カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

「プロテスタント教会に対する問いとしてのローマ・カトリシズム」

「プロテスタント教会に対する問いとしてのローマ・カトリシズム」
再推敲・再整理版です。

 

『カール・バルト著作集1』「プロテスタント教会に対する問いとしてのローマ・カトリシズム」新教出版社に基づく

 

 「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を堅持することをしないで、人間中心主義的な人間からする神との「混淆」・「混合」論、神との「共働」・「協働」論、「神人協力説」、人間学との「混合神学」(混合学)、キリストの福音(言葉)から独立させた社会的政治的実践(行為)との二元論的な「混合宣教」を目指す近代主義的プロテスタント主義的キリスト教を、総括的に言えば自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階にあるキリスト教を、具体的には「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、根本的包括的に原理的に止揚し克服して<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階におけるキリスト教へと移行したバルトは、自らが属するプロテスタント教会(近代主義的プロテスタント主義的教会)を「問うことなしには」、同じような段階で停滞と循環を繰り返すローマ・カトリシズムとしての「他者を問い、また他者から問われることはできない」という認識と自覚の下で、その自らの<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階における立場から、「他者に対する自己の絶対的正当性について実際に知っている者」は、「喜んで、先ず、他者が問うことを許し、他者から問われることを許す」ことができると述べている。
 われわれは、先ず以て「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を持たないならば、また具体的には「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として認識し自覚していないならば、党派性、党派的共同性、相互承認的寛容的調停的な党派的多元主義という「われわれの立場、思考、意図において異なった人と語る際に……、その人の言うところを真剣にそのまま聞くよりも、自分の方が何かを言い、われわれ自身の言ったことを主張し……ようとする」に違いないのである――このことは、「教養ある人の方に一層顕著」に見られる「現象である」。すなわち、そのような人は、自分の立場や思考や意図が「絶対」的に「正しい」として、「他者に対してソクラテス以来、知者、認識の産婆の立場、……優位な立場……、問う者の立場を取り、またそのような立場にあると主張しようとする」に違いないのである。

 

 さて、バルトは、「人間ノ混乱ニヨッテ」なされた「宗教改革」は、ローマ・カトリシズムに対する「神ノ摂理ニヨッテ」なされた「実質の教会の再建」であると述べている。しかし、現存するプロテスタント主義教会、現存するその近代主義的プロテスタント主義的「立場、思考、意図」は、バルトによれば、ローマ・カトリシズムと同じ水準の段階にあるものとして、絶えず繰り返し為されるべき「教会の再建」ではなくて「教会の放棄」であるとされる。総括的に言えばそれは、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返しているに過ぎないものとして、具体的には第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として絶えず繰り返し為されるべき「教会の再建」ではなくて、「教会の放棄」であるとされる。したがって、バルトの語る「他者に対する自己の絶対的正当性について実際に知っている者」とは、「教会の基礎」、「あなたがたはラビ、父、教師と呼ばれてはならない」(マタイ23・8−11)、「婚宴に招かれたときには上座につくな。(中略)末座に行ってすわりなさい」(ルカ14・8以下)という言葉を念頭において、「キリスト教会の知識と準備」について認識し自覚している者のことである。言い換えれば、教会は、「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第三の形態の神の言葉に属する全く人間的なそれであるから、その教会は、先ず以て「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を堅持して、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を、それ故に具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(この聖書が、教会に宣教を義務づけている)を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストにあっての神・純粋なキリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(この「隣人愛」は、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請である)を目指さなければならないのである、同時にそういう仕方で、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指さなければならないのである。このようにして、イエス・キリストをのみ主・頭とする教会は、徹頭徹尾イエス・キリストをのみ唯一無比な「一人の教師」として持っているのであるから、この唯一無比な「一人の教師」への集中に基づいて、党派性、党派主義、党派的思想、党派的共同性、党派的多元主義を根本的包括的に原理的に止揚し克服し、そのような枠組みから超え出ていくというところに「他者に対する自己の絶対的正当性」の根拠があるのである。

 

 バルトは、「世界観的結社」とも言えるローマ・カトリシズムの近代主義的形態としてのプロテスタンティズム(近代主義的プロテスタント主義)は、ローマ・カトリシズムに対する党派性として打ち立てられた「一つの世界観を持つ共同体」・「同感の……同意見の人々の群れ」・「一つの目的結合体」であり、それ自体がローマ・カトリシズムの段階の水準にあるもの、それと「無気味なほどに近い」ものであると述べている。したがって、バルトは、近代における「一種の第二の宗教改革」は、具体的には第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として絶えず繰り返し為されるべき「教会の再建」ではなく、「教会の放棄」であると述べている。

 

 さて、「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を持たないカトリシズムにおいては、われわれと同じ人間である「式をつかさどる司祭は、キリストを現臨せしめ、犠牲を捧げることができる」、「その調べでは、『ローマノ首長』である」、「まさしく『地上ニオケルキリスト』である」。また、「主の母マリヤ」は「神の働きにおける一種の被造物的協同、神の国建設における祝福あふるる先駆」として、マリヤにおいては「神のみならず、被造物の力(≪神とは全く異なるわれわれと同じ人間の力≫)もまた……救贖の業の原因として参与」する。バルトは、このことを、マックス・ウェーバーの「宗教改革は生活一般に対する教会支配の撤去を意味するのではなく、むしろそれまでの支配形式を他の形式と取りかえたことを意味した」という言葉を引用して、カトリシズムにおいては、「教会の権威」が第一義性・価値性としてあって、それが「個々人の良心」を「拘束」していたが、宗教改革においてはその「教会の権威に対する神の権威が再建」されたと述べている。このカトリシズムに対する近代主義的プロテスタンティズムにおける権威は、「神の権威」を放棄して「教養人」の自由な自己意識の類的機能の無限性を宗教としての権威(第一義・価値)としたから、それはカトリシズムの「教会的な権威概念」と近似的であると述べている。何故ならば、例えばバルトの『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、シュラエルマッハーは、先ず以て「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を持つことをしないで、また聖霊自身の業である「啓示されてあること」――すなわち具体的には客観的可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者とすることもしないで、すなわち近代主義的思惟の中において恣意的独断的に、「教会とは、『ただ自由な人間的行為を通して発生し、またただそのような自由な人間的行為を通して存続することのできる共同体』であり、『敬虔性と関連した共同体』」であり、また「信仰」も、「人間実存の歴史的存在の一つの在り方として理解される」、それ故に神学における「近代主義的思惟は、人間が、誰かによる呼びかけを受けることなしに」、人間の自由な自己意識の類的機能において「人間がじぶんを相手に自分だけでひとりごとを言っているのを聞く」し、「宣教」は、「『教会』と呼ばれる人間的な共同体の一つの必然的な生の表現」となり、人間の「精神的な促進のために、自分と彼らに共通な宝庫からくみ取りつつ、この宝庫をさらに豊かにするために」、「人間の世界理解の、最後的には人間の自己理解」・「神話」、総括的に言えば宗教化され第一義化・価値化された人間的理性や人間的欲求やが対象化した彼の物語世界・意味的世界、「存在者レベルでの神への信仰」(偶像崇拝)の世界(ハイデッガー)、「自分自身の歴史」と「現在の解釈」を表現しようとする「自己表現としての宣教」を企てるからである。したがって、この時、シュライエルマッハーはもちろんのことブルトマン等々近代主義的プロテスタント主義的キリスト教はすべて、彼らが主観的に<違う>と弁明し主張したとしても、客観的には、客観的な正当性と妥当性とをもって、必然的に、「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識」であり、「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した」のであり、それ故に「この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」ものとなるのである( L ・フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)。このような訳で、第二のプロテスタンティズム(近代主義的プロテスタント主義あるいは自由主義的プロテスタント主義)は、「合理主義的形態」において「教会であることをやめ」、「敬虔主義的形態」において「プロテスタントであることをやめた」のである。この合理主義的形態と敬虔主義的形態とを「綜合、均衡、調和」したのが、前述した近代主義的プロテスタント主義的神学者のシュライエルマッハーである。

 

 さて、十六世紀の宗教改革は、「教会に対してプロテストしたのではなく、教会のためにプロテストした」のである――そこでは、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会は、「神のみ手のうちにある啓示(≪起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身、それ故に具体的にはイエス・キリストを起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言≫)の人間手段としての教会、神の語りかけが起こりまた(≪その神の語りかけが、具体的には第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として≫)聞かれる人間的場としての教会、神の召命に基づき、この神の語りかけに(≪具体的には第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者とした「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」という連関において≫)人間が奉仕するところの人間の共同体としての教会、さらにまた、この神の召命に基づき、人間に対する神の語りかけが(≪客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて≫)生起するところの人間の共同体としての教会である」。宗教改革の教会は、「神性」を本質とするイエス・キリストにおける啓示ないし和解(「罪人の手に渡され・十字架につけられ・死んで甦られ給うたイエス・キリスト」にある「召命」、「義認」、「聖化」、「更新」)に感謝をもって信頼し固執し固着した、「頭から足の裏まで」「罪人の教会としての教会の再建である」。