カール・バルト――自由主義神学者アドルフ・フォン・ハルナックとの論争(その2−2)
カール・バルト――自由主義神学者アドルフ・フォン・ハルナックとの論争(その2−2)
再推敲・再整理版です。
論争3
ハルナックの問い:
(1)「神体験」と「その他の一切の体験」とが対立しているとすれば、それは、「現実逃避」につながるのではないか?
(2)神(「神にある生」・「神の愛」)と世界(「現世的生」・「隣人愛」)とが対立するとすれば、「両者の等置」を可能とする「道徳を最高度に尊重」することができなくなるのではないか?
(3)神(「神にある生」・「神の愛」)と世界(「現世的生」・「隣人愛」)とが対立するとすれば、「神へと導く教育」、すなわち「善(≪道徳≫)への教育」は、「歴史的知識」と「道徳の最高度の尊重」が必要ではないのか?
(4)神は、人間によって対象化され客体化された「文化の発展とその認識」・「道徳」の「一切」であるとすれば、その逆の考えの場合、「人はいかに文化」を・「自己自身」を、「無神論から守る」ことができるのか?
(5)「ゲーテの汎神論」、「カントの神概念」、「その他類似のもの」は、「真」の神と対立するとすれば、「精神的発展における」ゲーテやカント等によって対象化された神概念は、「野蛮未開の状態(≪自然にまみれた原始未開の状態≫)に引き渡される」のではないか? また、<精神>にまで高められた神概念(道徳性)と原始未開段階の<自然>における神概念(道徳性)、の差異を強調するとしても、その差異の認識のためには、「歴史的知識」と「批判的省察」を必要とするのではないか?
バルトの回答:
(1)の「神体験」と「その他の一切の体験」とが対立しているとすれば、それは、「現実逃避」につながるのではないかという問いにおける思惟と語り、あるいは(2)の神(「神にある生」・「神の愛」)と世界(「現世的生」・「隣人愛」)とが対立するとすれば、「両者の等置」を可能とする「道徳を最高度に尊重」することができなくなるのではないかという問いにおける思惟と語り、あるいは(3)の神(「神にある生」・「神の愛」)と世界(「現世的生」・「隣人愛」)とが対立するとすれば、「神へと導く教育」、すなわち「善(≪道徳≫)への教育」は、「歴史的知識」と「道徳の最高度の尊重」が必要ではないのかという問いにおける思惟と語り、(4)の神は、人間によって対象化され客体化された「文化の発展とその認識」・「道徳」の「一切」であるとすれば、その逆の考えの場合、「人はいかに文化」を・「自己自身」を、「無神論から守る」ことができるのかという問いにおける思惟と語り、(5)の「ゲーテの汎神論」、「カントの神概念」、「その他類似のもの」は、「真」の神と対立するとすれば、「精神的発展における」ゲーテやカント等によって対象化された神概念は、「野蛮未開の状態(≪自然にまみれた原始未開の状態≫)に引き渡される」のではないかという問いにおける思惟と語り、また<精神>にまで高められた神概念(道徳性)と原始未開段階の<自然>における神概念(道徳性)、の差異を強調するとしても、その差異の認識のためには、「歴史的知識」と「批判的省察」を必要とするのではないかという問いにおける思惟と語り―――神と人間との「混淆」論、神学と人間学との「混合」学を目指しているであろうハルナックのこれらすべての問いにおける思惟と語りは、先ず以ては、聖書的啓示証言における、神と人間との無限の質的差異という主題の捨象・放棄におけるそれであり、聖書的啓示証言における完全性・自由性における内的・内在的な三位一体の神という認識と自覚の欠如におけるそれであり、それ故に自然神学の典型である「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」(『カント』)としたカントの「後追い知識」におけるそれであると言うことができる。また、ハルナックの「歴史的知識」と「批判的省察」の主張とは裏腹にある、人類史の原型・母胎・母型における内在の精神に対する無知におけるそれであると言うことができる。おそらくはハルナックは、自然をではなく、自由を原理とする西欧近代を人類史の頂点として論じたヘーゲルの歴史哲学に依拠して原始未開段階の<自然>における神概念の、すなわち道徳性の低次性を信じているのである。しかし、実際的にはそうではないのである(このことは、イザベラ・バードの『日本奥地紀行』、野村達郎の『民族で読むアメリカ』、吉本隆明の『アフリカ的段階 史観の拡張』に詳しい)。バードは、人類史のアフリカ的段階に属していると言える日本の縄文的段階の内在の精神を残していたアイヌ人について、「彼らは善悪・道徳の観念、高度な宗教をもたないが、誠実、高貴、立派な生活を送っている」、総体として「アイヌ人は純潔であり、他人に対して親切であり、正直で崇敬の念が厚く、老人に対して思いやりがある」と述べている、もっと言えば明治期の日本人たちを「見て感じるのは堕落しているという印象である」・「わが西洋の大都会に何千という堕落した大衆がいる――彼らはキリスト教徒として生れ、洗礼を受け、クリスチャン・ネーム名をもらい、最後には聖なる墓地に葬られるが、アイヌ人の方がずっと高度で、ずっとりっぱな生活を送っている」と述べている。さらに言えば、ハルナックが、それらすべての問いにおいて主張したいことは、人間の側からする神との「混淆」論、神との「共働」・「協働」論、「神人協力説」であり、しかもその神は、聖書的啓示証言におけるキリストにあっての神ではなく、(ハルナック等の)人間理性や人間的欲求やが対象化し客体化した対象物、人間化された神、すなわち「存在者レベルでの神」に過ぎない神であり、それ故にその神(人間自身がつくった偶像)との「混淆」、「共働」・「協働」、「神人協力」に過ぎないものであり、それ故にまたそのこと自体が「無神論」そのものであり、それ故にまた総括的に言えば自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教のことなのである。
ハルナックは、「神体験」(ハルナックにおいては、人間学的な「歴史的知識」と「批判的省察」による「善・真・美」)と「その他の一切の体験」とが対立しているとすれば、それは、「現実逃避」につながると述べているのであるが、バルトにおいては、キリストにあっての「神体験」――すなわち信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)には、神のその都度の自由な恵みの決断によるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観性として客観的可視的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)におけるイエス・キリストにおける客観的な啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面である「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事を必要とするのであり、またそのイエス・キリストの啓示の場所は、われわれ人間の類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所であり、自然的な信仰・神学・教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」、「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎない神秘主義へと変わって行く」(カール・バルト『ヨブ』ゴルヴィッツアー編・解説、西川健路訳、新教出版社)ことが見渡せる場所でもあるのである。したがって、この場所においては、それが良きものであれ悪しきものであれ、自然史の一部である人類史の自然史的過程における自然史的必然としての自然史的成果である科学技術の進歩発達、その知識の増大等を、例えば人間によって対象化された自然、人間化された自然、人間的自然であるヒッグス粒子の発見やiPS細胞の研究成果等を、人間的世俗的真理として正直に受け取ることができるのである。また、バルトの場合における神学的実存は、「マルクスの完結した体系は、……理論が彼を実践のほうへ必然的につれてゆくようにできあがっていた」(吉本『カール・マルクス』)ように、『カール・バルトの生涯』によれば、それが社会的な事柄であれ政治的な事柄であれ、「かつて語った(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における「神への愛」と、その「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」という連関の中での純粋なキリストにあっての神・純粋なキリストの福音の≫)説教の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから実践に、決断に、行動になって行った」という在り方にあるのである――「私は……『今日の神学的実存』誌の第一号において……何も新しいことを語ろうとしたのでは ……ない。すなわち、われわれは(≪キリストにあっての≫)神と並んで、いかなる神々をも持つことはできないということ、聖書の聖霊は、教会をあらゆる真理へと導くのに十分であること、イエス・キリストの恵みは、われわれの罪の赦しとわれわれの生活の秩序にとって十分であることを語った。但し、私がまさにこのことを語ったのは、それがもはやアカデミックな理論などといった性格にはとどまりえず、むしろ、私がそういうものにしようともせず、また実際にそうしなかったのに、それが呼びかけ、要求、戦いの標語、信仰告白にならざるをえなかったという状況においてであった」という点にある。この聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯したバルトの思惟と語りと行動の一貫性のどこに、「現実逃避」の匂いを感じ取ることができるであろうか。このような訳で、バルト自身は、『バルト自伝』で、次のように書いている――「福音宣教から独立し、それと接触しない、『自己決定の権利』を国家に与えている、いまわしいルター派の教説をこれまで決して承認しようとはしなかった。(中略)私の神学的思惟は、神の主権と、キリスト教の使信全体の終末論的性格と、キリスト教会の唯一の課題としての純粋な福音の宣教の強調に中心があり、またそれにこれまで中心をおいてきた。現実の人間を考慮しない(『神はすべてであって人間は無である!』)抽象的な超越神、現代にとっての意義を伴わない抽象的な終末の待望、この超越的な神にのみに専念し、深淵によって国家や社会から分離された同様に抽象 的な教会――それらすべては私の頭に存在したものではなくて、私の本を読んだ(≪客観的に正当に評価できないで、誤解と曲解と誤謬をもった、あるいは悪意をもった≫)多くの人々の頭のなかに、また特に私についての評論をしたり、一冊の本を書いたりした(≪客観的に正当に評価しようとしない、誤解と曲解と誤謬の中にある、あるいは悪意の中にある≫)人々の頭のなかにのみ存在していたのである」、と。
論争4
ハルナックの問い:
(1)何故、神と人間との「混淆」、神学と人間学との「混合」、人間学的な学問的「歴史的知識」と「批判的省察」による「善・真・美」(ハルナックのいう「神体験」)――総括的に言えば自然神学と、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)とを、総括的に言えば<非>自然神学とを差異化させるのか?
(2)何故、神を、自然神学的に、人間の自己意識・理性・思惟によって対象化された、人間学的な学問的「歴史的知識」と「批判的省察」を介した「善・真・美」(ハルナックのいう「神体験」)と「混淆」させてはいけないのか?
(3)聖書の証言・証しにおける「夢想して造り出されたキリスト」と、「啓示の実在」そのものとしての「キリスト」を明確に区別するために、人間学的な「歴史的知識」と「批判的省察」が必要なのではないか? したがって、人間学的神学が必要ではないのか?
バルトの回答:
(1)・(2)・(3)の思惟と語りにおけるハルナックは、聖書的啓示証言における神と人間との無限の質的差異という主題を捨象・放棄してしまっている、また聖書的啓示証言においてキリストにあっての神は、先ず以て聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする内的・内在的な三位一体の神(「父なる名の内三位一体的特殊性」、「神の内三位一体的父の名」、「三位相互内在性」)であり、それからまたわれわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における父、子、聖霊という三つの存在の仕方の神の存在であるという認識を持っていない、それ故に「啓示の認識原理」と「神論の決定的に重要な構成要素」を持っていない、それ故に三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の認識を持っていない、それ故にその内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト(「啓示の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉)を、それ故に具体的には第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)を、自らの思惟と語りにおける客観的な原理・規準・法廷・審判者・支配者として認識し自覚していない、それ故に人間学的な学問的「歴史的知識」と「批判的省察」を介した「善・真・美」を「神体験」と呼んでいる(このような訳で、ハルナックは、人間の側からする人間の神との「混淆」論、「神人協力説」、神学と人間学との「混合」学を目指している、客観的な啓示認識の根拠を人間学的な学問的「歴史的知識」と「批判的省察」に置いている)。このハルナックの人間学的な学問的「歴史的知識」と「批判的省察」の水準は、前述したように、その「歴史的知識」がヘーゲルの歴史哲学に依拠したものでしかなく、バードや野村や吉本の歴史認識から復讐される水準のものでしかないのである。そのように復讐されるその「歴史的知識」と「批判的省察」を介した「善・真・美」を「神体験」と呼んだ場合、その「神体験」、信仰は、神のその都度の自由な恵みの決断によるイエス・キリストにおける客観的な啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて神の側から終末論的限界の下でやってくるキリストにあっての神やその神への信仰ではなくて、徹頭徹尾人間の恣意性独断性に基づいた「われわれが持っている信仰を信仰することと同じこと」になってしまうし、その場合には、その「神体験」、その信仰における神は、まさにフォイエルバッハが根本的包括的に原理的にキリスト教(宗教)を批判した「人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」ものなのである(『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演 下」船山信一訳、福村出版)』)。
また、神は、人間学的な学問的「歴史的知識」と「批判的省察」を介した「善・真・美」(ハルナックのいう「神体験」)そのものであるとするハルナックに対して、バルトは、それらは、イエス・キリストにおける啓示の場所において、真偽が決定されるのであり、真であれば「世俗的真理として受け取ることができる」のであり、偽であれば「いつわりと呼」ばなければならないのである。ハルナックの言う人間学的な学問的「歴史的知識」と「批判的省察」を介した「善・真・美」(ハルナックのいう「神体験」)という概念は、そういう位相にあるものなのである。それ以上でもそれ以下でもないものなのである。
また、ハルナックが、罪は「畏敬および愛の欠乏」だと「傍観者」の「神学」の立場で語ったことに対して、バルトは、非傍観者の神学の立場から、自分や人間の現実的現存性や歴史的現存性を介して、罪はそれ以上もの、すなわち罪は、人間や人間の類やその時間性の本質としての、死に価する神からの逃亡であり、『福音と律法』に即して言えば人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求であり、その人間の無神性・不信仰・真実の罪である、と回答する。
ハルナックの言い回し――ハルナックは、反論で、「あなた(≪バルトのこと≫)は……、『神学の課題は説教の課題と一つである』」と言うが、「私は……、『神学の課題は学問一般の課題と一つである』」(何故ならば、ハルナックは、神学と人間学との「混合」学を目指しているから)と言っている。したがって、ハルナックにとっては、総括的に言えば人間学と神学との「混合」学としての自然神学が問題なのである、それを目指しているのである。このような人間学と神学との「混合学」を目指す方が、確実に安易に簡単に神学を構成できる。何故ならば、そのハルナック的道の方が、現存する神学状況に強いられて不可避的に、新たな段階へと移行するために、レンガを積み上げるようにして「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求める」(『啓示・教会・神学』)という仕方で<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の構成を為すことへと向かったバルトとは全く違って、確実に安易に簡単に神学を構成できるからである。自然神学としての神学と人間学との「混合」学を目指した、前期ハイデッガーの哲学原理に依拠したブルトマンも、ヘーゲルの歴史哲学における西欧近代を頂点とする進歩史観に依拠したモルトマン等々も、ハルナック的道を歩んだのである。したがって、ハルナック的道は、まさしく、フォイエルバッハが『キリスト教の本質』で根本的包括的に原理的に批判したキリスト教そのもの、その神学そのものへと向かう道なのである――「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」。