カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

「キリストとわれら」

「キリストとわれら」
再推敲・再整理版です。

 

カール・バルト『戦後神学論集』「キリストとわれら」井上良雄編訳、新教出版社に基づく

 

 バルトは、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて与えられる啓示認識・啓示信仰(信仰の認識としての神認識、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)を通して、その信仰の類比を通して、はじめて、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ「人間はすべて例外なしに(≪キリストにあっての神の≫)憐れみを必要としていること」を、また「われわれがただ憐れみによってだけ生きうること」を、また「自分がより良い者でないこと」を、さらにまた「神に対する人間的反抗」・「罪深い堕落した人間」・そのような人間の「世」(『教会教義学 神の言葉』)を、また「神の敵」・「神に相対して、自分の力を誇り、まさにそのことの中でこそ罪深い堕落した人間」を・また「生来人間は、神の恵みに敵対し、神の恵みによって生きようとしないが故に、このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急であった」(『カール・バルト著作集3』「神の恵みの選び」)ことを自己認識・自己理解・自己規定させられ自覚させられる、と述べている。そして、このようなわれわれ人間の自己認識・自己理解・自己規定においては、「強い者・富んだ者・力ある者の誇りは終わる」し、「霊的人間・神秘家・道徳家・敬虔な者のあらゆる僭越も終わる」のである。何故ならば、その死と復活の出来事におけるイエス・キリストの啓示の出来事において、われわれは、「自分の存在の根源において、例外なくすべての人間と共に自分の罪と困窮の中にいる」ことを認識させられ認識するからである。したがって、「われわれキリスト者を他の人々から区別するものは」、先ず以て「神の憐れみはすべての人間の憐れみであって、単にわれわれキリスト者のためだけの憐れみではないから、われわれはただキリストの呼びかけを聞いたということだけ」であり、「神の憐れみの栄光を、われわれの方でも経験しはじめるのを許されているということだけ」なのである。

 

 バルトは、「キリストによるわれわれキリスト者に対する自由の授与」は、神の側の真実としてイエス・キリストの出来事においてこの「地上に開始された革命」であり、それ故にあの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「彼に属する者たちに約束し給う聖霊の業である」と述べている。内的・内在的な「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち啓示者である起源的な第一の存在の仕方である父なる神の子としての啓示ないし和解、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける神の自己啓示は、われわれ人間の、その個と現存性――その類と歴史性の生誕から死までのすべてを見渡せ、それ故に「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所であり、「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を持たず、先行させた人間の側からする神との「混淆」・「混合」論、神との「共働」・「協働」論、「神人協力説」、神学と人間学との「混合学」、二元論的なキリストの福音の宣教(言葉)だけでなくそれとは独立させた社会的政治的実践(行動)もいう「混合宣教」を目指す自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教における神が、啓示が、福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」、「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎない神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所でもあるのである。

 

 さて、バルトは、ルターの「私は、自分の理性によっても力によっても、私の主イエス・キリストを信じたり、彼の御もとに行ったりすることはできず、聖霊が福音を通じて私を招いてくださったのだと信じる」を引用している。このことは、あの神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて与えられる啓示認識・啓示信仰(信仰の認識としての神認識、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)のことを意味している。「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によ って召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、「主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい」 という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)。このバルトは、さらに次のように述べている――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦 りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。

 

 内的・内在的な「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち起源的な第一の存在の仕方である啓示者である父なる神の子としての啓示ないし和解、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリスト」は、換言すれば神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(平和)そのものであるイエス・キリストは、「われわれのキリスト者という名」と「キリスト者としての存在」の「根拠であると共に目標」である。したがって、ここで目標とは、このイエス・キリストをのみ信ぜよ、このイエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執し固着せよという神の命令・要求・要請を意味しているのであり、それ故に具体的にはあの「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返しそれに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストにあっての神・キリストの福を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容する福音の形式としての律法、すなわちすべての人々が純粋なキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関においてイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指すようにという神の命令・要求・要請を意味しているのである。このような訳で、キリスト者であるということは、「自己目的ではない」し、「道の終わり」でもなく、「われわれの生活を通して示されるべき使いの役目(≪「感謝の供え物」≫)であり、(≪前述したような仕方での≫)証人の奉仕」の開始と途上性にある者のことである。しかし、この奉仕は、内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(神の愛の行為の出来事としての神の存在)であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストとは全く異なる、すなわち「まことの人間」でもなく(「まことの人間」はイエス・キリストだけである、「イエス・キリストの名」だけである)「まことの神」でもない、神とは全く異なる「われわれ自身が、(≪たとえ大きなそれではなく小さなそれであろうと≫)小さなキリストであろう」とすることではない。したがって、「われわれ自身が、小さなキリストであろうとするなら、禍である」とバルトは語るのである。何故ならば、そのような思惟と語りと行動は、「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異を人間の側から破壊するそれであるからである。われわれは、「まことの人間」となることはできない。そのためには、終末、復活されたキリストの再臨、「完成」を待たなければならない。だからこそ、次のような神の側の真実におけるイエス・キリストの出来事が必要であったのである――「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の「イエス・キリストの信仰」は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである)」(『福音と律法』)、まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストにおける神の愛は、神自身(≪「まことの神」≫)の人間に対する神の愛と神に対する人間(≪「まことの人間」≫)の愛の同一である」(『ローマ書』)。

 

 「われわれキリスト者」は、この近代市民社会の中で、それぞれの生・生活・職業・資質・喜怒哀楽の感情・思惟・思想・意志・信条を持った諸個人として、具体的にはあの「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、イエス・キリストをのみ「かしら」とする「信仰共同体」(イエス・キリストの「からだの肢々」)へと「集結」された人間存在である。したがって、この「信仰共同体」は、人間の共同的規範や「熱情」や「敬虔」で構成された教会のことではない。シュライエルマッハーが述べたような「ただ自由な人間的行為を通して発生し、またただそのような自由な人間的行為を通して存続することのできる共同体」、「敬虔性と関連した共同体」ではない(『教会教義学 神の言葉』)。さらに、「キリスト者の信仰共同体も自己目的ではない」。何故ならば、イエス・キリストを「かしら」とする「信仰共同体」は、イエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」、「キリスト教使信の中心」が、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」、「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの不信、非キリスト者、非知、個体的自己としての全人間・全世界・全人類に対して完全に開かれているのであるから、それ故にその現にあるがままの不信、非キリスト者、非知、個体的自己としての全人間・全世界・全人類に対して完全に開かなければならないからである。したがって、あの「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に基づいた「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」という連関における「神への奉仕」(礼拝)は、「人間への奉仕」(宣教)を包括させているのである。この奉仕に関しては、「『信徒』でない『聖職者』はいないし、『聖職者』でない『信徒』はいない」のである――このことは、「あらゆるキリスト者の生が、意識するにせよ、しないにせよ、やはりひとつの証しである」限り、「教会とその信仰を基礎づけている神の言葉から、提起される真理問題」は、「あらゆるキリスト者に向けられている。この証しにおいてこの真理問題に対する責任を負う限り、いかなるキリスト者も彼自身がまた、神学者としても召されている」(『福音主義神学入門』)、「教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任を負っている」(『啓示・教会・神学』)、「正しい注釈を、最終的に……教会の教職の判決に、……間違うことはありえないものとして振る舞う歴史的――批判的学問の判決に、依存させてしまう」ことは「教会の宣教をより危険なものにしてしまう」から、そのようにさせない共同の責任を負っている(『教会教義学 神の言葉』)、ということである。

 

 「われわれキリスト者」は、ただの人間であって、「天に向かって」、その「無感謝と強情さ」を叫んでいる「被造物」である。したがって、「われわれキリスト者」は、その「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは」、「この世でも、教会でも、……自分自身のもとでも、不十分さと災厄に充ちて御国の啓示に向かって進むまだ救われぬ世の中いる者」である。しかし、「われわれキリスト者」は、イエス・キリストにあっては、すなわちその「人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは」、「われわれは、すでに慰められた者」、「苦しみのときにも絶望する必要のない者」であり、「この世の欺瞞や教会の不正」のもとでも、「この世でも、教会でも、……自分自身のもとでも、不十分さと災厄に充ちて御国の啓示に向かって進むまだ救われぬ世の中いる者」である。

 

 その死と復活の出来事におけるイエス・キリストは、ただ「慰め主」であるだけではなく、先ず以て「勝利者」であり「希望」である。したがって、バルトは、イエス・キリストの「信仰共同体」は、キリスト教が「聖金曜日」だけでなく「復活節」も持っていることを明らかにしない場合、「自分自身に対してだけでなく、神と人間に対しても、決定的な点で責任を果たさないことになる」と述べるのである。何故ならば、われわれの召命・義認・聖化・更新を可能とするのは、「今日に至るまで罪人の手に渡され・十字架につけられ・死んで甦られ給うたイエス・キリスト」にある「復活の力」のみだからである。

 

 このような訳で、前述してきた事柄に、キリスト教的な「基礎」がある。