしない。したがって、われわれは最後の手段のために、(≪政治的近代国家、すなわち経済の世界性と民族国家の一国性を単位として動いている現存する世界において、自国の利害を第一次的に最優先し一部国家支配上層の意思によって動員できる巨大で強力な国軍を持つ民族国家が存在する限り≫)戦争の可能性はあけておかなければならない」、それ故にナチス国家に比して相対的に評価できる「スイスをナチズムからまもるために私は(≪バルトは≫)軍隊に参加し、両国を区分しているライン河にかかっている橋を護衛するために、もしもドイツのキリスト者の友人の一人が、その橋を爆破しようとしたら、私は(≪バルトは≫)射殺しなければならなかったであろう」、「ある特定の瞬間になした決断はおそらく、もっとも重要なキリスト教の教義(≪第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の<客観的>な教義≫)よりもっと重要であるかもしれない」(『バルトとの対話』)。この言葉だけからでも、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」者(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)やそれに類する人たちとは全く違っている、神学における思想家であるバルトを、われわれは見出すことができるであろう。

 

 このような訳で、地上の「リアルな教会」は、「その将来と希望」を、「地上の国家」の中にでは決してなく、またその指導者たちの中にでは決してなく、ただ終末論的な「天におけるリアルな国家」・「神の国」・「天国」の中にだけ、また政治的尊称である「メシア」・「主」の中にだけ見るのである。この「天の国」・国家の「神性」は、「天のエルサレムの神性であって、そのようなものとして、地上の国家のものではない」のである。すなわち、神によって建てられた「神性」を本質とする「天の国」、「天におけるリアルな国家」、「神の国」と人間が人間的に所有する人間の地上の国家(すべての国家形態、支配構成)との間には、無限の質的差異があるのである。したがって、教会は、「地上の国家」に対して、「国家の中の国家」として対するのでもないし、「国家を超えた国家」として対するのでもない。義認の宣教と法の自由は相互保証の関係にあるから、教会は教会の課題である義認の宣教のために、「霊について何事も知らず、愛について何事も知らず、罪の赦しについて何事も知らない」「国家権力の担当者のための祈り」を行う必要がある。何故ならば、「天上の国家から、地上の教会へと投げ下ろされた光は、地上の教会から地上の国家へと投げやられた光の中に、反射される」必要があるからである。したがって、教会は、前段で引用したバルトの思惟と語りに即して言えば、現存する国家の枠組みの中における国家の言語である法的政策的言語を介在させるという仕方で、現存する国家に対するのでもない。

 

 さて、「永遠の法」――それは、「その死において獲得され・その甦りにおいて宣言されたイエス・キリストの法」・「義認の使信」のことである。この「義認の教会」は、「神的義認の宣べ伝え」・「聖書にかなった正しい説教と問答教示、及び聖礼典の正しい執行」において存在するのである。また、「地上の国家」は、第一に、イエス・キリストにおいて起こった「罪人の義認に奉仕する」限りにおいてだけ、第二に、「教会に対して真実な正しい自由を与える」限りにおいてだけ、そうした過渡的形態においてだけ、「正当な相対的な自主性」を持つことができる。したがって、「教会は、神的義認を宣べ伝える自由を持たなければならない」という点に、また国家を本来的な正しい「法の国家」に向かわせるという点に、国家に対する責任がある。しかし、その尖端性としてある信教の自由が保障された政教分離の自由主義国家(政治的近代国家)として現存する国家においては、人間が社会的現実的に全体的永続的に解放されていなくても(自由にされていなくても)国家だけは自由主義国家である得るだけの国家であるから、この国家においては、人間は恣意的に自由であり得るだけである。このような訳で、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な「教会」と「地上の国家」は、必然的に前述したような対立関係を潜在させているのである。このとき、教会は、あくまでも前述したような意味で、それ故に現存する国家の枠組みの中における法的政策的言語(国家の言語)に加担するという意味においてでは決してなく(何故ならば、現存する国家の枠組みの中における、その法的政策的言語はすべて、最後的に国家の言語に包摂されてしまうからである)、「政治における連続体」である。すなわち、教会は、国家が正しい国家かそうでないかの監視態であるのだが、それは、その国家が、人間的な「人権の基礎であり、保持であり、恢復である」「具体的な自由な法」を執行しているかどうかの監視にある。したがって、国家が「具体的な自由な法」を執行している時、「神的義認」は、人間の「法における連続体」である。このように、監視の原理・規準は、国家の枠組みの中における法的政策的な言語としての国家の言語ではなくて、徹頭徹尾国家の枠組みの中における国家の言語に包摂されないところの「神的義認」であり、「神的義認を宣べ伝える自由」である。

 

 バルトは、「われわれは新約聖書の線」を、あくまでも人間的な過渡的形態においてではあるが、「すべての国民の責任をもってする関与の上に建てられる」「『民主主義的』国家」に置くと述べている。そうすると、議会制民主主義は<擬制>民主主義でしかないから、大多数の被支配としての一般大衆、一般市民、一般国民に対して最大限に開かれた国家を過渡的形態として置くということになるから、バルトの場合、その過渡的国家は、相対的評価における直接民主制のスイスをイメージして述べているに違いない(バルトは、ただ武装中立におけるスイスの国防・兵役の在り方に疑念を懐いている)。したがって、教会は、この自覚の下で、常に、国家から対象的になって距離をとっていなければならないのである、国家の枠組みの中における法的政策的言語としての国家の言語に包摂されてしまってはならないのである。言い換えれば、国家資格としてある法律家は、多かれ少なかれ必然的に御用学者とならざるを得ないのであるが、教会は、前述したような意味で徹頭徹尾御用学者とはなってはならないのである。したがってまた、教会は、徹頭徹尾現存する国家から対象的なって距離をとり、「諸国家が成立し、また消滅すること」、「様々な政治的観念が変転すること」、「政治そのものが人々の関心となり、或いは関心とならないということ」は「あっても良い」が、例えば国家が、「国家の力を増強するために、その被統治者・国民を、何らかの形において内面的に自分のものとし、したがって国家によって定められた世界観、……世界観的な感情や敵意を、彼らから要求する権利が、国家にはある」というような国家的要求や強要をし出した場合には、その国家的要求や強要に対して、断固として、<否>を言わなければならないのである。前述したように、教会は、不可避性としてある政治に関わらなければならないということで、ただ外皮的皮相的に、法的政策的な国家の言語を介在すればよいという問題ではないのである。前述したことは、先ず以て教会の指導層が、再び、国家からの圧力に屈して戦争等「国家の政策」(法的政策的言語としての国家の言語)を「あらゆるこじつけを駆使して合理化し」、それを成員が「模倣し」、自国や他国の大多数の被支配としての一般大衆、一般市民、一般国民の家族や親族や友人を死に追いやらないためには、教会にとって肝要なことなである。何故ならば、現在ではそれは観念的遺制と言えるものであるとしても、アジア的な日本においては、その特性として、個や家族や社会が地続きに国家に包摂されていく、あるいは共同体至上意識が個体性を超えて行くということがあり得るからである。誰でもそうであるが、われわれ人間は、波風のない無風状態の時は、自分はそうではない・自分はそうならない等というように、何でも・何とでも言えるのである・言うものである。したがって、先ず以ては、人間的な一切のものから対象的になって距離をとるということは寛容なことなのである。

 

 バルトは、「最後の言葉」として、「イエス・キリストの名」――「この名前以外のいかなる名前にも、救いはありません」、「そこには仕事と闘いへと向かうはげましがあり、共同体と仲間の人たちとの交わりへと向かうはげましがあります。そこには、弱く愚かであった私がその生涯において試みたすべてのことがあります」と述べていることを自分自身のこととして引き寄せて考えれば、私自身は、ただ神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(平和)そのものであるイエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執し固着して、イエス・キリストによる罪のゆるし・きよめ・助け・救い・励まし・慰め・力づけを祈り求め続けつつ、「ある特定の瞬間」において必要な正しい「決断」と「態度」と「行動」をなすことができるように、「主よ、私は信じます。私の不信仰を助けてください」という祈りの下で切に願う者である。