カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

カール・バルトの「ヨブ記」論

カール・バルトの「ヨブ記」論
再推敲・再整理版です。

 

カール・バルトの「ヨブ記」論、『ヨブ バルト著(ゴルヴィツァー編・概説)』西山健路訳、新教出版に基づく

 

 「ヨブは他の人間すべてと同じく誤りやすい人間である」。したがって、ヨブ記は、「罪なくして罪となりたもうた(Uコリント5・21)イエス・キリストではない者」である「真実の証人」そのものであるイエス・キリストの「真実の証人」、「真実の証人の基本構造」、「真実の証人の一つの型」のドラマである、換言すれば内的・内在的な「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち起源的な第一の存在の仕方である啓示者である父なる神の子としての啓示ないし和解、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストではない者の「真実の証人」そのものであるイエス・キリストの「真実の証人」、「真実の証人の基本構造」、「真実の証人の一つの型」のドラマである、換言すれば神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(平和)そのものであるイエス・キリストではない者の「真実の証人」そのものであるイエス・キリストの「真実の証人」、「真実の証人の基本構造」、「真実の証人の一つの型」のドラマである。したがって、一方では、それは、「神には誤りがない。ここで一切がそれにかかり、そのために神自身が力をそえ、うけあった事がら(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする内的・内在的な三位一体の神の、その外的・外在的な「失われない差異性」における起源的な第一の存在の仕方、すなわち全き自由の神の存在としての全き自由の神の全き自由の愛の行為の出来事≫)については、ヨブもまたあやまつことができないし、あやまつことはない」「真実の証人」、「真実の証人の基本構造」、「真実の証人の一つの型」のドラマでもある。このことが意味していることは、徹頭徹尾、「わがしもべヨブ」(ヨブ記1・8、2・3、42・7ー8)と「神ご自身に呼ばれ祝福された」、神とは全く異なる「真実の証人」ヨブのドラマであるということである。バルトは、ヤーウェとヨブの交わり・関係は、神と人間との無限の質的差異が固守された「自由」にあると述べているのであるが、その自由な交わり・関係は、先行する「神の側からの自由な選びと意向によっている」ものであり、それ故にその先行する「神ご自身の働きかけに対する」後続する「真実の証人」・「ヨブの側からの自由な服従に基づいて形造られている」のである。したがって、その交わり・関係は、人間・ヨブ自身の方からの先行した働きかけによるそれではなくて、先行する神がヨブを「真実の証人」として「決め」・「しもべとみなし、認め、現にしもべとしているという」交わり・関係であり、そしてこのことは、「ただヤーウェが喜んでそうするからそう」である交わり・関係なのである。したがってまた、神のその都度の自由な恵みの決断により神語り給う故に神語り給うことを聞く「神ご自身によって祝福された」ヨブとは違って、「秘かに神より上位に置かれている道徳的あるいは法律的な律法」を優先する「三人の友人たち」は、神に祝福されることはないのである。このような訳で、ヨブは、「神ご自身によって祝福された」「真実の証人」、「真実の証人の基本構造」、「真実の証人の一つの型」であることによって、その「三人の友人たち」の「偽りを暴露する」だけでなく、その「偽り者のためにとりなしをする」し、またそのことによって神の祝福を現実化する「真実の証人の基本構造」、「真実の証人の一つの型」も示している、ちょうど具体的には第三の形態の神の言葉に属する教会が、その第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、あの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」という連関における「隣人愛」において、すべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを目指すように。
 それだけではなく、ヨブ記は、そのヨブの「苦しみ」や「嘆き」において、「ゲッセマネとゴルゴダの苦しみと嘆きを引き受け給うたイエス・キリストの証人」である。すなわち、ヨブ記は、「ただひとりの真実の証人」そのものである「イエス・キリストの証人」である。このイエス・キリストにおいては、「人間の偽りは煙のごとく、ただちに一切の香りを失う」のである。言い換えれば、この神の側の真実としてある「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストの啓示の場所は、われわれ人間の、個と現存性――類と歴史性の生誕から死までのすべてを見渡せる場所、それ故に「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所であり、先行させた人間の側からする神との「混淆」・「混合」、神との「共働」・「協働」、「神人協力」、神学との人間学との「混合神学」、二元論的なキリストの福音だけでなくそれとは独立させた社会的政治的実践を標榜する「混合宣教」、人間自身の恣意性独断性によって教会を実体化せるキリスト教的新興宗教等自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階におけるキリストの福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」、「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎない神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所でもある。したがって、このイエス・キリストの場所においては、万物に質量(重さ)を与える根元であるヒッグス粒子の概念も、「正直に受け取ることができる」のである。このことは、ヒッグス粒子が発見されても、宇宙の謎の90何%以上が未解明のままであると言われているからではない。たとえ宇宙(自然)の謎が100%解明されたとしても、その研究成果(科学的知識)はあくまでも人間によって対象化され客体化された人間的自然であって、キリストにあっての「神」、「啓示の真理」ではないからである。したがって、iPS細胞(人工多能性幹細胞)についても事情は変わらない。人間諸個人による身体(肉体)的および精神(意識)的な人間の類的な活動や生活は、すなわち人間の身体(肉体)と精神(意識)を介した、普遍的で実践的な全自然(自然の一部としての自己身体、性としての他者身体、宇宙を含めた外界としての自然)との相互規定的な対象的活動およびその時間性としての歴史は、個々の世代における個体的自己の成果の世代的総和(類)を継起とした時間性、時間累積としてあり、それらの社会構造に見合った観念諸形態を生み出し、その観念諸形態はそれ自体の構造と展開過程を持っているのであるが、自然史の一部としての人類史の自然史的過程における自然史的成果であるヒッグス粒子やiPS細胞に関する科学や技術の進歩・発達およびその知識の増大は、自然史的必然に属する事柄であり停滞したり逆行したりすることはあり得ないし、人間によって対象化され客体化された人間的自然(研究成果)に属するものとして、われわれは、そうしたヒッグス粒子の発見やiPS細胞の研究成果等を、人間的世俗的真理として正直に受け取ることができるのである。このことは、次のように言い換えることができる――「ただひとりの真実の証人」であるイエス・キリストにおいては、「人間の偽りは煙のごとく、ただちに一切の香りを失う」、と。「ただひとりの真実の証人」であるイエス・キリストにおける啓示の場所は、ヨブの三人の友人にあった「敬虔なすがた」・「キリスト教的なすがた」において行われる、換言すれば人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者レベルでの神」(偶像神)としての「神の名において、神の呼びかけのもとに行われる」、「少しも神に身をゆだねることなく生き、生きつづけうるようになりたい」という企て、人間がキリストの福音を「飼いならす」という企て、キリストの福音を人間に帰属させ「帰化させる」企て等、「偽りの原現象」を見渡せる唯一無比の場所である、「自分自身」の「自由」と「救い」と「滅びの免除」にだけ「関心がある」三人の友人たちの「訓育、牧会、典礼、説教にある偽りの原現象」を見渡せる唯一無比の場所である。

 

 バルトは、先ずヨブ記の全体の構成とユングの『ヨブへの答え』について述べている――ヨブは、死海の東あるいは東南のイスラエルの境界を越えたエドムの領域・ウヅの住人である。また、ヤーウェとの関係でいえば、そのイスラエルの神から「わがしもべヨブ」と呼ばれて祝福されている人物である。1・2・42章は、富裕なヨブ、苦しみの只中でのヨブの神への真実、あらためて受ける神によるヨブへの祝福についての民間伝承・枠小説である。詩の3−31章、ヨブと三人の友人たちの言葉(特に25・26章)は、ヨブ記の中心部である。33−37章の詩形式のエリフの言葉、「たぶん40、41章のベヘモトとレビヤタンについてのヤーウェの口におかれた詩、その前におかれている38、39章の宇宙世界や、その他の特に獣の世界に……関する部分」は、後からの挿入である。最後には、28章のヨブの知恵の歌である。
 ユングは41章(34節を引用)に依拠して、集合的無意識としての神・ヤーウェは、「動物的――自然的」であり、「あらゆる古代の神々と同様にヤーヴェもまたその動物シンボル体系を持って」いると述べている。因みに、吉本隆明によれば、経済的基盤を農耕に置いた人類史のアジア的段階の日本において非農耕民として神人と呼ばれた天皇のそれは、白蛇である。バルトは、ユングの『ヨブへの答え』について、「人間的には非常に感動的な記録」であり、「職業的心理学者の心理学にとっては極めて啓発的」でもあるけれども、「しかし聖書のヨブと聖書一般の解明のための寄与としては」、その叙述が心理学者然としておりヨブ記を「冷静に読み、思索することができなかった」が故に、その作品は「望みなく」「全く不毛となっている」と述べている。吉本に依拠して言えば、ユングの作品は、その一面・部分に過ぎない心理学的集合的無意識を全体とすることで展開されたそれであると言うことができる。

 

 ヨブの神との関係における時間性は、始めと終わりについて言えば、神の祝福に満ちている。しかし、その中間の時間性は苦難に満ちている。すなわち、この中間の歴史においては、ヨブに対する神の祝福は、「乏し」く「最小限」でしかなくなっている。その歴史におけるヨブの神への対応の在り方は、「自己是認や自己称賛とは何の関わり」もない「神への無比なる信頼」であり、「自分の身のためだけでなく」「祭司的に、彼を取り巻く人々のための代理として」「神に対して立っている」(例29章・31章)。ヨブは、「敬虔な偽り」の証言をした友人三人のために、「とりなし」の祈りを行うという在り方において、神に対している(42章)。このように、真実の証人であるヨブの時間性(現存性)における信仰の在り方は、「偽りを暴露するのみならず」、「敬虔な」「偽り者のためにとりなし」の祈りをするという点にある。ヨブのそれは、「誤る」ことがない神自身が、ヨブに「力をそえる」が故に、その時「ヨブもまたあやまつこと」はできないし、「あやまつことはない」という点にある。、また、神がヨブを「わがしもべ」と呼ばれるのは、ヨブがそう望んだり・そう望むからではなく、ヤーウェ自身が先行して「喜んでそうするからそうなのである」という点にある。言い換えれば、神とヨブの関係性は、先行する「神の側からの自由な選びと意向によって」、そしてその自由に基づいた後続する「ヨブの側からの自由な服従」という点にある。これが、「真実の証人の基本構造」、「真実の証人の一つの型」である。自由・主権・愛は、神においてのみ「実在であり真理である」(『教会教義学 神の言葉』)。「自由に与え、また自由に取り戻すことができないなら、神は神でない」。したがって、ヨブの神奉仕は、神の自由・主権・愛に服従する神奉仕である――「神から幸いをうけるのだから、災いもうけるべきではないか」、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。ヤーウェが与え、ヤーウェがとられたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」。したがってまた、ヨブは、「誤りうる人間として」、「不正をも行いまた不正でもあるということ」を背後に持っていることを認識させられ自覚的させられた人間である、ちょうど神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(平和)そのものであるイエス・キリストの啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」により信仰の出来事に基づいて与えられた信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に依拠して、その信仰の類比に依拠して、われわれは、われわれの「神に対する人間的反抗」、「罪深い堕落した人間」、そのような人間の「世」を自己認識・自己理解・自己規定、自覚させられるように。

 

 前述してきたように、ヨブは、「真実の証人の基本構造」、「真実の証人の一つの型」ではあっても、「真実の証人」そのものではない、「真実の証人」そのものである「イエス・キリスト」ではない、「イエス・キリストの名」ではない。何故ならば、「赦す神」はその人が「まことの人間」であってもその人間に内在することはないのであって、「啓示と和解を生じさせる」のは、まことの神にしてまことの人間であるイエス・キリストのその「まことの神」性にあるからである(『教会教義学 神の言葉』)、まさに徹頭徹尾人間そのものであるヨブは、神奉仕の「真実の証人」、「真実の証人の基本構造」、「真実の証人の一つの型」ではあっても、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストのように「真実の証人」そのものではない。したがってまた、「自由な神の自由な人間として人間的な可謬性を持ちながら試煉の地獄を通りぬけて行く」まさに徹頭徹尾人間そのものであるヨブのその「危なか」しい歩みに対して、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストはその死と復活の出来事における「ゴルゴタの屈辱を通りぬけることによって、すでに勝利者であるという不可謬性」の道を歩んでいるのである。イエス・キリストこそが、神の「真実な証人」そのものであるということは、内的、内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、人間の歴史的形態である「イエス・キリストの名」において、「この歴史の中で人間存在の真理(≪「まことの人間」存在の真理≫)を生きることによって」、その死と復活の出来事における「十字架のすがた」によって、「ほかの一切の実存者は偽りであると暴露」したということを意味している――「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、(≪まことの神にしてまことの人間≫)イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の「イエス・キリストの信仰」は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである)」(『福音と律法』)。このイエス・キリストの十字架を頂点とした地上の生・生活においては、われわれは、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠して、その信仰の類比に依拠して、「神に棄てられた者」・「神にたたかれ、苦しめられる者」・「闇に屈伏させられた者」・「敗北」者の姿を認識させられ自覚させられるのである。このようにして、復活されたイエス・キリストは、「われわれと現在ともに在すことができる」。イエス・キリストの現在は、「十字架につけられた者の現在」である。すなわち、その死と復活の出来事における「十字架の姿」において、神の「真実の証人」そのものであるイエス・キリストは、われわれの「敬虔な偽り」を暴くのである。したがって、バルトは、『福音と律法』においては、次のように述べている――「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが」、換言すれば「貧民窟、牢獄、養老院、精神病院」、「希望のない一切の墓場の上」での「個人的な問題……特殊な内的外的窮迫、困難、悲惨」、「現在の世界のすがたの謎と厳しさに悩んでいる(……これらが成立し存続するのは自分のせいでもあり、共同責任がある)」「闇のこの世」「以外には、何も眼前に見ないのであるが」、「しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」、「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」。したがって、復活されたキリストと復活されたキリストの再臨(終末)までの聖霊の時代に生かされているわれわれは、終末論的信仰の中において、「完成」、復活されたキリストの再臨、終末、救贖を待たなければならないのである。

 

 さて、バルトは、「ヨブの悩み」は、「死への恐れではない」、何故ならばヨブは、「自分の死を、神に求めている」からである、「所有、家族、健康、安定、名誉」の喪失に人間の生・生活の無常を感じその無常に苦悩することを主題とするのであればヨブを必要としないから、ヨブは、そうした無常を嘆き死を恐れているのではなくて、「神との関係」が断たれた「闇への疾走」・「ただ滅び行くだけ」の生を恐れ・「嘆き訴え」ている、と述べている。

 

 「三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」(マルコ15・34)。この叫びは、イエスの苦難の総括である。この叫びの中に、「苦難の神のしもべ」の、「真実の証人」そのものであるイエスと、「真実の証人の型」、「真実の証人の基本構造」、「真実の証人の一つの型」であるヨブとの関連性がある。また、バルトは、ヨブの嘆きの対象について、次のように述べている――ヨブは、苦難の中で、「神と関わりあわねばならないことを深く知っている知」と「そのことを深く知っていない非知」との混在の中にあり、その混在における争いにおいて、ヨブは「不正を行う」。しかし、全き自由の神の自由の恵みの決断により先行する神の方がヨブから「離れない」が故に、ヨブは「神から離れえない」のである。したがって、ヨブの側からの神への「問いや嘆願」は、全く無力である。したがってまた、最後には、ヨブは「ちり灰の中で悔い」る。そして、ヨブの苦難・嘆きの中心的対象は、次の点にある――先行する全き自由の神からする先行的な選びがあるのであって、後続する人間の自由な選びに基づく契約関係の解消や廃止はないという点に、それ故に神は神の側の真実の貫徹と自由な恵みの決断において、ヨブに与えていた「祝福を、……はぎとり」、神の真実を隠蔽するという姿においてヨブと出会うという点に、それ故にまたこのことは、神の側の真実の中における神とヨブとの関係性の変容という点にある。ヨブは、そのことが神の真実としてあるから、その神に対して「不真実になるわけにはいかない」が故に、真実の神の隠蔽性の只中で、「苦難のしもべ」ヨブは「苦しみながらの服従をする」のである。偽りの外皮的皮相的な「善において神なきこと」は、「ヨブとの対決においてあばかれ仮面をはがれた彼の友人たちの敬虔と神学」である。この「偽り」の「敬虔と神学」は、「神なきことは、善においても神なきことであって、神なきことであるのをやめない様式」の一様式である、ちょうど例えば先行させた人間の側からする外皮的皮相的な善意による神との「混淆」・「混合」、神との「共働」・「協働」、「神人協力」も「神なきことであって、神なきことであるのをやめない様式」の一様式であるように。ヨブのドラマは、「人間の偽りは煙のごとく、ただちに一切の香りを失う者の証人」、「苦しまれ、十字架につけられ、死して葬られた神の子にして人の子なる、ただひとりの真実の証人」そのものであるイエス・キリストの「真実の証人の一つの型」、「真実の証人の基本構造」である者の「ドラマ」である。

 

 さて、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)によれば、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストこそが、「受難」から続く十字架の「死の絶対的沈黙」・「死の沈黙」を、その「復活」において打ち破り、克服された唯一無比の方である。また、このイエス・キリストの「復活」は、彼が「神性」を本質としているということを、また彼の言葉は「神ご自身の言葉であること」を示している(受肉は、その存在の仕方である「言葉」の受肉であって、その存在の本質である「神性」の受肉ではない)、何故ならば内的・内在的な「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストは、起源的な第一の存在の仕方である啓示者である父なる神の子としての啓示ないし和解そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであるからである。バルトは、「霊(プニュウマ)」とはパウロの人間学においては、人間実存の不可視な「精神的生の要素である魂(プシュケー)」とは違うが、キリスト者に「洗礼の際贈られる、イエス・キリストとの交わり」のことであって、このことに基づいてキリスト者は「初めて」「新しい真実の主体(≪「ただイエス・キリストの名だけ」に感謝をもって信頼し固執し固着する主体≫)となる」という意味を与えていると述べている。したがって、その死と復活の出来事における「十字架につけられたイエスはこの世界に向けられた神の言葉であると証しする」キリスト教会は、「キリストの永遠のまことの神性の告白を信用する」し、勝利の福音を、それ故に復活されたキリストの再臨(「完成」、終末)を、「復活を信ずると告白」するのである。われわれは、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠して、その信仰の類比に依拠して、われわれに対する、「神の選び」を「イエス・キリストの復活」において認識し、「神の放棄」を「イエス・キリストの十字架」において認識するのである。言い換えれば、あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて「われわれが本当に神の啓示を認識する時、われわれは初めて」、「神に対する人間的反抗」、「神の敵」、「神に相対して、自分の力を誇り、まさにそのことの中でこそ罪深い堕落した人間」として自分自身を、またそのような人間の「世」を自己認識・自己理解・自己規定、自覚することができるのである。

 

 その死と復活の出来事における「イエスの受難」とは、神は、イエスを「棄てた者であるとともに」、そのイエスにおいて「自分自身をも棄てるもの」であるということである。バルトは、『教会教義学 神の言葉』で、「人の子」語句について次のように述べている――「人々は人の子(あるいはわたし)は誰であると言っているか」(マタイ一六・一三)と聞かれ、ペテロ(教会の信仰告白)は『あなたは生ける神の子キリストです』と答えた。『メシヤの名』に対する『人の子』というイエスの自己称号」は、「(覆いをとるのではなくて)覆い隠す働きをする要素として、理解する方がよい」、「逆に使徒行伝一〇・三六でケリグマが直ちに、すべての者の主なるイエス・キリストという主張で始められている時、それはメシヤの秘義を解き明かしつつ述べている」というように理解した方がいい、受肉・「神が人間となる」・「僕の姿」・「自分を空しくすること、受難、卑下」は、「神性の放棄」や「神性の減少」を意味するのではなく、「神的姿の隠蔽」・「覆い隠し」を意味している、と。その死と復活の出来事における「十字架につけられた者の語りかけ」は、ほんとうは「だれもそれを他人に言うことはできない」ものであるから、もしも生来的な自然的な人間がそれをお互いに言うことができるとするならば、「人間がお互いに言うことができるのは、人間の理念であり、世間的情報」でしかないのである。言い換えれば、そのイエスの「語りかけ」は、「彼の聖霊の力によってしか聞かれることはできない」ものなのである。したがってまた、その「語りかけ」を宣べ伝える場合も、そうなのである。そのイエスの「聖霊は、それ自身『力であり、……その力によって神の言葉、真理の言葉が、ただ神のうち(≪神の隠蔽性≫)にあるだけでなく、(≪人間の自由事項・決定事項としてそこにあるというのでは決してなく、神のその都度の自由な恵みの決断による≫)神が欲する時と所で、神から出て、われわれ人間にはいりこみ(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事、神の顕現性≫)、……(≪あくまでも人間における神の不把握性と終末論的限界の下で≫)いくらかわわれわれの信仰、われわれの認識、われわれの服従という……収穫をえて、神にかえっていく』」だけである。したがって、教会の宣教における人間の説教は、それが聖書に「かなう宣教や最も純粋な教説であっても」、それ自体は「神の言葉」では全くないから、それ自体を「神の言葉」とすることはできないのである、それ故にそれ自体が、「神の語りかけを聞く妨げになる」場合もあるのである。したがって、バルトは、『教会教義学 神の言葉』において、次のように述べている――教会の宣教、その一つの機能としての神学、その思惟と語りと行動が、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではないのである」、それ故に教会の宣教、その一つの機能としての神学、その思惟と語りと行動は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立している」のである、と。このような訳で、われわれは、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)に信頼し固執し固着して、次のように言わなければならないのである――内的・内在的な「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち起源的な第一の存在の仕方である啓示者である父なる神の子としての啓示ないし和解、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示は、その啓示自身に固有な証明能力を、キリストの霊である聖霊の証し力を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)を与えることができる授与能力を、聖霊自身の業である「啓示されてあること」――すなわち「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)を持っている、それ故に第二の形態の神の言葉である聖書から宣教を義務づけられている第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会は、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)を、自らの宣教、その一つの機能としての神学、その思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(純粋なキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すなわちすべての人々が純粋なキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指していくという点にあるのである、と。このようにして、「活ける主の活ける教団」――すなわち「教会」は、絶えず繰り返し教会となることによって教会であることができる。

 

 神は「ヨブに敵対していながらも、彼に味方している」ことに基づいて、ヨブはヤーウェに「反抗」(不正)しながら、自分を「告発している」「神へと逃げる」道(正しい道)へと歩みを進める。また、「神のしもべ」であるヨブの苦難の問いに対する答えは「知恵」に属することであり、またその「知恵」(神の本質の区別を包括した単一性としてある神的愛の完全性における神の忍耐と知恵としての知恵)が「神に属する事柄」であれば、ヨブはただ神への信頼と固執と固着において、終末論的に答えを持つ道へと歩みを進める以外にないのである。主は、「テマンびとエリパズに言われた、『わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなた方が、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである』」。この時、神は、ヨブを「保証する者」・「弁護する者」・「保護」する者である。また、このとき全き自由な「神」が「ヨブの証人」であり、その自由の神の「真実でありつづけた」・「真実でありつづける」「選び」に基づいて、「不正」と「正しさ」を「告発」された自由の人間・ヨブは、「正しいイスラエル」であり、神の「真実の証人」そのものである「イエス・キリストの証人」、「真実の証人の一つの型」、「真実の証人の基本構造」である。