カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

カール・バルトとキルケゴール

カール・バルトとキルケゴール
再推敲・再整理版です。

 

『カール・バルト著作集 4』「感謝と表敬――デンマークとの接触」および「キルケゴールと神学者」小川圭冶訳、新教出版社に基づく

 

 この「感謝と表敬――デンマークとの接触」は、1963年4月19日に行われたデンマークのソニング゙賞の受賞式において述べた「感謝の辞の草稿」とある。また、「キルケゴールと神学者」は、フランスのプロテスタントの新聞のキルケゴール生誕150年記念企画のために書いたものとある。

 

 バルトは、コペンハーゲンの街路を散歩するキルケゴールの姿を、「ほとんどだれからも愛されることもなく、少数の人によって恐れられ、あるいは嘲笑され、多くの人にはまったく知られ」ない、実存者あるいは単独者として描いている。そして、バルトは、ソニング賞決定は、「正当なヨーロッパ文化には、正当な自然科学、芸術、政治だけでなく、正当な神学」も含まれていることを意味していると述べている。そしてまた、バルトは、ヨーロッパ文化が「今世紀に遭遇した重大な危機を克服するかどうかということは、その最初にして最後の問いが――それがまさに神学の問いなのですが――そこでふたたび生きているかどうか、また正しい答えを見出すかどうかに、かかっている」と述べている。この思惟と語りから、われわれは、ここでバルトが述べている「正当な神学」とは何かを、すぐにイメージすることができるのであり、それは、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の一つの機能としての神学が、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を堅持することをしないで、人間中心主義的な人間からする神との「混淆」・「混合」論、神との「共働」・「協働」論、「神人協力説」、人間学との「混合神学」(混合学)、キリストの福音(言葉)から独立させた社会的政治的実践(行為)との二元論的な「混合宣教」を目指す自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階を、具体的には「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、根本的包括的に原理的に止揚し克服して<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと移行した神学ことである。したがって、バルトは、先ず以てキルケゴールから、「キルケゴール・ルネサンス」に参与した処女作『ローマ書』「第2版序言」以降の著作において、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異(無限の質的「対立、矛盾、深淵」)を固守するという<方式>を獲得し、その<方式>を堅持し続けたのである。キルケゴールは、信仰としても、文学としても、思想としても、軽薄な「あまりにも安っぽいキリスト教的性格と教会的性格」に対して、「福音の絶対的要求と、自分自身の決断において福音に従う必要」性を主張した。しかし、バルトは、神の「自由な恵みの福音を述べ伝え、説き明かすことが問題である」とすれば、「神の民、教団、教会」、「その奉仕と宣教の任務」、「その政治的・社会的課題」を後景へと退けて、「単独者」と「個人救済主義」を前景へと押し出し強調するキルケゴールの言説をそのまま受け入れることはできなかったのである。なお、ここでいうバルトにおける社会的政治的実践は、二元論的な「混合宣教」におけるそれではなくて、それが社会的な事柄であれ政治的な事柄であれ、「かつて語った説教の一貫した繰り返し」が、すなわち具体的には「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者としたキリストの福音の宣教の一貫した繰り返しが、「(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから実践に、決断に、行動になって行った」という水準のものである、換言すればそのような仕方でのキリストの福音の宣教(言葉)がそうした実践(行為)へと必然的につれ出していくという水準のものであったのである。バルトは、このようにキルケゴールにある問題を明確に提起することによって、キルケゴールの「敬虔主義」にもある「人間中心的=キリスト教的思考」を包括し止揚し超え出たのである。このような訳で、キルケゴールの世界は、それ自体が超えられるべき対象としてあるから、それは、「料理のための『ほんの少しの肉桂』であって、教会や人びとに勧める料理そのもの、すなわち正当な神学の課題ではない」のである。

 

 さて、前述したようなキルケゴールとは全く違って、神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を持たない、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返すという仕方で「混合神学」を目指す大学神学者たち、それに類する牧師たち等々は、「西欧思想の危機」についての認識と自覚も持っていないのである。さらに日本における西欧近代を「骨肉にまで受け入れた」そういう人たちは、「西欧思想の危機」についてだけでなく、吉本隆明が指摘する人類史のアジア的段階における「西欧的にいえばアジア的という概念で括られる思想的伝統、習慣、風俗、社会構成、文化を引きずっている」日本的特殊性の問題についての認識と自覚も持っていないのである(『世界認識の方法』中央公論社)。例えばその典型は、寺園喜基が『バルト神学の射程』でその内容を紹介していた「十字架における神の愛」とヘーゲル弁証法および滅私奉公という日本におけるナショナルなものとの折衷において神学を構成した(換言すれば、人間学やナショナルなものに捕囚されてしまった神学を構成した)「徹底したバルト批判者である」らしい(それ故に、全く以てバルトの神学の全体性の根本的包括的な原理的な批判が構成でき得ていない、それ故に客観的な正当性と妥当性を持たない、恣意的独断的な外皮的皮相的な批判者でしかない)北森嘉蔵の『神の痛みの神学』である。また例えば前者のその典型は、神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を堅持せず、その神学が人間学そのものに捕囚されてしまったシュライエルマッハーであり、またその神学が前期ハイデッガーの哲学原理(人間学)に捕囚されてしまったブルトマンであり、またヘーゲルから対象的になって距離をとるという仕方をしないでヘーゲルの世界にどっぷりと浸かってしまった(それ故に、その神学がヘーゲルやハーバーマスの人間学に捕囚されてしまった)ヘーゲル主義者のエーバーハルト・ユンゲルであり、その翻訳者の大木英夫であり、またその神学的な三段階的進歩史観における神学がヘーゲルの自由を原理とする西欧近代を頂点とした直線的な進歩史観の展開である歴史哲学に捕囚されてしまったモルトマンであり、彼を評価するという仕方でさらにモーリス・メルロ=ポンティの「『知覚の現象学』における」身体性の概念に基づく(換言すれば、その神学がメルロ=ポンティの人間学に捕囚されてしまって)歴史への関わりを目指した喜多川信等々である。

 

 さて、ミシェル・フーコーによれば、「時代を画する哲学者は一人」もいない「西欧哲学の時代の終焉」であり、「帝国主義の終焉」と同じものである「西欧思想の危機」とは、換言すれば人類史の近代以降の段階において、世界普遍性を獲得した地域として「普遍性誕生の場」である「西欧思想の危機」とは(それ故に「西欧思想の危機とは、すべての人々の関心を引き、すべての人々にかかわり、世界のあらゆる国々の諸思想、あるいは思想一般に影響を及ぼす危機」なのであるが)、「一つの思想形態……一つの世界ビジョン、一つの社会機構」となった「マルクシズム……の危機」、「革命という西欧概念の危機」、「人間、社会という西欧概念の危機」のことである(『思考集成Z』「フーコーと禅」)。したがって、吉本は、人類史のアジア的段階における日本的特殊性を引きずっている「現在日本のもっている危機の意味合いは二重になって」いるから、日本においては、西欧的危機の問題とアジア的な日本的特殊性の問題とを明確に提起しなければならない、と述べたのである。したがってまた、吉本は、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会」の学者やそれに類する知識人としてではなく、知識人の中の思想家として、例えば『マルクス――読みかえの方法』を著わしたのである。このような訳で、波風のない無風地帯の中で自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返す「混合神学」を目指す大学神学者たち、それに類する知識人や牧師たち等々は、具体的には「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、現実と時代から強いられた問題を神学的に明確に提起することをしないし、明確に提起することもできない、井の中の蛙と言わざるを得ないのである。このような人々が、神学における思想家であるバルトの神学の全体性を、根本的包括的に原理的に批判できるわけがないのである。

 

 さて、「感謝」とは、「神の恵み」、「求めずしてあたえられる」、先行する神の側の真実の方から一方的に与えられる「憐れみ」、「無償で授けられる賜物に対する応答」のこと、「気持ち」のこと、「態度」のことである。また、神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける神のもとにある「慰め」は、「キリスト者」の「慰め」であると同時に、全人間、全世界に完全に開かれた、個体的自己としての全人間の「慰め」、「全世界の慰め」でもあるのである。