カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

カール・バルト――自由主義神学者アドルフ・フォン・ハルナックとの論争(その2−1)

カール・バルト――自由主義神学者アドルフ・フォン・ハルナックとの論争(その2−1)
再推敲・再整理版です。

 

『カール・バルト著作集 1』「アドルフ・フォン・ハルナックとの往復書簡」新教出版社に基づ

 

 まさに近代以降において神と人間との「混淆」論、神学と人間学との「混合」学、「神人協力説」を目指す自然神学の系譜に属する自由主義神学者(近代国家は自由国家であるのと同じように、自由主義神学者のアドルフ・フォン・ハルナックは近代主義神学者と言ってよい)である「アドルフ・フォン・ハルナックとの往復書簡」は、<非>自然神学の系譜に属するカール・バルトと論争である。この論争は、1923年に『キリスト教世界』誌上ではじめられたものであるが、ハルナックの問いに対するバルトのその根本的包括的な原理的な批判的回答は、未来に生きる現在性を獲得していると言うことができる。

 

論争1
ハルナックの問い
 ハルナックは、バルトのような学問的神学(人間学的神学、人間学と神学との「混合」学)を「軽蔑する人々」(恣意的独断的なハルナックの言葉に過ぎない)に対して、聖書の「宗教」と「諸啓示」は、個人の主観的「経験」や「体験」にゆだねられてはならず、人間学的な学問的「歴史的知識」と「批判的省察」の対象とすべきである、と語る。
バルトの回答
 それに対して、バルトは、敬虔主義と啓蒙主義を経由した「権威あるものとして形成されて来た」近代主義的プロテスタント主義的な人間学的な学問的神学に対して批判的であるからといって、学問的神学を「軽蔑する」ということにはならない。何故ならば、そういうことを言っているのではなく、ハルナックの人間学的な学問的神学におけるその原理、その認識方法と概念構成に問題がある、ということを批判しているからである、とバルトは回答した。言い換えれば、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の成員であるわれわれは、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち「啓示の実在」そのものであり第一の形態の神の言葉であり「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストを起源とするキリスト教に固有な類としての第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯して、すなわちそれをわれわれの思惟と語りにおける客観的な原理・規準・法廷・審判者・支配者として、「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」と言わなければならないし、神学も人間的理性を使っての知的営為ではあるが、換言すれば正確には神学は聖霊によって更新された理性(「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立している」理性――『教会教義学 神の言葉』。だからと言って、この理性と聖霊は同一では決してない――『教義学要綱』)を使っての知的営為であるから、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」、と言わなければならない。何故ならば、「哲学、歴史学、心理学等は、この神学的問題領域のどれにおいても、事実上、教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしなかった」し、「神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった」し、それ故にその場合「哲学は哲学であることをやめ、歴史学は歴史学であることをやめ」、「キリスト教哲学は、それが哲学であったなら、それはキリスト教的ではなかった」し、「それがキリスト教的であったなら、それは哲学ではなかった」からである(『教会教義学 神の言葉』)。
 ハルナックは、聖書の「宗教」と「諸啓示」は、個人の感覚や知識を内容とする主観的「経験」や自己身体を介した一回性を本質とする「体験」にゆだねられてはならず、人間学的な学問的「歴史的知識」と「批判的省察」の対象とすべきであると語るのであるが、その思惟と語りに対してバルトは、聖書におけるキリストにあっての神やキリストにあっての啓示を認識するという場合のハルナックにおけるその客観性の獲得(自然神学の系譜に属するハルナックの場合は、人間学的な学問的「歴史的知識」と「批判的省察」がそれである)に問題がある、ということを批判しているのである。自然神学の系譜に属するハルナックの神学のその原理、その認識方法と概念構成の場合、フォイエルバッハによる正当性と妥当性のある根本的包括的な原理的なキリスト教批判(宗教批判)を包括し止揚し克服することはできないのである。何故ならば、ハルナックの神学は、そこにおける聖書の「宗教」と「諸啓示」は、フォイエルバッハのキリスト教批判(宗教批判)の対象そのものだからである。言い換えれば、ハルナックのキリスト教信仰、その対象、その「宗教」と「諸啓示」は、まさに人間的理性や人間的欲求やが対象化し客体化した対象物、人間的自然、すなわち「存在者レベルでの神への信仰」(ハイデッガー――木田元『ハイデッガーの思想』岩波書店)、その神の啓示、まさに人間自身がつくった偶像そのものでしかないものなのである。
 バルトの場合の神学における思惟と語りにおける客観性の根拠は、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉(「啓示の実在」そのものとしてのイエス・キリスト自身)を、それ故にその最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書(イエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)を、第三の形態に属する全く人間的な教会の成員であるわれわれの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し――何故ならば、内的・内在的な三位一体の神は、聖性・秘義性・隠蔽性において存在し、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質としており、神とは異なるわれわれ人間は、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、神の不把握性の下に置かれているからである(Tコリント13・8以下)、もしもこのような神でないならば、どうして神と人間との無限の質的差異に下にある神と言えるであろうか――、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方にある。さらに言えば、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会、その成員のわれわれは、そういう仕方で、そういう決断と態度で、純粋なキリストにあっての神を・純粋なキリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(この事柄が、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法である)という連関の中で、「啓示の実在」そのものであり・起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指していくという点にあるのである。さらに言えば、この時、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会、その成員のわれわれは、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする完全性・自由性としての三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける啓示には、その啓示自身に固有な証明能力を、キリストの霊である聖霊の証の力を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいた信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を与える授与能力を、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)を持っていることを承認し確認するのである。このような訳で、「単なる知識」としての人間学と神学との「混合」学としての形而上学的な教義学は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方のもの」であっても、その教義学は教会の一つの機能としての「教義学としては非学問的」なのである(『教会教義学 神の言葉』)。したがってまた、「学校教育法」上の人間学の研究の場である「すべての大学社会の神学」は、それが文学部神学科のそれであれ、神学部のそれであれ、神学大学のそれであれ、そしてその程度の差はあれ、必然的に、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わる」以外にはないのである(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)。何故ならば、「単なる知識」を得る場、人間学的領域の問題を研究する場でしかないからである。例えば、東京神学大学の教授をやっていた『人類の知的遺産 バルト』(講談社)も著わした大木英夫は、神学的一貫性を持たずにあるいは放棄してしまって、その著で、バルトの「ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ」にある「人間の精神や良心や内面性だけを問題にする人は、本当に神を問題にしているのか、人間の神化を問題にしているのではないか(≪総括的に言えば、神と人間との「混淆」論、神と人間との「共働」・「協働」論、「神人協力説」という自然的な信仰・神学・教会の宣教を目指しているのではないか≫)、ということを問われなければならない」という言葉を引用して、われわれ読者に対してそのことへの注意を喚起する一方で、他方では、それとは裏腹に、まさに自由を原理とする西欧近代を人類史の頂点としたヘーゲルの「神学的加工」そのものであり、また「脱中心化された公共意識」により分裂と動態化を惹起させた西欧社会の中で、近代主義的法概念の再構成によって法制的な共同体の統括力の回復の企て――すなわち「近代の未完のプロジェクト」の完成を目指した社会学者のユンゲル・ハーバーマスの「後追い知識」としての、それ故に「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わる」以外にはない「単なる知識」としてのE・ユンゲルの『神の存在 バルト神学研究』(ヨルダン社)の「訳者あとがき」で、まさに自然神学の系譜に属する段階そのものにあるユンゲルを、「ユンゲルのバルト解釈は、バルト後を確定した」、「バルト後の誰もが無視できない一つの流れ、誰もがそこを回避出来ない一つの道を決定した」、「これは日本の知的読者の中にも新しい論議を発火させる焦点となるかも知れない」というように、根本的包括的な原理的な誤謬に「普遍性や組織性の後光をかぶせて」(『吉本隆明全著作集12』「カール・マルクス」)書いていたのである。

 

 このような訳で、バルトは、ハルナックの言う(ハルナックの自己意識が対象化し客体化した対象物、「存在者レベルでの神への信仰」としての)聖書の「宗教」と「諸啓示」の、まさにその<外・彼岸>に、「神学の主題として一つの神啓示(≪「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示、和解、起源的な第一の形態の神の言葉≫)」がある、と述べたである。何故ならば、ハルナックのいう聖書の「宗教」と「諸啓示」は、その極限を想定すれば百人百様のそれを想定することができる人間学的な学問的「歴史的知識」と「批判的省察」という概念を持ってはいても、聖書的啓示証言に根拠づけられた、それ故に神と人間との無限の質的差異の下に根拠づけられた、それ故にまた聖霊の業としての「啓示されてあること」――すなわち客観的可視的に存在する「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)という原理・規準・法廷・審判者・支配者を持っていないからである。すなわち、神学と人間学との「混合」学を目指すハルナックのその原理・規準は、人間を先行させた人間学的な学問的「歴史的知識」と「批判的省察」である。そのようなハルナックの思惟と語りに対して、バルトは、その「『福音の内実』の伝達」は、ハルナックの言う「歴史的知識」に左右されないところで、「その『内実』それ自体の行為を通してのみ遂行される」、と思惟し語るのである。何故ならば、聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯したバルトにとっては、その「福音の『内実』それ自体」である内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストは――すなわち、「啓示の実在」そのものである起源的な第一の形態の神の言葉は、それ自身に固有な証明能力を、それ自身に固有な出来事の自己運動を持っているのである。言い換えれば、この「『福音の内実』の伝達」には、ハルナックのような人間を先行させた人間の側からする恣意性独断性を持った人間学的な学問的「歴史的知識」と「批判的省察」を全く必要とはしないのである。このような訳で、バルトは、その「福音についての言表」の「批判的省察」は、聖霊の業としての「啓示されてあること」――すなわち客観的可視的に存在する「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)という原理・規準・法廷・審判者・支配者に基礎づけられて初めて可能となる、と思惟し語るのである。したがって、人間学的な学問性があるから客観性があるというハルナックのその神学は、その原理、その認識方法と概念構成それ自体に、聖霊の業としての「啓示されてあること」――すなわち「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)という客観的可視的に存在している原理・規準・法廷・審判者・支配者を持たないが故に、彼自身の恣意性独断性に解体していく以外にはないのである。

 

論争2
ハルナックの問い
 ハルナックは、問い1の場合と同じように、聖書の「宗教」と「諸啓示」を理解するためには、学問的な、すなわち「心の内的開示」と共に人間学的な「歴史的知識」や「批判的省察」が必要である、そこにこそ、聖書理解の正しさがある、という主調音をもって問うている。したがって、人間の「心理作用」や「精神作用」では、聖書理解に達することは不可能である、と語る。
バルトの回答
 人間の「体験」(体験は、自然としての自己身体を介するから、一回性を本質とする)や「心情」、人間の感覚と知識を内容とする「経験」、および、「歴史的知識」と「批判的省察」は、聖書「理解」において、「有益なもの」、「無益無害のどうでもよいもの」であると同様に、「障害となるものでもありうるような諸可能性」でしかない。すなわち、ハルナックの問いは、聖書「理解」における本質的な問いではない。言い換えれば、聖書「理解」は、第一次的に「心理および精神作用」や「歴史的知識」や「反省的省察」によるのではなく、聖書の「内実(≪「啓示の実在」そのものとしてのイエス・キリスト、起源的な第一の形態の神の言葉≫)と等しい御霊の働き」によるのであり、そこにほんとうの聖書「理解」(啓示理解)、認識(啓示認識)、信仰(啓示信仰)はあり得る。言い換えれば、聖書「理解」には、全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」――すなわち客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事、「聖霊の注ぎ」による人間的主観に実現された神の恵みの出来事、信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を必要とするのである。このような訳で、聖書「理解」は、人間の「心の内的開示」や人間学的な学問的「歴史的知識」や「批判的省察」を通してやってくるのではない。すなわち、客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づく「神による信仰の覚醒」によるのである。したがって、その「啓示と信仰の出来事」と人間の恣意的独断的な神体験・「放恣な狂信」との間には「天地の懸隔」があるのである。しかし、だからと言って、「神による信仰の覚醒」に基づいた「徴と証言」を否定することはできない。 
 信仰は、事実的には、第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯することによって<客観的>な信仰告白および教義を構成している第三の形態の神の言葉に属する教会の「説教(言葉)から生ずる」、とバルトは回答する。すなわち、説教は、「それが説教者の『歴史的知識』や「批判的省察」とどのように関わっているにせよ」、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身に感謝をもって信頼し固執し固着した第二の形態の神の言葉である聖書(証言・証し)・「キリストの言葉を通して」やって来るものである。したがって、説教は、「聖書への絶対的信頼」に基づく「聖書講解であることの義務」を負う(『説教の本質と実際』)。また、その説教の思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」(『教会教義学 神の言葉』)。また、神学は、教会に、すなわち説教のために奉仕する学問であるから、神学の課題は、教会の課題・説教の課題と「一つ」である。これらの思惟と語りにおいて、バルトは、ハルナックに回答した。したがって、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の成員のわれわれの課題は、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)の時間的連続性に時間累積させていく点に、すなわち「キリストの言葉を受け入れ、そしてそれをさらに伝え渡す」(引き渡す」)点、にあるのである。この場合には、「歴史的知識」や「批判的省察」は、「準備の役に立つこと」はあり得るだろう、ちょうど哲学や文学等がそうであるように。しかし、人間学的なそれらを、恣意的独断的に人間の側から第一次性として先行させることはできない。