カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

「イエスと群衆」

「イエスと群衆」
再推敲・再整理版です。

 

カール・バルト『戦後神学論集』「イエスと群衆」井上良雄編訳、新教出版社に基づく

 

 バルトは、マタイ9・36について次のように論じている。
(1)イエスは「飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れている」「群衆」を「深くあわれまれた」とは、その群衆の「苦しみ」がイエスを「悲しませた」、イエスの「心に迫った」というだけでなく、その群衆の「苦しみ」がイエス自身の「苦しみとなった」、ということである。そして、イエスは、その群衆の「苦しみ」を「身に負うことによって」、群衆からその「苦しみ」を「取り除」いた、ということである。何故ならば、インマヌエルの出来事としてのイエスとは、内的・内在的な「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方として、キリストにあっての神が「ご自身を……投入することによって」、「神助け給う」ということだからである。このことが、イエスが「町や市場や村で説教するときに宣べ伝えた」ことであり、「多くの病人を奇跡的にいやす」ことによって神が「示し給うた」、神が「支配し給う」「神の国」である。すなわち、「イエス御自身が……神の国」である。したがって、神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのものであり、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものであり、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(平和)そのものであるイエス・キリストは、神とは全く異なる人間的な外皮的「外面」的な過渡的相対的部分的緊急的な「様々な忠告や慰め」、「様々な援助や緩和手段」を介した「当時もいたし今日もいる他の様々な群衆の解放者・教師たち」、「群衆に幸福をもたらす人々」、慈善家たちとは全く異なっているのである(マタイ26・6−13、マルコ14・3−9)。すなわち、両者の間には、常に、無限の質的差異が横たわっているのである。この時、われわれは、次のように言わなければならない――「ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(≪彼の人間的理性や人間的欲求やが対象化したに過ぎない意味的世界、救いと平和、逆に言えば対象化された彼の善意≫)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。(≪「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を堅持せず、具体的には「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者としないところの≫)神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法(≪平和の計画と平和の方法≫)が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである。そのような救いの計画と救いの方法(≪平和の計画と平和の方法≫)の独断性が、神に余りに僅かしか信頼せず、人間に余りに多く信頼するという点に現われるということは、疑いない」、と(『啓示・教会・神学』)。
 さて、「身をかがめること」、「身を屈するとか身分を落として卑下するという形で遂行される身を向けること」、「より高い者が、より低い者に向かって身を向けること」は、「ギリシャ語の恵みの意味の中に、またラテン語の恵みの意味の中に、……ドイツ語の恵みの意味の中に含まれている」。この「身を向けることの中に」、「特に(その中でこの言葉が現れている)旧約聖書的な脈絡がそのことを明らかにしているように」、「神がよき業として人間に対してなし給うすべてのこと、神のまこと、神の忠実さ、神の義、神のあわれみ、神の契約(ダニエル九・四)、あるいはあの使徒の挨拶の言葉によれば、神の平和が含まれている」。「それらすべては、まず第一に、基本的に、神の恵みである」。恵み(「神的な賜物……の総内容」――すなわち「啓示者である父に関わる創造、啓示そのものである子に関わる和解、啓示されてあるものである聖霊に関わる救済」、父、子、聖霊なる神の存在としての全き自由の神の全き自由の愛の行為の出来事全体)は、「確かにきわめて『超自然的な賜物』でもあるが」、それを「与える方自身が」、すなわち内的・内在的な「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」におけるご自身の中での「神ご自身が、(≪神の側の真実として≫)自分自身を賜物とすることによって、自分自身、(≪われわれのための神として「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおいて、神とは全く異なる≫)他者との交わりの中に赴き」、それ故に「自分自身を他者に相対して愛する者として示し給う限り」、先行してわれわれのための神が「ご自身と……被造物の間に直接交わりを造り出し、保ってゆくこと」であるから、「そのような賜物なのである」。「神が恵みを与え給うことの原型は、神の言葉の受肉(言葉の受肉であって、その神性の受肉ではない、すなわち神と人間は決して「混淆」・「混合」されることはない)、神と人間がイエス・キリストにあって一つであることである」。ここでの先行する神の「恵みの秘義と本質」は、「二つのものが、(徹頭徹尾第一のものの意志と力を通して)直接一つのものとなり、神と人間の間のあの直接的な『平和』、パウロが『恵み』という言葉と関連させて、……その内容的な定義として、……しばしば名指すのを常としている『平和』が樹立されるという」点にある。ご自身の中での神として「恵み深い神」と、われわれのための神として「恵み深くあり給う」神との間には、中間的な領域としての恵みについてのグノーシス主義的に受け取られた考え方が介在することは許されない」。「ここでは(≪内的・内在的な三位一体の神の側の真実として≫)すべてのことは直接性に」、それ故に「神の存在と行為が実際に神の本質的ナ独自ノ性質として、換言すれば神ご自身として、すなわち神ご自身(≪ご自身の中での神、その存在≫)であり、自分自身を確証(≪自己認識・自己理解・自己規定≫)することによって(≪われわれのための神、その存在として≫)恵み深くあり給う方として、理解されるということによってもってかかっている」。したがって、「旧約聖書と新約聖書の中で、……力を込めて神を指し示しつつ、『わたしの』、『あなたの』、あるいは『彼の』恵みについて語られているのである」。したがってまた、「聖書的な人間は、ただ単に『あなたの恵みにしたがって、わたしをお救いください』(詩篇一〇九・二六)、『あなたの恵みにしたがって、わたしを覚えてください』(詩篇一〇六・四)、『あなたの恵みにしたがって、わたしを生かしてください』(詩篇一一九・八八)、『あなたの恵みを聞かせてください』(詩篇一四三・八)等々について語られているだけでなく、ほとんどのところで直接、単純に、『わたしに対し恵み深く<あってください>』と言われている」。「それに対して、わたしの知る限り、わたしに恵みを<与えてください>という言い方はどこにも出てこない」。このような訳で、「使徒たちがその教会に対して臨んでいるすべてのことは、よく知られている挨拶の言葉でもって総括」することができる――すなわち、「恵みがあなたがたにあるように」。したがって、「神の言葉は、使徒行伝一四・三、二〇・三二によれば、単純に『恵みの言葉』」と呼ぶことができる。「パウロにおいては、恵み、彼自身の回心、彼の使徒職とその行使、それと共に福音の宣教は、一つのまとまった全体を形作っている」――「神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜った神の恵みは無駄にならず、むしろ、わたしは彼らの中の誰よりも多く働いてきた。しかしそれは、私自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである(Tコリント一五・一〇)。なお、ローマ一・五を参照せよ」、「まさに恵みこそが、包括的に、神が現にあるところの方として、(≪われわれのための神として≫)われわれに身を向け給う際の向け方を特徴的に言い表している」(『教会教義学 神論』)。

 

( 2 )ここで、「群衆」とは、「イスラエルの国民」や「異邦の諸国民」、「金持」ちに対する「貧しい人々」、「教養のある人々」に対する「無教育の人々」、「支配力を持つ人々」に対する「服従しなければならない人々」のことではない。それは、「群れとしての人間」のこと、「人々」のことである。すなわち、イスラエルの人々であり、異邦の人々であり、生活を主とする人々であり、知識を主とする人々であり、「低い階層」の人々であり、「比較的良い階層」の人々のことである。もちろん、それは、「弟子たち」でもあり、キリスト者でもある人々でもあり、非キリスト教でもある人々であり、非キリスト者でもある人々である。言わば、現存する市民社会に生きる個体的自己としての全人間、それぞれの私的な生・生活・職業・感情・思惟・思想・喜怒哀楽・意志・信条・行動を持った諸個人の「群れ」ということである。ここで、バルトはニーチェの言葉を引用して次のように述べている――「『君のそばを草を食みながら通りすぎてゆく家畜の群れを見よ』(ニーチェ)。しかし、君自身(≪ニーチェ自身≫)もその家畜の群れの一員であることを、思え」、ニーチェよ、君自身もそのことを認識し自覚せよ。

 

(3)イエスは、この「群衆」を「支持し給う」、この「群衆」に「帰属し給う」。そして、そのために、インマヌエルそのものであるイエスは、「ゲッセマネとゴルゴタの孤独」に「赴き給う」。このイエスは、「パリサイ人・律法学者」、そして「弟子たち」を「告発し叱責された」が、「群衆に対しては……そうされなかった」イエスである。

 

(4)群衆なりの仕方ではあるけれども、「群衆」も「イエスを支持する」。しかし一方で、不定形の「群衆」は、「バラバの放免」を叫び、イエスの「十字架」を叫ぶのであるが、そう叫んだ「群衆」も、再び「イエスの死後直ちに、……『胸を打』」ったし、イエスの処刑が決定されるや「否や取り消したい」という思いに駆られたのである。
 それにも拘らず、イエスが、こうした不定形の「群衆」・「群れとしての人々」を「支持し給う」のは何故か? それは、「エゼキエル書が語っているように」、「弱り果てて、倒れ」、「苦しみ、疲労困憊し」、「飼う者のない羊」、「群れとしての人々」、「群衆」を、「捜す者」も、「尋ねる者」もいないからである。このことは、例えば宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」とか、全体が幸せにならなければほんとうの幸せとはならないとかの究極的な問題(「農業芸術概論要綱」、「よだかの星」)を明確に提起しないところの、また二元論的にキリストの福音(言葉)だけでなく、それとは独立させた社会的政治的実践を声高に叫ぶところの、またその最初から居直って即自的な世俗牧師宣言をするところの、まさにフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーが客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的に原理的に批判した宗教としてのキリスト教における「宗教的・世俗的な牧者たち」しかいないということを物語っている、また「政治・文学・医学における牧者たち」、「見かけだけの牧者」たちしかいないということを物語っている。したがって、バルトは、次のように語るのである――「彼らが彼を支持するのは、彼らの思いや意図がどのようなものであるにしても」、その現にあるがままで、神の側の真実としてイエス・キリストにおいて、「彼らが事実彼に所属しているからである」、イエスの「勢力圏内にいる」からである、したがってイエスは、「その弟子たちに、『収穫は多い』と語り給う、したがってまたイエスは、「『罪は大きい』とか『不信仰は甚だしい』とか『悲惨はひどい』とか、言われない」、と。われわれは、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ人間は、「そのままでは恵みを受け取る状態にはない」し、また「自分でそのような状態にすることもできない」、それ故に「もし人がその恵みを受け取り得たとすれば、そのこと自体が恵みなのである」、すなわち「私たちの召命・義認・聖化」は、「私たち自身の中に生起するのではなく」、徹頭徹尾全面的に、先行する神の側の真実としてある「イエス・キリストの御業として、私たちのために、私たち自身の中に生起する」のである(『カール・バルト著作集3』「神の恵みの選び」)。
 新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」(われわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍)にとっては<いまだ>であり――それ故に、現存する「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ない」し、現存する近代市民社会のこの世には「私利・私意」が蔓延し、なお依然として貧困格差があり、愛憎問題があり、殺傷事件があり、いじめや嫌がらせがあり、差別があり、支配があり、平和はない――、先行する神の側の真実としてある客観的現実性、「成就と執行」、「永遠的実在」としては<すでに>ということ――「人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみない」し、「イエス・キリストにおいては神と人間が、しかしまた人間とその隣人が平和的であり」、「敵としてではなく、忠実な同伴者、仲間として、共に」あり、平和がある――、である。このような訳で、われわれは、この終末論的観点、この「イエスの目」、このイエス・キリストそのものである「神の国の目」を必要とするのである。神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)からやってくるこの終末論的観点、この「イエスの目」、このイエス・キリストそのものである「神の国の目」からは、先行する神の側の真実からして、「弱り果てて倒れた」ままの人生(道)を歩むことはできないし、「自分たちの罪・不信仰・悲惨の中で羊飼いを持たぬ羊のように衰えてゆくことはできない」し、「まだ彼を信じない人々がいるなどということ」はあり得ないことなのである。何故ならば、「イエス・キリスト御自身が、(中略)『すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう』」、と呼びかけているからである。したがって、バルトは、われわれが、「イエスと群衆について聞いた真理」は、「群集にも弟子たちにも、したがってまたキリスト教会にも依存しない」と語るのである、すなわちイエス・キリストにおける先行する神の側の真実に依存すると語るのである。したがってまた、イエスの弟子たち(第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言)を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として媒介・反復するという仕方で成立する教会(第三の形態の神の言葉、「新しいイエスの弟子たち」)とは、先ず以て「神の国に関して、また赦しの光と力に関して、まだ誰もそれを学びつくした者はない」から、そのことを「学ぶことを許された」学びの途上にある者として、「イエスに基づいて」、そのような「イエスの目」・「神の国の目」をもって「群れ」を「学びつつある者たち」のことである。

 

(5)「その実った穀物を刈るために働き人が少ない」、とイエスは言われる。このことについては、バルトは次のように述べている――「遺憾ながら、働き人でなく、なすべきことをしようとしない自称の羊飼、見せかけの羊飼、そのような人々ならば、沢山いる。しかし、必要なのは、そのような人々がさらに増加することではない。他の人々に、神の国は近づいたと語り、そのことであなた方はすでに救われていると語る者は、決してあのエゼキエルが述べているような戯れを今一度演じるようなものではないであろう。彼らは、働き人であろう。しかし、それゆえにこそ、彼らは、いつも少数者にすぎないであろう」。「いつの時代にも、多くの政治家や将軍、多くの詩人や思想家、多くの教育者や学者や神学教師、教会の大小の要人たちはいたけれども、『イエスは活きて支配し給う』『神の国は近づいた』という、人々のためにもっとも必要なこと・最上のことを彼らに語った者は、極めて僅かしかいなかった」。何故ならば、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な「真の教会の奉仕」は、「人が自分で獲得できることではない」にもかかわらず、すなわち「収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにして」もらわなければならないにも拘わらず、「そのことが、教会では、しばしば忘れられた」からである。また、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源(根拠、目標、原動力)とした第二の形態の神の言葉である「弟子たちの手と奉仕を通じて群衆全体が食べて満腹した」という給食物語(マタイ14・13−21)における「奉仕」が為されなかったからである。第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な「教会は、(≪神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて≫)人間が神に聞くというこの一事によって――神が人間に語り給うゆえに聞き、神が人間に語り給うことを聞くというこの一事によって、基礎づけられ、支えられているのである。(中略)このことが起こるところ、そこではたとえ二人三人の集まりであっても、またこの二人三人が決して選り抜きの人でなくても、また高い水準にさえ達していなくても、またむしろ人間の屑に属する者であるようなことがあっても、教会は存在する」、したがって、そうでない場合は、「どのような大群衆をその中に擁し、どのように優れた個人をその中に擁していても教会は存在しない。またそれが、もっとも豊かな生命を示し、国家と社会において、どのように尊敬されようとも教会は存在しない」(『啓示・教会・神学』)。このように語るバルトは、まさに<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと移行した場所から次のように思惟し語るのである――内的・内在的な「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち起源的な第一の存在の仕方である啓示者である父なる神の子としての啓示ないし和解、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示は、その啓示自身に固有な証明能力を、キリストの霊である聖霊の証し力を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)を与えることができる授与能力を、聖霊自身の業である「啓示されてあること」――すなわち「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)を持っている、それ故に第二の形態の神の言葉である聖書から宣教を義務づけられている第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の責務は、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)を、自らの宣教、その一つの機能としての神学、その思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(純粋なキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すなわちすべての人々が純粋なキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指していくという点にあるのである。このようにして、「活ける主の活ける教団」――すなわち「教会」は、絶えず繰り返し教会となることによって教会であることができる。