カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

バルトとカルヴァン祭

バルトとカルヴァン祭
再推敲・再整理版です。

 

『カール・バルト著作集4』「カルヴァン祭」小川圭冶訳、新教出版社に基づく

 

カルヴァンの「三つの命題」
(1)カルヴァンは、われわれ人間の「思惟の力」、「研究のもろもろの成果」について、「懐疑主義」的にではなく、また「安閑」としてではなく、「謙虚に考えるべきことを教えた」。すなわち、カルヴァンの教えたその「謙虚に考えるべきこと」は、主なる神に「服従すること」も、主なる神を「認識すること」(信仰すること)もできないわれわれに対して、主なる神が「ご自分の言葉を語る」ことによって、われわれが聞く者、認識する者、信仰する者となるようにされるということを、その神の完全な自由に「直面させる」ということを、「謙虚に考えるべきことを教えた」。
 このことは、バルトの『教会教義学』「神の言葉」および「神論」に即して言えば、内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち起源的な第一の存在の仕方である父なる神の子としての啓示ないし和解、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示は、その啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力を、キリストの霊である聖霊の証しの力を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)を与えることができる授与能力を、それ自身が聖霊の業である「啓示されてあること」――すなわち教会の宣教、その一つの機能としての神学、その思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として客観的可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)を持っていることを教えたということである。また、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性であるイエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって信仰の認識としての神認識(≪啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)に向かっての人間の用意が存在する」ことを教えたということである。

 

(2)カルヴァンは、神学者に、また「いかなるキリスト者も……神学者としても召されている」(バルト)という意味ではすべてのキリスト者に、「主題」を示した。そして、カルヴァンは、その「主題」は、「服従への自由」に基づいて、すなわち恣意的独断的な「自分自身の考えではなく」、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に対する「他律的服従」において、前述したような仕方で聖書(第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉)の中にキリストにあっての「神の考えを尋ね求め、見出す」というそういう「自立的服従」(「決断」と「態度」)を為す「聖書の読者と解釈者」にあると考えた。したがって、カルヴァンは、「神学体系を残さなかった」、「カルヴァン主義」なるものを残さなかった。したがって、「カルヴァンの注釈に対する批判」は、「ただこの前提のもとでだけ可能」である。

 

(3)第三の形態の神の言葉である教会の宣教の一つの機能としての神学の「場所」は、「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における「神の言葉の宣教に、奉仕する」教会、すなわち第二の形態の神の言葉である聖書が宣教を義務づけた教会である。

 

カルヴァンの使徒行伝3・1−10についての説教
 「われわれが、イエス・キリストの名において洗礼を受け、イエス・キリストの言葉を聞くようにと召されていることが確かである限り」、ここで「宮」は、具体的には「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリスト(「啓示の実在」そのもの)についての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「一つの、聖なる、公同の、使徒的教会」のことである。ここでは、「神が問題であり、魂とその永遠の救いが問題であり、神の国が問題」である。「使徒たちと預言者たちが、聖書(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言≫)が、教会(≪第三の形態の神の言葉である教会≫)に来るならば、その時、いずれにしても」、その「教会」の宣教が、「人間的な虚偽か、神的真理」か、「昔からの習慣と空想」か、「神の主権的な導き」か、「決定が下される」。何故ならば、教会に宣教を義務づけている「聖書こそが、教会を支配する」からである、換言すれば「聖書こそ」が、教会の宣教、その一つの機能としての神学、その思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者だからである。したがって、その教会の宣教、その一つの機能としての神学、その思惟と語りと行動が「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」し、それ故にその教会の宣教、その一つの機能としての神学、その思惟と語りと行動は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立しているのである」(『教会教義学 神の言葉』)。このようにして、先行する「神的真理」・「神の主権的な導き」の中にある教会(≪第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会≫)は、「死」の「予型と前戯」の比喩である「宮もうでに来る人に施しを乞うために」置かれていた「生まれながら足のきかない男」、「人間の世界のただ中に」「立っている」。
 そのただ中で、イエス・キリストが特別に唯一回的直接的に召され任命されたその弟子である「ペテロとヨハネ(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言≫)なしの教会」、その聖書的啓示証・「聖書なしの教会」は、そこでは神の言葉は沈黙し、それ故に神の言葉が「支配する代わりに、あらゆる種類の人間の言葉」を神の言葉に置き換え(「神の名において、神の呼びかけのもとに」、神への「反逆」が行われ)、神の言葉を「駆逐」するのである。そこには、人間的理性や人間的欲求やが対象化したに過ぎない宗教を求める「民衆」が、それと同類の「われわれ自身(≪そのような「存在者レベルでの神への信仰」を尋ね求め・宣べ伝える教会≫)が、……属している」、またそこには、「二、三の建設的な理想」、「二、三の道徳的動機」がある、またそこには、「人間的な足がきかないことと無力さの下にある教会の総括的表現がある」。しかし、足が聞かない男が「施しをこうた」時の視線は、「好奇心」と「同情心」を内容としていたが、「ペテロとヨハネ」が「彼をじっと見」た時におけるまなざしは、「罪と死をも、とっくに打ち砕かれた主なる神」、その死と復活の出来事におけるイエス・キリストである――「カルヴァンを通し貫いて、イエス、助け主、救世主、終わりと新しい始まりをもたらす方である。それが、ペテロとヨハネが足のきかない男をじっと見た時、起こったところのことである」。ペテロもヨハネも、「われわれすべてと同じように全く平凡な人間」であり、「誰かほかの人間よりも別段意味深くもないし、興味深くもない」人間であるが、彼らが欲しているのは、自分が・自分たちが見られることではなく、「彼らをつかわし、委任を与えられた方、永遠の父の永遠のみ子」、イエス・キリストが見られることである、起源的な第一の形態の神の言葉(啓示ないし和解)である「イエス・キリスト」だけである。したがって、そのためにこそ、第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言――すなわち「ペテロとヨハネ」、「すべての預言者と使徒」が見られることを欲している、「聖書」の証言・証しが聞かれることを欲しているのである。したがってまた、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の説教者の恣意的独断的な思惟や語りが聞かれることを欲してはいないのである。
 ペテロとヨハネは「金銀のない」「貧しい者」として、足のきかない男に「施し物を与えること」はできない。この「施し物を与えられない」ということが「試練」として「襲いかかる」。そのために、ユダをはじめとして、ペテロも、「すべての弟子たち」も、イエスを裏切り、否定し、「捨てて逃げ去った」。しかし、そうであるにもかかわらず、イエスのゆるしの下で、イエスの弟子として、使徒として、金銀はなく施し物を与えられないペテロは、「わたしにあるものをあげよう」と、「死人の中から甦られた」、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」・「聖霊を受けよ」と「語りかけ給う」神の言葉であり、「啓示と和解」そのものである「ナザレ人イエス・キリストの名」を宣べ伝える。この、先行する「み言葉の後に従いつつ」、み言葉への奉仕の中で、ペテロは、「何かをなすことができ、何かをなすことがゆるされる」、「人間的に助け、手をつかみ」、「身を起してやることができ、そのようことをなすことがゆるされる」、「これまで決してできなかったことができる」、「決してしなかったことをする」、「死の影の中を引き続き生きるのではない」、「永遠の生命の光の中を歩くのである」。
 教会は、「英雄」ではない・「賢者」ではない・「偉人」ではない、「神の言葉が来た足のきかない男である」。何故ならば、教会は、聖書のイエス・キリストにおけるその「み言葉と共に、み言葉の中に、み言葉の下にいる足のきかない男となったからである」。このような訳で、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会は、具体的には「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えずくり返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指していかなければならないのである、絶えず繰り返しそのような教会となることによって教会であることを目指さなければならないのである。これが、キリストの復活から復活されたキリストの再臨(終末、「完成」)までの聖霊の時代におけるその途上にある教会である。このような訳で、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会は、教会の神的側面でありその主・頭であるイエス・キリスト(起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの)に聞くことが、イエスの弟子である「ペテロとヨハネ」に・使徒たち(第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言、最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)に聞くことが、すなわち具体的には、その教会の宣教、その一つの機能としての神学、その思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者としての聖書に聞くことが、教会に宣教を義務づけている聖書から命令・要求・要請されているのである。